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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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野本利仁神社

 野本将軍塚古墳の墳頂には平安時代の武将であり貴族である藤原利仁(ふじわらのとしひと)を祀る利仁神社の社殿が建っている。
 藤原利仁は、名門貴族藤原北家(藤原北家利仁流)で、9世紀末から10世紀前半に活躍(生誕、死没共に不詳)延喜15(915)年に鎮守府将軍に就任。平安時代を代表する伝説的な武将のひとりで、平将門(桓武平氏)、源経基(清和源氏)、藤原秀郷(むかで退治の田原藤太)とともに、関東武士の始祖的存在である。鎮守府将軍民部卿時長と越前国人秦と豊国の娘の子であり、藤原北家魚名流の始祖藤原魚名の孫で、歴きとした名門の貴族の出身である。
  この古墳が将軍塚と呼ばれたのは、藤原利仁が鎮守府将軍であったことによる。古墳北側にある無量寿寺は利仁が武蔵守在任中の陣屋跡と伝えられている。

所在地  埼玉県東松山市下野本
御祭神  藤原利仁
社  挌   不明
例  祭   不明
         
 
 利仁神社は野本将軍塚古墳の後円墳部に鎮座していて、名前通り藤原利仁を祀る神社である。
 藤原利仁は911年(延喜11年)上野介となり、以後上総介・武蔵守など坂東の国司を歴任し、この間915年(延喜15年)に下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千を鎮圧し、武略を天下に知らしめたということが『鞍馬蓋寺縁起』に記されている。同年に鎮守府将軍に任じられるなど平安時代の代表的な武人として伝説化され、多くの説話が残されている。『今昔物語集』の中にある、五位の者に芋粥を食べさせようと京都から敦賀の舘へ連れ帰った話は有名である。
 ちなみに芥川龍之介はこの話を題材に小説『芋粥』を執筆している。
          
 県道345号小八林久保田下青鳥線側には野本将軍塚古墳の案内板や古墳碑があり、その先に利仁山、無量寿寺の石標柱がある。寺院の参道の先右側に利仁神社の鳥居がある。ちなみに写真左側には農村環境改善センターがあり、目的地の目印にもなる。
          
           野本将軍塚古墳くびれ部にある利仁神社正面の鳥居とその先の参道
 
 利仁神社に向かうために古墳のくびれ部の参道を真っ直ぐ進み、突き当りを左側、つまり後円墳部に進む。高さ13mの古墳の為、小さな山を登っていくような感じで、周りは鬱蒼とした森林が参道の石段の周囲を包み、社殿の後円墳部頂上まで延々と続く。
          
                           利仁神社 拝殿
 藤原氏からは武家でも、天慶の乱鎮定に関与した藤原秀郷や藤原為憲、また鎮守府将軍藤原利仁などを出し、その後裔と称するものが多くに分れて全国各地で繁栄した。こうした事情で、公家のみならず武家においても藤原姓を名乗る氏が極めて多く、わが国の苗字全体の五、六割が藤原姓と称していたともいわれる。
 この野本の地も藤原利仁の末裔でもあり、野本氏の始祖とされる「野本基員(のもともとかず)」がこの地に祀ったものではないかと伝えられている。藤原利仁の後裔を称する氏族は多く、藤原秀郷と並んで藤原家の武家社会への進出を象徴する人物と言える。また木曽義仲幼少期の命の恩人で『平家物語』でもその討ち死にシーンで涙を誘う斎藤実盛(長井別当)や、歌舞伎『勧進帳』で弁慶と安宅の関で問答する富樫氏はともに利仁流藤原氏と言われている。
 
          
                   拝殿に掲げられている利仁神社の扁額

 しかし、この中には後世の仮冒も相当多くあり、他の古代氏族の後裔が藤原姓の雄族の養子、猶子となるとか、先祖の系を藤原氏に強いて接続させたという類例も、武家関係では非常に多い。地方の雄族で先祖が不詳になったものには、中央の権門勢家にかこつけ藤原姓と称したものも多々あり、地方武家の藤原氏と称する氏にはむしろ十分な注意を要する。佐藤・斎藤・伊藤・加藤・後藤・武藤・近藤・安藤・尾藤・遠藤など、一般に藤原氏後裔とみられている苗字は、各地に分布が多いので一概にはいいにくいものの、むしろその多くが本来は藤原姓ではなかったという。

 前出の野本基員は、平安時代から鎌倉時代にかけての武士で野本氏の家祖とされる人物である。
 『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(『尊卑分脈』)には、基員は藤原鎌足の末裔として記されている。中臣(藤原)鎌足 - 不比等 - 房前(藤原北家の始祖)- 魚名 - 鷲取 - 藤嗣 - 高房 - 時長 - 利仁 - (斎藤)叙用 - 吉信 - 伊博 - 為延 - 為頼 - (竹田)頼基 - (片田)基親 - (野本斎藤左衛門)基員となる。基員は鎌倉時代に御家人として源頼朝の信頼をうけ、武蔵国比企郡野本(現在の埼玉県東松山市下野本)の地に居住し野本左衛門尉を称した。『吾妻鏡』には、基員が建久4年(1193年)に頼朝の前で息子の元服式を行い祝いに宝を貰ったり、建久6年(1195年)幕府の命により相模の大山阿夫利神社へ頼朝の代参をつとめた記載がある。『曽我物語』には、「野本の人々」が建久4年(1193年)に源頼朝の北関東の狩猟の際に、武蔵国大蔵宿で頼朝の警固を行った記載がある。また同時期の建永元年(1206年)6月16日付けの後鳥羽上皇院宣によると、基員は越前国河口荘の地頭職を停止させられており、越前国にも所領を持っていたことがわかる。後に、基員の実子である範員に河口荘は継承されている。
 また、野本の地は、延喜15年(915年)、鎮守府将軍藤原利仁が館を構えたと言われており、現在も残る館跡のすぐ隣に前方後円墳があり、ここに利仁神社が建立されていることから、藤原利仁の末裔でもある基員が、この地で利仁をまつり生活していたものと推測される。しかし、この古墳の築造時期は、5世紀末~6世紀初頭と考えられており、藤原利仁の時代よりもはるかに昔のものであり、真の埋葬者は不明である。
 基員は、源義経の義兄弟である下河辺政義の子である時員を養子としている。この野本時員は、『吾妻鏡』によると六波羅探題在職中の北条時盛の内挙により能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年 - 1230年)にも就任している。時員の弟である時基は、押垂を名乗り押垂氏の祖となった。押垂は、現在の埼玉県東松山市の野本の隣の地名である。
 野本氏は、藤原氏の末裔であり武蔵国の地名に由来するが、13世紀後半には武蔵国に関する記録からは忽然と消えてしまう。しかし、五味文彦は、『吾妻鏡』における前述の野本斎藤基員の子の元服記事(建久4年(1193年))に着目し、時の権力者北条氏以外の御家人で元服記事が『吾妻鏡』に採用されているのは、『吾妻鏡』の編纂された時期に、野本氏が鎌倉幕府の中枢にいた『吾妻鏡』の編纂者と特別な関係にあったことを推定している。
                                                    ウィキペディア引用




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