古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

羽尾諏訪神社

 滑川町は南北約7.2km、東西は約4.8kmとやや南北に長く、全町域の60%がなだらかな丘陵地から形成されている。町の北端熊谷市との境付近を和田川、町南部を市野川、ほぼ中央を滑川が流れ、この三本の川はほぼ平行に東西方向に流れていて、滑川は町名の由来にもなっている。
 中央に流れる滑川は、町を南北に二分しているが、南部地区はつきのわ駅開業(2002年)と周辺の土地区画整理事業に合わせ東武鉄道が住宅開発を行ったことや、それに伴うショッピングセンターの開業で人口がかなりの伸び率で増加していて、2000-2005年の出生率は埼玉県内一、人口増加率は全国の町村のうち第3位であったという。
 対して北部地区はほとんど手つかずで自然が残されており、田園風景が広がっている。その自然や田園風景(里山)を活かした観光施設(森林公園、谷津の里など)も存在していて、また溜池も北部を中心に非常に多く、関東随一の多さを誇っている。
 滑川を境に北部は農業地帯、南部は住宅と工業地帯が存在する滑川町の中央部で川沿いには町役場等の官公庁施設が立ち並んでいるが、その片隅に羽尾諏訪神社が小規模ながら地域の鎮守様の如く、官舎と肩を並べて鎮座している。
        
           
・所在地 埼玉県比企郡滑川町羽尾4973
           
・御祭神 建御名方命 八坂刀売命
           
・社 格 旧無各社
           
・例 祭 春祭 326日 己の晩祭 5月上旬の己の晩 例祭 826
                
秋祭 1126日
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0654093,139.3594039,18z?hl=ja&entry=ttu
 和泉八宮神社から一旦埼玉県道47号深谷東松山線に戻り、森林公園駅方向に3㎞程南下する。滑川に架かる「新庭橋」手前地点には町役場や総合体育館、図書館等の官舎が川沿いに立ち並んでいるが、川を越えるとすぐ左側に滑川町中央公民館や滑川町コミュニティーセンターが見え、その手前には羽尾諏訪神社が鎮座している。
        
               県道沿いに鎮座する羽尾諏訪神社
 官公庁が近隣に隣接しているせいか、境内は人気はないが、手入れは行き届き、さっぱりしている。
 
     参道沿いに設置された案内板          
朱が基調の木製の両部鳥居

 諏訪神社 滑川町大字羽尾
 祭神   建御名方命 八坂刀売命
 由緒
 当社は往古この地方干ばつの際、信濃国諏訪神社に雨を祈ったところ、その霊験が顕著であったので文亀二壬戌(西暦一五〇二)年七月その分霊を勧請したと縁起書にある。雨乞いの神でもありまた養蚕繁昌の神として多くの信仰を集めた。
 当社に「竜神渡り」の伝説がある。八月二十六日の例祭前夜に信濃の本社よりこの神社に竜神が渡御するので中尾耕地に竜の通った跡が見られたという。
 祭日
 節分祭  二月節分の日    春祭 三月二十六日
 己の晩祭 五月上旬の己の晩  例祭 八月二十六日
 秋祭   十一月二十六日
 平成二十七年三月 吉日 滑川町観光協会・滑川町教育委員会
                                      案内板より引用
        
                参道の先に拝殿が鎮座する
 
  参道途中にある「暗渠排水工事記念碑」   記念碑の右並びには八意思兼神・彦狭知神・
                            手置帆負神の石碑あり。

『新編武蔵風土記稿』には「市ノ川・滑川の水を引て用水とすれど、動もすれば皐損あり」とみえ、また『郡村誌』羽尾村の項に「色赤黒稲梁に適せず水利不便時々旱に苦しむ」との記載があり、古くから水利・干ばつには苦労していたようである。「暗渠排水工事記念碑」には嘗てこの地域に居住していた方々の苦難が短い文章ながら綴られている。

 熊谷市須賀広地域の八幡神社で、1014日の夜に、文化元年(1804)に滑川町羽尾の諏訪神社から伝わったという「ささら獅子舞」が奉納されているという。
 このささらの役者は、仲立・代頭・雌獅子・後頭・花笠・棒使い・唱・笛・獅子世話で構成されているようだが、嘗ては羽尾諏訪神社でもこの「ささら獅子舞」が舞われていたのだろう。
        
                     拝 殿
 諏訪神社 滑川町羽尾九七三(羽尾字市場)
 当地は滑川右岸・市野川流域の低地・台地上に位置し、羽尾の地名は粘土・赤土を示す「はに」の意で当地の地質に由来する。このことは『郡村誌』羽尾村の項に「色赤黒稲梁に適せず水利不便時々旱に苦しむ」と載ることからもうかがえる。
 また、旱のことは『風土記稿』にも「市ノ川・滑川の水を引て用水とすれど、動もすれば皐損あり」とみえ、古くから水利・干ばつには苦労していたようである。
 地内の小林家の口伝によると、文明年間(一四六九-八七) の数年にわたる大干ばつの際、小林家の氏神である諏訪神社に雨乞いの祈願をしたところ霊験あらたかに大雨が降り、以来村人の崇敬を得るようになった。文亀二年(一五〇二)七月に村人の強い願望により信州諏訪大社から分霊を勧請したのが当社の創祀で、鎮座祭は金剛院声俊法師によって執り行われたという。
 天和元年(一六八一)の棟札には「奉再建諏訪大明神一宇」村内惣氏子安全」「金剛院祐円謹白」とみえ、『風土記稿』には「金剛院持」と載ることから、創建当時から一貫して金剛院が別当であったことが知られる。
 明治初年の神仏分離令により、金剛院の管理下から離れた当社は、大正二年に村内の琴平社を、同四年には愛宕御獄社を合祀している。なお、現在の社殿は大正三年に再建されたものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
            拝殿左側手前にある銀杏の大木(写真左・右)
 
       拝殿に掲げてある扁額               本 殿

 ところで滑川に纏わるこんな昔話がある。松山城のお姫様が、いいなづけの鉢形城の殿様が来るというので、滑川の水鏡に自分の姿を映して髪をすいていた時、大切な櫛を川に落としてしまった。川の中をいくら探してもみつからなかったので、「櫛がみつからないうちは、このなめがわの水は澄んではならない。」といって怒った。それ以来、滑川は澄まなくなったという。滑川には、こんな昔話が伝わっていて、不思議なロマンを与えてくれる。
 
              社の北側を流れる滑川(写真左・右)。
         昔話がふと頭によぎってしまい、感慨深く暫く眺めていた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「滑川町HP」「埼玉の神社」「Wikipedia」「滑川ふるさと散歩道」等

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