古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

清瀧神社

 湯立(ゆだて/ゆたて/ゆだち)とは、神前に大きな釜を据えて湯を沸かし、神がかりの状態にある巫女が持っている笹・幣串をこれに浸した後に自身や周囲に振りかける儀式で、古くは神意をうかがう方式であったと思われるが、後世には湯を浄め祓う力のあるものとみなし、舞と結合して芸能化した。
 その釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を用いて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣などを願ったり、その年の吉兆を占う神事の総称を湯立神事(ゆだてしんじ)という。ゆだち,湯立神楽(ゆだてかぐら/ゆたてかぐら)ともいう。古くは神憑り,託宣する神事であったが,現在では湯による祓禊の意味が濃くなっている。
 日光市・清瀧神社には古くから湯立神事が行われている。弘法大師が同神社を創建した820(弘仁11)年から続く伝統行事で、当初は修験者の荒行の一つとされていた。大釜で塩湯を沸かし、それに笹の葉を浸して塩湯の滴り落ちる熱湯を神職が頭上より受けるもので、この笹の葉は、家内安全と無病息災のご利益があるとされている。
        
             
・所在地 栃木県日光市清瀧 1-626-26
             ・ご祭神 (主)大海津見神
                  (配)高龗神 大己貴命 田心姫命 味耜高彦根命
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 節分祭追儺式 23日 例祭(湯立神事)515
                  秋祭り 1015日 他
 大間々町塩原貴船神社から国道122号経由にて日光方向に48㎞程進む。途中草木ダムや足尾地域の風景を愛でながら、休憩を挟んだり、のんびりとしたドライブを楽しむ。中でも草木ダム手前の桐生市黒保根町付近では、「メロディーライン」という道路に溝を作り、その上を一定の速度(制限速度)で走ると、走行音がメロディーを奏でるようにした道路があり、大体50㎞で走行すると童謡「うさぎとかめ」が聞こえてくる。このメロディーライン設置の目的は、
 ①制限速度で走らないと聞こえないから、スピード抑制効果あり。
 ②居眠り防止。
 ③土地にちなんだメロディーで、観光地をイメージアップ。
 童謡「うさぎとかめ」の曲の作詞者は、みどり市出身の石原和三郎(1865-1922)氏との事。童謡作詞家としての石原氏の業績に対し、童謡ふるさと館が開館。資料は旧花輪小学校記念館にも展示してあるというが、今回は残念ながらそこには寄らなかった。
 その後華厳滝から東方向に日光・今市の両市を流れて鬼怒川に合流する大谷川を越えたすぐ先にある「細尾大谷橋」交差点を直進し、国道122号線から離れ、北東方向に進路を取り2㎞程進むと、左手に清瀧神社が見えてくる。因みにこの「大谷川」は「だいやがわ」と読む。後日地図を確認すると、日光道・清滝ICのすぐ西に鎮座し、日光東照宮といろは坂登り口の中間に位置しているようだ。
        
           広々とした空間の中に静かに佇むというイメージ
 
  やはり世界的にも有名な観光地「日光」           入り口近くにある社号標柱
 英語表示もされ、案内板にも投資の仕方が違う。
        
             参道入り口付近に設置されている案内板
 清瀧神社
 御祭神 (主)大海津見神
     (配)高龗神 八坂神 八荒山三神 稲荷神
 祭 日  例祭 五月十五日 秋祭 十月十五日

 御神徳  延命長寿、病気平穏、厄除開運、家内安全
 特殊神事 古式 湯立神事 五月十五日
 由緒沿革
 古伝に依れば弘仁十一年(820)弘法大師空海が来晃し滝尾・寂光・生岡等と共に当社を創建した。社名は、社殿背後のお滝を含めた地形が中国大鷲山の清滝に似ているところから命名されたという。
 往時は、二荒山登拝の要路として、又、密宗修験の霊場として大いに栄えた。お滝の御神水は、古来生命保全の霊水として広く信仰されており、又社前の池は、応永十二年(1406)鎌倉官領の追討を受けた常陸国小栗城主小栗判官満重を恋慕する美女照手姫が判官の無事息災祈願の際に洗面したところから、“照手姫の化粧池”と伝えている。
                                      案内板より引用
 案内板に記載されている「小栗 満重(おぐりみつしげ)」は、室町時代前期から中期にかけての武将で、常陸国真壁郡小栗を領した常陸小栗氏の当主。通称は孫次郎。官途名は常陸介という。
 小栗氏の所領は関東にありながら室町幕府の御料所となっていた中郡荘と近接しており、早くから幕府中央と関係を結んでいた。この満重は応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で禅秀に味方したため、戦後に鎌倉公方の足利持氏から所領の一部を没収されていた。これを恨んだ満重は、応永25年(1418年)・応永28年(1421年)に鎌倉府に反抗的な動きを見せている。応永29年(1422年)に宇都宮持綱・桃井宣義・真壁秀幹らと共謀して反乱を起こし、一時は下総結城城を奪うなどした。しかし反乱の長期化・強大化を懸念した持氏が応永30年(1423年)に大軍を率いて自ら出陣すると、反乱軍はたちまち崩壊して満重も居城の小栗城で自刃して果てたという。

 但し小栗満重は歴史上の人物より、伝説上の人物(小栗判官伝説)として有名で、特に江戸時代には人形浄瑠璃や芝居などで一躍有名になった。
 小栗落城後、満重は実は死なず、脱出して落ち延びたという。そのとき、相模の旧知である横山大膳という人物を頼った。このとき、横山の娘・照手姫と恋仲になった。ところが横山は小栗の首を差し出して褒美を得ることを目論んでいた。そのため、宴会を開いて酒を勧めたのだが、これが毒酒だった。小栗とその部下は何の疑いも無く飲んでしまい、そして命を落とし、持っていた金品も略奪された。
 ところが満重だけは虫の息ながら生きており、部下と共に遺棄された場所で僧侶に助けられて手厚い看病を受けた。特に熊野権現の霊験と温泉の効果があったという。恋仲になっていた照手姫は父の所業に悲嘆して家を出たが、追っ手に捕らえられて身ぐるみ剥がされた上で追放された。そして下女として働くことになる。
 本復を果たした満重は常陸に戻って再起を果たし、裏切った横山を討ち、下女になっていた照手姫を見つけ出して約束どおり夫婦になった。そして幸せに暮らしたという。

 史実と案内板の年代がかなりの隔たりがあるが、それは「小栗判官伝説」の説話の一つである『説経節』がその元ネタではないかと考える。
 当時僧侶や巫女たちは、一般庶民への布教のため、特に室町時代以降には譬え話や因縁話が取り入れられ、芸能化しつつ発展し『説経節』となったという。これは説経浄瑠璃とも呼ばれ、近世には語り物芸能として独立し発展した。
 この説教節『小栗の判官』には「日光山の申し子で美貌の娘である照手姫」という一文があり、そこを参照して案内板に加筆したのではないか、と思われる。
 但しこれはあくまで筆者の勝手な推測ではある
        
             長い参道の先には2基の石製の鳥居が立つ。
        参拝時は雨交じりの天候であったので、境内は全体的に薄暗い。
 また筆者の技量不足から、今回カメラの手振れ、また編集の失敗等で、ピンボケが多かった。

   一の鳥居のすぐ右側にも案内板がある。    一の鳥居と二の鳥居の間には手水舎あり。
  日本語表示の他に、英語表示もされている。
        
                     拝 殿
   
     拝殿の左側には池がある。         拝殿手前に設置されている案内板
 案内板に記載されている「照手姫の化粧池」か。

 日光市指定文化財 清瀧神社のサワラ
 種別 天然記念物
 員数 一本
 樹高 三十五.五メートル
 目通周囲 五八八センチメートル
 枝張り 東(六・五)西(六・五)南(六)北(五・六)*単位はメートル
 推定樹齢 約五〇〇年
 清瀧神社のご神木として清滝地区の人々に昔から崇められている大木である。日本のサワラの分布は福島県より岐阜・福井県の本州中部各地に自生し、さらに熊本・長崎などにも僅かな自生が知られている。サワラはヒノキに似ているが、鱗状の葉先が尖るなどの特長で見分けられる。川沿いの湿潤な土地を好む性質があり、清滝下のこの場所はふさわしい生育環境となっている。
この木は、環境省が集計した北関東の巨樹巨木調査記載の上位3本を上回る大きさであり、本県では最大のサワラと見られる。
 サワラの名は、ヒノキより材が「さわらか(軽くてやわらかい)」なことから起きたとする説がある。材は水湿に強いことから、風呂や桶などの利用に優れている。サワラはヒノキより園芸品種が多く、葉が黄色で、全国の生け垣に盛んに使われている。ニッコウヒバ(オウジンシノブヒバ)も、サワラを原種として育てられた品種である。
 平成十五年七月二十三日指定  日光市教育委員会
                                      案内板より引用

        
     社殿の後方は崖となっていて、その崖面には一筋(すじ)の滝が流れていた。
      神社の後ろに滝があるとは驚きであり、これこそご神体といえるものだ。


参考資料「栃木県神社庁HP」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「精選版 日本国語大辞典」
    「ぐんラボ」「ぐんまメロディーラインHP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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