古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

七里生岡神社

 日光山輪王寺の強飯式(ごうはんしき)は、日光修験の名残をとどめるもので、日光三社権現とその応化(おうげ)たる大黒天・弁財天・毘沙門天から御供(ごくう)を戴く儀式である。42日、三仏堂では紋服裃姿の強飯頂戴人(ごうはんちょうだいにん)が大盃の酒や三升の飯を高々と盛り上げた椀を山伏に強いられる。その姿は、とてもユーモラスとの事だ。
 ほかに、平成812月に国指定重要無形民俗文化財に指定された「鹿沼市上粕尾の発光路(ほっこうじ)強飯式」(13)、昭和382月に市指定重要無形民俗文化財に指定された「日光市生岡神社の子供強飯式」(1125)が知られている。
        
              ・所在地 栃木県日光市七里1862
              ・ご祭神 (主)大己貴命 (配)田心姫命 味耜高彦根命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 例祭・子供強飯式 1125
 清瀧神社から国道122号に戻り、東行して日光市街地方向に進む。さすが観光名所である日光。東照宮付近には多くの観光客で賑わいも見せている。特に海外から来た観光客の人々の多さ。あらゆる国籍の方々が国道沿いの歩道を歩いている光景を見ると、ここ3年間コロナ騒動で自粛傾向にあった海外旅行も本年度から解禁となったことで、多くの方々が旅行を楽しむことができるようになり、この日光にも活気が出てきて来たのだろうと、肌で感じた次第だ。
 国道122号線を進むこと4㎞程、「神橋」交差点を右折し、東武日光線・JR日光線の各日光駅を左手に見ながら暫く直進、人通りの賑やかな街中を過ぎると、正面には巨大な杉が両側に列を成して並ぶ風景が飛び込んでくる。さすがに国道は綺麗に舗装され、所々に民家が立ち並んで杉並木がない所もあるが、それでもこの杉並木は歴史を感じるビジュアルであろう。特に「神橋」交差点から3㎞先にある「七里」交差点から先は多くの杉並木が国道沿いに見られるようになる。
 その後「七里」交差点から1㎞強先に路地があり、そこを右折し、この細い道路を道なりに進む。 当日は雨交じりの天候、賑やかな日光市街地とはがらりと変わって農道のような道路を進む心細さを感じつつも、ここは我慢して進行、日光宇都宮道路の上を進む先には開けた場所があり、そこには民家が立ち並ぶ場所の一角に七里生岡(いきおか)神社は鎮座している。
        
                  
七里生岡神社正面
『日本歴史地名大系』には 旧「七里村」の解説を載せている。
 南東へ流れる大谷(だいや)川右岸にあり、今市扇状地の扇頂部にあたる。村域の大部分を山地が占め、北部を志度淵(しどぶち)川が流れて大谷川に注ぐ。同川段丘上を日光街道が東西に通り、集落は街道沿いに続く。西は日光東町、東は野口村。村名は、村内生岡から日光山神橋(しんきよう)までが六町を一里として数えると七里であることによるとされる(堂社建立記)。南東部の生岡を含む上野(古くは上野口ともいう)は、弘仁一一年(八二〇)空海によって創建されたと伝えられる大日堂を中心に開け、中世には信仰の一拠点であった。慶安郷帳に村名がみえ、日光領、畑高七三石余。元禄一四年(一七〇一)の日光領目録では二〇〇石余。
        
               鳥居の手前に設置されている「
生岡神社強飯式」の案内板
 日光市指定文化財
 生岡神社強飯式
 種別…年中行事
 生岡神社は、弘仁十一年(820)弘法大師が来山し、この地に大日如来を祀った時をもって開基とする。大日堂は明治の神仏分離令により「生岡神社」の名の下に、昔ながらの氏子や信奉者の崇敬を集めている。同社に古来より伝承する神事に「強飯式」「お飯食」「春駒」の三種があり、総称して「上野の強飯式」と呼ばれている。昔は正月八日に行われたが現在は十一月二十五日に執行される。「強飯式」は子供が主役となって演じられる。
 行事の次第は、拝殿の祭典終了後、拝殿正座に太郎坊、側座に次郎坊の両名が白衣装に目籠笊をかぶって膳の前に着座する。
(強飯式)法螺貝の合図で山伏が太郎坊前に進み、目籠笊の上に藁注連をかぶせ、「コリャ、御新役、当山の作法七十五杯、ツカツカおっ取り上げての召そう(以下略)」と口上を述べて立ち去る。つづいて独特な衣装の強力が登場して生大根で床を打ち、「コリャ、中宮祠の木唐皮(中略)生岡神社の生大根」「(前略)一杯二杯に非ず七十五杯、ツカツカおっ取り上げての召そう」と述べて退去終了する。
(お飯食)新役両名の前に里芋を高盛りした高杯が置かれ、別当職が前に跪き、芋をつまんで新役の口元に差しだし、「お飲食に案内もん」と唱えながら三回ほど回して口にねじ込む。これを両名に三回ずつ行って神事が終了する。
(春駒)まず、木彫りの馬頭で馬身が青竹の春駒に脇別当がまたがり、別当は幣束を持って手網を取って、床を右大回りで三回跳ね回る。次ぎに太郎坊、次郎坊が春駒にまたがり、手網は脇別当が取る。最後に神前に拝礼して式が終了する。
昭和三十八年二月十三日指定 日光市教育委員会
                                      案内板より引用 
        
                     拝 殿
 七里地域・北東部の上野(うわの)に鎮座する。祭神は大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命。神護景雲元年(七六七)の創建とも伝え(旧県史)、明治初年に廃絶した生岡大日堂の鎮守であった。大日堂のある地は勝道が日光開山前に修行した地と伝え、神出現の地であるので生岡とよばれるようになったとされる(日光道中略記・堂社建立記)。「日光山滝尾建立草創日記」によれば、弘仁一一年(八二〇)二荒山に初めて登拝した空海は、九月一日「野口生岳」にとどまって大日遍照像を刻んだという。
       
         社殿奥に聳え立つご神木である「生岡の杉」(写真左・右)
        
           「栃木県指定天然記念物 生岡の杉」の案内板
 栃木県指定天然記念物  生岡の杉
 所有者 生岡神社
 昭和三十二年十二月十五日指定
 スギ科 目通周囲 約七メートル
 枝張り 東  西 約十二メートル
     南  北 約十四メートル
     推定樹齢 五〇〇年
 地上約3メートルより木末に至る間に落雷による焼胴が見られるが、樹勢は旺盛であり、県内有数の巨木である。
 この神木は非常に旧く、祭神は日光二荒山神社と同じであり、主祭神は大己貴命で、神護景雲元年(七六七)正月八日に創建されたという。
 現在の神殿は天正十八年兵火にあい改築されたものである。
 栃木県教育委員会 生岡神社
                                      案内板より引用
       
 ご神木の「
生岡の杉」の奥手には、日光市指定天然記念物である「生岡神社のエゾエノキ」もある(写真左・右)。1994811日指定。案内板に「幹・根元に見られる板状あるいは盾状の襞(ひだ)は他に例を見ない特異なもの」と記されているように、凹凸の幹が独特の陰影をこの木に与えているようだ。
        
               社殿奥に祀られている石仏像等
        
                境内に祀られている石像物群

 
生岡神社はもともと生岡大日堂という寺で、江戸時代までは日光山輪王寺の僧侶が強飯式を行っていた由緒あるお寺だったが、明治期の神仏分離令により、生岡大日堂は廃され、生岡神社のみ残った。いわば神仏習合の名残りが、この石像物等、この社の雰囲気全体に残されているようにも感じた。


参考資料「日本歴史地名大系」栃木県公式HP」「
Wikipedia」「境内案内板」等
      

  


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