古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下大崎住吉神社

 白岡市は、埼玉県の東部に位置し、東西 9.8km、南北 6.0km、総面積は 24.92km2ほどの東西に長い市である。1889年(明治22年)41 - 町村制施行により、上大崎村、下大崎村、柴山村、荒井新田が合併し南埼玉郡大山村が成立。その後大字下大崎・柴山・荒井新田は篠津村・日勝村と合併し、白岡町となる。大字上大崎は菖蒲町・三箇村・小林村・栢間村と合併し、菖蒲町となった。現在、この旧大山村は白岡市の中において、市東部に位置し、行政区画上「大山地区」と称されている。
 大山地区は、柴山沼を中心とする元荒川や星川の形成した沖積地や後背湿地に立地し、下流を埋没ロームで閉ざされているため排水が悪く、湛水に苦しめられてきた。柴山沼を囲む柴山、荒井新田の家々では「水塚」が築かれ、水害に備える風土が形成されてきた。この地域の水塚は、元荒川や星川側より柴山沼側に発達し、沼側の塚の方が高い傾向が見られることから、河川氾濫以上に柴山沼の内水氾濫に備えたものと思われる。
 柴山沼や皿沼周辺には「掘上田」が発達し、掘り潰れの水路は集落内まで引かれ、田畑との往復や作物の運搬などに使われていたようで、水害時にはこの舟が物資の輸送や避難に使われたという。 また、沼周辺の入会権に関する争論裁許絵図などが残されていることから、古くから、周辺各村が 利用することのできる範囲などが決められていたことがうかがえる。 特産の梨栽培が盛んな理由も、地下水位が高くみずみずしい梨がとれることによる。
        
             
・所在地 埼玉県白岡市下大崎1340
             ・ご祭神 住吉三神(表筒男命 中筒男命 底筒男命) 神功皇后
             ・社 格 旧下大崎村鎮守・旧村社
             ・例祭等 灯籠祭り 722日 他 
 久喜IC付近で交差する国道122号線を南下し、「下大崎」交差点を左折、その後500m程先にある旧国道122号線との十字路を右折すると、すぐ左手に下大崎住吉神社の社叢林が見えてくる。
        
                 下大崎住吉神社正面
『日本歴史地名大系』 「下大崎村」の解説
 東は星川を隔てて篠津村と樋ノ口村(現久喜市)、南は元荒川を画す。中央の微高地は埋没ロームの台地、台地西側の低地は皿沼の沼沢地である。菖蒲領に属し、西の荒井新田村、北西の上大崎村(現菖蒲町)と一村であったが、元禄(一六八八〜一七〇四)以前に分村した(風土記稿)。田園簿では大崎村として高付されている。元禄一〇年上野前橋藩酒井氏の検地があり(風土記稿)、元禄郷帳に下大崎村とみえ高三三九石余。幕府領、旗本五家の相給(国立史料館本元禄郷帳)。「風土記稿」成立時、幕末の改革組合取調書ともに旗本伊藤・川副・加藤の相給。化政期の家数は七五(風土記稿)。
 上記解説に載せている「皿沼(さらぬま)」は、埼玉県白岡市の下大崎地域に嘗て所在していた沼である。大山地区のほぼ中央に位置している柴山沼の東方、下大崎と荒井新田の境界付近に所在していた。
 名称は沼の底が浅く、皿状であったことに由来する。皿沼は江戸期に新田開発が開始された。井沢弥惣兵衛により1728年(享保13年)、皿沼の排水路を整備し、それまで元荒川に排水されていた流路を栢間堀(今日の隼人堀川)に排水されるよう新規に沼落堀を開削した。この農業排水路は今日では柴山沼からの沼落へと流下している。こうして皿沼新田は拓かれたが、皿沼の中央は水深があったために約30町の水面が残された。この江戸期の時点で拓かれた農地が掘り上げ田であったかは確認されていない。その後明治期になると小久喜の山崎礼助と東京府日本橋の岩波長蔵が中心となり、1881年(明治14年)に江戸期の開発時に残された沼の中央部を掘り上げ田形式による開墾・整備を開始した。しかし1890年(明治23年)の水害により土が流されてしまい、整備前の沼地の様になってしまった。
 整備事業はその後再開され、1897年(明治30年)頃に竣工した。時代は下り、1977年(昭和52年)になると埼玉県営圃場整備事業で柴山沼と同時期に圃場整備がなされ、現在掘り上げ田は通常の水田(乾田)へと姿を変えた。皿沼の掘り上げ田は沼田(ヌマタ)あるいはヌマと称され、掘り潰れも同様にヌマと称されていた。掘り上げ田の用水には雨水または上田用水および柴山沼からの悪水を、沼落堀の堰(逆門)によって掘り潰れの水位を調整し、水田面に合わせ利用していた。掘り潰れの水位は逆門の堰板を調整することにより約1.5m増減した。
 周辺には縄文時代の皿沼遺跡が確認されており、1977年(昭和52年)の秋から1978年(昭和53年)の春にかけて、上記の圃場整備事業に先んじて発掘調査が実施された。この発掘調査では縄文時代中期より後期にかけての住居跡が9軒、並びに古墳時代前期の住居跡2軒など発掘された。
特に縄文時代後期の住居跡からは東北地方の土器の模様につけられた注口土器(ちゅうこうどき)が出土しており、当時の人々の交流を知る材料となっているという。
 
     鳥居に掲げてある「住吉社」の社号額      鳥居の左側に設置されている案内板
        
       鳥居を過ぎて参道すぐ左手の大杉の根元に置かれている力石二基 
       
                静まり返っている境内
『新編武藏風土記稿 下大崎村』
 皿沼 村の南にて荒井新田村と入會の地にて、廣狹錢等の事は荒井新田村にいへり、
 住吉社〇雷電社 此二社を鎭守とす、村持、
 全龍寺 禪宗曹洞派、三ヶ村長龍寺末、大崎山と號す、彌陀を本尊とせり、鐘樓 寬永五年の鐘を掛く、
『新編武藏風土記稿 上大崎村』
 上大崎村は菖蒲庄と唱ふ、古へは騎西領に屬せしと云、當村もとは上下及荒井新田を合て一村なりしを、慶長年中荒井新田を分ち、又元祿以前に上下二村に分れたり、
       
                     拝 殿
 下大崎住吉神社    白岡町大字下大崎字屋敷廻
 下大崎住吉神社は慶長元年(一五九六)に創立され、享保五年(一七二〇)に再興されたという。祭神は、表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后で、明治四十年(一九〇七)に天神社、琴平神社、雷電神社を合祀している。
 拝殿内には「六歌仙」、「源平の合戦」をはじめ、「神功皇后三韓征伐」、「釣舟」や「大井川渡川」、「桜花」などを描いた九点の大絵馬が奉納されている。いずれも江時代から明治時代にかけてのもので、町の指定文化財となっている。
 拝殿正面の「住吉大明神新田源道記」と刻まれた石額は、以前は鳥居に掲げられていたものである。ところが、 不思議なことに馬に乗った人が鳥居の前を通ると落馬してけがをするといったことが何度も起きるため、石額を拝殿に移し替えたと伝えられている。
 
平成十一年一月 白岡町教育委員会                                           案内板より引用
              
       拝殿前に掲示されている「下大崎住吉神社の奉納絵馬」の標柱
 下大崎の住吉神社は慶長元年(1596)の創建と伝えられる。絵馬の初見は元文4年(1739)の「釣舟」、このほか「六歌仙」「桜花」「直実と敦盛」「那須の与一」「安徳天皇入水」「神宮皇后の三韓征討」「大井川渡河」がある。拝殿内に掲げられているので、風雨の影響も少なく、絵師の手になると思われる美しい絵馬も残されていて、比較的色彩等良好な状態なものが多いという。
 種   別           市有形民俗文化財
 指定年月日           昭和55111
 
  社殿の左手隅に祀られている石祠二基        社殿右手に祀られている
   左から
稲荷大明神、庚申・稲荷神社          境内社・秋葉神社
                                                   本 殿
 ところで、地域名「大崎」の「崎」は「浦」の意味でもあり、海洋民が定住した地と考えられる。住吉神社の創建は慶長年間ではあるが、それ以前に住吉系の住民の居住地であった可能性があると筆者は推測している。
 坂戸市塚越に鎮座する大宮住吉神社は、平安時代(天徳三年・九五五年)に長門国豊浦郡(現在の山口県下関市)の住吉神社の御分霊を山田長慶という人が勧請したことに始まるといわれ、祭神として、住吉三神(海・航海の神)、神功皇后、応神天皇を祀っている。この社は、かつて北武蔵十二郡(入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉)の総社であり、宮司家勝呂氏は触頭として、配下の神職をまとめていたという。武蔵国北部の住吉神社の総纏め的な存在であったのであろう。
       
     秋葉神社のすぐ右手にご神木の如き聳え立つヒマラヤ杉の巨木(写真左・右)

 蓮田市役所が所在する黒浜地域は、かつて奥東京湾が深く入り込み台地と谷とが複雑に入り組んだ地域で、大昔の入江のなごりで、海水がひいた時(海退)に内陸に閉じ込められてできた海跡湖である黒浜沼や、縄文時代の貝塚群および環状集落の遺跡である黒浜貝塚がある。この地域の南側に鎮座する黒浜久伊豆神社は室町時代の享禄年間(1528年頃)に騎西町の玉敷神社より勧請されて、その後江戸時代の慶長の16年(1611年)勝利正(すぐれとしまさ)(元上総国真里谷城主<千葉県木更津市>三河守重信の子孫、小田原城落城とともに身をかくし、当地に修験者となり居を構えた)が願主となり再興したと伝えられている。
『新編武藏風土記稿 黒浜村』
寶蔵院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下、花盛山と號す、開山隆意享祿四年十二月二十七日寂す、此隆意は上總国に住せし眞里谷三河守信重が子孫、勝頼母介常秋が子にて、信濃守景勝と云、後修驗となりて當所に住せし由、所藏の系圖に見へたり、
一方『埼玉苗字辞典』において、篠津地域にも「勝(スグレ)」に関しての記述がある。
勝(スグレ) 同郡篠津村(白岡町)真里谷城主真里谷和泉守武定の子・勝左近将監真勝に附会す。真勝は里見義堯に召出され五千石を賜る。観音堂に「勝真元・文化九年卒・二十六歳、其先勝将監真□乱を避け篠津村住」
文化九年に亡くなった勝真元の先祖勝将監真□は乱を避けて篠津村に移住したという。
        
                  社殿からの眺め
 そもそも「篠津」の「篠」の地名由来も、本来は地形由来と思われるものの、後代に「私ノ党」、つまり秩父七党「私市党」が移住したために在地名を党名としたとも考えられる。また、源平盛衰記に「武蔵国住人篠党に河原太郎高直、同二郎盛直、生田庄を給ふ」と載せていて、この河原氏は住吉系社と非常に関連性の高い一族とみている。
 蓮田市黒浜地域と白岡市篠津地域は元荒川を通じて近距離に位置していて、共に「勝(スグレ)」の歴史の痕跡が今でも存在する。また、下大崎は星川と元荒川の間にあり、篠津地域のすぐ西側に接していて、勝一族の一派が篠津より移住した地であると筆者は愚考する。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「白岡市文化財保存活用地域計画」「白岡市観光協会HP」
    「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
   

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柴山諏訪八幡神社


       
所在地    埼玉県白岡市柴山1021
御祭神    誉田別尊、建御名方命
社  挌    旧指定村社
例  祭    7月中旬か 天王様

 柴山沼は白岡市大山地区のほぼ中央に位置し、元荒川の下浸作用によって形成された河川跡だ。埼玉県内の自然沼としては、川越市の伊佐沼に次ぐ大きさの沼で、面積は12.5ha、水深は約8m。柴山沼という名称はこの地にかつて存在していた柴山村に関連する。柴山という地名は白岡市の説明によると柴山の柴とは雑木(そだ)の意で、柴山はこのような燃料採取の丘、林をさしていると考えられるという。
 この柴山地区の西側で、柴山沼と元荒川に挟まれた一面の田んぼの中に住宅が点在し、その一角に柴山諏訪八幡神社は鎮座する。

             正面参道                    鳥居を過ぎて左側にある案内板
諏訪八幡神社  所在地:南埼玉郡白岡町大字柴山
 諏訪八幡神社は、大字柴山のほぼ中央に位置し、古来、地域住民の信仰の対象として、中心的な役割をなしてきた神社である。当神社は、昭和19年に「大山神社」と改名されているが、現在でも「諏訪八幡神社」として親しまれている。祭神は、応神天皇と建御名方命である。
 寛文12年(1672)に藤原氏天野康寛が書いた諏訪八幡神社之神記によれば「霊験の記は紛失して証拠となるものはないが、伝説によると宇多源氏の後胤佐々木四郎秀綱がこの地を領していたとき、霊験があり、諏訪社と八幡社の両社を合祀した」とある。
 当社には、地域の信仰を物語る各種の絵馬が多く奉納され、よく保存されている。また、祭礼時には大太鼓、小太鼓、鉦による囃子が奉納される。
 昭和58年3月 白岡市
                                                     境内案内板より引用

       平野部に鎮座する明るい社                  案内板の先には神楽殿

             
 
                             拝    殿
 柴山諏訪八幡神社は菖蒲城佐々木源四郎秀綱の創建と伝えられていて、佐々木氏は、宇多源氏の末裔と称しており、源氏の氏神である諏訪社と八幡社を勧請したものと思われる。社殿は本殿、幣殿、拝殿。拝殿の中には絵馬や掲額が数多く残されており、いずれも江戸後期以降のもので市の指定文化財になっている。
                    
                  拝殿の手前にある「奉納絵馬」と書かれた標柱

                         
 ところで佐々木源四郎秀綱が源氏の氏神である諏訪社と八幡社を勧請したという由緒を素直に読むと、元々この地には違い祭神の社があり、その後勧請した為に諏訪八幡神社と名乗ったと考えたほうが自然だと思われる。では以前の社の名称は何だったのだろうか。
 柴山地区は現在一面の田園地帯だが、嘗てこの地は「大山村」とも言われたという。この大山村は柴山、荒井新田、下大崎、上大崎の四つの大字からなっていた。以後、昭和29年9月1日に白岡町が誕生するまで、65年間存在していていた。この「大山村」の名の由来はは大崎の「大」の字と柴山の「山」の字を取ったものであるというが、史実はこのように単純な事だろうか。この白岡市は台地と低地が入り組んだ複雑な地形で台地と低地の区分は10メートル程というが、柴山地区はその中にあって比較的平坦な地域だ。この地形は今も昔もそれほどの変わりはない。「大山」と言われる程の山は存在しないことからこの地名は地形上から来たものではなく、文化、祭祀的な名前ではないかと考える。いわゆる「オオヤマツミ」信仰だ。
大山祇神
  オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)は、日本神話に登場する山の神。別名 和多志大神、酒解神。日本書紀は『大山祇神』、古事記では『大山津見神』と表記する。『古事記』では、神生みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれたと記され、一方、『日本書紀』では、イザナギがカグツチを斬った際に生まれたとしている。勿論記紀上の系譜では立派な天津神系の一族である。 
 ただ不思議とオオヤマツミ自身についての記述はあまりなく、オオヤマツミの子と名乗る神が何度か登場する。ヤマタノオロチ退治において、素戔嗚命の妻となる奇稲田姫(くしなだひめ)の父母、足摩霊、手摩霊(あしなづち・てなづち)はオオヤマツミの子と名乗っていて、天津神に所属していながら国津神系の出雲とも深い関係のある神でもある。
 この神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となるが、別名の和多志大神の「わた」は「海」の古語で、「海の神」を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。

 オオヤマツミはイザナギ、イザナミの系統でありながら、その兄弟カグツチが母を死に至らしめたことから、神話の主役はアマテラスに奪われ、脇役の地位を担わされた不運の天津神である。しかし出雲族の移住先等の各地でその信仰は連綿と継続し、とくに山岳宗教と結びついたり、金属、鉱山関連の仕事に仕事に付く人たちに敬われてきた古くからあるいわゆる地主神的な存在ではないだろうか。柴山の「山」にしろ大崎の「大」という地名につけられた名は古くから語り継がれてきた古名の名残りだったとは考えられないだろうか。
 それを証明する一つの事例として柴山地区に伝わる伝統行事がある。「天王祭」だ。

 柴山諏訪八幡神社の鳥居の左側に境内社諏訪八幡神社の祭り(天王様)は、毎年7月に行われ「オシッサマ(お獅子様)一行」が天狗、獅子、太鼓などで耕地内を駆け巡るそうだ。「天王」とは勿論牛頭天王(ごずてんのう)を祀る天王社の祭である。牛頭天王は日本の素戔嗚尊と習合し、日本各所にその伝説などが点在しており、その地方で行われていることが多い。
           

 この社の獅子の一行は獅子頭と獅子の布を持つ人、カラス天狗、天狗によって構成されて、それに山車に乗った囃子連が付いているそうだ。
 この白岡市にはこの「天王様」の祭りが非常に多く、この柴山の天王様のほか、岡泉、新田、野田、篠津があり、殆どが7月の中旬に行われるようで、天王信仰が盛んな場所であったのだろう。前述オオヤマツミの孫が奇稲田姫であり、その夫が素戔嗚命である。同時に柴山地区の天王祭が盛んな地域であることから、柴山地区と「オオヤマツミ」は関係の深い地域であったことがわかる。

                                                                                                

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篠津久伊豆神社

 埼玉県は河川が多い県である。利根川、荒川の二大河川が東西を貫き、その豊富な水量故に多数の支流が県下の隅々まで行きわたっている水の県である。ある統計調査によると県の全面積中で河川の占める割合(3.9%)が埼玉県は日本一で、湖沼や用水路などを含めた水辺の割合では滋賀県、茨城県、大阪府に次いで4番目となるそうだ。それ故か水辺に関連した地名も多数存在する。
 さて篠津の地名は『埼玉県地名誌』によれば、元荒川左岸、渡津より起こったものと考えられ、津は船着き場の意で、付近一帯に篠が生えていたため篠津と呼ばれたと考えられる。いわゆる水辺に関連した地名だ。江戸時代の篠津村は川越藩領の後、旗本領に属していた。明治22年に町村合併で誕生した篠津村は、野牛村、白岡村、寺塚村、高岩村が合併したものである。以後白岡町に合併するまでの65年間存続したという。                                                                         

                                                白岡市 ホームページ参照
所在地     埼玉県白岡市篠津1798
御祭神     天穂日命、大己貴命、大山祇命
社  挌     旧村社
例  祭     4月16日 例大祭  (須賀神社 7月中旬 天王様祭)  浅間神社  7月1日 初山祭り

        
 篠津久伊豆神社は白岡市篠津地区に鎮座している。埼玉県道78号春日部菖蒲線を白岡市役所から久喜市方向に進み、途中篠津神山(東)交差点を右折し最初の交差点を左折する。T字路にぶつかるのでそこをまた右折し、しばらく進むと左側に「篠津久伊豆神社」の看板が見えるので、そこを左折すると突き当たりにその社が鎮座している。

             正面参道                    鳥居を過ぎると左側にある案内板
篠津の久伊豆神社と山車  
 所在地:南埼玉郡白岡町大字篠津
 久伊豆神社は、康治元年(1142)に建てられたと伝えられ、祭神として天穂日命、大己貴命、大山祗神が祀られている。
 現在の本殿・拝殿は、江戸時代末期に建造されたものと思われ、特に本殿四方に巡らされた「神功皇后三韓出兵」「天の岩戸」「飛龍に波」「鷲」などの彫物は、江戸伽藍彫刻の力作である。篠津地区は、平安時代末期に全国に勇名を馳せた武蔵武士団のひとつ野与党発祥の地とされ、当社は、その守護神として崇敬されていた。また、この地区は江戸時代の日光街道(春日部宿)と中山道(鴻巣宿)を結ぶ街道の宿場として栄えたところであった。
 また、地区内の上宿、横宿、下宿、宿神山の各耕地には、それぞれ特徴ある山車が保存されており、この山車は江戸時代末期に製作されたもので、唐破風欅白木彫などその彫刻はすぐれている。これらの山車は、7月15日の天王様(須賀神社の祭礼)に飾り付けられ、今でも祭りを盛りあげる大きな役割を果たしている。                                                昭和58年8月 白岡市
                                                        案内板より引用

 篠津久伊豆神社が鎮座する篠津地区は平安時代末期に全国に勇名を馳せた武蔵武士団のひとつ野与党発祥の地とされ、当社はその守護神として崇拝された。またこの地区は江戸時代の日光街道と中山道を結ぶ街道の宿場町として栄えた場所であるという。現在の社殿は安政元年(1854)より5年の歳月をかけて拝殿が 完成した。
           
                              拝    殿
            
                             本    殿
  重量感溢れる荘厳な本殿であり、また本殿の3面に飾られている彫刻は江戸伽藍彫刻の力作で、彫刻は天保13年(1842)生まれの立川音芳の作である。音吉は彦根藩家臣の家から江戸の仏師に養子となり、佐野の立川芳治の下で宮彫を習得した。その後、篠津久伊豆神社の彫刻を依頼され、当地に住むようになった。
                 
                                    
                                                        

  社殿の奥には境内社が数多く鎮座している。左側から稲荷大神社、諏訪大神社、榛名神社が並び(写真左)、その隣に(同右)左側から雷電宮、諏訪神社、八幡宮、正八幡宮が鎮座。

 また社殿の向かって右側には境内社、九ヶ所神社、疱瘡神社(写真左)、そして五穀大明神(同右)が鎮座している。

  さて篠津久伊豆神社の境内に大きな富士塚があり、浅間神社が祀ってある。山崎浅間神社の項でも紹介したが、初山とは、赤ちゃんの額に初山の印を捺して、健康と長寿の願いを込め、疾病の退散を念じる行事で、毎年7月1日に富士山に見立てた小高い山にある浅間神社にお参りする初山祭りが行われるらしい。
           
                     

 また境内の前に大きな山車倉庫があり、そこには「白岡町指定文化財第4号 篠津天王様の山車・宿耕地」と「白岡町指定文化財第5号 篠津天王様の山車・下宿耕地」と記された標柱がある。
           
                        篠津天王様の山車専用倉庫
 7月になると市内各地で疫病退散を願う夏祭りが行われる。中でも八雲神社(岡泉鷲神社・柴山諏訪八幡神社)、八坂神社(上野田・下野田)、須賀神社(篠津)、牛頭(ごず)天王社(白岡の新田地区)を祀る地域では、この夏祭りを「天王様」と呼んでいる。
 篠津の天王様では見事な彫刻の施された5台の山車が地区内を巡行する。山車は岡泉の天王様にも飾られる。上野田・下野田では、勇壮な神輿が耕地内を練り 歩き、疫病の退散を願う。白岡の新田地区や柴山では、オシッサマ(お獅子様)の一行が天狗、獅子、太鼓などで耕地内を駆け巡る。


 篠津久伊豆神社は、由緒等による武蔵七党、野与党発祥の地という歴史上の創建の古さと、その地区の守護神としての重さに社殿全体の荘厳さも加わり、参拝にも自ずから厳粛な面持ちとなった。近隣に鎮座している白岡八幡宮の女性的で優雅な白い社殿とは全く対照的で、参道正面の雰囲気はまさに男性的で重厚感がある。社正面から出ている社風というか漂う色が白岡八幡宮とは全く違うのだ。白を基調とした白岡八幡宮や境内にある真新しい神楽殿と比べること自体間違っているかもしれないが、白岡八幡宮の次にこの社を参拝したのだから自然と比較の対象となってしまった。
 しかし一旦正面参道から奥の本殿に向かうと雰囲気が変わる。本殿の彫刻から漂うのか、本殿全体から発する妖艶さからか、決して男性的なものではない。この社の本殿のそれは、大人の女性の熟成された色を感じた。
 「篠津」という地名は河川に関係した地名というが、個人的に「篠」には女性的な余韻を感じてしまう。勝手な個人の主観的感想と変な喩で恐縮だが。





                   

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実ヶ谷久伊豆神社及び千駄野八幡神社


 俗に地名はその土地の地形や地質、歴史などを表していて、日本人の姓とも深い関わりがあるという。筆者の考え方の根本的なスタンスとして地名の由来を考えることは、古文書等の文献資料、また考古学分野の発掘調査、さらに当時の地形考察の次に重要なコンテンツであり、それらを総合的に研究し、その結果、風土、歴史等がおぼろげながらイメージでき、いにしえに思いを馳せうる骨格の形成に欠かせないものであると考えている。
 そういう意味において昨今の市町村統合によって新しく誕生した地方自治体の新名称には、何の根拠でこのような名にしたのか理解に苦しむものも確かに存在する。出来ることならば古名、旧名は弄らず最低限残す努力もしていただきたい、そんなことを感じる今日この頃だ。

所在地    埼玉県白岡市実ヶ谷553-1
御祭神    大己貴命他四柱
社  挌    旧村社
例  祭    不明

        
 実ヶ谷久伊豆神社は白岡市役所からは丁度真南方向にあり、埼玉県道78号春日部菖蒲線を春日部市方面に進み、左側に病院があり、その向かい側にコンビニエンスがある交差点を右折する。白岡市役所を右側に見ながらその道を進むとT字路にぶつかり、左折し東北自動車道に沿って南下し、約500m弱するとY字路に達するのでそこを左側に進み約1km位で左側に社叢が見えてくる。
 但しその道には適当な駐車スペースがなく、参拝するためには一旦社を過ぎてからある十字路を左折するとすぐ先に丁度社号標がある場所につくことができ、そこには車が1,2台分停めることができるスペースがあったのでそこに駐車して参拝を行った。

のどかな田園地帯の奥にこんもりとした社叢が広がる。      二の鳥居がその社叢の入口

        実ヶ谷久伊豆神社の案内板              社殿の周りに点在する境内社
                                        境内社に稲荷、天満、など六社
 実ヶ谷地区は元荒川左岸の白岡台地の東端部に位置し西側を除く三方が侵食谷により囲まれた土地柄で西方には鎌倉街道が通過しているという地形。地名の中に「谷」があるのはその関係か。この案内板によると、「嘉吉元年(1441)創建、由緒を伝えるものとして日高市聖天院の鰐口(県指定文化財)がある。表に武州埼西郡鬼窪郷佐那賀谷村、裏に大工渋江満五郎、応仁二年(1468)十一月九日の銘がある。鬼窪郷野与党の有力者鬼窪氏の本拠地で当町の小久喜、実ケ谷、白岡を中心とした地域が相当する」とある。つまり野与党の有力者鬼窪氏の本拠地が小久喜を中心としたこの地域だったということが案内板から推測できる。ちなみに小久喜地区にも小久喜久伊豆神社は鎮座している。
             
                                                            拝     殿
                        
                              本     殿
 この社が鎮座する「実ヶ谷」地区は白岡駅から南東方向で、白岡市役所からは丁度真南方向にある。「実ヶ谷」と書いて「さながや」と読む。「千駄野」と共に非常に変わった名前だ。白岡市のホームページによればこの実ヶ谷地区は日勝地区に属し、村名の由来は不明であるが、『風土記稿』の久伊豆神社の記載によれば、古くから佐那賀谷(武州騎西郡鬼窪郷佐那賀谷村)の名が見え、これが実ケ谷に転じたと考えらる。また、サナガヤのサナは昔の製鉄にちなむ地名といわれている。なまって「サナゲエ」とも呼ばれる。
 江戸時代の初期は岩槻藩領で、明治28年に岡泉村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となったという。この実ヶ谷地区の中央部に実ヶ谷久伊豆神社は鎮座している。
           
                                                                 境内の風景
  境内は外側から見た社叢の印象に反して陽の光が入っていて思った以上に反していて明るかった。境内の右側、つまり東側には広い空間があり、ゲートボールなどができるように設置されていた。参拝した当日、近所のお年寄りの方たちが数多く集まってレクリエーションを楽しんでいたり、中にはお茶休憩をしていた方たちもいた。小春日和の何とも微笑ましい風景と静かな時間がこの社全体に漂っていた。





千駄野八幡神社
所在地    埼玉県白岡市千駄野字迎129-1
御祭神    誉田別命
社  挌    旧村社
例  祭    不明
           
 千駄野八幡神社は実ヶ谷久伊豆神社から北に500mほど向かった道路沿いに鎮座する。駐車スペースは全くなく、路上駐車となってしまったので急いで参拝を行った。

 白岡市のホームページによると千駄野という地名は旧日勝村の一地区で、『風土記稿』によれば、千駄野村は箕輪郷に属し、岩槻城付の村であった。地名の由来は『日勝村誌』には「本村ハ古ヨリ岩槻城附ノ村ニシテ古来荒蕪地多ク領主ニ納ムル貢租ハ僅ニ茅千駄ニ過ギザリシヲ以テ千駄野ト 称セシトイウ」とあるが、木や茅を焚いて雨乞いした所との説もある。
 江戸時代には岩槻藩領に属し、明治28年に実ケ谷村など8か村と合併し日勝村となり、昭和29年に篠津村・大山村と合併して白岡町となったという。
            
                              拝     殿

             本    殿                     社殿の左側にある稲荷社



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白岡八幡宮

 埼玉県白岡市は、埼玉県の中東部に位置する人口5万1千人の都市である。関東平野の中央部に位置し、山地は無く、ほぼ平坦な地形であるが、市内は台地と低地が入り組んでおり勾配の急ではない坂道も数多くも点在している。
 西側にある蓮田市と元荒川で境とし、市内を中川水系の小河川が複数縦断する。東部には白岡台地・慈恩寺台地が存在する。都心から40キロ圏内という恵まれた立地条件に位置し、交通の便もJR宇都宮線の白岡駅、新白岡駅、さらに東北自動車道久喜ICが近くにあり、恵 まれている。また、国道122号、県道さいたま・栗橋線が縦貫するとともに、県道春日部・菖蒲線が東西に通過し、重要交通機関の通過地点を呈している。
 白岡(しらおか)の地名の起こりには諸説あるが、一つは正福院貝塚の貝殻が元荒川方向から見ると、太陽の光で光輝いて見える岡という説。もう一つは白岡八幡宮の縁記の「平安時代の嘉祥2年(849)に慈覚大師が、この地に来て、八幡宮と正福院の阿弥陀薬師を祭祀した。その時大師の御前に3羽の白い鳩が舞い遊んだ。その様子をご覧になって、白鳩のすめる白い岡」により、白岡と命名した説がある。
所在地   埼玉県白岡市白岡889
御祭神   正八幡宮(応神天皇) 若宮八幡宮(仲哀天皇) 姫宮八幡宮(神宮皇后)
由  緒   嘉承2年(849年)、慈覚大師円仁の草創とされ、八幡太郎義家が奥州
        征伐のときに戦勝祈願に参拝したとも伝えられる。また、建久6年(1195)
        源頼朝が鬼窪某に命じて社殿を造らせたという。
例  祭   1月1日 元旦際 3月19日 例大祭


                         
 白岡市に鎮座する白岡八幡宮は白岡市駅から真西1㎞位の場所に鎮座している。実は筆者は数年前まで春日部市にある某会社に通勤していて、白岡市も通勤途中に通っており若干の地理はあった。(だが幹線道路だけで、抜け道などは全く分からなかったが)熊谷市から白岡市までは、国道17号バイパスから出発し、鴻巣市で合流。免許センターの先を左折してから笠原久伊豆神社手前の交差点を右折し、その後農道を真っ直ぐ進み柴山沼を越えるとT字路にぶつかり、埼玉県道3号線さいたま栗橋線と合流する。その交差点を右折し、駅入口交差点を左折し途中のY字路の左側方向に白岡八幡宮がある。しかし一方通行なので実際にはぐるっと左回り方向に遠回りに回らなければいけないので注意は必要だ。
         
                         「源義家駒止めの杉」の神木
 鳥居の道を隔てた向かいには、八幡太郎義家が奥州平定(1062年)の折戦勝祈願に立寄り、馬をつないだ木と伝えられている「源義家駒止めの杉」の神木、老木が大切に保存されている(写真左)。なんでも大正3年(1914年)と5年の(1916年)2度にわたる落雷によって倒れ、やむなく伐採されたが、屋根を付けて保存している。
 また神木の並びには白岡八幡宮の案内板(同中央)、社叢ふるさとの丘の看板(同右)が掲げてある。
白岡八幡宮    所在地 南埼玉郡白岡町大字白岡
 白岡八幡宮は、嘉祥2年(849)に建てられたものと伝えられ、祭神は応神天皇(正八幡)、仲哀天皇(若宮八幡)、神功皇后(姫宮八幡)である。
 当社に伝えられている略縁起には、康平5年(1062)源八幡太郎義家が奥州征討の途中、戦勝祈願のため立寄ったと記されており、また、建久6年(1195)征夷大将軍源頼朝は、当社に佐々木四郎高網を代参させ、土着武士の鬼窪某に命じて社殿を造立させるとともに、百余貫の所領を寄進し、源家の守護神としてあがめたと伝えられている。戦国時代には一時衰えたが、氏子等の力により江戸、明治期にかけて徐々に復し、昭和45年に現在の社殿に改築した。当社には、享徳5年(1456)銘の鰐口が現存し、古い歴史を物語っている。
 境内には、樹齢600年といわれる榧の木があり、また、参道脇に保存されている杉の枯木は、義家が馬をつないだ木と伝えられ、当社の御神木となっている。
 昭和58年3月 白岡町
                                                        案内板より引用
                                                                                                                     
                      参道正面、白岡八幡神社の鳥居
  
      鳥居の右側にある境内案内板                 参道右側にある神楽殿
 神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮、東京都江東区の富岡八幡宮と並び日本三岡八幡宮の一つとされ、鎌倉幕府の初代征夷大将軍であった源頼朝も参拝している。この白岡八幡神社は、縁起によれば嘉承2年(849)慈覚大師円仁の草創とされ、源義家が1062年(康平5年)奥州征伐のときに戦勝祈願に参拝した記録が新選武蔵風土記稿に伝えられている。その後建久6年 (1195)、源義家に倣って源頼朝が鬼窪某に命じて社殿を造らせたという。 
 また2009年(平成21年)12月には、境内の白岡天満神社に東京都文京区の湯島天満宮から分霊がなされ、遷座式が行われた。 湯島天満宮の御分霊が遷座しているのは、全国で長野県長野市の湯島天満宮信濃分社と当社のみである。
             
                                                                 拝    殿
 社殿全体が白壁の白色を基調としていて、朱の欄干との配色が非常にオシャレで一種女性的でもあり、洗練された美しさを漂わせている。この拝殿は元禄7(1694)年、寛延2(1749)年、明治16(1883)年に改修され、現在の社殿は昭和45(1970)年に改築されたものだそうだ。
                          
                                                                 本    殿
  拝殿、幣殿、本殿が一体化した権現造りで、拝殿が白をベースにした女性的な建築方法に対して、幣殿、本殿は木目調で荘厳さと妖艶な美しさを醸し出している。また社殿部側面に掲げられた地元高校生の製作した大きな絵馬はなかなか素晴らしいものでこの八幡神社のイメージにもピッタリで驚かされた。
 白岡八幡宮 由来
  「白岡の八幡様」として名高い当社は、『八幡宮縁起』や『八幡宮来由』によれば、慈覚大師が仁明天皇の御宇に霊場草創の勅を蒙って東国に下向し、当地にて加持を行った際、正八幡宮・若宮・姫宮の三神と本地仏である阿弥陀仏・薬師の二尊が出現したことに感得して神宮を建立したことに始まるという。時に嘉祥二年(849)、併せえて白岡山西光寺正福院という一寺を建立して当社の別当とした。降って康平五年(1062)、源義家は欧州征伐に際し当社へ参詣し、ひたすらに勝利を祈願したお陰で平定を終えることができたとして帰陣の際に当社へお礼参りをした。
以来、武州の白岡、仙台の亀岡、鎌倉の鶴岡の八幡宮は「三岡」と唱え、源氏の守護神として厚く信仰されるに至ったと伝え、建久六年には源頼朝も佐々木四郎高綱を代参として遣わし所領百貫文と神馬を奉納した。
                                                                                                              「埼玉の神社」より引用
 
 白岡八幡神社の社殿の奥には立派で数多くの境内社が鎮座している。
 
               猿田彦神社                           日枝神社 
 
             三峰神社                             天神社                                                                       
                                 稲荷社                               神馬神社
 
  社殿と神楽殿の間に大きな樹木があり、白岡八幡宮のご神木であり、白岡町指定天然記念物でもある樹齢約六〇〇年といわれる「カヤの木」がある。カヤの木は関東において数少ない銘木といわれているが、白岡八幡宮のカヤの木は目通り4.7m、樹高31mの堂々たる大樹で、まさにご神木にふさわしい威容が漂っている。
                                   
                                        白岡市指定天然記念物 白岡八幡宮のカヤ

 また鳥居の道を隔てた向かい側に「イヌザクラ」がある。別名「シロザクラ」。樹齢300年と言われ、幹回り3m、樹高は18mと近隣にはない巨木だ。このイヌザクラも白岡市指定天然記念物に指定されている。
                                   
                                      白岡市指定天然記念物 白岡八幡宮のイヌザクラ
 白岡町八幡神社社叢ふるさとの森 昭和56年4月4日指定
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、この社叢が「ふるさとの森」に指定されました。八幡神社は、平安時代に創建された由緒ある神社で、古くから町の人々に親しまれてきました。
 境内には、町天然記念物のカヤノキ・ウワミズザクラも生育しています。林相としては、主に、ケヤキ・スギ・モウソウチクなどから構成されています。
 昭和58年3月 埼玉県
                                                                                案内板説明文より引用
 白岡八幡宮は由緒ある古社であるので、境内にはその他数多くの文化財や見どころがある。白岡市指定文化財では「白幡八幡宮棟札」と「鬼窪八幡宮鰐口」の2点。「白岡八幡宮棟札」の棟札は3札あるそうで、元禄7(1694)年、寛延2(1749)年、明治16(1883)年が現存しているそうだ。
 また「鬼窪八幡宮鰐口」は拝殿の前面軒下に吊るし、参拝者の前に下がっている綱を打ち鳴らして参拝に来意を告げるための道具で、この鰐口は江戸時代に土中より堀り起こされたものと言われている。鰐口の銘文から享徳五年、康正二年に後南朝最期の主である聖秀尊(別名自天王)によって奉納されたものであることがわかっている。この白岡の地に後南朝、特に非業の最期を遂げた悲運の主である自天王との関係を窺わせる文化財が存在するとは考えもしなかった。後南朝と何らかの関係があってこの地に奉納されたのだろう。
 南北朝時代、上州の新田義貞、その息子義興、義宗を始め、多くの南朝方の武将らが関東地方で足利氏の北朝方の武将と合戦を繰り広げた。武蔵国東部でも南朝方の武将で有名なのが春日部重行で、新田義貞が挙兵に参陣し、鎌倉、箱根、京都、島根、九州など各地で幕府軍と戦う。鎌倉攻略で戦果を上げ、春日部郷の地頭職を安堵されたように、新田氏傘下の有力武将であり、この春日部と白岡は近郊であることから、南朝側の土壌が少なからず存在している地方ではなかったろうだろうか。

 またこの白岡八幡宮は「鬼窪八幡宮鰐口」の銘に1456(享徳5)年「鬼窪八幡宮」と書かれていて、武蔵七党の一派である野与党から鬼窪氏が住み着いて、この地を「「鬼窪」と名付けたが、その後天文十七年(1548年)武州文書に白岡薬師堂と書かれている所から、ある時期かそれ以前に「白岡」に改名されたことは確かだ。このことは「埼玉苗字辞典」にも以下の記述があるので引用する。

白岡
 埼玉郡白岡村あり、八幡社享徳五年鰐口銘に鬼窪八幡宮と見え、天文十七年武州文書に白岡薬師堂(八幡社別当正福院)と見ゆ。足立郡白岡村(大宮市)あり、御蔵村となる。
一 野与党白岡氏 埼玉郡鬼窪郷白岡村より起る。武蔵七党系図に「南鬼窪小四郎行親(源平之戦、奉頼朝)―親頼―親家―白岡禅師澄意」あり。下高野村永福寺伝(旧阿弥陀寺)に「寿永二年、阿弥陀寺帰依檀那、野与一党、多名・鬼窪、白岡・渋江等面々、阿弥陀寺本来檀那出戸左衛門尉為隆等と謀議し、一用上人を阿弥陀寺に請ひ止める」と見ゆ。鬼窪氏は、澄意以前に白岡氏を称す。
二 埼玉郡白岡村 白川家門人帳に「明治二年白岡村八幡宮神主白岡祝」。明治三十二年八幡社神主白岡瑞枝あり。八幡社附近に七戸現存す。
                                                   埼玉苗字辞典より引用                                                                                                    
                                                                                               

 

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