古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

新宿八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県児玉郡神川町新宿284
              
・ご祭神 誉田別神
              
・社 格 旧新宿村鎮守 旧村社
              
・例祭等 歳旦祭 115日 春祭り 415日 八坂祭 715
                   
新嘗祭 1123
 武蔵国二ノ宮で、官幣中社として名高い神川町・金鑽神社は国道462号線に沿って鎮座しているが、そのまま神流川方向に進路をとる。その後「新宿」交差点を右折し、埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線に合流し750m程進み、「峯岸集会所」手前のT字路を左折し北上する。両側に民家が立ち並ぶ集落を過ぎると、周囲は田園地帯が広がり、目の前に新宿八幡神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
        
                                   
新宿八幡神社正面
 神川町は南北に細く伸びた地形になっており、急峻な山間部となっている南部(神泉地区)から、北上するにつれ平坦な地域が広がり、多様な地形を形成しており、これは「母なる川」である神流川の流域に重なる。
 神流川は群馬県、埼玉県および長野県が境を接する三国山の北麓に源を発し北へ流れ、上野ダムにて堰き止められた奥神流湖から、後に東に流れを転ずる。途中下久保ダムによって堰き止められた神流湖から、群馬県・埼玉県の県境となる。
 神流川は上流から中流部にかけては山がちで谷が狭い地形が続くが、丁度この「新宿地域」辺りで関東平野に出る。この河川の形成した豊かな扇状地が扇状に広がり、有史以前から開けた豊饒の地を育んできたと言える。
        
                            重厚感のある新宿八幡神社の鳥居
 同時に神流川は関東平野に出ると川幅を広げて分水・伏流するため、流域では古くから水害や干害に苦しみ、江戸時代中期以降数度にわたって大規模な河川改修工事が行われた。伝承によると、日本武尊が上流で弟橘姫の遺髪を流したことから、髪流川とよばれるようになったという。一説にカンナは鉄穴の意で、砂鉄採集地の名称ともいう。
 また文明一八年(一四八六)の「廻国雑記」には「かみ長川」とあり、川名の由来は明らかでないが、かなり古くからの名称であったことは確かであろう。
      
       鳥居の左右に立つ標石。左側は神楽殿改築記念碑。右側には社号標柱。

   鳥居の左側に設置されている案内板      鳥居上部には社号額が飾られている。
 八幡神社 御由緒
 □御縁起(歴史)  神川町新宿二八四
 当地は神流川右岸に位置し、武蔵と上野両国境に当たり、南に渡瀬村、対岸は上野国緑野郡保美村(現群馬県藤岡市)・浄法寺村(現同県鬼石町)である。村の開初の時期は明らかでないが、渡瀬村の新田として開かれたと伝えられる。神流川に中世末期から設置されていた九郷用水の堰口があり、近郷二二か村の用水として使用されていた。
 当社は新宿の村の鎮守として祀られている。その創建は『児玉郡誌』に「永禄年間(一五五八~七〇)渡瀬御嶽山城主長井豊前守政実築城の際、武運守護神として勧請せし社なりと云へり」と記されている。御嶽城は、渡瀬の北東端の御嶽山にあった南北朝期から戦国期にかけての山城で、右の「築城」とは再築城を指すものと思われる。
 更に同書には「往昔より新宿・寄島・峯岸三耕地の総鎮守として村民厚く崇敬せり。寛文年間(一六六一~七三)神主浄法寺因幡橡信重奉仕し、社殿を改築し、当時の棟札現存せり、その後社務は修験御嶽山法楽寺の兼帯せる社となる」と記されている。一方『風土記稿』には、当社は天台宗の無量院持ちとして見え、別当に変遷のあったことが知られる。
 明治初年の神仏分離により別当の無量院から離れ、社格制定に際して村社となった。 大正四年に御大典記念として神楽殿を新築し、同十五年には本殿を境内地の内で移転し、拝殿を新築した。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                                       拝 殿 
 案内板に記されている「長井 政実(ながい まさざね)」は、戦国時代の武将で、上野・武蔵国境に拠った国衆と呼ばれる在地豪族である。政実は元々山内上杉家家宰である足利長尾氏配下の国人・平沢氏の一族であり、足利長尾氏の被官だった。その後永禄8年(1565年)4月までに後北条氏配下の元で、同じく足利長尾氏被官で御嶽城主であった安保氏の家臣を継承して武蔵御嶽城主となったと考えられている。同10年(1567年)の武田信玄の駿河侵攻に端を発して武田氏と後北条氏の関係が悪化すると、同12年(1569年)6月に後北条方として上野国多胡郡に出兵し、武田方の小幡信尚や小幡織殿助を寝返らせた。これに対して武田信玄は北関東から後北条氏領国に侵攻し、99日には政実の御嶽城も攻められたが、陥落には至らず翌10日に武田軍は鉢形城の攻撃に移った。しかしその後も武田軍に御嶽城を攻められ、翌元亀元年(1570年)65日に政実は降伏し、武田氏に従属する。
 
武田氏に従属した政実は、長井名字と豊前守の官途を与えられ、「長井豊前守政実」を名乗ったようだ。そして従来と同じく御嶽城の安堵を認められ、引き続き御嶽城主となる。
 天正10年(15823月に武田氏が甲州征伐により滅亡、武田氏滅亡後の政実は越後に逃れ、上杉景勝の家臣となっていた藤田信吉を頼ったと伝えられているが、その後の足取りははっきりとしていない。
 但し子の昌繁は小田原征伐後徳川氏に仕え、上総国で所領を与えられている。
        
        社殿手前右側に設置されている「八幡神社改築記念碑」と石碑
                  八幡神社改築記念碑
                            記

                永禄年間当時御嶽城主長井氏の勧請と伝へられる
               当社も創設以来幾度かの改修によって社の尊厳を保
               ってきた。近年に至り社屋のいたみがひどく此度氏
               子の賛同を得て大改築を行う事になった。此の改築
               に当っては神社の基本財産より三百万円支出の他左
               記の方々おり多額の寄附を仰いで之を完成した
                 昭和五十三年十月十五日 
八幡神社改築委員会
 
                神楽殿            境内に祀られている境内社。詳細不明。
       
             境内には幾多の巨木・老木が聳え立つ。
        
                                   境内の一風景
              落ち着いた雰囲気の静かな社である。
 境内に落ち始めた落ち葉が初秋を感じさせてくれ、厳かな中にも神妙な気持ちにさせて頂いた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「神川町HP」「日本歴史地名大系 Wikipedia
    「境内案内板・改修記念碑文」等

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