古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

江和井東光神社及び高尾新田照稲神社

江和井東光神社】
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町江和井7871
             
・ご祭神 素盞嗚尊 天照大御神
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 夏祭 715日前の土・日曜日 新嘗祭 11月23日
 飯島新田稲荷神社から埼玉県道33号東松山桶川線を荒川方向に進み、「荒井橋(西)」交差点を左折する。交差点を左折後450m程北上すると
江和井東光神社の鳥居と境内が見えてくる。
江和井東光神社及び高尾新田照稲神社の参拝日は2023年2月19日。
        
                  江和井東光神社正面
 当社が鎮座する吉見町江和井地域は、明治8年に江川新田・大和屋新田・新井(荒井)新田の3村合併した。その時各村から1字ずつ取って地域名を「江和井」と命名したという。
 この周辺地域は嘗て「六ヵ新田」と呼ばれ、「江川新田・大和屋新田・新井(荒井)新田・高尾新田・須野子新田・蓮沼新田」とに分かれていて、江戸時代を通じて幕府直轄領(御料所もしくは御領)であったと思われる。というのも、困難を極めた「荒川の西遷」開発事業が、寛永十一年(1634)に完了し、河川改修の後は、次第に開発が進み、相次いで開発されたためだ。この幕府直営の新田開発は年貢量の増大のため直轄領の拡充を意図したものであった。
 但しこの「六ヵ新田」はその名前通り新たにできた耕作地であるため、「吉見領囲堤」の堤の外地に位置していた。現在の吉見町や川島町域の大部分は荒川流域の荒川低地に属し田園地帯となっているため、洪水対策で築造された「囲堤」があろうがなかろうが、洪水常襲地帯としての運命を背負って現在に至っていて、この地域相互の治水出入りも数多くあり、その歴史はそのまま荒川の治水の歴史であるといわれている。

    木製で白を基調とした鳥居            南北に広がる参道
  境内には案内板等はなく、また創建時期等資料等確認しても詳しい内容のものはなし。そこで、
『日本歴史地名大系』にて、「大和屋新田」「江川新田」「新井(荒井)新田」に関して調べてみた。
『日本歴史地名大系』 「大和屋新田」の解説
 [現在地名]吉見町江和井
 高尾(たかお)新田の南に位置し、南は江川(えがわ)新田。いわゆる六ヵ新田の一で、大和屋助左衛門という町人による開墾という(風土記稿)。元禄郷帳に新田名がみえ、高一三二石余。江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(国立史料館本元禄郷帳など)。「風土記稿」によると家数二四、村内はみな畑地で、鎮守は太神宮
『日本歴史地名大系』 「江川新田」の解説
 [現在地名]吉見町江和井
 大和屋(やまとや)新田の南に位置し、南は新井(あらい)新田。六ヵ新田の一で、大里郡江川村(現熊谷市)の新兵衛なる者が開墾、新田名もこのことに由来するという(「風土記稿」など)。元禄郷帳では高一七〇石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領、以降同領で幕末に至ったと思われる(「郡村誌」など)。「風土記稿」によると家数二六、村内すべて陸田、鎮守は稲荷社、地内に薬師堂がある
新井(荒井)新田」に関しての説明はなし。
        
                  塚上に鎮座する拝殿
「江川新田」の解説における「大里郡江川村(現熊谷市)の新兵衛なる者が開墾、新田名もこのことに由来する」との記載があり、この大里郡江川村は現在熊谷市久下地域内にあたるという。
 また「大和屋新田」には「太神宮」が村内の鎮守で村持ちと記載され、「江川新田」には「稲荷社」が村内の鎮守で村持ちとなっている。因みに新井(荒井)新田には鎮守社は掲載されていない。「江和井」という地域名は3村が合併し、各村から1字ずつ取って命名したということからも、東光神社のご祭神は当然各村の祭神が当てられていると考えられる。「太神宮」ならば「天照大御神」「稲荷社」は「倉稲魂命」が祀られているだろうが、「素盞嗚尊」はどうであろうか。
 
  拝殿手前の石段右側にある石碑と燈篭       拝殿左側に祀られている境内社
                             稲荷社であろうか。
       
                                     参道の一風景


高尾新田照稲神社】
        
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町高尾新田154
             ・ご祭神 素盞嗚尊 倉稻魂命 國常立尊
             ・社 格 旧高尾新田村鎮守
             ・例祭等 例祭  725日 新嘗祭 11月25日
 江和井東光神社の西側に接する南北に通じる道路をそのまま北上、1㎞程進むと左手に高尾新田照稲神社が見えてくる。
 旧高尾新田村鎮守、「高尾新田」の地域名由来として、高尾の新井門太郎が開墾したと伝わる。河岸場のあった高尾から独立したという。
*現在江和井東光神社と高尾新田照稲神社は北本高尾氷川神社の兼務社となっている。
        
                 高尾新田照稲神社正面
この社にも案内板や、資料等はない。江和井東光神社同様に『日本歴史地名大系』にて「高尾新田」「蓮沼新田」についての解説を載せたい。因みに「須野子新田」に関しては解説はない。
『日本歴史地名大系』 「高尾新田」の解説
 [現在地名]吉見町高尾新田
 蓮沼(はすぬま)新田の南、荒川右岸に位置する。六ヵ新田の一。「郡村誌」などによると当村は、足立郡高尾(たかお)村(現北本市)の新井治郎左衛門(「風土記稿」によると荒井門太郎)が開墾、その後、新井家より分家を出し、しだいに一村をなしたとされる
『日本歴史地名大系 』「蓮沼新田」の解説
 [現在地名]吉見町蓮沼新田
 荒川の大囲堤(現文覚排水路)を挟んで蚊斗谷(かばかりや)村の東、荒川右岸の低地に位置する。南は高尾新田。同新田のさらに南に展開する須野子(すのこ)・大和屋・江川・荒井の各新田および当新田・高尾新田は「荒川ニソヒシ空閑の地」をしだいに開拓して成立した新田で、各新田の地形が入会、田地相交錯していたため「各村ヲ以テ広狭及四隣ノ村々等ハ弁シ難」かった。これら新田の開墾の年代はつまびらかではないが、寛文一二年(一六七二)に幕府代官中川八郎左衛門の検地があったといわれている。また「六村ヲ合セテ六ケ新田ト唱ヘ」「公務以下スヘテ一村ノ如シ」であった(以上「風土記稿」)。当新田は蓮沼徳兵衛が開墾、地名はこれによる
       
            参道左側に聳え立つ立派な巨木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 明治四十年十二月二十二日、須野子新田の「大神社」と蓮沼新田の「稲荷神社」を当地高尾新田の氷川神社に合祀することになり、遷座の後、社名を照稲神社と改めたという。
『新編武蔵風土記稿』
「須野子新田村 大神宮八幡諏訪合社 當所の鎮守とす、村民持」
蓮沼新田村 聖天社 村の鎮守なり、村民の持」

須野子新田の大神社の祭神は、『新編武蔵風土記稿』には「大神宮八幡諏訪合社」とあるところから、本来は天照大神が祭神であったと思われ、照稲神社の社名は、この天照大神の「照」と稲荷神社の「稲」を採り、両者の名残としたものではないかと思われるが、この「稲荷神社」はどこの地域のご祭神をまつったのであろうか。
        
                                  参道からの風景
           近くには荒川の旧河川跡と堤防が眼前にみえる。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「北本高尾神社HP」
    「ふるさと吉見探究HP」等

拍手[2回]