古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

柴町八幡神社

 柴宿(しばしゅく)は、現在の群馬県伊勢崎市柴町にあった日光例幣使街道の宿場町。倉賀野宿から数えて3つ目で、「芝宿」と表記する場合もあった。
 現在の利根川は、川幅約500mだが、昔から流路が一定していたわけではない。旧流路と確認できるものでは、伊勢崎市街地を西から東に流れる広瀬川の川筋があり、江戸期・宝永2年(1705)以前には、柴宿南から戸谷塚・福島・富塚・長沼本郷・国領などの集落を北岸としての流路があった。
 しかし、この利根川は、たびたび洪水を起こすため新水路として、一部の水を現流路に沿い流した。この流路を三分川、前述の流路を七分川と呼んだ。しかし、天明3年(1783)の浅間山大噴火により七分川には、 水が流れぬようになり、三分川が主流となった。今でも柴宿西岸に小さな段丘崖を確認することができ、南には旧流路(七分川)であった低湿地が帯状にみられる。江戸中期項まで柴宿は、現地点より南方200300 mにあった。このため柴宿は、たびたび洪水に見舞れたのであろう。享保年間(171635)に、その地点より標高の高い今の地域に、村内の有力者たちが町割りを計画的に作りはじめ、その後の洪水で移ったという。今でもこの地域のいたるところに浅間山の溶岩と思われるものが見られ、浅間大噴火の規模の大きさが想像されよう。
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市柴町693
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 節分祭 23日 八十八夜祭 52日(閏年では51日)
 中町雷電神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を北西方向に800m程進み、利根川に架かる五料橋の手前にある「柴町」交差点の手前の路地を右折すると、進行方向正面に柴町八幡神社の鳥居、及び社殿が見えてくる。地図を確認すると、利根川左岸で標高58m程の低地帯にあり、旧日光例幣使街道の柴宿に位置している。社の境内に隣接するようにある「柴町農事組合協同作業所」に駐車可能なスペースがあるので、そこの一角をお借りしてから参拝を行う。
        
                 柴町八幡神社正面鳥居
                     参道の両側には庚申塔が境内付近まで続く。
『日本歴史地名大系』 「柴町」の解説
 利根川左岸沖積低地にある。芝とも記す。北は東上之宮村・阿弥大寺(あみだいじ)村、東は中町、南は戸屋塚村、西は小泉村(現佐波郡玉村町)。もと北今井村・中町と一村。日光例幣使街道が通り、宿として賑った。「寛文朱印留」に北今井柴村とみえ、前橋藩領。寛文郷帳では北今井村・中町分も含み田方六六五石余・畑方八七五石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば、宝永七年(一七一〇)までの新田高七二石余。天保二年の反別六三町九反余、うち田方二四町四反余・畑方四一町四反余。年貢は米七二石余・永四九貫四二一文・大豆一四石・麦一四石を納めた。家数一〇三、男二二七・女二一〇。安永四年(一七七五)の市売紛争裁許請書(関文書)によると、煙草市が立ち武蔵国方面からも買付商人が集まり、沼田・前橋周辺の商人と盛んに取引が行われ、伊勢崎町の市場と対立、訴訟に及んでいる。
        
               鳥居を過ぎた先の参道の様子
  現在でも参道から境内地に至るまで嘗ての日光例幣使街道の発展の名残をとどめている。 
        
     参道を更に進むと神橋がポツンと見え、その右手には趣のある手水舎がある。
       
            参道を挟んで手水舎の向かい側にある「日露戦没碑」。
  石碑の足元には、天明3年(1783)浅間山噴火の際の溶岩塊がここにも残されている。
        
「日露戦没碑」の先にある境内社や「伊勢崎市指定重要文化財 柴町八幡神社社殿」の案内板
 伊勢崎市指定重要文化財 柴町八幡神社社殿
 平成十六年十一月三十日指定
 柴町八幡神社は、拝殿・幣殿・本殿からなる権現造の建築様式である。
 本殿は正面九尺の一間社流造で、建築は棟札から享保十年(1725)まで遡り、虹梁の絵様や蟇股の細部意匠はさらに古式を示し、拝殿にある延宝七年(1679)の扁額まで遡る可能性がある。
 拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造の建物で、天井画は鈴木不求・春山・松山の三代にわたる伊勢崎藩絵師が描く。
 本殿内に鎮座する内宮は、切妻造柿葺きの宮殿で保存状態は良く、享保十年の本殿修理頃の制作と考えられる。
 この神社は十八世紀初期の伊勢崎地方の近世社寺建築の優れた指標を示し、社地は参道を含め、旧日光例幣使道柴宿の歴史的景観の名残をとどめる。
                                      案内板より引用

       
                    拝 殿 
 柴町八幡神社は源賴義が奥州征伐の途中に柴村で休息された際、八旗の森という地名に因み八幡大臣へ戦勝を祈願した。その帰途に世子八幡太郎義家と共に康平6年(1063)社殿を造営し、八大臣を山城国(現京都府)男山石清水から勧請奉斎し、社領10石を寄進されたのを起源とする。翌年8月中御冷泉院御辰筆「八幡大神」の神号額を賜ったが、元亀年間(15701573)に兵火のため焼失。慶長18年(1613)前橋藩主酒井雅楽頭忠世により再建され、更にその世子忠行が大阪の陣で戦功をあげ益々修理が加えられた。その後伊勢崎藩主酒井氏により社殿の営繕がなされた。明治40年(1907)、菅原神社、琴平神社、秋葉神社、水神神社、火雷神社を合祀、柴根神社と称したが大正6年(1917)、旧に復し八幡神社とし、現在に至る。また明治4年(1871)、近隣に式台社が多く、郷社格のところ村社となっている。
 文化財指定 柴町八幡神社社殿(市重文 平成1611月) 

向拝部・木鼻部には精巧な彫刻が施されている。 由緒書きが奉納、ほとんど読み取れなかった。

 拝殿には、正面3間、側面2間の入母屋造鉄板瓦葺平入で正面に1間の向拝を建てる。三方に切目縁を廻し板脇障子を建てる。正面に千鳥破風、向拝に軒唐破風を付ける。虹梁の絵様は装飾が進み眉の彫は深く、海老虹梁は反り段差をつけて架けられている。向拝手挟、木鼻、軒唐破風の彫刻は丸彫、透し彫などで精巧に彫られている。蟇股は足が長く反らず、内部の彫刻は板よりはみ出ている。以上の特徴から建造年は本殿より後の18世紀後期の様式を表しており、その頃の棟札には安永7年(1778)と寛政9年(1797)棟札が残されている。
       
                    本 殿
 本殿の平面は一間社流造で1間の向拝を持ち、四方切目縁に板脇障子を立て、比較的中規模である。当初は檜皮葺であったが大正10年(1921)銅板葺きに、昭和62年(1987)に鉄板瓦に改修されている。また本殿内部には小規模な宮殿が置かれている。
 建造年を直接記すものはないが、享保10年(1725)遷宮の棟札により、17世紀末~18世紀初期に建築されたものと考えられる。向拝や身舎正面の蟇股や虹梁の唐草様、海老虹梁がやや段差を付けて架けられていることからも推定できる。また、安永7年(1778)の棟札には再興とあり屋根と土台の入替を行っていて、大工棟梁の名に歓喜院聖天堂を手がけた武州の林兵庫の名が見られる。

  本殿左側奥に祀られている境内社・神明宮       神明宮の東側に祀られている末社・石祠群
       
             本殿右側に祀れている境内社・稲含神社 
 伊勢崎市柴町の街道北にある八幡宮には每年八十八夜の日に行う稲含祭りが残っている。中世この地を支配した那波氏の屋敷稲荷を、没落後放置されたままであったので泉龍寺が引きとって文久年間に稲含様として祭ったと言われている。明治元年の神仏分離令で泉龍寺から離れ、明治34年の合祠によって現在の八幡宮に祭られることになった。何年か前までは遠く県内はもとより関東一円からお札を受けにきたので足のふみ場もないほどの盛況であった。今でも境内から柴町の道路まで農器具や苗木商が立ちならび、近隣の村々からの農民でにぎわっている。ここのお札を買うと養蚕があたるとか、作物があたるとか言われている。
       
         稲含神社の右側並びには石祠群が祀られている。詳細不明。
       
                  境内にある神楽殿 
            神楽殿の左側には相撲用の土俵も確認できた。
        
                社殿から参道方向を撮影
 ところで、例幣使の派遣は幕藩的支配の安定の上で重要な役割を担っていたといえるが、この街道を本来の目的のためだけに使用するのは、季節限定された、わずか1ヶ月足らずのことであった。それでは他の期間は何のために利用されていたかといえば、当たり前の事ではあるが、沿道周辺の人々の 「生活道」であり、 商人たちの「経済道」であり、文人墨客らの通った「文化道」であったに違いない。
 そして、何よりも江戸中期以降の経済的繁栄に伴なう物資交流の活発化や庶民の遊山熱などを背景として、権力者の意図と違った意味あいの利用が目立つようになったという。


 参考資料「群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編」「日光例弊使街道HP」
     「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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