古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西和田春日神社

 筆者は日頃より、越生町の代表的な社は、その地名を冠した「越生神社」であると、勝手な思い込みをしていた。確かに、武蔵七党の児玉党の一族たる越生氏が高取山に居館を構えた際に、鎮守として文治年間(1185年〜1190年)に氏神として「琴平社」を創建したことに始まった越生神社の歴史は確かに深く、越生町を一望できる高取山の麓に鎮座しているという地形的にも絶妙な場所でもある。
 が、今回参拝した西和田春日神社は、古来より越生十六郷の総鎮守として崇敬されてきた越生町の代表的な社であるという。越生十六郷とは「上野村・今市村・如意村・黒岩村・和田村・大谷村・鹿下村・成瀬村・津久根村・大満村・黒山村・小杉村・堂山村・上谷村・箕和田村・竜ケ谷村」の諸村の総称で、この地域を束ねる社がこの社であった。
 春日神社の創建年代等は不詳ながら、延暦元年(782)の創建だと伝えられ、征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征伐の際に当地へ遷座し内裏大明神を祀り、平将門が当地に内裏を置いたといい、『新編武蔵風土記稿 和田村』の春日神社の記載では、左遷された藤原季綱(毛呂氏の先祖)が越生郷に幽棲、秩父郡高山の峯に放った光を内裡明神と称して祀ったともいう不思議な伝承が伝わる社でもある。
        
            
・所在地 埼玉県入間郡越生町西和田317
            
・ご祭神 天児屋根神 武甕槌神 斎主神 比売神 誉田分神
                 
木花咲耶比売神 菅原道真公 倉稲魂神 大己貴神
                 
太田神 大宮比売神 中筒男神 表筒男神 底筒男神
                 神功皇后 大日靈神(十六柱之神)
            
・社 格 旧越生十六郷総鎮守・旧村社
            ・例祭等 建国際 211日 祈年祭・勧学祭 43
                 例大祭 109日 新嘗祭 1123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9697946,139.2967487,17z?hl=ja&entry=ttu
 古池鹿嶋神社から埼玉県道30号飯能寄居線を越生町・街中方向に2㎞程南下し、「黒岩」交差点を左折する。越辺川を過ぎてJR八高線の踏切を越えるとすぐ左側に西和田春日神社が見えてくる。
 社はJR八高線に沿って南向きに鎮座。駐車スペースは、社の正面に対して道路の反対側に専用駐車場があり、そこに停めてから参拝を行った。
        
                 西和田春日神社正面
『入間郡誌』による「西和田村」の解説
 西和田は如意の西北に接せり。其如意と境を接せる辺、山吹と称する地名あり。或は言ふ。太田道灌の山吹里なりと。然るに道灌山吹の物語は史実として殆ど信ずるに足らず。従て道灌優美の心情を形容せる一伝説とのみ解すベし。然らば此地を以て其古跡なりとするも可、なさゞるも不可なき也。
 西和田地域は、嘗ての今市村の北東、越辺川左岸低地と岩殿丘陵上に位置している。江戸時代の田園簿に村名がみえ、田高一二八石余・畑高四五石余で、幕府領であった。寛文八年(一六六八)に検地があり(風土記稿)、元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳では高一五五石余、旗本稲生領。田畑用水は越辺川から引水した。
 春日神社は古くは内裡(だいり)明神とも称し、越生郷の鎮守であったと考えられている。
        
              鳥居を過ぎて参道の先にある隋神門
        造りが新しいからか、門の両側にある阿吽の隋神像は見えない。
        
          隋神門の右側手前に設置されている「春日神社略記」
 越生総社 春日神社略記
 由緒
 延曆元年(七八二年)創建
 内裏山獅子岩の傍に祭祀されたるを征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征伐の際、現在の地に遷し宮殿を築し内裏大明神を祀る。平将門が当地に内裏を置いたとされ、その後、延喜年中常陸大掾、平国香(將門の伯父)が修繕、松山城々主上田能登守の再建を経て、寛政十年四月内裏大明神を改称春日大明神改め、春日神社、越生十六郷総鎮守と定む。慶安三年将軍徳川家光より社領を賜う、明治四年上地令によりこれを奉還。
 猶、平安末期藤原季綱公、越生郷に居住し、阿諏訪山に遊猟せし時氏神秩父郡高山の峰に光を放ち、季綱公之を謹み拝し当社に祭ると伝承されている。
 内裏と称するは越生郷内、内裏宮常住、明応三年と有る、内裏の称累代社家石井氏の家号と同じくするもの也、昭和二十年以降国家の庇護を離れ氏子崇敬者皆様の基とし現在に至る。
 現在の社殿は今上陛下御大典(平成五年)の折改修されたものである。
 平成二十八年八月吉日 春日神社宮司記
                                      案内板より引用

 
隋神門を過ぎ、石段を登ると社殿が見えてくる。   石段を越えた右側奥に手水舎がある。
        
               拝殿の手前で右手にある神楽殿
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 和田村』
 春日社
 慶安二年社領五石の御朱印を賜ふ、天文十二年龍穏寺第七世僧良筠が書し緣起を閲るに、當社は昔藤原季綱と云人左遷せられ、此越生鄕に幽棲して、一日阿諏訪山に遊獵せしに、其氏の神はるばると慕ひ来り、秩父郡高山の峯に光をはなつ、これ則毛呂明神なり、季綱謹で拜し、やがて一體を二所に祝ひ祝り、當所に祭れるを内裡明神と稱せり、今按に此緣起の原本には、毛呂の先祖季綱を季綱親王と記せり又當國へ配流せられうと記せしは共に誤なり、季綱は毛呂太郎が名乗にて、【東鑑】にも此人のことをのす、殊に毛呂は藤原姓にて、皇別の家にも非ず、又當國は古より配流の例なし、緣起の妄なること知べし、されど内裡と稱することは舊きことにや、堂山村最勝寺の什物大般若經の櫃の裏書に、越生郷内裡宮常住也明應三年とあり、然るを慶安年中御朱印を賜んことを願し時、内裡の唱大内にふるる故書替しと云、又云此社は延暦元年村内願龍山と云所に鎭座せしを、永祿元年上田能登守今の地へ移せしと云、此説の如きは前の緣起と異なり例祭九月廿八日・廿九日の兩日、流鏑馬を修行す、此流鏑馬式の來由尋るに、近戸權現別當最勝寺古當社の別當職を兼し頃、當社の寶物大般若經を所望し、神職及氏子に請て最勝寺に送りし時、彼近戸權現の舊例に行はるる流鏑馬式と易しより、以來當社にて行ふと云ふ、されど今も社内に般若經二三巻あるは、そのかみ最勝寺へ移せし時、たまたま取道せしならん、此社今は今市・大谷・黒岩及び當村の鎭守となせり、
 攝社 太神宮 八幡社
 末社 八百萬神社 稻荷社 天神社
 神職 石井肥前 京都吉田家の配下なり、
 藤原季綱舊跡
 字内裡にあり、此地昔藤原季綱が配せられて謫居せし所なりと云、季綱後に横見郡吉見領御所村に移りしと云傳ふ、然に土人は季綱親王と號するは全く誤なるべし、配所と云も又うけがたき事前に辨ぜし如し、おもふに越生氏の祖、大納言藤原遠峯などの邸蹟などにや、

        
                    拝殿内部
 
   拝殿の左側に祀られている境内社     内裏大黒天社の隣には「古代祭祀遺蹟・虎石」
       内裏大黒天社          奥には注連縄で祀られたご神木らしき幹あり。
        
            拝殿の奥には本殿が独立して祀られている。
『入間郡誌』には、『新編武蔵風土記稿』に記されていない当社の解説があり、全文掲載する。
 春日神社
 大利にあり。宝永三年密僧天龍なるものゝ編せる記録によれば、社は延暦元年大和国春日大明神の分霊を祭りしものにして、内裏明神と称し、当時は大利山(願立山とも云ふ)上獅子岩の辺にありしを、大同元年阪上田村麿の今の処に移せるなりと。遽に信ずベからず。風土記に載する天文十二年龍穏七世良?
(竹冠に均)が記せし緑起に藤原季綱此地に左遷せられし時、其氏神慕ひ来りて、秩父高山の峯に光を放てり。之を毛呂明神となす。季綱依て二所に祀り、此社を内裡明神と称す。何れも採用すベからざる個処甚だ多しと雖、要するに毛呂氏の氏神にして、其古く此地に勧請せられたるを推知するに難からず。然れども毛呂臥龍山の飛来明神との関係明かならず。暫時一体二所分祀の説に従ふも不可ならず。内裡明神の称古くより行はれたり。永禄元年松山城主上田能登守再営、次で内裡明神の名を廃し、春日神社と称す。明治四十年大谷富士塚の浅間、天神、稲荷、同堀内の八幡、同房の神明、同仲ノ谷の住吉、西和田東尾崎の八坂等の諸社を合祀せり。
『入間郡誌』では、『風土記稿』にて表記されている「内裏(内裡)」に関して、その大元は「大利」であることを記している。この「大利」が何を根拠にしてこのような表記となったかの説明はない。この地域の小字も確認したが、『風土記稿』には残念ながら載っていなかった。
「内裏」(だいり)とは、基本的に古代都城の宮城における天皇の私的区域のことで、現在京都にある「京都御所」がこれに当たる。禁裏(きんり)・大内(おおうち)等の異称がある。
『新編武蔵風土記稿』に記載されている「春日社」の内容において、この地に嘗て「内裏(内裡)」があったという伝承に、『同風土記稿』の編集者たちも「緣起の妄なること」と記していながらも「内裡と稱することは舊きこと」と、その名称が古くからあったことについては、一定の理解を示している。これは『入間郡誌』の編者も同様である。

 由来不明の「内裏」の名称。その鍵を握るヒントは、武蔵国における修験霊山・霊場である「越生山本坊」ではないかと筆者は考える。
 越生山本坊は、越生町の黒山三瀧(男滝・女滝・天狗滝)及び熊野神社、本山派修験の道場であり、入間・比企・秩父三郡、常陸・越後(一部)の年行事職大先達であった。熊野神社は古くは「将門宮」と称し、平将門の13代目末裔との伝承が残る栄円により、関東の熊野霊場として応永五年(1398)に修験道場(越生山本坊)を開いたと伝えられていて、京都聖護院配下の本山派修験二十七先達の一つに数えられている。
 この山本坊栄円は「相馬掃部介時良」が本名であり、平将門の後裔といわれる相馬氏出身でもある。詳しくは「露梨子春日神社」参照。
     
            本殿の右手奥に聳え立つご神木(写真左・右)
        
                                社殿から眺める風景
 
 参拝が一通り終了し、帰路に向かう。帰路にも順路があるようで、隋神門から直接戻るのではなく、門手前で左側に進む道があり、隋神門の右側に祀られている境内社に向かう道を進む。そこには「若宮八幡宮」の石祠や、若宮八幡宮の右手には「藤原大納言遠峯・季綱邸蹟と平将門内裏蹟」の石碑もある。(写真右)
 西和田春日神社の正面にある鳥居から隋神門に向かう参道の右側には「西和田集会所・兼社務所」があり、そこには広い空間が確保されている。隋神門の右手にある「若宮八幡宮」や「石碑」の並びで、社務所の奥の角地には「天照皇大神」の掛け軸と共に幾多の境内社・石祠が祀られている。(同左)
             
   鳥居の手前でJR八高線の踏切近くに設置されている「春日神社の流鏑馬」の案内板
 春日神社の流鏑馬
 毎年十月九日のハツグンチ(初九日)に、大谷から「一の馬」、西和田から「二の馬」が出て、この直線道路に設けた馬場を騎馬が駆け抜けていた。幕末のころまでは、今市村(現大字越生)の「三の馬」も参加していた。
 当地の流鏑馬は、坂上田村麻呂が東征の折に奉納したのが起源で、長く途絶えていたのを戦国時代に松山城主の上田能登守が再興したと伝えられている。また、堂山の最勝寺に伝来していた流鏑馬と、春日神社が所蔵していた大般若経を交換したとの伝承もある。
 大谷と西和田、各々数十軒で組織するマトウ組(的組=流鏑馬組)が永く伝統を継承していた。 昭和三十四年(一九五九)を最後に大谷が退いてからは西和田だけで続けられていたが、昭和四十一年に台風で中止され、以来中断されたままになっている。
 平成二十七年三月  越生町教育委員会
                                      案内板より引用

        
               駐車場側から見た境内の風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「日本歴史地名大系」「越生町HP
    「Wikipedia」「境内案内板」等
      

拍手[2回]


越生神社

 越生町(おごせまち)は、埼玉県の西部にあって、入間郡の北西部、秩父山地の東麓に位置し、東は比企郡鳩山町、南東から南は毛呂山町、西は飯能市、北は比企郡ときがわ町に接しており、東西に9.5㎞、南北に7.9km、総面積40.39km2を有していて、人口 110292020。入間川支流越辺川の谷口集落として発展した町で、中心部は同川の河岸段丘上にある。
 当地は古くから仏教文化が栄え、如意(ねおい)観音寺の如意輪観音像、堂山最勝(どうやまさいしよう)寺の釈迦如来像、越生法恩寺の大日如来像など平安期の仏像が残り、中世は越生郷の中心地で、同郷を領した越生氏の本貫地でもある。関東三大梅林の
1つである越生梅林を有している。
『新編武蔵風土記稿 今市村』
「當村は越生郷十六村の本村にして、古くより市場となせし所なれば、越生の今市とも唱へ、又越生とのみも呼べり、現に寛永十年毛呂郷前久保村八幡へ、材木を賜りし時の記録に、市川孫左衛門御代官所越生村と書したれば、此頃はかく唱へしこと知らる、今市と改めし年代は詳ならざれど、正保の改めに高室喜三郎が御代官所今市町と出たれば、此以前より唱へしこと知らる、元禄年中の郷帳には町を改めて、今の如く今市村と記せり(中略)當所は相州及び八王子邊より上州へ通ふ往來の宿驛なり」
 中心地区の越生は越辺川の谷口集落で,鎌倉時代から既に市が開かれていたことから、嘗ては「今市村」との村名であったという。「今市村」は現越生町の南東部、大高取山の東麓の山裾で、越辺川右岸台地に立地し、古くから上野国と相模国を結ぶ街道上の要衝であった
        
             
・所在地 埼玉県入間郡越生町越生1015
             
・ご祭神 誉田別命 大山咋命 素盞嗚命 倉稲魂命
             
・社 挌 旧村社
             
・例祭等 越生まつり/神輿・山車 7月下旬
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9625121,139.2959214,17z?hl=ja&entry=ttu
 JR八高線越生駅西口から西側に南北に通る埼玉県道30号飯能寄居線を北上し、最初の丁字路を左折し250m程進み、突き当たりから正面に見える細い路地を道なりに進むと、越生神社が左手に見えてくる。
 社の創建年代は不詳としながらも、元来は武蔵七党の児玉党の一族たる越生氏が高取山に居館を構えた際に鎮守として文治年間(1185年〜1190年)に氏神として琴平社を創建したことに始まるという。その後、明治42年(1909年)に、近在の小社として旧越生村村社の八幡神社、日吉神社、八坂神社、旧黒岩村村社の八坂神社、他各地に点在していた稲荷社を合祀し、現在の形となったとの事だ。
        
                細い道沿いに建つ社号標柱
                 社号標の左手には庚申塔を始めとする石碑等が建っている。
 
    社号標柱付近にある一の鳥居      一の鳥居から参道を進むと二の鳥居が見える。
 越生氏は武蔵七党・児玉党の一派にして、有道姓、児玉惟行より出たと称し、鎌倉時代の始より戦国の頃まで存続した。その本拠地は今の越生神社(大字越生)の付近という。
『武蔵七党系図』
「有大夫弘行―河内権守家行、弟資行(入西)―有行(越生三郎、新大夫)―右馬允有弘―左馬允有高―藤内左衛門尉太郎有信―新馬允信高(弟三郎頼氏)―太郎左衛門尉弥太郎季信(弟二郎高綱)、有信の弟二郎兵衛尉有直―太郎長経―弥太郎経高、有直の弟民部丞有綱―太郎有茂(弟五郎有信)―又太郎信茂―弥太郎。右馬允有弘の弟別当二郎有頼―中務丞三郎頼季―右近将監頼員―右近将監頼清(弟四郎時景)、頼員の弟二郎左衛門尉頼高―太郎景高(弟二郎季高)、頼季の弟左馬允頼高―太郎親景―小太郎為長―弥太郎幸綱、親景の弟二郎光景―二郎太郎時景、左馬允頼高の弟刑部丞時光―時仲―五郎信員。別当二郎有頼の弟四郎有平―岡崎四郎二郎有基―有氏―又太郎経氏」
        
             木々に囲まれた厳かな雰囲気のある境内
 越生(おごせ)氏の祖としては、入西資行の四男である入西有行が、越生に居館を構えて越生新太夫を名乗ったとされている。
 因みに入西資行の長男・入西行成は浅羽氏、次男・入西遠弘は小代氏の祖となった。
 その後、越生館に入った越生有行の子には、越生有弘、越生有頼、越生有平の三兄弟がいて、越生有弘は越生氏を継ぎ、越生四郎有平の子・越生有年は鳴瀬氏(成瀬氏)とにり、越生有光は黒岩氏を、越生有基は岡崎氏へと分家したという。
        
       社は高取山麓の緩やかな斜面上に鎮座していて、石段上にある拝殿。
             この背後に越生氏の詰めの城とされる高取城跡のある高取山がある。
 明治421909、越生氏の氏神といわれる八幡社を中心に、越生市街地に点在していた神社を統合して高取山麓に造営された。社自体は決して古くはないが、越生氏が高取山に居館を構えた際の鎮守社として平安時代末期ごろに創建されたというその歴史が醸し出す雰囲気は十分に感じ取ることができた。
        
                    拝 殿
        
               境内に設置されている案内板
 越生神社と高取山城跡  越生町越生
 越生神社は明治四十二年(一九0九)に、神社合祀令を受けて、琴平神社に、旧越生村村社八幡神社、日吉神社、八坂神社、旧黒岩村村社の八坂神社、ほか市街地に点在していた稲荷社を合祀して造営された神社である。
 七月下旬に催される「越生まつり」は、牛頭天王を祀る八坂神社の祭典、祇園祭(天王様)の系譜を引いている。神社を出立した神輿が町内を渡御し、夕刻から曳行される六台の山車の上では、華やかな江戸天下祭の名残を今に伝えている。
 越生神社の奥宮がある高取山には中世の山城跡がある。標高約百七十mの頂上が平らに削られ、空堀と土塁で画された郭(曲輪)が数段残されている。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「越生四郎左衛門屋敷跡」と記されている。越生四郎左衛門は『太平記』に登場する、南朝の北畠顕家を討ち取った武将である。越生神社下方の平坦地付近と推定されている越生氏館背後の高取山に築かれた「物見砦」や「詰城」であった可能性がある。
 一方、現存する遺構は室町期後半から戦国期のものであり、太田道真・道灌父子と長尾景春の戦いを中心とした時期のものとみる見解もある。
 令和二年三月三十一日 越生町教育委員会
                                      案内板より引用
 
   拝殿手前で左側に鎮座する境内社・     拝殿の右側に鎮座する境内社・日吉神社
       稲荷神社
と石祠群

   拝殿手前にある越生神社神輿(三基)        越生神社神輿の案内板
 越生町指定文化財(民俗文化財・有形)
 越生神社神輿(三基) 平成二十三年九月二十八日指定
 越生神社神輿
 越生神社は大字越生の八幡神社、八坂神社、日吉神社、大字黒岩の八坂神社ほかの神社を当地の琴平神社に合祀して、明治四十二年(一九〇九)に造営された神社である。
 毎年七月の越生まつり(天王様)に渡御する三基の神輿のうち、本宮は越生の八坂神社、中宮(置宮)は黒岩の八坂神社で維持されてきたと伝えられている。本宮の台輪には八坂神社(祇園社)の社紋「祇園守紋」の餝金具が付けられている。若宮には八幡神社の社紋「三巴紋」が飾られており、元来、越生の八幡神社の神輿があったとことが推測される。中宮には両方の紋が配されている。
 制作年や製作者は不明であるが、合祀の前年に撮影された写真に二基の神輿が写っていることから、少なくとも百年以上の星霜を経ていると思われる。
令和四年三月 越生町教育委員会
                                      案内板より引用


        
                     一の鳥居の右手には、越生子ノ権現が祀られている。
 
    
越生子ノ権現の案内板が設置されている。     足腰の神様である事からか、
                           草鞋が供えられていた。
 越生子ノ権現
 飯能市の子ノ権現(天龍寺)は、足腰の病に験のある神仏として各地に勧請されている。越生に子ノ権現が祀られたのは古く、鎌倉時代以前と推測される。『法恩寺年譜』文治四年(一一八八)の条、越生一族・倉田孫四郎の妻・妙泉尼に関わる記事に「子権現」という言葉が出てくる。また大字上野との境には「子の神」という地名が残っている。
この地に社が建立された年代は不明であるが、文化四年(一八〇四)に、越生村の新井源四郎が再建したという記録が残る。
「ひじりだいごんげん」として越生の人々の信仰を受けていたが、越生神社の創建後はその境内に取り込まれ、その後には日吉神社に合祀され、社を失った。しかし、地元の熱意により、平成二十七年十月十八日、遷座祭を行い、旧観を取り戻した。
 平成二十八年三月 越生町教育委員会
                                      案内板より引用




参考資料「
武蔵七党系図」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

拍手[1回]


成瀬諏訪神社


        
              
・所在地 埼玉県入間郡越生町成瀬6731
              ・ご祭神 建御名方命 木花開耶姫命
              ・社 格 旧成瀬村鎮守・旧村社
              ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9769209,139.2857946,17z?hl=ja&entry=ttu
 津久根八幡神社から越辺川を越えて350m程北上すると、十字路となり、そこを左折、200m程道なりに進むと「弘法山観世音」の専用駐車場に達する。
 実は、古池鹿嶋神社から津久根八幡神社に向かう途中にこの十字路を通り過ぎてしまったわけであるが、津久根八幡神社を先に参拝したかったがためにこの成瀬諏訪神社が後になってしまった。理由は勿論あったが、それは後に説明する。
「弘法山観世音」の石段を越えて本殿に達するわけであるが、そこから右方向に進むと諏訪神社の看板と鳥居が見えてくる。
        
                                
弘法山観世音の石段
『日本歴史地名大系』 「成瀬村」の解説
 [現在地名]越生町成瀬
 大谷村の西、越辺川とその支流渋沢川に挟まれた緩丘地に立地。現東京都青梅市安楽寺蔵の大般若経巻一一六の奥書に、永和五年(一三七九)四月上旬「武州入西郡越生郷成瀬村」の住僧良察が書写したとある。田園簿では田高一六九石余・畑高三九石余、幕府領。

        
        石段の左側に設置されている「
弘法山と子育て観世音」の案内板
 弘法山と子育て観世音   越生町成瀬
 弘法山は、山頂に諏訪神社、中腹に観音堂、山麓に見正寺と、全山に信仰対象が置かれている。
山頂からの優れた眺望については、江戸幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』に「高房山図」の絵入りで掲載されている。「高さ五丁余りにて、四辺は松杉生ひ茂りて中腹に妙見寺あり。夫より頂までは殊に険阻の山なり。頂には浅間の祠を建て、祠辺よりの眺望最も打ち開けたり。先ず東の方は筑波の山を始めとして、比企、足立、江戸を打越して、遠く房総の山々を見渡し、南は八王子の辺までのあたりに見え、西は秩父ヶ岳及び比企郡笠山、乳首山など連り、北は三国峠より信州、越州の高山見えたり」と、海抜二百メート ル足らずの山について異例の紙幅を割いている。
 当地の小字名は「高房」で、弘法山も古くは「高房山」と記されていた。妙見寺は真言宗寺院であり、弘法大師空海に因んで「弘法」の字が充てられるようになったのであろう。
 現在、浅間社は山麓から遷座した諏訪神社に合祀されている。妙見寺は廃寺となったが、観音堂はのこされ、安産子育ての観音様として参拝者が絶えない。乳房をかたどった縫いぐるみを奉納する習俗は、民俗学的にも注目されている。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                  成瀬諏訪神社正面
 実はこの成瀬諏訪神社の所在地は事前にグーグルマップ等で確認していた。弘法山観世音から決まったルートがない山の中腹、ないしは山頂付近に鎮座していることも予想できた。となると、当然低山とはいえ、上り坂斜面への登頂参拝と予想でき、かなりの疲れが残ることも想像できた。そこで、まずは平地面の津久根八幡神社の参拝を終えてから、この社に赴こうと決めたわけである。
       
 弘法山観世音の標高が121m程で、弘法山頂が165mであるので、その標高差は僅か45m程であり、多少の疲れは覚悟していたはずであったが、思っていた以上に参道の山道は勾配がきつく(写真左)、また途中でいろは坂風なジグザグな山道もあり(同右)、正直登るのが大変であった。もうすぐ前期高齢者となる筆者には、自らの年齢を実感した低山道でもあり、無理は出来ないなあと痛切に感じた次第である。但し実際には5分程で登頂を終えている。
         
                             弘法山山頂の境内の様子
 この弘法山は古くは「高房山」と記されていて、妙顕寺(弘法山観世音を含む)は真言宗寺院であり、弘法大師空海に因んで「弘法」の字が充てられるようになったという。
『新編武蔵風土記稿 成瀬村』
・高房山
 小名高房の内なれば、直ちに名とせり、高さ五丁餘にて、四邊は松杉生ひ繁りて中腹に妙見寺あり夫より頂までは殊に險岨の山なり、頂には殘間の小祠を建、祠邊よりの眺望最打開けたり、先東の方は筑波の山を始として、比企・足立・江戸を打越て、遠く房總の山々を見渡し、南は八王子の邊までのあたりに見え、西は秩父ヵ嶽及比企郡笠山・乳首山など連り、北は三國峠より信州・越州の高山見えたり、
小名 鳥井戸
 昔村内高房山の殘間社の鳥井ありし地なれば、かくとなへりといひ、
・妙見寺
新義眞言宗、上野村醫王寺末、高房山と號す、小杉村天神社應永十二年の棟札の銘に、當社別當高房山禅海、開闢以来威光増益云々と見えたり、高房山は當寺のことならんには、舊き寺にて其頃は天神の別當たりしことしらる、本尊地藏を安ず、客殿の傍に鍾樓あり、明和元年鑄造の鐘をかけおけり、
觀音堂 如意輪觀音の坐像長二尺なるを安ず、弘法大師の彫刻なりと云、
        
                    拝 殿
 諏訪神社  越生町成瀬六七〇
 当社は鎮座地である成瀬のほぼ中央に位置する弘法山(一六六・一メートル)の山頂に奉斎されている。成瀬は古く鳴瀬とも書き、平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵七党児玉党の鳴瀬氏がこの地に館を構えていたと伝えられる。
 創建の年代は詳でないが、古くは新倉に鎮座していたものを、建久年間に成瀬右近太郎有年により宮路へ遷座したと伝える。(新倉、宮地ともに現在も小字名として残っている)
 明治五年に村社となり、同三九年には宮路から弘法山の山頂へ遷座し、そこに祀ってあった無格社浅間神社を本殿内に合祀した。この遷座の理由は、村社である当社を祀るには、村外れの宮路より、村の中央にあって、どこからでも仰ぎ見られる弘法山の頂の方がふさわしいとされたためで、その際、本殿は旧浅間神社の参道を一直線に引き上げられたが、拝殿と社務所は解体して運んだという。
 祭神は建御名方命で、浅間神社の合祀により木花開耶姫命を併せ祀る。また、一間社流造りの本殿内には、建御名方命が軍旅に帯びていたと伝えられる石棒が納められている。
 なお、宮路に鎮座していた当時、境内には樹齢千年以上といわれていた欅の大木があり、神木とされていたが、境内を移すに当たって伐採され、今はない。
                                  「埼玉の神社」より引用


 津久根八幡神社の獅子舞は、享保年間(171636)に、成瀬村(現大字成瀬)の諏訪神社の祭礼で行われていた獅子舞を、津久根村の操り人形芝居と交換して始められたと伝えられている。演目は初庭「七五三掛り」、中庭「四幕抱き」、終庭「花掛り」の3庭が継承されていて、一つの獅子頭を一人で被り、三人一組で舞う一人立三頭獅子といい、大獅子と中獅子の雄獅子2頭が、雌獅子を奪い合うという筋立てで舞い踊る形式だ。
 ということは、津久根村の操り人形芝居と交換する前は、この成瀬諏訪神社の祭礼で行われていた獅子舞であったということになろう。
        
         拝殿の右側に祀られている境内社・神明社 稲荷社 熊野社

 児玉党鳴瀬氏は武蔵七党・児玉党の一派で、越生氏からの分家筋である。「武蔵七党系図」によると、武士団児玉党の一族越生氏は、成瀬、黒岩、岡崎の三氏を興したという。
 成瀬(鳴瀬)氏は、児玉党一派越生氏の初祖越生有行の孫で長男の有年が興した一族で、次男は黒岩有光・三男は岡崎有基と、それぞれに地名由来の苗字を名乗った。
『武蔵七党系図』
「越生有行―四郎有平―鳴瀬右近太郎有年―太郎左衛門尉経季―太郎経長、弟二郎泰綱」
『新編武蔵風土記稿 成瀬村』
「當村古は成瀬氏の領せし地にや、當國七黨系圖を閱るに、兒玉黨越生有行の三男四郎有平の子、鳴瀬右近太郎有年と云もの見ゆ、彼系圖には年代を記さゞれど法恩寺年譜錄に載たる承元二年有平の兄、有弘が左馬允有高に地頭職を譲りしよし有にても、大抵其頃の人たりしこと知らる」
        
   弘法山から南方向(越生・毛呂山町方面)、西方向(越生梅林方面)の眺めが見事である。
               この眺めは西方向(越生梅林方面)
        
           
弘法山から南方向(越生・毛呂山町方面)からの展望
        但し登頂で体力が続かず、今回の社参拝はここで終了している。



参考資料「武蔵七党系図」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」
    「埼玉の神社」「弘法山観世音 掲示板」等
 
 

拍手[1回]


津久根八幡神社

 越生町津久根地域に鎮座する津久根八幡神社において、現存する最古の棟札があり「奉八幡宮建立国家安全之祈・正歴二辛卯年八月一五日」と平安中期の年紀があり、『明細帳』もこれを創建の年代と伝えている。一方、元文五年の『津久根開創記』には、棟札の年代よりもおよそ200年下った文治三年に当村草分け吉山家が正八幡宮を勧請した旨が記されている。
 この吉山氏は調べてみると、先祖は高句麗王族と高句麗国の人を祖先とする渡来系氏族である「高麗氏」の血統にも繋がっている。
〇吉山氏
日高市高麗神社々家の高麗系図に「22代高麗純丸(高麗大宮司、久安二年(1146)卒、母金子學女)。27代豊純(高麗大宮司、仁治三年(1242)卒)―女子(金子元正妻)」と、高麗氏正統の血統と比較的身近な近親者的な立ち位置に金子氏はあるようだ。またその金子氏の一派から吉山氏が輩出していて、この津久根地域に土着したという。
・八幡社所蔵の桜堂縁起
「吾祖、昔高麗国王に随て此土来。人王四十二代元明天皇御宇也。武州今之高麗郡之麓に居住し、星うつり兎てんじて、同国入間郡金子村住居せり二十代之孫葉住しと。其先平氏随ひ、元暦朝に至り頼朝に仕へ、金子十郎家忠戦功有、七十歳病死す。家忠嫡子与市家勝・文暦朝仕行年五十一歳にて弘安八年に北条相随て戦死す。同三郎勝正・生年二十三歳にて頓死、于時建長五年五月也。其嫡子左京亮貞成は行年八十歳にして暦応三年死去。其嫡子平五郎国忠に至り、将軍義持公、義量公二代に仕。源次郎友正・義教公仕。源次郎政時・義勝公に仕。十次郎政忠・将軍家二代仕。十次郎政信・義植公仕。十郎元忠・義輝公に仕。十郎忠次・義栄公義昭公に仕。代々将軍家に相随処、御当代に至り秩父郡大野原村へ蟄居いたし。十郎忠次・男子三人有り、嫡子七郎家次、二男権蔵元次、三男源五忠吉也。慶長十年いたり入間郡築根村にいたり、舎兄七郎家次へ吉・山氏姓、初政氏居住。二男権蔵元次・村田氏継。三男源五忠吉に岩田氏継・大満村住居」」
津久根開創記
吉山之先祖鎌倉浪人金子十郎家勝と申人、津久根切開く、其人む禰懸鰐口成之、鋳物之内に弥陀如来之鋳形有之。家勝次男吉山入道と申人、此弥陀如来世中安全為鎌倉八幡写正八幡宮奉勧請、文治三年八月に相違無御座候。尚亦別当高蔵寺之儀は天正元年・吉山開基に取立候。元文五年極月、津久根村惣百姓連判、名主吉山庄兵衛倅儀右衛門殿へ一通差上申候」

        
              
・所在地 埼玉県入間郡越生町津久根23
              
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 例大祭 10月第三土日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9758667,139.2851591,17z?hl=ja&entry=ttu
 古池鹿嶋神社から埼玉県道30号飯能寄居線を越生町方向に南下する。1㎞程先にある三つ又路地を右方向に曲がり、そこから400m程先にある越辺川を越えたすぐ左側に津久根八幡神社が見えてくる。越辺川を越える手前には「越辺川遊歩道 観光案内」と題した看板が設置されており、津久根地域を中心とした周辺地域の名所案内がある。その中に津久根八幡神社も記載されている。
 因みに津久根八幡神社は社務所や集会所等はなく、周辺にも適当な駐車スペースはない。そこで越辺川北側左岸に設置されている「越辺川遊歩道 観光案内」と題した看板付近に車を停めてから急ぎ参拝を開始した。
        
      社のすぐ北側で、越辺川左岸にある「越辺川遊歩道 観光案内」の看板
 津久根八幡神社 
 平安時代の創建と伝えられ、現在の本殿は天保
4年(1833)に再営されたものです。見事な彫刻は嶋村源蔵(しまむらげんぞう)によるもので、川越氷川神社や西東京市の田無(たなし)神社などで知られる。七代目の嶋村源蔵、俊表(しゅんぴょう)とみられます。
       
                               津久根八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「津久根村」の解説
 [現在地名]越生町津久根
 黒岩村の北、成瀬村の南、越辺川右岸の山間地に立地。天文一二年(一五四三)に記された長昌山龍穏寺境地因縁記(龍穏寺文書)に「今、築根村于在道灌屋敷」とみえ、太田道灌の屋敷があったという。田園簿に村名がみえ、田高一二石余・畑高四四石余、幕府領。寛文八年(一六六八)検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高八二石余。延享三年―天保三年(一七四六―一八三二)間は三卿の田安領(「田安領知村高記」葛生家文書など)。
       
         鳥居の左側にある社号標柱       鳥居を越えすぐ右側にある手水舎
                         石を台座にした何となく趣ある造り
        
           鳥居の右側に祀られている「猿田彦大神」の石碑
 石碑の下部にある穴が印象的で、おそらくは越辺川の川石を使用したと思われるが、とにかく珍しい形状である。
        
                     拝 殿
         拝殿上部・向拝、木鼻部には精巧な彫刻が施されている。

津久根八幡神社には越生町指定文化財である伝統芸能「八幡神社の獅子舞」が、毎年10月第三土曜日・日曜日に奉納されている。
 八幡神社の獅子舞 越生町指定文化財
 八幡神社の秋祭りに奉納される獅子舞は、もともとは成瀬の諏訪神社の祭礼で行われていたものを、江戸時代の享保年間(一七一六~三六)に、津久根の人形芝居と交換して始められたと伝えられている。
 笛の音と、四人の女子が務める花子が掻き鳴らす竹製の簓の伴奏で、大獅子と中獅子の雄獅子二頭が雌獅子を奪い合うという筋立で舞われる。「ささら」は獅子舞の通称ともなっており、その音から、花子のことを「ちゃっちゃこ」とも呼んでいる。
 笹葉の青竹に注連縄をかけて舞う初庭の「七五三掛り」、雄獅子同士が争う中庭の「四幕抱き(志満久多喜)」、和解した雄獅子が雌獅子とともに舞う終庭(後庭)の「花掛り」の三庭(幕)からなる。
 開催期日 十月第三土曜日・日曜日
                                      案内板より引用

 
           越生町指定文化財の八幡神社本殿(写真左・右)
 八幡神社本殿 越生町指定文化財
 当地、大字津久根字若宮に鎮座する八幡神社は平安時代中期の創建と伝えられている。
 当社の由緒を物語る歴史資料として、鎌倉時代の正嘉二年(一二五八)銘を持つ密教法具の金剛盤(町指定文化財)が伝存している。
 棟札の写しによると、現在の本殿は天保四年(一八三三)の再建で、大工は新座郡舘村(現志木市)の高野武兵衛を棟梁に、当地生まれの江戸浅草新堀の吉山定右衛門と和田村(現越生町西和田)の石井熊蔵が務めた。
 彫物を請け負った浅草茅町の嶋村源蔵は、川越氷川神社や西東京市の田無神社などで知られる、嶋村流七代目の源蔵俊表と思われる。浅草東本願寺前の石川藤吉(石川流二代目周信)も携わっている。「黄石公と張良」、「高砂」、「的慮に乗る劉備玄徳」などで飾られた社殿を、四隅の縁下で力神が支えている。
                                    境内案内板より引用 


   社殿左側に祀られている境内社覆堂      社殿右側に祀られている石祠と境内社
     祇園神社・天照大神が祀られている。   石祠は「御神犬」、中央は稲荷社、右は蚕影社
       
 境内に設置されている「八幡神社本殿 越生町指定文化財」(写真左)と「八幡神社の獅子舞 越生町指定文化財」(同右)の掲示板。

 
         津久根八幡神社のすぐ北側を流れる越辺川(写真左・右)
    この周辺地域の河川はどこも清流であり、心洗われるような心持ちとなった。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「埼玉の神社」
    Wikipedia」「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等

拍手[2回]


古池鹿嶋神社


        
             
・所在地 埼玉県入間郡越生町古池122
             
・ご祭神 武甕槌神
             
・社 格 旧古池村鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9886704,139.278032,16z?hl=ja&entry=ttu
 瀬戸元下雷電神社から一旦東行して、埼玉県道30号飯能寄居線に達した後右折し、同県道を1.6㎞程南下すると、進行方向右手に古池鹿嶋神社が見えてくる。但し県道からは目視できるが、正面の鳥居が道に面してなく、加えて道路に対して鳥居が横を向いている配置であるため、注意していないとそのまま通り過ぎてしまう恐れもある。まあ昔と違い、現在は車両にナビが標準装備されているのでその点は安心なのだが。
        
                         県道から南側に鎮座する古池鹿嶋神社
『日本歴史地名大系』 「古池村」の解説
 [現在地名]越生町古池
 鹿下(かのした)村の北西、越辺川支流の渋沢川上流域にある山間村。中世は入西郡越生郷の内。近世は比企郡に属した。地内に小字名田代があり、文安三年(一四四六)三月九日の吾那憲光寄進状写(武州文書)に「入西郡越生郷恒弘名之内田代村」とみえ、田代村内菊万在家の土貢八〇〇文と中嶋在家田畠土貢八〇〇文(計一貫六〇〇文)を吾那堀之内(あがなほりのうち)釈迦堂に寄進している。
        
             一の鳥居の先にある手水舎と社号標柱
 一の鳥居から手水舎辺りまでは真っ直ぐな参道だが、そこから左側方向に直角に曲がり、二の鳥居、社殿に向かう配置となっている。
        
                古池鹿嶋神社二の鳥居
 埼玉県入間郡越生町古池地域は、同町最北端に位置し、嘗て『新編武蔵風土記稿 古池村』において、「比企郡」に属していた。この地域名の由来として『同風土記稿』では、「土人の說に昔村内に大なる池ありし故に、村名となれり云」といい、地形から名付けられた地域名であったようだ。
       
                                     拝 殿 
 
     拝殿に掲げてある扁額          拝殿向拝部・木鼻部等の見事な彫刻
 
 古池鹿嶋神社の創建年代や由緒等は不明で、『新編武蔵風土記稿』においても「鹿嶋明神 村の守なり、昌寺持」としか記されていない。但し、社殿の左側には「要石」があり、この地域の伝承・伝説では、越生町古池地域には昔大きな池があり、大鰻(おおうなぎ)が住んでいて、鰻が暴れると地震が起こると言われた。村人は池に地震の神である鹿島様を祀り、要石を置いて鰻を鎮めたという(写真左・右)
 巨石群とご神木の間に「要石」と刻まれた標柱はあるのだが、どれが要石なのか、それともこの巨石全体で要石と為しているのかが全く分からなかった。
        
                                境内社・壱岐天手長男神社
       
          要石に隣接して聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)

『新編武蔵風土記稿 古池村』によると、古池村内には小名「田代」があり、比企郡古池村字田代と入間郡堂山村字田代河原(越生町)は昔一村にて古の村名であったという。
『新編武蔵風土記稿 古池村』
「小名 田代
 此処住昔は古池村と、自づから別村にてありしにや、入間郡堂山村最勝寺に藏する、文安三年吾那左衛門尉が、釋迦堂領寄附の文に、入西郡越生鄕、恒弘名之内田代村、菊間在家土貢八百文と見ゆ、又同寺の藏永錄三年、太田美濃守資正があたへし制札の末に、岩崎上殿分田代大間富澤山田分と載たり、是悉く此邊の地名にして、千代田記せしは全當所ならん、上殿と云は其地詳ならざれど、郡中大附村の小流に上殿川と云あれば、其邊を云しならん、餘はいづれも近村の地名、及び小名に殘りて今に在せり、されば文安の頃は、當所も左衛門尉憲光、永錄に至ては美濃守資正が領にして、田代の唱へ古きこと知らる」
『同風土記稿 堂山村』
「小名 田代河原
 東北の方にあり、下に載たる文安三年吾那憲光が出せし釋迦堂領寄進狀に武蔵國入西郡越生鄕恒弘名之内、田代村菊萬在家出貢八百文とあるは、恐くは當所のことにして、昔は村とも唱へしならん。又永錄三年太田美濃守資正が出せし制札にも見えたり」
             
                            一の鳥居からご神木を望む。

 室町・戦国時代の日本の医師。後世派医学の開祖であり、広く医聖と称され、曲直瀬道三・永田徳本等と並んで日本における中医学の中興の祖である「田代 三喜(たしろ さんき)」は、寛正6(1465)、田代兼綱の子として田代村(現在の越生町大字古池)に生まれたという。(川越誕生説もある)
 医業を志して、京都妙心寺や足利学校で学んだ後、23才で明に留学して12年後に帰国した。永正6(1509)からは、下総(茨城県)の古河公方・足利政氏の侍医を勤め「古河の三喜」とよばれ、関東一円を往来して庶民の治療にも尽くした人物である。
        
                   社の一風景
 ところで、越生町には「一里飴」と呼ばれる原材料に砂糖、水飴、蜂蜜のみでできた昔懐かしい味がするご当地飴がある。越生にある住吉屋製菓が製造しており、昔はテレビCMもやっていたようだ。一里飴の名称は、幕末から明治前期の国学者である権田直助が命名したと言われており、権田が尊王攘夷運動の志士として江戸と京を往来する際にはこの飴を携えていたとされ、日本橋から高輪大木戸までの約一里の距離を歩く間、溶け切らずに味わい続けられたと言われたことに由来している。
 この一里飴は田代三喜が創製した医薬飴がルーツとされ、当時は越生梅林で採れた梅の蜜を原料とした医薬飴であったという。現在行田市の十万石まんじゅう、熊谷市の五家宝などと並ぶ埼玉銘菓の一つであり、彩の国優良ブランド品に指定されている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「Wikipedia」等


  

拍手[1回]


        
  • 1
  • 2
  • 3