古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

前砂氷川社


        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市前砂656
             
・ご祭神 素戔嗚尊 稲田姫尊
             
・社 格 旧前砂村鎮守 旧村社
             
・例 祭 春祭り 224日 例大祭 79日 秋祭り 1123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0948433,139.4606188,17z?hl=ja&entry=ttu
 前砂氷川社は旧吹上町の市街地から東側端部に位置し、一面田園風景が広がる中に静かに鎮座する、正に地域の「鎮守様」である。JR吹上駅(南口)からのルートでは、駅前ロータリーから駅南口通りを南下し、最初の交差点を左折、「花みずき通り」を線路に沿って東方向に進む。その後コスモス通りと交わる十字路を直進、その後旧中山道である埼玉県道365号鎌塚鴻巣線に路線名は変更となるが、そのまま道なりに直進すると、吹上町南部の地域道である「富士見通り」に合流する「前砂」交差点に到着する。この交差点を右折し、荒川の土手方向に進み、2本目の十字路を左折し、突き当たりを再度左折すると前砂氷川社の鳥居がある場所に到着できる。
 
社の東側隣には「前砂町内会館」があり、そこの駐車場の一角に車を停めてから参拝を行う。
        
                                 
前砂氷川社正面
 鴻巣市「前砂」地域は元荒川右岸の自然堤防上に位置している。北側は元荒川の旧河道跡地を公園化した「水辺公園」がその境となり、東側においてJR高崎線以北では元荒川が、西側から南側にかけては荒川(現在は元荒川)の嘗ての流路跡を改修した「足立北部排水路」がその地域境となっている。およそ南北約1.7㎞、東西で長くても約900mのややひょうたん型を変形した地域であり、河川、またはその河川跡を利用した排水路がその四方の境を形成する地域である。

 この地域は北部と南部では地域の特徴が異なり、北部、特に旧中山道である埼玉県道365号線以北では、住宅地や商業施設・工場が多くあるのに対して、県道から離れた南部は農村地帯であり、一面の田園風景が広がる。また荒川の土手もすぐ南側に目視できる長閑な場所でもある。 
   寛文九年(1669)銘が刻まれている鳥居          参 道
        
         参道の両側にある石灯篭の右手前に設置されている案内板。
 氷川社 御由緒 吹上町前砂六五六
 □御縁起(歴史)
 当地は元荒川右岸の自然堤防上に位置する。慶長十二年(一六〇七)には「足立郡箕田内前砂村御検地水帳」(江原家文書)が作成されており、村の開発は江戸時代以前にさかのぼると思われる。
当社の創建は詳らかではないが、境内には「江原又左衛門惣氏子」と刻まれた寛文九年(一六六九)の石鳥居があり、このころ既に前砂村の鎮守であったことが知られる。恐らく、当社は村の開発と前後して当地に勧請されたと思われる。ちなみに、江原又左衛門は当村の名主を累代務めた家柄で、現在の江尻家がその後裔に当たるという。
『風土記稿』前砂村の項には「氷川社 村の鎮守なり、宝蔵院持、 末社 神明熊野天神合社 稲荷客人諏訪合社」と記されている。また、宝蔵院は、同蓄によると、真言宗箕田村(現鴻巣市)の龍珠院の末寺で、氷川山と号したという。開基・開山などは不詳であるが、当社の北一〇〇メートルほどの所にあるその跡地(明治四年に廃寺)には観音堂や元禄八年(一六九五)をはじめとする法印墓石八基などがある。
 当社は、明治初年に別当の宝蔵院から離れ、明治六年に村社となった。祭神は素戔嗚尊と稲田姫尊の二柱である。また、当社の祭神は、白が嫌いなので氏子内に白塗りの壁もないし、白い鶏を飼ってもいけなかったという。
 □御祭神
 ・素戔嗚尊・稲田姫尊
                                      案内板より引用


 行田史譚に「前砂村、寛永年中(16241644)名主江原又左衛門、享保六年(1722)名主江原又左衛門、天保元年名主江原又左衛門」。氷川社延宝六年(1678)御神燈に江原又左衛門」と記載があり、案内板での石川家が前砂氷川社の創建に関わっているのも疑いないようにも思える。
        
                     拝 殿
 
 社殿左側に鎮座する境内社・天神神明熊野合殿。      社殿右側に祀られている境内社・合殿。
                       「新編武蔵風土記稿」に書かれている「稲荷
                            客人諏訪合社」であろうか。
 
         馬頭観音と稲荷大明神、塞神                 境内社・三峰神社
 

 前砂地域は明用地域に鎮座する三嶋神社の西側に隣接する。嘗て荒川は瀬替え以前、元荒川と繋がっていた時期があり、その時期が56世紀にあたり、この明用三島神社古墳は、大河川が結節する地点を監視できる場所に本拠地を構築し、川関所を兼ねた津を経営する権力・能力によって力を蓄えた首長の墓であった可能性が高い見解もある。
        
                 拝殿から参道方向を撮影。参道の先には荒川の土手が広がる。

 最近の調査では元荒川が吹上町市街地の東南方面、前砂地域から明用を経て三丁免小谷へとS字カーブを描くように蛇行し(現在の足立北部排水路)、最終的には荒川に流入する古い蛇行河跡があることが分かったという。その流路跡は自然堤防も伴ったのだろうが、不思議と現在も道路として一部改修されている。

 我々が普段何気なく使用している道でも、律令時代以前の古代にまでその淵源を遡るものもある。今回の社参拝には直接関係ない事項ではあるが、この地域の歴史の一片を知ることができたことは、大変有意義であったと心からそう思う。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」
                             

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