古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

明用三島神社

明用三島神社が鎮座する地域は嘗て吹上町と呼ばれ、日本の埼玉県北足立郡にあった町であり、2005年(平成17年)101日、北埼玉郡川里町とともに鴻巣市に編入され、市域の一部となった。
 中山道の熊谷宿・鴻巣宿間があまりにも遠距離であったため、ちょうど中間地点に位置していた吹上村が非公式の休憩所である間の宿として発展し始め、それがまた、城下町・忍(現・行田市)に向かう日光脇往還の設置に当たっては正式な宿場の一つ・吹上宿として認められることとなり、重要な中継地としていっそうの繁栄の契機となった。
 「吹上」という地名の由来は古くから諸説があり、確定的なものは無い。当地の上空で東京湾から吹いてくる海風と、北部山脈の赤城山などから吹き降ろしてくる赤城おろしがぶつかる境界であることから名づけられたとの説があるものの、あくまで一学説である。
 所在地 鴻巣市明用123
 ご祭神 事代主命
 社 格 旧村社
 例 祭 夏祭り714日 秋祭り1126
        
 明用三島神社は旧吹上町の住宅地東端にあり、すこし離れると長閑な田園風景が拡がる。国道17号を鴻巣方向に進み、吹上団地入口交差点を右折、踏切を越えてすぐの十字路を左折し、埼玉県道365号線前砂交差点手前の細い十字路を右折すると右側に三島神社の鳥居が見える。地形上では元荒川と荒川が分流する自然堤防上に位置している。
 バスを利用するのであれば鴻巣市のコミュニティバス(フラワー号)・中仙道コースを吹上駅南口(下り)より出発して、前砂(上)停留場で下車。一旦吹上団地方向に戻り、上記の細い交差点を左折すると神社に到着する。但しこのコミュニティバス・吹上駅南口からの下りコースは3時間ごとに運行されているため、事前に時間帯の確認は必要だ。コミュニティバスには田間宮コースもあり、こちらならば北鴻巣駅南口からの出発で、こちらは1時間30分毎の運行となり、待ち時間は半分となるが、停車口である龍昌寺から前砂交差点方向に10分弱程歩かねばならない。
 駐車スペースは参道内に社務所があり、そこに車を停めて参拝を行った。
        
       
        道路沿いに建つ社号標          社号標の先に鳥居が立つ
                        
神額には「三嶌大神」と揮毫されている
 明用三島神社の創建年代等は不詳ながら、明用を(万治31660年に)開発した鶴間氏がかつては祭主を務めてきたと伝えられることから、鶴間氏が当地を開発した際に勧請したのではないかと言われる。江戸期には村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、明治40年三丁免三島神社(及び境内社)などを合祀している。
  
   社殿階段左側にある三島神社の由来案内板     社殿手前右側に鎮座する境内
 
                              三丁免三島神社
 三島神社 御由緒  鴻巣市明用一二三
 □御縁起(歴史)
 当地は荒川左岸の低地に位置する。元荒川の自然堤防上に集落があり、その西方の低湿地に水田が広がる。『風土記稿』によると、当村は鶴間氏の開墾した村で、古くは鶴間村と称し、当初は三丁免村も含んでいたが、元禄十二年(一六九九)に分村したという。鶴間家は累代当地の名主を務めた家柄である。
 当社は「三島神社古墳」と呼ばれる古墳上に鎮まる。この古墳は町内で最大規模の古墳で、全長五五メートル、後円部径三〇メートルの前方後円墳である。石室は破壊されており、拝殿前などに敷石として利用されている緑泥片岩がこの石室の石材と思われる。
 当社は、『明細帳』に「創立不明 同村鶴間弥五右衛門祭主ト古老ノ伝有(以下略)」と載る。恐らく、村の開発に携わった鶴間家により当社は勧請され、以後同家が代々祭主を務めたのであろう。当社は鶴間家から北東二〇〇メートルの位置にあり、同家の鬼門除けとして祀られたとも考えられる。
 『風土記稿』には、地内の真言宗観音寺が当社の別当であったと記される。同寺は、三島山明星院と号し、箕田村竜珠院の末寺であったが、開基の年代は不詳である。
 明治に入り観音寺の管理下から離れた当社は、明治六年に明用村の村社となり、同二十七年に本殿を改築した。
 その後、明治四十一年八月十六日、三丁免村の村社と合祀になり現在に至る。尚、三丁免の村社には、天満社・八坂社・稲荷社・三峯社・還護社・筧社が祀られていた。
 □御祭神と御神徳 
 ・事代主命・・・商売繁盛、家庭円満、病気平癒
 □御祭日
 ・元旦祭(一月一日)   ・祈年祭(二月第三日曜日)
 ・夏祭り(七月第二土曜日)・秋祭り(十一月二十三日)           案内板より引用
        
                  階段の先にある拝殿


新編武蔵風土記稿による明用三島神社の由緒
(明用村)
 明用村は村民鶴間氏の開墾せし所にて、古は鶴間村と稱せしを何の頃よりか今の如く改めし と、又昔は三町免村も當村にこもりて一村なりしといへり、其地は箕田郷に屬し、(以下省略)
 三島社
 古塚の上に鎮座す、塚の高一丈餘ばかり、六七間にて横に長し、社に向て左の方に長九尺、幅五尺餘の石片面あらはれてあり、昔村民此石を堀出さんとなせしかば、忽ち祟りを蒙むりしとて、其後は恐れて手を觸る者なしと云、按に此塚は古代墳墓にして、顯れし石は全く石と見えたり、おもふに下總國那須郡國造塚の類にして、郡司などいふものゝ葬地なるべし、又近郷箕田村の古塚も是と同じ形なり、
末社。天王社、稲荷社、天満宮

 因みに明用三島神社古墳に関しては後日解説する。

 明用三島神社に参拝中不思議に感じたことがある。本来三島神社のご祭神は「大山祇神」であるはずなのに、この社では「事代主神」という。帰宅後調べてみると次のような結論となった。(引用Wikipedia)
三島神社の総本社は伊予の大山祇神社(大三島神社)と伊豆の三嶋大社であり、全国に400社余り存在し、伊予の大山祇神社を総本社とする大山祇・山祇神社(全国に900社前後)と併せ、「大山祇・三島信仰」と総称されることもある。
 三島大明神の本体はというと、多くの三島神社が大山祇神としている。大山祇神社については、延喜式神名帳でも大山積神社の名で記載されており、祭神が大山祇神であることは確実視される。13世紀の『釈日本紀』に引用される『伊予国風土記』(逸文)にも「御嶋(三島)に座す神は大山積神」という記述がある。三嶋大社についても前述の『東関紀行』や『源平盛衰記』『神道集』のほか、『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』なども大山祇神としている。
 同時に賀茂氏との関係も示唆され、事代主神を祭る三島神社も多い。室町時代の『二十二社本縁』に「伊豆の三島神(現:三嶋大社)は都波八重事代主神で、伊予の三島神(現:大山祇神社)と同じ」という記述がある。三嶋大社は江戸時代以前では主祭神を大山祇神としていたが、明治に国学者の支持を受けたことから主祭神を事代主神に変更し、昭和に再度大山祇神説が浮上すると、大山祇神・事代主神二神同座に改めている。これを受けて、一部の三島神社は事代主神単独、または事代主神を併せて祭っている。
  
     
境内社琴平・八坂・天神合殿          境内社道祖神・稲荷社か
              これらは社殿の左側に鎮座している。
  
   
境内社塞神二基・天神・伊奈利・八坂等      境内社三峰神社(三つの石祠)
     こちらは三嶋神社古墳の後円部から前方部にかけて置かれている石祠群である。

 もう一つ疑問点がある。この明用三島神社は「三島神社古墳」と呼ばれる古墳上に鎮座している。地形上では元荒川と荒川が分流する自然堤防上に位置しているとはいえ、箕田古墳群からもさきたま古墳群からも少々離れている位置にあり、周辺一帯もこれといった特徴のない場所に、ポツンと単独で存在している。55m級の古墳は郡単位の公権力を持ち、尚且つ財力を併せ持つ人物だったにちがいない。
 この古墳の埋葬者はどのような人物だったのだろうか。
 

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