古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

鎌塚八幡神社


        
            ・所在地 埼玉県鴻巣市鎌塚428
            ・ご祭神 誉田別命
            ・社 格 旧鎌塚村鎮守 旧村社
            ・例 祭 新年祭 16日 大祓 626日 1226日 例大祭 914
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1110077,139.4521216,18z?hl=ja&entry=ttu
 鴻巣市の鎌塚地域はJR高崎線吹上駅の北側にあり、元荒川を境としてその以北に位置し、国道17号線を越えて上越新幹線までの間が地域として南北の境となる。因みに「新編武蔵風土記稿」では旧吹上町鎌塚地域は、江戸時代「鎌塚村」と云い、東は下忍村、西は大井村、北は持田村、南は元荒川を限て足立郡吹上村と、夫々境を接していたという。
 鎌塚村を「風土記稿」で調べる際には吹上村が属する「足立郡」にはなく、「埼玉郡」内に属するので、調べる際にも地域の歴史を知ることは必要だ。
        
        国道沿いではあるが、道路からやや離れたところにある一の鳥居。
 鎌塚八幡神社は国道17号線の道路沿いで、市街地内に鎮座していて、位置的にはJR吹上駅の真北1㎞程の場所である。国道17号線を吹上市街地方向に進み、「鎌塚」交差点を過ぎて「鎌塚(南)」交差点の手前のT字路を左折、鎌塚集会所の東側に隣接するように境内がある。駐車スペースも集会所周辺にあり、そこの一角に車を停めてから参拝を行った。

 市街地内にありながら、宝績院という寺院とも接している関係からか、その境内は市街地とは違う空気感が一帯には漂っている。但し近代的な建物が立ち並ぶ中でも、不思議と違和感なく古い寺社が地域に上手く溶け込んでいるところが、いかにも今の日本を象徴していようで、ごく自然と参拝にも厳かな気持ちで臨めた。
        
               
一の鳥居から並んで二の鳥居、三の鳥居が続く。
 
       
                   
三の鳥居を過ぎるとすぐ正面右側に聳え立つご神木
 ご神木の存在は、社殿同様その地の歴史の深さを語る上でも象徴的な存在だ。このような老木・巨木がこの地にある事で、境内の空気感を一瞬にして変化させ得る「装置」ともなっているようにも思える。
            
                  社殿側からご神木を撮影。
 このアングルから見るご神木の威容は、少しは筆者の思いの何割かは理解して頂けるであろうか。
        
                             参道から社殿を望む。
 
 参道左側にある「境内碑」。よく読み取れず。     社の東側に隣接する宝積院。
        
                                     拝 殿
        
                                    案内板
八幡神社 御由緒     鴻巣市鎌塚四二八
□御縁起(歴史)
当社の創建の年代は不明であるが、口伝によれば、鎌塚地内の石川家の先祖の出身地である大阪府羽曳野市の誉田八幡宮を当地の宝積院境内に、地域の氏神として勧請し祀ったことに始まるという。石川家は、江戸期に名主を務めており、宝積院の維持にも深く関与していた。
旧社殿の棟札には、元禄一〇年との記載のあることから、今から三百年以上前に旧社殿は建築されたことになる。
文政十一年(一八二八)の古文書には、「八幡社 村の鎮守なり 宝積院持」との記述がある。
明治初年、当社が宝積院の境内地にあったことから、神仏分離政策の下、当社の御神体は移転を余儀なくされ、一旦、本倉稲荷神社へ遷座され、それまで鎌塚にあった他の四社とともに五社合殿して祀られていた。しかし、その後、時の総代石川茂十郎ら鎌塚村の人々の尽力により、国に上地されていた旧地の払い下げを受け、明治七年再び元の地に戻されて祀られることとなった。
旧社殿は昭和四十一年の台風により倒壊したが、鎌塚地区内外の氏子の協力によって社殿および集会所が昭和四十六年に完成し、遷宮式を盛大に挙行した。
「巫女の舞」は、その社殿再建を記念して、時の町内会長、婦人部有志により、浦安の舞の指導者を招いて、舞いを奉納したのが始まりである。毎年、九月十四日の例大祭において、鎌塚在住の小学四年生の女子児童により、舞が奉納されている。
今日まで、鎌塚地区の住民は、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・無病息災・生涯の幸せを祈願し、祭礼等には、多くの人の輪を広げ、親睦を深めてきた。
□御祭神
・誉田別命(第十五代応神天皇)
                                      案内板より引用

 案内板に記載されている「石川家」は、鎌塚地域に長く土着している在地
名主であったようであり、「宝蔵院」嘉永六年供養塔に石川覚三郎、明治二年名主石川茂十郎。明治九年戸長石川茂十郎・文政九年生、副戸長石川新兵衛・嘉永元年生、副戸長石川治郎八の名前がある。
 
    拝殿上部に掲げてある扁額       拝殿向拝部にもさりげなく彫刻が施されている。
        
          社殿左側に並んで祀られている境内社群。詳細不明。


 鎌塚八幡神社が鎮座する「鎌塚」という地域名も意味深である。「鎌」のつく地名で「鎌倉」が一番有名な所だが、この「鎌倉」は奈良時代から平安時代にかけてみられていて、「万葉集」には「可麻久良」、日本最初の漢和辞典の「和名抄(わみょうしょう)」には「加末久良」と記されている。
「鎌倉」の地名の起こりについては諸説があるが、地形に由来を求める説が有力と思われている。
浸食地形・崩壊地形を示す地形用語で、「鎌(かま)」は「えぐったようながけ地」で、「市街は溺れ谷の埋積低地にのり、周辺に向かって〈やつ・谷〉とか〈やと・谷戸〉と呼ばれる多くの侵食谷の発達が特徴的」であることが鎌倉の由来になっているという説。

 地形以外にも
滋賀県大津市の比叡山(ひえいざん)にも「神倉」、「神庫(かみくら)」が転訛したものとされる鎌倉という地があり、鎌倉にも同様に神庫と呼ばれるものがどこかにあったのではないかという説。
蒲(がま)という植物がいっぱい生えていたからという説、また、鎌倉の近い高座郡が昔は、高倉(たかくら)、または高麗(こま)と呼ばれていたので『こまくら』が転訛した、あるいはアイヌ語に由来する、という説。

その他にも「伝説的な説」として「藤原鎌子」に関連する説等、あるようであるが、どれも実証的な信憑性に欠け、推測・仮説の域にしか達していない。
        
                                   拝殿からの一風景

 鎌塚地域は南側には元荒川、そしてその支流で東側に「前谷落」という河川が合流する地点の西側に位置している。この「前谷落」は行田市・持田地域のかんがい流末と都市排水を源流として、行田市郊外を南下して、吹上町鎌塚地域で元荒川左岸に合流する。「前谷落」の流域一帯は一面の低地であり、都市化は進行してはいるが、まだ氾濫原跡を思わせる地形が少しは残っていて、現在それらは広大な水田となっている。「前谷落」の流域一帯の平均標高は17m程。その西側に位置するJR高崎線上の標高が18m程で、自然堤防上に鎮座している鎌塚八幡神社社殿付近でも19.4m程しかない。南側の元荒川北側で19m程であるため、元荒川周辺より低いのだ。
 この低地(氾濫原跡)は嘗て土地開発が未熟な時代に、忍川の流路が乱流していて不定だった頃の名残りでなないかとの説もあり、その地域に「鎌塚」も含まれている。

「鎌塚」の「鎌」は浸食地形・崩壊地形を示す地形用語で、河川氾濫地域であることを、先祖の方々が後世我々に教えようとして、この名前にしたのかもしれない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「鎌倉市公式HP」「Wikipedia」「境内案内板」
                

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