古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

戸谷塚諏訪神社

 
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市戸谷塚町335
             ・ご祭神 建御名方神
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
 群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線沿いに鎮座している福島町八郎神社から300m程西方向に進むと「戸谷塚町住民センター」があり、その南側に隣接して戸谷塚諏訪神社は鎮座している。社と戸谷塚町住民センターの間には十分すぎる駐車スペースがある。
        
                 戸谷塚諏訪神社正面
『日本歴史地名大系 』「戸屋塚村」の解説
 利根川左岸にある。外屋塚とも記す。寛文二年(一六六二)の大水により、村の中央で南北に分断された。柴町・中町の南に位置し、東から南は下福島村、西は利根川を挟み沼之上村(現佐波郡玉村町)。寛永二年(一六二五)当村六一石余が渡辺孫三郎に、一五〇石が石丸六兵衛尉に与えられた(記録御用所本古文書)。寛文郷帳では高六五二石余ですべて畑方、前橋藩領・旗本渡辺領など四給。元禄郷帳では幕府領・旗本藤川・渡辺領の三給。近世後期の御改革組合村高帳では家数三七。日光例幣使街道柴宿の助郷高九二石余(寛政八年「柴宿助郷村高等書上帳」関根文書)。
       
                            戸谷塚諏訪神社正面の両部鳥居
       
                    拝 殿
 由緒等を記した案内板は見当たらないが、建久4年(1193年)に鎌倉幕府の政所初代別当・大江広元の庶子である那波宗元(大江政広)が那波郡佐味郷を領有した際に、信濃国の諏訪大社から勧請したのが創祀といわれる。
 那波氏(なわし)は、日本の氏族のひとつ。上野国那波郡(現・群馬県伊勢崎市、佐波郡玉村町)によった武士で、藤原秀郷系と大江氏系の流があった。
 那波郡に先に入ったのは藤原秀郷の子孫の那波氏である。藤原秀郷の子孫で佐貫成綱の子・季弘を祖とする。保元の乱には那波太郎季弘が源義朝軍に参加したが、元暦元年(1184年)那波弘澄(広純)が源義仲にくみして戦死し、一族は衰亡する。
 その後、藤姓の那波氏に代わって那波郡を領したのが大江氏系の那波氏で、大江広元の庶子である大江政広(那波宗元)を祖とする。『系図纂要』では、藤姓那波氏の那波弘純の子・宗澄に子がなかったため、政広は弘澄の娘婿となって那波氏を称したという。
[上野國志 智那波郡]
 按二、昔時那波氏二家アリ、一家ハ藤原秀郷ノ後、淵名大夫兼行ガ二男成綱ガ子那波二郎季廣ト云、其子ヲ太郎廣澄ト云、〈泉竜寺ノ開基ナリ〉其子家澄孫景澄ノ後聞ルコトナシ、〈東鑑建久六年二、那波太郎アリ、コレ広澄ナルベシ、又那波彌五郎ト云アリ、コレラ藤氏ノ那波ナルベシ、大江氏ノ那波ハ、年代ヲ以計ルニ、コレヨリ後ノ封ナルベシ、又考ル二、大江廣元ガ三男政廣、始封ヲ那波二受ク、政廣兄弟ノ次弟二於太郎ト称スルコトナルベシ、〉一家ハ大官令大江廣元ガ第三ノ子掃部助政廣、〈始名宗元〉始テ頼朝卿ノ封ヲ受テ那波ヲ領ス、其子左近大夫政茂、関東ノ評定衆タリ、ソレヨリ子孫相続シテ那波ヲ領ス、〈又按藤氏ノ那波衰微シテ、後二大江氏ノ那波其地ヲ兼子併セシナルベシ、)
今ノ村落四拾四村、租入貳萬千八佰拾参石参斗壱升貳合、
        
          拝殿向拝部、並びに木鼻部の細やかな彫刻が眼をひく。
        
                    本 殿
          本殿彫刻は武州下手計出身大谷政五郎秀国という。
 江戸の中期から後期にかけて、渡良瀬川に沿った「あかがね(銅)街道」と、「日光例幣使街道」沿いには、日光東照宮や妻沼歓喜院聖天堂の彫刻に携わった上州彫刻師集団が存在していた。その中でも上州花輪(現在の群馬県みどり市花輪)出身で、徳川家の公儀彫刻師で石原家、後藤家、石川家、小沢家などの流派を起こし徳川家ゆかりの寺院(増上寺および寛永寺)の霊廟に装飾彫刻を施したという高松又八(?~1716年)の弟子たちは、妻沼の聖天堂をはじめ、北関東を中心に多くのすぐれた作品を残している。
 大谷政五郎秀国は、深谷市下手計出身の彫刻師で、高松又八の弟子たちの一人である。秀国の他、正信とも名乗る。師匠は初代・磯辺儀左衛門信秀。埼玉県の小川町にある八宮神社では二代目・石原常八主信を大棟梁に、脇棟梁として大谷政五郎の名前が記されている。
 大谷政五郎関連の作品として、安養院地蔵堂(深谷市高島)、妙光寺本堂(深谷市下手計)、源勝寺(深谷市岡部)、平石馬頭尊堂(秩父市吉田久長)、八宮神社(埼玉県小川町)、摩多利神社(熊谷市妻沼)、慈眼寺(甘楽郡南牧村)、蛭川家の大黒天(深谷市下手計)等のほか、戸谷塚諏訪神社の本殿彫刻にも携わっている。
        
             本殿奥に祀られている末社群、庚申塔等
        
           戸谷塚町住民センターの駐車スペースから社殿を撮影   
        
       社の正面鳥居の左側には「日露戦争記念碑」が溶岩塚上に建っている。

 ところで、日光例幣使街道と利根川に挟まれた戸谷塚地域内で、戸谷塚諏訪神社のすぐ東側に「観音寺」があり、そこには、「浅間山大噴火の供養塔」や「夜なき地蔵」が祀られている。
        観音寺全景             観音寺の境内に建つ供養塔等
 1783 (天明3 )78日の浅間山大爆発は少なくとも千数百人の人命を失った大悲惨事をひきおこした点において有史以来郷土としては最大の天災であったと言われている。急に泥流に押し流された吾妻川沿いの人々は家もろとも利根川に押し出された。局熱の泥流に加えて酷暑の夏のことだったから、その死骸はほとんど腐乱して下流のあちこちにうち上げられたものが少なくなかった。特に伊勢崎市戸谷塚区域の利根川浅瀬一帯には多くの死骸が打ちあげられた。この地区も被害を受けたが気の毒なこれらの無縁仏を手厚く葬ったそうだ。夜になると死人のうめき声がするのでよく成仏できないと思い、戸谷塚の人たちは身銭を出しあって1784 (天明4)年11月に地蔵様の供養塔を建立した。するとうめき声がしなくなったと言われている。伊勢崎市長沼町にも供養塔が、境町中島にも流死者の墓がある。
 今でも観音寺のお祭りの旧109日に供養塔の祭りもするため、被害者の多かった鎌原•長野原町から供養に見えるという。
 また供養塔の地蔵には赤いおかけがかけてある。周辺地区で泣きぐせのある赤ん坊の家はこの赤いおかけを借りて赤ん坊につけると泣くのがやんでしまうという伝承がある。 
        
              「浅間山大噴火の供養塔」の案内板
 浅間山大噴火の供養塔
 天明三年(一七八三)七月八日(新暦八月五日)、浅間山の大噴火が起こり、吾妻郡鎌原村は、一瞬のうちに埋めつくされてしまいました。火口から流れ出した火砕流は、吾妻川から利根川へと流れ下りました。
 このときの噴火で、利根川べりの戸谷塚村にも多数の遺体が打ち上げられました。村の人々は、この遺体を手厚く葬りました。
 しかし、夜な夜なすすり泣く声が聞こえたので、無念の死をとげた人々の霊を慰めようと、天明四年十一月四日に地蔵尊を建立したところ、泣き声はやみました。この地蔵尊は「夜泣き地蔵」と呼ばれ、今でも大切に祭られています。
 平成十七年三月  
 例幣使道まちづくり会議
                                      案内板より引用




参考資料「上野國志」「日光例幣使街道HP」「日本歴史地名大系」Wikipedia」
    「戸谷八商店HP」「境内案内板」等

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中町雷電神社

 現在の利根川は、川幅が約500m程だが、昔から流路が一定していたわけではない。旧流路と確認できるものでは、伊勢崎市街地を西から東に流れる広瀬川の川筋があり、江戸期の宝永2年(1705)以前には、柴宿南から戸谷塚、福島、富塚、長沼本郷、 国領などの集落を北岸として流路があった。
 しかし、この利根川は、たびたび洪水を起こすため新水路として、一部の水を現流路に沿い流した。この流路を三分川、前述の流路を七分川と呼んだ。しかし、天明3年(1783)の浅間山大噴火により七分川には、水が流れぬようになり、三分川が主流となった。今でも柴宿西岸に小さな段丘崖を確認することができ、南には旧流路(七分川)であった低湿地が帯状にみられる。
        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市中町57
              
・ご祭神 大雷命
              ・
例祭等 例祭 915
 福島町八郎神社から群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線を北西方向に600m程進むと、国道354号線との交点である「堀口町」交差点に達し、その交差点を左折する。国道354号線は通称「日光例幣使街道」とも呼ぶようだが、この国道を西行し、750m程先で国道が右カーブに入り始め、幹線道路と交わるY字路の内側に中町雷電神社は鎮座している。
 境内北側には駐車可能なスペースがあり、そこに停めてから参拝を行う。 
        
                 中町雷電神社正面
 伊勢崎市中町は、利根川左岸に位置し、現在の行政区域では南北900m程・東西1㎞程の区域の他、その東側に一カ所、及び南側にも一カ所と、飛地があり、中町雷電神社はその南側飛地に鎮座している。嘗ては現在の地よりも北側の今井地域に鎮座していたらしいが、文政三年(1820)にこの地に移ったという。
        
           豊かな木々に囲まれた中に社殿は建てられている。
     周辺一帯宅地化が進んでいる中、この境内には一時の静寂感が広がっている。

中町地域の西側には「柴町」地域があり、この地はかつて柴宿(しばしゅく)という日光例幣使街道の宿場町であった。この柴宿を調べるとその記述の中に中町という地名が出てくる。
 柴宿は、宿場町としては4町から5町程度の小規模なものであった(1町は約100m)。しかし、柴宿の東側に「加宿」と呼ばれる付帯的な宿場町として中町・堀口が連なり、全体として14町余りのかなりの規模の宿場町を構成していた。本陣は柴宿にあり、代々の関根甚左衛門が勤めた。問屋場は、柴宿および加宿中町・加宿堀口が10日ごとの持ち回りで負担したという。当初、柴宿付近の日光例幣使街道は一直線であったが、1729年(享保14年)に柴宿が北に移転し、中町・堀口との間で枡形が構成された。宿場町の成立時期が明確になっていることは珍しく、またこの経緯から、柴宿エリアは自然発生的な宿場町ではなく都市計画に基づいて作られたという特徴を持つ。        
        
        境内に設置されている「中町雷電神社建設寄付者御芳名」碑
          この石碑の裏面には社の簡単な由来が記載されている。
 改築に寄せて
 雷電神社(祭神・大雷命)文政三年(一八二〇年)に中町字北川原(現在の今井町)から現在地へ奉還されて以来一八〇年余り 中町は雷電様のご加護の下に平和と繁栄が守られて来ました 社殿の老朽化のため改築をする事に成り平成十八年十月建設委員会を設置し、多くの皆様のご協力により完成する事が出来ました。
 ここに関係者各位のご協力と努力に対しまして御芳名を石碑に刻し謝意といたします(以下略)。
                                   改築記念碑文より引用

        
                    拝 殿
        
       拝殿正面の左右の壁には龍が浮き彫りされている(写真左・右)
 
     拝殿左側に祀られている石祠       社殿左側奥に纏めてある庚申塔群等
         詳細不明          庚申塔の他に馬頭観音・道祖神・石祠もあり。
        
             参道を入ってすぐ右側にある巨大な溶岩塚
     塚上には石祠もあり、昔から氏子の方々にとって祀る対象であったのだろう。

 この塚は、天明3年(1783)の浅間山が大噴火した際の溶岩塚であり、頂上に石祠が建立されている。この地域周辺の至るところに浅間山の溶岩と思われるものが見られるのだが、いかに浅間大噴火の規模の大きさが想像できよう。このような大噴火の痕跡を先人が大切に残してくれたことに対して感謝の念を感じずにはいられない。


参考資料「日光例幣使街道」「Wikipedia」「境内改築記念碑文」等
 

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福島町八郎神社


        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市福島町21
              
・ご祭神 群馬八郎満胤命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 不明
 国道462号線を北上し、群馬県内に入った「八斗島町」交差点を左折し、群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線に合流後、2㎞程進んだ「境橋」を渡った先の丁字路を右折すると、すぐ左手に福島町八郎神社が見えてくる。
        
                 福島町八郎神社正面
『日本歴史地名大系』 「下福島村」の解説
 利根川左岸、戸屋塚(とやづか)村の南にある。東は除(よげ)村・富塚(とみづか)村。寛文二年(一六六二)利根川の洪水により、村の中央を押抜かれた。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方三一石余・畑方四七石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別六町六反余、うち田方一反余・畑方六町四反余。新田高五石余。前年の年貢は米二石五斗余・永二貫六七〇文。
 
       
             拝殿。右側並びは社務所であるようだ。
 福島町八郎神社は、『神道集』「第四十八 上野国那波八郎大明神事」に記載されている奈良時代、光仁天皇の御世(770-781年)における群馬八郎満胤の伝承にちなむ社。

 群馬八郎満胤は光仁天皇の御世(770781)、上野国群馬郡の地頭であった群馬大夫満行の八男で、容姿に優れ文武にも秀でていた為、満行は八郎を総領に立てて、その七人の兄を八郎に仕えさせた。
 
父満行が亡くなり三回忌の後、三年間精勤した後に目代(国司代理)の職を授かったが、七人の兄はこれを妬み、夜襲をかけて八郎を殺害。屍骸を石の唐櫃に入れて高井郷にある鳥食池東南の蛇食池の中島にある蛇塚の岩屋に投げ込んだ。
 それから三年後、満胤は諸の龍王や伊香保沼・赤城沼の龍神と親しくなり、その身は大蛇の姿となった。 神通自在の身となった八郎は七人の舎兄を殺し、その一族妻子眷属まで生贄に取って殺した帝は大いに驚いて岩屋に宣旨を下し、生贄を一年に一回だけにさせた。 大蛇は帝の宣旨に従い、当国に領地を持つ人々の間の輪番で、九月九日に高井の岩屋に生贄を捧げる事になった。 
 それから二十余年が経ち、上野国甘楽郡尾幡庄の地頭・尾幡権守宗岡がその年の生贄の番に当たった。 宗岡には海津姫という十六歳の娘がいた。 宗岡は娘との別れを哀しみ、あてどもなくさまよい歩いていたその頃、奥州に金を求める使者として、宮内判官宗光という人が都から下向して来た。 宗岡は宗光を自分の邸に迎えて歓待し、様々な遊戯を行った。 そして、三日間の酒宴の後に、宮内判官を尾幡姫(海津姫)に引き合わせた。 宗光は尾幡姫と夫婦の契りを深く結んだ。八月になり、尾幡姫が嘆き悲しんでいるので、宗光はその理由を尋ねた。 宗岡は尾幡姫が今年の大蛇の生贄に決められている事を話した。 宗光は姫の身代わりになる事を申し出た。
そして夫婦で持仏堂に籠り、ひたすら『法華経』を読誦して九月八日になり、宗光は高井の岩屋の贄棚に上ると、北向きに坐って『法華経』の読誦を始めた。 やがて、石の戸を押し開けて大蛇が恐ろしい姿を現したが、宗光は少しも恐れずに読誦し続けた。
 宗光が経を読み終わると、大蛇は首を地面につけて、「あなたの読経を聴聞して執念が消え失せました。今後は生贄を求めません。『法華経』の功徳で神に成る事ができるので、この国の人々に利益を施しましょう」と云い、岩屋の中に入った。その夜、震動雷鳴して大雨が降り、大蛇は下村で八郎大明神として顕れた。
 この顛末を帝に奏上したところ、帝は大いに喜び、奥州への使者は別の者を下らせる事にして、宗光を上野の国司に任じた。 宗光は二十六歳で中納言中将、三十一歳で大納言右大将に昇進した。 尾幡権守宗岡は目代となった。

 明治42年(1909)の洪水の被害を受け、大正寺町の豊武神社へ合祀され、本殿は八斗島稲荷神社に譲り受け移築、その豪華な彫刻は近在に珍しく立派で榛名神社山門の彫刻と同型であるというが、本殿移転の夜に大風が吹き荒れ雷鳴が轟いたと伝えられているのだそうだ。その後、昭和45年(1970)に現在地へ分祀され今日に至っているとのことだ、
        
               拝殿の左側にある「不動堂」
        
            不動堂の右側奥並びにある石塔・石碑等四基
 左から「〇〇神」・「養大明神」 石塔・「二十三夜 月読尊」・「庚申」がある。養蚕に関わる地でもあったようだ。
             
                          正面の鳥居左側に聳え立つ欅のご神木
『伊勢崎風土記 下福島村』
 八郎祠 下福島村に在り。掌祭長松寺、群馬八郎満胤の霊を祀る、縁起の略に曰く、天平神護年時、上毛群馬の郡司群馬太夫満行、男八人を生む、季を八郎満胤と号す、容姿秀麗、才有り、而して多芸なり、満行鍾愛し、立てて嗣とす、満行卒し、満胤京師に朝覲す、帝之れをして国を監させ、威権隆盛なり。 是に於て七兄焉れを恚み、相与に図って之れを執らえて、石櫃に投じて、之れを池中の嶼窟〈小幡に在り。蛇喰池と呼ぶ〉に棄つ、其の霊魂化して蛇竜と為る、七兄及び宗族を鏖にし、妖崇は百姓に逮ぶ、国人懾慄し、犠牲を川上に供えて、而して之れを祀る、〈此の川を号して神名川と呼ぶ〉 瞬目の際、大風石を揚げ震電霹靂し、沛然として雨注ぎ、樹を抜き巌を砕き、谿振い、山動き、神竜冉々として東方に飛騰し、光采璨珊として那波郡下福島に現わる、因て叢祠を此の処に設けて之れを祀り、八郎大明神と崇号す、
 長松寺 下福島村に在り、真言宗満善寺末派 群馬八郎満胤開基す、 因て満胤山と號す、




参考資料『神道集』「第四十八 上野国那波八郎大明神事」伊勢崎風土記」「日本歴史地名大系」
    「日本の伝説27 上州の伝説」等

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長沼八幡宮


        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市長沼町231
             
・ご祭神 誉田別命(第15代応神天皇)
             
・社 格 旧長沼村鎮守・旧村社
             
・例祭等 歳旦祭(元旦) 節分祭 2月上旬 春季例祭 43
                  
水神祭 7月中旬 例大祭 1017日 秋葉祭 1123
 国道462号線を本庄市街地から北上し、利根川に架かる「坂東大橋」を渡り、群馬県に入る。その後、「八斗島町」交差点の先にある信号のある十字路を右折し、1㎞程東行したのち、十字路を左折する。暫く道なりに進み、韮川に架かる「八幡橋」のすぐ先に長沼八幡宮は鎮座している。
        
                  
長沼八幡宮正面
『日本歴史地名大系』「長沼村」の解説
 下道寺(げどうじ)村の南にあり、北方を韮(にら)川が東流する。西は八斗島(やつたじま)村、南に武蔵国児玉郡上仁手村(現埼玉県本庄市)があり、南東部は烏川に面する。寛文二年(一六六二)以降は利根川(のちの七分川)が地内を貫流していた。中世には首切(くびきれ)沼という河跡沼があったが、のち長沼と改めたという。明暦年間(一六五五―五八)川南の地五六町余を開発、向長沼(むこうながぬま)と称したという(伊勢崎風土記)。
        
           鳥居を過ぎた参道右側に設置されている案内板
 長沼八幡宮は康平5年(1062年)に源頼義が奥州平定のおり、石清水八幡宮の分霊を勧請し戦勝祈願をし、後鳥羽天皇の建久6年(1195)、源頼朝家臣大江広元の庶子掃部輔那波政広がこの地の領主となると社殿を造営した。その後、藤原秀郷六代の足利太郎兼行(渕名太夫)の子長沼太夫孝綱がこの地に住み、社殿を修復して郷民の安泰を祈願した。その後時代が下るなかで、郷土鎮護の神として氏子の方々に崇敬されたという。
 創建当初は長沼邑字四ツ矢に鎮座していたのだが、天明3年(1783)の浅間山大噴火による利根川洪水のため土地流失し、現在の地に遷座したとの事だ。
 
     参道を進んだ左側にある神楽殿     参道を挟んで神楽殿の向かい側にある手水舎
        
                    拝 殿
 八幡宮由緒書
 祭神 誉田別命(第十五代応神天皇)
 当社の創建は、後冷泉天皇の御代、康平五年(一〇六二)源頼義が奥州鎮定の途中、山城国石清水八幡宮の御分霊を祀り戦勝祈願した地といわれ、後鳥羽天皇の建久六年(一一九五)、源頼朝家臣大江広元の庶子掃部輔那波政広がこの地の領主となると神威を畏み社殿を造営したと伝わる。その後、藤原秀郷六代の足利太郎兼行(渕名太夫)の子長沼太夫孝綱がこの地に住むに当たり、社殿を修復して郷民の安泰を祈願した。さらに、正親町天皇の天正十一年(一五八三)皆川山城守広照が長沼城を築いたときに社殿の大修理が行われ、皆川氏滅亡の後は、郷土鎮護の神として崇敬されることとなった。
 当社はかつて長沼村字四つ矢という地に鎮座していたが、天明三年(一七八三)の浅間山大噴火による利根川洪水のため土地流失し、現在の地に遷座された。
 明治八年(一八七五)に村社となり、同四十一年(一九〇八)に字八幡道下の八幡宮(分社)を合祀し、大正三年(一九一四)には社殿の回収が行われた。
 昭和四十七年(一九七二)には社殿、神楽殿、水舎の回収と鳥居、社務所が新築され、同六十二年(一九八七)に境内社秋葉神社の遷座祭が斎行され今日に至る。
 八幡道下の遺跡には、明治十二年(一八七九)に産土神と神武天皇陵の遙拝所として、天明の大洪水で流れついた溶岩により築かれた養気山がある。住民の敬神崇祖融和団結の象徴として今日までその遺風は守られ、昭和五十四年(一九七九)十一月三日には創築百年祭が盛大に執り行われた。傍らにには、速秋津姫命を祀った水神宮の小祠があり、水神祭はここで斎行される。
 祭日
 一月  一日  歳旦祭
 二月  上旬  節分祭
 四月  三日  春季例祭
 七月  中旬  水神祭
 十月 十七日  例大祭
 十一月二十三日 秋葉祭
 境内社
 秋葉神社 火産霊命
 稲荷神社 宇迦之御魂命
 飯玉神社 宇気母智命
 熊野神社 櫛御気野命
 伊 宮   大日孁命
                                    境内案内板より引用
        
             拝殿向拝部等を飾る彫刻は江戸時代の名匠河内守弥勒寺音八の作
 河内守弥勒寺音八(音次郎ともいう)は旧長沼村の出身で、天保14年京都白川王殿に謁し、弥勒寺河内守の称を授けられたという。透し彫りの名人で、晩年郷土の安泰を祈願し、畢境の妙技を凝らして竜の透し彫を作り、八幡宮に奉納したという。
        
       拝殿正面に掲げる「八幡宮」の奉額は、幕末の書家三井親和の筆墨
                  厳然たる風格が漂う。
       
                    本 殿

 社殿左側奥に祀られている境内社・秋葉神社    秋葉神社の奥に祀られている石祠四基
秋葉神社の左側並びの建物は物置となっていた。        詳細は不明。
       
             石祠四基の並びに祀られている大黒天
       
                   境内の様子 
 長沼八幡宮の鎮座する地から1㎞程南側に「養気山」と呼ばれる溶岩に覆われている高さ8m程の築山がある。この溶岩は天明3年(1783)の浅間山大噴火で噴出した溶岩をこの地に集めてできた小山ということのようだが、この公園は「養気山公園」というそうだが、八幡宮外苑という別名を持っていて、嘗て長沼八幡宮が鎮座していた地であるといわれている。氏子の方々もこの「養気山」に対する崇敬の念は今でも健在で、毎年春季例祭において、「養気山」の参拝を欠かさず行っているという。



参考資料「日本歴史地名大系」「境内案内板」等 

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牛重天神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市牛重3821
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧牛重村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭り 225日 例大祭 725日 秋祭り 1125
 日出安駒形神社の東側にある埼玉県道38号加須鴻巣線を南西方向に進み、騎西文化・学習センター内にある騎西城に一旦立ち寄る。史実の騎西城(私市城)は、土塁や塀を廻らした平屋の館であったようで、現在の広く騎西城として認知されている天守風の建物は、1974年(昭和49年)8月に建設された模擬天守であるといい、道路を挟んだ反対側には。土塁の一部が唯一の遺構として残されている。
        
                 旧騎西城の復元店主
 この城は戦国最強武将である上杉謙信が本拠地である越後国から関東へ侵攻した際に、本来の目的である松山城救出に間に合わず、その報復として永禄6年(15633月、成田親泰の次男・小田助三郎(朝興)が守る騎西城を攻め、助三郎は自害し、騎西城は落城したという。この騎西城は本丸を沼に囲まれた堅牢なお城で、北条氏対上杉氏の覇権争いの最前線の城でもあったため、激しい戦いの舞台となってしまった悲しい歴史があるのだが、現在は、綺麗な図書館や公園内に天守があり、加須市騎西地域のシンボルとして存在している。
        
               公園内に設置されている案内板
 騎西城の見学後、改めて牛重天神社に向かう。騎西城の交差点を南下し、すぐ先の丁字路を左折、そのまま1㎞程道なりに進むと進行方向右手に牛重天神社が見えてくる。
        
               像路沿いに鎮座する牛重天神社
『日本歴史地名大系 』「牛重村」の解説
 根古屋村の南東方にあり、南西方は備前堀川を隔てて広く鴻茎(こうぐき)村に対し、東は油井ヶ島沼を隔てて油井ヶ島村(現加須市)。田園簿によれば田高三二〇石余・畑高一一二石余、川越藩領。ほかに妙光寺領三〇石がある。寛文四年(一六四四)の河越領郷村高帳では高八一六石余、反別は田方五二町七反余・畑方三三町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに三一九石余があった。明和四年(一七六七)の川越藩主秋元氏の転封に伴って出羽山形藩領になったと考えられ、化政期には同藩領と根古屋村金剛院領、妙光寺領(風土記稿)。同藩領は天保一三年(一八四二)上知となり(秋元家譜)、幕末の改革組合取調書では幕府領と川越藩領・旗本領。
 天神社が鎮座する「牛重」は「うしがさね」と読む。その地名由来は不明となっていて、筆者としては大変興味深い。
「牛重」(うしがさね)という地名は『新編武蔵風土記稿』にも載っていて、江戸期からあるようだが、地名辞典にもその由来は書かれていない。この地域の鎮守は「天神社」で、祭りなども行われているというが、名前の「さね」は埼玉県北部に鎮座する金鑽神社の「さな」の同類後であるならば、「鉄」つまり「製鉄」に関連する地名とも思える。加えて、牛重地域に隣接する「種足」地域という名称も、どことなく古代の製鉄のイメージがする地名なのだが、それらを証明するしっかりとした書物や資料はないので、あくまで筆者の推測にすぎない。
        
               参道を進む先に見える二の鳥居
 牛重天神社の創建年代は不明。ただ江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に記載されていることから、そのころには既に存在していたものと推測される。隣の万福寺が別当寺であった。そのため、昭和後期の当社の氏子総代と万福寺の檀家総代は兼任している。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により、周辺の2社が合祀された。そのうちの一つの「浅間社」は、当社の隣にある日露戦争を記念する「日露戦役記念碑」がある塚の上にあった神社で、萬福寺の山号が「浅間山」であることからもわかるように、当社とともに萬福寺と密接なつながりがあった。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 牛重村』
 天神社 村の鎭守とす、〇第六天社 〇淺間社 三宇共に萬福寺持、
 萬福寺 新義眞言宗、正能村龍花院末、淺間山と號す、開山空鑁天正十三年十月十八日寂す、本尊彌陀を安ず、 鐘樓。寛政八年の鑄造なり、十王堂

 天神社  騎西町牛重三八二(牛重字中前)
 当社は口碑によれば、天神様は学問の神様で菅公を祀り、向学心のあるものが祈れば必ずかなうという。また、五穀を守護する作神であるとともに、諸病平癒の御利益があるとも伝える。
 当地の江戸期における神社は『風土記稿』牛重村の項に「天神社 村の鎮守とす、第六天社 浅間社 三社共に万福寺持」と載せ、当社が村の鎮守として祀られていたことが知られる。往時、別当を務めた真言宗浅間山万福寺は、天正二年の創立である。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治五年村社となり、同四〇年、同字の大六天社・浅間社の二社が合祀された。現在、覆屋内の中央に菅原道真公を祀る天神社、右側に木花咲耶姫命を祀る浅間社、左側に面足命・惶根命を祀る大六天社を並祀している。
 このうち大六天社は天王様とも呼ばれ神輿を神座として安置し、心柱に白幣と人形の木片(一一センチメートル)を縛り付けている。同社は中組の小坂一家で祀っていたものであった。
 一方、浅祀社は当社境内に隣接して、現在の日露戦役記念碑のある塚上に南向きに建ち、参道は五〇Mほどもあったという。覆屋内には、弘化四年の「浅間講中出立の図」の大絵馬が掛かり、往時、浅間講が盛んに行われたことを物語っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   拝殿上部に掲げてある凝った扁額      拝殿前には一対の力石が置かれている。
        
               境内に設置されている案内板
 天神社  例大祭 七月二十五日
 当社は菅原道真を主祭神とし、学問の神として崇敬される。江戸初期に描かれた「武州騎西之絵図」には、当社は「新天神」と記されており、創建は江戸期以前と思われる。
 明治四十年には地内の大六天社・浅間社の二社が合祀されている。大六天社は中組の小坂一家で祀っていたもので、天王様とも呼ばれ、毎年夏祭りには神輿が担がれる。浅間社は本殿後方の塚上に鎮座していたが、現在は日露戦役記念碑が建立されている。
 本殿には弘化四年銘(一八四七)の大絵馬がある。これは本社である北野天満宮(現京都市)を参詣した時のもので、はるか彼方に霊峰富士を望み、馬に跨って社殿に向かう村人の姿が描かれている。
(以下略)
        
                    本 殿
        
              本殿の奥にある「日露戦役記念碑」
    「埼玉の神社」のよると、境内社・浅間社はこの記念碑のある塚上の一角で、
          南向きに祀られているようだが、今回確認はしなかった。
        
                                   社殿からの一風景
ところで、『新編武蔵風土記稿 牛重村』では、浅井長政の家臣であった黒川家の祖が、長政の嫡男・万福丸の菩提を弔うために当地にあった真言宗智山派である万福寺を創建したという。信憑性はとにかく、なかなかロマンある説話ではなかろうか。
『舊家者喜右衛門』
 黒川を氏とす、家系によるに祖先は村岡小五郎の後裔、會津新左衛門政義の嫡子にして、三郎左衛門忠重と云、忠重始て黒川姓を稱し、天文年中淺井備前守亮政に仕ふ、その子大助忠親の時、淺井家より藤丸の紋の陣羽織を興へし由、其子家忠淺井下野守久政備前守長政に仕へしが、久政長政信長の爲に生害せしかば、家忠も、薙染して僧となれり、又其子忠友は萬福丸を守護せしかども、萬福丸も又秀吉の爲に生害せられければ、これも出家せり、夫より家忠の二男忠晴より、この子實忠に至るまで、下野國にありしが、實忠の子忠好、天正年中故有て武州騎西に來り住す、夫より子孫連綿して今の喜右衛門に至れりと云、



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
Wikipedia」
    「境内案内板」等
        

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