古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上会下稲荷神社

 上会下稲荷神社は鴻巣市上会下地域に鎮座する社である。地域名「会下」は「えげ」と読み、なかなか難解地名の一つと言える。地名由来として、「埼玉の神社」では、寺格の一つである院家(いんげ)が転じたものと書き、『新編武蔵風土記稿』では、寺院の通称に由来し、「上会下」は「曹洞宗・雲祥寺」、「下会下」は「雲祥寺末寺・竜昌寺」のことという。
 天正年間(15731592)に創建された。信濃国筑摩郡岡田(現・長野県松本市)出身の岡田義忠の子の義徳が、家臣とともに当地を開拓したのが、当社の起源であるという。
 1871年(明治4年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1909年(明治42年)の神社合祀により、周辺の8社(摂末社含む)が合祀された。合祀された旧神社の境内は更地にして田畑として貸し付けられたが、戦後の農地改革により没収されてしまったとの事だ。
        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市上会下4201
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧上会下村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 37日 天王祭 715日 献灯祭 99
                  
例祭 109日 秋祭り 1126
 境天神社から埼玉県道308号内田ヶ谷鴻巣線を北行し、見沼代用水に架かる「境橋」を越え、100m先の丁字路を右折し東行する。民家が点在する道幅の狭い道路を進むうちに、田畑が大部分を占める農地が広がっていき、その中に綺麗に整備された「上会下公園」が、その南東方向に上会下稲荷神社が見えてくる。
 田畑風景が一帯に広がる中にポツンと鎮座する静かな社。社殿は南向きで、見沼代用水に対して向けられているような配置。境内東側に駐車可能なスペースがあり、そこに停めてから参拝を開始する。
        
                 
上会下稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「上会下(かみえげ)村」の解説
 現川里村東端にあり、集落は見沼代用水(星川)左岸の自然堤防上に立地する。西は同用水を隔てて新井・境の二村、北・東・南はそれぞれ上崎村・中ノ目村・上種足村(現騎西町)。境村西方に屈巣(くす)沼を開拓した広い飛地がある。文禄二年(一五九三)岡田惣右衛門が荒地を開墾したのが村の起りという(郡村誌)。騎西領のうち(風土記稿)。田園簿によれば田高二八四石余・畑高二〇〇石余、川越藩領。ほかに雲祥寺領三〇石がある。寛文四年(一六六四)河越領郷村高帳によると高五四四石余(田方三八町八反余・畑方二三町五反余)、新田高二一八石余(田方一五町五反余・畑方九町四反余)。
        
                                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上会下村』
 古會下領なりし故この村名を得しと土人いへり按に中種足村龍昌寺の傳へに、村名雲祥寺を上會下と唱へし由を云へば、其寺の領なりしことしらる、
 稻荷社 村の鎮守なり 村民持、
 雲祥寺 禪宗曹洞派、下野國安蘇郡戸奈良村種德寺末、龍嶋山と號す、元は臨濟派にて、鐮倉建長寺の末なりしを、文龜二年當派となりしと云、中種足村龍昌寺の傳へに據れば當寺元上會下と唱へし事しらる、猶村名及び龍昌寺の條、合せ見るべし、開山樸巖良瑣永正十七年七月廿六日寂せり、開基は根古屋の城主小田大炊頭なり、此人天正八年卒す、法諡して氣窓正瑞居士と云、天正十九年寺領三十石を賜ひしに慶長年中燒失して、御朱印を合せて失ひしを大猷院殿の御代、時の御代官大河金兵衞願ひ上て、再び御朱印を附られしとなり、本尊釋迦を安置す、寶物に明德五年の雲版あり、こは足立郡上加村東光寺のものとみゆれど、當寺に傳來せるゆえ、由はつまびらかならず、
其圖前の如し、鐘樓 正德六年の鐘をかく、道了權現社 地藏堂

 稲荷神社  川里村上会下四二〇(上会下字下中島)
 地名の会下(えげ)は寺格の一つである院家(いんげ)が転じたもので、区内曹洞宗雲祥寺を上会下、末寺竜昌寺(騎西町中種足)を下会下と唱え、雲祥寺付近に上会下の名のみが残ったと伝えられている。
 社記によれば、当社の創立は、信州岡田(長野県松本市郊外)の住人岡田総右衛門義忠の子の義徳が天正年中この地に隠棲し、家臣一六名共々土地を開き神社を祀ったことによるという。これが、時の流れにより村の戸数も増え、当初一六名で祀っていたものが代々の村民に崇敬されるようになったものと考えられる。
『風土記稿』には「稲荷社 村の鎮守なり、村民の持」と載せる。
 享保四年一月二一日、京都の吉田家から宗源宣旨を受け、正一位稲荷大明神と号した。
 明治四年に村社となり、同四二年には下中島の天神社、白幡の三峰社・厳島社、本村の八坂社・岡田神社・清浄伊奈利社、寺中の稲荷社及び当境内社榛名神社の計八社を合祀した。
 合祀された社の跡地は、一時当社の名義となり、田畑として貸し付け、小作料を神社費に繰り入れていたが、昭和二一年農地改革の際、解放され、私有地となった。
 主祭神は倉稲魂命で、合祀神は菅原道真公・伊弉諾命・伊弉冉命・市杵島姫命・素戔嗚命・彦田支命である。
                                  「埼玉の神社」より引用

 当社の氏子は、寺中・本村・中郷・白幡・上中島・下中島の住民である。そして、作神・村中安全の神として崇敬される稲荷社の本殿には、氏子崇敬者などから供えられた多数の白狐が納められているという。
 岡田総右衛門が移住した天正年間頃は一六戸であったが、時が下り江戸時代の化政期になると五〇戸程の村となり、その後更に発展し、昭和58年では戸数も七〇戸程に増えた。嘗て星川の氾濫防止のため私市(騎西)城主が扣(ひかえ)土手と呼ばれる堤を村内に作ったため、村は新田と内郷とに二分されたかたちとなっている。
        
                          境内に祀られている境内社・八坂神社
「埼玉の神社」では、社の配置図が記されていて、祭器庫と八坂神社が別々にあるのだが、今回確認したところ、一社あるのみであった。もしかしたら、現在は祭器庫と八坂神社が一つに纏めて祀られているのかもしれない。

 この八坂神社で行われる祭りは「天王」と呼ばれ、社の祭りの中で盛んに行われているという。この祭りでは、神輿が担がれる。祭り当日は午前中祭典を行い、夕刻から神幸となる。祭りの準備日(77日)にお仮屋を設けて飾っているのだが、当日このお仮屋から出発し、境橋・下崎境・上崎境・中ノ目境と各区境で揉み、辻固めをして回る。途中重立ちの家では酒等振る舞いを受け、そして東の空が明るくなるころ神社に戻るとの事だ。
 
 八坂神社の奥に祀られている弁天社・氷川社    社殿の奥に祀られている稲荷大明神
        
         社の境内の道を隔てた東側にポツンと祀られている天神社
        
                   社の一風景
 嘗ては、旧暦823日ごろにも祭りが行われ、花火が有名であったようだ。大豆が終わり、麦まきまで畑の空いているとき、明治28年と記されている「花火名帳」と「花火諸費記帳」が保管されていて、神社近くの畑に趣向を凝らした仕掛け花火を披露し、近郷の人々も見物に来て大変賑わったそうだ。村内に病気などがはやると「稲荷様が花火を見たがっている」といい、臨時の花火大会を行い、厄除けしたというが、明治40年頃から火薬の取り締まりが厳しくなり、この祭りはやがてなくなってしまったとの事だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」

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関新田稲荷神社

 荼枳尼天(だきにてん)とは、元々は仏教の神である。「荼枳尼」という名は梵語のダーキニー (ākinī) を音訳したものである。また、荼吉尼天、吒枳尼天とも漢字表記し、吒天(だてん)とも呼ばれる。荼枳尼“天”とは日本特有の呼び方であり、中国の仏典では“天”が付くことはなく荼枳尼とのみ記される。
 ダーキニーはもともと集団や種族を指す名であるが、日本の荼枳尼天は一個の尊格を表すようになった。日本では「稲荷信仰」と混同されて習合し、一般に白狐に乗る天女の姿で表される。狐の精とされ、稲荷権現、飯綱権現と同一視される。また辰狐王菩薩とも尊称される。剣、宝珠、稲束、鎌などを持物とする。
        
           ・所在地 埼玉県鴻巣市関新田4431
           ・ご祭神 倉稲魂命
           ・社 格 旧関新田村鎮守
           ・例祭等 
三月初午 お獅子様 515日 八坂祭(天王祭) 714
                
例祭 94日 新嘗祭 1129
 鴻巣市関新田地域は、元川里町の通称「川里中央通り」沿いに形成され、南は川里中央公園、北は見沼代用水(星川)を境となす南北に長い長閑な田園地域である。嘗ては北根村と一村と成していたようだが、江戸期の正保から元禄時期に分かれたようである。関新田の地名由来としては、村北部境に星川の堰があるので慶安3年(1650)に堰(せき)新田と命名し、のち関新田になったという。
 この地域内には「花久の里」という観光スポットがあるのだが、「川里中央通り」からこの施設に向かう入口には看板が設置されていて、その反対側の道を進むと、その突当たり地点に関新田稲荷神社が見えてくる。
 社の正面附近には適当な駐車場所はないため、一旦迂回してから背後に回り込み、社と「関新田集落センター」の間に適度な駐車スペースが確保されているので、一時的に駐車し、その後参拝を行う。
        
                
「花久の里」入口正面
 「花久の里」「川里中央通り」の東側に、関新田稲荷神社はその道路の西側に鎮座している
        
                 
関新田稲荷神社正面
『日本歴史地名大系 』「関新田村」の解説
 南東は新井村、東は見沼代用水(星川)を限り、北西は野通(やどおり)川流域の低湿地。集落は同用水右岸の自然堤防上に立地する。村内に新井村の飛地がある。もとは北西の北根村のうちで、村の北に星川の堰があるので慶安三年(一六五〇)に堰(せき)新田と命名し、のち関新田になったという(郡村誌)。当村以下六村は忍領のうち(風土記稿)。元禄郷帳に村名がみえ、高四一八石余。   
        
                    神楽殿
 神楽殿には神輿二基(子供神輿・大人神輿)が奉安されている。
 八坂祭は、合祀前は中宿の八坂社の祭礼であったが、合祀により神輿は当地に移り、昭和30年頃まで77日に子供神輿が、14日に大人神輿が練られた。その後、各戸からもらう賽銭を子供たちが仕切りで分配させることが好ましくないとして、子供神輿は一時中止されたが、近年復活している。なお、大人神楽は担ぎ手不足のため小型トラックに載せられている。
 また、94日の例祭は「稲荷様の灯篭」とも呼ばれ、境内には数多くの灯篭が飾られていた。戦前までは、広田のオイバナ(湯立て神楽)が来て神楽殿で奏したが、戦後は素人演芸、近年ではカラオケ大会が好評であるとの事だ。
        
                 すっきりとした境内               
 
  拝殿手前の参道左側に設置されている      参道を対象に案内板の反対側にある
  「
関新田稲荷神社 由緒書」の案内板        「関新田稲荷神社改築記念碑」
        
                    拝 殿
 稲荷神社  川里村関新田四四三(関新田字中宿)
 当地は星川(見沼代用水)右岸に位置する。元は北根村のうちで新田村と称していたが、村の北に星川の堰があったことから堰新田と命名し、後に関新田に改めたという。
 当社は、山城国紀伊郡に鎮座している稲荷神社(伏見稲荷)の分祀と伝え、正徳三年四月五日に神祇管領ト部兼敬から正一位の宗源宣旨を受けている。なお、内陣にはこの時の正一位稲荷明神幣帛を祀る。また、嘉永二年三月には、神祇管領長上家公文所(ト部)から神号、大明神の宗源宣旨を受けている。
 明治四二年八月三一日に、本社境内社榛名社・子之社・千勝社、字山王の日枝社、字中宿の八坂神社、字愛宕の愛宕社を合祀している。
 なお、合祀された
山王社・愛宕社は、江戸期の別当を禅宗放光山長松寺が務めていた。
 社殿は、
大正一二年の関東大震災により幣殿全壊、拝殿半壊の被害を受けたが、翌一三年に修工となり、現在に至っている。
 本殿は一間社流造りで、内陣に
荼枳尼天(だきにてん)像を安置する。現在、境内社には、山王社・弁財天・稲荷神社・天満天神宮・
千勝社・権現社・宝登山神社・浅間社及び社名不明の石祠一社が祭られている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿 
 当社では、515日(戦前では野上がりの511日)には騎西町の玉敷神社からお獅子様を借り、村の悪魔祓いが行われる。お獅子様は、まず稲荷神社の神前に備えてから村回りを始める。毎戸を回る順序は決まっていて、その順序を変えると流行病があると言い伝えられている。古くは「アララーイ」の掛け声と共に家の縁側から土足で入り、家族を祓って玄関から出た。特に養蚕が全盛のころは、家に土足で入るとその年は蚕がよくできるといわれたというが、現在は玄関で祓うだけになっているという。
        
                社殿から鳥居方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等

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新井稲荷神社

『しもつかれ』とは、北関東地方(栃木県全域、茨城県西部、埼玉県東部、千葉県北部、福島県の南奥会津や但馬など各県の一部地域等も)に分布する伝統の郷土料理である。初午(はつうま)の日に作り赤飯と共に稲荷神社に供える行事食で、地域により「しもつかり」「しみつかり」「しみつかれ」「すみつかれ」「すみつかり」とも呼ぶようだ。
 料理方法は、鮭(新巻鮭)の頭・大豆(節分に撒いた残り)・人参・その他の余り物を細切れにし、大根を目の粗い竹製の大根おろし器の「鬼おろし」で粗くすり下ろして酒粕と共に煮込んだ料理で、独特な味や香り、その外見から、好き嫌いが激しく分かれるそうだが、残念ながら筆者はこのような料理を一度も食したことがないので、料理の好みを判別することができない。
「しもつかれを三軒(七軒ともいう)食べ歩くと中気にならない」や「なるべく多くの家のしもつかれを食べると無病息災」など、しもつかれには様々な伝承が伝えられ、現在でも重箱に入れて隣近所でやりとりする風習がある地域もある。
 鴻巣市新井地域では、二月初午に大正期まで各戸で「すみつかれ」を藁苞(わらづと)に入れて社頭に供えに来たという。因みに「初午」とは、2月の最初の午(うま)の日を指し、稲荷神社で豊作や商売繁盛、家内安全などを祈願するお祭りが行われる日でもある。稲荷様が如何に穀物や農業の神として信仰され、更に、一般の方々の日常生活にも深く関わっていたかを示す風習でもあろう。
        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市新井226
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧新井村鎮守
             
・例祭等 春祭り 318日 天王様 727日 例祭 1014
                  
秋祭り 1128
 境天神社から一旦南下し、「境」交差点を右折し、北西方向に500m程進んだ場所に新井稲荷神社は鎮座する。地図を確認すると、道路を挟んで鴻巣市立共和小学校の向かい側に位置している。
        
                  
新井稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「新井村」の解説
 境村の北西にあり、見沼代用水(星川)右岸の自然堤防上に位置する。北から西は広く関新田村に接し、同村内に飛地が散在する。弘安一〇年(一二八七)一月二〇日、陸奥国好島(よしま)庄(現福島県いわき市)の伊賀光隆が子の光清に譲与した所領のなかにみえる「荒居」(永仁元年一二月一七日「将軍家政所下文案」飯野八幡宮文書)は当地のことと考えられる。騎西領のうち(風土記稿)。田園簿によれば田高一三八石余・畑高九八石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)河越領郷村高帳によると高三八四石余(田方三〇町九反余・畑方九町六反余)、新田高一五三石余(田方一二町三反余・畑方三町八反余)。
 当社は古くから新井の鎮守として厚く信仰されている。特に養蚕の盛んであった戦前までは、お稲荷様(おとがさま・陶製眷属像)が多数貸し出され、養蚕守護の神として信仰を集めた。当地の養蚕は、春蚕・秋蚕・晩秋蚕の年3回であり、ほぼ全戸が生業の中心としていたという。
        
                    拝殿覆屋
 稲荷神社  川里村新井二四八(新井字本村)
 当地は星川(見沼代用水)右岸に位置し、地内には奈良・平安期の集落遺跡がある。
 当社は、口碑によると岡戸氏の先祖が山城国の伏見稲荷大社から御分霊を頂き当地に祀ったのが始まりであるとされ、岡戸本家は修験者の系統を引くという。更に、当社は同地区に祀る正源寺持ちの観音堂と同年代の建立であるという。また、正源寺は真言宗で山号を稲荷山と称し、開山は元亀元年と伝え、江戸期において当社の別当を務めていた。以上のことを勘案すると、当社の創立は元亀元年以降のことであると思われる。
 本殿の造営は宝永五年で、棟木墨書に「宝永五戊子年北埼玉郡騎西領新井村住人岡戸氏行右衛門吉明奉寄進者也 天下泰平国土安全家内長久諸願成就之所七月廿八日千秋万才楽也 五月中〇七月下旬迠□之□則作者串作村山下長兵衛弟子儀兵衛八右衛門敬白」とある。
 正徳四年に宗源宣旨を受け、正一位稲荷大明神と号している。
 祭神は倉稲魂命で、内陣には三五㎝の茶枳尼天(だきにてん)像を安置している。また、境内社の白山大権現は明和八年に建立したものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
      「新井稲荷神社の算額」の碑      境内社・白山大権現
 鴻巣市指定有形文化財 新井稲荷神社の算額
 江戸時代に発達した日本独自の数学を和算という。埼玉郡種足村(現加須市騎西)の開流の都築利治(18341908)を師とした田村金太郎(旧共和村新井)が難しい問題を解いた成果として奉納したもので、川里地域に残る唯一のものである。明治25年(189291日奉納されたものである。平成13328日指定。
 また、境内社・白山大権現は、地域の方々からは、歯痛を直す神であるといわれている。
        
                  
新井稲荷神社遠景
 当社の行事の一つに「天王様」があり、727日に行われる。この祭りでは、古くから行事の一切を子供たちの手に委ねられ、最上級生四名が親方となり運営したという。
 まず、祭りに先立ち親方の指示で下級生が村の重立ちの家を回って歩き、神輿飾りの寄附をもらう。当日、子供が担ぐ神輿が氏子各家の庭先で練られ、各家から賽銭が上がり、全戸回り終えると、親方が賽銭を学年に応じた金額で銘々に分配する。行事の一切が終わると、親方は神輿の四方に下がる提灯をもらって役を引退する。
 この行事は子供たちにとって子供社会の仕来りの中で、おのずから物事に対する秩序や道理を身につける場となっていたが、近年教育上の配慮を理由にPTAが行事進行の中心となってしまったため、子供たちの主体性を損なう結果となっているとの事だ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川里地域の指定文化財」
    「Wikipedia」

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境天神社


        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市境86
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧境村下分鎮守・旧村社
             
・例祭等 天王様 715日 八幡様灯籠 914日 
                  新穀感謝祭 
1123
 旧川里村境地域に鎮座する社である。広田鷺栖神社から埼玉県道313号北根菖蒲線を東行し、1㎞程先にある丁字路を左折する。通称「川里中央通り」と呼ばれるこの道の東側には鴻巣市の花と音楽の館「花久の里」というNPO法人が運営している施設があり、花・物販の事業、食の事業、音楽・芸術の事業や年間のイベントを実施しており、季節別に彩られる庭園は自由に入ることができるなかなか洒落た場所だ。
 この川里中央通りを北上すると、また丁字路となり、そこを右折する。見沼代用水(星川)右岸に沿った道路を南東方向に進み、「境」交差点を左折すると、用水に架かる境橋の手前に境天神社は鎮座している。
        
        見沼代用水(星川)付近の様子。社は写真右手前に鎮座する。
『日本歴史地名大系』 「境村」の解説
 東は見沼代用水(星川)を隔てて上会下(かみえげ)村、集落は同用水右岸の自然堤防上に立地している。村域西方には同村の広い飛地がある。騎西領のうち(風土記稿)。田園簿によれば田高二六七石余・畑高一三三石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳によると高三八四石余(田方三〇町九反余・畑方九町六反余)、新田高二二七石余(田方一七町余・畑方七町六反余)。化政期には旗本林・藤堂二家の相給で(風土記稿)、幕末まで両家領として続いたと考えられる(改革組合取調書など)。
        
                   境天神社正面
 宝暦年間(175164)に創建されたという。当地の福島家に居候していた釈白心庵主が亡くなるに際し、当地には鎮守の神社がないことを憂い、天神を祀るよう遺言したとも、当地を所領としていた旗本藤堂良由が天神を篤く信仰していたことから創建したともいわれている。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1910年(明治43年)の神社合祀により、周辺の9社が合祀されたという。
 

 鳥居の右側に祀られている愛宕社・弁天社     鳥居の左側には、伊勢参宮記念碑や
      庚申塔も二基ある。               庚申塔も建つ。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 埼玉郡騎西領境村』
 八幡社 村内上分の鎭守なり、〇久伊豆社 〇神明社 〇稻荷社 以上四社、善勝寺持、
 〇天神社 村内下分の鎮守なり、〇熊野社 〇天王社 〇辨天社 以上村持
 善勝寺 禅宗臨済派、日出安村保寧寺末、東光山と號す。本尊釈迦。立像にて長三尺許、
弘法 の作と云。開山清庵祖銀文祿
48月示寂。 觀音堂。 鐘楼、延享5年の鐘をかく


 天神社  川里村境八六(境字台)
 当社の鎮座する境地区は星川(見沼代用水) の右岸に位置する。古くは境村を二分して上分・下分と私称し、上分の鎮守は八幡社、下分の鎮守は天神社であった。
 当社の創立は、社記に「当社は今古老の口碑に伝て日ふ宝暦年間福島家に釈白心庵主なる者あり該宅地内に勧請ありしが該庵主回向をなし本村に於て寂するに際し遺言して日く本村下分に鎮守なきを以て之を祭れと茲に於いて祭れり以て挙村民之を鎮守とし崇敬せり」とある。また『明細帳』に「素ヨリ当村鎮守ニシテ去ル宝暦年中旧地頭藤堂肥後守良由朝臣深ク信仰セラレケルヲ以テ社殿再建アリ、明治五年村社ニ申立済、明治四十三年二月二十三日同村大字同字同無格社熊野社字同無格社稲荷社字上手無格社神明社字同無格社厳島社字同無格社八坂社字台無格社厳島社字同無格社愛宕社字前無格社八幡社字同無格社久伊豆社ヲ合併ス」とある。
 字前の八幡社は上分の鎮守であったために、合祀後は、覆屋内に天神社・八幡社の二社が並べて祀られ、それぞれ三五センチメートルの「天保十二辛己歳八月吉日之彩色口」と記す天神座像と二三センチメートルの八幡大明神像を安置する。また天神社の社殿前面には、随身像が置かれている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 当社の行事に7月15日に行われる「天王様」があり、夕方から大人神輿が地域内を練る。神輿は拝殿から担ぎ出され、まず総代の家に寄ってから主要道路を練り、その後村境二カ所をでも練った。昭和28年頃までは上・下の両耕地にそれぞれ子供神輿があり、子供たちの自主性に任さられ練られていたという。氏子から配られる賽銭も上級生が中心となって各人に配布されていて、子供たちにとっては重要な人格形成の場ともなっていた。ところがこの様子を見た当地の教育者の一人が、教育上強く遺憾の意を表明したため即座に中止となり、神輿を取り壊してしまった。その後、神輿行事は復活されていないという。
        
                  境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鴻巣市観光協会HP
    「Wikipedia
       

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石田藤宮神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市石田783
             ・ご祭神 天児屋根命 藤原鎌足公
             ・社 格 旧石田、石田本郷、菅間、谷中各村鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 筒粥神事 115日 春祭り 489
                  夏祭り 71415日 秋祭り 101415
 山田八幡神社から東西に通じる道路を500m程東行すると、埼玉県道12号川越栗橋線に交わる信号のある十字路に達するので、そこを右折する。その後150m程で左折すると、すぐ左手に「石田防災倉庫」が見え、その奥に石田藤宮神社の鳥居が見えてくる。
 交通量の比較的多い県道から一本外れた静かな場所に鎮座しているからか、境内一帯物寂しさも漂う雰囲気を醸し出しているが、当社に奉納される「筒がゆの神事」「石田の獅子舞」は川越市無形民俗文化財に指定されていて、また、旧石田・石田本郷・菅間・谷中の4村の総鎮守社でもある事からも、豊かな社叢林に囲まれた古い歴史と格式を持ち合わせている社なのであろう。
        
                  石田藤宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「石田村」の解説
 府川村の南東、入間川右岸の低地に立地。北方石田本郷村と谷中村の間に一一町余の飛地があった(郡村誌)。小田原衆所領役帳に諸足軽衆の富嶋某の所領のうちとして「河越筋石田」とみえる。検地は慶安元年(一六四八)に実施されたという(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高三五六石余・畑高一一一石余、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高四六九石余、反別田三四町七反余・畑一三町九反余、ほかに開発分高二七石余(反別田二町余・畑八反余)。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では高四四六石余・外高二三石余、名主二名。
『日本歴史地名大系』 「菅間村」の解説
 石田村の北、入間川右岸低地に立地。同川を隔てて対岸は比企郡釘無(くぎなし)村(現川島町)。戦国期府川郷の代官を勤めた竹谷氏が当地に居住、古くは下府川と称したという(芳野村郷土誌稿)。慶長一二年(一六〇七)の河越領菅間郷地詰帳(同書)では反別田四一町余・畑二二町三反余・屋敷一町六反余。このほか慶安元年(一六四八)にも検地が実施された(風土記稿)。
『日本歴史地名大系』 「谷中村」の解説
 石田村の東、入間川古川の右岸の低地に立地。小田原衆所領役帳に江戸衆の富永弥四郎の所領として「廿五貫文 川越谷中」とみえる。戦国期府川郷代官に任じられていた大野氏が村内に居住したという(芳野村郷土誌稿)。慶安元年(一六四八)の検地帳では名請人三三名、うち屋敷持二七。二町―一町所持八 名、一町―五反所持六名、五反以下一五名(川越市史)。
               
                石田藤宮神社 社号標柱           
 不思議と石田藤宮神社は石田地域の最北端に鎮座している。当初はその位置関係が理解できなかったが、嘗て石田・石田本郷・菅間・谷中の4村の鎮守社であることを考慮すれば、その地域内を総括できるこの地は絶好な位置関係といえよう。
        
                                            長い参道の先に社殿が鎮座している
 当社の創建年代は不明である。口伝によれば、かつて当地には藤の大木があり、神がその藤を愛でて下界に降臨したことから、神社を創建したという。「大正寺」が別当寺であった。大正寺は天台宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1908年(明治41年)の神社合祀により周辺の14社が合祀された。しかし、これらの合祀された14社のうち2社は、1952年(昭和27年)に復祀されている。
        
        参道右側に倉庫のような建物が見えるが、これは山車庫である。
        
                      拝 殿
『新編武蔵風土記稿 石田村』
 藤宮社 祭神詳ならず、神體は秘して人の見ることを許さず、本地佛彌陀・藥師の二軀を安ず、當村及び石田本郷・菅間・谷中の村々、古へは府川村の八幡社を鎭守とせしが、何の頃にや當社を勸請して、今は此四村の鎭守となせり、村内大正寺の持なり、末社 辨天社 天王社
 神明社 前と同じ持、
 大正寺 天台宗、仙波中院の門徒なり、光明山遍照院と號す、本尊阿彌陀を安ぜり、
 藥師堂
 大日堂
 地藏堂 以上二宇大正寺の持、

 藤宮神社  川越市石田七八三(石田字清蔵町)
 当地は口碑によると、往古、藤の大木があり毎年一丈もの花房を付けていた。ある時、この藤の花を神が愛でてそろりそろりとこの木を伝わり降りてきた。以来、村人は社を建て藤宮と名付け祀ったという。また、村人は豊かに下がる藤の花を稲の実りに見立て古くから作神として信仰したとも伝えている。
『風土記稿』によると、この藤宮は藤宮社と記され「祭神詳ならず神体は秘して人の見ることを許さず、本地仏は阿弥陀、薬師の二体を安ず」とあるが、現在の祭神は、天児屋根命・藤原鎌足公である。
 別当は、天台宗大正寺で神仏分離まで当社を管理していたが、その後、廃寺となった。大正寺跡は現在、社殿向かって右側のゲートボール場である。
 神仏分離直後の祀職については、明治三年の社蔵銅鈴に「奉納藤宮社ムサシノクニ入間郡 石田 菅間 谷中 石田本郷 右産土中 神主府川胤代」と刻まれている。
 明治五年に当社は、石田・谷中・菅間・石田本郷の四カ村の鎮守であることから村社となり、同四一年には四カ村に祀る一四社が合祀される。その内、石田本郷の稲荷社、同境内社の天満神社は、昭和二七年に旧氏子の要望により旧地に戻され、氏子より離れた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                   境内社・稲荷神社
              稲荷神社の奥には広い空間があり、今は児童公園となっているが、
                           嘗ては別当大正寺があったという

        
        境内に設置されている「筒がゆの神事」「石田の獅子舞」の案内板
 筒がゆの神事(川越市指定無形民俗文化財)
 毎年一月十五日の早朝に行われる。一年の作柄と天候を占う正月の行事である。大釜に小豆一合・米一升・水一斗の割合で入れて煮、その中に十八本のヨシヅツを束ねたものを入れる。先端に団子をはさんだカユカキボウでかき回してヨシヅツを取り出し、それぞれのヨシヅツに入った米粒の数を数える。それらは大麦・小麦・大豆・小豆・大角豆・早稲・中手・晩稲・あわ・ひえ・木綿・芋・菜・大根・そば・雨・風・日の出来不出来を表わしている。
 ヨシヅツを取り出した後の小豆粥は、食べると虫歯ができないと言われ、参加者にふるまわれる。
 昭和四十七年二月八日指定
 石田の獅子舞(川越市指定無形民俗文化財)
 四月第二日曜日(昔は四月八日)、七月十四日、十月十四日に行われる。獅子は大獅子・小獅子・女獅子の三頭で、山の神(ハイオイ)一人、ササラッコ四人で、提灯持ちとホラ貝吹きが付く。それに笛方と歌方数名が加わる。曲目は入端・岡崎・女獅子隠し・出端などで、農作物を干すような動作で舞うことから「干し物獅子」とも呼ばれている。舞の途中で「誉め言葉」「返し言葉」のやり取りが行われるのも特徴である。
 平成十六年三月二十四日指定

 また、当社所蔵の算額は、市の指定文化財で明治四年一二月に奉納されている。これは氏子の谷中住人大野旭山によるものである。大野旭山は名を大野佐吉といい、最上流算術指南として川越城主松平斉典に仕えた。また、川越藩の宮沢熊五郎一利からも学び、川島領新川堀の河川工事などに大きな功績を残したという。
 川越市指定有形文化財 書跡・典籍・古文書  石田藤宮神社の算額
 昭和四十七年二月八日指定
        
                   静かに佇む社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越市HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
 
 

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