古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小堤八幡神社

 小堤八幡神社の創建年代等は不詳ながら、正治元年(1199)現在の奈良県山辺郡より勧請して創建したと伝えられ、小堤村の鎮守社だったという。
『新編武蔵風土記稿 小堤村』
 此村往古は上小坂村なりしが、寛永の頃當村の南、鯨井村の界を流るゝ小畔川の縁通りに堤を築し故に、小堤村と唱へ改しと、按に郡中に下小坂村あり、入間郡に中小坂村接比すれば、恐くは上小坂村なりしなるべし(中略)村内に一篠の往還二町許係れり、路幅二間、西の方吉田村より、南の方鯨井村に達す、川越より越生へ通ふ路なり、【小田原北條家人役帳】に富島彦左衛門知行二十九貫五百二十五文小堤卯檢地辻と見へたるは、即ち當村のことなるべし、
 八幡社 村の鎭守なり、例祭八月十五日なり、能満寺持下同じ、 山神社
 能満寺 妙星山と號す、新義眞言宗、入間郡石井村大智寺末、本尊大日を安ず、開山詳ならず、開基は當村の里正長兵衛先祖のよし云傳ふれども、さだかならず、境内に淸水あり、淸冷愛ずすし。虚空蔵堂

 当社のそばには泉が湧き出ており、それが当社の創建に深くかかわった可能性がある。隣の能満寺が別当寺であった。
1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列格、字山神北の山の神と八幡橋の下手の戸隠神社とを合祀している。
        
              
・所在地 埼玉県川越市小堤286
              
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧小堤村鎮守・旧村社
              ・例祭等 不明
 平塚天満天神社から一旦南西方向に向かい、埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線に達した交差点を右折し、坂戸市方面に進路をとる。その後、小畔川に架かる「八幡橋」を渡った先で、進行方向斜め右手にこんもりとした小堤八幡神社の社叢と鳥居が見えてくる。
        
                  
小堤八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「小堤(こづつみ)村」の解説
 [現在地名]川越市小堤・鯨井新田
 下小坂(しもおさか)村の南西、鯨井・上戸(うわど)両村の西、小畔川左岸の低地および台地に立地。高麗郡に属した。もと上小坂村と称したが、寛永(一六二四―四四)頃小畔川に堤が築かれ、小堤村と改称と伝えるが(風土記稿)、小田原衆所領役帳に諸足軽衆の富島彦左衛門の所領として「廿九貫五百二十五文 小堤」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施された。
 
 社は、小畔川が作った段丘面に位置し、参道のある斜面は、鬱蒼とした斜面の森となっていて、遠くからも良くわかる。麓にある鳥居の脇には、古くから湧き続ける清水があり、水と緑がおりなす景観が楽しめる(写真左・右)。段丘面の崖下からは湧水が滾々と出てきていて、透明度も高く、その湧水は道路側に出る程豊富である。
 この神社を囲む森は、保存を目的とした「川越景観百選 ふるさとの森」に指定されている
        
          鳥居の先は石段が続き、その先に社殿が見えてくる。
 神社鳥居を一歩踏み入れると、そこは静まり返った社叢林が広がる。どこか日常を遠ざける神域のような雰囲気が感じられる。社を覆う森は、ヒノキ、杉、サワラなどで構成された「ふるさとの森」。鳥居の先の階段を上がると社殿が見えてくる。
 
石段を上り終えるとすぐ先に社殿が見えてくる。     参道右側に祀られている境内社                         
        
                    拝 殿
 八幡神社  川越市小堤二八六(小堤字八幡)
 当地は往古、上小坂村と呼ばれていたが、寛永のころ当村の南、鯨井村の境を流れるや小畦川に沿って堤を築いたことから、小堤村と名付けられた。
 当社は小畦川に近い段丘上で、小畦川に向き、川の氾濫から集落を守るように鎮座している。
社記によると、正治元年、現在の奈良県山辺郡より勧請したものと伝え、社殿は寛永一二年に再建されている。また、当社のすぐ下には古くから涸れることのない泉が湧き出ており、これは、村で最も古い開発である字八幡・字神明の水田を潤す貴重な水源であった。このため、古くからここに湧き出る泉と村人の信仰生活とが結び付き、社の創立もこれにかかわるものであったと思われる。
 祭神は、誉田別命で、本殿には白幣を祀っている。また、神璽があり、これは別当寺で納めたものと思われ、「南無八幡大菩薩」の神号が墨書されている。
 別当は幕末まで、真言宗妙星山能満寺であったが、明治に入り神仏分離により廃され、明治六年に村社となった。
 合祀は、字山神北の山の神と八幡橋の下手の小堤側にあった戸隠神社が行われた。
                                  「
埼玉の神社」より引用
        
                崖上面から鳥居方向を撮影 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越市HP」Wikipedia」等   

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平塚天満天神社


        
               
・所在地 埼玉県川越市平塚96
               
・ご祭神 菅原道真公
               
・社 格 不明
               
・例祭等 天王様 725日頃の日曜日
 川越市平塚地域は、同市北西部に位置し、東側には入間川、そして西側には越辺川支流小畔川に挟まれた低地に立地しており、水田と畑の広がる農業地帯である。
 途中までの経路は下小坂白鬚神社を参照。一旦埼玉県道256号片柳川越線に戻り、その後小畔川に架かる刺橋(とげばし)を渡り、南東方向に700m程進むと進行方向左側に平塚天満天神社が見えてくる。
 社の西側には「平塚自治会館」が隣接しており、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
                 平塚天満天神社正面
           社殿の後ろ側には埼玉県道256号片柳川越線が走る。
『日本歴史地名大系』 「平塚村」の解説
 鯨井村の北、入間川左岸で同川と小畔川に挟まれた低地に立地。高麗郡に属した。検地は慶安元年(一六四八)に実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高一六九石余・畑高一三八石余、ほかに野銭永三貫五〇〇文、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二五〇石余、反別田一四町四反余・畑二七町三反余、ほかに開発分高三八石余(反別田二町二反余・畑四町二反余)。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では高二三八石余・外高三五石余。秋元家時代郷帳では反別田一七町余・畑三一町一石余・野二町七反余、ほかに見取場田一畝余・畑一町一畝余、野永三貫一八一文、並木一ヵ所がある。
 
       鳥居に掲げてある社号額       規模は小さいながらも手入れの行き届いた社
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 平塚村』
 天神社 正光寺の持、
 正光寺 梅香山と號す、新義眞言宗、入間郡石井村大智寺末、本尊藥師を安ず、辨天社

 天満天神社  川越市平塚九六(旧平塚字天神後)
 当所は、入間川と小畦川とに挟まれた低地で水田と畑の広がる農業地帯である。古くは平塚村として一村を成し、隣村の平塚新田に鎮座する氷川神社が両村の鎮守となっていた。鎮守が新しく開けた平塚新田にあるのは、入植時に平塚よりも新田の方が戸数が多かったことによる。
 口碑によると昔、当社は村はずれの畑中にあり、川が増水すると神社が浸水するため、その都度本殿を担いで、村の中央にある真言宗梅香山正光寺の庫裏に移し、水が引くと元に戻していた。そのため本殿は一間社向唐破風造りの神輿型である。内陣には天神座像を安置している。
 明治初めの神仏分離後も当社は庫裏に留まったままとなり、畑中の社は空宮となっていたために“野良天神”“留守天神”と呼ばれ、別の天神であるかに思われるようになった。明治五年、正光寺は無住無檀を理由に廃寺となり庫裏は小学校として大正一二年まで利用されていたが、小学校の統合に伴い庫裏は取り壊され、本殿はその跡地に祀られるようになった。
 昭和五一年留守天神周辺の土地が県立川越農業高校の実習地として買収されるに当たり、留守天神が正式な社であることが確認されたのを機に、翌五二年、現社殿に改築し、正式に鎮座地を当地に改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
             社殿左側に祀られている境内社や石祠
            左側の石祠は道祖土神社。その隣は三峰社
        
                       社殿の右側に祀られている境内社・八坂社

 当社は725日頃の日曜日の天王様にて「平塚の獅子舞」を奉納しているという。
 市の指定は受けていないようだが、この「平塚の獅子舞」は、『川越の民俗芸能(2)』のよると、明治初年に平塚大火があり、獅子道具もすべて焼失したのだが、現在の獅子頭は明治77月に作りなおしたものなので、ここの獅子舞は明治以前からのものと思われる。
 嘗ては715日だったのが、田の仕事がばかに忙しかったので10日遅らせたのだという。
 獅子頭は大獅子・中獅子・女獅子。725日は、天王さまの前から行列を組んで村廻りに出る。笛は道下りの曲、1軒ずつ、庭まで入る。途中、馬頭観音の前と区長の家で舞うとの事だ。
        
                   境内の様子
           集会所近くにある松の木が不思議と印象的な社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越の民俗芸能(2)」等

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下小坂白鬚神社

 下小坂地域は、川越市北西部で入間川支流の一級河川である小畦川左岸に位置する。この地域は、『新編武蔵風土記稿 下小坂村』に「東西凡十三町、南北七町許、平坦の地なり」と記されているようにそのほとんどが低地である。但し、小畔川と入間川の合流地点を臨む地域南西部は台地面となっており、ここには弥生時代中期から人々が定住し、開発の進んだ地で、6世紀前半から7世紀にかけて「下小坂古墳群」と呼ばれた古墳が前方後円墳2基、帆立貝形古墳1基、円墳17基築造されたという。
 現在、下小坂
1号〜4号墳は破壊され既に存在はしていないが、これら古墳から出土された遺物が1988年(昭和63年)129日付で川越市指定有形文化財(考古資料)に指定されている。
        
              
・所在地 埼玉県川越市下小坂1002
              
・ご祭神 猿田彦命
              
・社 格 旧高麗郡下小坂村鎮守
              
・例祭等 例祭 715日前後の日曜日(下小坂の獅子舞)
 坂戸市中小坂地域に鎮座する中小坂神明神社から一旦南下し、埼玉県道256号片柳川越線を600m程進んだ小畦川に架かる「刺橋(とげばし)」の手前にあるY字路を左折し、小畦川に沿って北東方向に暫く進むと進行方向左手に下小坂白鬚神社が見てくる
*「刺橋(とげばし)」には興味深い伝説があるが、これは後ほど。
『日本歴史地名大系』 「下小坂村」の解説
平塚村の西、小畔川左岸の低地および台地に立地。高麗郡に属した(寛文四年の河越領郷村高帳ほかでは入間郡)。小田原衆所領役帳に小田原衆の松田筑前守の所領として「六拾二貫六百六拾壱文 下小坂」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。
 慶安元年(一六四八)の検地帳(平野家文書)が残り、田三九町一反余・畑三五町余・屋敷二町五反余、ほかに葭野など三町五反余。田園簿に村名がみえ、田高二一二石余・畑高一三五石余、ほかに野銭永二貫一二文、川越藩領。

        
                 下小坂白鬚神社正面
 参道を進み、社の鳥居のすぐ先には、二柱のご神木が聳え立つ。まるで寺社でいう随神門の如く、神域に邪気・邪悪なものが入るのを防ぐ阿吽の像、または門番のようで、両方とも幹周6m程あり並びたつ姿は圧倒的な存在感・重量感がある。樹齢500余年もある老木にも関わらず、樹勢は旺盛で隆起した根本はほとんど参道を塞いでしまっている。
             
 案内板によれば、社殿に向かって右側が「赤欅」で幹周り
600cm、高さ33m、左側は「青欅」と言われ幹周り595cmで、高さ26m。昭和47年(19722月に天然記念物の指定を受けた時、樹齢500余年と推定されたということから、現在は550余年となり、室町時代中期にはこの木は存在していたという事になろう。まさに下小坂のシンボル的な存在。
        
                 参道の先にある鳥居
           ケヤキのご神木の僅かな隙間から社殿か見える。
 因みに鳥居の左側には「下小坂の大ケヤキ(市指定天然記念物)」と「下小坂の獅子舞(市指定無形民俗文化財)」の案内板があるのだが、字が薄くて撮影してもはっきり見えないので、活字にて紹介する。
 下小坂の大ケヤキ(市指定天然記念物)
 神社境内にある二本のケヤキは、社殿に向かって右側が赤欅といわれ幹周り六〇〇センチで高さ三三メートル、左側は青欅といわれ幹周り五九五センチで高さ二六メートルである。昭和四七年に指定を受けた時、樹齢五〇〇余年と推定され、下小坂のシンボルといえよう。
 ケヤキは斎槻と呼ばれ、神聖な木として尊ばれてきた。
 昭和四十七年二月八日指定
 下小坂の獅子舞(市指定無形民俗文化財)
 現在は七月十五日前後の日曜日に行われる。悪疫退散を祈る天王さまの行事である。起源は元禄三年(一六九〇)とも、寛政年間(一七八九〜一八〇一)とも伝えられている。
 獅子は大獅子・女獅子・中獅子の三等で、仲立に先導され、その他花笠四人・棒使い二人など、全て男子によって演じられる。「トロヒャリホ」と呼ばれる女獅子隠しの曲目や小唄もあり、最後に獅子が走りぬけた後、千秋楽の歌を歌いながら、関係者が境内を一回り回って終了する。
 平成十四年二月二十五日指定                         案内板より引用

        
                   境内の様子
 参道付近は差し込む日光により眩しく感じられるのだが、目を転じて境内周囲一帯を眺めると、ここにも緑豊かな社叢林に覆われていて、村の鎮守様を連想するような社である。当初、ご神木である二基のケヤキの巨木・老木の存在感に圧倒された後に境内に入ったわけで、努めて冷静に参拝を行なおうと心に言い聞かせ、一呼吸した後に境内に入ったのが良かったのか、境内も静かに時間は流れ、なかなかの雰囲気ある社であることは確かである。
 
  参道左側に祀られている「石尊様」の石祠       石尊様の並びにある力石三基
                      左から45㎏(12貫)・80㎏(21貫)・101㎏(29貫)
        
               参道右側に祀られている(左より)神徳碑・大六天神・天神社
        
                                        拝 殿
 白鬚神社  川越市下小坂一〇〇二(下小坂字前谷)
 当地は川越市の北部、入間川支流の小畦川左岸に位置し、坂戸市と境をなす。そのほとんどが低地であるが、一部段丘となりこの上には市の文化財となっている鏡・刀子・馬具などが発掘された下小坂古墳群がある。
 当社は下小坂の東部に鎮座し、ここから西へ民家が広がっている。特に当社と並ぶ八軒は旧家で、八軒家と呼ばれている。
 また、地内を貫く秩父・川越・江戸を結ぶ街道が、小畦川を渡る荊橋の辺りには、小坂の河岸と呼ばれる船着き場が明治八年まであったという。
『風土記稿』には「白髭社 村の鎮守なり、永命寺の持」とあり、江戸時代真言宗薬樹山瑠璃光院氷命寺が別当であったことがわかる。
 当社創立にかかわる史料は、夕立ちが降ると水が出るほどの土地柄のためか残されていない。しかしながら、参道入口を挟んで、そびえるように並び立つ欅の大木があり、それぞれ目通り一六〇センチメートルあまり、樹齢五〇〇年といわれることからも当社創立の古さを物語っている。
祭神は猿田彦命であり、本殿は一間社流造り板葺きで、白幣を祀る。
『明細帳』には、境内社として八坂神社・三峰神社・稲荷神社・大六神社が載るが、現在三峰神社の所在が不明となっている。このほか明治四一年に字西尻より合祀した天神社が祀られている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                    本 殿
 
 社殿の左側に祀られている境内社・稲荷神社  本殿の左側脇に祀られている境内社・御嶽神社
        
      社殿右側に鎮座する境内社。「埼玉の神社」に載る八坂神社であろうか。

 嘗て小畔川は現在と違って屈曲が多いうえに流れが非常に速く、川を渡るのがたいへん難しかった。また、周辺の田も湿田が多くて、ちょっとした雨でもすぐ冠水してしまう状態だったという。
『川越の伝説』には小畔川に架かる「刺橋(とげばし)」に、伝承・伝説の類であるお話が残っている。
 刺橋(とげばし)のいわれ
 むかし、むかしのおはなしです。「でえだらぼう」といいます、山をつくることが得意な大男の神さまがおったそうです。富士山に腰をおろして、ひとやすみしたり、筑波山の男体女体をつくったり日本中を歩いておりました。ある時、秩父の方で山をつくることになり、川越の名細(なぐわし)あたりを通りかかりました。ドシッ! ドシッ! おおきな窪地をこさえながら歩いておりました。ちょうど小畔川(こあぜがわ)の近くまできたときです。とつぜん「いてて……!」とでえだらぼうがうずくまりました。なんと、足のうらに小さな刺がっさっていたのです。さすがのでえだらぼうもこれでは歩けません。すぐ刺をぬきまして小畔川の中ほどにつきさして、秩父へと向かいました。まだ、このころの小畔川は曲がりくねっておりまして川はばも広く、たいへんなあばれ川で、人々はなんとか、うまく渡れるように橋をかけようとおもっていました。ところが川のまん中におおきなクイがうってあるのでびっくり、すぐ村人を集め、りっぱな橋をかけました。あとで、これがでえだらぼうの刺だということがわかり、ありがたいことだと橋の名まえを「刺橋」とつけました。この刺のクイだけは、どんなに大水がでても、けっして流されはしませんでした。
            
 この伝承・伝説に出てくる「でえだらぼう」は、日本全国に伝承が残っている「ダイダラボッチ」に関連した説話と思われる。
 この「ダイダラボッチ」は、日本の各地で伝承される巨人で、山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられたり、別説では、鬼や大男などの妖怪伝承が巨人伝承になったという説もある。
 名称の「ダイダラボッチ」も類似の名称が数多く存在し「でいらんぼう・でいだらぼっち・だいだらぼう・だいらぼう・デエダラボッチ・デイラボッチ・デイラボッチャ等」、漢字名としては、大太法師(だいだらぼっち)、大太郎坊(だいだらぼう)とも表記し、九州では大人弥五郎(おおひとやごろう)と呼ばれてもいる。
 また埼玉県内には、ダイダラボッチの伝説が秩父地方を中心にして、たくさん残っている。
 一説によると、「ダイダラボッチ」伝説とタタラ製鉄を行っていた「古代鍛冶集団」との関係を述べる方々もいるようだが、今のところその真相は筆者にも分からない。
             
                境内から見たご神木の威容


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「川越市HP」「川越の伝説」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等

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斗合田長良神社


        
            
・所在地 群馬県邑楽郡明和町斗合田198
            
・ご祭神 藤原長良公(推定)
            
・社 格 旧斗合田村鎮守・旧村社
            
・例祭等 夏祭り 724日(斗合田の獅子舞) お日待 919
 下江黒長良神社から群馬県道369号麦倉川俣停車場線を東行すること500m程、丁字路を右折、農道を南下して行くと邑楽用水路に突き当たる前の左手側に古墳らしき塚と隣接する斗合田長良神社の境内が見えてくる。但しこの社にはお決まりの鳥居は見当たらず。
        
                            開放的な雰囲気の斗合田長良神社
 入り口付近には鳥居も社号標柱もないが、社殿前には一対の立派な狛犬が据えられており、境内も綺麗に管理されている。因みに「斗合田」は「とごた」又は「とごうた」とも読み、なかなか見慣れぬ地域名だ。この地域は明和町の最東端にあたる。地域南側には雄大な利根川堤防が延々と続き、高低差がない開放的な空間と雄大な田畑風景が続く地だ。
        
             社の南側には雄大な利根川堤防が延々と続く。
『日本歴史地名大系』 「斗合田(とごた)村」の解説
江黒村の東、利根川と谷田川の間に位置し、東は飯野村(現板倉町)、北は谷田川を挟んで赤生田(あこうだ)村(現館林市)・岩田村(現板倉町)。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえ、館林藩領。寛文郷帳によると田方三三石余・畑方三二一石余。天和二年(一六八二)の分郷配当帳では五五〇石余が旗本二家に分給されている。享保(一七一六〜三六)頃にも旗本数家の相給村であったとみられ、そのうちの一家金田領に関する同二年の年貢割付状(橋本文書)がある。高七三石余、田は五反余あるが、「皆荒」とある。上畑一町九反余(反二〇〇文取)・中畑一町八反余(反一七三文取)・下畑一町五反余(反一三〇文取)・下々畑七反余(反一〇八文取)など、屋敷六反余(反二二〇文取)。
『日本歴史地名大系』 「斗合田遺跡」の解説
 斗合田遺跡は谷田川と利根川とに挟まれた南傾斜する自然堤防状の微高地先端にある。標高18m程。昭和33年~34
年(一九五八〜五九)頃の土地改良の時に、三個体の土器が並ぶように出土したという。小型品を含めいずれも長頸壺で、弥生時代中期前半も下った段階のものである。胴上半以上に縄文地文をもち、その上に篦や櫛で連続山形文・円文・刺突文・大型波状文などを描く。
 また、斗合田には斗合田稲荷塚古墳があり、昭和297月に群馬大学史学研究室が発掘調査をした結果、7世紀後半、古墳時代末期の横穴式石室を持つ古墳と判明した。古墳内からは盗掘された残りの品と思われる遺物が発見されていたが、町の開発行為に伴い、令和2年に撤去された。同地区ではこのほかに、斗合田愛宕様古墳、斗合田富士嶽(ふじたけ)古墳も発見されている。
 斗合田富士嶽古墳に隣接する社こそ、地域の鎮守社である斗合田長良神社である。
        
                    拝 殿
斗合田長良神社の創建時期や由緒等は不明である。但し「明和村の民俗」や「明和町の文化財と歴史」に載せられた記述で、断片的に知ることができる。

「明和村の民俗」
長良神社の祭りは一月十五日と九月十五日であった。特に一月はオヒマチ(お日待)といってどぶろくが振舞われたが、今はしない。
お日待 ー年のうちで「お日待」と呼ばれるのは919日の長良神社のお祭りの日だけである。この日は、家から出た子供たちがお客にくる。
ひでりで雨乞いをするときは、鎮守様(長良神社)に寄って板倉の雷電様にお詣りし、その後は各部落から二名ずつ出て雷電様にニッサンする。ニッサンは雨が降るまで続ける。鎮守様にたらいを置いて雷電様からもらってきた水を入れて他の水と一緒にして増やし、各耕地に配り、それをあちこちの畑にまいた。雨が降ると、オシメリ祝いに鎮守様に集まり村中で雷電様にお詣りし、酒などを飲む。
雹乱除けは今では五月三日に、村の男衆が集まって長い竹の先に、藁で巻藁状につくってつける。その部分は上・.中・下三段にしばり、中央に菱形の「天狗の面」と称する模様をつける。上部に三本の竹をさし、これを「矢」という。これは神社の神木のテッペンの高い所に立てたのである。これは、麦、小麦が、雹乱にあわないようにするのである。

「明和町の文化財と歴史」
町内に獅子舞が斗合田、下江黒、千津井、江口の4地区に残っている。なかでも、斗合田の獅子舞は「天下一獅子舞」として知られている。この獅子舞の起源については不明であるが、獅子舞の長持ちの底に「天下一獅子舞日光文 流(ふばさみりゅう)、館林宰相右馬頭(徳川綱吉)宝永3年(1706年)624日」と記されているので、それ以前から行われていたことが伺える。この獅子舞は「天下一獅子舞」の 幟に、火男(ひょっとこ)をつけた道化役がいたり、真剣で踊ったり、天狗面をつけ、錫杖を鳴らして歩いた者がいたと言われることから、山伏が伝えたものと思われるが、その発祥地は日光文挟であると言われている。
 獅子舞は雄獅子、中獅子、雌獅子の3人組で、舞方は神事芸能的なものとして祓い清めたり、悪魔を調伏したり、空に向かって祈る仕草が多い。囃方は篠笛が主体の笛に合わせて舞うようになっている。舞いはうず女(雌獅子とり)、鐘巻(かねまき 蛇のみ)、平ささら、橋わたり、弓くぐり、梵天、笹刀がりの7種類である。獅子舞は7月下旬の夏祭りに行われ、地区の境界地や各寺社、役職の家を天下泰平、五穀豊穣を願って巡行する。後継者の育成は小学校6年生の長男と限られていたが、現在では、全56年生の中から受け継がれている。天下一という由来は、昔、旱魃で農作物が枯死寸前の時に館林城で雨乞いが行われ、斗合田の獅子舞も参加した。やがて順番となりこの獅子が雨乞いをすると、にわかに空がかき曇り、みるみるうちに雨が降ってきたので殿様が「この獅子こそ天下一の獅子である」と言われたため、以来、こう名乗るようになったと伝えられている。
        
            社殿の後ろにある斗合田富士塚古墳(円墳)
 階段下両側にはそれぞれ石碑があり、左側に「長烏帽子 食行霊神」。右側に「小御岳神社」の石碑があり、墳頂部には富士塚の石祠が祀られている。

 この地域は、嘗ては富士信仰も盛んであったらしく、梅原・斗合田・矢島などの地域に見られる立派な富士塚は、この地域の富士信仰の姿を示しているし、現に「初山」には、館林市小桑原の富士嶽神社と斗合田村の富士嶽神社へお参りに行くとの事だ。
       
             境内北側に祀られている石祠と末社二基
             右側に石祠は稲荷大神。左側の木宮は不明。

 利根川と谷田川という一級河川にはさまれ、その上大小さまざまの用水路や排水路があって、低地に存在する明和町の歴史は、水との戦いの連続であった。江戸時代から三年に一度は水害に見舞われ、明治四十三年の利根川大洪水をはじめ、昭和二十年代における三度にわたる水害に、村の人々は言語に絶する辛酸をなめてきた
 明和町は洪水の常襲地でありながらしばしば旱魃の害も受けた。したがって雨乞いがさかんに行われた。ひでりで雨乞いをするときは、鎮守様(長良神社)によって板倉の雷電様にお詣りし、その後は各部落から二名ずつ出て雷電様にニッサンする。ニッサンは雨が降るまで続ける。鎮守様にたらいを置いて雷電様からもらってきた水を入れて他の水と一緒にして増やし、各耕地に配り、それをあちこちの畑にまいた。雨が降ると、オシメリ祝いに鎮守様に集まり村中で雷電様にお詣りしたという。
       
              境内東側から見た斗合田富士塚古墳

 斗合田地域東部には、県道369号線沿いに天神宮、また、地域北東側で谷田川の堤防南側に赤子稲荷神社と、それぞれに小さな社が祀られている。嘗て斗合田村に属し、耕地毎に祀られた社であったのであろう。

   県道369号線沿いに鎮座する天神宮     斗合田地域北東部に鎮座する赤子稲荷神社 



参考資料「日本歴史地名大系」「明和村の民俗」「明和町の文化財と歴史」等 


  

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下江黒長良神社

 現在の上・下江黒地域は嘗て「八ッ塚村」と呼ばれていたという。この地域周辺には、古墳が八つ程あったので、この名称がつけられたという。明和町内には直径10m程の江黒古 江黒古墳があり、墳丘の保存状態もよく、明和村が町になって以降も、明和町の指定文化財になっている。
 また、平成2年には江黒古墳付近の道路拡張工事に伴い上江黒地内を発掘調査したところ、古墳時代の石器や土器等遺物が発見された。また、斗合田には斗合田稲荷塚古墳があり、昭和297月に群馬大学史学研究室が発掘調査をした結果、7世紀後半、古墳時代末期の横穴式石室を持つ古墳と判明した。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町下江黒507
             ・ご祭神 藤原長良公(推定)
             ・社 格  旧江黒村鎮守
             ・例祭等 例祭 7月第三日曜日(下江黒の獅子舞)
                  秋祭り 11月23日
 下江黒は群馬県邑楽郡明和町にある地域で、町内の北東部に位置している。利根川や谷田川が流れているこの地域は高低差のない周囲一帯広大な田畑風景が広がっており、その中には住宅や工場の集中するエリアもみられる。現在は上・下と江黒地域は分かれているのだが、嘗ては「江黒村」として一村を成していた地域。地図を確認すると、お互いの地域境に沿ってではなかろうが、『東北自動車道』が見事なまでに二つの地を分断するかのように南北方向に走っている。
 途中までの経路は田島長良神社を参照。群馬県道369号麦倉川俣停車場線を東行する。途中同県道304号今泉館林線との重複路となる「上江黒」交差点で丁字路となるようにも見えるが、実際は右方向に道なりに直進となる。上記交差点から更に東行すること1.4㎞程、東北自動車道の高架橋を上に見ながら更に進むと、こんもりとした社叢林と下江黒長良神社の朱色の鳥居が進行方向左斜め前方から小さいながらも見えてくる
 因みに一の鳥居の手前には、社の脇に回り込める小道があり、周辺には車を充分停められるだけの空間もある。
       
                                                       下江黒長良神社一の鳥居
『日本歴史地名大系』「江黒村」の解説
 [現在地名]明和村上江黒・下江黒
 千津井村の北、谷田川右岸に位置。伝えによれば地名は、康平五年(一〇六二)源義家の軍馬江黒が病死、当地宝寿(ほうじゆ)寺に埋めたことに由来するという。「鶏足寺世代血脈」によると、鶏足(けいそく)寺(現栃木県足利市)二九世尊誉は、永和二年(一三七六)「佐貫江黒宝寿寺」で大日経疏を読誦している。宝寿寺は現存し真言宗豊山派。中世は佐貫庄に含まれ、応永四年(一三九七)同庄羽継(はねつく・現館林市)大袋の住人弥九郎は、知行所の「江黒郷之内こんとうかはらの御堂かいとの在家」を世良田(現新田郡尾島町)の了清に売渡しており(同年一二月二五日「弥九郎在家売券写」正木文書)、江黒郷近藤原村は同三三年一二月一九日の青柳綱政畠売券写(同文書)ほかにもみえる。

 冒頭にも載せているが、現在の上・下江黒地域は嘗て「八ッ塚村」と呼ばれていたという。古墳が八つ程あったので、この名称がつけられたといわれる。永承6年(1051年)陸奥の安倍氏の反乱で源頼義は陸奥守兼鎮守府将軍として、長男の八幡太郎義家(新羅三郎義光の兄)とともに安倍貞任、宗任の征伐に向いこの村を通った時、義家の乗った愛馬の「江黒(えぐろ)」がここで倒れてなくなった。義家はこの地に愛馬をねんごろに葬ったので、このことから八ッ塚村を江黒村と改めたと言い伝えられている。
 この伝承・伝説は『明和町HP』の「明和の昔ばなし」に「八ッ塚村とエノクロ」として載せられている。
「明和の昔ばなし」はこちらをクリック⇒
 https://www.town.meiwa.gunma.jp/life/soshiki/seisaku/7/8/index.html
        
      一の鳥居から参道の先に目を向けると同じく朱色の二の鳥居が見えてくる。
 一の鳥居もそうであったが、二の鳥居も両部鳥居になっている。俗に両部鳥居とは、「両部神道」に属する社が設置を許可された鳥居で、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居で、名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残である。平安時代以降は、僧侶による仏家の神道理論が成立し、当時の仏教界の主流であった密教二宗のうち真言宗の教えを取り入れたのが両部神道である。と言う事は嘗て真言系寺院の管理下にあったのだろうか。
        
          二の鳥居から境内に向かう途中には鬱蒼とした林が覆う。
         社の尊厳性、神秘性を増す効果は抜群だ。やはり社には社叢林は欠かせない。
        
                    拝 殿
 当社の創立年代や由緒は不明。『明和村の民俗』では、下江黒の長良神社は、瀬戸井の長良神社からの分社であるといわれている。

 明和町内には獅子舞が斗合田・下江黒・千津井・江口の4地域には残されている。当地域の「下江黒の獅子舞」に関して、起源については、詳らかでないが、昔、埼玉県の大越地方から伝えられたといわれ、獅子舞の道具を格納してある長持ちに元治元年(1864)と記載されてあるところからおそらくそれ以前より行われていたものと推定されるものの詳しくは不明である。
 祭日は713日から3日間行われたが、現在では7月の第3日曜とし、前日は準備、当日の午前を本祭り、午後は厄神除けを行っている。
 流派は不明であるが、舞のやり方は前・中・後の三頭の獅子が竜頭をつけ上衣、はかまわらじをはき、太鼓を前腰につけ、叩きながら笛に合わせて四隅に花笠をのせた子供が立つ中で舞うという。明治四十三年の洪水以前には獅子頭の黄色い布の中に四人も入って舞うササラがあった。獅子頭は三頭分ある。棒術使いがいて、一本使いのササラだった。
・由緒、流派 不詳
・獅子 一頭一人立三頭組雄(獅子・中獅子・雌獅子)
・曲目 ヒラ・チュンロレ・オンベ・うず女・橋がかり・ 鐘巻・花がかり
・楽器、諸道具類 腰太鼓(三-)、笛(七穴、現在六人)、花笠、ボンデン、橋(橋がかり用)、 鐘(棒卷用、つり鐘の形をしたもの)、衣装一式(長袴、黒足袋、わらじ等)
        
              社殿の手前で境内西側に祀られている境内社
          中に神々が祠として祀られているようだが、詳細は不明だ。

 下江黒の獅子舞の本祭りは、嘗ては旧暦615日。この朝、むらの人たちは朝飯を食べずに八坂様に集まった。そして供物に上った赤飯を食べた。このあと、獅子は行列を組んで村を廻り、主 要な箇所で、獅子舞を行った。
 行列の順序は次の通りである。
 花笠-笛-獅子(雄獅子・雌獅子・中獅子)-諸器の係(かかりのもの等を舞うときの大道具、小道具等)。
 廻る順序や各所で演ずる曲目等は次の通りである。
 八坂神社を出発するとき、まず笛は前奏曲を奏する。出発すると笛は道中笛に変る。道中笛は「一つとや」「子守唄」(ねんねこぶし)「数え唄」等五種類ほどある。
長良神社の境内に入るとき笛は「二八」の曲となる。ここでは獅子はオンベを舞う。次に八幡様(長良神社境内未社)で、チュンロレを舞う。次に氏子衆の碑前(同社境内)と金剛院の不動様の前で、同じくチュンロレを舞う。次に戦死者の供養塔等の前でチュンロレを舞って午前の部は終りとなる。
 昼食後、午後は上江黒の宝寿寺で「本ニハ」を舞う。本ニハとは前述した曲目のうち、オンベ、ヒラ以外のものである。例えば「橋がかり」のようなものである。次に同寺の境内にある馬頭観音の前で本ニワを舞う。次に区長宅⇒師匠宅と廻って本ニワを舞う。(現在では省略している)次にスリコミと称して以前は獅子宿で宿礼として本ニワを舞ったが、現在では金剛院の庭で間に合わせている。
 本祭りの翌日には厄神除けがあり、最初に獅子は村の神社と希望する村の家を二尸一戸廻った。獅子は縁側から家に入って各部屋を廻って、台所に下り、トボロから表に出た。これが済むと辻廻りといって、部落の境界へオンベを納めてるという。

      社殿右手裏にある石碑      石碑の左側には小さな石祠が祀られて
                           いるが詳細不明。
       
                         社殿から眺める鳥居の一風景 

 上江黒地域では、男子が成年に達した年には正月十五日に的射を行ったという。後耕地では笠置(オカザキ)様で、宿耕地は天神様で行った。明治末年ごろまで行われたが、その後は絶えてしまったとの事。厄落しだという。谷田川から葦を切ってきてそれで径三尺位の的を作った。宿耕地では、「天保三年吉日」と書いてある幕を曳き巡らしてその中で的射をした。こうして弓を引いてから、その的は日本刀で切ってしまう。というのも的は厄であり、厄を切っておとすのだという。鎮守の長良様には、その成績を書いた額があるという。
 下江黒地域でも的射行事はあり、正月に長良様の末社の八幡様の境内で行った。人はきまっていな い。近郷の人も来て射た。的は紙でつくり、杉の木につるしてこれを弓で射ったので、しまいに的は切って捨てたという。旧江黒村鎮守である社ゆえに、現在は上・下と行政上は分かれていても、古くからの伝統行事には現在の行政区分は関係はないのだ。

 また、二月七日には「雹嵐除け」があり、長良神社の神主からボンデンをもらって来て境内の高い木の上に立てた。また百万遍の数珠を廻した。サシ番が耕地の反別割りで金を集めて村中の人が、長良神社に集まって飲んだ。この日からオレグリまでの間、板倉の雷電様へ二人ずつ組んで、雹嵐がないように日参する。その当番のことを日参番という。




参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP 明和の昔ばなし」「明和町の文化財と歴史」
    「明和村の民俗」 「Wikipedia」等
 

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