古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上江田町勝神社

「江田郷」は新田庄内の郷の一で、現在の上江田・中江田・下江田一帯の南北に長い地域であった。仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)で、新田義重から庶子の義季の母に譲った空閑郷々一九ヵ郷のうちに「えたかみしも」とみえる。
新田義季(にったよしすえ)は平安時代末期から鎌倉時代初期頃にかけての武士・御家人。得川氏・世良田氏の祖。のちに徳川家康が清和源氏を僭称する際に松平氏の遠祖とみなされる。新田義重の四男として誕生。新田義兼の同母弟といい、新田一門でも地位はかなり高かったと言い、父・義重からは上野国新田郡(新田荘)世良田郷を譲られ、世良田郷の地頭となった。これにより世良田と称したともいわれる。また新田郡得川郷を領有して、得川四郎を称したとされる。
 世良田郷を支配する新田氏流世良田氏の一族に江田行義を輩出する。『太平記』によれば元弘3年(1333年)5月、惣領家の新田義貞の挙兵に従い、鎌倉の戦いにおいて同族の大舘宗氏と共に極楽寺坂方面の大将を務めたとされている。
 上江田地域には、鎌倉攻めに従軍した江田行義(えだゆきよし)が住んでいた「江田館跡」があり、昭和22年に県史跡第1号として指定、さらに平成12年に新田荘遺跡として国史跡に指定されていて、ほぼ築造された当時の姿をとどめている貴重な館跡という。この江田館跡」の北側近くに旧村社である上江田町勝神社は鎮座している。
        
             
・所在地 群馬県太田市新田上江田町1070
             
・ご祭神 (主)長佐男命 
                  (配)火産霊命 木花咲屋姫命 大物主神 疱瘡神 

                     
建御名方神 速須佐之男命 菅原道真公 宇迦之御魂神
                     ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
                          *追伸 参拝日 2023年7月26日
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2988606,139.2872972,17z?entry=ttu

 中江田町矢抜神社の西側には群馬県道69号大間々世良田線が南北方向に通り、その県道を2.2㎞程北上する。「やすらぎ団地」交差点の一本手前の丁字路を左折して、350m程道なりに直進すると進行方向右手に上江田町勝神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「勝」と書いて「すぐる」と読む。変わった社名だ。
 社の西側隣には「すぐる公園」があり、駐車スペースもしっかりと完備されているので、そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                                 上江田町勝神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「上江田村」の解説
 [現在地名]新田町上江田
木崎台地の北端部とその周囲の沖積地にあり、西境を石田川が南流する。北は金井村、東は赤堀村、南は中江田村・高尾村、西は上田中村。銅山(あかがね)街道が南北に走り、当村中央で東南へ折れ木崎宿方向へ向かう。元禄(一六八八―一七〇四)以前は真っすぐ南下しており、両経路の分岐点には、承応年間(一六五二―五五)頃とみられる安山岩製三面六臂の青面金剛像の庚申塔が立つ。
仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に空閑郷々一九ヵ郷の一として「えたかみしも」とみえ、庶子らいわう(義季)の母に譲られている。建治三年(一二七七)一二月二三日の尼浄院寄進状案(同文書)には「上江た」とみえる。新田義重の根本私領の一つで、世良田家流に伝領されていった(→江田郷)。世良田頼氏の一子満氏、世良田義有の子行義はともに江田氏を名乗った。
 *一九ヵ郷…「上江田・下江田・田中・小角(こすみ)・出塚(いでづか)・粕川・多古宇(高尾・たこう)」等。
        
                 南北に長い舗装されていない参道 
              参道の両側には桜の木々が数多く並ぶ。 
 上江田町勝神社の南側には「江田館跡」があり、「太田市HP・新田荘の成立と発展」には以下の記載がある。
 木崎台地の西端部に立地しています。新田荘を代表する館跡で、昭和22年に県史跡第1号として指定されましたが、平成12年に新田荘遺跡として国史跡に指定されました。 堀之内と呼ばれる部分は、東西約80m、南北約100mの方形で、堀がほぼ全周し、この内側には土塁が巡らされています。南辺と東辺の二ヵ所では堀が切れ、虎口(こぐち)が造られています。堀の東辺と西辺には、「折れ」があります。周囲には黒沢屋敷、毛呂屋敷、柿沼屋敷と呼ばれる曲輪があり、戦国時代に城郭化されたと推定されます。築造年を示す史料はありませんが、反町館跡と同様、鎌倉時代から南北朝時代の築造と推定されています。鎌倉攻めに従軍した江田行義(えだゆきよし)の館であったと伝えられ、その後戦国時代には金山城主横瀬(よこぜ)氏の家来・矢内四郎左衛門(やないしろうざえもん)が館を拡張して住んだと伝えられています。北側の土塁には、「義貞(ぎていさま)様」と呼ばれるお宮があります。この時代の平城は通常堀が埋められたり、中に建物が入ったりして形が変えられてしまいますが、江田館跡はほぼ築造された当時の姿をとどめている貴重な館跡です。 
        
    参道途中右手の林に隠れて「村社勝神社合併」及び「新築落成記念碑」がある。
        
                                       拝 殿 
        
                  拝殿に掲げてある「勝神社の由来」と記してある案内板
 勝神社の由来
 享和二年壬戌(一八〇二年)三月吉日付の由来記によれば概ね次の通りである。
 記
 伊予国(現在の愛媛県)の領主である勇将河野四郎通信は若い頃から豊後国(現在の大分県)の宇佐八幡宮を深く信仰し、たびたび参拝をしていたが老年になり遠い豊後国まで行くことができなくなったので居住地の近くにある勝山と云う所に宇佐八幡宮を祭り熱心に拝礼を重ねた。この四郎通信の誠心が神に通じ河野一族は繁栄を続け、やがてその勢力は四国を領有し瀬戸内海をも制圧し遠く中国地方の数か国まで掌中に入れた。
 当地方を領有していた新田太郎義重公(八幡太郎源義家の孫)は宇佐八幡宮を懇望され当江田郷に宮を勧請する。勝山より移し奉る故に勝大明神と崇め奉る。
「右のような内容の由来書が当村千吉良家に保存されていたのを坂庭氏が見たのであるが由来書は現在行方不明である。この由来書が発見されない場合勝神社の由来が不明になる恐れがあるので、氏子のために記す。後日この由来書が出て来たら詳細に伝えてもらい度い」とある。
 今度享和二年の由来記を再現しこれを後世万代に伝え当社、氏子各位の益々の繁栄隆盛を祈願するものである。(以下略)。
                                      案内板より引用

 案内板に登場する「河野通信」は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての伊予国の武将で、伊予国(愛媛県)の在庁として有力な武士団を構成した。源頼朝をはじめとする反平家勢力が挙兵した治承・寿永内乱の際は,いちはやく源氏方に立ち、その功績によって鎌倉殿源頼朝に直接臣従を許され,所領を安堵された。文治5(1189)の奥州合戦に従軍、正治1(1199)の梶原景時排斥に参加するなど鎌倉に常駐。その奉公を賞されて,建仁3(1203)伊予への帰国に際し、守護に属さず国内の近親・郎従を統率する権限を与えられている。
 更に北条時政の婿となり、幕府の権威を背景として伊予国内に勢力を拡大したが、承久の乱で京方に立ったため奥州平泉に流され、配所で没したという。
 
      境内社・柊稲荷神社             境内社・八坂神社
        
            柊稲荷神社の並びに祀られている石祠群等。中央の石塔は「大山祇神」 

「勝神社の由来」に新田家と直接関係のない河野通信の事を記しているのであろう。確かに新田義重と河野通信は同じ年代に生きた者同士ではあるが、四国・伊予国と関東・武蔵国とはかけ離れた場所に位置し、両者の関わったエピソード等も筆者が調べた限りにおいて皆無だった。
 だからといって新田家と伊予国には、特別な関係が存在することも確かであったようだ。
 元弘の乱において北条家が滅亡し、後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」が3年程で挫折し、足利尊氏を中心とする「武家方・北朝」と、天皇新政を維持しようとする「宮方・吉野朝」が60年間、熾烈を極める戦いを各地で行う南北朝時代初期、宮方の中心人物の一人であった新田義貞の元には伊予国・河野一族から土居通増・得能通綱が共に摂津等の各地で足利の大軍と戦っている。後に、新田義貞が皇太子尊良親王を奉じて越前に赴くとき、この両氏も従ったが、土居通増は越前の荒乳の山中において大吹雪の中に戦死し、得能通綱は福井県の金ヶ崎城において尊良親王が自害されたのでこれに殉じた。
 新田義貞戦死後、新田家は弟義助を中心として一時的に越前国を掌握したが、其の後室町幕府軍に敗れて越前から退いた。吉野の後村上天皇の行宮に参内した後、中国・四国方面の総大将に任命されて伊予国に赴く。当時、伊予国は南朝の根拠地のような有様で、義助は桜井の国分寺に入り、その後、周桑郡の世田城によって、新田氏族である大館氏明を前衛として、伊予の土居氏・得能氏を指導する。一時は勢力をふるい、讃岐の武家細川勢に対して攻撃しようとした直後、伊予国府で突如発病し、志半ばで病没した。
 義助か亡くなると、阿波国の細川頼春は、伊予を攻略した。世田城に拠った大館氏明の城兵は、優勢な細川勢を、よく防いだが、糧食の欠乏に苦しみ1342(興国3)年9月、氏明は戦死をとげた。
        
                                  社殿からの風景
 新田義助の子義治は、里見氏の所領がある越後波多岐荘や妻有荘に向かい、義貞の次男義興、三男義宗らと合流して東国で活動するようになるが、その後の詳しい消息は不明である。伝承では山崎荘(現在の伊予市大平)に来て没したともいい、義治を祀った「新田神社」もあるそうだ。

 南北朝時代、多くの新田氏族は北は青森、南は九州鹿児島と、日本各地に赴き、転戦を重ねていた。筆者の勝手な推測ではあるが、その一族のだれかが伊予国で河野氏との接点を持ち、故郷の新田庄に帰還した際にその話を持ち込み、武士としても縁起の良い「勝」を冠した社を建てたのではなかろうか。

 因みに新田氏発祥の地である群馬県太田市と、脇屋義助が病没した地である愛媛県今治市は、2002年に姉妹都市提携を結んでいる。 


参考資料「日本歴史地名大系」愛媛県生涯学習センター 双海町誌」「Wikipedia」
    「太田市HP・新田荘の成立と発展」「境内案内板」等
   

拍手[0回]


中江田町矢抜神社


        
             
・所在地 群馬県太田市新田中江田町1134
             
・ご祭神 経津主命 猿田彦命 埴山姫命 倉稲魂命 鎌倉権五郎景政
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2811831,139.2870552,18z?entry=ttu

 新田下江田矢抜神社が鎮座する下江田地域から北側に接して中江田地域があり、同名の社が鎮座する。上記神社とその東側にある最勝寺の間の道路を北上し、東武伊勢崎線、国道354号新田太田バイパスを越えた群馬県道312号太田境東線との交点である十字路を左折する。現在この県道は通称日光例幣使街道とも呼ばれているが、この県道を600m程進むと、進行方向右手に中江田町矢抜神社の社号標、その奥に木製の鳥居が見える。
        
          県道沿いにある社号標柱と、その奥に建つ一の鳥居
    写真では分かりずらいが、鳥居の正面には、自然石の庚申塔が祀られている。
              *追伸 参拝日 2023年7月26日
 日本歴史地名大系 「中江田村」の解説
 [現在地名]新田町中江田
 南西境を石田川が流れ、東は木崎村、南は下江田村、北は上江田村、西は高尾村。村域は木崎台地の南西部とその南西方の沖積地帯を占め、中央を東西に日光例幣使街道が走る。
 中世には新田庄に属し、仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に「えたかみしも」とみえる。当村は下江田郷に含まれたらしく、文亀三年(一五〇三)頃同郷から分れたとも伝えられる。
 近世は寛永三年(一六二六)阿部忠秋領となり、阿部氏の転封・加増に伴い同一二年下野壬生藩領、同一六年武蔵忍藩領となる。
        
 一の鳥居から北上すると広い境内が見え、その正面には赤を基調とする二の鳥居が見える。

 新田下江田矢抜神社内にある「新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿」の案内板によれば、
「このあたりは中世新田氏の一族江田氏の所領で、江田郷と称した地でした。その後、南北朝の争乱で新田氏が敗れたため足利氏の支配に移り江田郷も分割され、当時中江田村森下にまつられていた矢抜神社を分社し、中江田と下江田の現在地へ勧請してまつったと伝えられ」
たという。
        
       陽光が差し込む境内に対して、社殿奥には緑豊かな社叢林が広がる。
この社叢林の中に「矢抜神社古墳(木崎町2号古墳)」といわれる古墳時代の円墳が存在している。
        
                     拝 殿
        
          拝殿向拝部及び木鼻部には精巧な彫刻が施されている。
   
     拝殿前に設置されている案内板             本 殿
 惣鎮守矢抜大明神神宮建立
 神亀5甲子年4月朔日(奈良時代 聖武天皇の時代)
 中江田村森下(現在の粕場 東武線のところ)
 万治元年(1658年)929日 中江田村と
 下江田村の分村により中枝村宿通り(当時)
 に転祭されたとある

 初代宮司 江田和泉守氏清より始まり
 現在 第49世代宮司

 矢抜さま 昔をしのぶ 神楽殿
 平安時代の武将、「平 景正」が戦いで矢が目にさ
 さり引き抜いてまで奮闘した伝説があります
 中江田の人々はこの偉業をたたえて「矢抜神社」
 と命名したと伝えられています
                                      案内板より引用
 中江田町矢抜神社のご祭神の一柱に「鎌倉権五郎景政( 景正)がいる。この人物に関しては、既に「上奈良豊布都神社」「高本高城神社」でも紹介しているが、平安時代後期の実在した武将であり、祖先は桓武平氏の流れであったという。
 父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる。また『尊卑分脈』による系譜では、景正を平高望の末子良茂もしくは次男良兼の4世孫とし、大庭景義・景親・梶原景時らはいずれも景政の3世孫とする。他方、鎌倉時代末期に成立した『桓武平氏諸流系図』による系譜では、景正は良文の系統とし、大庭景親・梶原景時らは景正の叔父(あるいは従兄弟)の系統とする。
 16歳の頃、後三年の役(永保3年〈1083年〉〜寛治元年〈1087年〉)に従軍した景正が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。
 鎌倉市坂の下に,彼をまつる御霊神社があり,〈権五郎さん〉の通称で親しまれているが,奥羽地方には,目を負傷した景政が戦場からの帰途に霊泉に浴してその矢傷を治したという,いわゆる〈片目清水〉の伝説を伝えるところが多く,また景政を神としてまつる風習が広くおこなわれている。柳田国男が説いた〈目一つ五郎〉の信仰で,〈五郎〉を〈御霊〉に付会したものだが,《吾妻鏡》によると,1185年(文治1)の夏から秋にかけて,鎌倉の御霊神社にしきりに神異があったことが記されており,その託宣が人々に崇められていたことが知られている。
 中江田町地域に鎮座するこの社の案内板には、伝説に関して、その奮闘ぶりを讃え「矢を抜く」⇒「矢抜」と命名したとのことだが、この人物は後に「御霊信仰」の神、または「一つ目信仰・古代鍛冶集団」の神とも併せ持つ神と変貌してもいる。この事項は良く知ってご祭神としているのであろうか。
        
        社殿奥には小高い丘上となっていて、そこには幾多の石祠が祀られている。
 
    拝殿手前で左側にある神楽殿       境内にある「合祀記念」の石碑
                    合祀記念
             嚮者官發合祀之令也中江田郷當合祀者有
             五社迺請宮得其聽許而合祀於村社矢抜神
             社祭神經津主命猿田彦命埴山姫命倉稲魂
             命鎌倉權五郎景政而茲謹記其年月社號神
             名永傳于後記曰明治四十一年八月二十四
             日無格社諏訪神社祭神建御名方神境内末
             社秋葉神社祭神火産霊命無格社嚴島神社
             祭神市寸島比賣命境内末社愛宕神社祭神
             火産霊命無格社淺間神社祭神木花之佐久
               夜毘賣命宇迦之御魂命(以下略


参考資料「
日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」
    「新田下江田矢抜神社内・新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿の案内板」等

拍手[0回]


下崎八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市下崎1251
              
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧下崎村下分鎮守
              
・例祭等 例大祭914
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1050109,139.5588474,17z?entry=ttu

 下崎氷川神社の正面入り口から南側に伸びる道路を進む。当初の目的は、この下崎氷川神社の社号標がない事、参道に真っ直ぐ伸びる道路の先に何かあるのではないかと思い、その道を南下したわけだが、結局のところ何もなく、丁字路に当たってしまった。あまり期待していたわけではなく、単にモヤモヤしていた事項が解決できたという事で、次の参拝場所へと気持ちの切り替えはできた。
 その丁字路を左折し、600m程進んだ場所に下崎八幡神社の鳥居が見えてくる。
 同じ「下崎」地域に鎮座している社故に、意外と近距離(上崎雷電神社と下崎氷川神社との距離程ではないが)で、道順も分かりやすい。
        
       加須市下崎地域のほぼ中央部で、田園地帯の中に鎮座する下崎八幡神社
『日本歴史地名大系』には「下崎村下分」の解説が載っている。
 [現在地名]騎西町下崎
 騎西町場(きさいまちば)の南に位置し、西は下崎村上分。もとは上分と一村で、正保四年(一六四七)の検地の際分村したという(風土記稿)。
 
現栃木県日光市輪王寺蔵の大般若経巻第一四九の応永三年(一三九六)付奥書に「武州崎西郡葛浜下崎郷光明寺」とみえる。田園簿では下崎村一村で高付され、田高六四七石余・畑高三八六石余、川越藩領。領主の変遷は騎西町場に同じ。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では下崎下分の高五一一石余、反別は田方三三町三反余・畑方二〇町六反余。
 
        鳥居の社号額                   境内に通じる南北に長い参道
『新編武蔵風土記稿 
下崎村上文条』
下崎村を上分・下分と分ちしこと、正保の圖(図)には見えず、元禄の圖に始て二村とす、正保四年檢(検)地のとき分村せしことと知らる」
*旧字体の変更は( )にて筆者対応。
        
 参道から境内に入るその入り口付近に祀られている「辨財天」の石碑、その左側には「安永五年銘(一七七六)」の力石が置かれている。
 下崎地域は北側に「備前用水」、南側には「騎西領中用水」がそれぞれ南東方向に流れ、地域の境となっている。いわば生を営むために必要な農業用用水が身近にある地域であり、水の神様である辨財天が祀られていることにも納得ができよう。
        
                     拝 殿 
 
      拝殿に掲げてある扁額。              本 殿
 扁額には三宝荒神、八幡社と記載されている。
 三宝荒神(さんぼうこうじん、さんぽうこうじん)は、日本特有の仏教における信仰対象の1つ。仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神である。
 不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、「かまど神」として祭られることが多く、これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものであるという。
        
                境内に設置されている案内板
 八幡神社 例大祭九月十四日
 当社は誉田別命(応神天皇)を主祭神とし、武の神・生活上の守護神として崇敬される
 伝えによると、騎西城廃城の時、当地に土着した者が城内に祀る八幡宮と三宝荒神を移したことによるという。また一説には、正保四年(一六四七)に石清水八幡宮(現京都八幡市)の分霊を祀ったともいう。
 本殿には内陣に向かって右に三宝荒神、左に八幡神を奉安する。三宝荒神は三面六臂(三つの顔と六本の腕)の立像で、全身が赤く塗られている。一般的に荒神は台所に祀られ、火防の神として信仰される。また、八幡神は馬に跨がり、弓矢を持った姿となっている。
 なお、下崎には氷川神社も村鎮守として祀られているが、これは江戸時代、当村が上分・下分の二村に分かれていた名残りによるものである。(以下略)
                                      案内板より引用

 案内版では「
正保四年(一六四七)に石清水八幡宮(現京都八幡市)の分霊を祀った」と記載されているが、この年は『新編武蔵風土記稿』によると、「正保四年檢(検)地のとき分村」と書かれており、分村した際に岩清水八幡宮の分霊を祀った可能性もあろう。
  
   社殿手前で、左手に鎮座する境内社。       社殿奥には稲荷社が祀られている。
        
                 社の正面入り口付近には趣のある「庚申塔」が祀られている。
    年始のしめ飾りも飾っていて、地域の方々の信仰の深さを物語っているようだ。
            筆者も社の参拝前には、手を合わせて頂いた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等
    

拍手[0回]


下崎氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市下崎17151
             
・ご祭神 素盞嗚命
             
・社 格 旧下崎村上分鎮守 
             
・例祭等 例大祭 十月九日
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1083619,139.552614,17z?entry=ttu 

 上崎雷電神社から南西方向に目を移すと、こんもりとした林が見える。実はその辺りの一角に下崎氷川神社が鎮座する場所となる。直線距離にして230m程しか離れていないため、周囲は宅地化されていて現在は目立たないが、嘗てはお互い目視も出来る位の位置関係ではなかったろうか。 
       
                    こんもりとした社叢林の中に鎮座する下崎氷川神社
『日本歴史地名大系』 「下崎村上分」の解説
 [現在地名]騎西町下崎
 東は下崎村下分、西は上崎村。北東側を備前堀(びぜんぼり)川が流れる。正保四年(一六四七)の検地まで下分と一村であったという(風土記稿)。
 寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳によれば下崎上分の高五一二石余、反別は田方二九町九反余・畑方二五町二反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によるとほかに一〇九石余があり、宝暦五年(一七五五)の下崎村上分明細帳(小池家文書)では田高三七五石余・畑高二四六石余、家数四九・人数二一九、馬九。
        
            社叢林の中でもひときわ目立つ赤い両部鳥居
 
  鳥居上部に掲げられている個性的な社号額  社は決して規模は大きくないが、社叢林に覆わ
                       た参道を進むと、神威的な神々しさを感じる。
        
                                       拝 殿
 
     社殿右側奥に祀られている石祠群        境内に設置されている案内板
         詳細不明
 氷川神社 例大祭 十月九日
 当社は素盞嗚命を主祭神とし、「おしかさま、おひかわさま」の名で親しまれている。氷川神社は概ね元荒川を東限、多摩川を西限とする区域に分布するが、当社が北限となる。伝えによると、当地は古くから米麦中心の豊かな農村であったため、五穀を守護し疫病を祓う神である氷川大明神を祀ったという。寛政五年(一七九三)に社殿を再建した棟札があることから、その創建はかなり古いものと思われる。
 古くは御神像が奉安されていたが、明治時代初めの神仏分離の際に、村内の民家に移された。 なお、下崎には八幡神社も村鎮守として祀られているが、これは江戸時代、当村が上分・下分 の二村に分かれていた名残りによるものである。  
加須市教育委員会
                                      案内板より引用
       
       社殿奥に聳え立つイチョウの巨木。注連縄等はついていないが、御神木と思われる。
      尚このイチョウの木は加須市保存樹木に平成18年9月29日に指定されている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須市HP」「境内案内板」等



   

拍手[0回]


上崎雷電神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市上崎24021
              
・ご祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)
              
・社 格 旧上崎村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例大祭 1014
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1111209,139.5507081,17z?entry=ttu

 内田ヶ谷多賀谷神社から一旦西行し、埼玉県道308号内田ヶ谷鴻巣線に合流後、左折し南方向に進路をとる。1㎞程進んだ交差点を左折し、「KAZOヴィレッジ通り」を600m程進むと右手に上崎雷電神社ののぼり旗ポールが2基、そしてその奥には社号標柱、鳥居が見えてくる。
 実のところ、「KAZOヴィレッジ通り」沿いには、適当な駐車スペースはない。一旦南側に回り込むと、雷電神社社務所近くに専用駐車場があるので、そこに停めてから参拝を開始した。
        
                     
KAZOヴィレッジ通り沿いに鎮座する上崎雷電神社
 加須市上崎地域は、嘗て旧
騎西町に属し、見沼代用水(星川)左岸に位置していて、集落は地域中央を東西に通るKAZOヴィレッジ通り沿いに多い。地形を確認すると、大宮台地に連なる埋没台地および自然堤防上にあるとのことだ。
 地域の大部分は広大な田園風景が広がる稲作地帯であるが、『田園簿』によれば「田高四二三石余・畑高六七五石余」であり、この地域も田地より畑地の方が多かったようだ。
                
                           青空に映える社号標柱
 上崎地域北西側には、騎西領用水(きさいりようようすい)が星川(見沼台用水)から分岐して流れている。この騎西領用水は、新川(につかわ)用水・中用水・南用水・五ノ神用水の総称。幹川水路である新川用水の名で称されることも多い。元圦は星川の上崎村(現加須市)地先に設けて、忍領地域の落水を取水するものであった。星川分水口に「上崎洗堰」があり、これより新川圦前までの三〇〇間余を新川溜井と称して、用水の一時貯溜を行っていた。
 上崎洗堰の設置時期は未詳であるが、延宝元年(一六七三)の訴訟文書(見沼土地改良区文書)などにより、近世初頭と思われる。この堰については上流忍領と下流騎西領との間でたびたび水論が起こっている(大熊家文書)。新川用水は、元和七年(一六二一)の上早見村地詰帳(野房家文書)や、寛永(一六二四―四四)初期と考えられる武州騎西城絵図(岩瀬家文書)などからみると、この頃にはすでに開削されていたと考えられる。

 なお『新編武蔵風土記稿 上崎村条』にもこの用水に関しての説明が載せられている。
「星川
村の南西を流る、幅十二間程、土橋一ヶ所あり、此川に樋を設け水を引分け、騎西領組合の用水とす、これを新川用水と云、その幅二間ばかり、樋の長さ十二間、公よりの修理にて組合の村々多し、又西の方に長八間の圦樋を設け、水を引分ち用水とす、是を九ヶ村用水と云、當村及上會下・中ノ目・戸室・竿莖・鴻莖・西谷・下崎村上下分皆組合なり」

        
                社号標柱の先にある一の鳥居     
                   参拝した時間帯は陽光がほぼ正面となる昼間時
       正面からの撮影をすると逆光となり、斜めからのアングルとなった。
        
                  静まり返った境内
  北風は冷たがったが、陽光が差し込む雲一つない晴天の中、気持ちよく参拝ができた。
        
       参道を進む途中、左側に「保存樹木」であるシイの大木が聳え立つ。
              加須市指定番号27号。幹周 252㎝。
        
                 参道の先にある二の鳥居
           二の鳥居の先には社殿はなく、住宅しか見えない。
                      社殿は二の鳥居を過ぎて右側に鎮座している。
        
                 社殿と二の鳥居の配置
        
                     拝 殿
        
                 拝殿右手にある案内板
 雷電神社 例大祭 十月十四日
 当社の創建は、上州板倉雷電社の分霊を祀ったことによるという。祭神は別雷命。恵みの雨をもたらす神として信仰され、現在も雨乞いに用いた池が残る。
 雷電様は相撲好きな神様としても有名。境内には「関東三十三高芝の一つ」と呼ばれた土俵も現存している。
 拝殿には明治二十四年奉納の、<利根川・新川・三間圦工事絵馬>がある。これは前年の大洪水 で被害を受けた諸河川の工事竣工を記念したもの。
 利根川に浮かぶ帆掛船、新川の作業に従事する女性たち、三間圦付近に置かれた宿所や監督所など、工事の様子が鳥瞰的に描かれている。
                                      案内板より引用

 また案内板に記されている加須有形民俗文化財(指定日 平成4316日)である「利根川・新川・三間圦工事絵馬」は、『加須インターネット博物館』において、以下のように説明がされている。
「利根川・新川・三間圦工事絵馬
明治(めいじ) 23(1890) 洪水(こうずい)で被害を受けた河川の工事竣工(しゅんこう)を記念して奉納されました。
工事の様子が鳥瞰的(ちょうかんてき)(=鳥が上空から見おろすように全体を広く見渡すこと)
に描かれています。
        
     拝殿上部に掲げてある扁額と、その周りには多数の奉納額が展示されている。
    地域の方々のこの社に対する崇高の思いがこの奉納された額の多さに現れている。
   
 社殿左側奥に祀られている「浅間神社」と      社殿右側には「元文五年(1740)と刻まれ
    その左側にある詳細不明な石碑       た「辨財天供養」の石碑がある。

 上崎雷電神社から西方向に約700m行った場所に「臨済宗円覚寺派 大光山龍興寺」がある。上崎雷電神社とは直接関係はないが、上崎地域の歴史を語る上において、この寺の存在抜きには語れない。
龍興寺にある案内板によると、大同年中(約一二〇〇年前)天祐和尚によって開かれたという。古くから足利氏と関係が深く、境内には足利持氏とその子春王安王の供養塔(県指定史跡)が現存していて、足利氏ゆかりのものも多く伝わっていたらしかったが、現在は足利家から寄進されたという膳と足利政氏・義氏からの寺安堵状(町指定有形文化財)が残っているのみであるという。
       
             社殿右側奥に聳え立つ
「保存樹木」であるイチョウの大木
                         加須市指定番号26号。幹周 305㎝

『新編武藏風土記稿 埼玉郡上崎村』にはこの寺に関しての記載がある。
「龍興寺 禪宗臨濟派相模國鐮倉圓覺寺末大光山と號す、延寶六年住僧大澄が書しものに、大同元年天祐草創の地なりとあれど、上りたる世の事なれば、いかん共云がたし、中興開山曇芳は、永享八年九月七日寂せり、此僧は鐮倉管領持氏の伯父なりと云傳ふ、本尊釋迦、毘首羯磨の作、座像にて長七寸五分、又持氏春王安王の墓三墓たてり、持氏法名長春院陽山繼公、永享十一年二月十日、春王は花山院春嶽香公、嘉吉元年四月日、安王は太山院天嶽雲公、嘉吉元年四月と彫たるよし、今は文字も減して、そのさま古きものには論なかるべし、【足利治亂記】をするに、永享年中持氏京都に叛き相州早川尻の戰ひにうち負け、永安寺に入て自害す、幼子春王・安王は下野國結城が許に逃れ、日光山に隱れ居けるが捕はれとなり、京へ送られける塗中、美濃國垂井の金蓮寺にて自害し、骸は高野山ヘ送るとみえたり、又【鐮倉九代記】には金蓮寺に葬しよし載す、今按に當寺古河公方政氏・義氏寄附の文書も藏すれば、成氏のとき父供養のために築し墓なるべし、」

 足利持氏は「第4代鎌倉公方」である。この「鎌倉公方」とは、史実によると、1333年(元弘312月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を「鎌倉将軍府」に任命して鎌倉に入ったことにはじまる。その後室町幕府を開いた足利尊氏は、関東を押さえるために次男の基氏を「鎌倉公方」としてその本拠地を「鎌倉府」と称し、関東八か国(武蔵・相模・下総・上総・安房・常陸・上野・下野)と伊豆・甲斐を合わせた一〇か国を統括した。一時的は陸奥・出羽も含む奥州をも支配した時期もあった。
 1336年(延元1・建武311月京都に幕府を開き、その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに「関東管領」を配置して東国の政治一般にあたらせた。その政治組織を鎌倉府といい,あたかも小幕府の観をなした。
 以後その子孫(氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ))がこの職を世襲した。
 歴代の公方とも将軍への対抗意識が強く、また鎌倉府の領国に対する主要な権限を幕府直轄の機関である「関東管領」に握られていたため、その争奪をめぐってしばしば争いを繰り返していた。持氏の代になり、当初「上杉禅秀の乱」では幕府は持氏を援助したが,乱後幕府と持氏の間が不和となり、1428年足利義教が将軍となってからは京・鎌倉間の対立はいっそう激化した。鎌倉府内部でも幕府との協調を説く関東管領上杉憲実(のりざね)と持氏の不和が顕在化し,永享の乱が勃発し、1439年持氏は自害,鎌倉公方は滅亡する。

 龍興寺中興の祖となる第3世曇芳和尚はその足利持氏の伯父という。伯父とは父母の兄や弟、また父母の姉妹の夫で、父母の兄には「伯父」という。持氏の父親である満兼には兄がいたのであろうか。どの文面にもそれらしい人物はいない。それとも母親とされる「一色氏」の義兄であろうか。
 どちらにしても埼玉県指定史跡として「足利持氏、及びその子春王安王の供養塔」が現存しており、持氏の子孫である足利政氏・義氏からの寺安堵状も残っているのであることからも、何かしら鎌倉公方・足利氏と関係した人物がいたことは確かであろう。

 この龍興寺は臨済宗鎌倉円覚寺末寺という。この円覚寺は、弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建したといい、北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護されていた。
 しかしその後の鎌倉幕府の滅亡から、建武の新政を経て南北朝時代に移ると、新しく鎌倉を掌握した鎌倉公方・足利氏はこの寺を支援するようになる。このお寺のあちこちには足利氏の「丸に二引き両」の家紋があり、鎌倉公方との繋がりが深かった何よりの証拠ではなかろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
日本歴史地名大系」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「百科事典マイペディア」「改訂新版 世界大百科事典」「加須インターネット博物館」
    「境内案内板」等

拍手[0回]