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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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二宮赤城神社

 二宮赤城神社は、群馬県前橋市二之宮町にある神社。 式内社(名神大社)論社、上野国二宮論社。旧社格は郷社。 関東地方を中心として全国 に約300社ある赤城神社の本宮と推測されるうちの一社である。この社は赤城山麓真南に位置し、赤城山の稜線がよく見える絶好の位置に鎮座している。この地域は古くから開けていた場所で、この社の東北方には4基の前方後円墳からなる大室古墳群が残っており、赤城神と関係の深い上毛野氏の中心地と推測される。赤城神社は上野国二宮であるが、当地の地名も二之宮という。現在、赤城神社の本社は、三夜沢赤城神社というのが主流であるが、少なくともある時期、上野一宮が貫前神社となり、赤城神社が二宮として定められた頃、赤城神社の本社は当社であったのかもしれない。
 
万葉集には、赤城山を詠んだ歌が存在するが、当時はこの「赤城山」という名前では詠まれたものはなく、「3412 賀美都家野 久路保乃祢呂乃 久受葉我多 可奈師家兒良尓 伊夜射可里久母
 (かみつけの くろほのねろの くずはがた かなしけこらに いやざかりくも)」とあり、この
「くろほのねろ」が赤城山をさすものとされ、赤城山連峰の「黒檜山」に比定されているといわれている。赤城山の本当の名前、また何時、現代の名称に変わったのか、不思議な疑問がまた一つ増えてしまった。
所在地   群馬県前橋市二之宮町866
御祭神   大己貴命 多紀理比売命 多岐津比売命 市岐嶋毘売命
        天忍穗耳命 天之笠早命 熊野久須毘命 活津日子根命
        天津日子根命・和久産巣日命・大物主命 建御名方命                                               
社  格   式内社(名神大)論社、上野国二宮論社、旧郷社
由  緒   履中天皇御宇の創祀
        承和6年(839)6月従五位下「続日本後紀」
         貞観9年(867)6月20日正五位下「三大実録」
         同11年12月15日正五位上、同16年3月14日従四位下
             元慶4年(880)5月25日従四位上
        康和5年(1103)6月神事に穢れがあり中祓
        永承4年(1049)神仏習合の勅願神社 建久5年(1194)修築
例  祭   4月15日 例祭

                        
  二宮赤城神社は国道17号バイパス上武線の二宮赤城神社前交差点を右折し、そのまま北上すると国道50号線の二宮町の間に鎮座している。この前橋市二宮町は赤城山南面で赤城信仰の上で絶好の地点(西側には荒砥川、東側には粕川が流れていて共に赤城山を水源としている)で、大室の二子古墳をはじめとして多くの古墳が存在し、上野国の名族「上毛野氏」の本拠地と推定されている。また赤城山山頂の赤城神社の里宮とも言われている。
 この社には神仏習合の神社の名残りが多数あって、境内には宝塔、参道には鐘楼などがあるし、周囲には、古墳や遺跡の多い場所だ。現代に至るまでの歴史の遺構が何かしらの型で残っていて、色々な意味において興味が尽きない面白い社だ。
 

               南向きにある朱塗りの一の鳥居               鳥居を過ぎるとすぐ右側にある鐘楼

          昼間でもほの暗い参道          隋神門の先で左側には案内板が設置されていた。

二宮赤城神社
 
当社は、第十代崇神天皇の皇子「豊城入彦命」「大己貴尊」を始めとし、数柱の神々を祭神とし、第十一代垂仁天皇、第十二代景行天皇の時代に創建されたと伝へられる古社である。特に、古代豊城入彦命を始とした毛野氏の子孫上毛野氏と深い縁のあった社とも伝へられている。
 平安朝初期の第五四代仁明天皇の承和六年(八二九)に従五位下に叙されて官社となり、続いて昇叙を経、第六〇代醍醐天皇の延長五年(九二七)に制定された「延喜式」内、上野国十二社中の名神大社とされた。第六八代後一條天皇の長元々年(一〇二八)頃の上野国の国司文書中に、正一位赤城大明神、上野国神名帳には、上野国二宮赤城大明神などの神位、神階が記録されている古名社であった。第七〇代後冷泉天皇の永承四年(一〇四九)には、日本全国の諸社中から五五社が選ばれ、神仏習合の勅願神社となり、当社もその一社として、社域内に造塔の折、心礎(根巻石)内に仏舎利(釋迦尊の骨片、現存)が奉納されていたのである。
 鎌倉時代には征夷大将軍源頼朝の崇敬を受け、建久五年(一一九四)当社などの修築を、守護職安達盛長に命じ、二宮太郎浅忠、岡部九内忠成らが修築を奉行したり、百石を寄進したと云う記録も見られる。戦国時代に小田原城主北條氏政の軍勢に依って、数多くの建物は打壊され、壊滅的被害を受け、宝物類も多く失ない衰微した。天正十八年(一五九〇)北條氏滅亡後、領主として大胡城へ入城した牧野駿河守忠成、康成父子を始めその後厩橋藩主となった酒井氏歴代、江戸時代幕府の天領代官藩主松平氏歴代さらに住民に篤く尊崇されてきた、そして赤城南麓地帯の連神社の中心的役割を果していた。
                                                            案内板より引用

       神代橋を渡り、正面には随神門               門の手前、右側にある社日
           
                              拝    殿
                                     
                                 
 随神門を過ぎると広い境内が広がり、社殿を中心として、その周囲には数多くの境内社、石祠等がある。社殿の左側には藁葺の神輿倉があり(写真上段左)、嘗ての十二天社といい、仏教のいう十二天を祀っていた場所だったが、明治時代の神仏分離政策により、現代は神興庫として使用されているという。また社殿右側には、演舞台(同右)、そして新しい神楽殿(下段)が並んであった。
 当神社には、太々神楽・雅楽・式三番叟が伝えられ、演じられ奉納されている。この式三番叟は、農村歌舞伎・地芝居・神楽が融合したもので、神社の古式神事と結びつく貴重なものであり、市の重要無形民俗文化財に指定されている。当社には、享徳2年(1453)神社再興の際に作られたと推定される納曽利面があり、県の重文に指定されている。舞楽の面で、納曽利には陵王が舞われる。陵王は竜王と解され、雨乞いでよく舞われる舞楽である。 
           
                              本    殿
 二宮赤城神社のの創建は不詳だが、社伝では垂仁天皇の時代に創建されたと伝えられている。建久5年(1194)には源頼朝が社殿を再建し、社領100石が寄進され社運が隆盛した。戦国時代の永禄年間(1558~70)小田原北条氏の兵火に見舞わられ、社殿をはじめ社宝、記録等が焼失したが、その後領主となった牧野氏や前橋藩主・酒井氏、松平氏に庇護され再び隆盛した。本殿の妻壁の架構も複雑に構成され、二重虹梁下の彫物も独特の意匠となっている。

 二宮赤城神社 由緒
 創立年代は不詳。
 社伝では人皇11代垂仁天皇の御宇に創建されたとつたえられていますが、この地は赤城山南面で赤城信仰の上で絶好の地点(西側には荒砥川、東側には粕川が流れていて共に赤城山を水源としている)で、大室の二子古墳をはじめとして多くの古墳が存在し、上野国の名族「上毛野氏」の本拠地と推定されていることは往古より信仰と共に栄えた証であります。
 赤城神社に関する文献の初見は「続日本後期」承和6年(839)で、上野国無位赤城神に従五位下が奉授された記事があり、以後「三代実録」では四回にわたり赤城神の神位昇授が記され、「上野国交替実録帳」には正一位赤城明神社とあります。
 平安後期には全国に「一宮二宮」の格付けがおこなわれはじめましたが、当社は上野国の二宮として(地名にもなり)現在に至っています。
 又、次のような伝説も有ります。
 あるとき、赤城の神が絹機を織るのに、くだが不足したので思案の末、貫前の神は外国から来て機織が上手であるから、持っているであろうと頼み、借りて織りあげた。
 そこでこのような技術をもった神が他国へ移ってはこまるので、赤城神社は一宮であったが、その地位を貫前神社に譲って二宮になったという話です。
 つまり貫前の神は帰化人の神であったと見ることができます。
 それにひきかえ赤城の神は上野国の土地に以前から住んでいた人々が祭っていた神です。
 そして、この頃は少なくとも赤城神社の方が貫前神社よりも広く一般から信仰され、崇敬が厚かったことを物語っています。
                                        
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
      

          拝殿右側にある日枝社          日枝社の右手にある赤城神社の文化財案内板
                                
        本殿右奥の林の中に、鎌倉時代のものと推定される、舎利孔をもつ塔心礎がある。

                
  本殿後方右側、日枝神社の裏手には道祖神や石祠が祀られ、鳥居の奥には秋葉神社が祀られている(写真上段左)。秋葉神社は俗にいう「火伏せの神」といい、広く信仰された秋葉大権現(現在の静岡県浜松市に本宮をもつ秋葉山本宮秋葉神社を起源とする)である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ないという。 
 また社殿の左側後方には「宝塔」があり(写真上段右)、南北朝期のものと推定され、この地方に広く分布し赤城塔と呼ばれていて、天台宗の法華経信仰によるものと考えられているそうだ。社殿の両サイドには多くの祠がビッシリと並んでいる(写真下段)。二宮町周辺の神々をこの地に集めた結果なのだろうが、やはり実際に見ると群馬県にはこのような社が多く、その数の多さに驚く。 
                            

 ところで、二宮赤城神社の御神幸という伝統行事が毎年4月、12月の上旬の初辰日に行われている。この御神幸というのは、二宮赤城神社と三夜沢赤城神社の間を御神体が往復する行事で、二宮赤城神社独特の神事であるらしい。御神体(神輿)は、神鉾・神衣(かむみそ)といい、娘神である二宮が、父神である三夜沢赤城神社へ衣替えのため渡御するという伝承で、古くは神衣祭(かむみそさい)と呼ばれていたが、現在は御神幸またはオノボリと呼ばれている。

 当日、氏子総代が集まり祭典を行い道中の無事を祈る。以前は拝殿から神輿を三夜沢までの12kmを徒歩で担いだ。現在は車を使用している。途中、大胡神社(旧近戸神社)と柏倉町の「お輿懸(阿久沢一家)の2箇所で休憩し、接待を受ける。この神事は、山宮と里宮の関係を示す行事で、古代の信仰を考える上で重要である行事であるという。



                    



 


 

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三夜沢赤城神社

  赤城神社は、「赤城」を社名とする神社で、群馬県中央部に位置する赤城山を祀る神社である。赤城山は関東地方の北部、群馬県のほぼ中央に位置し、榛名山、妙義山と並び上毛三山の一つと呼ばれ、また日本百名山、日本百名水にも選ばれている。この山は中央のカルデラの周囲を、円頂を持つ1200mから1800mの峰々が取り囲み、その外側は標高にして約800mまでは広く緩やかな裾野の高原台地をなしている。この赤城山を御神体として祀る神社が赤城神社であり、群馬県内には「赤城神社」という名前の神社が118社、日本全国では334社あったとされる。関東一円に広がり、山岳信仰により自然的に祀られたものと、江戸時代に分祀されたものがある。
 赤城神社は式内社であり名神大の社格があり、上野国の二之宮である。伝承では、本来、一之宮であったが、財の君である、貫前の女神を他国へ渡してはならないと、女神に一之宮を譲ったという。さらに、赤城神が絹機を織っていたが、絹笳が不足したが、貫前の女神から借りて織り上げたとも言う。ここでいう「財の君」はまず貫前神社の祭神である姫大神であり、「他国へ渡してはならない」との他国とは信濃の建御名方刀美神であるという。
 別の伝承もあり、群馬県で有名な三つの神社、赤城神社、榛名神社、貫前神社、実は、この三つの神様が、三姉妹であった、という伝承が残っている。それにまつわるお話が、「一ノ宮伝承」で、上記「三姉妹」の女神様たちが、高天原の神々に対して、本職であるところの「織物」を献上することとなった。三姉妹はそれぞれ織物を織ったのだが、当時「一ノ宮」であった「赤城神社」の「姫大神」さまは、材料が不足していたため、約束の織物を作成することができそうになかった。そこで、赤城神社の姫大神さまは貫前神社の姫大神さまから 「材料」を借りて、約束の織物をつくることができたという。その時の功績に基づいて「これからは貫前神社が上野の国の一ノ宮とする」と決められたというが真相はどうであったろうか。

 この社の正式名称は「赤城神社」であるが、他の赤城神社との区別のため「三夜沢(みよさわ)赤城神社」とも呼ばれる。関東地方を中心として全国に約334社ある赤城神社の本宮と推測されるうちの一社である。
所在地    群馬県前橋市三夜沢114
御祭神    赤城大神(大己貴命、豊城入彦命)
社  挌    式内社(名神大)論社、上野国二宮論社、旧県社
       古くから文武の神として、武将が崇敬した神社で、創建は祟神天皇朝の頃と言われる。
例  祭    元日祭・1月1日、修請会・1月5日、御鎮祭・3月と11月の10日、
         御神幸・4月と12月の初辰日、例大祭・5月5日

       
 三夜沢赤城神社は大胡神社から群馬県道16号大胡赤城線を北上し道なりに真っ直ぐ進み、その突き当たりに鎮座している。筆者は埼玉県北部の熊谷市に在住しているが、そこから見る赤城山は美しい稜線と裾野が広がる雄大な山だが、流石に赤城山南麓となると周りの風景も一変する。それはそれで風情もあり良いものだが。
 正面鳥居の左側には専用駐車場もあり、そこに車を停めて参拝を行う。ちなみに前出の群馬県道16号大胡赤城線をそのまま北上すると赤城山山頂に行き着くが、山頂付近の富士見町には大洞赤城神社が鎮座していて、その丁度南側で、赤城山南麓にこの三夜沢赤城神社が、そしてその南方向には里宮的な位置に二宮赤城神社がほぼ一直線に鎮座している。
          
                         参道手前の木製の大鳥居
 鳥居の両側には「赤城神社」の社号標。時代が異なるのであろう、左側のそれは新しく、また一際大きく「縣社 赤城神社」と書かれている。
 赤城山山頂に鎮座する大洞赤城神社の朱色を基調とした華やかで派手な社殿とは対極に位置する神秘的で、荘厳な社。大鳥居の前に佇むだけでもその神々しい雰囲気に暫し圧倒される。
               
                     大鳥居の手前、右側にある案内板

 赤城神社由緒略記
  勢多郡宮城村大字三夜澤鎮座
 祭神  赤城神  大己貴命、豊城入彦命 
 
由緒  
 赤城神社は東國開拓の神々が 祀られている古来の名社である
東國経営にあたつた上毛野君の創祀 以来 國司 武将が篤く崇敬し朝廷 からも承和六年(西暦八三九年)に従五 位下を贈られ 元慶四年西暦八八〇 年に従四位上にあげられ 延喜  式には名神大社に列せられた 長元九年 (西暦一〇二八年)頃には正一位に叙せ られ次いで上野國の二宮とうやまわれていた。
赤城山は高く 美しく うしろに山 山をひかえて 雄然と聳えている
山頂の小沼から出る粕川を始め各河 川は麓の村〃をひろくうるほしてい る その尊厳と恩恵とはみ山とよは れ親しまれ尊はれ上毛野君の昔から 祀りつかれて来た
分社は群馬県下のみで七十八社その 他を併せると三百余社に及ぶ昭和十 九年(西暦一九四四年)には國幣中社に 昇格の内定があつたが 終戦後は國 土建設 開拓精神発揚のため神威 益々顕著である(以下略)
                                                            案内板より引用
                                                                                                      
       鳥居を入って右手にある神池         池全体から蒸気が立ち上っていた。何と幻想的
                                           で神秘的な雰囲気
           
        圧倒されるくらいの神々しい空間。溢れんばかりの聖域感がここには存在する。

 三夜沢赤城神社の参道を進むと右側に一風変わった石碑と案内板がある。神代(じんだい、かみよ)文字が掘られた明治3年の石碑がそれである。


神代文字の碑(前橋市指定重要文化財) 
 一般に日本民族は漢字が伝わる以前は、文字というものを知らなかったとされているが、伝説ではそれ以前に神代文字と呼ばれるものがあったといわれ、現在ははっきりしているものだけでも数種類にもなります。
 この碑文は復古神道を体系づけ実践化し、又「神代日文伝(かむなひふみ)」の著作者で神代文字肯定者の一人でもある江戸時代の国学者平田篤胤の養子鐵胤が、上部の神文については、鐵胤の子延胤が撰文し、書は篤胤の門人権田直助によるものです。
 神文については、対馬国「阿比留家」に伝わる神代文字(阿比留文字)で書かれ、復古神道の遺物として重要なもので明治三年三月に建てられました。
                                                            案内板より引用

 神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)とは、漢字伝来以前に古代日本で使用されたとされ る日本固有の文字の総称であり、主に神社の御神体や石碑や施設に記載されたり、神事などに使われており、一部の神社では符、礼、お守りなどに使用するほか、神社に奉納される事もあった。機密文書や武術の伝書のほか、忍者など一部の集団で秘密の漏えいを防ぐために暗号として使用されたという。また、江戸時代の藩礼の中には、偽造防止のため意図的に神代文字を使用したものもあるそうだ。
 三夜沢赤城神社のある神代文字は「阿比留文字」と言われる対馬国のト部氏、阿比留氏に伝わったといわれ、江戸時代の国学者である平田篤胤は「日文四十七音」とも呼んだ。太占の兆形から出来たともいわれる。古代の肥後国球磨郡(球磨川流域・球磨盆地)に住んでいた人(肥人、くまびと)が使っていた文字とされる事から「肥人書」とも呼ばれる。
 この赤城神社境内神代文字の碑は昭和53年4月1日前橋市指定文化財に登録された。

     境内全域に立ち並ぶ杉の木の大木、巨木。この社はまさに水と木に囲まれた聖なる社だ。
                
                          石段の上には拝殿が見える。
                      
                             拝    殿
    向拝のない神明系の厳かで大きな拝殿。明治年間に火災で焼失した後、再建されたもの。
          
                             拝殿の後方、一段高く中門があり、垣の中に本殿が見える。
 かつて御本殿は東西に分かれそれぞれ御祭神をお祀りしていたが、明治2年に合祀されたとのこと。

三夜沢赤城神社の概要
 三夜沢赤城神社の創建は不詳ですが古代上野国を支配した上毛野君(豐城入彦命子孫)を祀っている事からも古くからの産土神として信仰されてきたと思われます。上野三山である赤城山、妙義山、榛名山は古くから霊山・神山として信仰の対象だった存在で、上野国の象徴的な存在と朝廷の権力を融合させる事でより円滑に支配を固めていったと思われます。赤城山荒山の中腹にある「櫃石」は古墳時代中期の祭祀跡と推定され高さ2.8m、最長4.7mの巨石を中心に自然石や祭祀遺物が発見され群馬県指定史跡に指定されています。赤城神社は承和6年(839)に従五位下、元慶4年(880)に従四位上、長元9年(1028)には正一位の格式を賜り、延喜式神名帳には名神大社に列せられ、上野国十二社の内貫前神社に次いで二ノ宮となっています(当初、赤城神社が一ノ宮だったそうですが機を織っている時に「くだ」が不足になり、貫前神社に借りて織り上げたので、織物が上手で財を持っている貫前神社に一の宮を譲ったといわれています。)。
 赤城神社は早くから神仏習合の形態を取り入れ小沼の神は虚空蔵、大沼の神は千手観音が本地となり、時代が下げって地蔵菩薩が加わったとされます。当初は東西2社に分かれていて、西社に小沼の神と大沼の神が祀られ、東社には地蔵菩薩が祀られていましたが、貞和元年(1345)頃、現在地である東社の境内に西社が遷座し、両社が並存する形態となりました。歴代領主や支配者から崇敬され鎌倉幕府三代将軍源実朝は「上野の勢多の赤城のやしろ やまとにいかで あとをたれけむ」の唄を残し、上杉氏、武田氏、小田原北条氏、大胡氏、由良氏、長野氏など大大名から地元領主まで多くの祈願文や寄進状が残されています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、東西両社が統一、別当神宮寺であった東社の竜赤寺と西社の神光寺が廃寺となり赤城神社として独立します。現在の本殿(神明造:切妻、平入、銅板葺、桁行3間、梁間2間)、宮殿、中門(四脚門:一間一戸、切妻、銅板葺)、明治2年(1872)に建立されたもので、時代背景から復古神道の影響をうけた代表的神社建築として群馬県指定文化財に指定されています(同時期に建てられた拝殿と神楽殿は明治27年に火災により焼失しその後、再建。)。惣門は宝暦元年(1751)に建てられた三夜沢赤城神社境内にある最古の建物として群馬県指定文化財に指定されています。
  赤城神社の本社は赤城山山頂に鎮座する元社と麓にある二宮赤城神社と三社が名乗っていて、記録の散逸などで詳細は不明ですが、元々の本社は二宮赤城神社とされ、戦国時代に北条氏の兵火により衰退したことで、その山宮とされる西社を擁する三夜沢赤城神社東社が本社の地位を確立、江戸時代に入ると前橋藩の藩庁が置かれる前橋城から鬼門に当る為藩主から崇敬された元社が急速に力と権威を付けたという説が有力なようです。赤城神社信仰は広く群馬県118社、埼玉県23社、栃木県9社、茨城県10社、新潟県13社、福島県11社あり合祀されたものを合わせると334社に達するそうです。
                  
群馬県指定天然記念物  三夜沢赤城神社のたわら杉      昭和四八年四月二五日指定
 
赤城神社の境内には杉の大木が多数あり、ヒノキやアスナロ などもみられます。中でも目を引くのが中門南側とその西隣に ある三本の杉の大木「たわら杉」です。東側のものから、目通 り周五・一m、六・一m、四・七m、根元周六・〇m、九・六 m、五・六mとなっており、樹高は各々約六〇mです。これら 三本の杉は群馬県内でも最大級のものといえるでしょう。
 たわら杉には、「藤原秀郷(俵藤太)が平将門について上野 国府(前橋市)に来る途中、赤城神社の前を通りかかった際に 献木したものである」という伝説が伝えられています。藤原秀 郷は藤原鎌足八代の後裔と伝えられ、平将門の乱を平定し、武 蔵守・下野守・鎮守府将軍をつとめたとされる平安時代の武将 ですが、その実像はあまりわかっていません。
 一方、秀郷に関する伝説としては、大ムカデを退治して琵琶 湖の龍神を助けた、弓矢の名手にして神仏への崇敬篤い英雄と して描く御伽草子「俵藤太物語」が有名です。鎌倉時代、上野 国(群馬県)東部から下野国(栃木県)南部にかけての地域は、 幕府の弓馬の家として一目を置かれた大武士団の拠点でした。 彼らはともに「秀郷流」を称していましたので、おそらく秀郷 がムカデ退治の弓矢の名手「俵藤太」として説話の世界で活躍 を始めるのはこのころからです。秀郷流武士団のなかでも赤城 神社への信仰が篤かったのは大胡氏でしたが、富岡市一之宮貫 前神社境内にある「藤太杉」にも同様な伝説が伝わっているこ とから、弓矢の名手秀郷へのあこがれは、中世の武将たちに共 通する意識だったのかもしれません。
 ところで、日光の二荒山神社の縁起では、日光神と戦った赤 城神がムカデの姿で表されており、起源を異にする秀郷とムカ デと赤城神社が様々な伝承や説話を受け入れながら結びついて きた様子がうかがえます。このように、「たわら杉」とその伝 説は、名も無き多くの人々の交流の歴史を伝える遺産であり、 赤城神社に対する時代と地域を越えた篤い信仰を象徴していま す。
                                                         境内案内板より引用
               
                        拝殿の西側にある神楽殿
              
                                            本殿の東側の斜面に多数ある石祠群

  関東の大平野の北に並んでいる山々の最前列にそびえているのが赤城山であり、その何面の中腹に群馬県勢多郡宮城村大字三夜沢の地がある。赤城神社の鎮座地である。
 赤城山中央、荒山の下方山麓の景勝の地にあたる。海抜五七〇メートルである。
 赤城山は背後の諸山を従えて、長く裾を引き、雄然とあたかも王者のように大平野にのぞんでいる。頂には黒桧岳、駒ケ岳、地蔵岳、荒山、鍋割等の峰が東から西にかけて見えていて王冠のようである。その間に大沼、小沼があり、小沼からは粕川が流れ出して、滝や渓谷をつくり、裾野をうるおし、また粕川、荒砥川とともに、平野の潅がいに利用されている。その流域には御分社が多い。平坦地では赤城山を「御山」(おやま)とよんでいる。神山と仰ぎ尊んでいたものである。
 神社のうしろの荒山から下だってくる尾根の端には神跡「ひつ石」がある。古代祭シの遺跡で、ここからは関東平野が一望のうちにおさめられ、その間を流れる利根川の末は雲煙の彼方太平洋をしのばせ、南方はるかに秩父山脈を越えて富士の霊峰を望むことができる。
 赤城神社の名が歴史書に見え始めたのは、今からおよそ一千百年余り前の仁明天皇の承和六年(西紀八三九年)のことである。その時に従五位下の神位を授けられているので、それ以前に既に朝廷から祭祀を受けられ、官社となっていたのである。延喜式の神名帳では、名神、大社に列せられ、神位は次第に昇叙されて、九条家本廷喜式裏文書には正一位と記してある。
 このように古くから著名な神であったのは、古代の上毛野国(群馬県全体)を支配していた上毛野君という一族がまつっていたからである。上毛野君は豊城入彦命の子孫と伝えられていて、上毛野国の国造となり、東国を治め、蝦夷を同化させることを任務としていた。日本書記に、「崇神天皇は豊城、活目の二皇子の夢を占って、後嗣を決めようとされた。二皇子は体を清め、神に祈って夢をみた。兄の豊城命の夢は御諸山に登って東に向かって八たび槍を振り、八たび刀を振ったというのであり、弟の活目尊の夢は御諸山に登って縄を四方に張り、粟を食う雀を追い払ったというのである。天皇は夢占いをして、兄は東国を治め、弟は天皇の位を継ぐことを決められた。豊城命は東国を治めることになり、上毛野君、下毛野国の始祖である。」という意味のことが記してあり、また同書に「景行天皇は豊城命の孫彦狭島王を東山道十五国の都督に任命された。ところが王は春日の穴昨邑というところで病死した。その時東国の人々は王が任地においでにならないことを悲しんで、王の屍をとって上野国に葬ったとあり」次いで「景行天皇は彦狭島王の子御諸別王に父の業を継いで、東国を治めしめられた。蝦夷の首領が降参して、東国は永く平和になり御諸別王の子孫が後までも栄えている。」という意味のこともしるしている。
 つまり上毛野君の氏族が東国を開拓して、東北地方へまで発展していたので、その基地である上毛野国に赤城神をまつったもので、そこで平野に臨んで、他の山々を後ろに従えたこの赤城山の神、小沼から流れでる粕川が潅がいに利用されたのでその農業の神とが、赤城神の起源と考えられる。
 鎌倉時代になると、三代将軍源実朝の歌に、「上野の勢多の赤城のからやしろ やまとにいかであとをたれけむ」とあるように、将軍をはじめ武将たちが崇敬したばかりでなく、赤城神社は上野国の二宮と呼ばれて、一般の人々の信仰のまとになった。神道集という吉野時代に伝説などから作りあげられた物語の本には「もと赤城神は一宮であったが、機を織っている時に、「くだ」が不足し、貫前神に借りて織りあげたので、織物が上手で、財持ちである貫前神に一宮をゆずり自分は二宮になった。」ということが見えている。その頃は一宮の貫前神よりも二宮の赤城神の方が一般の信仰をあつめていたから、このような伝説が起こったのである。
 神道集が作られた頃は、本地垂迹説によって、神と仏とが一つにして拝まれていたので、赤城神ははじめ小沼の神に虚空蔵、大沼の神に千手観音があてられ、吉野時代頃には地蔵が加わって三神とされた。小沼及び大沼の神は粕川の上流の勢多郡粕川村大字室沢字御殿(元三夜沢)にまつられ、後に粕川の上流の神社が現在の三夜沢の地に移り、西宮と呼ばれ、今までこの三夜沢にあった神社は東宮となり、江戸時代には東西両宮が並んでいた。このように一地に神社が移されたのは、戦国の世と呼ばれる頃であろう。
 しかし、戦国の頃には各武将の信仰が特に篤く、上杉、北条、武田の三氏をはじめ、由良、長野、大胡などの国内の諸将士の願文や寄進状等が神社に蔵されている。殊に由良成繁奉納の宮殿はその寄進銘が扉にあって珍しいものである。また大胡氏はまず大胡に、次いで江戸に移ると牛込に赤城神社を分祀した。大胡氏の後に大胡城主となった牧野氏も土地を寄進している。
 参道は大胡(中央)、市之関(西)、苗ケ島(東)の三方から一の鳥居に集まっている。年代記には慶長年間に各参道に松を植えたとあって、現在中央の松並木のみが残っている。稀な松並木であり、由緒の明らかなものであるから、特に保存されるべきものである。現在の社殿は明治初年に東宮の位置に建て替えられて、東西両宮を併せて一社とされた。昭和十七年に国幣中社に昇格の内定があったので、社域整備に着手したが、終戦と共に官祭が消滅し、それ以後は専ら氏子及び信仰者によって維持されてきている。
 分社は赤城山南麓地は勿論関東平野の全般から、新潟、福島、宮城の諸県に及んでいる。現在のもののみで、群馬県に一一八社、埼玉県に二十三社、栃木県に九社、茨城県に十社、新潟県に十三社、福島県に十一社、その他を合せて計一九一社であり、合併または廃社を合せると三三四社に達している。四季を通じて、各分社からの参拝も多い。
                                                     平成祭データーより引用



                                                                                                    

                                                                                                 



 


 

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一之宮貫前神社

 古の「毛の国」、又は毛野国と言われ、独立した一つの文化圏・毛野王国を形成していた群馬県は、「延喜式」での格は大国で遠国。「記紀」・「六国史」での格は811年(弘仁2年)までは上国、以後は大国と、関東では嘗て最も繁栄していた実り豊かな強国だった。
 また群馬県は全国でも有数の古墳県であり、全国の古墳の大きさトップ100のうち、群馬は奈良、大阪、岡山に次いで、4番目に多い数があり、東国(東海・甲信・関東地方)では、圧倒的な質と量を誇る。
 なかでも群馬の古墳時代を代表する前方後円墳が太田市の
天神山古墳で、5世紀の中ごろに築かれたと言われている。太田天神山古墳の特徴の一つは規模の大きさで、墳丘の全長210メートル、二重に巡る堀の範囲まで含めると長さ364メートル、幅288メートルとなり、東日本最大の巨大前方後円墳である。さらに、遺骸の埋葬に使用された石棺も注目に値する。太田天神山古墳の石棺は「長持形石棺」と呼ばれるものだが、強い権力を持つ者に多く用いられ、東日本では極めて珍しい埋葬施設という。
 また群馬は「埴輪(はにわ)王国」と呼ばれ、日本における埴輪研究の聖地と言われるほどだ。唯一の国宝埴輪である「武装男子立像」は、太田市飯塚町から出土するなど、国宝・国指定重要文化財の埴輪全42件のうち19件(45%)が群馬県から出土していている。
 このように「毛の国」は豊かな国力を背景に、国内ばかりでなくアジア大陸との交流も盛んであった。歴史のロマンを掻き立ててくれるこの地の一之宮は群馬県西部の静かな場所に鎮座している。
所在地    群馬県富岡市一ノ宮1535
主祭神    経津主神  姫大神
社  格    式内社(名神大) ・ 上野國一宮 ・ 旧國幣中社・別表神社
創  建    安閑天皇元年(531年)   
例  祭       3月15日
神  事
    水的神事、巫射、御戸開祭 鎮神(しずめ)事 
            酒御造行事,川瀬行事 鹿占神事、機織神事

         
 一之宮貫前神社は、国道254号富岡バイパスを下仁田方面に進む。富岡市街地を抜けて、更に西側に鎮座する。貫前神社に行くには、254号バイパスと西上州やまびこ街道の接する一ノ宮交差点で右折し、約400m位行ったとこを右折するか、一ノ宮交差点の手前、一ノ宮北交差点を右折し、左側に鳥居があるT字路を左折するかどちらかだが、前者は右折すると結構急勾配の坂道なので軽自動車の愛車ではきつく感じるし燃費も悪い。安全に行くには一ノ宮北交差点を右折したほうがいいと思う。今回も(参拝日平成24年2月28日)そのルートで参拝した。神門を過ぎるとすぐ左側に市営駐車場が有り、そこに車を止め参拝を行った。
                 
                                                 正面大鳥居
                                   
                                                      大鳥居から総門に続く参道
              
                         貫前神社総門の前には両側に唐銅製灯籠がある。富岡市指定文化財

貫前神社唐銅製灯籠
 
高さ約395センチの一対の銅製灯籠で、慶応元年(1865年)製作、慶応2年にここに建てられた。灯籠の基礎部と竿部の間に、灯籠建立の際の献納者名・住居地・献納額が2段に刻まれている。献納者の人数は合計で1544名、献納額は総額4790両にのぼり、地元の多数の養蚕農家を初め、上州・江戸・横浜の生糸・絹商人らが献納している。
 本県をはじめ、周辺各地における養蚕・製糸業の繁栄興隆と、これに携わる人々の祈念を明確に示す資料として重要であり、7年後に開業した官営富岡製糸場の先駆的記念碑ともいえる重要な文化財である。

                                  
                                                           総門左側にある案内版
                                  
                             貫前神社総門 この神社では一番標高が高い位置に立っている。
                                    
   一般的に神社の境内、特に社殿は参道や門から石段を上がったところにあるが、この神社は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿がある、いわゆる「下り宮」と呼ばれる特異な形態を有している。『全国一の宮めぐり』によれば「下り参りの宮」の通称で呼ばれると言う

  神社のホームページには「貫前神社は綾女谷と呼ばれる渓間を切り開いて建造され、しかも南向きに建っているため正面参道からは丘を上って嶺に出て、それから石階段を中腹まで下って社頭に達する順路になる。」と書かれていた。総門をくぐった両サイドの風景や月読神社野土台といい、楼門、拝殿、本殿脇の壁面は石を組み上げて造った壁、完全な石垣がそこにあった。まるで城のようだ。
        
                      楼門 昭和51年国指定重要文化財に指定
            
                   楼門手前に鎮座する月読神社 祭神は月読命
          貫前神社の古い拝殿ともいわれ、明治時代までは牛王堂として祀られていた。
                    現在は近郊の4神社も合わせて祀られている。

           
             
                                                        楼門の東側にある神楽殿  
          全体が朱の建物に対してこの建物だけ黒を基調としていて特別な雰囲気だ。


                    拝殿 本殿 どちらも国指定重要文化財
 平成の大修復のため参拝できず、脇からの撮影にとどまる。
本殿は春日造りの形体だが、内部が2階建てで神座はその2階部分にある「貫前造り」と呼ばれる独特な構造だという。

由緒  
一之宮貫前神社
  上野国一宮、元国幣中社、一之宮貫前神社、群馬県富岡市一ノ宮鎮座。

 「一番はじめは一ノ宮」と古くからわらべ歌にうたわれている通り、一之宮貫前神社は上野国の一宮で、経津主神と姫大神を祀り、開運、治安、農耕、機織、縁結び、安産の神として県内はもとより、遠近の人々に信仰され親しまれている。
神社は、鏑川の清流に臨み北に妙義、南に稲含、秩父の連山、西に神津荒船の連山を仰ぐ景勝の地にあり、小高い丘陵を登り、見上げるような丹塗の大鳥居をくぐり、北斜面の下り参道をおりて参詣するという全国でも珍らしい形態を持ち総漆塗極彩色の社殿が鬱蒼と繁った杜に囲まれ巧に配置散在する様は、恰も日光の東照宮を見るような華かなもので、小日光と呼ばれている。
御祭神
 
経津主神、姫大神。
 経津主神は磐筒男、磐筒女二神の御子で、天孫瓊瓊杵尊がわが国においでになる前に天祖の命令で武甕槌命と共に出雲国(島根県)の大国主命と協議して、天孫のためにその国土を奉らしめた剛毅な神で、一名斎主命ともいい建国の祖神である。
 姫大神は祭神不詳で、恐らく綾女庄(一ノ宮地方の古称)の養蚕機織の守護神と考えられる。
由緒
 社伝によれば、碓氷郡東横野村鷺宮に物部姓磯部氏が奉斎、次で、南方鏑川沿岸に至り蓬ケ丘綾女谷に居を定めお祀りしたのが安閑天皇元年3月15日である、天武天皇白鳳2年3月15日初度の奉幣があり、清和天皇の貞観元年に宸筆の額を賜り、神位の昇る毎に書き改めて今に残っているものに正一位勲五等抜鉾神社とあり、即ち勅額で楽翁公の集古十種に記されている。
醍醐天皇の御代、延喜の制には名神大社に列し、上野国一ノ宮として朝野の崇敬を衆め、武家時代に至って、武家、地方豪族が格別に崇拝して数々の献品をなし、奥方連中からも奉納品等があって女神様の信仰も篤かったことが知られる。
明治4年国幣中社に列格、昭和21年、社格制度の廃止により一之宮貫前神社と称し現在に至る。
この間御修理に御下賜金、皇族方の御寄進或は御親拝(昭和9年)皇族方の御参拝等御神威彌彌高く農耕、殖産、開運の神として神徳四方に遍く一朝国家有事の際は賽者踵を接する。
社殿と境内
 現在の社殿は徳川三代将軍家光の命により改築したもので、寛永12年(約330年前)の造営である。元祿11年、五代将軍綱吉が大修理をした、江戸初期の総漆塗精巧華麗な建造物というだけでなく、その構造が、いわゆる貫前造と称する特異な点から重要文化財(旧国宝)に指定されている。
拝殿、楼門及び東西両廻廊は同時代の建築である、実に徳川家の抱え大工が日光廟という世界的美術建造物を完成する道程の中にあるものといえる。
境内は約26000坪、北斜面の森林で、本殿裏に樹令約1200年の杉の御神木があり、一名藤太杉とも云う、その昔、藤原秀郷(俵藤太秀郷)が戦勝祈願をこめて年令の数即ち36本を植えたと称するもので、現在はこの御神木一本だけが残っている。
西の門内は式年遷宮祭の御仮殿敷地、東の門内は往時神仏習合時代の僧堂敷地で、観音堂跡、三重塔跡、鐘楼跡等がある、不明門内にある鳥居は勅額鳥居と称え昔は遥か南方正面田島字鳥居の地にあったと伝えている。
宝物
 総て四百点余、鏡、武具をはじめとして、御神衣、古文書、神楽面等古来の崇敬信仰を語るに足る諸品を蔵している。
鏡、百数十面、奈良、平安、鎌倉、室町、吉野、桃山、江戸の各時代を通じて大観し得るものとして金工美術上珍重されている、内重文に指定されているものは次の通り。
白銅月宮鑑、唐鏡、約2000年位前の作。
約360年程前文禄3年頃小幡竹千代の乳母奉納
梅雀文様銅鏡、約760年前、鎌倉時代
竹虎文様銅鏡、約500年前、室町時代
御神衣、六十余領残存、元和9年以来遷宮毎に新調奉納
                                      全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

    
 一之宮貫前神社は、社伝によれば、碓氷郡に物部姓の磯部氏が奉斎し、その南方の鏑川沿岸を至って蓬ケ丘綾女谷に定め祀られたとある。
 古くは貫前神社、鎌倉時代から江戸時代にかけては、抜鉾神社、明治以降は現在の貫前神社と称している。本来「抜鉾」「貫前」は別神と考えられている。
抜鉾神は、男神・経津主神で、物部氏の系統をひく祭神で、群馬、碓氷、甘楽郡の西上州を中心に栄えた物部氏の氏神となった。一族は同時に鏑川流域の最高峰・稲含山の雷神を信仰していたという。
 貫前神は女神で、多野郡から甘楽郡の鏑川沿岸にいた帰化人が氏神としてまつっていたとされる。この神は農業と機織り、水源の神として厚く信仰されたという。総門より下り参道になっており、参道を下った低地に社殿が位置している。
 また現在は「一之宮貫前神社」という名で呼ばれているが、一部の歴史書によれば「抜鋒神社」という名前も見られる。これは祭神である経津主神の他、姫大神(比売大神)も祭神として2柱をお祀りしているためであり1神1社説、2神2社説等がある。
 延長五年(西暦927年)に編纂された「延喜式神名帳」によると貫前神社は上野国式内12社中の筆頭として「一之宮」を冠ぜられた。時代は下り戦国時代、西上野は上杉・武田・北條の各氏が激戦を繰り広げる場所で、支配者がたびたび変わる地域だったが、格式高く、武神である経津主神を祀っている貫前神社は各氏から庇護を受けたという。
 江戸時代に入ると徳川家の庇護を受け、三代家光や五代綱吉の時代に社殿の再建や改修が行われ、現在、国指定重要文化財である本殿、拝殿、楼門はこのときに作られたものとされている。


 また御本殿内部、左手には摂社抜鉾若御子神社がひっそりと鎮座する。上野国の国内神名帳にその名があり、この社殿は(1828年)の建立という。
               
                          摂社抜鉾若御子神社

 また神楽殿の南側には不明門と勅額鳥居がある。
      

不明門
 
普段は開門しないことから「不明門」(あかずのもん)ともいわれている。朱雀天皇の時代の勅使参向の折に建てられたと伝わる。現在では春秋の「御戸開祭」と「流鏑馬神事」で1年に3回開かれる。
勅使鳥居
 清和天皇御染筆の額が掲げられていたことから勅額鳥居といわれる。この鳥居も両部鳥居で現在は有栖川宮幟仁親王の額が掲げられている。

 また貫前神社社殿の西側には広い空間があり、そこには仮殿跡地と末社群が存在する。この末社群には二十二末社という合祀社があり、その二十二末社とは、①竈,②菅原,③沓脱,④速玉男,⑤粟島,⑥春日⑦奇八玉,⑧諏訪,⑨八幡,⑩事解男,⑪咲前,⑫浅間、⑬高?,⑭少彦名,⑮長田,⑯伊邪那岐,⑰八坂,⑱白山比咩、⑲熊野,⑳水分,?熱田,?扣各神社で、上野領地内に祀られていた各社を、寛永十二年の御造営の時にまとめたものらしい。
                

一之宮貫前神社には樹齢1000年の巨木がある。本殿から階段を登り右側の広場にあり、幹は数本の枝幹が成長して重なり合った奇異な形をしている。樹高15メートル根回り4メートル。
                
                   富岡市指定天然記念物「貫前神社のスダジイ」

  貫前神社が鎮座する富岡市周辺は、「毛野」の勢力範囲、特に大型古墳が集中している当時の中心地である利根川周辺(太田、高崎、藤岡)から完全に西側にずれている。これは何を物語っているのだろうか。10世紀の醍醐天皇の時代、『延喜式』のなかの『神名帳』に記載され、唯一の名神大で上野国一之宮として崇敬をあつめていた社であり、少なくともその年代、あるいはその少し前までは上野国の中心的存在だったろうとは想像できる。ではそれ以前はどこが中心だっただろうか。5世紀から7世紀の古墳時代、あれだけ栄えていた「毛野国」だ。上野国の中心、もしくは利根川北部の平野部付近にやしろを構えていたに違いない。
  前橋市にある赤城神社は式内社であり名神大の社格があり、上野国の二之宮である。伝承では、本来、一之宮であったが、財の君である、貫前の女神を他国へ渡してはならないと、女神に一之宮を譲ったという。さらに、赤城神が絹機を織っていたが、絹笳が不足したが、貫前の女神から借りて織り上げたとも言う。ここでいう「財の君」はまず貫前神社の祭神である姫大神であり、「他国へ渡してはならない」との他国とは信濃の建御名方刀美神であるという。別の伝承もあり、群馬県で有名な三つの神社、赤城神社、榛名神社、貫前神社、実は、この三つの神様が、三姉妹であった、という伝承が残っている。それにまつわるお話が、「一ノ宮伝承」で、上記「三姉妹」の女神様たちが、高天原の神々に対して、本職であるところの「織物」を献上することとなった。三姉妹はそれぞれ織物を織ったのだが、当時「一ノ宮」であった「赤城神社」の「姫大神」さまは、材料が不足していたため、約束の織物を作成することができそうになかった。そこで、赤城神社の姫大神さまは貫前神社の姫大神さまから 「材料」を借りて、約束の織物をつくることができたという。その時の功績に基づいて「これからは貫前神社が上野の国の一ノ宮とする」と決められた、というものらしい。
  また赤城神社の祭神は、赤城大明神、大己貴命、豊城入彦命等であるが、豊城入彦命は毛野氏(上毛野氏・下毛野氏)の祖先として古事記に記されており、前橋市にある大室古墳群もしくは総社二子山古墳は、この豊城入彦命の陵墓であったという伝説が残っている。なお、大室古墳群や二子山古墳等、豊城命の陵墓と伝説が残る古墳の年代は概ね5~6世紀で、日本書紀の年代に諸説ありと言っても、少し遅すぎる感じは否めないが、豊城入彦命を祖先とする一族の墓ならば大丈夫か、とも考えた。

 では、いつから「一ノ宮」の地位が変わったのか。
 それは正確には分からない。だが貫前神社の祭神である経津主神を物部氏である磯部一族が氏神の経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置するここに社を定めた、ことこそ最大の理由ではないかと考察する。貫前神社の鎮座する富岡市は、東山道の信濃方面に通じる要衝の地であり、毛野君の始祖にあたる豊城入彦命が実在したかは別として、天津系の一族が東山道経由で毛野国へ進出した事項は事実あったと考えている。当時の地形で考えるならば、毛野国へは、河川が多く渡河が不便な東海道より東山道のほうが便利で、協力する出雲物部一族も信濃国にはたくさん存在する。貫前神社は毛野国進出の最初の根拠地であり、その時の最大の功労者である磯部氏の氏神である経津主神を香取神宮から勧進したのではないか、と現時点では考える。


                              
      一の鳥居から見る秩父連峰の稜線 1,500年以上の歴史の経過はあっても風景は変わらない。


 

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阿保神社

 安保氏(阿保氏)は多治比氏を本姓とする、武蔵七党の一つで丹党の一派である。秩父(丹)綱房が初めて安保の地を領有し、その次男である実光が父綱房より武蔵国賀美郡の安保郷(現神川町元阿保)の地を譲り受け、居住し安保(阿保)氏を称したという。この実光の生没年は1142年(永治2年)から1221年(承久3年)と平安末期から鎌倉幕府創建時まで北武蔵地域で活躍した武将で、没年は80歳と当時の平均年齢では大変高齢であり、頼朝挙兵からその傘下に入り、一の谷の戦い、奥州合戦にも参加し、最後は老齢の身でありながら承久の乱にて、宇治川の戦いで討ち死(溺死)した。その功績からか、跡目を継いだ七男実員は本領とは別に播磨国の守護職を得て、鎌倉御家人として源氏3代、その後の北条執権家に忠節を尽くし、その宗家は鎌倉幕府滅亡と共に滅亡する。

 しかしその一方で、阿保神社のその創建時期が平安~鎌倉時代に活躍した安保氏よりも遥かに古く、「明細帳」によると、延暦三年(784年)に当地を来訪した伊賀国の阿保村の出身である阿保朝臣人上が従五位下・武蔵介に任命され、この地に阿保神社を創建したとも伝えている。
 丹党秩父一族が「安保」と名乗った前から、この地域はすでに「安保郷」と呼ばれていたということは、それより以前に「阿保」と因縁のある何かが介在していなければ成立せず、延暦年間の記述の信憑性も増すということだろうか。
所在地   埼玉県児玉郡神川町元阿保1
御祭神   大己貴命 素盞嗚尊 伊弉冉尊 瓊瓊杵尊 大宮女大神 布留大神
社  挌   式内社論社(今城青八坂稲実神社・今木青坂稲実荒御魂神社)
        旧指定村社
例  祭   10月19日 例大祭 

             
 阿保神社は群馬・埼玉県道22号を、上里町から神川町丹荘駅方向に進み、国道254号と交わる元阿保交差点の先の信号機のある十字路を右折すると1km弱位で左側にその社叢が見えてくる。駐車スペースは一の鳥居の先で境内に農民センターがあり、そこにはかなり余裕のある空間があり、そこに停めて参拝を行った。
 ちなみに阿保神社に通じるこの道路は、一説によると嘗ての鎌倉街道上道であったという。上野国から神流川を渡り武蔵国に入るとすぐ南側にこの阿保神社はあり、上野国との交易上の要衝であったことは容易に推察できる。
                   
                道路沿いにある古き歴史を感じさせてくれる阿保神社の社号標石


       参道正面には一の鳥居              社殿の手前右側には案内板がある。

阿保神社       神川町大字元阿保 字上六所一
 由緒
 ここ元阿保の地は、中世の丹党安保氏の本貫地とされる。丹党の秩父綱房の次子実光は安保の地に住み、安保氏をとなえ、以後在所名を姓とした。安保氏は鎌倉期から室町期、さらに戦国期までつながっていく。字上宿には安保氏館跡と伝える地があり、周囲は堀に囲まれた三百メートル四方の部分と考えられている。館跡のすぐ北西には当社が鎮座、南西側には安保泰規が室町初期に建立したと伝える大恩寺跡が隣接する。
 当社はその立地から丹党安保氏により鎌倉期以降に祀られたことが推測されるが、「武乾記」に載る由緒は更に古い。「六所明神は延喜式内の社なり。村老の伝に太古、阿保人上武蔵介の建立せし所なり。其後安保次郎実光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲実明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」と記載されている。
 丹党と丹生社との関わりは、字関口の池上神社の「明細帳」には「往古阿保村と一村たりしとき、六所社 丹生社同村にありしを、天正五年(1577年)三月分村の時、丹生社を本村の鎮守に分かち定め今の地に遷し祀る」とある。安保氏在住の頃は丹党の人々の結束として元阿保で祀られていた。言い伝えでは、六所社の奥であったという。
 当社は享保十二年(一七二七年)神祇管領から「正一位六所大明神」の神宣を受けた。風土記稿に六所明神社と載っているが、明治四十年から字内の神社を境内に遷し、明治四十三年に阿保神社と改称した。(以下中略)
                                                          案内板より引用
             
                              拝    殿
                       
                         拝殿とその奥にある本殿 

 阿保神社が鎮座する賀美郡は、武蔵国最北部にあたり、武蔵国内陸部よりも利根川、神流川を隔てて北岸の上野国との繋がりが遥かに多かった場所であろう。その意味において文化的にも経済的にも上野国の影響下であった時期があったと思われる。                                                                                                                    

 上野国の古墳の変遷を見ると、大体において以下の3か所が古墳の集中地域である。
  ① 太田市地域
  ② 佐野町、倉賀野町地方を含む県中央部
  ③ 藤岡市周辺地域
 藤岡市周辺の古墳は太田市周辺域や群馬県中央域と比べると出現時期は若干遅い。群馬県中央部の佐野、倉賀野地区で栄えた文化の影響からか、それとも東山道からの普及からか、5世紀前半には白石地区の猿田川岸段丘の上にある墳長175mの白石稲荷山古墳が、また6世紀前半には七興山古墳が築造されている。
                   
                              本殿内部

 七興山古墳は6世紀前半に築造されたと推定されているが、この時期に造られた東日本の古墳の中でも最大級の古墳で、同時期の埼玉古墳群の中の二子山古墳より規模は大きい。墳長146m、3段構成の前方後円墳で、その名前の由来として羊太夫伝説からきていると言われている。奈良時代多胡郡司となった羊太夫は、後に謀反の図っているとして朝廷から討伐軍を差し向けられ、羊太夫の妻女ら七人がここで自害し、それぞれ輿に乗せて葬ったので、「七興山古墳」という名前になったといわれている。

 この七興山古墳築造の時期と、羊太夫伝説には200年ほどの時代のズレがあり、後世の作り話とも、または逆説的な考え方としてこの羊太夫伝説自体が、6世紀に遡る実際に起こった事件とも思われるが、今回ここでは敢えてその真偽は問わない。それより重要なことは、白石稲荷山古墳や七興山古墳がこの白石地区、つまり多胡の地にあることだ。羊太夫伝説は伝承地が限られており、今の群馬県西南部を西から東方向に流れる鏑川流域に沿った地域を中心として、それに埼玉県秩父地域である。この地域こそ、伝説上ではあるが多胡の羊太夫が活躍した本拠地、及び勢力範囲なのだろう。

      社殿の右側にある阿夫利神社               阿夫利神社の奥に社日がある。

    社殿の左奥にある石祠群 詳細不明         社日の右側奥にズラッと並んだ境内社群
                                     
                   正面鳥居の傍にどっしりと構えたケヤキの御神木

 阿保氏は垂仁天皇の皇子である息速別王の子孫であり、息速別王が幼少の時に天皇が息速別王のため伊賀国阿保村(三重県伊賀市阿保)に宮室を築いて同村を封邑として授け、子孫はその地に住居したという。時は延暦三年(784年)、中央からのルートは宝亀二年(771年)武蔵国は東山道から東海道に属し、相模国から武蔵国沿岸を通るルートに変更されて10年程たった時期だ。当然阿保朝臣人上は官人であるため、東海道のルートを通ったろう。南側から武蔵国府中で任務を行っていた彼がどのような理由で最北の地であるこの地を訪れたのだろうか。何気なく記載された文章の意味を深く考えるといくつもの疑問が湧いてくる。

 羊太夫はどのルートで多胡地区から秩父黒谷地区に移動したのだろうか。最初に思いつくのが神川町城峰から皆野町国神を経て秩父黒谷地区に向かうルートであろう。但し藤岡市牛田地区から神流川を越えて本庄児玉町に入り、埼玉県道44号線で児玉町河内方向から皆野町国神に入るルートもある。ちなみに藤岡市牛田地区や、本庄市児玉町河内地区には羊太夫伝説、伝承が存在する。



 「多胡」は「タゴ」と読むが、「多」は「タ」の他に「オオ」とも読める。つまり、「多胡」=「大胡(オオゴ)」である。また「阿保」は「青(アオ)」であり「大(オオ)」とも読め(滑川町羽尾地区には羽尾神社があり、御祭神の藤原恒儀は青鳥城主であり、オオトリと読む)何かしら関連性があるように思えるのだが.....単なる偶然かもしれないのでそこはご容赦のほどを。



(追伸)
 この「多胡」という地名は後代「田甲、田高、田子、高生」と佳字を用いるようになる。この中で「田甲」は武蔵国吉見町に延喜式内社である高負彦根神社が鎮座する地であり、他には深谷市岡部地区や行田市皿尾地区にも存在し、意外に広がりをみせている。

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上奈良豊布都神社

  鎌倉権五郎景政は平安後期の平氏の武将。平 景政ともいう。奥羽で起きた戦乱「後三年の役」(1083-87)に源義家にしたがって出陣する。16歳だった。このとき戦場で片目を射抜かれるが、それをものともせず奮闘したことで知られる実在した坂東武者だ。
 『尊卑分脈』による系譜では平良兼の孫、村岡五郎忠通の子に為道、影成、影村、影道、影正の5人があり、影(景)成の子。鎌倉権守景成の代から相模国大庭御厨(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称したという。
 御霊神社は埼玉県各地に存在しているが、鎌倉権五郎景政を御祭神とした御霊神社は上奈良地区に鎮座する当社のほか、東松山市正代地区、熊谷市高本地区他飯能市や小鹿野町両神地区に鎮座している程度。場所的にはそれぞれ離れているが、何か共通性があるのだろうか。
所在地    埼玉県熊谷市上奈良(字御霊)1286
御祭神    武甕槌命
社  挌    旧村社
例  祭    10月15日 秋祭り
 

                          
 熊谷市上奈良地区に鎮座する豊布都神社の御祭神は武甕槌命であるが、嘗ては御霊社と称し、鎌倉権五郎を祀っていたという。創建は慶安2年(1649年)。当時荒川は上奈良地区近郊に流れ、その河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り―御霊によるものと考え、御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとした、と一の鳥居前の案内板では創建に関しての記述をしている。
           
                北側にある一の鳥居。その傍に社号標と共に案内板がある。
            
豊布都神社(ごりょうさま)  熊谷市上奈良1286
御由緒(歴史)
 当社創建の年代は不明であるが、慶安二年(一六四九〜江戸時代)に今の地に祀られたとあり、約三百年前と推定される。「新編武蔵風土記」の幡羅郡上奈良の条に「御霊社」と呼ばれ村の鎮守とあり、今の向河原・並木・二ツ道・在家・石橋・小塚の地域となっている。鎮座地は、向河原の西端にあり、往時地内には荒川が流れており、その渡船場を村人は「御霊の渡し」と呼び、今でも御霊田・御霊橋の地名が残る地である。
ご祭神は、神仏分離まで鎌倉権五郎景政で、本殿内に本地愛染を奉安するも明治五年九月には、今の武甕槌神に改め社名も豊布都神社と改称す。
往時の人々は、河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り・御霊によるものとの考えから御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとした。
本殿は、一間社流れ造りで銅板葺きの屋根となっている。本殿内には、元禄十二年に造られた「御霊之神」と墨書された神璽と共に「武甕槌神」と書された神璽が奉安されている。
老朽化した本殿を始め拝殿・幣殿を昭和五十九年一月に再建すると共に境内整備を終えた。その後、平成十六年には念願であった社務所兼地区集会場も清々しく新築をおえた。(中略)
                                                                案内板より引用
 境内は狭いからか北側にある一の鳥居から途中直角に曲がり二の鳥居があり、その扁額には「御霊大明神」と刻まれている。やはり昔は鎌倉権五郎を祀る「御霊社」だったのだ。 
            
                     二の鳥居に「御霊宮大明神」と刻まれた扁額

          東向きにある社殿参道              社殿の右側にある「本殿末社修復記念碑」
             
                               拝    殿
豊布都神社(熊谷市上奈良字御霊)
 利根川と荒川のほぼ中間に位置する上奈良は、中世の奈良郷に属し、近世になり分村した所である。地内には平安期の奈良館跡がある。
 当社は元来御霊社と号していた。『風土記稿』には「御霊社 村の鎮守なり、社内に本地仏愛染を案ず、慶安二年(一六四九)八月廿四日、当社領別当寺領とも合て十石の御朱印を附せらる(以下略)」と載せられている。創建の年代は明らかでないが、その背景にはかつて地内に荒川の川筋があったことが挙げられよう。往時の人々は、河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り―御霊によるものと考え、御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとしたことが推測される。ちなみに、当時の荒川は当社と別当東光寺の間を横切る形で東西に流れ、そこには東光寺管理の「御霊の渡し」と呼ぶ渡船があったと伝えられている。
 本殿には、像高三〇センチメートルの座像が奉安されており「権五郎尊像 元禄十二己卯天(一六九九)五月吉祥日 建立東光寺恵旭三十二歳」の墨書が見られる。
 明治初年の神仏分離により本地の愛染明王は東光寺に移され、明治五年に祭神を武甕槌命に改め、豊布都神社と改称した。豊布都とは、武甕槌命の別称で、鎌倉権五郎の武勇にちなんだものと思われる。
なお、往時の朱印地については、東光寺に朱印状が現存する 
                                                             埼玉の神社より引用                              
 

 ところで話は横道に逸れるが、この奈良地区は昔から湧水が豊富だったようで、律令時代の和銅年間に大量の涌泉が湧き出て、六百余町の壮大な水田を造成させたまさに水の宝庫という地であった。近隣には水に関連した地名である「玉井」地区もあるし、さらに7世紀以前からの祭祀遺跡である西別府祭祀遺跡にも御手洗池と書かれた湧水の源泉池が現在でもあり、一帯が湧水が豊富に存在していたことを物語っている。
 また
西別府祭祀遺跡のすぐ西側には幡羅郡の郡衙跡である幡羅遺跡もあり、幡羅郡の中心地帯にこの奈良地区も含まれていたと思われる。しかもこの奈良地区の中心を南北に縦断する道こそ東山道武蔵路であり、筆者の身勝手な想像ではあるが、地形上かなり重要の地ではなかったのではないだろうか。
             
                               本    殿

      社殿の右側にある境内社 八幡神社            八幡神社の奥にある境内社 八坂社

 八坂社の奥にある富士御嶽神社(左)と石祠(手前)          社殿の左側にある琴平神社

 上奈良村 御霊社
 村の鎮守にて、祭神は鎌倉権五郎景政なり、社内に本地佛愛染を安ず、慶安二年八月廿四日、當社領及別當寺(東光寺)領とも合て、十石の御朱印を附せらる。
 鐘楼。正徳元年九月鋳造の鐘をかく。
 末社。牛頭天王、八幡、稲荷、金毘羅
                                             「新編武蔵風土記稿」巻之二百二十九より引用


      手水舎の近くにある御神木                 一の鳥居の近くにある桜の大木

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