古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大塚諏訪大神社

 当地を含む深谷市北辺部は、諏訪神社が多い所である。これら諏訪神社は、いずれも信州諏訪神社の分祀と考えられる。同社の分社は全国に見られ、その時期は古代に始まるといわれるが、最も盛んであったのは鎌倉時代であった。これは、源頼朝が石橋山に戦い、甲斐の源氏が頼朝加勢の兵を挙げた時、諏訪の神が源氏勝利の託宣をしたことから、鎌倉幕府、更には鎌倉武士に信仰された結果である。
 当社の創建は、社伝によると正安年間(一二九九〜一三〇二)である。この時期は鎌倉時代の末期で、二〇年ほど前には、中国大陸の元軍が日本に来襲した文永・弘安の役があった。この戦役で、伊勢の風宮(かぜのみや)と信州諏訪神社の神が大風(神風ともいう)を起こして、元軍を全滅させたと信じられた。これは、古代から諏訪の神が、風の神として信仰されていたためである。なお、この風の神信仰は、本来は農業神としてのものであった。
 当地に諏訪神社が多い理由は明らかにできないが、鎌倉武士の発生地であり、鎌倉街道が通っていたことが挙げられよう。しかし、当社の場合は、その創建が鎌倉時代末期であり、鎌倉武士の勧請というよりも、諏訪の風の神としての信仰が一般化してきて、土地の鎮守として祀られたと考えるべきであろう。
「埼玉の神社」より引用
        
             
・所在地 埼玉県深谷市大塚263
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧大塚村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春祭り 410日 秋祭り 1017
 深谷市大塚地域は、小山川左岸の沖積低地にあり、深谷市下手計周辺から南東方向に流れている小山川支流の清水川が合流する地域一帯に位置し、中央部を群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線が南北に通っている。民家は県道を中心に点在するに対して、外郭周辺部は田畑が中心に農地が広がっているように、場所によって土地利用される用途がハッキリと分かれている地域でもある。
 途中までの経路は戸森雷電神社を参照。そこから群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上し、1.7㎞程先で小山川を越えた最初の十字路を左折すると、すぐに大塚諏訪神社が見えてくる。
        
                 
大塚諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』「大塚村」の解説
 小山川左岸の沖積低地に位置し、西は上手計(かみてばか)村、南は内ヶ島村、北は下手計村。岡部領に所属(風土記稿)。地元では「おおづか」とよぶ。永禄一二年(一五六九)九月一日の北条氏邦印判状写(武州文書)によると、鉢形城(現寄居町)城主北条氏邦が吉橋大膳亮に戦功の賞として「十貫文 大塚之内」などを宛行っており、これは当地に比定される。天正一八年(一五九〇)の徳川家康関東入国後、旗本安部信勝領(のちの岡部藩領)となり幕末に至る(天明七年「岡部藩領郷村高帳」安倍家文書、改革組合取調書など)。
 
     手入れの行き届いた境内         「
大塚諏訪大神社改築の記」の石碑
氏子区域は、大字大塚であり、「大塚」の名が示すように、地内に古墳後期・奈良期・平安期の大塚遺跡、古墳後期の諏訪神社前古墳がある。大塚地域は農業地域で、昔は麦、現在はネギの生産が多い。総戸数は五五戸であり、全戸氏子である。
        
                 塚上に鎮座する社殿
 大塚諏訪大神社改築の記
 当社の創建は、社伝によると正安年間(一二九九~一三〇二)である。この時期は鎌倉時代の末期で、二十年ほど前には、中国大陸の元軍が日本に来襲した文永弘安の役があった。
 信州諏訪神社の分祀といわれる当社の祭日は、四月十日春祭り、十月十七日秋祭りである。春祭りは。『お花見』とも呼ばれ、氏子一同で祝宴を行っている。秋祭りには、獅子舞が行われる。当社の舞は、天正十五年(一五八七)からと伝えられている。
 氏子区域は、大字大塚である。大塚の名が示すように、地内には古墳後期、奈良期、平安期の大塚遺跡、古墳後期の諏訪神社前古墳があり、深谷市指定二号遺跡となっている。
 地内に、享保四年(一七一九)大塚、村中造立の地蔵尊があり、『子育て地蔵』と呼ばれ、信仰されてきた。この地蔵尊の縁日は、毎月二十四日で団子を供えてお参りする人が今日でもある。耕地整理等に伴い、現在は他地番に安置されている。
 神社社殿の老朽がすすんだため、氏子の総意にもとづき平成十二年度から、十三年間計画で建設資金の積み立てを実施して、平成二十六年に待望の新社殿が完成した。
 平成二十六年九月吉日
  
大塚諏訪大神社建設委員会
                                      石碑文より引用
 
  社殿右側に祀られている境内社・稲荷神社       境内に祀られている石祠群。詳細不明。
        
               境内に一際目立ち聳え立つ巨木

 当社の例祭は、古くは八月二十六日であったらしい。「白川家門人帳」寛政四年(一七九二)に、伯家から当社に対して社号額の染筆を遣わしたとの記事があり、その中に、例祭日八月二十六日の記載がある。各地の諏訪神社の祭りは、八月二十六日から二十八日の間に行われることが多い。これは、信州諏訪神社の古くからの祀り「御射山(みさやま)神事」の日取りに合わせたためであろう。
 秋祭りには獅子舞が行われる。信州諏訪神社は狩猟と関係が深く、獅子頭は鹿の頭に似ている。獅子舞の起源は、寛元年間(一二四三〜四七)、時の鎌倉幕府執権北条時頼の命により角兵衛という者が始めたと説かれる。当社の舞は、天正十五年(一五八七)からと伝えている。
獅子舞は、十月七日の花作り・練習から始まる。当日は、舞い手3人・棒遣い2人・笛方1人・花笠2人・歌1人・ボンゼン1人で行われ、庭は二庭で、前と後ろがあり、終日境内に笛の音が流れるという。
 大塚獅子舞は「無形民俗文化財」として深谷市の指定を受けている。
【指定年月日】  昭和48113
【変更年月日】  平成3113日(記号番号変更) 平成1811
        
          社の入口正面には小山川の土手がすぐ目の前にある。
                   まるで社が身を呈して、北側に住む住民を守るように
                     この地で盾となっているような位置関係である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「深谷市HP」「境内石碑文」等

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江原冨士神社

 埼玉県深谷市にある江原(えばら)地域は同市内の北東部にあり、利根川支流である小山川右岸の沖積低地に位置していて、埼玉県最古の農業用水路である「備前渠用水路」が東西に流れ、この地域とその南側に位置する堀米地域との境となっている。地域名である「江原」の名前の如く、小山川等がもたらす肥沃な大地は農地に適しており、地域内の大部分は豊かな穀物地帯となっていて、一部病院や住宅等も建ち並んでいる。
 この地域は『新編武蔵風土記稿 上・下江原村』によると、「和名抄」にみえる幡羅郡荏原(えはら)郷の遺称地として紹介している(【和名抄】といへる郷名をのす、今轉(てん)じて斯記せるにや、さもあれば古の郷にて、わづかにその名のゝこれるならん)。と同時に、地元の人々の傳では、この村は以前蓮沼村の内で慶長7年(1602)の検地で江原村として分村したとしている。のち元禄(16881704)以前にほぼ西部の上江原村と東部の下江原村に分村し、両村とも忍領に所属(同書)した。
 またこの地域は、猪俣党荏原氏の名字の地とされ、猪俣党系図(諸家系図纂)では河勾政重(猪俣時範の玄孫)の子範政が荏原太郎を称していて、地内には荏原氏の館があったと伝えている。
        
             
・所在地 埼玉県深谷市江原345
             
・ご祭神 木花咲耶姫命
             
・社 格 旧江原・蓮沼・堀米村鎮守 旧村社
             
・例祭等 祈年祭 228日 例大祭 1018日 新嘗祭 1119
        
 熊谷市西別府地域で国道17号線から分離する国道17号バイパス、通称「上武道路」を北西方向に進行し、2.5㎞程先にある「蓮沼」交差点を右折する。その後、埼玉県の北部を流れる埼玉県最古の農業用水路である「備前渠用水路」を過ぎた直後の路地を右折し、用水沿いの道幅の狭い道を東行するとほぼ正面に江原冨士神社の鳥居と南北に通じる長い参道、その北側先に小さく江原冨士神社の社叢林が見えてくる。地図を確認すると「北深谷病院」の敷地のすぐ東側に隣接しているような位置に社は鎮座している。
        
       周囲一帯田畑風景の中にポツンと立つ鳥居と一直線に伸びる参道
 現在社のすぐ西側には北深谷病院、及びその関連施設等の立派な建物が建っているが、それ以前は周囲一帯田畑のみで何もなかったはずである。
 地形を鑑みるに、旧江原村のみで考えるとこの社は南側にあり、社殿も南向きで、地域住民が住む場所に対して背を向いている配置となっているため、村鎮守として納得できない所もあったのだが、嘗ての旧江原・蓮沼・堀米村の鎮守社としての役割を考えると、ほぼ中央付近に鎮座するこの社は絶妙な位置にあり、ポツンと立つ鳥居やその北側にある社殿は、身近な地域の方々の動向を背に意識しながらも、西・南側に住む住民にも気を配った位置関係となったのではないかと推測した次第だ。
 
     参道途中に建つ社号標柱         参道入口から200m程先に見える境内
 木花咲耶姫命を主祭神とする当社は、古くから江原・蓮沼・堀米の三村の鎮守として崇敬されている。また、嘗てこの地方は養蚕が盛んであったことから、隣国にある浅間山の噴火による灰燼の被害に対しての恐れは甚大なものがあった。このため、当地の人々は、山の神の象徴である富士山の祭神、木花咲耶姫命を常日ごろから祀り、養蚕倍盛・五穀豊穣を祈ったといわれる。
       
           境内入口に一際目立ち聳え立つ   銀杏の大木の右側には本殿上屋新築記念碑
          大銀杏の大木        と共に境内社・八坂神社が祀られている。
        
                    拝 殿
 富士神社  深谷市江原三四三(江原字西富士宮)
 利根川の支流、小山川の低地に位置する江原は、平安期に見える幡羅郡八郷の一つである荏原(えばら)の遺名と見られ、地内には武蔵七党猪俣党の荏原氏の館があったと伝える。
 社伝によると、当社は延暦年間(七八二〜八〇六)の富士山大噴火の際に降った灰を林中に集めて盛り、その上に祠を建てて富士の神霊を祀ったことに始まる。その後、坂上田村麻呂が奥羽蝦夷鎮定の帰路当地を通り、富士の神霊が鎮まるこの林中で馬を休め、軍装の一部を解いて当社に奉納し、蝦夷地平定を祝ったという。
 次いで、建久四年(一一九三)源頼朝が富士の裾野で巻狩りを催した際、当地の豪族蓮沼・荏原の両氏は住民を率いてこれに加わり、以来富士山への尊信を深めていった。また正慶年間(一三三二〜三四)には、新田義貞が北条高時を征する際、上野国生品神社から出陣し、途中当社地で休憩したところ、数千の住民が味方に加わった。この神徳に感謝した新田軍は、大いに士気が上がり、鎌倉に向かい、北条氏を打ち滅ぼしたという。
 このように数々の事歴を伝える当社であるが寛永九年(一六三二)の大洪水により旧記・什物をことごとく流失し、唯一、空海筆と伝わる「富士宮大明神」の古額が残されるのみとなっている。
 なお、当社に奉仕する千手院は、古くは字本郷の神領地に居住していたが、享禄年間(一五二八〜三二)権僧都白水法印の時に居宅を当社隣接地に移した。これが後の江森家である。明治二十八年の「村社富士神社御由緒調査書」に載る天和二年(一六八二)「指上申御除地之事」には、御除地「畠七畝弐壱拾歩」のうち「中畠三畝八歩」が明神免、「屋敷四畝拾弐歩」が千手院屋敷免であったと記している。
 享保十四年((一七二九)江原・蓮沼・堀米の氏子中により社殿が再建された。次いで、宝暦九年(一七五九)に地元の江原・蓮沼氏子中による鰐口の奉納があり、更に天明二年(一七八二)には再び江原・蓮沼・堀米の氏子中により石灯籠の奉納が行われた。
 明治に入ると、千手院は復飾して江森姓を名乗り、神職となった。これについて『大里郡神社誌』は、「明治元年復飾改名の沿革は古く千手院を森の内と俗称せるものから江森の江を併せて姓を定めたりと云ふ」と載せている。
 明治九年に当社は村社となり、同四十二年から同四十五年にかけて江原・蓮沼・堀米の三地内にあった各社を合祀した。合祀社のうち堀米の十二所神社は、この時の「十二所権現御遷宮次第」には、別当の養福寺が導師となり、威儀を整え厳かに御位を神社にお迎え入れる様子が記されており、神位拝受に寄せる氏子の心情をうかがわせる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 年間の祭事の中で、1018日に行われる例大祭では、巫女舞や獅子舞の奉納がある。
 巫女舞は、紀元二千六百年を奉祝して始められたもので、現在は小学六年生の女子により行われているという。舞には「浦安の舞」「豊栄(とよさか)の舞」がある。
 獅子舞は、天明三年(一七八三)の浅間山の噴火により農作物が被害を受け、更にこの年は疫病もはやったことから、村人はこの苦境を切り抜けようと、伊勢国度会郡山田の里から獅子舞の伝授をうけ、鎮守に奉納したことに始まると伝えられ、堀米の氏子によって代々伝承されている。
 獅子舞奉納当日は、まず堀米の十二所神社跡に寄って一庭摺った後、富士神社に向かう。獅子の構成は男獅子・女獅子・法眼の三頭からなり、演目は「おんべ掛かり」「ひら」「雌囃子隠し」「橋掛かり」等とされる。舞の中でも「おんべ掛かり」は、社前において御幣を振り、天下泰平・風雨順次を祈願するという独特のもので、作物の豊醸を願った往時の人々の願いがこの舞に込められていたことを伺わせる。
 通称「堀米の獅子舞」と呼ばれるこの獅子舞は、深谷市の無形民俗文化財に指定されている。
        
                         本殿の左側に祀られている石祠・石碑群
   後ろの石祠は、境内社・大天獏社・塞神・稲荷社。その右側に祀られている蚕影神社。
        
                         帰りも備前渠用水路までの長い参道が続く。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「深谷市HP
    「埼玉の神社」等
            

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北吉見神明神社

 北吉見神明神社の創建は口碑によると、江戸時代初期に源氏一門新田一族の後裔であった旧大名の落人が当地を開発、住民らとともに氏神として祀ったことによるという。当社はもともと氏子総代が世襲であり、新井家を初めとする四軒の旧家が永く務めていた。この四軒は「旦那」と呼ばれ、古くから再建行事等の大きな負担のある時には多額の寄附を行って来た。また、総代の他に当番の役があり、氏子区域から家並み順に二名ずつ出て、注連繩などの祭典の準備に当たっているという。
 当社は、かつて氏子が病気の時には拝みに来て、絵馬や髪の毛を上げて願をかけ、全快するとお札参りを行ったという。現在も小絵馬が多数残されており、古くから信仰の盛んだった様子を伝えている。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡吉見町北吉見2250
            
・ご祭神 天照大神
            
・社 格 旧柚沢村八反田鎮守
            
・例祭等 元旦祭 12日 春祭り 416日 例祭 710
                 
秋祭り 1016
 吉見町大字北吉見は、吉見丘陵の南西部に位置していて、地域内に古墳後期の吉見百穴横穴墓群(国史跡)や松山城跡(県史跡)があり、昔から開発の進んだ地域であった。
 不思議とこの地域周辺は、グーグルマップ等の地図を確認すると、やたらと飛び地が入り乱れている。嘗て柚沢・根小屋・土丸・流川・久米田村は古く一村であり、各村の境界は相混じり、当村は広さなども「定かに弁し難」かったと『新編武蔵風土記稿』にも記載されていて、現在でも北吉見や久米田・南吉見等の地域には異常に飛び地が多い場所でもある。
 途中までの経路は北吉見八坂神社を参照。南側に接している埼玉県道271号今泉東松山線を700m程東行し、「JA埼玉中央農協 西吉見支店」が右手に見える信号のある十字路を左折する。その後200m程進んだ路地を左折、「八反田集会所」を過ぎたあたりの正面やや左方向に北吉見神明神社の白い鳥居とその先にある社殿が小さいながらもハッキリと見えてくる。
 但し専用駐車場等なく、路上駐車したため、前後からくる車両が来たらひとたまりもなく、また見慣れない車が不自然な場所に駐車しているのは近郊に方々には不審に思われるため、急ぎ参拝を開始した。
        
                 北吉見神明神社参道
 この真っ直ぐに伸びていない参道と周囲の田畑風景、加えてその先に見える純白な鳥居が絶妙にマッチしている。遠くから見える社殿手前の石段の按配もまた良し。近隣の人々が大切に管理しているのが分かるように小高い地に南向きに鎮座しているその眺めもいう事ない。正直北吉見地域の中でも東北端部に位置し、目立たない地に鎮座しながらも、周囲一帯のどかな風景の中に溶け込み、それでいて存在感のある社。
 嵐山町の鎌形八幡神社熊谷市の板井に鎮座する出雲乃伊波比神社小江川地域の高根神社のように、筆者の心をくすぐる社の風景がそこにはあった。ともかく雰囲気が良いのだ。 
       
            正面から見た鳥居とその先に鎮座する社殿
『日本歴史地名大系』「柚沢(ゆさわ)村」の解説
 根小屋(ねごや)村の北方に位置したが、当村および根小屋・土丸・流川・久米田村は古く一村で、各村の境界は相混じり、当村は広さなども「定カニ弁シ難」かった(風土記稿)。大体は東は和名(わな)村、西は市野の川が流れる。また「古ハ温泉アリシヨリ湯沢ト唱ヘシヲ後ニ今ノ字ニ改メシ」と伝える(同書)。元禄郷帳では高四二四石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本竹田(武田)領。「風土記稿」成立時には旗本竹田家と大島家の二給。この二給で幕末に至ったと思われる(「郡村誌」など)。
        
                  参道周辺の様子
 当地は周囲が小高い丘となった小盆地状の地形であり、江戸時代に記された『新編武蔵風土記稿 柚沢村』にも記述されているように「用水は流川村の大溜井及天神溜井を引用ゆ、又村内にも二ヶ所の溜井あれど、もと水利不便な地なれば、やゝもすれば旱損すと云」と旱魃等の被害もあった地域でもある。
        
                 石段上に鎮座する拝殿
 神明神社  吉見町北吉見二二五〇(北吉見字三十八耕地)
 八反田の地は、もと旧柚沢村の小名の一つで、周囲が小高い丘となった小盆地状の中に民家が点在している。隣地の根古屋などとともに松山城跡地に当たり、正保から元禄期(一六四四〜一七〇四)にかけて久米田村から分村した。当社は、現在八反田の鎮守であり天照皇大神を祀る。その創祀由来は口碑によると、江戸時代初期の元和七年(一六二一)三月三日、新田義貞一族の後裔であった旧大名の落人が当地を開発し、住民らとともに氏神として祀ったことによると伝える。永く世襲で氏子総代を務める新井・松崎・西島・高橋の四家は、その開発に従事した人々の子孫とも考えられるが、また「天正庚寅松山合戦図」に見える新井・松崎各氏との関係もうかがわせる。
『風土記稿』柚沢村の項に、神明社のほか、稲荷社・天神社・八幡社・愛宕社があり、各社ともに「竜性院持」となっている。この竜性院は、真言宗の寺で旧御所村の息障院の末寺であったが、開山が不詳であり、中興開山は寛文二年(一六六二)と伝えている。恐らくは当社の創祀とあまり時をおかずして再興され、別当となっていったに違いない。
 当社には、現在境内社として天満宮・御嶽社・七鬼神社等が鎮座している。天満宮は、石碑によれば明治四十五年に合祀された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  社殿左側に祀られている石碑・石祠等            社殿右側にひっそりと祀られている
 左より享保〇年奉納碑・七鬼神社・辨才天・        天満宮の石碑
   大口真神の御符がおいてある御嶽社

 当地域の氏子は、当社のほかにも様々な神仏を信仰している。安産の祈願には川島町正直の観音様に行く。子供の夜泣きが激しい時には、鴻巣市三ツ木の山王様に参詣すると治るといい、受けてきた神札を座敷の壁に貼って守護してもらう。疣(いぼ)を取るには同じ北吉見の地内にある北向き地蔵に祈願し、線香をあげてその灰を疣につけると効くという。
 加えて、春の農耕を始める前には吉見観音から神札を受けてきて、竹につけて村境に立てて村内に悪霊が入って来るのを防ぐ。この日、氏子は禦(ふせぎ)正月と称して一日中休んだという。
        
              何度振り返り見入ってしまう里風景
     筆者の心を揺さぶる社が一社追加されたような心持ちとなった今回の参拝。
    改めてこのような社と出合えたことに対して、神様に心から感謝し手を合わせた。
               本日の青天の天候と相まって、充実した時間を過ごさせて頂いた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
              

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山ノ下稲荷神社


        
            ・所在地 埼玉県比企郡吉見町山ノ下830
            ・ご祭神 倉稲魂命 菅原道真公
            ・社 格 旧村社
            ・例祭等 不明
 山ノ下稲荷神社は、比企郡吉見町北部に位置する山ノ下地域に鎮座する社である。山ノ下稲荷神社は、松山城の攻防戦で果てた武士山崎直宗の子息山崎隼人が、当地を開発、屋敷傍に、「稲荷天神社」を氏神として永禄10年(1567)創建したという
        
                   田甲髙負彦根神社が鎮座する通称「ポンポン山」の岩礁面
                  因みにこの画像は202112月撮影時のもの
 田甲髙負彦根神社が鎮座する通称「ポンポン山」の岩礁面に沿って南北に通じる道があり、そこを南下すると、正面に山ノ下稲荷神社の社叢林が見えてくる。社の入口付近には駐車可能な路地面があり、車両の進行に支障のない場所に車を停めてから参拝を開始した。
        
                 
山ノ下稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「山野下村」の解説
 田甲(たこう)村の東にあり、村域は吉見丘陵の北東端部とその下の低地を占める。山(丘陵)の下に位置することが村名の由来という(風土記稿)。山下とも書いた。文明一三年(一四八一)の板碑がある。小田原衆所領役帳では松山衆の安宅七郎次郎の所領のうちに「吉見郡山下」一貫五〇〇文があった。田園簿では田高六〇石余・畑高八六石余、幕府領。日損場との注記がある。
『新編武蔵風土記稿 山野下村』
 田甲村を下り當村に至て、始て平衍の地なれば、直に村名とすといへり、民家二十五、(中略)吉見用水を引沃げども、しばヾ早損あり、永祿の頃は北條家の士、安宅七郎次郎が知行なる由【小田原役帳】に載たり、
稻荷社 鳩峰寺持、下同じ、
天神社
淺間社 村民持、
鳩峰寺 新義眞言宗、御所村息障院末、和光山と號す、本尊彌陀を安置す、 藥師堂
        
               風情ある
山ノ下稲荷神社の鳥居
        
                    拝 殿
 稲荷神社  吉見町山ノ下六五二(山ノ下字宮田)
 当社は、松山城の攻防戦で果てた武士、山崎直宗の子息隼人により建立された。
 天和元年(一六八一)十一月二十五日の「為取替申当村開発以来村系図并仕来儀定之事」(山崎家文書)によると、永禄九年(一五六六)北越の雄、上杉謙信の城攻めにより松山城守備の上田能登守朝直旗下にあった五人の武士が自害した。五人の子息である山崎隼人・小山兵庫・八木橋刑部・野沢図書・高橋采女は、遺言により当地に落ち、帰農して山ノ下村を開発した。
 この内、開発郷士筆頭である隼人は、永禄十年(一五六七)三月に屋敷そばに氏神である稲荷天神社を建立した。これが当社である。山崎家は、代々名主を務める家柄であったことから、当社もおのずから村の鎮守として祀られるようになった。また、小山兵庫は、永禄十年九月に屋敷そばへ石宮地社(石宮地稲荷社)を建立した。なお、これら五名は、永禄十一年(一五六八)三月に当社と石宮地社の別当である鳩峯寺を開基し、更に、元亀二年(一五七一)八月に当地と隣接する松崎村境に両村惣鎮守「正八幡宮」を建立した。
 なお、『風土記稿』には、当社の名が見えるが、小山家の石宮地社は同家の氏神であり続けたためか、その名が見当たらない。この石宮地社は、『明細帳』によれば明治四十年に当社に合祀されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 上記の由緒に載せられている「山崎隼人」という人物は、山崎文書によると「松山城主上田能登守朝直入道・永禄九年四月北越へ城を渡す。菩提寺三道村常蓮寺に於て御年六十四歳に而御生害之節、山崎隼人父直宗六十一歳に而、一同伴切腹之節御遺言、依之十一月迠浪人す、十二月二日より当所に住す。慶長七年九月開発人郷士山崎隼人・高三十二石余・此地面六町四反余。天和元年、山崎隼人直成四代孫半兵衛」とあり、慶長七年九月年貢割付状では「開発人郷士頭役山崎隼人、居屋敷を除地となし、名主に任命す」と記されていて、実父の死(切腹)⇒浪人⇒当地に移住、と苦労をしながらも忍耐強く生を全うされた人物であったのであろう。
        
              拝殿の手前に祀られている境内社
  境内社中に石祠が三基祀られている。左より津島神社・富士浅間神社・富士浅間神社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」等
        

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鯨井春日神社


        
              
・所在地 埼玉県川越市鯨井26
              ・ご祭神 武甕槌命 斎主命 天児屋根命 姫大神
              ・社 格 旧鯨井村犬竹鎮守
              ・例祭等 一升講 19日 春祈祷 49日 
                   お日待 10月15日 秋祭り 11月23日
 鯨井八坂神社から埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線を東行すること1.2㎞程、入間川に架かる「雁見橋(かりみはし)」を渡る手前で、堤防がある路地を左折し、土手を下るように進むと、木陰の中に佇む鯨井春日神社が見えてくる。
       
                  鯨井春日神社正面
『日本歴史地名大系』 「鯨井村」の解説
 上戸(うわど)村の北、東を入間川、西を小畔川に挟まれた低地に立地。高麗郡に属した。村名は久次郎が開発し居住していたことから久次郎居村といい、久志羅井とも書いたと伝える。延宝(一六七三―八一)頃までは地内に犬武(いぬたけ)郷の地名が残り、独立性が強かったが、その後完全に鯨井村に合併されたという(風土記稿)。現東京都青梅市安楽(あんらく)寺蔵の大般若経巻一一六は、永和五年(一三七九)三月一八日に「河越庄犬武郷」において書写されていた。小田原衆所領役帳に御家門方の北条長綱(幻庵)御新造の所領として「百四拾二貫五百六十四文 河越卅三郷犬竹鯨井」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が行われた。天正六年(一五七八)北条幻庵は大井郷名主・百姓中に人馬を調達し鯨井郷から上依知(かみえち・現神奈川県厚木市)まで兵粮を運ぶよう命じている(同年正月二〇日「北条幻庵印判状」塩野文書)。

『新編武蔵風土記稿 鯨井村』
 鯨井村は郡の東入間の群界にして三芳野郷に屬せり、往昔久次郎なるもの草創して居しゆへ、久次郎居(くじらい)村と唱へしを、何の頃よりか今の文字に書かへしよし、或は久志羅井とも書せり、

 この地は、嘗て元禄の棟札にも「河越庄犬竹郷」と記し、古くは一村を成していた(「入間郡誌」村の東方犬竹は古は一区の小村にて、延宝の頃までは、犬竹郷などと記したる証跡あり)。しかし、西側を開墾し、住民が移住し鯨井村となるにつれて当地は衰微し、鯨井の一字になってしまったという。氏子区域は大字鯨井の犬竹地区で、現在の氏子数は十五戸、『明細帳』にも十六戸とあり増減はほとんどない。
        
  入り口には鳥居はなく、規模も決して大きくはないが、落ち着いた雰囲気のある社である。

 鯨井春日神社は、北条一族で川越三十三郷を領した犬竹織部正平則久が永正年間(15041521)に創立したと伝えられる。古くは境内に柊の木が多かったために、柊宮あるいは柊様と呼ばれていたといい、鯨井村字犬竹の鎮守として祀られている。当社の神事「犬竹の一升講」は、御馳走をたくさん食べる飽食神事の一つで、川越市無形民俗文化財に指定されている。
        
                    拝 殿
 春日神社  川越市鯨井26(鯨井字犬竹)
 入間川の土手際に南面して鎮座する当社は、永正年間に犬竹織部正平則久が創立したと伝える。古くは境内に柊の木が多かったために、柊宮あるいは柊様と呼ばれ、社蔵の『嘉永元年寄進帳』に「抑々当社春日大明神乃御事は世の人柊明神と御唱ひ立て相成侯疫病除第一の御守護」とある。
 現存する元禄九年再建の棟札に「竹柴山別当寶勝寺現住月潤良雲」とあり、神社の後ろにあって明治初期廃寺となり観音堂のみ残る宝勝寺が別当だったととがわかる。また、明治二年の棟札には「神主中臣朝臣竹榮瑞穂」と還俗神勤したことが知られ、更に「祭神一御殿武甕槌命 二御殿斎主命 三御殿天児屋根命春日大明神是也 四御殿姫大神」と記されている。『明細帳』もこの四神を祭神としている。
 犬竹織部正平則久は北条一族として、川越三十三郷を領したといい、当地に居住し犬竹と称し、その子孫は勢〆と名乗り今に至っている。棟札にも「願主瀕志目庄左衛門尉則重同姓織部則政」とある。また、別当の宝勝寺も古くは観音堂だけだったものを、則久が起立したと伝える。なお、『風土記稿』に「則久は永正十二年の没」とある。
 口碑によると、境内に多くあった樹木は入間川の増水の折に伐採して杭とし、氏子の田畑の流出を防いだという。
                                  「埼玉の神社」より引用

勢〆」氏に関しては、新編武蔵風土記稿にも以下の記述を載せている。
『新編武蔵風土記稿 鯨井村』
 舊家者織平
 氏を勢めと云。先祖某は北條新九郎の氏族にして、當所犬竹郷に居住す、因て犬竹を氏とす、即ち犬竹織部正平則久と稱す、川越三十三郷の内を領し、北條氏の旗下に屬す、北條氏亡て後子孫民間に下れり、戸田左門一西この村を知行せしとき、慶長年中江州膳所へ移されければ、則久が子孫これに屬して、彼地に至て住居せるときに、犬竹の氏を勢めと改むと、居ること幾ばくもなく、同姓某なる者を出して代らしめ、己は遂に郷里に歸居せしより、今既に十五世に及と云、されど古書の詳なるものはなし、

        
           境内に設置されている「犬竹の一升講」の案内板
 市指定 無形民俗文化財 犬竹の一升講
 毎年一月九日、氏子の宿で行われる神事である。前夜の行事をオビシャ講といい、当日の行事を、イッショウコウ、イッショウグイともいう。春日神社は犬竹十六戸の氏神であって、疫病除けの神さまといわれる。オビシャ講は氏子の中の子どもや年寄・奉公人等が宿に集まって小豆粥をたらふく食べる行事である。一升講は当番の二軒の主人を除いて、他のブクのない氏子の家の代表者全員が宿に集まって行われる。宿では小豆の入ったアカノゴハンと入らないシロノゴハンを一人一升あてに炊き上げ本膳をすえて来客を待つ。ヤドマエの二人はオトリツギ、キウジヤクとも称して接待する。キウジツキの儀とはまず赤のご飯少々を給仕つきで軽く一箸で食べる。オテモリの儀とは客同士がテンコモリに盛りあげて、これを三杯食べる。オニギリの儀はさらに残ったご飯を全部食べて終る。古い飽食神事の一つである。(以下略)
                                      案内板より引用

 
          境内社・愛宕社               境内社・稲荷社
        
                  境内社・御嶽社

 鯨井春日神社で行う祭事に関して、4月9日に行われる春祈祷は、古くは鶴ヶ島から神楽師を招き拝殿で行った。この碑は田仕事の無事を祈り、各戸は赤飯を重箱に入れて持ち寄る。また、10月15日のお日待は親類を招いて御馳走してにぎわったが、現在では祭典後、拝殿で直会をするだけとなっているという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「入間郡誌」「埼玉の神社」
    「境内案内板」等
                         

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