古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

境小此木菅原神社

 嘗ての「小此木村」の開村伝承はこのような言い伝えがある。
小此木氏の先祖左衛門源長光は、新田義貞に従って戦さに出たが、負けてこの地に逃げこんだ。アサヒッピラの荒野を拓いて小屋を建て、そこで農業を営んだ。そこで小此木には下ゴヤ、中ゴヤ、上ゴヤという地名がある。小此木氏は、村の草分けの家だという。江戸時代以後、この地には新田開発が進められ、小此木の新田組、下淵名の西窪新()等これに関する地名が残っている。
『伊勢崎風土記』
「小柴村、元亀天正の際に小柴左衛門長光・能登国の人なり、来りてここに住む。境町(古の仮宿村)は小柴村を割きたり、長光の累跡あり、市長(なぬし)・坊正(くみがしら)は多くは長光の従者の子孫なり。中島村は小柴村を割きたり、小柴左衛門ここに居りき。百々村に稲荷祠あり、天文十五年小柴左衛門長光、能登国石剣山より之を移せり」
『境町の民俗』 「小此木長光舘趾」
 境城主小此木長光の拠ったところと伝えられ、福寿院の東南方二百歩の地にある。いま此処に長光夫妻供養塔を存し、無住阿弥陀堂がある。かつてこの堂宇で太子像を発見し、この部落が昔鍛冶職の盛んだったことを思わせる。なお長光の子孫といい小此木姓を名乗る旧家がある。

        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境小此木216
              ・ご祭神 菅原道真公
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 春祭・入学祈願祭 43日 夏祭 七月吉日 秋大祭 113日 他
 境下蓮町三柱神社から一旦北上し、群馬県道142号綿貫篠塚線に合流後東行する。目の前に広瀬川の堤防が見えてくる周囲一面長閑な田畑風景の中、進行方向正面やや右手にポツンと深い森林に覆われた境小此木菅原神社の社叢林が見えてくる。
        
                 境小此木菅原神社正面
『日本歴史地名大系』 「小此木村」の解説
 中島村の西に位置し、西は那波郡飯島村・国領村(現伊勢崎市)に接する。現在北方を広瀬川が東流。平坦地ではあるが窪地が多い。「伊勢崎風土記」には村名について、天平神護(七六五〜七六七)の頃は朝日の里といい、のちに利根川水傍の地のため芝草が多いので小芝(こしば)村、のちに小柴村となり「近古、柴字を割き読みて、小此木村と曰えり」とある。さらに同書に「小柴村を割きて境町・中島・島村の三村を置けり」とある。
 
    鳥居の右側に建つ社号標柱        社号標柱の後方に設置されている案内板
 伊勢崎市境小此木地域は、利根•広瀬両川の間にあり境町随一の肥沃の地である。とくに桑園、根菜類がとれることは黒土層が深いからで、掘っても赤土に達しない。ゴボウ(牛蒡)などは1mから1.5m位太く真っすぐ伸びた優秀なものがとれる。対して、稲作は飯米分だけ出作し、4㎞の遠方の水田まで農耕に出掛けるが、近年は「オヵタンボ」とよぶ畑地を水田化した稲作を行うようになった。いずれも水利に恵まれなかったからで、発動機によって井戸の揚水が行われていたという。
 地域内は、平坦地ではあるが窪地が多く、村中道路は未開発で狭く曲りくねっている。商業は少なく大部分農業で、次いで機業が盛んである。
        
                綺麗に整備されている境内
 天平神護(七六五〜七六七)の頃に「朝日の里」と呼ばれたころはわずかな人家であったと推測される。というのも、江戸の初めにも十数軒にすぎない集落であったが、農民の移転土着は盛んで、江戸時代末期には家数一五五軒、人数六九八人の大村になった。
 この地域は、肥沃な土地と河川交通にめぐまれていたが、かつては一部の地域をのぞいては農業の開発がおそく、長い間原野山林のままであったと思われる。境地区は面の萩の原中に開かれた街並でいまに萩原の地名を残し、小此木地域は柴草が生い茂っていたので「小柴村」、のちに「柴」の字を割いて「小此木」としたといわれている。
        
                    拝 殿
 菅原神社誌
 主祭神 贈正一位太政大臣 菅原道真公
 合祀神 素盞鳴尊 大稲田姫命 八柱御子神
     大国主命 建御名方命 木花咲姫命
     加具土命 豊受姫命  大雷命
     日本武尊 応神天皇
 由緒 古伝によれば日本武尊御東征の折当地一帯を眺められ朝日の里と仰せられたという利根・烏川両川の運んだ沃土と水利の地に何時か人々が住み着き 鎌倉時代新田氏に属した小此木彦次郎盛光が此の地を領北野雷電の松の傍らに天満宮を祀る その後戦国時代金山城主由良氏に属した小此木左衛門尉長光 境城に據って此の地を領し天満宮を興し天正十八年徳川家康公江戸城以後祭祀は里民の手に移り寛永年間社殿造営 安永年間改築 明治十一年村社に列し地内各組の小社を合祀して現在に至る
 上 愛宕神社・天神社 中 稲荷神社・熊野社・諏訪社
 新田北下 住吉社・浅間社 原 八幡社(以下略)               案内板より引用
 
            社殿の左側に祀られている英霊殿(写真左・右)
       
        本殿の裏に祀られている(?)多数の石祠と庚申塔群に旧狛犬
        この石祠は、案内板に記載されている各小字で祀られていた愛宕神社・天神社
             稲荷神社・熊野社・諏訪社・住吉社・浅間社・八幡社等であろうか。
             
                      境内にある「当社沿革並合社碑記」
                 当社沿革並合社碑記
      元亨年間一ノ巨松アリテ老幹半天二真立シ松聲風二激シテ雷ノシ〇〇
      雷電松ト称ス 樹下二一石祠アリテ其ノ祭神詳ナラズ 然シ小此木〇〇〇
      盛光崇敬ノ念厚ク神領ヲ寄進シ後小此木左衛門尉長光此ノ地二封〇〇〇
      ルヤ天文二年
五月二十五日領土ノ安全ヲ祈リ幣帛ヲ奉ル元和年間巨松〇
      チ村ノ北方荒野二位ス之レ所謂北野ナル〇故二天満宮ヲ奉祀セル〇〇〇
      リトシテ之ヲ主祭ス寛永八年
九月神殿ヲ営〇後安永二年十月社殿ヲ〇〇

      シ明治十年七月村社二列ス同四十年十月廿三日宝暦年間創建二〇〇〇〇
      士塚二祭祀セル浅間社及ビ天明八年六月創始セル字神明ノ八坂社並〇〇
      内末社秋葉社ヲ合祀シ次二字原ノ八幡宮及ビ境内末社菅原社雷電社大己
      貴社字熊野ノ熊野社及ビ稲荷社並二境内末社菅原社琴平社字南塚越ノ〇
      吉社字神明ノ神明宮、字諏訪ノ木ノ稲荷社ヲ合祀シ明治四十一年
十二月
      日更二字伊勢久保ノ熊野社及ビ境内末社城峯社神明宮字前久保ノ諏訪社
           ヲ合祀ス 大正十五年
六月四日幣帛供進指定神社トナル
        
                             境小此木菅原神社遠景 


参考資料「境町の民俗」「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」「境内案内板・石碑文」等
 

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境下蓮町三柱神社


        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市下蓮町767
             
・ご祭神 (主)倉稲魂命 誉田別命 建御名方命
                  
(配)菅原道真公 保食命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 節分祭 23日 春季例祭 4月上旬 夏祭 8月中旬
                  
秋季例大祭 10月中旬 年末大祓式 1231日 他
 馬見塚飯玉神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を1.6㎞程東行し、「下蓮町」交差点を右折する。同県道八斗島境線に合流し、200m程進んだ丁字路を左折し、暫く道なりに進み、最初の路地を右折すると、進行方向右手に境下蓮町三柱神社が見えてくる。
 社の境内北側には社務所があり、数台分駐車可能な空間があり、そこの一角に駐車して参拝を行う。
        
                 境下蓮町三柱神社正面
『日本歴史地名大系』「下蓮沼村」の解説
 上蓮沼村の東にあり、北方を広瀬川が東流し、南は利根川(七分川)に面した。東は佐位郡小此木(おこのぎ)村(現佐波郡境町)・国領(こくりよう)村、北は佐位郡保泉村(現境町)。日光例幣使街道が通る。西から東へ通行する場合、集落に入る手前で南西方向の畔道に入り、街道上で赤城山が右手に見える唯一の地点であった。「右赤城」と称し、名勝とされたという。もと上蓮沼村と一村。元禄郷帳では高四七八石余、伊勢崎藩領。
『日本歴史地名大系』「国領村」の解説
 東は佐位郡小此木村(現佐波郡境町)、南は前河原村(現境町)、西は下蓮沼村。明治初年まで利根川に面した。元和三年(一六一七)徳川秀忠から松平忠政に「国領村」の知行宛行状が出されている(記録御用所本古文書)。寛永二年(一六二五)当村四〇〇石が松平孫太夫に与えられ(同文書)、以後近世を通して旗本松平領。寛文郷帳では田方二一一石余・畑方三七石余。
『日本歴史地名大系』「上蓮沼村」の解説
 韮川左岸、長沼村の東に位置。北は馬見塚村、東は下蓮沼村。日光例幣使街道が通る。「伊勢崎風土記」によると、長沼村の五十嵐氏が開発し、一村一苗であったという。古くは下蓮沼村と一村で、「寛文朱印留」に蓮沼村とみえ、寛文郷帳では蓮沼村の高六九一石余、うち田方一七九石余・畑方五一二石余、前橋藩領・旗本松平領の二給。元禄郷帳では上下二村で記され、上蓮沼村の高二一二石余、伊勢崎藩領(六二石余)・旗本松平領(一五〇石余)の二給。
『日本歴史地名大系』「飯島村」の解説
 利根川左岸にあり、全村平坦地で、東は下蓮沼村、北は上蓮沼村、西・南は長沼村。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方四石余・畑方一四〇石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば新田ともで反別五町四反余、うち田方三反余・畑方六町一反余。ほかに新田九石余があったが、川欠けとなっており、耕地は畑三町余のみである。年貢は永二貫余のみ。家数二四、男五三・女五三。
 当社の創建は、大正寺町豊武神社と同じく、明治四十二年(1909)明治政府の勅令により近隣の村々の産土神であった「国領村・八幡宮」「飯島村・諏訪神社」「上蓮沼村・飯玉神社」を合祀し、「三柱神社」と改称したという。その関係で、各村々の簡単な歴史等を解説することとなった。
 
 当社名は三柱神社であり、社の「顔」というべき正面には石製の鳥居が三基連続して立てられている
 一の鳥居から順番に「正一位飯玉大明神」(写真左)「諏訪大明神」(同右)の社号額が架けられているので、三番目の鳥居には当然「八幡神社」の社号額であると思ったが、何故か「飯玉大明神」となっていた。
 
      参道左側にある神楽殿        神楽殿の先に祀られる「蚕景山大神」
 群馬県南部には江戸中期以降,養蚕信仰の高まりとともに多数の養蚕関連碑(蚕神碑)が建立された。特に、江戸中期以降の養蚕業隆盛に伴い、豊蚕祈願や蚕の供養など養蚕にまつわる信仰(養蚕信仰)が養蚕の盛んな地域に流布・拡散し、「蚕影大神」「蚕影山大神」「絹笠明神」「衣笠大神」などの碑名が刻まれた石碑(文字塔)が,江戸中期から昭和初期にかけて多数建立された
 この石碑によると、1893(明治 26)年 5 6 日の霜害における群馬県の被害は甚大で、雹霜害により桑の葉が枯死し、蚕の飼育が不可能となり、神社境内等に穴を掘削して蚕の亡骸を埋めた。その後、下蓮沼村民で協議し、明年 4 3 日に小規模な塚を造成して供養し「蚕景山大神」の碑を建石して祀り、後人に伝えるため概要を刻んだ。この碑についても、霜害の犠牲となった蚕の慰霊と被害概況を後世に伝承することを目的として建立されたことがわかる
 正面・蠶景山大神  中講義毛呂廣郷敬書
 裏面・明治二十六年五月六日大霜上毛之野被害殊甚桑葉凋
       落蠶多飢人皆棄其幾分而紓其食我下蓮沼邨之人亦相
       謀同埋諸社前青爽之地明年四月三日建石奉祀蠶影山
       
大神且序事之大概刻其陰以傳後人
 雹霜害が当時の地域住民に与えた経済的、精神的ダメージの大きさや、養蚕と地域との結びつきの強さなどがうかがえよう。
             
           蚕景山大神の背後に聳え立つ大ケヤキのご神木。 
 
社殿の左側に設置されている社の簡単な案内板   社殿の右側にある「
三柱神社 新築記念碑」
        
                    拝 殿
 三柱神社 新築記念碑
 当神社は始め下蓮沼村に倉稲魂神を奉祀、飯玉神社と称し、弘治年間那波氏の創建と伝へる。
 国領村八幡宮、飯島村諏訪神社、上蓮沼村飯玉神社が夫々の産土神として祀られていたが、明治四十二年勅令により合祀し、三柱神社と改称す。
 爾来、氏子篤く信仰を捧げ、平和と繁栄を祈念し今日に至ったが、多年の風雨により損傷著しく、諸氏相議り、その遺風を後世に伝えんと此の度奉賛会を結成し、氏子及び縁りりある各位の浄財により社殿を新築、工事業者の誠意努力により荘厳に完成する。
 志篤かりし芳名を刻み後の世に伝えんとこの碑を建立する。
 平成五年四月三日 春季例祭                        記念碑文より引用
 
           社殿右側奥に祀られている末社・石祠(写真左・右)
 おそらく、当地に国領村八幡宮・飯島村諏訪神社・上蓮沼村飯玉神社が合祀した際に、各社に祀られていた末社・石祠等を移したと思われるが、詳細は不明である。
        
               落ち着いた雰囲気の境内一風景



参考資料「群馬県南部における雹霜害碑とその建立経緯の検討HP」「日本歴史地名大系」
    「境内案内板・記念碑文」等

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馬見塚町飯玉神社

 玉村方面から例幣使街道を東に進んで伊勢崎市馬見塚町の集落に入る手前に、嘗て小川が3本流れ、小さな橋が掛かっていた。この橋を「三ッ橋」と呼び、例幣使がこの橋を見ると安堵したという。1日約10里歩く彼らにとり、1つの目安で名勝になったのであろう。またここには「三ッ橋伝説」が伝っている。
 1203 年(建仁23月世良田長楽寺の開山で知られる栄朝禅師が、関東へ下向の途中、春うららかな野の道を牛の背に乗って通リかかった。牛も眠いのかのろのろしか歩かない。そこで禅師は道端の小松の枝を折って、時々牛の背を、ぴしりぴしりと打って歩ませた。たまたま馬見塚の三ッ橋のほとりで、麻疹(はしか)に苦しむ2人の子供に出合い、その顔に松の小枝をかさして救ったという。そのため、土地の人たちは、栄朝禅師の霊験に感激し、三ッ橋をくぐって麻疹を平癒する祈願が、明治から大正年代まで続いたという。
 また、栄朝禅師が使った小松の枝は、不思議や自然に根付いて、いつか土地の人たちから「牛うちの松」とよばれるようになった。この松は、寛文年間に枯死したので土地の人たちは、この名木を絶えることを惜しんで2代目の松を植えたが、この松の木の下に土地の俳人で、栗庵似鳩の高弟の1人である向松庵剣二によって1825(文政8)年に「涼しさやすぐに野松の枝の形」という芭蕉句碑が建てられたとの事だ。
        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市馬見塚町903
            
・ご祭神 (主)保食命
                 
(配)素盞鳴命 倉稲魂命 建御名方命 天児屋根命 迦具土命
                    別雷命 
菅原道真命 大己貴命 豊受比売命 日本武命
                    
大山祇命 大日孁命
            
・例祭等 歳旦祭 春季例祭 43日 例大祭 1017
                                  
交通安全祈願祭・大祓式 12月末日
 大正寺町豊武神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を1.4㎞程東行し、「馬見塚町」交差点を更に直進すると、すぐ左手に馬見塚町飯玉神社は見えてくる。社の東側には延命寺(新義真言宗)が隣接しており、県道沿いにはお寺の専用駐車場もあるため、そこの一角をお借りしてから参拝を開始する。
        
            県道沿いに建つ馬見塚町飯玉神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 -「馬見塚村」の解説
 北は佐位郡茂呂村、東は同郡保泉村(現佐波郡境町)、西は大正寺村・下道寺村。古くに馬市が立ったと伝え、村名の由来という(伊勢崎風土記)。日光例幣使街道が通る。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方三五六石余・畑方六三二石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別七五町四反余、うち田方一九町八反余・畑方五五町四反余。
        
              境内に設置されている社の由緒板
        
                    拝 殿
 由緒
 一、主祭神 保食命
 一、配祀神 素盞鳴命・倉稲魂命・建御名方命
       天児屋根命・迦具土命・別雷命
       菅原道真命・大己貴命・豊受比売命
       日本武命・大山祇命・大日孁命
 当社の創建は明らかではないが、後小松天皇の御代の応永年間(13941412)大江広元の庶子、那波掃部輔によって再興されたと伝えられている。当社はもと上社と下社の二社からなり、明治四十二年(1909)三月勅令により両社と延命寺境内にあった八雲神社を合祀し、同年八月この地に社殿を移築し奉遷した。昭和五十五年合祀七十周年記念事業として社務所、水舎を新築した。
 平成八年四月社殿改築奉賛会を結成し、社殿の改築、境内地の拡張と整備を行い平成九年六月一日に竣工し今日至る。
                                      由緒板より引用
        
                 拝殿に掲げてある扁額
                   その壁面にはなかなか凝った彫刻が施されている。
 
 社殿左側奥に立つ二基の石製鳥居(写真左)。奥の鳥居には「神武天皇」と刻印されている。すぐ近くにある建物は神興庫らしいので、その奥に祀られている末社である石祠十数基(同右)の鳥居と思われる。この末社は、後述する「飯玉神社改築記念碑」に記されている菅原神社・神明宮・稲荷神社・諏訪神社・春日神社・秋葉神社・八雲神社の七柱に関連すると思われるのだが、それ以外の石祠の中に「神武天皇」に関係する社があるのであろうか。
        
           社殿右側に祀られている境内社・飯玉稲荷神社
        
          境内北東側に設置されている「飯玉神社改築記念碑」
 飯玉神社改築記念碑
 飯玉神社はその歴史は古く 伊勢崎佐波神社誌によれば 後小松天皇の御代応永年間 一三九四―一四一三 上野国那波城主那波掃部輔により那波総社飯玉神社 現伊勢崎市堀口町 の分霊を奉祀されたと伝えられている
 当神社は元上社  現三ッ橋町  下社 現本町が馬見塚邑の鎮守の神として鎮座し奉祀されていたが 明治十一年 一村一社令により下社が上社に合祀された  同四十二年勅令により現在地に社殿を移築し境内末社の  菅原神社  神明宮  稲荷神社  諏訪神社  春日神社  秋葉神社  八雲神社の七柱之神を合祀し奉遷した  爾来氏子崇敬者篤く信仰を捧げ平和と繁栄を祈念しその時々に社殿の改修を行い尊厳を守り今日に至ったが多年の風雪により損傷著しく 諸氏相諮り改築奉賛会を結成し神社財産と氏子及び縁りある各位の浄財をもって社殿の改築 境内地の拡張と整備が工事者の誠意と匠技により荘厳に竣工した篤志者の芳名を刻み後世に伝えんとこの碑を建つ(以下略)
                                     記念碑文より引用
 
          境内東側に聳え立つクスノキのご神木(写真左・右)
        
                境内東側に建つ朱色の鳥居
        
             社に隣接してある新義真言宗・延命寺



参考資料「日光例弊使街道HP」「日本歴史地名大系」「境内案内板・記念碑文」等
    

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大正寺町豊武神社


        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市大正寺町272
            
・ご祭神 (主)誉田別命
                 
(配)建御名方命 倉稲魂命 保食命 大日孁命 日本武命 
                    
素盞鳴命 大物主命 手力雄命 大山祇命 別雷命
            
・社 格 旧村社
            ・例祭等 歳旦祭 天神梅花祭 115日 節分追儺式 23
                 春季例祭 43日 例大祭 1017日 他
:中町雷電神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を2㎞程東行し、国道462号線との交点である「徐ヶ町」交差点を更に直進すると、進行方向左手に大正寺町豊武神社が見えてくる。
 鳥居正面からは社に入ることができないため、一旦北上して回り込み、社の後ろ方面から境内に入ることができ、そこの一角に車を駐車させてから参拝を開始する。
        
             県道沿いに鎮座する大正寺町豊武神社
『日本歴史地名大系』 「大正寺村」の解説
 西は除(よげ)村、東は馬見塚(まみづか)村で、韮川が中央を流れ、日光例幣使街道が通る。 かつて地内にあった大聖寺(大正寺)が村名の由来という。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方一一七石余・畑方一五五石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別二五町二反余、うち田方八町五反余・畑方一六町七反余。ほかに宝永七年(一七一〇)までの新田九石余があった。天保元年の年貢は米四三石余・永二二貫余、ほかに麦九石・大豆五石余を納めている。家数四三、男七九・女七六、馬一〇。柴宿助郷高二〇四石余(寛政八年「柴宿助郷村高等書上帳」関根文書)。明治三年(一八七〇)に松本宏洞らを中心として藩庁に郷学設立願(松本文書)が提出され、翌年村内の薬師堂に行余(ぎようよ)堂が開設された。
『日本歴史地名大系』 「除(よげ)村」の解説
 東は大正寺村、北は堀口村、南は富塚村。北方を日光例幣使街道が通る。古くは大正寺村と一村であったという(伊勢崎風土記)。大正寺地内にあった八幡宮と当地の飯玉神社の氏子の分裂によって分村したという。村名の由来は利根川の氾濫時避難地であったことによるとする説もある。当地域は稲作地帯でよい米がとれたという。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方二〇一石余・畑方二七三石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別四〇町八反余、うち田方一五町七反余・畑方二五町一反余。
『日本歴史地名大系』 「富塚村」の解説
 東は下道寺村、北は除村、西は下福島村、南は八斗島村。利根川(七分川)が南西を流れていた。享徳の乱の時には上杉・古河公方両勢力の境目として戦場になっている。享徳四年(一四五五)四月四日の小此木(現佐波郡境町)の合戦で、足利成氏方の岩松次郎(持国長子)が「冨塚在所以下所々」の敵上杉方を掃蕩し、小柴刑部左衛門尉を討取っている(同年四月五日「足利成氏書状写」正木文書)。
『日本歴史地名大系』 「下道寺村」の解説
 韮川が中央を南流し、東は馬見塚村、南は長沼村。専修念仏の寺が創建され、真言・臨済・禅宗の信徒から外道とよばれたことから村名となったと伝える。日光例幣使街道が通る。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方一四一石余・畑方一九七石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別三四町五反余、うち田方一二町余・畑方二二町五反余。ほかに宝永七年(一七一〇)までの新田九石余があった。天保元年の年貢は米三〇石余・永二八貫余、ほかに大豆七石・麦八石余を納めている。
 社は明治42124日、当時の大正寺村の「八幡宮」、下道寺村の「飯玉神社」、富塚村の「諏訪神社」、除ヶ村の「飯玉神社」、下福島村の「八郎大明神」を合祀し、新たに「豊武神社」と改称した。その際に、富塚の「ト」、除ヶの「ヨ」、大正寺の「タ」、下道寺の「ケ」を取ってトヨタケと命名したと伝えられたという。
 因みに下福島村の「八郎大明神」の本殿は豊武神社には合祀されず、八斗島稲荷神社に譲り受け移築していて、現在に至っている。その後八郎大明神は、昭和
45年(1970)に現在地へ分祀された。故に『日本歴史地名大系』も下福島村以外の四村を紹介した次第である。

 
 朱を基調とする大正寺町豊武神社の両部鳥居       鳥居の先にある手水舎と社の看板
        
           鳥居近くで道路沿いに設置されている社の案内板
        
                   境内の様子
 当社の例祭の一つである23日に行われる節分祭は、神社合祀をきっかけに明治四十四年に始まったと伝えられている。数え四十二歳男の大厄にあたる氏子が年男会を結成し、企画・運営をおこなう。氏子区域を袴姿で練り歩き豆を撒いて町内の厄を祓い、御神前で厄除の祈祷を受けた後、拝殿回廊から豆を撒いて厄を祓う。境内では様々な催し物が行われ、一日中賑わいをみせる当地の伝統行事となっているとのことだ。
 
     参道を進んだ右側には「豊武神社の道標」と記された案内板とその石像。
 豊武神社の道標
 豊武神社は、かつて大正寺村の八幡様が祀られていました。境内には、豊受地区で最も古い年号が記された道標が残されています。道標は、神仏への功徳になるものという理由から建立される場合が多かったようです。
 この道標は、二十二夜信仰にもとづき、正面に如意輪観音の座像が美しく彫られ、塔の右に「安永八己亥三月吉日」、左に「二十二夜供養」、そして台石正面に「村中男女」、台石左に「右ちゝぶ」(秩父)、「左日光」と刻まれています。安永八年は西暦一七七九年で、この道標は、以前、例幣使道沿いに建っていたと思われます。
                                      案内板より引用
 その左側には力石もあり、社では「合格力石」とも呼んでいる。浦風林右エ門(うらかぜりんうえもん)の相撲辻(すもうつじ)が幕末の文久元年(1861)に創設されたという記録があり、力士たちが持ち上げたと思われる、力石が95貫(356キロ)と刻まれているとのことだ。
 力がつくということで、天満宮の前で「合格力石」として登録されているという。 
       
                                        拝 殿                

 豊武神社
 鎮座地 伊勢崎市大正寺町二七二番地
 御祭神
 主祭神 誉田別命
 配祀神 建御名方命 倉稲魂命 保食命 大日孁命 日本武命
         素盞鳴命 大物主命 手力雄命 大山祇命 別雷命
 由 緒
 当社はもと八幡宮と称された旧社であるが、元和二年(一六一六)火災のため記録を焼失し、創建年代など詳細は不明である。しかし、その神威霊験はあらたかにして、近隣の村々で疫病が流行して多くの死者を出した時も、村内氏子中には感染した者はいなかったという。氏子らは当社の階段にあった竹弓手張を各戸口に掛けて祈願したので悪疫の侵害を免れたといわれ、この話が伝わると隣村の馬見塚や伊与久、下武士、茂呂、遠くは上植木、下植木や新田郡など十二カ村の人々からも信仰を集めたと伝えられている。
 現在の社殿は、慶応年間から始めた募金積立により明治二十四年に改築工事を起し、野州那須山の桧材を用いて翌二十五年に竣功、三十二年二月十五日に遷宮式が行われた。
 明治四十二年十二月十四日、五村の神社とその末社を合祀し、豊武神社と改称された。
・冨 塚(ト) 諏訪神社 八幡宮 神明宮
・徐 ヶ(ヨ) 飯玉神社 諏訪神社
・大正寺(タ) 八幡宮
・下道寺(ケ) 飯玉神社 神明宮
・福島     八郎神社 昭和四十五年十月十七日、地元住民の要望により元の地へ奉遷された。
 昭和六十二年には社殿、神楽殿の改修、社務所の改築と、かつて境内にあった天満宮(菅原道真命)を再建、十二月二十五日遷座祭が斎行された。
 宝 物
 獅子頭(雌雄)
 徐ヶ村飯玉神社境内の大ケヤキを安政三年(一八六五)伊勢崎城と姫路城及び城主酒井家の江戸屋敷の門扉と御殿の用材として献上した際の根株を淵名の弥勒寺義勝が彫刻し、伊勢崎城主酒井下野守忠強公が奉納したものと伝えられている。
 例祭日には「悪鬼除け」と唱えながら村内を巡回したという。
 龍の天井画
 拝殿には大正寺の教育者・文人画家松本宏洞作の天井画と、かつての「八幡大神」の鳥居神額が掲げられている。(以下略)
                                      案内板より引用
 社の社務所に貼ってあったパンフレットには「豊武神社の弓千張の伝説」がある。
 ある年、疫病が大流行し、周辺に多くの感染者と死者を出した。しかし、当社の氏子には感染者が出なかった。それは、氏子が当社の階檀にあった1,000張の弓を、各戸に1張ずつ掛け、祈願して悪厄の侵害を防いだという。
 又、かつての八幡宮は、源氏の守護神であったが、武神・軍神と崇められ、弓術者の信仰が特に篤く、弓術者の奉額も確認できるものだけでも、明治30年(1897)、明治45年(1912)、昭和35年(1960)のものがあったという。
 この伝説は、後に厄災除け、悪厄退散、スポーツ・技芸上達の神として信仰形態が変容したとの事だ。
 
           社殿の右側に鎮座する豊武天満宮(写真左・右)
       
         本殿奥に聳え立つご神木       境内にある巨木・老木
 
境内西北側隅に祀られている摂社・衣笠稲荷社  衣笠稲荷社の周辺にも多くの末社が祀られている。
        
                衣笠稲荷社や石祠が祀られている幟と木々に囲まれた一角



参考資料「日本歴史地名大系」「境内案内板及び豊武神社社務所 パンフレット」等
 

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八斗島稲荷神社

 群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線に架かる坂東大橋の約800m上流付近で、八斗島チビッコ広場の手前で、集落から河川敷に出て来る道と堤防が交差する付近に『八斗島河岸』があった。大正初期の築堤により集落の南半分が河川敷内になってしまい現在河岸跡は残っていない。
 八斗島河岸の確かな設立年代は明らかでないが、安永四(1775)年の「上利根川十四河岸組合船問屋規定証文」に船問屋五十嵐四郎右衛門、同境野三郎右衛門がある。この河岸仲間は元禄期から営業しているもの以外の新興勢力を抑える意味を持っていたから、八斗島河岸設立も元禄時代あたりまでたどれる。ただし元禄期の古地図に河岸という名を使っていないので元禄以前にさかのぼることはないだろう。活動は明治十年代までであった。
 八斗島は天明三年の浅間山大噴火で七分川(柴町の西で現本流と分れた)が埋まるまでは、七分川が北に、三分川、烏川が南にある中州であった。泥流が七分川筋に流れ込んだため、河筋に面した集落の人達が死人を収容し、供養した石碑などが残っている。
 八斗島から本庄市山王堂間には、かつて渡しがあった(八斗島の南の東端当たりから山王堂まで)が、昭和初期に坂東大橋の完成により廃止された。
        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市八斗島町1406
            
・ご祭神 倉稲魂命 大宮姫命 大田命 大己貴命 保食命
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 例祭 (陰暦)2月初午及び929
 伊勢崎市八斗島。この地域名「八斗島」は「やつたじま」と読み、なかなかの難読地名である。八斗島稲荷神社は、柴町八幡神社から五科橋に掛かる手前の「柴町」交差点を南方向に進路変更し、利根川に沿って進む通称「上武大学通り」を暫く道なりに進む。その後、群馬県道・埼玉県道18号伊勢崎本庄線に合流する手前の十字路を右折、800m程南下すると、進行方向右手に八斗島稲荷神社が見えてくる。地形を確認すると、利根川左岸の堤防が目と鼻の距離に見える集落内に鎮座していて、現在よりも氾濫の危険性が高かったであろう利根川水害から集落、そして宿場を守って頂きたいという地元の方の神にも縋りたいという切実な思いが、この社を眺めてみても感じることができる。
        
                 
八斗島稲荷神社正面
     一の鳥居である赤色の両部鳥居のすぐ先に神明系の二の鳥居が立っている。
『日本歴史地名大系』 「八斗島村」の解説
 利根川左岸に位置し、北は下福島村・富塚村、対岸は武蔵国児玉郡山王堂村(現埼玉県本庄市)。山王堂村と当村を結ぶ渡しがあったが、昭和六年(一九三一)の坂東大橋完成により廃止となった。那波氏の浪人境野八斗兵衛が慶長年中(一五九六―一六一五)に開き、村名は八斗兵衛に由来するという(伊勢崎風土記)。寛文二年(一六六二)の大水により柴町南を抜いた利根川(のちの七分川)が当村の北を流れ、もとは中洲上の村であった。
            
            鳥居の左側手前に建つ「稲荷神社由緒」
 
 「稲荷神社由緒」前に石尊大権現と道祖神     「稲荷神社由緒」奥にある力石と石碑
 力石の由来
 一、七拾五貫目の石(約281キログラム)
 明治三十年頃当神社の秋季大祭に当所住人吉野円三が境内に於てこれを担ぎ三間位(五.四メートル)歩いたという。
 一、四拾参貫の石(約161キログラム)
 同年代当所住人で力持ちの下記の人達が交代で神社の周囲を担ぎ歩いたという。
 石川伊之吉・境野民治・黒澤安兵衛・森田太郎・境野照吉
 一、吉野円三
 明治元年埼玉県児玉郡旭村大字三友に生れ後に八斗島に移り舟大工新井団次郎(半三郎の祖父)宅に同居して舟頭として明治三十年の洪水で家屋を流出して福島へ転居したという。
 一、力石
 元倉賀野より五料に移り当時舟頭で若者が力競べにこの石を担ぎ勝つ者が持って来たという。
 昭和五十二年六月吉日
 平成九年十二月吉日再建  八斗島稲荷神社総代
        
         鳥居から社殿まで、参道沿いには幾重の幟が立ててあり、
    すっきりと整備された境内の中で一直線に並ぶ幟はなかなか壮観な眺めである。
        
                    拝 殿
 稲荷神社由緒
 当社ハ天正年間今ヲ去ル四百余年前創立シテ当時那波城主大江顕宗奥州九戸戦争ノ際討死セシカバ其ノ民境野主水吉澄・五十嵐無兵衛知徳ノ両人遺志ヲ奉ジテ当国利根川中州〇島ト云フ所悉荒野ヲ開拓シテ田野トナシ並二五穀五柱ノ神ヲ勧請シテ祭祀ス本社即テ之也 又地名改メテ八斗島ト云ヒ吉澄ノ子八斗兵衛宗澄・知徳ノ子ト共二其ノ志ヲ継ギテ耕耘〇鋤二怠リナカリシカバ衆人其ノ徳ヲ感ジ遠近ヨリ集リテ現今ノ如キ村落トナレリ 安政二年三月十五日名主五十嵐八兵衛・組頭五十嵐善兵衛・仝境野半右エ門・仝五十嵐茂兵衛・仝黒沢弥右エ門・仝境野三郎右衛門等ノ協力二依リ上棟スルヤ 稲荷神社鎮座祭神・倉稲魂命・大宮姫命・大田命・大己貴命・保食命ノ神々ヲ祀リシモ現在ノ本殿ハ元下福島八郎神社デ間口一間奥行五尺ノ本殿ヲ明治四十三年村社指定トナルヤ豊武神社ト合併シ同四十三年八月大洪水ノ為戸数六十二戸全村床上浸水二テ県ヨリ見舞金トシテ金百圓也ヲ受ケ其ノ金ニテ当時世話人小暮幸次郎・境野誉三・境野吉之助・氏子総代境野長太郎・境野仙三・境野誉三・五十嵐弘次郎・黒沢東馬・社掌荻野美恭・仝牛久保瓶哉ノ相談ノ結果右下福島本殿ヲ金六拾圓也ニテ買求メ残金ハ雑費トシテ現在本殿二鎮座スルヤ軈テ当社ヲ稲荷神社ト尊稱シ其ノ徳ヲ表彰セリ爾来遠近相伝ヘテ豊作ノ神トナシ賽者常二絶エズ本社祭日ハ毎歳陰暦二月初午ノ日及九月二十九日両日也 本社ハ木造作リニテ桁十五尺五寸杉伐三面作リ破風造・向拝付茅葺十五坪二合二勺宅地ハ三百七十坪ノ民有地デアル
                                稲荷神社由緒石碑文より引用

 要約すると、八斗島町は利根川流域にある町で、元々は「稗島」という中洲であり、社は安土桃山時代の天正年間(15731592)の創立と伝わっている。当時、那波城主だった大江顕宗が奥州九戸戦争で討死し、その家臣である境野主水吉澄・五十嵐無兵衛知徳の両人が遺志を奉じて、当国利根川の中州の荒野を開拓、その五穀豊穣の守護神として奉斎されたのが当社の起源との事。御祭神は、倉稲魂命・大宮姫命・大田命・大己貴命・保食命の五柱。明治になり、村社に列し、明治43年(1909年)には神饌幣帛料供進社に指定されている。
 
        拝殿正面部             拝殿左側上部に奉納されている額
       
                    本 殿
 福島町八郎神社の項や、この社の由緒にも説明しているように、明治四十二年(1909)に八郎神社(伊勢崎市福島町)が豊武神社(群馬県伊勢崎市大正町)へ合祀された。その翌年に起こった大洪水の見舞金を元手に、福島町八郎神社の本殿を譲り受け、八斗島町の稲荷神社へ移築するに至ったようである。但し、本殿移転の夜に「大風が吹き荒れ雷鳴が轟いた」と伝えられている。その後福島町八郎神社は、昭和45年(1970)に現在地へ分祀され今日に至っているとのことだ。

  社殿左側奥に祀られている御嶽山神社     本殿奥には多くの稲荷像が置かれている
    溶岩塚の上に置かれている              白狐社如き祠 
        
             「鎮守の森達成記念碑」と蚕影山の石碑
 
         境内社・大杉神社             境内社・鵜戸大権現       
        
           社の北側道路沿いにある二十二夜塔等の石碑
 二十二夜塔は、二十二日の夜に人々が集まり、勤業や飲食を共にし、月の出を待つ月待ちの行事を行った女人講中で、供養のために造立した塔である。「二十二夜」の文字を刻んだものと、「如意輪観音」の像を刻んだものがある。「如意輪観音」は、富を施し六道に迷う人々を救い、願いを成就させる観音様として、江戸時代中期以降民間信仰に広く取り入れられ、二十二夜さまの本尊として女性の盛んな信仰を受け、また女子の墓標仏としても、各地に数多く造立されている。全国的には、二十三夜塔が最も一般的に認められているようだが、二十二夜塔は、埼玉県の北西部から群馬県の中西部域に濃密に分布しているという。
        
         八斗島稲荷神社遠景。遠くに利根川の堤防が見えている。



参考資料「群馬県歴史の道調査報告書第十三集・利根川の水運」「日本歴史地名大系」
    「Wikipedia」「境内石碑文」等
 

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