古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上川崎香取神社天満宮

「川崎」という地名は、日本人の多くは神奈川県川崎市を思い浮かべる方が多いと思うが、川崎市HPをみると、この川崎という地名由来として、多摩川のデルタ地帯であることに由来しているといい、「川」はそのまま多摩川を意味し、「崎」は砂が溜まり海側に出っ張った場所を指すという。また、「川崎」の「サキ」は、古くは「前」を意味する言葉であり、「川前」、つまり川に面した地域を指すという説もあり、日本全国に80ヶ所以上存在する「カワサキ」という地名の多くも、この「川前」が語源とされているという。
 久喜市にも「川崎」を冠した地域があり、やはり、古利根川の屈曲した地形から付けられた地名といわれている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市上川崎479
             
・ご祭神 経津主命
             
・社 格 旧上川崎村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 灯籠 720日 秋祭り 1019
 久喜市上川崎地域は外野地域の南東に位置し、外野香取神社から北西から南東に流れる葛西用水路の左岸に沿うように形成されている農道を600m程東方向に進むと進行方向左手に上川崎香取神社天満宮が見えてくる。
        
                上川崎香取神社天満宮正面
『日本歴史地名大系』 「上川崎村」の解説
 外野村の南東に位置する。当地から正和五年(一三一六)、元亨四年(一三二四)銘など多くの板碑が発見されている。当村渡辺氏の祖は幸手の領主一色直朝で、天正一八年(一五九〇)徳川家康関東入国のときすでに隠居し、その子義直に家督を譲っていたが、義直は旧領のうち幸手領七千余石を安堵され、旗本一色家の祖となった(寛政重修諸家譜)。一方、当地に土着した直朝は慶長二年(一五九七)に死去したが、その次子政義からは渡辺氏を称して名主を世襲、旗本久津見氏より苗字帯刀御免の身分を与えられていた(「風土記稿」など)。中川崎村・下川崎村(現幸手市)とはもと一村で田園簿には三川崎村として田高六四六石余・畑高五六七石余とあり、幕府領。
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 葛飾郡上川崎村』
 天神社 村の鎭守なり、藥王院持、下同じ、〇香取社〇山王社〇大六天社 正蓮寺持
 藥王院 新義眞言宗、東大輪村密藏寺末、瑠璃光山と號す、本尊不動、開山秀專寬永六年七月寂す、藥師堂
 
舊家者傳左衛門 
 世々名主を勤む、氏を渡邊と號す、所藏の系圖に、祖先は一色公深七代の孫、一色宮内大輔直朝、天文中足利晴氏及義氏二代の間隨從し、後に幸手庄に蟄居し、慶長二年十一月十四日卒す、法〇大虚院月庵蘆雪と號す、村内正蓮寺の開基たり、其子義直は義氏逝去の後東照宮に召出され、旗下の士一色右京某が祖なり、弟政義は當村に住し、渡邊をもて氏とし、元和二年三月朔日死す治林寺輔翁正輪と法〇す、これ傳左衛門が祖なり、所藏の武器等は享保中火災に罹れり。
        
       拝殿の開き戸の左右には「天満天神社」「香取大明神」の札がある。
 香取神社  鷲宮町上川崎四七九(上川崎字屋敷前)
 上川崎は、『風土記稿』に「上川崎村は、田宮庄に属す、も上・中・下は都(すべて)一村にして、正保改定の国図には三川崎村と記し、『元禄国図』に、初て上・中・下三村を分ち記せり」とあるように、元禄八年(一六九五)に三つに分村した三川崎村の西の部分である。
当地域は、古くは利根川・権現堂川・島川・古利根川をひかえる水害地帯であった。殊に川崎の地は、その名が古利根川の屈曲したところから付けられているように、水害を受けやすい所であった。
 当社本殿裏に、元宮と呼ばれる「香取大明神」「天満天神宮」と刻まれた二基の石祠があり、共に寛政元年(一七八九)の銘がある。一方、内陣には、寛政三年の墨書銘がある香取大明神像と天満天神像が安置されている。更に、寛政三年四月七日付けの卜部良倶の宗源祝詞が保管され、その祈奉斎の神輿形に納めた卜部の霊璽を二筥安置し、これに伴う幣帛を納めている。また、本殿正面には、この卜部良倶が染筆した「香取大明神・天満天神」の社号額を掲げている。ちなみに神輿形に納めた霊璽は、別当が同じである隣村中川崎の香取神社にも祀られている。
 口碑によると、昔、香取神社は「古香取(ふるかんどり)」、天神社は「天神」と呼ぶ古利根川縁の田の中に、それぞれ祀られていたが、水害を被ったことから、土手上にある旧別当薬王院に隣接した現在地に移されたという。
        
                    本 殿
 当地は、寛政元年に元宮の石祠を建立した時から三年前に当たる天明六年(一七八六)に「七十人余も流死」(『鷲宮町史』)するほどの大洪水に見舞われている。この時、古利根川の川辺にあった香取神社と天神社の二社は流失し、元地に石祠を建立したが、更に、その後の水害を恐れて、寛政三年に現在地に両社合殿の社殿を新築したものであろう。同時に造立の香取大明神像と天満天神像には、施主渡辺多門とあり、これは当時の名主で幸手城主一色氏の末である。
 現在、当本殿は三間社であり、内陣には、先に記した史料のほかに「未(ひつじ)ノ年・木村幸右門」と背部に刻んだ石製の香取・天神の二神像があり、更に寛政三年、施主渡辺多門が倉稲魂神像とその本地である荼枳尼天(だきにてん)像を奉納している。このうち、石製二神像は、三川崎村分村時に旧神像として納めたものであろう。また、倉稲魂神像と荼枳尼天像は、一つは旧別当薬王院の鎮守として内寺に祀られ、一つは名主渡辺家の鎮守で屋敷内に祀られていたものが、明治初めの転換期に当社の内陣に納められたものと想像する。
 本殿の裏にある元宮と呼ぶ二基の石祠は、大正三年に村内の小祠を合祀した時、元地の「古香取」と「天神」から移したものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      境内にある力石数基          本殿左側裏手にある庚申塔と青面金剛
        
              本殿の正面奥に祀られている元宮
 元宮の内部には
「香取大明神」「天満天神宮」と刻まれた二基の石祠があり、元宮の左側奥には見ずらいが「大六天」「山王大権現」と刻まれた石祠、元宮のすぐ右側には「八海山神社」の石碑が祀られている。
        
      元宮の右側に並んで祀られている「御嶽大神」「辨財天」「猿田毘古大神」

 年3回の祭りのうち、一番賑やかなものが720日に行われる「灯籠」である。いわゆる夏祭りであるが、境内に灯籠を立て、その明かりのともる中を夕方に氏子が参詣し、総代からお祓いを受ける行事である。現在は諸般の事情で、灯籠は十基程立てるだけとなっているが、昭和54年ごろまでは、鉄枠・ガラス張りの灯籠五十基が境内や参道を飾ったものであったという。
 また、戦前頃までは「万作」という行事が神社の所在する上川崎で710日の灯籠と1019日の秋祭りで奉納されていた。これは青年団員を中心として「川崎階和倶楽部」というものを組織し、当香取神社の他、現在の幸手市の不動様や八幡様に赴くというものである。段物に、お半長右衛門・細田川・笠松峠・白桝粉屋などの曲目があり、伊勢音頭・くどきなどの手踊りがある。行事としては1931年・1932年頃(昭和6年・7年頃)より5年ほどが全盛であったのだが、1945年頃以後(昭和20年代以後)は行われていないという。
        
                    社の全景
        
               社の東側に隣接している薬王院


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「川崎市
HP」「埼玉の神社」等

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外野香取神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市外野66
             
・ご祭神 経津主大神
             ・社 格 旧外野村鎮守 旧村社
             
・例祭等 初会合 11日 春祭り 415日 夏祭り 719
                  秋祭り 1019
 久喜市外野地域は、旧利根川である中川と葛西用水に挟まれた低地帯で、元来、稲作が主体とした農業地域であり、氏子も数十戸あまりと少なかったのだが、昭和30年代以降は、東鷲宮駅ができたことにより転入者が相次ぎ、また、従来水田であった地域北部には、近年東鷲宮ニュータウンが造成されたことにより、昔からの景観も大きく変わってきているという。
 外野の鎮守社である外野香取神社は、JR東日本・東鷲宮駅から直線距離にして1㎞程南側にある「成立学園鷲宮グランド」に隣接してひっそりと鎮座している。
       
                  外野香取神社正面
『新編武蔵風土記稿 葛飾郡外野村』
 外野村は、古へ西大輪村の内なり、元祿の改に始て西大輪村の枝鄕と載たり、其後又枝鄕の唱をすてゝ、全く別村となれり、
『日本歴史地名大系』 「外野村」の解説
 西大輪村の南東にある同村枝郷。元禄一〇年(一六九七)に分村したという(郡村誌)。元禄郷帳に高二八三石余とあり、国立史料館本元禄郷帳によれば旗本三浦領。
 
    左側の狛犬の隣に祀られている弁才天       右側の狛犬の隣に
祀られている稲荷大神社
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 葛飾郡外野村』
 香取社 村の鎭守なり、勝藏院持、下同じ、 末社稻荷 辨天
 勝藏院 新義真言宗、東大輪村密藏寺末、慈光山と號す、本尊不動、辨天社

 香取神社  鷲宮町外野六六(外野字前)
 鎮座地の外野は、中川と葛西用水(いずれも旧利根川)に挟まれた低地であるため、太平洋戦争後、河川改修が行われるまでは、しばしば洪水に悩まされた。しかし、その洪水は当社の創建と深くかかわっており、氏子の間では次のような話が伝えられている。
 当社の南側を流れる川(葛西用水)が、まだ利根川の本流だったころのある年、大水があった。その後、下総国の香取神社から神体が丸木舟に乗って川を遡り、この地に漂着した。村人は有り難く思い、その神体を、当時はまだ真菰(まこも)の生い茂る原野であったこの地の中でも最も高い所を選んで、小さな茅葺きの祠を建ててお祀りした。これが香取様の創祀である。当時の外野は、家がたった六軒しかない小さな村であったが、開発が進んで村が大きくなるにつれて家数が増え、社殿も大きくなって今日のようになった。
 この話がいつごろのことで、また、漂着した神体がどんなものであったかはわからないが、『風土記稿』には「香取社 村の鎮守なり、勝蔵院持、下同じ、末社稲荷 弁天」とあることから、江戸中期には現在のような姿で祀られていたものであろう。また、本殿には幣束のほか、神祇管領により調進された「香取大明神勧請安鎮座」の霊璽が納められている。この霊璽に年紀は見られないが、卜部兼雄の名が記されていることから、江戸中期に受けたことがわかる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 当社は村の鎮守として氏子からの信仰も厚く、祭典に当たっては五穀豊穣・家内安全が祈願されている。また、婦人からは安産の神としても信仰されており、祭典で使用されたろうそくの燃え残りは安産のお守りとされているようである。
        
                  境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
    
        


 

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上清久白幡雷電神社

 かつて葛飾郡大川戸村(松伏町)は大河戸御厨(伊勢神宮領)の地であった。吾妻鑑卷三に「寿永三年正月三日、武蔵国崎西・足立両郡の内にある大河土の御厨あり、外宮に寄進す」とあり、建久三年伊勢大神宮神領注文写に大河土御厨給主外宮権神主光親と載せている。
その後、平安時代末期に藤原秀郷流である下野国都賀郡三毳崎太田村(藤岡町)出身の大田行広がこの地を本拠地としたため大河戸氏と称したという。
『尊卑分脈』
「大田大夫行尊―大田大夫行政(改宗行)、弟大田四郎行光(或行政子)―行方(号大河戸、下総権守、母秩父太郎重綱女)―太郎広行、弟清久二郎秀行、弟高柳三郎行基、弟大川戸四郎行平(神人の頸を切るにより大田庄を召放たる)、行方の弟大河戸次郎行広―小次郎行朝―四郎行茂―兵部光基」
 大河戸行方(重行)には4人の子供がいて、長子広行が大河戸氏を継ぎ、その三人の弟はそれぞれ本貫とした地の名をとり、おのおの清久氏(次郎秀行)、高柳氏(三郎行基)、葛浜氏(四郎行平)を名乗った。
 清久郷を領して清久氏の祖となった二男次郎秀行は、頼朝の二度の上洛に随従するなど近習として名を残しており、子孫には承久の乱(1221)の宇治橋の合戦で活躍した清久左衛門尉秀綱、丹波国私市荘(京都府福知山市)を恩賞として与えられた清久小次郎胤行などの名を見ることができ、幕府の御家人として活躍したことが記録されている。また清久氏の館は、現在の常徳院と上清久白幡雷電神社がある楕円形の台地付近に構えられていたと伝えられている。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市上清久668
             
・ご祭神 別雷命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 雷除祈願 41日 初山 71日 例祭 1125日 他
 上早見千勝神社から埼玉県道146号六万部久喜停車場線を西行し、「六万部橋(東)」交差点を右折する。その後、進行方向右手奥に埼玉県立久喜特別支援学校が見えてくる先の路地を左折したそのすぐ東側に上清久白幡雷電神社は鎮座している。
        
               
上清久白幡雷電神社正面附近
     社号標柱があるその北側にある白壁は、
常德院持ちの白幡山墓地である。
        
               
上清久白幡雷電神社正面鳥居
『日本歴史地名大系 』「上清久村」の解説
 六万部村の北東に位置し、北は新川用水を境に中妻・久本寺(現鷲宮町)の二村と対する。東は下清久村、六万部村の南部に飛地がある。上・下の清久村一帯は「吾妻鏡」養和元年(一一八一)二月一八日条などにみえる大河戸次郎秀行(清久氏)の本貫地であった。建長年間(一二四九〜五六)と推定される年不詳の某陳状(中山法華経寺「双紙要文」裏文書)に武蔵国清久とみえる。天正八年(一五八〇)三月二一日、足利義氏は北条氏照に対し、清久郷など五郷から人夫を毎年五〇人・二〇日間出させることとし、今回は四月二日と三日に下総古河に参集させるよう命じている(「足利義氏印判状写」喜連川家文書案)。騎西領に所属(風土記稿)。

         静まり返った境内          参道左手に設置されている案内板

 常徳院は「曹洞宗 白幡山権現寺」と号し、当院から雷電神社にかけての境内は楕円形の小高い台地の上にある。周囲は構え堀のごとく水路がめぐり、戦前までは白幡沼と呼ばれる広大な湿地帯が南東方向に広がっていた。
 中世には奥州へと伸びる鎌倉街道(奥大道)が南北につらぬき、また武蔵国と下総国の国境であった川口の渡し(旧利根川)を北方4kmに臨んでいた。天然の要害・交通の要衝を兼ねたこの地に、平安時代末期から南北朝時代までの約170年間、在地領主であった清久氏が館を構えていたとされている。
 清久氏は平将門の乱を平定した藤原秀郷の後裔・太田氏を祖とする大河戸氏の庶流で、下野国の小山氏・下総国の下河辺氏とは同族にあたる。大河戸御厨(松伏・吉川・三郷・八潮)を治めた大河戸行方(重行)の子息で太郎広行が大河戸氏を継ぎ、次郎秀行は清久氏〈久喜〉を、三郎行元は高柳氏を〈加須〉、四郎行平は葛浜氏〈羽生〉をそれぞれの領地名から名乗った。治承五年(1181)大河戸四兄弟は三浦介義澄に伴われて源頼朝に拝謁、「皆勇士の相を備えている」と頼朝に気に入られたと『吾妻鏡』に記されている。清久次郎秀行は頼朝の二度の上洛に随従するなど近習として名を残しており、子孫には承久の乱(1221)の宇治橋の合戦で活躍した清久左衛門尉秀綱、丹波国私市荘京都府福知山市を恩賞として与えられた清久小次郎胤行などの名を見ることができる。
 また『太平記』には中先代の乱(1335)で北条氏に従い奮戦した清久山城守、足利尊氏に仕えた清久左衛門次郎泰行が登場する。
 その後は阿波国(徳島県)に本拠を移したとされ『阿波國古城諸将記』によると、天正十年(1582)中富川の戦いで十河存保に従って長宗我部元親に敗れた清久三之丞、その嫡子で知恵島城主の知恵島源次兵衛重綱の名がみえる。
 常徳院に残る永仁六年(1298)銘の板石塔婆や応安元年(1368)銘の宝篋印塔の残欠などは清久氏一族の供養塔とされ、旧本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代末期から南北朝時代の造像で清久氏の守本尊と伝わっている。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上清久村』
 白幡權現社 白幡光明雷王大權現と號す、古へ足利高興白幡を納めしより、かく號せし由をいへど、高興の名聞くことなし、傳への訛りしならん、祭神は雷電神本地十一面觀音、立像にて丈七寸餘、行基の作、常德院の持、
什物 雷槌一本 龍ノ牙一 石一 弘法大師、雨乞の石と云、
 常德院 禪宗曹洞派鷲宮村靈樹寺の末、白幡山權現寺と號す、開山起屋庭宗天正十五年四月七日示寂、本尊彌陀は慈覺大師の作にて、立像一尺餘、此外聖德太子自作の壽像及虛空藏、且運慶の作、毘沙門天春日の作、千壽觀音を安ず、當寺境より白幡權現社地の邊、淸久次郞城蹟なりし由、今もこの邊を掘れば、矢の根など出ることありと云、

 雷電神社
 祭神 別雷命―気象と五穀を護る神
 神社起源、由来
 言い伝えによればその昔、行基菩薩が、この地に自作の十一面観音像を祀ったのが始まりとされる神仏習合の神社といわれる。その後、八幡太郎源義家が、奥州征伐の途中戦勝を祈願し、奧州を平定した義家は、戦のお礼に源氏の白幡を奉納したという。
 雨乞、雷除、虫封じ、子孫繁栄の祈祷神社と知られ「光明電王宮・白幡権現社」と称し、地元近隣はもとより、遠方の人々からも大いに信仰された。明治初年の神仏分離令により、雷電神社と隣の常德院に分離された。 義家白幡奉納伝や地名が白幡であることから、地元や近隣の人々から白幡さま白幡神社と呼ばれた。(十一面観音像は常德院に祀られている)
昭和二十年代頃までは、社寺の三方は田んぼと沼(白幡沼)
に囲まれ、神社は小高い台地の杜のなかに鎮座していた。周囲は開発され今は昔日の面影はない。
 最後の雨乞
 大正十三年夏、日本全国は大干ばつにみまわれ、この地方も深刻な被害があり七月十九日から一週間の雨乞が行われ、満願の二十五日雷鳴とともに恵みの雨が降り農作物は甦り豊作となったと云われている。 (徳富蘇峰揮毫記念碑あり)
 白幡城と赤幡城
 むかし、沼に囲まれた白幡城の対岸に赤幡城があり、ある時戦いがおこり白幡側が不利になった時、突然大蛇が現われ、赤幡側の舟と兵を攻撃し白幡側が勝利したと言う。(旧久喜市の唯一の民話)
 境地末社  浅間神社、厳島神社、弁財天社(以下略)            境内案内板より引用
        
                    本 殿
 
   社殿左手奥に祀られている弁財天社      社の手前に設置されている弁財天碑

 かつて、氏子・崇敬者の間で「雨乞い組合」が結成される程、当社への信仰は厚いもので、旱魃が続くとしばしば雨乞いが行われたようだ。中でも大正13年7月の雨乞いは、6月初旬から降雨がなく、深刻な状況の中で行われた。7月25日を満願の日と定め、19日から一週間にわたり祈願を続けた。この時の祈願は、当社で神職が降雨を祈ると同時に常德院でも住職が本堂で読経をし、若い者たちは褌(ふんどし)一つで当社の裏手にある弁天様の池に入り、バケツでその水をくみ出して本社めがけて浴びせかけるというものであったという。
        
               弁財天社の隣に祀られている厳島神社 
       
               本殿奥に祀られている浅間神社 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「境内案内板」等 
        

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中島若宮八幡神社


        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町中島382
            
・ご祭神 誉田別命
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 祭礼 720日 おびしゃ 915
 宮代町中島地域は、町東部に位置し、大落古利根川右岸の周囲一帯長閑な田畑風景が広がる地域で、地形を確認すると、大落古利根川のすぐ南側で河川に沿うように細長く形成されている微高地に集落は集中していて、社もその集落内に鎮座している。
 道佛稲荷神社から埼玉県道85号春日部久喜線を街中方向に進行し、東武伊勢崎線の線路下にある「みやしろ地下道」を潜るように進んだ先にある「中島」交差点を更に直進する。宮代町の繁華街も南北に縦断する東武伊勢崎線を境にその先は風景が一変し、広大な農地の中に住宅が点在する長閑な風景となる。その後3本目の十字路を右折し、暫く進むと右手に「若宮集会所」があり、その集会所の南側に隣接するように中島若宮八幡神社は静かに佇んでいる。
        
                 中島若宮八幡神社正面
 
        鳥居の手前で参道の左右にある庚申塔や青面金剛(写真左・右)
             なお右側写真の左側にあるのは「力石」と思われる。
        
          入口付近に設置されている社の案内板(まちしるべ)
 まちしるべ 42
 若宮八幡神社  所在地 宮代町字中島
 若宮八幡神社は、字中島の若宮地内に所在し、誉田別命を祀る。祭礼は、七月二〇日と九月一五日の年二回である。
 言い伝えによると、今から四〇〇年ほどの音(江戸時代の初め)高橋七郎兵衛という人によって鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を屋敷内に祀った。その後、農耕神として当所の人々からも信仰され、江戸時代の中ごろ当地の鎮守として祀ったのがその起こりといわれている。
 本殿は権現造で、本殿内に納められている箱には宝暦六年(一七五六)三月の絡が記されている。また、当社には祭礼に用いられる二対の幟旗がある。一つは天保六年(一八三五)八月のもので町内の川島で私塾を開いていた尾花善貞、もう一対は、慶応四年(一八六八)正月のもので、爪田ヶ谷村(現白岡町)の医師富沢永惇の筆になるものである。
 境内には、天神社、稲荷社が祀られ、また、江戸時代の宝永四年(一七〇七)から安政二年(一八五五)までの四基の庚申塔や力石などがある。
 なお、この神社の近くにある青蓮院は、本尊十一面観音像を祀る寺院で、明治時代から大正時代まで百間小学校の校舎の一部として使われていた。明治四三年六月には「若宮分校舎修繕記念句集」の俳額が奉納されている。
                                      案内板より引用
 
       
                    拝 殿
 八幡神社  宮代町中島三八二(百間村字中島)
 鎮座地の中島は古利根川右岸に沿って位置する。「風土記稿」中島村の項によれば、開発は天正十八年(一五九〇)に島村出羽宗明によって行われ、最初は道仏村と称していたが、元和五年(一六一九)の検地の際、中島と改めたという。また、当村は初め百間村に属し、元禄八年(一六九五)に分村した。当社については「若宮八幡社東村西光院持」とある。
 口碑によれば、大阪夏の陣で豊臣方に就いて敗れ、落人となった高橋七郎兵衛が鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を頂いて当地で帰農し、その分霊を作神として屋敷内に祀った。その後、当地の人々からも作神として崇敬されるようになったことから宝永年間(一七〇四-一一)に東村の西光院を別当とし、当地の鎮守となったという。別当の西光院は、養老年間(七一七-七二四)に行基によって開基されたといわれる古刹で、京都醍醐三宝院の直末であった。
 神仏分離により当社は西光院の管理を離れ、明治六年六月に村社に列せられた。
 本殿内には「奉建立若宮八幡宮 宝暦六丙子年(一七五六)三月吉祥日 施主高橋七郎兵衛」銘の八幡大明神立像が奉安されている。また、拝殿内には「奉納八幡神社御祭礼天保六乙未年(一八三五)秋八月吉日武州百間領若宮村子供中」銘の幟旗が納められている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
   参道左側に祀られている境内社・天満宮    社殿奥に祀られている境内社・稲荷神社
当社の氏子区域は江戸期の中島村字若宮で、明治二十二年に中島村のほか六ヵ村を合併すると百間村大字百間中島字若宮となった。その後、昭和五年に大字が廃止されたことから、若宮の地名は廃の方々が氏子となっているとの事だ。
        
                社殿から鳥居方向を撮影
           社の南側には広大な田畑風景が広がっている。

 当社は古くから「作神」(さくがみ・つくりがみ)として崇敬されてきたという。この作神とは、日本の農耕民の間で古くから稲作の豊凶を見守り、あるいは、稲作の豊穣をもたらすと信じられてきた神で、田の神・農神・百姓神・野神と呼ばれることもある。
 また、起源の異なる他の信仰と結びついて、東日本では「えびす」、西日本では「大黒」をそれぞれ田の神と考える地域が多く、さらに土地の神(地神)や稲荷神と同一視されることもあり、その一方で漁業神や福徳神とは明確に区別される神であるという。
 作神は山の神とも深い関係があるといわれ、山の神信仰は、古くより、狩猟や焼畑耕作、炭焼、杣(木材の伐採)や木挽(製材)、木地師(木器製作)、鉱山関係者など、おもに山で暮らす人々によって、それぞれの生業に応じた独特の信仰や宗教的な行為が形成され伝承されてきた。その一方で、稲作農耕民の間には山の神が春の稲作開始時期になると家や里へ下って田の神となり、田仕事にたずさわる農民の作業を見守り、稲作の順調な推移を助けて豊作をもたらすとする信仰もあり、これを、田の神・山の神の「春秋去来の伝承」といい、この伝承は全国各地に広くみられている。
 春秋去来の伝承は屋敷神の成立に深いかかわりをもっているとみられ、屋敷神の成立自体は比較的新しいが、神格としては農耕神・祖霊神との関係が強いとされ、特に祖霊信仰との深い関連が指摘されている。
 因みに、大国主の国づくりの説話に登場する「久延毘古」(クエビコ)は、「かかし」が神格化されたものであるが、これもまた作神(農耕神)であり、地神であるともいう。



参考資料「埼玉県の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「世界大百科事典(旧版)」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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道佛稲荷神社

 
        
            
・所在地 埼玉県南埼玉郡宮代町宮代2817
            
・ご祭神 宇迦之御魂大神
            
・社 格 旧中島村鎮守
            
・例祭等 元旦祭 夏越の祭り 720
 宮代町道佛地域は、同町の中央部に位置し、東武動物公園駅からおおよそ1 kmほど南の距離にあり、また宮代町役場やコミュニティーセンター進修館など、町の主要施設が集まっている利便性の高い地域でもある。因みに地域名「道佛」は「どうぶつ」と読む。
 
埼玉県道85号春日部久喜線を宮代市街地方向に進み、姫宮落川に架かる「道佛橋」を渡り切った先にある信号のある十字路を左折すると、進行方向左手に「道佛集会所」が見え、その奥に道佛稲荷神社は鎮座している。
        
                  
道佛稲荷神社正面
 宮代町道佛地域の東部は東武伊勢崎線の線路を、西部及び南部は姫宮落川を境界としている。区画整理事業が行われた道佛地区は近年新築住宅が多く建設され、若年層が多く流入して人口が増えている。また、町丁部分の北部および西部に住居表示未実施の字道佛があり、西部は主に水田などの農地で、南西端を笠原沼落が流れる。三角形の区域を有する北部は、住宅地となっている。
 
 社号標柱のすぐ先で、参道左側にある庚申塔      右側にも庚申塔等が並んである。
        
                                参道の先にある一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「中島村」の解説
[現在地名]宮代町百間(もんま) 中島・道仏(どうぶつ)
百間村の東に位置し、古利根川右岸に沿う。同川の東対岸は葛飾郡堤根村(現杉戸町)。天正一八年(一五九〇)島村出羽守宗明が開発して道仏村と称したが、元和五年(一六一九)の検地で中島村と改称、のち百間村のうちとなり、元禄八年(一六九五)同村から分立したという(風土記稿)。元禄郷帳に百間と肩書して村名がみえ、古くは道仏村と注記され高三一六石余、旗本池田領(国立史料館本元禄郷帳)。
        
           一の鳥居の先に見える朱を基調とした二の鳥居
 江戸時代、この地域一帯は大名領や旗本領が複雑に入り組んでいて、中には自国領を「私称」するようになった。「道佛」地名も、天正18年(1590)島村氏の先祖がこの地に移住・土着し、その二子である出羽宗明が開発し、その際に道佛村と称したという。その後、元禄8年(1695)の百間村分村のときに中島村と改めたと伝えている。
『新編武蔵風土記稿 中島村』
 開發は天正一八年(一五九〇)島村出羽宗明なるもの開發して、道佛村と云ひしと云、然るを元和五年險地の時、今の村名に改めしと土人の傳れど、所以はしらず、されど正保國圓この名を載せず、元祿國圓初て中島村とのせ、古は道佛村と唱へしことをのせたれば、天正の開發にもせよ、舊くは百間村に屬し、彼村内の小名にして、百間村にいへる如く、元祿八年に至て一村とはなれり、

 
 参道左側に祀られている境内社・阿夫利神社   
阿夫利紙社の先で並んで祀られてい天満宮
        
  参道を挟んで
阿夫利神社・天満宮の対側にある伊勢参宮記念碑二基。その間には力石あり。
        
         拝殿を前に
立ち並ぶ二柱のクスノキの御神木。壮観な眺めだ
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 中島村』
 稻荷社 村の鎭守なり、元和五年の勸請と云、村持、末社 石尊 辨天 庵如意觀音を安ず、
 醫王院 新義眞言宗、東村西光院末、稻荷山宗祐寺と號す、當寺は名主德右衛門が先祖、嶋村出羽宗明と云もの造立せりと云、宗明が先祖嶋村彈正左衛門高智と號す、近江國に住し細川高國に仕へ、享祿四年(一五三一)六月廿四日攝州尼崎に於て入水して死せり、其子近江入道道明東國へ下りて當村に住し、天正一二年八月一五日卒す、出羽宗明は其二子にして、寛永元年十月五日卒す、法名を宗祐と云、本尊不動、


 稲荷神社  宮代町道仏二三一(百間字道仏)
 当社が鎮座する道仏の開発について、『風土記稿』中島村の項には、「開発は天正十八年(一五九〇)、島村出羽宗明なるもの開発して、道仏村と云ひしと云、然るを元和五年(一六一九)検地の時、今の村名に改めしと土人の伝れど、所以はしらず、されど正保国図この名を載せず、元祿国図初て中島村とのせ、古は道仏村と唱へしことをのせたれば、天正の開発にもせよ、旧くは百間村に属し、彼村内の小名にして、百間村にいへる如く、元禄八年(一六九五)に至て一村とはなれり」と記されている。昭和五年の大字廃止により字道仏となった。
 創建については、同書に「稲荷社 村の鎮守なり、元和五年の勧請と云、村持、末社 石尊 弁天 庵如意観音を安ず」と記録され、村の開発から間もなくのこととしている。また、この文中「村持」とあるが、地内の医王院について、「新義真言宗、東村西光院末、稲荷山宗祐寺と号す、当寺は名主徳右衛門が先祖、嶋村出羽宗明と云もの造立せりと云」とあり、「稲荷山」の山号から、当社の別当寺であったと思われる。更に、村の開発と寺の建立の関係から推測すると、 当社の創建にも島村出羽宗明がかかわった可能性がある。
 昭和四十二年、社有地を売却し、本殿の大修理と、末社天満宮・阿夫利神社・弁天社の三社を再建した。その後、平成五年に、今上天皇の即位大礼記念事業として、本殿の屋根の葺き替えを行った。
 
                                  「埼玉の神社」より引用 
        
             拝殿に掲げてある「蒼福魂神」の扁額
        
               拝殿内に祀られている五柱の御幣
      参拝日は正月5日。御幣の前には、神様への捧げ物、お供え物があった。
 御幣とは細長い木や竹の串に特殊な形に裁った紙垂(しで)を取り付けた物で、神への捧げ物であると
    同時に、神を招くための依り代や、祓いに必要な道具としての面も持つという。
 
       
                    本 殿
 氏子区域は、道佛と中島(通称中洲)で、昭和5年まで、共に中島村の小名であった。当社は、「五社稲荷神社」とも呼ばれ、これは、中島地域の稲荷神社を合祀して五社となったというが、詳しいところは分からないという。三間社流造りの本殿内陣の奥は五座に分かれ、その一座に「稲荷大明神、天保十(1839)亥四月吉日、関根氏」と刻まれた石祀が奉安されている。あるいは、これが中島地域で祭られていたものであるかもしれない。
 現在の本殿について、文化年間(1804~18)に焼失し、それを再建したものと伝えている。
        
                 社殿付近からの眺め
       ご神木の根部位の圧力からか、参道の敷石が微妙に変形している。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ウィキペディア(Wikipedia)」等
                 

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