伊勢方八幡神社
・所在地 埼玉県深谷市伊勢方316
・ご祭神 誉田別命
・社 格 旧伊勢方村鎮守・旧村社
・例祭等 四方拝 1月1日 春祭り 4月10日 祇園祭 7月27・28日
秋祭り 11月3日 大祓 12月25日
普済寺愛宕神社から一旦北上し、国道17号線に戻る。「普済寺」交差点を右折し、深谷市街地方向に東行すること1.2㎞程、旧中山道が宿根地域で合流する変則的な十字路を左折する。その後、850m程北上した丁字路を左折すると、周囲は伊勢方地域集落となり、暫く進むと、その正面方向に伊勢方八幡神社が見えてくる。地図を確認すると、埼玉県立深谷高校の北西部にあたる。
伊勢方集落の中央に鎮座する鎮守様
『日本歴史地名大系』 「伊勢方村」の解説
小山川と上唐沢(かみからさわ)川とに挟まれた沖積低地に位置し、東は谷野(やの)村、西から南は岡部村(現岡部町)。岡部領に所属(風土記稿)。戦国期に深谷上杉氏の支配下に入り、上杉氏は深谷城築城の頃、当地に仮城を築いて居住したという。この城は伊勢方城あるいは曲田(まがつた)城・谷之(やの)城ともよばれ、後年上杉氏の重臣岡谷香丹が皿沼城(上敷免地内)を長子清英に譲って曲田城に退老、天文四年(一五三五)城内に皎心寺(谷之地内)を創建したという(「重修岡谷家譜」群馬県館林市立図書館蔵)。
伊勢方八幡神社 正面一の鳥居
鳥居の左側に設置されている案内板
伊勢方八幡神社は、1186年(文治2年)、岡部忠澄が八幡大菩薩を勧請して創建したのだと伝えられる。室町時代には、深谷上杉氏が深谷城を築城する際、この地に仮城を築いたとも伝えられ、この仮城は字田中あたりで、今でもその地は「元屋敷」と呼ばれている。この仮城に、守り神として千形神社が祀られている。伊勢方の地名は、伊勢神宮の御師との関連からともいわれ、江戸時代には、岡部藩の安部氏が八幡大明神像を安置して信仰し、以後伊勢方村の鎮守として村人から信仰されたという。
その後、明治五年に村社となり、大正十一年に社殿を再建した。近年では、昭和四十八年に伊勢の御遷宮を記念して社殿の修復を行っている。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 伊勢方村』
八幡社 村の鎭守なり、岡部六彌太勸請なりと云、村持、
壘跡 村の北三反許の處を云、今は陸田となれり、相傳ふ古へ上杉氏深谷城築立の頃、當所假城を構て居住ありしより上杉假城と云、
八幡神社 深谷市伊勢方三一六(伊勢方字堀南)
伊勢方の地名についての伝えは特にないが、恐らく伊勢の御師にかかわるものであろう。
当地は、室町中期、上杉氏が深谷城を築城したころ、その仮城を構えて居住した所であると伝えられる。元の伊勢方の集落は、この仮城のあった字田中の辺りといわれており、今にその地を「元屋敷」と呼んでいる。
当時の伊勢方の戸数は八戸、鎮守は現在当社の境内社となっている鹿島神社であった。氏子はこの鹿島神社を、隣村の大塚島にある鹿島大神社にかかわる社であると語っている。『大里郡神社誌』鹿島大神社の項には「元の氏子田中村(伊勢方の小名田中のこと)に鹿島塚と称する地ありて、昔鹿島(大)神社の御神体を埋め奉りし地と伝ふ」と記している。いつごろ伊勢方の集落が南方の現在地に移って来たかは不明であるが、この移住により鎮守が鹿島神社から当社八幡神社に移ったことが考えられる。
社記によると、当社の創建は文治二年( 一一八六)のことで、岡部六弥太忠澄が平家追討の戦を終え、領地普済寺に帰るとすぐに、領内西谷(後の伊勢方村)に八幡大菩薩を勧請したという。
その後、江戸期に入るまで当社の事歴は明らかでなく、元文二年(一七三七)に至り御霊代(みたましろ)を調整して神霊を奉斎した記事が載せられている。内陣には、この時に納められたと思われる同年記銘の騎乗の八幡大菩薩像が安置されている。
この時、奇しくも神体は消失を免れ、氏子の邸宅に安泰であったことを伝えている。社殿の再興は天保九年に行われ、この時の棟札には「当領主岡部之城主安部摂津守殿」「遷宮導師歓喜山円通密院弘賢」の名が見える。
『風土記稿』は「八幡社 村の鎮守なり、岡部六弥太勧請なりと云、村持」と載せている。
明治五年に村社となり、大正十一年に社殿を再建した。近年では、昭和四十八年に伊勢の御遷宮を記念して社殿の修復を行っている。
「埼玉の神社」より引用
社殿奥に祀られている八坂社 八坂社の左側奥に祀られている浅間神社
社殿の奥で、道路側に祀られている天神社(左側)・鹿島社(同右)。
社の北側で、道路を挟んだ場所にある公会堂
この公会堂は、昭和九年まで阿弥陀堂があり、古くから村の集会の場となっていたという。
どこか懐かしさを感じられる、昭和の香りが漂う建物である。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」等