古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

伊勢方八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県深谷市伊勢方316
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧伊勢方村鎮守・旧村社
             
・例祭等 四方拝 11日 春祭り 410日 祇園祭 72728
                  
秋祭り 113日 大祓 1225
 普済寺愛宕神社から一旦北上し、国道17号線に戻る。「普済寺」交差点を右折し、深谷市街地方向に東行すること1.2㎞程、旧中山道が宿根地域で合流する変則的な十字路を左折する。その後、850m程北上した丁字路を左折すると、周囲は伊勢方地域集落となり、暫く進むと、その正面方向に伊勢方八幡神社が見えてくる。地図を確認すると、埼玉県立深谷高校の北西部にあたる。
        
              伊勢方集落の中央に鎮座する鎮守様
『日本歴史地名大系』 「伊勢方村」の解説
 小山川と上唐沢(かみからさわ)川とに挟まれた沖積低地に位置し、東は谷野(やの)村、西から南は岡部村(現岡部町)。岡部領に所属(風土記稿)。戦国期に深谷上杉氏の支配下に入り、上杉氏は深谷城築城の頃、当地に仮城を築いて居住したという。この城は伊勢方城あるいは曲田(まがつた)城・谷之(やの)城ともよばれ、後年上杉氏の重臣岡谷香丹が皿沼城(上敷免地内)を長子清英に譲って曲田城に退老、天文四年(一五三五)城内に皎心寺(谷之地内)を創建したという(「重修岡谷家譜」群馬県館林市立図書館蔵)。
        
               伊勢方八幡神社 正面一の鳥居
       
              鳥居の左側に設置されている案内板
 伊勢方八幡神社は、1186年(文治2年)、岡部忠澄が八幡大菩薩を勧請して創建したのだと伝えられる。室町時代には、深谷上杉氏が深谷城を築城する際、この地に仮城を築いたとも伝えられ、この仮城は字田中あたりで、今でもその地は「元屋敷」と呼ばれている。この仮城に、守り神として千形神社が祀られている。伊勢方の地名は、伊勢神宮の御師との関連からともいわれ、江戸時代には、岡部藩の安部氏が八幡大明神像を安置して信仰し、以後伊勢方村の鎮守として村人から信仰されたという。
 その後、明治五年に村社となり、大正十一年に社殿を再建した。近年では、昭和四十八年に伊勢の御遷宮を記念して社殿の修復を行っている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 伊勢方村』
八幡 村の守なり、岡部六請なりと云、村持、
壘跡 村の北三反許の處を云、今は陸田となれり、相傳ふ古へ上杉氏深谷城築立の頃、當所假城を構て居住ありしより上杉假城と云、

 八幡神社  深谷市伊勢方三一六(伊勢方字堀南)
 伊勢方の地名についての伝えは特にないが、恐らく伊勢の御師にかかわるものであろう。

当地は、室町中期、上杉氏が深谷城を築城したころ、その仮城を構えて居住した所であると伝えられる。元の伊勢方の集落は、この仮城のあった字田中の辺りといわれており、今にその地を「元屋敷」と呼んでいる。
 当時の伊勢方の戸数は八戸、鎮守は現在当社の境内社となっている鹿島神社であった。氏子はこの鹿島神社を、隣村の大塚島にある鹿島大神社にかかわる社であると語っている。『大里郡神社誌』鹿島大神社の項には「元の氏子田中村(伊勢方の小名田中のこと)に鹿島塚と称する地ありて、昔鹿島(大)神社の御神体を埋め奉りし地と伝ふ」と記している。いつごろ伊勢方の集落が南方の現在地に移って来たかは不明であるが、この移住により鎮守が鹿島神社から当社八幡神社に移ったことが考えられる。
 社記によると、当社の創建は文治二年( 一一八六)のことで、岡部六弥太忠澄が平家追討の戦を終え、領地普済寺に帰るとすぐに、領内西谷(後の伊勢方村)に八幡大菩薩を勧請したという。
 その後、江戸期に入るまで当社の事歴は明らかでなく、元文二年(一七三七)に至り御霊代(みたましろ)を調整して神霊を奉斎した記事が載せられている。内陣には、この時に納められたと思われる同年記銘の騎乗の八幡大菩薩像が安置されている。
 この時、奇しくも神体は消失を免れ、氏子の邸宅に安泰であったことを伝えている。社殿の再興は天保九年に行われ、この時の棟札には「当領主岡部之城主安部摂津守殿」「遷宮導師歓喜山円通密院弘賢」の名が見える。
『風土記稿』は「八幡社 村の鎮守なり、岡部六弥太勧請なりと云、村持」と載せている。
明治五年に村社となり、大正十一年に社殿を再建した。近年では、昭和四十八年に伊勢の御遷宮を記念して社殿の修復を行っている。 
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      社殿奥に祀られている八坂社       八坂社の左側奥に祀られている浅間神社
        
             社殿の奥で、道路側に祀られている天神社(左側)・鹿島社(同右)。
        
            社の北側で、道路を挟んだ場所にある公会堂
  この公会堂は、昭和九年まで阿弥陀堂があり、古くから村の集会の場となっていたという。
         どこか懐かしさを感じられる、昭和の香りが漂う建物である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」等

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普済寺愛宕神社

 深谷市(旧岡部町)普済寺地域は、櫛挽(くしびき)台地から利根川沖積低地への漸移地帯に位置し、『日本歴史地名大系』での 「普済寺村」の解説によれば、東は岡部村で、村の中央を中山道が通っている。また、「風土記稿」にはもと岡部村に含まれ、のち分村した時に曹洞宗普済寺の寺号を村名とした。
『新編武蔵風土記稿 普済寺村』
「古へは岡部村に属せしが、後年代詳ならず分村せしとき、村内にある寺號をもて村名となせりと云」
 なお、地域名「普済寺」は、当地にある普済寺の寺伝によると建久二年(一一九一)に岡部六弥太忠澄が栄朝を招請して創建、忠澄の法号を寺名にしたとされている。
        
             
・所在地 埼玉県深谷市普済寺1536
             ・ご祭神 火産霊命
             ・社 格 旧村社(明治59月村社申立済)
             ・例祭等 夏祭り 724
 国道17号線を深谷市街地を越えて、旧岡部市街地方向に進み、「普済寺」交差点を左折、そのままJR高崎線に達する「学校通り踏切」の手前で進行方向右手に普済寺愛宕神社は鎮座している。愛宕神社の基壇部となっている古墳は、愛宕山古墳または前原愛宕山古墳と呼ばれ、137m・高さ5.5mの方墳というが、塚の可能性もあるという。古墳時代末期(七世紀末頃)の築造と考えられている。
 この古墳は、1983年(昭和58年)920日付けで岡部町(当時)指定史跡に指定。2006年(平成18年)11 - (旧)深谷市、岡部町、川本町、花園町が合併し、新たに深谷市となり、同日市の指定史跡となった。
        
                 普済寺愛宕神社正面
        
           鳥居・社号標柱の右側に設置されている案内板
          普済寺愛宕神社の案内板は深谷市と合併前の旧岡部町時代のもので、
                            文字は薄れほとんど読めない状態。
 愛宕神社
 創立年代は不明であるが、岡部六弥太忠澄の信仰厚く、火防の神として崇敬されたと伝えられている。当社周辺は、往古より火難が多く、住民はこれに苦しみ、広大な山林中唯一の大塚上に愛宕明神を勧請し、火産霊命を祀ったと伝えられている。
 江戸時代にはいると、岡部藩主安部氏は当社を火防の守護神として崇敬し、陰暦七月二十四日は家来に至るまで、肉食・魚食を禁じ、氏子中においても、この日精進祭という神事を行った。
 また、当社が祀られている大塚は、愛宕神社古墳と呼ばれ、町指定文化財となっている。本古墳は、一辺三七メートルの方形をなし、高さ五メートル五○センチを測る。葺石、埴輪の有無は不明であるが、形態からして、古墳時代末期(七世紀末頃)の築造と考えられる。本古墳は、方墳という特殊な形態を有しているが、この形態の古墳は関東地方においても数少ないものである。
 平成三年三月 埼玉県 岡部町
                                      案内板より引用
        
           一の鳥居のすぐ先にある朱色を基調とした二の鳥居
        
       参道右側にある「愛宕神社再建奉納記念碑」と「狛犬奉納記念碑」
 愛宕神社再建奉納記念碑
 当社の創立年代は不詳であるが、岡部六弥太忠澄の信仰厚く火防の神として崇敬されたと伝承されている。従前当社周辺は火災による被害が多く、氏子はこれに苦しみ、普済寺の郷豊かで自然の中でも唯一の此の大塚上に愛宕大明神を勧請し、火産霊命を鎮座された。
「敬神愛郷」いにしえより建立された社殿は、長い年月を経て、雨風を凌ぎ老朽化したため、此度愛宕神社建設委員会を設立し、本殿・拝殿を改築する運びとなり、平成二十五年三月十五日に本殿遷座祭並びに竣工奉祝祭が厳粛なうちに斎行された。大神様の限りない大御心と、愛宕神社にお寄せ戴く氏子の皆様のひとりひとりのお心が一つになり、此の社殿改築事業を進める事が出来た。
 折りしも本年伊勢神宮に於いては、第六十二回式年遷宮が斎行され、同年に当社再建が行われる事は幾重にも喜ばしく、茲に当社の歴史・伝統を後世に伝え、又、本事業にご協力御奉賛賜る多くの氏子・崇敬者・工事関係者各位の御芳名を記し、感謝の誠を捧げ此の記念碑を建立する。
(以下略)
                                                                       奉納紀年碑文より引用
            
              石段上に鎮座する普済寺愛宕神社
             冒頭に説明した通り、古墳の墳頂上に社殿は建つ。
 
  石段の途中に祀られている境内社・石祠群。   左側三基の石祠は不明。右側は皇大神宮
       
                    拝 殿
 愛宕神社  岡部町普済寺一五三六(普済寺字前原)
 当地は、弘化四年(一八四七)の『普済寺縁起』に「岡部の原といえる所は、彼(かの)六弥太と云し武士の旧跡なりと。近代合戦に数万の軍兵討死の有し所にて、人馬の骨をもって塚に築今に古墳余多侍りき」とある。更に、これは宗祇の「なきを問、おかべの原の古塚に秋のしるしの松かせそふく」を載せている。古くから、当地の広野には、多くの古墳が点在し、格別の風情があったのであろう。
 当社が村の鎮守となったのは、江戸初期のことで、中山道沿いに居住していた本村の人々が、南側の岡部野原と呼ばれる雑木林を開墾して新田を開き、火防の神である愛宕大神を祀ったのである。愛宕大神を祀った理由は、本村の家並みがかつて火災に見舞われたことから、分村した人々も村の火防のために、この神を鎮祭したのであると伝える。ちなみに、当社境内には、元禄年間(一六八八〜一七〇四)に建立した庚申塔があり、これには「武刕(州)半沢郡新田村」とあることから、このころには、既に本村から移住した新田村(前廓)の人々の営みがあったことがうかがえる。
 鎮座地は『普済寺縁起』に載る古墳の一つである愛宕塚古墳(古墳後期の方墳)にある。ここは、日ごろから神社景観を保護しようとする氏子の熱意により、適宜(てきぎ)、植林が施されているため、現在、形の良い社(もり)が形成されている。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
        
                  社殿からの眺め
 普済寺愛宕神社の夏祭りは724日に行われ、俗に「愛宕精進」と呼ばれる。精進とは、祭事の前に心身を浄めて行いを慎み、肉食を避けて菜食をする事である。
 祭りの起こりは、当社の氏子が村を開発した当初、火災や疫病にならぬように、ひたすら愛宕大明神に祈りを捧げたことに始まる。これには、不浄であるとの理由から女衆は一切参加できないのが例であったという。
        
         境内にある如意輪観音や青面金剛・二十二夜待塔・庚申塔等



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」
    「境内案内板・記念碑文」等
 

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青山氷川神社

 青山氷川神社の創建は、社記によると、永享元年(1429)で、当初、三峰大明神と号したと伝える。三峰神社の本社が秩父にあり修験寺院が別当と勤めていた点や、秩父・当地周辺から鉱山が採掘されていた点などから、当社が三峰大明神として創建したのに修験者が関与していなのではないかとも推測されている。長期にわたり三峰大明神と称してきたが、享保10年(1725)に氷川社と改称し、現在に至っている。
 かつて社の境内には、子供六人が抱えるほどの杉の大木があり、神社の目印として村人に親しまれていたが、落雷により枯死してしまった。それでも境内は山の斜面のために樹木も多く、青山全域の総鎮守にふさわしい社の景観を呈していて、また、氏子の方々もこの青山全域の総鎮守としての意識は強く、地内の人々の心の拠り所として崇敬の念は厚い。
 ご祭神は健速素戔嗚尊・奇稲田姫尊・大己貴命で、氏子の間では農耕の神として信仰が厚く、「有難い神様」と崇敬している。そのためか、毎年三月十五日に行われる祈年祭は通称を「田起こし」といい、農業が主体であったころは、氏子の各戸ではこの日に変わり物を作って祝ったものであり、豊作を祈る予祝の祭りでもある。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡小川町青山1312
            
・ご祭神 健速素戔嗚尊 奇稲田姫尊 大己貴命
            
・社 格 旧青山村総鎮守
            
・例祭等 元旦祭 祈年祭 315日 例大祭1015
                          
新穀感謝祭(新嘗祭) 1123
 青山愛宕太神社から埼玉県道30号飯能寄居線を北上し、「青山陸橋(西)」交差点を左折する。その後、小川郵便局の先にある信号を斜め左方向に進路変更し、更に500m程進むと、進行方向左手に青山氷川神社の鳥居が見えてくる。
        
                  
青山氷川神社正面
『日本歴史地名大系』 「青山村」の解説
 槻川を挟んで小川村の南に位置し、南は日影村(現玉川村)。玉川領に属した(風土記稿)。田園簿では田高二五五石余・畑高二二〇石余、ほかに紙舟役永一貫三〇〇文が課せられ、幕府領。元禄郷帳では高七二四石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本四氏の相給、ほかに円城寺領があった。「風土記稿」成立時にも同じく旗本四氏の相給。検地は寛文八年(一六六八)に行われた(同書)。文化一四年(一八一七)には高七二〇石余、反別は一〇四町九反余、家数二二〇・人数一千一四、うち一〇八軒で紙漉を行っており、前出紙舟役のほかに紙売出役銭一〇二文を納めていた(「村書之控」横川家文書)。
        
             鳥居を過ぎたすぐ左側にある「芭蕉碑」
        
            参道右側に設置されている緑泥石片岩のベンチ
 この境内に置かれている石板は「
緑泥石片岩」であり、元々は、神社入口の用水路に架かる橋として使われていたものである。昭和58年頃の道路拡張工事に伴い、今ある場所に移して、ベンチとして利用されているという。
        
             境内に設置されている社の森の案内板
 小川町指定天然記念物  青山氷川神社の森
 昭和六三年二月一四日指定
 氷川神社內   氷川神社内
 氷川神社
 氷川神社の森は、北向きの斜面の山裾から山腹にかけて広がる、照葉樹林「ふるさとの森」です。この神社林の中にはヤブツバキ・シラカシ・クスノキ・ケヤキの大木や、シロダモ・アラカシ・アオキ等も多く生育しています。参道の入り口にあるヤブツバキは、照葉樹林を象徴する木ですが、樹高八・四メートル、幹の周囲一・七一メートルの大樹で、県内でも珍しいものです。このような大木を保ってきた森は、学術的にも大変価値の高いものです。
 森の中のひときわ大きなクスノキは、樹高ニ六メートル、胸高直径一・二九メートル、最大周囲三・四八メートル、枝張り南北一九・ニメートル、東西二四・九メートルを測ります。
 平成四年二月一日 
 小川町教育委員会
                                      案内板より引用
 
        趣のある手水舎           手水舎の先に祀られている天神社
        
             社への石段がかなり急勾配で、所々苔むしているので気をつけて登る。

石段を登り終えたすぐ左手にある稲荷社の石祠    稲荷社の反対側に祀られている氏神
       
                    拝 殿   
 氷川神社(みょうじんさま)  小川町青山一三一二(青山字根木)
 青山は、外秩父山地一角、小川盆地のほぼ中央に位置する。地名の青山は、鉄を産する地から名付けられたとする説がある。『地誌青山村』には「鉱山 村ノ南方鉱山、往古何年頃ナリシカ採掘セシコトアリシモ中絶シアリシガ維新ノ後更ニ採掘ヲ試ミタレトモ十分ノ結果ニ至ラズ中途ニシテ廃絶ス今ハ只試掘痕ノ存スルノミ」と載る。また、地内には、鍛冶の神として崇められた愛宕神社(当社に合祀)がかつてあり、その裏山を「神名」という。神名は、俗に「鉄穴」であるということから、やはり採掘とかかわりがある。当地一帯は、外秩父山地を抖擻した修験者が活躍している。各地の鉱山が、山間の知識を十分に蓄積した修験者により発見されていることから、当地の鉱山も在地修験とかかわりがあったことと考えられる。
 当社の創建は、社記によると、永享元年(一四二九)で、当初、三峰大明神と号したと伝える。三峰大明神を祀る本社、すなわち現在の三峰神社は、秩父山塊にある標高一一〇〇メートルの大滝村三峰に鎮座している。江戸期は、京都聖護院直末、天台宗本山派修験で、別当観音院が支配している。三峰大明神の勧請は、恐らく在地修験により行われたのであろう。
 三峰大明神の史料としては、寛文八年(一六六八)の『武州比企郡青山村御縄打水帳』があり、「田九畝拾八歩 三峰大明神」と記されている。この江戸初期の史料は、比較的早期の三峰信仰を知る上で貴重なものである。
 当社の社家である土岐家には、修験関係の許状、補任状が残る。この内、古いものでは、正徳元年(一七一一)の大常院の「袈裟着用許状」、次いで享保九年(一七二四)の青山坊の「僧都補任状」、泉蔵院の「袈裟、貝緒両緒着用許状」などがある。浄学院と号した土岐家に、これら坊・院の許状があるということは、恐らく当社の別当が次々と退転したことを示しているのであろう。
 この中で、当社は、享保十年に、社号を「三峰」から「氷川」へ変更している。これは、かつて三峰大明神を祀っていた大常院が退転し、その後、恐らく青山坊か泉蔵院が当社の祭祀に当たるに及び、新たに氷川大明神を勧請したのであろう。これらは、氷川神社とかかわりのある修験であったかもしれない。
 土岐家、すなわち浄学院の許状は、宝暦七年(一七五七)以降のものが残されている。浄学院は、本山派修験で、青岩山と号し、西戸村山本坊配下であった。また『風土記稿』には、氷川社の別当が浄学院であることを載せている。浄学院は、明治初年の神仏分離に際し、復飾して神職となった。
                                  「埼玉の神社」より引用
     
           社殿の奥にひときわ高く聳え立つクスノキのご神木(写真左・右)
       
                  石段上からの眺め 
             因みに石段の向かって右側にある建物は神楽殿 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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青山愛宕太神社

 小川町青山地域は、外秩父山地一角で、小川盆地のほぼ中央部に位置し、JR八高線・東武東上線小川駅の丁度南側にあり、槻川を境にその南側一帯に広がる地域である。青山愛宕太神社が鎮座する青山字根木は、同地域東部にあり、JR八高線沿いに通る埼玉県道30号飯能寄居線が南北に走り、東端には仙元山(298m)をはじめとする尾根と、その仙元山山頂の南南西にある標高267mの頂部には「町指定史跡 青山城跡」が、そして地域の東側に接する下里地域には、国指定史跡の下里・青山板碑製作遺跡がある。
 なお、仙元山の中腹には周囲の自然を活かした「仙元山見晴らし公園」が整備されていて、この公園の目玉でもある、町に向かって滑り降りていくすばらしい眺望とスリルを誇る全長
203mの「ローラーすべり台」は、有料ながら子どもから大人までみんなで楽しめるすべり台で、更に展望台からは小川町の全景が見晴らしの丘公園から一望できる。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町大字青山2134
             
・ご祭神 火之炫毘古命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 例大祭 1015日前後の日曜日
 国道254号線を小川町市街地方向に進み、「道の駅おがわまち」を越え、「本町二丁目」交差点を左折する。その後、埼玉県道30号飯能寄居線合流後、槻川を越え更に南下すること1㎞程先の「アドニス小川カントリー倶楽部」の看板がある細い路地を右斜め方向に進むのだが、車両はその周辺の路上にて駐車している。その後、右手には庚申塔や馬頭観音・地蔵尊が整然と並ぶ石碑群を見ながら上り斜面を徒歩にて進むと、右手に青山愛宕太神社の鳥居が見えてくる。
 
 北側参道に並ぶ
庚申塔や馬頭観音・地蔵尊等      北側の参道から徒歩にて参拝
              の石碑            緩やかな上り斜面の先に社は見えてくる。
 本来、社殿に対して正面方向に参道(石段)があり、急坂を下ると県道30号線に直接ぶつかるような配置となっていて、しかもその正面入り口は狭く、しかも鳥居や社号標柱等もなく、当然のことながら専用駐車スペースもない。当初は正面からの撮影を試みたのだが、県道の車両が意外と多く、残念ながら断念。そこで、北側から社に通じる舗装された道からのアプローチとなった。
        
        
県道30号線から急斜面の立ちあがった小高い山頂に鎮座する社
 青山愛宕太神社の創建年代等は不詳であるが、当社地の裏山は「鉄穴」を意味する「神名」と呼ばれていることから、鉱山採掘に関わる火の神として祀られたのではないかといわれている。
        
                    拝 殿
 氷川神社  小川町青山一三一二(青山字根木)
 地名の青山は、鉄を産する地から名付けられたとする説がある。『地誌青山村』には「鉱山 村ノ南方鉱山、往古何年頃ナリシカ採掘セシコトアリシモ中絶シアリシガ維新ノ後更ニ採掘ヲ試ミタレトモ十分ノ結果ニ至ラズ中途ニシテ廃絶ス今ハ只試掘痕ノ存スルノミ」と載る。また、地内には、鍛冶の神として崇められた愛宕神社(当社に合祀)がかつてあり、その裏山を「神名」という。神名は、俗に「鉄穴」であるということから、やはり採掘とかかわりがある。当地一帯は、外秩父山地を抖擻した修験者が活躍している。各地の鉱山が、山間の知識を十分に蓄積した修験者により発見されていることから、当地の鉱山も在地修験とかかわりがあったことと考えられる。
 各地域の鎮守に対する信仰も厚く、沼ノ入の愛宕神社は、火の神・火防の神として崇敬されている。現在はほかに家内安全・商売繁昌や合格祈願等も行う。大祭は十月十五日の前後の日曜日で、福引やカラオケ大会を催してにぎやかな祭りである。
                                                  「埼玉の神社」・青山氷川神社の項より引用
        
                          社殿の向かって左側にある神興庫
     神輿のようなものが安置されている。当地の祭りに使用されたものであろうか。
        
      境内西側にある「愛宕太神社記念碑」とその右側にある「青山城の井戸石」
                青山城の井戸の石をこの神社に移動したのであろうか。
                  愛宕太神社記念碑
                      参議院議員 上原正吉書
              愛宕太神は火之炫毘古命にして出雲
                    の国より青山村に御来神と伝えられ
              万民安堵火伏の神として二百三十年
                           前より広く崇敬されしも明治末期神
                           社統制により氷川神社に移管され尓
                             来五十三星霜を経て今日に至る
                           昭和三十八年八月地区民挙って再鎮
                           座を発起し奉賛会を組織して新築完
                           成をみたので之を永く後世に伝える
                           と共に地区民の幸福と繁栄を記念し
                             茲に記念碑を建設するものなり
                                
昭和三十八年十一月吉日
       
               北側参道入口を参道側から撮影

 青山愛宕太神社から直線距離にて南東方向750m程の山頂部には町指定史跡である「青山城跡」がある。青山城は仙元山山頂の南南西にある標高267mの頂部に築かれていて、北端最高所に主郭を置き、南尾根に二郭、南東尾根に三郭を配している。少し離れているが小倉城とは尾根続きであり、戦国時代には松山城を守る支城としての役割があったようだ。 
 町指定史跡   青山(割谷)城跡
 小川町大字青山字立厳二二九二-二ほか
 平成四年三月二十五日 町指定
 青山(割谷)城跡は、青山と下里の大字境に位置し、青山側では青山城、下里側では割谷城と呼ばれています。
 城跡は尾根を巧みに利用し、標高二六五メートルの山頂部に築かれた本郭を中心に、南西に二の郭、南東に三の郭をコの字状に配し、それぞれの郭は深い堀切で画されています。本郭の南東側および二の郭の東側には通路状の帯郭が残されています。一方、北側は小規模な郭と堀を配するのみとなっています。
 板碑の石材である緑泥石片岩の分布域にあり、堀切はこの岩盤を掘り抜いて造られ本郭周囲の一部には石積みが残っています。城跡の下里側の麓近くには、板碑石材の採堀と加工を行っていた割谷採掘遺跡があります。
 江戸時代に書かれた『関八州古戦録』には永禄六年(一五六三)に「松山城へは上田安楽斎、同上野介朝広を環住なさしめ青山・腰越の両砦と共に堅固に相守らせ」とあり、松山城の支城であったと伝えられています。
 東二・六キロメートルには小倉城跡があり、北に四ツ山(高見)城跡、北西に中城跡、西に腰越城跡を臨むことができます。また麓を流れる槻川に沿った道や現在の八高線に沿った道を見下ろす地理的な要所に位置した城跡です。
                            「青山(割谷)城跡」案内板より引用



参考資料「埼玉の神社」「境内石碑文」「青山(割谷)城跡掲示板」「仙元山見晴らし公園HP」

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木呂子吉野神社

 小川町木呂子地域は、兜川の上流に位置する静かな山村である。この地は、古くは「吉野の里」と呼ばれ、中世には松山城主上田氏の有力な家臣であった木呂子氏の居館があったという。
 因みに「
木呂子」は「キロコ」と読み、なかなか個性的な地域名で趣もあり、響きも良い。旧蔵国男衾郡木呂子邑発祥ともいわれる名前である。
 木呂子氏は『埼玉苗字辞典』によると、男衾郡木呂子(現比企郡小川町木呂子)の出身でその在郷名を名乗ったものと記され、戦国時代には武州松山城主上田氏の家臣として、上田・難波田氏と姻戚関係を結び重要な地位にあったことが推測される。同氏は木呂子丹波守元忠-丹波守新左衛門元久-新左衛門元次と続き、後北条氏滅亡後には深谷上杉氏の重臣であった秋元氏に仕え同氏の家臣岡谷氏と姻戚関係を結んだとされている。
『平姓木呂子氏家譜』
「木呂子丹波守元忠(室上田能登守長則女。弟日遠は身延山僧、其弟下野守則貞は小田原滅亡後・百人組与力として歴仕・維新に至る)―丹波守新左衛門元久(鳥居土佐守家中、室難波田因幡守憲次女)―新左衛門元次(これより秋元但馬守家中、室岡谷門左衛門泰勝女)、元次の弟兵左衛門―清兵衛久庵―清兵衛」

        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町木呂子303
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧木呂子村鎮守・旧村社
             
・例祭等 山神社例祭 117日 稲荷例祭初午祭 3月初午日
                  
八王子神社例祭 423日 秋例祭 1015
 勝呂白鳥神社から東行し、兜川を越えた丁字路を左折、国道254号線に合流し、400m程北西方向に進んだ路地を再度左折する。木呂子地域の街並みを眺めながら約300m進んだ「木呂子区民センター」の見える路地を左方向に進行し、暫く進むと、緩やかな山なみの稜線の先に木呂子吉野神社が見えてくる。
        
                 木呂子吉野神社正面
『日本歴史地名大系』「木呂子村」の解説
 勝呂村の北東に位置し、男衾郡のうちで玉川領に属した。竹沢六村の一(風土記稿)。地名は戦国期に松山城(現吉見町)城主上田氏の家臣であった木呂子氏にちなむと考えられる。政所改戸(まんどころかいと)・政司改戸(しようじかいと)などの地名が残り、中世には開発されていたことがうかがえる。延宝元年(一六七三)の竹沢村水帳によれば、木呂子分は高一三六石余、反別は田七町七反余・畑二一町余・屋敷七反であった(小川町史)。
『新編武蔵風土記稿 木呂子村』
 木呂子村は古勝呂・木部・靱負及び比企郡笠原村原川分等六村を合て、一村にて竹澤村と唱へ當郡に屬せしが、後年六村に分ちし時。笠原村原川分の二村は比企郡に属せりと云、されど鎌倉圓覺寺所藏應安二年の文書に、武藏國比企郡竹澤郡内、竹澤左近將監入道跡事云々と載たれば、古くは比企郡に屬し、中頃當郡に隷し、後又六村に分れし時、兩郡に分れしならん、按に【太平記】に載たる延文三年十月、新田義興を矢口の渡に於て畠山道誓と同〱謀殺せし竹澤右京亮も、此左近将監の一族なるべし、又天正十八年小田原攻の時、松山籠城人数の内に木呂子丹波守あり、是はまさしく當所の在名を名乗しならん、
 又此村の一名を吉野と呼べり、其由來は詳ならず、
 吉野川 村内山間の谷合より出る清水、落合て一篠の流れとなる、吉野は則當村の一名なり、

        
             静かな雰囲気の中、ひっそりと佇む社
 木呂子吉野神社の創建年代等は不詳であるが、『風土記稿』に「天神社 村民持」とあるのは同社のことで、所有していた村民武藤家では、鎌倉時代作の薬師如来像を所有していることから、天神社で祀っている天満天神座像も鎌倉時代の作ではないかと伝えている。その後、天保15年(1844)に壱岐天手長男神社を勧請した天手長男神社、安政2年(1855)に養蚕を奨励した領主小野朝右衛門を讃える梅之宮神社の2社を天神社の摂社として村全体で祀っていたという。明治8年に武藤家が天神社を売却したのを機に、明治9年村社に列格、明治41年に無格社山神社・八王子神社・稲荷神社を合祀、大正15年には、旧地名「吉野の里」から吉野神社と改称したという。
        
                    拝 殿
 吉野神社(てんじんさま)  小川町木呂子三〇三(木呂子字上耕)
 竹沢六村の最も西に当たる木呂子は、兜川の上流に位置する静かな山村である。この地は、古くは「吉野の里」と呼ばれ、中世には松山城主上田氏の有力な家臣であった木呂子氏の居館があった。
 木呂子には、古くから天神社があり、武藤氏が氏神としてそれを祀ってきた。『風土記稿』に「天神社 村民持」とあるのは同社のことで、武藤家にある薬師如来像が鎌倉時代の作であることから、当社の内陣に安置される天満天神座像も鎌倉時代の作と伝えられている。明治八年、武藤又兵衛が社地と大杉を地内の松本吉兵衛に売却したのを機に、当社は近隣八戸を氏子とするようになり、翌九年には村社になった。更に、明治四十一年(『明細帳』では四十二年二月)には地内にあった無格社山神社・八王子神社・稲荷神社が当社に合祀され、大正十五年には、木呂子が古くは「吉野の里」と呼ばれていたことにちなんで、社名が吉野神社と改められた。
 当社には、摂社として天手長男神社と梅之宮神社が祀られている。前者は、天保の初め、当地に大火災があり、以後、火災を恐れた村人が天保十五年(一八四四)に寄居町小園にある天手長男神社の分霊を奉斎したものであるという。後者は、養蚕を奨励し、村に繁栄をもたらした領主小野朝右衛門を讃えるために、安政二年(一八五五)に領主から賜った鏑矢と矢じりを神体として祀った社である。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
       
狛犬右手には、天手長男神社と書かれた大きな石銘が建てられている。
 因みに天手長男神社は、摂社の一つで、現在は梅之宮神社と共に本殿覆屋内に祀られている。

 天手長男神社のご祭神は櫛明玉命とされているが、氏子・崇敬者の間では「お手長様」と呼ばれている。「お手長様」は火防の神としてご利益があるといわれ、木呂子ではこの社を祀って以来火災もなく、安心して暮らせるようになったという。
 梅之宮神社は、通称「こかげ様」といい、木花咲耶姫命がそのご祭神といわれている。この社は、養蚕の神として木呂子だけでなく、隣接する勝呂(すぐろ)の人々からも崇敬され、423日に行われる例祭では、養蚕倍盛が祈願されるという。大東亜戦争以降、養蚕は不振の傾向にあるが、同社は養蚕に限らず、諸産業繁栄の神として信仰が厚い。
 このほか、当社に合祀された山神社の例祭が117日、稲荷神社の例祭(初午祭)が3月初午日、八王子神社の例祭に関しては、ご祭神が同じであるという理由から梅之宮神社の例祭に合わせて行われているという。
        
                  社殿からの眺め
 木呂子地域は、小川町から寄居町へ通じる街道が通る要衝の地であり、天正年間にその在郷名を名乗った木呂子氏が領していたことの意味は非常に大きい。
 木呂子地域の南側に隣接する勝呂地域には白鳥神社が鎮座しているが、この社の創建には、増尾氏が関わってきたという。詳しい説明は勝呂白鳥神社に載せているが、この増尾氏は平姓木呂子氏家譜に「畠山重忠の後裔・猿尾太郎種直(正慶二年卒)より出り候由。春栄の譜に種直の弟春栄とあり。大塚村に木呂子丹波守殿カキ上城有之」。「畠山重忠の後裔・猿尾太郎種直(正慶二年・1333年卒)より出り候由。春栄の譜に種直の弟春栄とあり。大塚村に木呂子丹波守殿カキ上城有之」との記述があり、増尾氏と共に木呂子氏も畠山一族の出身であるといわれている。





参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」等
 

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