古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

宮ヶ谷戸住吉神社


        
             
・所在地 埼玉県深谷市宮ヶ谷戸181
             
・ご祭神 底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命(推定)
             
・社 格 旧宮ヶ谷戸村鎮守 旧聖天社
             
・例祭等 例祭 1017
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.2081772,139.3193361,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号深谷バイパスを西行し、「諏訪新田」交差点を左折、400m程先にある丁字路を再度左折して道なりに暫く進むと、宮ヶ谷戸住吉神社が右手に見えてくる。
 この社には道路沿いに参拝者専用駐車場も完備されており、参拝する際には大変ありがたい。
        
                                
宮ヶ谷戸住吉神社正面
 深谷市宮ケ谷戸地域は、市北部・明戸地区南側に位置し、北側に17号深谷バイパス、東側に弁財深谷線、南側には新しく深谷北通り線が開通(平成312月)し、JR高崎線籠原駅(熊谷市)へのアクセスが容易になった。
 同地区は、地域の4分の1が農家で主に深谷ねぎを栽培・出荷している。また、土地改良の整備もされていて、小麦や稲作も盛んでのどかな田園風景に囲まれている場所でもある。
        
                                
宮ヶ谷戸住吉神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「宮ヶ谷戸村」の解説
 [現在地名]深谷市宮ヶ谷戸
 宮谷戸とも記す。丈方川(福川)左岸の沖積低地に位置し、西は明戸村。深谷領に所属(風土記稿)。田園簿によると田方九石余・畑方一〇五石余、旗本山本領で幕末に至る。「風土記稿」によると家数三〇、用水は備前渠用水を矢島堰より
取水。

「〇ヶ谷戸」の地名は、埼玉県内の平野部に意外と多い。事実、
宮ヶ谷戸地域近郊には「本田ヶ谷戸」地域もある。「谷戸」については、川島町の「牛ヶ谷戸諏訪社」で説明し、「地形を確認すると、都幾川・越辺川・市野川・荒川の四河川によって作られた低平な沖積地域に属するこの牛ヶ谷戸地域は、水害に悩まされることも多かったが、水田を作るには適していた。現代を生きる我々の常識では、「谷(や・やつ)」の概念が強く響いてしまい、山間にはさまれた狭い谷(たに)間と単純に考えてしまうが、本来の意味は、居住にも耕作にも便利のところ、即ち人は一方の岡の麓に住み、間近く、田にもなり要害にもなるような水湿の地を控えた理想的な場所であり、人々はこの地に「谷」と名づけたのではなかろうか」と考察した。
 門題なのは、谷戸の名には、殆んど「ヶ」をつけて、「〇ヶ谷戸(ガイト)」と読んでいることである。丁度『嵐山町Web博物館』でもこの地名の由来に関して興味深い考察があり、以下の解説をしている。
『垣内(ガイト)というのは屋敷のある一定の区画の場所を指して呼ぶ言葉である。これは、始めある有力者の占有区域を意味し、その区域内には被保護者も住んで耕作をしいるというような大規模のものであったらしい。然し後にはこれが小区画の地名にもしばしば用いられるようになった。それと共に、元の「カイト」の意味も、段々に曖昧になったし、呼び方も一番古いのは「カキツ」で、それから「カイツ」「カイト」となり、更に変化して地方により「カイチ」「カクチ」「カイド」というようになった。それで漢字にあてれば、貝戸、海道、皆渡、開土、外戸などとなっているのであるという。私たちのカイドもこれに当るものである。カイドは垣内で屋敷の意味である』
カイドは屋敷であるとすると、次は「何々ガ谷戸」との関連である。私たちは、前述のように「谷戸」は地形の名であるとしたが、実はこの「何々ガ谷戸」の中には「何々ガイト」というべきものもあると考えるのである。つまり屋敷の名も「何々ガ谷戸」の中にあるということになる。例えば前にあげた殿ヶ谷戸・御所ヶ谷戸・宮ヶ谷戸・堂ヶ谷戸というような類は一般常民から仰ぎ尊ばれるような立場にある人物や、神仏などの、住居し祀られた場所だろうということは誰でも考えつく。とすればこれは「トノガイト」であり「ミヤガイト」である。何々ガ谷戸の中にはこういう意味で呼ばれたものもあったにちがいないと考えられる。そして前述のように「谷戸」は居住にも耕作にもまことに都合よい優れた土地であるから、このすぐれたよい土地を先ず有力者や神仏が占拠するのは当然で、谷戸と垣内は切っても切れない間柄のものであるといってもよい。谷戸というよい土地であるがために、垣内が成立したのである。谷戸は垣内の土地基盤であった。そしてこの関係が両者の区別を混然とさせて、両方とも同じく「何々ガ谷戸」と呼ぶようになったのだと判断するのである』
 興味ある考察である。
全てがこのような理由でこの地名がついたと断定することは危険であるが、地名の語源は、最初人々がそこに住み着いた際に、そこの地域を分かりやすく説明するために、最初は簡単な「音」で表現し、その後日本語としての「語」の組み合わせで造作したものであることは確かであろうから、地域によっては同じ地名、又は一部同じ地名があってもおかしくはない。
        
              開放感があり、広そうに見える境内
 宮ヶ谷戸地域の住吉神社のある辺りが、嘗て「宮ヶ谷戸館」の跡であるという。居住者不明の館跡。小字に「堀の内」があり、この社周辺ともいい、その遺構地の名残りともいえる。しかし遺構があるのかどうか、よく分からなかった。
        
                     拝 殿
 福川左岸の沖積低地の自然堤防上に位置する社。ただ、嘗てこの社近郊に利根川が流れていて、舟の安全を祈願して祀られた神社のようだ。一時期「聖天社」「聖天様」と呼ばれ時期もあったそうだが、明治維新後、旧称に復帰したという。
『新編武蔵風土記稿 宮ヶ谷戸条』
 聖天社 村の鎮守、無量寺持、
 無量寺 古義真言宗、蓮沼村総持寺末、紫雲山普門院と号す、本尊阿弥陀を安ず、
     
          境内には松尾芭蕉の句碑が2基ある(写真左・右)。
             〇文化十年(1813)二月建立(写真左)
              能見れは 薺はなさく 垣根かな
    孝子中化建之とあり、中化という俳人が、親の追善供養のために建てたもの。
              〇昭和十三年(1938)秋建立(同右)
              秋の野や 草の中行く 風のおと
      秋香謹書とあり、地元の俳句の会である幡明会の6名が建てたという。
        
           静かな境内でのひと時を穏やかに過ごさせて頂いた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
日本歴史地名大系」「深谷市自治会連合会HP 宮ケ谷戸自治会」
    「嵐山町Web博物館」等
           
       

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籠原南諏訪大神社

 JR高崎線の熊谷駅と深谷駅の間には「籠原駅」がある。熊谷市の西部に位置し、深谷市との境界地にも近い所に立地している。この駅には車両基地(籠原運輸区および高崎車両センター籠原派出所)があり、この駅を基点として「上り」の際の連結、「下り」の際には切り離しを行う利便性のある駅でもある。同時に籠原駅始発の車両も多く、籠原駅近辺の住民の方々、特に行政上深谷市に居住している方々も、深谷駅よりこの駅を利用する方が多いのも事実である。
 不思議な事だが、この「籠原」という名称は、駅名であって、つい最近まで地域名としては存在していなかった。というのも、開業当初の所在地名である大里郡玉井村大字新堀から「新堀駅」と名づけられる予定であったが、同じく貨物駅を兼ねてあった東京都の日暮里駅と混同される恐れが出てきたため、付近の小字名を取って籠原駅と名づけられたという経緯がある。但し、正式に言うと小字名の「籠原」は、「こもりはら」と読む。
 開業以来長らく(表に出る)地名と駅名が合致しない状態であったが、熊谷市民や近隣住民は駅一帯を指して「籠原」と意識してきた。そこで、2007年(平成19年)10月、籠原中央第二土地区画整理事業により当駅南口ロータリー以南の一定区域の地名が「籠原南」(1 3丁目)に変更され、初めて「籠原」が市名の直後に来る表の地名となったという。
 この籠原駅南口を降りたすぐ右側に籠原南諏訪大神社は静かに鎮座している。駅南口繰りの再開発により綺麗に整えられた景観の中に、この社はうまく調和している。それどころか、まるでこの地域の方々のみならず、駅を利用する人々に対しても「守り神」の如き存在感がそこにはある。そういう意味において、この社がそこに存在するだけで、筆者としては畏敬と感謝の念を感じずにはいられない。
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市籠原南1200
             
・ご祭神 建御名方神 菅原道真 建速須佐之男命
             
・社 格 旧新堀村鎮守 旧村社
             
・例祭等 四方拝 13日 節分祭 23日 例祭 415
                  
八坂祭 719日~20
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.1755138,139.3287224,17z?hl=ja&entry=ttu
 JR高崎線籠原駅南口手前のすぐ左側に鎮座する。通勤、通学で多くの乗降客がこの駅を利用していて、かくいう筆者の居住地もこの籠原地域である。当然籠原駅は通勤で利用させて頂く中で、この社の存在も当然知っているし、何度か参拝もしているが、ブログという形で今まで紹介していなかったことを反省している。灯台下暗し、とはこのことだ。
 専用駐車場はないので、早朝散歩がてら、自宅から徒歩にてこの社に参拝を行う。
        
                           
籠原南諏訪大神社正面
          この写真のすぐ左手には籠原駅南口の自由通路がある。
 籠原南諏訪大神社が鎮座する地は嘗て「新堀村」と呼ばれ、『日本歴史地名大系』によれば、≪北は中山道を境に玉ノ井村・東別府村・西別府村。東の高柳(たかやなぎ)村との境となっている荒川の旧河道は古堀(ふるぼり)といわれ、地内には同名の小字も残る。「郡村誌」に「慶長の頃村の中央奈良堰用水新に成を以て新井堀村と改称し、後新堀村と改称す」とあるように、古堀に対して奈良堰(ならぜき)用水を新堀と称したのが村名の由来であろう≫と記載されている。
 
 正面入り口を過ぎてすぐ左手に庚申塔・青面     庚申塔等の石碑の右並びには
     金剛・弁才天等が並ぶ。        この社の年間祭事表も掲示されている。

『籠原』という字名の由来に関して、「新編武蔵風土記稿」によると、籠原は新堀村の小字であり、当時は「かごはら」ではなく、「こもりはら」と呼ばれていた。こもり原の「こもり」は、沼地の意味があり、一帯が湿地であったことから、この地名がおこったと推測されている。
        
                           参道を進む途中にある手水舎と鳥居
 境内は決して規模が大きいわけではない。しかし、冬でも落葉しない常緑樹の多い社叢林が境内に日陰部をつくり、それ程奥にはない社殿を覆い隠すシェルター的な作用を引き起こしていて、目を凝らさなければ暗くて奥の社殿は見えない。それが多く社叢林のある社の神秘性、神聖性を醸し出す一つの要素でもある事だともいえよう
       
          鳥居のすぐ先に聳え立つイチョウのご神木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 往古、諏訪神社を祀った当地は沼の岸であった。『古事記』に、長野県の諏訪湖は「州羽海」と書かれている。州は浅瀬を、羽は端を表している。八ヶ岳から諏訪湖に流れ入る土砂が造った沃地が諏訪である。また、諏訪神社の祭神建御名方神の御名方は水潟であり、水の神様である。土地開発は水によってなし遂げられる。
 古代の当地は、恐らく諏訪に似た所であり、当社は諏訪地方から当地に入り、開発を進めた人たちにより祀られたものであろう。これを、草分けの森田家では、後世、武田信玄の盛名によってだろう、「森田は、武田家ゆかりの家」であるとして今に伝えている。
 当地は、古くは畑村と称していたが、慶長年間(15961615)に奈良堰用水が新設されて、新堀村と改称している。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
           拝殿手前には樹勢良好なシイの御神木が天空を覆い、
           早朝にも関わらず陽光を遮断している(写真左・右)。
        
 ブログ編集時に気付いたが、拝殿前に立つ二本の巨木が、意図的に寄り添い社殿を覆い、まるで隠しているようにも見える。
        
                   拝殿前にある「諏訪大神社の沿革の沿革」の案内板
 諏訪大神社の沿革
 一、村社諏訪大神社の創立 不詳
 二、村社として届出 明治四年四月七日
   大里郡玉井村大字新堀字諏訪前七五六番地
 三、無格社で八坂神社、菅原神社、山神社、明治四十二年四月一日合祀
 四、祭神
 一、建御名方命(たけみなかたのみこと) 稲、水の神 諏訪神社
 二、建速須佐之男命(たけはやすさのうのみこと) 武芸に猛けた勇ましい神
 三、菅原道真公(すがわらのみちざねこう) 学問の神 天満宮
 四、山神社
 昔、当社の地形は恐らく長野県の諏訪地方とよく似たところであり、諏訪地方から当地に移り住んだ人達が開発を進め、祀ったものであろうと言われている。昔、当地方は畑村と称し、農学が盛んに行われていた。たまたま慶長年間に奈良堰用水が新設されて新堀村と改称された。
 又、拝殿に掲げてある社号額の裏に「坊こう嬢疫」と記された稲の神としても祀られ広く親しまれてきた。
                                      案内板より引用

 
  拝殿の向かい側にある万燈神輿庫と神輿殿     万燈神輿庫と神輿殿の並びに建つ社務所
 
   境内社・天満宮、その脇に石祠あり。     天満宮の左並びにある石碑・燈籠等。
        
                               社殿から鳥居方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「籠原公民館HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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箱田神社


        
              
・所在地 埼玉県熊谷市箱田43
              
・ご祭神 事代主命 別雷命 倉稲魂命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 祈年祭 328日 例祭 728日 新嘗祭 1128日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1481485,139.3881519,18z?hl=ja&entry=ttu
 肥塚伊奈利神社から熊谷市役所方向に1㎞程南下し、東西に流れる「成田用水」の十字路を左折すると進行方向左手に箱田神社が見えてくる。箱田神社には専用駐車場はないので、近くの県立熊谷図書館で所用を済ませた後に、徒歩にて参拝を行う。徒歩でも5.6分程で到着できる距離だ。
        
                   箱田神社正面
 熊谷市箱田地域は『新編武蔵風土記稿』編集当時、埼玉郡忍(おし)領に所属していて、小さな村だったらしく、「上ノ村新田箱田村」と記されていた。荒川の沖積扇状地末端に位置し、南の大里郡熊谷宿との郡境は成田堰用水(荒川旧河道の一つ)で、流末は星川と忍川に注いでいた。
但し「箱田」という地名の歴史は古く、
箱田(筥田)氏の名字の地とされ、成田系図(龍淵寺蔵)によると成田助広の子広能が箱田右馬允を称し、保元の乱で上洛したのち豊前門司関(現福岡県北九州市門司区)で死去したと記されている。
 
    鳥居を過ぎてすぐ右側にある手水舎       鳥居の右手にある社号標
        
                            静寂の中にも歴史を感じる社
 成田氏族箱田氏  埼玉郡箱田村に土着して箱田と名乗る。
成田系図(龍淵寺本)「成田太郎助広―箱田小治郎広能―広忠―三郎兵衛能忠―三郎助忠―四郎能綱」
別府系図「成田太郎助広―成田小次郎広之(箱田右馬允、於門司関打死)―箱田刑部丞広忠―三郎助忠」
中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)「箱田。藤原姓、本国武蔵、成田太郎太夫助広の男小次郎広能・これを称す」
保元物語「義朝に相随う手勢の者共は、武蔵国には箱田ノ次郎」
吾妻鑑巻五「文治元年十月二十四日、頼朝随兵に筥田太郎」

『新編武蔵風土記稿 上ノ村新田箱方村条』
「箱田の名も古きことにして、古の箱田三郎と云もの住せし地なりと、又成田系図に箱田右馬允・其子刑部丞広忠・其子三郎兵衛能忠・其子三郎助忠など云あり、是等成田の一族にして〇に住し、箱田を以て家号とせしものならん、
 今按に正保の国図には此村名を見ず、元禄改定の図に始めて載たり、しかれば箱田と云は古へ上の村の小名にて、正保より後に分村せしゆへ、上の村新田の名を冠りしにや」
        
                     拝 殿
 創立年代は不詳。かつて久伊豆明神雷電権現と称し、口碑に従五位下式部大輔成田助高の孫成田広能天喜寛治年中の頃、箱田郷に封じられた時に、先代々より氏神として、山城国加茂御祖神社、加茂別雷神社を崇敬していて、当村を領した際にあたり、勧請した。
 時代が下り、成田親泰が文明年中に、忍城主忍海部を攻めようと際にも、戦勝を祈願し、延徳元年に忍海部の末孫忍三郎一族を滅ぼす。同二年忍城を増築居城とする際にも、崇敬祈願をこめて神田若干寄進した。
 徳川氏慶長4年社領十石諸役免除神供祭体修造等の不可解怠之旨朱印を寄せられた。
 明治6年村社申し立て済み、明治4476日字西原の無各社伊奈利神社を合祀の上、久伊豆神社・大雷神社・伊奈利神社の合殿を箱田神社と改称許可をうけ、今日に至っている。
 大正元年918日神選幣帛料供進神社に指定される。
 尚、加茂御祖神社の祭神は、玉依姫命・大山咋之命で、本来ならば当社も同じであるべきであったが、明治御改正の砌(みぎり)、久伊豆明神ということで、伊豆国三島神社を勧請したことにより、事代主命を奉斎したという。
*「大里郡神社誌」より引用。旧字体が多いため、筆者が読みやすく編集。
 
         拝殿の扁額             神明造檜材屋根銅板葺の本殿
        
           箱田神社社殿の右側に鎮座する境内社・皇大神宮
              境内社の位置づけが勿体ない程の社
        
       
皇大神宮に通じる参道の左手にある枯れても大切にされている神木
 枯死した御神木の大杉の詳細は不明だが、下部だけになった幹には注連縄が巻かれ、屋根付の専用の囲いがあり、地域の方々から大切にされていることが分かる。
 屋根の中を見上げるとお札が取り付けられていて、「天皇御在位十周年記念 御神木大杉覆屋新築工事 平成拾貮年七月吉辰日」とあり、天皇の在位記念として平成12年(2000)に御神木保護のために工事されたようだ。

 またご神木の右並びには「箱田神社之碑」の石碑がある。所々判別しずらい所もあったが、要約すると以下の通りとなる。
                                     箱田神社之碑
                        陸軍中将従三位勲二等男爵佐野延勝篆額
                    武蔵国北埼玉郡成田村字箱田有鎮守社〇久伊豆神
                    社大雷神社及伊奈利神社三社合殿祀事代主命別雷
                    命及倉稲魂命為村社今茲七月請官改称箱田神社矣
                    〇社地〇〇〇〇〇〇社殿係天保七年所建設郷人敬
                    処奉仕匪〇〇〇以社殿漸頽社地甚隘為憂也遂胥謀
                    〇力聚財更増社域三百餘歩新営本社拝殿華表水屋
                    及社務所以明治四十三年三月起工以四十四年四月
                    竣工所費金二千餘圓矣以神武天皇祭日行遷宮式神
                    殿崇麗社域濶大復非前日此神威益揚人心長安於是
                    郷人欲建碑以伝盛事来徴余文余深嘉其挙為敍梗概
                    如此
                       明治四十四年七月  従六位林有章撰并書
        
                                
皇大神宮
 『大里郡神社誌』において、その名称は「伊勢社」と明記されている。ご祭神は大日孁貴命。
       
                    社殿右側にも境内社・三峯神社 山神社が鎮座する。
                          三峰山大神と大山祇大神を祀っている。
          
                      境内社・三峯神社 山神社の左側に石祠群が鎮座  
 この石祠群の詳細は不明だが、一番左側は梅鉢紋なので、天満宮なのであろう。また手前には牛の像もあり、神使石像の類であろう。一番右側の石碑は塞神。
        
           境内社・三峯神社 山神社の奥にある石祠と石塔

        
       箱田神社に通じる道路に沿って「成田用水」は静かに流れている。
 熊谷市出身の筆者にとって、この箱田地域は県立熊谷図書館もあり、すぐ南側に熊谷市役所が、また市役所の東側にも広大な中央公園があるため、熊谷市の中でも、何となく「近代的な街」 のイメージを勝手に抱いていたが、「成田用水」付近はそれらとは一線を画す不思議な風景が広がっていた。何より「成田用水」の水の流れ、せせらぎが心地よい。綺麗な水質にも見え、その用水両岸に建ち並ぶ民家のその眺めは、どこか懐かしく、それでいて自分だけの裏道を見つけたような、静かな感動を覚える今回の参拝であった。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「熊谷市web博物館」
    「境内碑文」等

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肥塚伊奈利神社

 
        
                           ・所在地 埼玉県熊谷市肥塚27
                           ・ご祭神 倉稲魂命
                           ・社 格 旧肥塚村鎮守 旧村社
                           ・例祭等 祈年祭 222日 例祭 1014日 新嘗祭 1126
                     *例祭日は「大里郡神社誌」を参照。
     地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1574711,139.3878268,18z?hl=ja&entry=ttu
 熊谷市の北大通りを市役所方向に進み、熊谷商工会議所手前の信号のある十字路を左折し、街中を北上するように1.2㎞程進むと、進行方向左側に肥塚伊奈利神社の鳥居が見えてくる。
 専用駐車場はないので、西側に近隣する「成就院」の駐車スペースか、社に到着する手前で、右側にあるスーパーの駐車場を利用する。どちらか迷ったが、今回はスーパーの駐車場に置かせて頂いた。勿論、スーパーで買い物を済ませた後に参拝を行った
        
                街中に鎮座する肥塚伊奈利神社
 熊谷市肥塚地域は、嘗ての肥塚村で、『日本歴史地名大系』での解説によれば、荒川の沖積扇状地東端に位置し、自然堤防や後背湿地が発達している地域で、標高は26.5 m程。荒川旧河道の一部が南の熊谷宿・箱田村の境界をなしていたという。『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代は大里郡忍領に所属
 肥塚伊奈利神社の創建年代は不詳だが、成就院の境内鎮守社だったといい、神仏分離令に伴い、明治2年当地へ遷座、明治42年村内の12社を合祀している。
        
「熊谷Web博物館」には「肥塚」の地名由来に関して以下の説をあげている。
肥塚(こえづか)はヒツカの転化から
下美作左衛門大夫家泰の勲功を賞した感状に「武蔵国大里郡枇塚(ヒツカ)郷」と記されている。ヒツカ(枇塚)とは火塚の意味で、火の雨塚ともいい、火の雨が降ったときかくれた塚だという伝説をもつ塚がその名のおこり。
火塚(ヒツカ)(火の雨塚)→枇塚(ヒツカ)→肥塚(ヒツカ)→肥塚(コエツカ)
肥塚はヒツカの当て字で、肥塚と書いたため後世その意味を忘れて“コエツカ”と呼ぶようになった。〔埼玉県地名誌〕
肥塚は、枇塚・声塚とも書き武蔵七党丹党の肥塚氏の所在である。
新編武蔵風土記稿』には、「村内に肥塚殿という古墳があり、その碑には、康元二年(1257)の銘があり、村人たちの伝えによると、肥塚太郎光長の墓である」と記されている。
開墾の年代は詳ならざねど、村内に肥塚殿と称する古墳ありて、其碑は康元二年の銘あり、土人の傳へに此地の領主肥塚太郎九郎光長といひし人なりと、康元は後深草院御宇の年号にて【東鑑】の頃なれば、尤古く開けしことしらる、肥塚のことは猶下に出せり」
肥塚は武蔵七党の内丹党の枝流にして、古は爰に住し在名を唱へしものならん」
       
      正面鳥居の手前で右側にある社号標   鳥居を過ぎて右側にも社号標あり
        
                     拝 殿
 肥塚氏は肥塚郷を本貫地とし、その館跡は成就院周辺といわれている。肥塚氏系図によれば、熊谷氏の祖である直季が熊谷に住し、弟の直長が肥塚に住んで肥塚を称し、その祖となったとされている。承久3年(1221)、朝廷と鎌倉幕府との間に勃発した承久の乱では、肥塚太郎が熊谷平内左衛門(直国)らとともに幕府軍に加わり、近江国勢多橋(滋賀県大津市)の戦いで討死している。
 正平7年(1352)、美作左衛門大夫(本郷)家泰が、勲功により元は牧七郎兵衛のものであった大里郡桃塚郷を、室町幕府将軍足利尊氏から与えられている。江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では、この桃塚を枇塚(ひづか)に充てている。さらに、枇塚は肥塚の当て字で、肥塚は古くは「ひづか」とも呼んでいたとしている。また、応永3年(1396)に当地方で大般若波羅密多経の書き写しが行われたが、そのおり、村岡(熊谷市村岡)の如意輪寺担当分の巻を、肥塚の宝珠寺(所在地不明)で書写している。
 一方、上野国新田荘にあった世良田山長楽寺 ( 群馬県太田市 ) の住持、賢甫義哲が著わした『長楽寺永禄日記』の永禄8年(1565)の項には、北条氏邦が忍城を攻める際、同年9 15 日に三相(御正=熊谷市御正新田付近)の陣を払いコエ塚(肥塚)に着陣し、同月 20 日には越塚(肥塚)の陣を払い、奈良(同市奈良)に陣を進めたと記されている。
        
                     本 殿
 肥塚伊奈利神社の西側近郊にある「成就院」は「肥塚山阿弥陀寺」と号す真義真言宗の寺で、江戸愛宕真福寺(東京都港区)の末、古くは鎌倉胡桃谷大楽寺(神奈川県鎌倉市=廃寺)の末とされる。
 肥塚地内観音堂の北側には2基の板石塔婆が建立されており、康元2年(1257)銘のものが肥塚太郎九郎光長の碑とされ、阿弥陀種子(キリーク)が刻まれ、その下に無量寿経の偈文と「道義禅門」の名が記されている。もう1基は応安8年(1375)銘で肥塚八郎盛直の碑とされ、地蔵菩薩が刻まれ、その下の左右に光明真言と「道幾禅門」の名が記されている。
 肥塚氏供養板石塔婆は熊谷市指定有形民俗文化財で、昭和29113日指定されている。
 肥塚氏の本貫地は、この「成就院」付近と考えられよう。現在の肥塚の小字に堀ノ内は見当たらないが、『新編武蔵風土記稿 肥塚村条』にも、館跡に関係する小字「堀ノ内」が存在していた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌
    「熊谷市公式HP 肥塚公民館」「熊谷Web博物館」等
 

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妻沼若宮八幡宮

 熊谷市には不思議なお社がある。元妻沼町の最北端、利根川右岸堤防沿いにポツンと鎮座する「妻沼若宮八幡宮」。地形的には決してありえない場所に、「立派な本殿」がほぼむき出し状態(実際は屋根はついているが)で、見事な彫刻等が施されているのだが、保存状態が悪く、歴史に埋もれつつある、という印象が頭から離れない。
「立派な本殿」という言い回しは決して誇張表現ではない。この本殿の姿を見た人ならば一応にそう言うと思う。現在利根川河川敷特有の激しい雨風にさらされた為か、塗装等ほぼ欠落してしまい、屋根下部に僅かながら着色していて、当時の絢爛豪華なイメージを想像するほかない状態である。路面もコンクリートで舗装されてはいるが、鳥の糞もあちこちに見られ、「侘《び》・寂《び》」を信条とする我が日本人の美意識とはかけ離れた「朽ち果てられつつある」ものがそこに存在している。
        
               
・所在地 埼玉県熊谷市妻沼
               
・ご祭神 誉田別命(推定)
               
・社 格 旧若宮村鎮守(推定)
               
・例 祭 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2373134,139.3650602,15z?hl=ja&entry=ttu
 国道407号線を北上し、「刀水橋」交差点のすぐ先にある信号のある十字路を左折し、利根川堤防沿いに走って行くと「大里郡利根川水害予防組合第三号水防倉庫」の少し先に妻沼若宮八幡神社が見えてくる。
 周辺に適当な駐車スペースはないため、土手脇のスペースに路駐し、急ぎ参拝を開始する。
        
              利根川右岸堤防に沿う様に鎮座する社
 写真を見ても分かる通り、利根川右岸堤防に沿う様に鎮座する本当に小さな社である。創建・由緒等も不明。但し景観まちづくり地域ディスカッションHP」において、妻沼若宮八幡宮の事にふれている箇所があり、そこにはこのような記述がある。
かつて源頼朝が群馬の新田に来たときに奉られたという八幡宮が利根川の河川敷内にあったが、河川改修に伴い、土手の上に遷宮され、若宮八幡宮となっている。見事な彫刻等が施されていたが、保存状態が悪く、歴史に埋もれつつある(以下略)」
 つまり以前は利根川河川敷内に鎮座していたのだが、時期不明の河川改修の際に、現在の地に遷宮、若宮八幡宮となっているという。
        
                   鳥居の社号額
 由緒は不明。但し断片的な資料・書物等で、僅かにこの社を取り巻く地理的な環境がわかる。
・東山道武蔵路の、利根川の渡河地点は、現在では妻沼町の刀水橋付近を想定している説が有力視されている。この橋の付近は近世には「古戸の渡し」と呼ばれる渡し場があったという。古戸は「古渡」で、近世には既に古い渡しであったことを意味している。
『新編武蔵風土記稿 幡羅郡妻沼村条』
「渡場 当村より上野国へ達する利根川の船渡なり、対岸古戸村なるを以て古戸渡と呼ぶ、此道は熊谷宿より上野への脇往還なる」
【源平盛衰記】に、足利又太郎宇治川先陣の時の語に、足利より秩父に寄けるに、上野の新田入道を語て搦手に憑、大手は古野杉の渡をしけり、搦手は長井の渡と定たりと云々」
「【東鑑】治承四年十月右大将頼朝義兵を発し、大井・隅田南河を越て来り賜し條に、畠山次郎重忠長井渡に参会す」
        
          拝殿はなく、玉垣に囲われた屋根の下に本殿が鎮座する。
       
                    瑞垣と屋根で覆われた中に本殿が見える。
    本殿は流造りに妻入りの屋根を重ねた権現風で、周囲に彫刻が施された立派な造り
 玉垣の隙間からでも彫刻の雰囲気がよく見え、これほどの彫刻レベルを真近かで見られるのは、
                  少し興奮ものだ。
      
                                   本殿(写真左・右)
 江戸時代に頂点に達した「装飾建築物」の担い手である「上州の彫物師」は、この当時「妻沼歓喜院本殿」の再建に取り掛かっていた。この本殿もこの彫物師たちが手掛けたものであったのかは不明である。
        
                    社の手前右側にある庚申の石碑と八幡宮湧泉之記碑
八幡宮湧泉之記碑」
 延享5年(1748)造立。砂岩製。高93cm。裏面には、若宮八幡神社建立の縁起と、寛保の大洪水(寛保2年:1742)の際、井の水は濁り飲めず民衆が憂いていたところ、寄しくも清泉が湧き邨を救ったと記載されています
 社主:内田惣兵ヱ
 願主:橋上五郎兵衛、橋上茂右ヱ門
 本碑は、聖泉湧出碑(妻沼歓喜院)と同年銘のものであり、2基とも寛保の大洪水の際に泉が湧き民衆を救ったと刻まれています

寛保の大洪水
「寛保の洪水」とは、寛保2年(174281日に発生した利根川の氾濫のことで、近世最大の水害と言われている。この年が戌年であったことから「戌の満水」とも呼ばれているという。利根川上流・千曲川流域では、727日から降り出した雨が8月2日まで降り続き、水位の上昇は、平常より2mから場所によっては6mにも及んだことが記録されている。
 この時歓喜院では、丁度大工棟梁林兵庫正清の手によって本殿再建の途中であり、本殿の上棟のみ完了した後、この洪水の影響により造営工事を11年間休止せざるを得ない状況になる。この休止期間に、歓喜院の造営に関わった職人達により、市内上新田の諏訪神社本殿・石原の赤城久伊豆神社本殿・甲山の冑山神社本殿等の建築が行われている。
 その後、徳川幕府は、御手伝普請として利根川堤防の改修工事を外様大名を中心とした西国の大名に命じてその費用の負担を求めている。妻沼周辺の工事は、岩国吉川家が、妻沼の瑞林寺付近に工事現場を構えて築堤にあたっていう。
 その際、派遣された吉川藩の棟梁長谷川重右衛門と地元の大工棟梁林兵庫正清との親交が結ばれ、重要文化財歓喜院貴惣門の設計図や書簡が贈られているという。
                                「熊谷Web博物館HP」より引用


 ところで、旧妻沼歓喜院の東側に鎮座する旧村社・大我井神社の境内で、参道にて拝殿に通じる途中に「
唐門」がある。この唐門は明和七年(百八十六年前)若宮八幡社の正門として建立されたという。
        
                          現在は
大我井神社のある「唐門」
             
              唐門の柱に飾られている由来の木札
 大我井神社唐門の由来
 当唐門は明和七年(百八十六年前)若宮八幡社の正門として建立された 明治四十二年十月八幡社は村社大我井神社に合祀し唐門のみ社地にありしを大正二年十月村社の西門として移転したのであるが爾来四十有余年屋根その他大破したるにより社前に移動し大修理を加え両袖玉垣を新築して面目を一新した

 この立派な唐門を配置した江戸時代・明和年間当時の妻沼若宮八幡宮とは如何なる社であったのであろうか。少なくとも現在のような小規模な社ではなかったろうし、鎮座地も現在の利根川土手南岸ではなく、河川敷内にあったのであろう。現在の規模の社で、江戸時代当時のイメージをすると、この唐門ばかり目立ってしまい、社としての纏まりを欠いてしまう。
 また木札に記載されている大正2年10月に移転したという経緯も、もしかしたらこの時期に利根川の河川改修があったとも考えられる。どちらにしてもこの場違いな程見事な唐門を包括していたこの社は『新編武蔵風土記稿』にも「若宮八幡宮 持同上」としか記載されていない。謎多き社である。
*この妻沼若宮八幡宮の創建に関して、妻沼村の土豪「田久氏」の関与を考えているが、まだ推測段階で、しっかりとした考察ができているわけでない。検討課題がまた一つ増えてしまった。
        
                            利根川土手沿いに静かに鎮座する社
 筆者が長年悩んでいでいて、今現在でもしっかりとした解説ができないでいるため、この社をなかなか紹介できなかった理由は正にここにある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「熊谷Web博物館HP

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