古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

平塚新田氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市平塚新田18
             
・ご祭神 素戔嗚尊(推定)
             
・社 格 旧平塚村・新田鎮守 旧村社
             
・例祭等 元朝祭 12日 春祈祷 412日 
                  例祭(お日待) 
101415
 川越市の北西部に位置する平塚新田地域は、入間川と小畔川の合流点周辺の狭い区域にあり、『新編武蔵風土記稿 平塚新田村』にも「此地本村の間に攝し、北の方に一區をなせり、民家僅に九軒、田圃は本村と駁雜(はくざつ)の地なれば四境の界は本村に屬せり」と載せるように、平塚地域北端部から分けられた地が当地域であり、更に東西・南北共に1㎞程程度しかない中で、3区の飛び地で構成されている。
 下小坂白鬚神社から小畔川に沿った道路を北東方向に進み、土手を登った先にある小さな冠水橋である「鎌取橋」を渡る。今時珍しい木製の造りで、更に道幅も狭いため、通る時はゆっくりと走行したのだが、昭和生まれの筆者にとって、昔の懐かしい臭いが周囲一帯漂う風景に自分の幼少期や青年期の思い出と重ね合わせながら、時間が過ぎるのも忘れて眺めていた次第であった。
 
 昨今の橋にはみられない風情のある
鎌取橋      この橋は水面にも非常に近い。
 土手を下ると、平塚新田地域の民家が数軒見えてくる。この地域は飛び地が3カ所あるのだが、一番南東に位置するこの区域は一番狭いのだが、民家は集中しているようだ。そして、入間川方向に伸びる道を進むと、同河川土手手前に平塚新田氷川神社はひっそりと鎮座している。
        
                        
平塚新田氷川神社正面
              入間川の堤防がすぐ右手に見える。
『日本歴史地名大系』「平塚新田村」の解説
 平塚村の北東、入間川・小畔川と旧小畔川の合流点付近の低地に立地。高麗郡に属した。平塚村新田とも記す。入間郡網代(あじろ)村の百姓又左衛門が開発したと伝える(風土記稿)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳に村名がみえ、高七五石余、反別田三町六反余・畑一二町二反余、幕末まで川越藩領。
 
  平塚新田自治会館の手前に立つ社号標柱    無駄なものがない、さっぱりとした境内

 この社の創立時期はハッキリとは分からないが、『風土記稿』によると、「入間郡網代の百姓、又左衛門なるもの来て、新墾せしと云、」また社記に「当社創立は川越氷川神社を分祀せる由、拠べき証なけれども旧来祭日は川越氷川社と同日なり、万治二年再営の棟札あり網代村山王堂教覚院岩田栄秀が古く社務を務め所持せり、元禄七年の村方調帳に三畝十八歩繩除地の社地云々」とあり、万治二年(1659年)の棟札があるということなので、江戸時代初期にはこの社は祀られていたことになる。
        
            参道右側に並んで祀られている境内社や石碑
         左から境内社・稲荷社、天魔大王の石碑、境内社・御嶽社
        
                    拝 殿
 氷川神社  川越市平塚新田一二(平塚新田字氷川前)
 当地は川越市の北部にある水田地帯である。口碑に、川越の殿様が松平信綱の時、武蔵野の開発が行われ、その折、山田のうち北山田の次男・三男が入り草分けとなった所であり、当時二六戸であったという。当地は古くから洪水の多い所で、小畔川・入間川・越辺川の三河川が地内落合橋の所で合流する低湿地であり、俗に「小畔のコシロ」「伊草のケサ坊」と呼ばれる二匹の大蛇が暴れた所であるという。
 当社は草分けの入職時に川越の氷川様(現宮下町の氷川神社)の分霊を受け、川を治める神様として祀ったものといわれている。
『風土記稿』に「平塚村及び新田の鎮守なり、例祭六月一五日 入間郡網代村本山修験、教学院の持なり」と載せる。
 社記に「当社創立は川越氷川神社を分祀せる由、拠べき証なけれども旧来祭日は川越氷川社と同日なり、万治二年再営の棟札あり網代村山王堂教覚院岩田栄秀が古く社務を務め所持せり、元禄七年の村方調帳に三畝十八歩繩除地の社地云々」とある。
 本殿は一間社流造りで、明和七庚寅年九月再営の銘がある棟札を蔵する。内陣に、「明和七庚寅年六月二十日・川越本町高田長左衛門願主」と幣芯に銘がある金幣を祀る。口碑に、この金幣は川越の氷川神社に祀ってあったものであるという。
                                                                    「埼玉の神社」より引用

 鎮守が新しく開けた平塚新田にあるのは、口碑によれば、入植時に平塚よりも新田の方が戸数が多かったことによるという。後に水害により新田地域の戸数は減り、平塚地域の方が大きくなっている。
 祭礼日412日は、「春祈祷」と呼び、古くは幟を立て、神楽の奉納があり賑わった。神楽師は勝呂村塚越(現坂戸市塚越)から三名頼み、太々(だいだい)神楽であった。また、山田村福田の若衆が囃子を奉納したともいう。塚越の神楽は有力者の寄附により賄ったのでハナカグラとも呼んでいた。この神賑いも戦争の激化により中止されてしまった。現在は祭典があり、同時に村境四ヶ所にフセギと称する神札を立てる行事だけである。
        
 この地は、秋のお彼岸時期になると、河川の土手周辺や水田の畔に曼珠沙華が一斉に咲き誇るという。
 埼玉で曼珠沙華の観光名所と言えば、日高市高麗本郷の巾着田や幸手の権現堂堤が有名であるが、ここ川越市平塚新田の入間川の土手の曼珠沙華も、国道254号線に架かる落合橋から平塚橋まで土手の約700mに渡って群生していて、社の境内には、「埼玉県自然100マンジュシャゲ群生地」の看板と、「堤防を 緋の帯びにして 曼珠沙華」の句碑が設置されている。
 参拝時期が5月中旬と時季外れではあったが、いずれはこの真っ赤に咲き誇る曼珠沙華の風景を堪能したいものだ。
        
                 入間川堤防の眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内掲示板」等
   

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笠幡尾崎神社

 寛永一三年の棟札に「高麗郡笠幡之鄕惣社大明神」とあるように、当社は笠幡地域(川越市合併前の笠幡村)の総鎮守で、芳地戸・新町・山伝・倉ヶ谷戸・協栄・本町・西部から成り、当社は芳地戸に鎮座する。また、各字ごとに字鎮守の社があり、新町は三島日光社、山伝は御嶽社、倉ヶ谷戸は箱根神社、協栄は八坂社、本町は宣言者、西部は金比羅社を祀っている。各社ごとに祭典が行われ、殊に浅間社は七月一四日に初山と称して母親が子供に連れて参詣し、その子の丈夫な成育を祈る信仰がある。
 当所は高麗から川越に通じる高麗街道が村内を通るため、大町・新町・本町に宿があった。一方、小畔川沿いには水田が広がり、ほかは陸田で養蚕が盛んな頃は一面の桑畑であったという。
 社の裏手には幹回り6m余りの大杉があり、御神木にしていた。その根本には50㎝位の空洞があり大蛇が住んでいると伝えられ、周囲を3回まわると大蛇が出るといわれていたため、氏子は近寄らなかった。なお、その大蛇は当社の神の使わしめであるといわれていた。しかし、この木も昭和四六年に枯死し、伐採してしまったという。
        
              
・所在地 埼玉県川越市笠幡1280
              ・ご祭神 素戔嗚尊 奇稲田姫命
              ・社 格 旧笠幡村総鎮守 旧村社
              ・例祭等 元旦祭 道饗祭 321日 春祈祷 415
                   秋日待 1015日 例祭 1115
              (*秋日待は川越市合併前には17日。例祭は従来の929日の九日
               祭りをこの日に移したという)
 笠幡箱根神社から南北に通じる道路を北上し、小畔川に架かる「田谷橋(たやはし)」を渡る。小畔川流域周辺の肥沃な田畑風景を愛でながら200m程北上し、住宅街が並ぶ十字路を右折、小畔川と並行して暫く進むと、信号のある十字路に達するので、そこを左折する。緩やかな上り斜面を進むと、すぐ左手に笠幡尾崎神社の入口、及び駐車場が見えてくる。因みに、社に面した道路は通称「さざんか通り」というようだ
 参拝日は20255月中旬で、建て替え工事を行っていた関係で、正面参道入口に通じる駐車場一帯にはバリケードが敷いてあり、また境内も一部散策できなかった場所もあって、その点は少々残念。
 この社には「正面参道入口」「北側参道入口」、そして一番西側にある「西側参道入口」と、それぞれ鳥居が設置されているのだが、建て替え工事の関係や、駐車場から一番近いところから「北側参道入口」から出発することになった。
        
                                                     笠幡尾崎神社北側参道入口
『日本歴史地名大系』 「笠幡村」の解説 
 [現在地名]川越市笠幡・的場・川鶴・三芳野・伊勢原町、鶴ヶ島市太田ヶ谷
 安比奈(あいな)新田の北西、小畔川流域の低地および台地に立地。高麗郡に属した。貞治二年(一三六三)六月二五日の鎌倉府政所執事奉書(町田文書)に「武蔵国高麗郡笠縁」とみえ、年貢帖絹代を長井庄の定使給物として森三郎に給付し、残余および未進分などについては直納すべき旨が北方地頭に命じられている。また翌年九月一八日にもほぼ同内容の命令が高麗彦四郎経澄に下されている(「鎌倉府政所執事奉書」同文書)。「笠縁」は「笠幡」の誤記と考えられる。地内の尾崎神社に伝存する天文二〇年(一五五一)六月一五日の年紀がある懸仏の銘に「武州高麗郡笠幡尾崎宮」とみえ、また同年六月吉日の年紀がある懸仏銘には「大日本国武州高麗郡笠幡郷尾崎」とみえる。

       
             鳥居の右側にある社号標柱には    正面参道の様子。この参道は途中で
           「笠幡郡惣社」と表記されている。
     左側に曲がり、社殿に達する。
        
                 西側にある参道入口
 笠幡尾崎神社は古社であるのだが、その創建年代等はハッキリとは分からない。日本武尊が当所を通った折に、台地はずれの見晴らしのよい所ゆえ、尾崎の宮と称えて二神を祀ったと伝えている。当社には宝徳4年(1451)銘・大永8年(1528か?)銘の板碑や天文20年(1551)銘の懸仏など中世の信仰が残されており、室町時代の宗教的遺物として貴重なものとして、共に市指定文化財となっていて、近世・江戸時代には笠幡村の鎮守社として祀られてきた。
『新編武蔵風土記稿 笠幡村』
 尾崎明神社 素戔嗚尊を祭と云、神體は圓鏡に鑄造す、その銘に武州高麗郡笠幡鄕尾崎、于時天文二十年六月吉日敬白とあり、外に慶長十二年の棟札あり、猶舊き棟札もあれど文字分たず、村中の鎭守なり、例祭九月二十九日、神職伊藤長門なり、
 稻荷社、疱瘡社
『入間郡誌』
 尾崎神社
 古社なれど勧請年暦不明、棟札の文字読むべからず。 但社号に大日本国高麗笠幡大明神と記し、又一の棟札には慶長十二年修理を記し、又一棟札に寛永十三年十二月笠幡郷惣社大明神とあり、同十五年の棟札には笠幡郷惣社尾畸大明神とあり。 其他寛文九年十二月再興元禄二年修理の棟札あり。 之れ現今の社殿也。 尚古来円経六寸表に仏体を凸出せる鋳板に天文二十年鋳造と記せる掛物二面あり。

        
       西側鳥居を過ぎて、参道を進むと両部鳥居の二の鳥居が見えてくる。
 両部鳥居の両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残というのだが、この鳥居があるという事は、この社も神仏習合系の社であったのであろうか。
        
                                 社殿に続く参道の様子
                       老杉古檜が豊かに茂る尾崎の森
 
        参道途中にある手水舎                境内に入り、すぐ右手にある神楽殿
        
                    拝 殿
 尾崎神社(みょうじんさま)  川越市笠幡一二八〇(笠幡字宮前)
 当社は南に小畔川を臨み、老杉古檜が茂る広大な境内は野鳥の楽園ともなっている古社である。祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命で、その創始については、日本武尊が当所を通った折に、台地はずれの見晴らしのよい所ゆえ、尾崎の宮と称えて二神を祀ったと伝えている。
 宝徳四年及び大永八年の銘がある五〇センチメートル余りの板碑と、市指定文化財となっている「大日本國武州高麗郡笠幡尾崎宮」と刻む天文二〇年の懸仏二面を蔵している。このほか神宝として天文五年銘祐定作の太刀、榎本武揚奉納の銅製社号額がある。
 棟札も数枚あり、最も古いものは「慶長拾二年三月十五日禰宜伊藤刑部」と判読でき、以下、寛永一三年・貞享二年・元禄二年・寛文九年と続く。また、『明細帳』には天保九年にも再興したとある。現在の社殿は明治一八年に再営したもので、この時に草葺き屋根を瓦葺きとし、更に近年老朽化が進んだため昭和五六年に修復した。
 祀職は神社に隣接している伊藤家である。同家は室町時代より二〇代以上続く社家であり、当社とともにその歴史は古く、慶長の棟札に伊藤刑部とあり、『風土記稿』にも「神職伊藤長門なり」とあるほか、元禄七年・享保九年・延享四年・寛政七年・文政八年・嘉永三年・慶応三年の裁許状が残っている。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
【参考 埼玉苗字辞典より】
・入間郡塚越村大宮住吉神社文書 「貞享三年・笠幡村尾崎社家伊藤刑部」
・尾崎神社文書「元禄七年・高麗郡笠幡村尾崎大明神之祠官伊藤長門守藤原吉勝、享保九年・祠官伊藤播磨守藤原好博、延享四年・祠官伊藤長門守藤原安清、嘉永三年・神主藤原安武、慶応三年・神主藤原安教」
        
             拝殿に掲げてある「尾崎神社」の扁額
        
                境内に設置されている「芳地戸のふせぎ・懸仏二面」の案内板 

 芳地戸のふせぎ(市指定・無形民俗文化財)
 懸 仏 二 面(市指定・工芸品)
 悪魔払いの神事である「ふせぎ」を笠幡の芳地戸では、毎年春の彼岸の中日に行なっている。その日の午前中、神社でおみこしを作る。四角の木製の枠に榊や樫の小枝などを取付けただけの古風なもので中に神社の御本体を納める。神社でふせぎの祈禱を行なったあと、芳地戸の全部の家を廻る。村廻りの行列の先頭は太鼓である。「ヨーイド・マーダー」とはやし、「ドコデン・カッカ」と太鼓を打ちながら進む。次にみこし。昭和四十二~三年ぐらいまでは、一家の中まで入って清めていたが、今は庭まで。次に村境にたてる辻札八組と尾崎神社の幟一本。それに子供達が大勢従って行く。
 又、この神社に保管されている懸仏は、神の本体という意味の御正体を仏像で現したものである。二面ある懸仏はどちらも直径十八・六センチメートルの円板状の板金でつくられ、釣手が二つある。中央に鋳造した半肉の仏像一体が取付けられており、室町時代の宗教的遺物として貴重なものである。
 昭和五十七年七月
 川越市教育委員会
                                      案内板より引用

 この「ふせぎ」は「道饗祭」とも称し、享保六年から始まった神事であるという。四角の木製枠に榊の枝を取り付けた神輿に神霊を移して担ぎ、男女の性器を模したわら細工をつるした竹の棒を先頭に、太鼓をたたきつつ、村境の八カ所にこの竹の棒を立てる行事とのことだ。
 
        境内社・祖霊社                            本 殿
                         (建て替え工事中にて遠くから撮影)
        
                綺麗に手入れされている社
 工事中のため、一部境内を散策することができなかったことは残念だったが、それ以外は気持ちよく参拝を行うことができた。改めて素晴らしい社との出会いに感謝した次第だ。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等
 

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笠幡鏡神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市笠幡282
             ・ご祭神 猿田彦命 大山祇命 菅原道真公
             
・社 格 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春祭(春祈祷) 415日 
                  秋祭(お九日) 
1015
 笠幡箱根神社から一旦南下、JR川越線の踏切を越えてすぐ右手に「川越警察署笠幡交番」がある十字路を左折する。埼玉県道15号川越日高線に合流後、暫く東行し、南小畔川に架かる田中橋を過ぎて1㎞程進んだ「霞が関小学校(東)」交差点を左折する。道なりに暫く進むと、南小畔川に架かる庚申橋が見えるので、その手前の十字路を右折して直進すると、正面やや右側に笠幡鏡神社の石製の鳥居が見えてくる。
        
                  笠幡鏡神社正面
 当社の具体的な創建時期は不明であるが、当地を開発したある村人が、一個の古びた鏡を発掘し、その裏に「猿田」の文字が読み取れたため、それを御神体として祀ったことに始まる。
『新編武蔵風土記稿 笠幡村』
 鏡宮 承應二年七月勧請の棟札あり、神職伊藤長門吉田家の配下、
『入間郡誌』
 猿田彦大神を祭る。 勧請年日不明なれど、承応二年七月造営の棟札 あり。 又延宝五年三月二日造立の棟札あり。 元禄四年八月修復の棟札ありて、当処の産土神たれば、明治五年村社に列せらる。
 古老の伝説によれば、昔土人あり土地開墾の際鏡面一を掘出したるを以て、之を見れば其裏面に金質朽ち錆びたれどもかすかに猿田の文字見えたり。 依て鏡を神宝とし、社号を鏡宮と称へしが、古鏡は承応造営の時紛失せりと。
今の社殿は慶応二年の造営にて、旧地より移せるもの也。
 
  綺麗に手入れされている参道、及び境内    境内の一角には案内板も掲示されている。
        
                                      拝 殿
      南小畔川のすぐ東側に位置している為か、石段上に社殿は鎮座している。
 鏡神社(みょうじんさま) 川越市笠幡282(笠幡字後大町)
 当社の創建は不詳であるが、かなり古くから信仰されていたことは、社蔵の承応二年の棟札により明らかである。棟札はそのほか延宝五年・元禄四年・宝永五年・宝暦八年・万延元年・明治八年のものを蔵する。古来、笠幡の伊藤家が祀職に預かり、承応の棟札にも「禰宜伊藤刑部」と見える。
 鏡神社という社名は古老の伝えに、昔土地開拓の折に鏡一面を発掘し、その鏡の裏面に「猿田」と字が彫ってあったのでこの鏡(承応のころ紛失したという)を奉斎して「鏡宮」としたという。祭神は、猿田彦命・大山祇命・菅原道真公である。
 古くは笠幡大町の神明地(現社地より五〇〇メートル南方)に鎮座していたが、明治初年に大室家の山林であった現在地を境内として移した。この理由は不明であり、旧地は現在、学校の敷地となっている。
『明細帳』には、境内神社として「神明宮祭神伊勢大御神、由緒不明」とあるが、現在はなく、本殿に合祀してしまったとも伝える。氏子は神明地にあった当時は神明様と呼んでいて、鏡宮ではなかったというが、『風土記稿』には「鏡宮」と載り、伊藤家の裁許状には「尾崎明神鏡宮両社」と記すことから社名に変遷のあったことがうかがわれる。古来当初の産土であったことから、明治五年に村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                          拝殿上部に掲げてある扁額
  拝殿は坂戸市の厚川大家神社のように、正面が見開き状態で、特徴的な構造をしている。 
        
                     本 殿
 氏子区域は笠幡の大町地区で、氏子戸数は『明細帳』によれば二四戸であるが、現在はかなり多くなった。当地は畑作を中心とする農業地帯であるが、近年、川越線の開通により、交通の便がよくなり、急速に宅地の造成が進められている。  
 鏡神社はお産の神様であるといわれ、古来この地域ではお産で亡くなった者がいないのは、鏡神社のお陰であるといわれている。昔は婦人が願を掛けるためか、中剃りの長い髪の毛が神社の拝殿に沢山結んで奉納されていたという。
        
                                 社殿からの一風景

 神社とは別に村の行事として「二百十日のお日待」を91日に行ったという。これは、回り番が事前に宿を決めて、雨風が荒れず、順調に収穫できるようにと祈願の意を込めて飲み食いする行事であり、このような行事のお触れを出すのは神社の年行事担当の役目で、日が決まると手分けをして触れ歩いたので、大変だったとの事だ。
 このように氏子の日々は鏡神社と密着した生活が延々と営まれていたのであろう



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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笠幡箱根神社

 古代より箱根山は、山岳信仰の一大霊場であり、『筥根山縁起并序(はこねさんのえんぎならびにじょ)』(1191年成立)によると、孝昭天皇の時代に聖占が駒ケ岳において神山を神体山として祀って以来、神山を遥拝できる駒ケ岳の山頂を磐境として祭祀が行われていた。因みに、地名「箱根」は古くは「函根」と記したが、同じく「箱根山」は函根山と記し、函嶺(かんれい)ともいったようだ。
 天平宝字元年(757年)朝廷の命を受けて、神仏習合の魁として活躍し、神と仏を結ぶ聖僧(しょうそう)である『万巻上人』が箱根山の山岳信仰を束ねる目的で箱根山に入山し、神山や駒ケ岳で3年間修行して、三所権現(法躰・俗躰・女躰)を感得し、夢の中の神託により、箱根権現を祀る社殿(現・箱根神社)を建立したという。神仏習合の流れの中で、箱根権現への信仰は東密の影響を大きく受け、多くの修験者が箱根山に入山して関東の修験霊場として栄え、鎌倉時代には、源頼朝の篤い崇敬を受け、鶴岡八幡宮に次いで関東武士の信仰を集め、鎌倉幕府歴代将軍による当社への参詣は幕府の恒例行事となり、当社は「関東守護」「関東鎮守」といわれ、鎌倉幕府の祈願所として尊崇された。その後、執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、武家による崇敬の篤いお社として栄えたという。
 江戸時代には、箱根の関所が置かれて東海道が整備されると、東部交通の要(道中安全の守護神)に位置する箱根権現は、庶民信仰の聖地と共に一層篤い信仰を受けるようになった。
 その後、明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、関東総鎮守箱根大権現は箱根神社へと改称され現在に至っている。
 川越市笠幡地域には、その「箱根」を冠した小さな社が静かに鎮座している。

        
             
・所在地 埼玉県川越市笠幡4431
             
・ご祭神 天津彦火火出見尊
             
・社 格 旧笠幡村倉ヶ谷戸鎮守
             
・例祭等 天王祭 715日 お日待 1014
 川越市の西側にある笠幡地域。この「笠幡」の地域名は、嘗て「陸奥国齋藤文書」に正慶二年(1333)「武蔵国高麗郡賀作波多村」と記載されていて、かなり古くからあった地名であったようだ。この地域中央部やや東側で、小畔川右岸の自然堤防上に笠幡箱根神社は静かに鎮座していて、JR川越線笠幡駅からでも北東方向で直線距離にして500m程しかない。
 駅周辺には住宅地や学校・病院等が建ち並ぶのだが、駅から北側に流れる小畔川付近は、一面長閑な田園風景が広がっていて、住宅街と昔ながらの風景が共存する地域ともいえよう。
        
                  笠幡箱根神社正面
 笠幡箱根神社の創建年代等は不詳であるが、倉ヶ谷戸地区を開拓した発知(ほっち)氏の先祖が、相模の箱根神社を勧請したと伝えられ、慶安年間(1648-1652)に再興したという。
『新編武蔵風土記稿 笠幡村』
 舊家者啓次郎 
 發智を氏とす、先祖は六郎次郎と稱して、永正の頃より代々この村の里正たり、古器舊記等も傳へしに、文化年中火災にかゝりて烏有となれり、
 高倉村高倉寺燈籠(*もとは笠幡村発知家にあったという)
「発地氏曩祖曰、植田太郎源公光・仕鎌倉右府、五世孫光規・弘安八年十一月有武功、北条貞時賞賜以信濃国佐久郡発知之郷因称発知太郎、後更発地。正安年間有故来于此地、世為里正。光規二十四世之孫為光正性直而淳朴産益優富有田畝山林三百余町、明治六年区長兼戸長。明治十一年発地庄平光正建」
        
                   境内の様子
        
                    拝殿覆屋 
 箱根神社(ごんげんどう)  川越市笠幡四四三一(笠幡字倉ヶ谷戸)
 当社の創立は口碑によると、この笠幡の倉ヶ谷戸地区を開拓したという発知氏の遠い先祖が、相模の箱根神社を勧請したと伝えている。『風土記稿』には「箱根権現」とあり、別当が修験大泉院であったことがわかる。古くから当社の通称は権現堂で更に老朽化した権現堂と箱根神社が並立していることから、一所、別個の社が混同視されていたのかもしれない。『明細帳』には「当社勧請年暦詳ナラサレドモ慶安年中頃発地庄平ノ祖先再興ナリ」と記してある。
 祭神は天津彦火火出見尊である。境内社は『明細帳』に「八坂神社 祭神素盞鳴尊、天保年中勧請明治十六年六月再興、琴平神社 大物主命、文政年中勧請明治十四年三月再建、稲荷神社 倉稲魂命、発地庄平の先祖某が祭る、蚕守神社 宇気母智命」と四社を載せるが、各社殿が老朽化したため、昭和五五年に本社を改築した際、本殿覆屋内に合祀した。同時に三峰社・御嶽社も合祀している。
 境内にある草葺きの権現堂は、倉ヶ谷戸地区の公民館が完成するまでは地区の寄り合いや祭日の直会の会場に使っていた。また、末社八坂社の神輿が安置されていた。現在は使用されることもなく朽ちるに任せてある建物であるが、明らかに堂宇であり、権現堂の通称が当社を指すのも興味深いものである。
 境内にある草葺きの権現堂は、倉ヶ谷戸地区の公民館が完成するまでは地区の寄り合いや祭日の直会の会場に使っていた。また、末社八坂社の神興が安置されていた。現在は使用されることもなく朽ちるに任せてある建物であるが、明らかに堂宇であり、権現堂の通称が当社を指すのも興味深いものである。
                                  「埼玉の神社」より引用

 嘗て境内にあったとされる権現堂は既に取り壊されていて、駐車スペースとなっているようだ。また「埼玉の神社」に載せられている別当・大泉院は『風土記稿」によると「本山修驗、郡中篠井村觀音堂配下なり、本尊不動を安ず、開山高量應安五年五月化す」と記されていて、修験道一派が開山した寺院ということから、箱根権現との関連性は十分に頷けられよう。
 
  拝殿に掲げてある「箱根神社」の扁額          本殿覆屋内に合祀されている社あり

   本殿に合祀されている社は、御嶽社・三峰社・養蚕社・八坂社・稲荷社・琴平社。
        
               境内にある「廻国供養塔」等
 供養塔の並びには、嘗て「蚕影社」が祀れれていたのだが、今はないようだ。この地域は、昭和30年代まで氏子のほとんどは養蚕に従事していて、毎年10月2日に蚕影社の祭りがあったが、養蚕農家の減少により、廃されたという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等

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北阿賀野稲荷神社

 稲荷神社  深谷市北阿賀野一(北阿賀野字西廓)
『風土記稿』によると、上野国藤岡城主蘆田右衛門大夫康真がこの辺りを領していたころに開発した地であるという。蘆田右衛門大夫は、徳川氏の入国後に当地北側に接する横瀬の地を領しているところから、当地の開発も入国後のことと考えられる。その後、正保から元禄(一六四四〜一七〇四)にかけて、北阿賀野と南阿賀野に分村したと伝えている。
 旧家の橋本正次家の伝えによれば、同家は河内国橋本庄からこの地に移り開発を行い、この時氏神として祀られたのが当社で、その後戸数が増すにつれ、村の鎮守として崇敬されるようになったという。
『風土記稿』は、地内の寺社について「稲荷社 村の鎮守なり、村持、天神社 宝暦十三年(一七六三)の建立なり、同じ持。阿弥陀堂 同じ持」と載せている。これに見える天神社(現菅原神社)は、当社の東側に隣接していた社であったが、明治四十三年に当社の境内社となった。また、阿弥陀堂は、当社北側の橋本家の墓地に移されていたが、昭和二十五年ごろに取り壊された。なお、阿弥陀堂と並んで、古くは寺院もあったと伝えるが、今はその寺名さえも忘れ去られている。あるいは、当社にかかわる寺院であったかもしれない。
「埼玉の神社」より引用
        
             
・所在地 埼玉県深谷市北阿賀野1
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧北阿賀野村鎮守 旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春祭り(天神祭) 225日 例祭 410
                  
大祓式 731日及び1230日 秋祭り 1115
 伊勢大神社から一旦東行すること850m程、埼玉県道355号中瀬普済寺線と交わる十字路を右折する。同県道に合流し、700m程南下すと、近代日本経済の父と言われた「渋沢栄一翁」の歴史的資源の複合利用等を目的として整備された「青淵公園」に達するのだが、その手前の路地を右折し600m程進むと、北阿賀野稲荷神社の参道入口が右手に見えてくる。
        
                 
北阿賀野稲荷神社正面
         
入口左側には、「可堂桃井先生碑」と表記された標柱も建っている。

『日本歴史地名大系』「北阿賀野村」の解説
 利根川右岸の自然堤防上に位置し、東は血洗島村、南は清水川を境に南阿賀野村。本庄領に所属(風土記稿)。初め阿賀野村の内で、元禄(一六八八〜一七〇四)以前に当村と南阿賀野村に分村したとされる。田園簿にみえる阿賀野村旗本稲垣・依田・室賀の三家領分がのちの当村となり、元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳に二村みえる阿賀野村のうち、依田領九三石余が当村にあたる。
『新編武蔵風土記稿 南阿賀野村』
 當村元は北阿賀野村と一村にして、後南北に分れり、されど正保の改にはなを一村にして、元祿の者には二村に見えたれば、分村の年代も推て知べし、
『新編武蔵風土記稿 北阿賀野村』
 蘆田右衛門大夫康眞此邊を領せし頃、領主へ聞え上て開發すと伝傳ふ、陸田のみの地なり、
 稻荷社 村の鎭守なり、村持、
 天神社 寶暦十三年の建立なり、同じ持、 阿彌陀堂 持同じ、
        
                
北阿賀野稲荷神社の鳥居
  この社の住所は「深谷市北阿賀野1」。この地域の中心に位置している社なのであろう。
           旧渋沢栄一邸「中の家」の近くに鎮座する神社
        
    境内に入ってすぐ左手に設置されている「稲荷神社・菅原神社(天神社)改築記念碑」
        
                    拝 殿
 稲荷神社・菅原神社(天神社)改築記念碑               
 深谷市北阿賀野一番地に鎮座する稲荷神社は倉稲魂命を御祭神と仰ぎ祀り五穀豊穣の神として先祖代々尊崇篤く現在に及んでいる。創建については風土記稿などによれば徳川氏関東に入国の頃との記述があることから四百年以上の歴史があるものと思われる。菅原神社(天神社)は宝暦十三年(一七六三)の建立と記されている。
 旧社殿内の棟木や記念誌からは御殿が明治二十六年に造営され大正十五年に改築し、その後昭和五十一年に氏子延百二十人の出役による改修事業が行われたなどの記録が残されている。
 境内には昭和二年に當地出身の偉人桃井可堂の顕彰碑が澁澤榮一翁により建立されている。社名の扁額も翁の揮毫によるものである。
 又戦争で尊い命を国家に殉じた英霊と従軍者の扁額が昭和三十九年に奉納され平和の尊さを今に伝えている。
 當神社は稲荷様として氏子に親しまれ豊作や商売繁盛・家内安全などを祈願する祭祀のみならず境内でのスポーツなど住民の交流の場として心の拠となっていた。しかし老朽化も著しく幾度となく修復も試みられてきた。
 この状況を憂い平成二十五年九月地元出身の実業家石坂好男氏により両神社の改築並びに境内の整備を寄進したい旨の申し入れがあり氏子総意の下、有難くこれを拝受し、平成二十六年六月起工・平成二十七年六月竣工の運びとなった。
 誠に氏子の喜び此の上なく尊崇篤くして地域の振興を子々孫々の繁栄を祈願してやまない。
 茲に石坂好男氏への報徳とその功績を後世に永く伝えると共に本事業の施工業者並びに協力・奉賛頂いた全ての皆様に衷心より感謝の誠を捧げてこの記念碑を建立する。
 
平成二十七年六月吉日
 北阿賀野稲荷神社宮司 宮壽照代
 同          氏子一同
                                     改築記念碑文より引用

        
               子爵澁澤榮一謹書「稲荷神社」
       社殿は新しくされたようで、天井の画も色とりどりで艶やかである。
 嘗て当社の覆屋内に設けられた棚には、おびただしい数の陶製の白狐が並べられている。これらは、当社が養蚕守護の神として信仰を集めた当時の名残であるという。
 養蚕が盛んであったのは昭和25年頃までで、毎年225日の春祭りには、養蚕倍盛を願う参詣者が多数訪れた。参詣者は、米の粉でこしらえた繭玉を供えて祈願し、神前に上げられた白狐の中から雌雄一対を借りて帰った。この白狐は自宅の神棚に1年間祀っておき、翌年の春祭りのお礼参りに「倍返し」と称して雌雄二対にして返すのが例であった。ちなみに、白狐の雌雄は髭の有無で見分ける。
 また、当社は古くから五穀豊穣の神としての信仰がある。氏子の生業が養蚕から蔬菜類の栽培に変わってきた近年は、作物の盗難を防ぐために、白狐を借りて行き、箱に納めて畑の一隅に置いておく信仰が生じている。
 
    社殿左側奥に祀られている境内社          社殿右側奥にある庚申塔等
         菅原神社(天神社)       写真にはないが、一番右側には青面金剛があり

 氏子区域の北阿賀野は、『新編武蔵風土記稿 北阿賀野村 陸田のみの地なり』に載せられているように、今でも畑作を中心とした農業地帯である。氏子数は四〇戸余りで、これを東廓・西廓・中廓の三つの郭(村組)に分けられている。
 氏子の間には、作物に関する禁忌があった。冨田家では、太平洋戦争のころまで「きゅうり」を作らなかった。その理由は、天正十二年(一五八四)の鉢形北條氏と上野国太田城主由良氏との戦いの際に、由良氏の武将であった冨田家先祖がきゅうり畑で打死したことによると伝える。今井家では、「茄子」を作らなかったが、戦後、伊勢の猿田彦神社から「お砂」を頂いて来て、神棚と氏神に供え、畑に撒いて清めて以後栽培するようになったという。
       
             鳥居のすぐ左側に聳え立つご神木 社殿手前左側にも銀杏のご神木あり

 社のすぐ近くには、「
可堂桃井先生碑」が建っている。この桃井 可堂(もものい かどう、享和388日(1803923日) - 元治元年722日(1864823日))は、日本の江戸時代末期(幕末)の志士、儒学者。通称は儀八。諱は誠。字は中道。可堂は雅号である。
        
 享和3年(1803年)、武蔵国榛沢郡北阿賀野村の百姓福本守道(宗左衛門)の次男として生まれる。隣接する血洗島村で渋沢栄一の大叔父・渋沢仁山が開いた塾で学んだ後、22歳で江戸の東条一堂の門で学び、清河八郎・那珂梧楼とともに「一堂門の三傑」と呼ばれた。のち備前庭瀬藩板倉家の儒臣として召し抱えられる。しかし水戸藩士藤田東湖らとの交流で尊王攘夷思想に共鳴し、改革派の公卿大原重徳に建白書を提出して時勢を説いた。この建白は大原の受け入れるところとならず、失望して庭瀬藩を致仕して、帰郷する。桃井は中瀬村に塾を開き、小田熊太郎や金井国之丞ら尊攘派の志士を育成した。
        
 文久3年(1863年)12月には天朝組を組織し、当時尊王派から忠臣として賞賛されていた新田義貞の子孫である岩松俊純を擁して新田氏ゆかりの者を集め、上野国沼田・赤城山で挙兵して後に横浜の外国人居留地を襲撃しようと企てた。しかし、同志の湯本多門之介や旗印となる岩松らが計画に恐れをなして江戸南町奉行所へ訴え出たために計画が露見。桃井は1215日、川越藩に自首した。江戸に護送され、麻布の福江藩邸預けとなり、幽囚されたが、自ら絶食して死去した。享年62。法名は道義院猛雲至誠居士。墓所は東京都文京区本駒込の吉祥寺にある。1912年(大正元年)1119日、贈正五位。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「
埼玉県HP」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」「記念碑文」等
 

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