古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

山崎天神社


          
                                             ・所在地 埼玉県深谷市山崎134            
                  
・ご祭神 菅原道真(推定)
                  
・社 格 旧村社
                  
・例 祭 不明 
 山崎天神社が鎮座する「山崎」という地名。地域名より発祥した在名であり、この地域に土着した山崎氏が存在した。この一族は、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団で武蔵七党の一つ、小野篁の末裔を称す横山党と同族である猪俣党の一派で、榛沢郡山崎村から出た一族であると云い、『新編武蔵風土記稿』にも以下の記述がある。
・新編武蔵風土記稿山崎村条
「按に当国七党(武蔵七党)内猪俣党に、山崎国氏・同三郎光氏といえるものあり。殊に隣村桜澤に三郎光氏を祭りしと云う八幡社もあれば、是等当所に住し、在名をもて名とせしなるべし」
・同桜沢村条
「山崎八幡あり。或説に猪俣党山崎三郎左衛門尉小野光氏の霊を祀れり、由って此の神号ありと云ふ、近郷山崎村は此光氏の旧蹟にや、福泉寺の持」

 その他にも小野氏系図には「藤田好兼―山崎五郎左衛門国氏―三郎光氏―小三郎行氏」。上尾市の山崎達郎家系図に「山崎五左衛門国氏―三郎光氏―小三郎行氏―宗左衛門貞氏―五左衛門氏兼―四郎太夫氏長―五太夫氏清―刑部丞氏弘―掃部勝氏―三郎太夫氏忠―内蔵允頼忠(相州に赴き北条氏綱に仕へ戦功多し)―氏頼―氏行―氏光(北条氏に仕へ、天正十八年小田原落城の後、松平上総介忠輝に仕へ采地五百石を賜る)―友氏(上州前橋の酒井忠清に仕ふ)―友重(酒井氏に仕ふ)、弟友之(植村土佐守忠朝に仕ふ)―友寛(松平元重に仕へ、長州萩に移る)」と見える。
          
                                 山崎天神社正面
 山崎天神社は榛沢新田二柱神社北側に接する東西に伸びた道路を西行する。その後突き当たりを左折し、畑の中の道を暫く南下する。藤冶川を渡り、上越新幹線の高架の下を通り山崎の交差点の信号を右折すると手前左側方向に社は鎮座している。

「新編武蔵風土記稿」山崎村の項には「天神社 村の鎮守なり、熊野稲荷を合祀す、地蔵院の持 下六社 持同じ 熊野社 大神宮 雷電社 山神社 諏訪社 辨天社」と記述されていて、その後明治40年代に村内の神社を天神社に合祀したという。
         
             参道途中、左側には梅の木々が実をつけていた。
             さすが天神社の面目躍如ということであろうか。
 
  社の参道東側に隣接する真言宗智山派天神山薬王寺地蔵院(写真左)。そして地蔵院の脇には「天神山薬王寺地蔵院緣起」という境内碑(同右)がある。

 天神山薬王寺地蔵院緣起
 当天神山薬王寺地蔵院は真言宗智山派に属す 本庄栗崎の宥勝寺を本寺とし 本尊は薬師瑠璃光如来なり 当山は基を遠く慶安年間に権大僧都盛傳和尚の開山とされ 永きに渡り当地を見守り 無量の利益を施し給う 当山旧本堂は大正十四年第十四世秀慧和尚により建立せられしより以来た風雨に耐え今日に至ると雖も如何せん 腐朽甚しく荘厳消磨し 遂に手を加うるの術無きに至る また本尊薬師瑠璃光如来 地蔵観音両菩薩 並びに両祖大師の尊像も 幾多の星霜を経て破損に及ぶ 小衲本より浅学菲才の身なれば師跡を継承すれども朽ちた堂宇を再建する才あらず 日々の檀務に明け暮れ想い起こししは 今は亡き先々代英覚和上の堂宇再建の悲願なれども 住職拝命よりこのかた空しく時を過ごせり(中略)地元の善男善女の信援 更には有縁無縁法界万霊の冥助の賜なり ここに縁起を誌し この法縁に深甚なる感謝の念を捧げ 本尊聖者の威光倍増を願い 両祖大師並びに当山祖師先徳の恩顧に報いむ 願わくは当山を篤き信仰の場として子々孫々護持されんことを 重ねて乞う 国家安穩 萬民豊楽 興隆佛法 寺門隆昌 伽藍安穏 檀信健勝 二世安楽 乃至法界 平等利益(以下略)
                                      境内碑より引用
             
 参道の途中に聳え立つ巨木(写真左・右)。紙垂等はないし、ご神木ではないようだが、参道両側にある樹木の中でも幹は太く、雄々しいその姿に感動し、思わず写真を撮ってしまった。
        
       山崎天神社の参道は右方向・Ⅼ字に曲がり、すぐ先に社号標柱や鳥居がある。
              時々社に見かける配置構造だ。
 ところで参道が北方向で途中右に90度曲がるという箏は、この社は西向きの社という箏になる。         一説では西方向の延長線上には太宰府天満宮が鎮座する場ともいう。
           
                        拝 殿
  創建時期等を記した案内板はなく、帰宅後の編集でも参考資料がほぼ見当たらなかった。
                      
                              拝殿手前、左側にある社日神
 社日神の基礎部分はコンクリート製であるが、この基礎部分はかなり高さがあり、また入り口にあった灯篭2基の基礎部分もかなりの高さであった。思うに山崎天神社の鎮座場所は、志戸川とその支流である藤治川の合流地点から南側で、それ程遠くない場所であるため、河川氾濫対策として、このように基礎部分を補強し、ある程度の高さに積み上げているのではないだろうか。あくまで筆者の勝手な推測ではあるが。
                  
                  社殿左側にある富士塚
 塚の頂には仙元大日神があり、左側には青面金剛の石碑、右側には詳細不明な2基の石祠が両脇を固める。
        
                             社殿奥、左側に鎮座する境内社群
 
 境内社は天神社の拝殿の左後ろにあり、合殿で左から、天照皇大神、稲荷神社、諏訪神社、三社権現神社が祀られている。
        
                                 社殿から鳥居方向を撮影

 嘗て山崎天神社の隣の旧名主の新井家は、代々寺小屋の塾を開き、村内また隣村の児童を教育したという。
榛沢郡の新井氏は「和名抄」に「榛沢郡新居郷」と記載があり、新井は新居、荒井とも書く。嘗て此の氏は埼玉県第一位の大姓であり、関東地方北部特有の名字で、埼玉県北部から群馬県東部、栃木県西部に多いとされている苗字で、新井姓の約半分は埼玉と群馬にみられる。
出自も多くあり、
・武蔵七党、丹党榛沢氏、横山党・猪俣氏、児玉党からの系統
清和源氏・新田氏流、武田氏流、足利支族・一色氏流からの系統
その他(桓武平氏畠山氏流、藤原秀郷流、高麗氏族等)
に大きく分かれている。

 その中の清和源氏新田氏流新井氏は、同郡人見村に移住して深谷上杉氏の支族に仕え、後に深谷領東方藩松平康長に仕えたという。
新井氏系図
「新井兵庫義豊は、永享十年将軍義教公より御教書を贈る、上杉憲実に持氏追討すべきの由なり。三浦介時高・今川上総介・小笠原政康ら、鎌倉に発向す、この時の旗頭にて、進んで先鋒討死す。翌十一年、上杉家に小次郎を召され、思し食に感じて、黄金十枚を贈る、法名寛恭了得大禅定門。のち小田原北条家滅亡の後、小笠原家に所縁ある故に扶助を賜ひ、年老の後、榛沢郡藤田郷萱刈庄山崎村に蟄居す」
大里郡神社誌
「山崎村天神社に隣接せる旧名主新井茂重郎の家は、正保以前より地頭加藤牛之助の地行所にして、其の子孫亀之助及び音三郎等、代々寺小屋を開く」
        
                   山崎地域の田園風景

 余談となるが、江戸中期の学者、詩人、政治家である新井白石は、榛沢郡の新井氏と同じ清和源氏・新田氏流の末裔であったようだ。
・新田族譜
「新田義房―覚義(上野国新田郡新井村に住し、新井禅師と称す)―朝兼―義真(応永二十三年討死)―義基(二郎、仕小山下野守)―武義(次郎兵衛尉、住武州、仕人見屋形上杉六郎憲武)―勝広(刑部丞、仕上杉左衛門太夫憲晴)―広恒(刑部、去山善休)―広成(刑部、天文十年生、万治三年十二月死、百二歳)―半無生(住上州厩橋)、弟広道(新井勘解由、赴常陸多賀谷家)、其の弟広方(刑部、十左衛門、仕真田家)、其の弟某(次郎兵衛、仕松平丹波守康長)―某金兵衛―某金兵衛、兄某次郎兵衛」
同家譜には新井勘解由広道―余四正済―君美(白石)との記載あり。

 不思議な縁で、山崎天神社の考察から、江戸時代
中期の学者、詩人、政治家である新井白石との関わりまで話が発展してしまった。まあ筆者としては、これ位の脱線は許容範囲だし、これだからこそ神社参拝やその土地の歴史考察は面白いわけなのだが。
 

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沓掛熊野大神社

 神社の社殿へと導く道筋を「参道」と言い、これは「参詣するための道」という意味である。神社の参道で参拝する際のルールは、鳥居まで来たらくぐる前に一礼し、参道の真ん中を避けて左端を歩くとされている。参道の真ん中を正中と呼び、神様が通る道とされているためだ。鳥居をくぐって本殿へ続く正面の道を「表参道」と呼び、脇道のことを「裏参道」と呼ぶ。
 参道の役割として、まず石畳や鳥居、並木などの目印によって参拝者を誘導する役割がある。一般の方々が移動しやすいように通路を整えることによって参道は生まれ、大きな社の参道であれば商店街が形成されていることも多い。
 また参道は我々が一般的な生活を営む「俗界」と「神聖な場」とを繋ぐ一種の移行空間であり、参道には道程の中で参拝者の信仰心を上がらせる役割もある。2つの世界との境界は鳥居が存在する。一歩ずつ進む毎に「聖なる世界」へ入ったという心持ちに誘うところに参道の参道たる意義があるのではなかろうか。
 沓掛熊野大神社の長い参道を進みながら、ふと参道の意義について考えさせられた次第だ。
         
              ・所在地 埼玉県深谷市沓掛303-1
              ・ご祭神 伊弉諾命、伊弉冉命、速国男命、事別男命
              ・社 格 旧村命
              ・例 祭 不明
 深谷市沓掛地区は、榛沢新田地区の丁度北側に位置し、東西1㎞程、南北も長くて700m程で横長の長方形で形成されたコンパクトに纏まった地区である。地形を見ると、沓掛地区は東側・針ヶ谷排水路の西側で56m程の標高で、西側に行くにしたがって50mを切るところもあり、東側から西側に向かうほどなだらかに標高は低くなる。民家等は地区の南北を走る通称「西田通り」南部周辺に集中し、北に向かうほど緑豊かな農村地区が広がる地域である。
 沓掛地区中央部に鎮座する熊野大神社の標高は丁度
50mのライン上にあり、そこから北、西部はなだらかに低くなる。
 沓掛熊野大神社はその地区中央部に堂々と鎮座している。
         
                                沓掛熊野大神社正面
「沓掛」という地名は太田道灌書状に「文明十二年正月十三日、沓懸に相進む」と見え、『新編武蔵風土記稿』でも「郡中小前田新田の民、兵五郎が蔵する北條氏邦より出せし○荷の文書中に、深谷御領分榛澤沓掛云々と見えたれば…」と記載されていることからも、かなり古い時代からあった地名のようだ。
 
       鳥居の左側にある庚申塔群       鳥居を過ぎて左側にある「土地改良之碑」    
 地域の方々の信仰の深さを感じる歴史の遺物だ。 この地の利便の悪さをこの碑は語っている。
              100m程の南北に長い参道(写真左・右)
          
 鳥居を過ぎて、参道を進むと左側に石祠が見える(写真左)。立派なコンクリート製の基礎台上に石祠が鎮座しているが、残念ながら何も説明書等ないため、詳細不明。また石祠の右側には「沓掛道路建設記念之碑」の石碑(同右)が立っている。この石碑は昭和39年5月15日に建立され、道路総延長1,070m、巾5m、及び橋梁1カ所行ったことが刻まれている。
                         
 参道の周囲は杉林に覆われる場所もあり、日が当たらない為なのか、苔生す所もあり、それが却って神妙な気持ちにさせてくれる。参道を含む広い境内は、清掃も行き届いていて地域の方々の日頃の信仰心,及び地域福祉における共助の精神には頭が下がる。
        
                「沓掛熊野大神社再建記念碑」
 沓掛熊野大神社再建記念碑 碑文
 幾星霜を地域住民の心の支柱として此処に崇められて来たる熊野大神社は、伊弉諾命、伊弉冉命、速国男命、事別男命の四柱を祭神として祀られてある由、新編武蔵風土記稿に記述されてある。
 遥か上代には現妙権寺の寺領として維持管理されていたが、その後、明治五年(一八七二)の神仏分離令に依り、同寺領を離れ、沓掛の鎮守氏神として崇拝され、往時の先人達が四季折々の祭事を司って来た。其の祭りを通し集落社会の連帯感を深め、一つの精神文化を築いて来たのである。
 時は明治八年(一八七五)二月、志戸川のほとりの車屋より発生した火災の類焼を被り、神殿、拝殿悉く消失し、更に妙権寺の本堂、庫裡をも延焼し、他に民家二戸を焼き尽くした。当時、沓掛の大火と言われた痛ましき歴史を此処に残したのである。
其の後、明治中期に先代氏子中の努力により再建復興された社殿も、悠久百有余年の歳月と風雪に耐えて来たりしが、其の老朽化著しく、今や倒壊寸前の様相であった。斯かる姿を前にして敬神崇祖の念に燃え、沓掛氏子中此処に神殿建設の積立基金を成して来た。
 此れと共に当熊野神社保有せる基本財産等を併せ、総工費金阡参百有余万円を投じ、此処に社殿再建建設委員会を設立発足させた次第である。
 建設に当りては其の技術卓越した名工と言われる、深谷市吉田建設有限会社と、全ての建築契約を取り交わし、当年三月に着工した。
 工事進行と共に、氏子の皆様には神域の環境整備その他に御協力頂き、建設委員より厚く御礼申し上げます。其れと相俟って、当社宮崎神官に依る本殿遷座式の儀式も恭しく執り行なわれ、沓掛氏子中永年の夢であった熊野大神社社殿の落成竣工が此処に成りたる事を区民挙げてお慶び申し上げる次第です。此れからも氏子中の前途に穏やかな至福あらん事を願うと共に、郷土沓掛の永久の繁栄を祈念し、此処にこの碑を建立する次第である。
 平成十五年十月吉日  熊野大神社  氏子一同撰文
                                     記念碑文より引用

 ほとんどの社には石碑として碑文が残されている。碑文にはその地域の歴史や、風土・環境状況等が古来の文法で書き締めされている場合が多いが、石碑という限られた字数の中で端的且つ正確に書かれていて、内容も素晴らしい。この碑文は古典文法と現代文法が入り混じっているが、現在の我々にも分かりやすいように記載されている。筆者にはこのような文章作成能力は持ち合わせていないが、日々自己研鑽を積み重ね、このような文書を作成でき得る能力を持ち合わせたいものだ。
       
                               境内に聳え立つ御神木
        
                     拝 殿
 社殿は新しくコンパクトに纏まっている。思った以上に広い境内に比べればアンバランスな感覚にもなるが、正面から見た時、拝殿の屋根の奥に本殿の千木が姿を覗かせて,威厳があり洒落た雰囲気を醸し出している。
         
               拝殿手前で左側に鎮座する石祠群
 石祠のコンクリート製台座には、祀っている社名が彫られているが、解析不明な物も多く、じっと集中して確認したが、左から「南閣神社?」「稲○○○」「○○神社」「(不明)」「(不明)」「天○○○」「蚕影神社」しか解析できなかった。
 一番左側の「南閣神社」とは何神社なのか不明。その隣は「稲」しか判明できなかったが、恐らくこれは「稲荷神社」であろう。右奥にある「蚕影神社」以外の4基の石祠は詳細不明。
 
    社殿左奥に転座する権現在弁天の石祠      社殿右奥に鎮座する石祠3基。詳細不明。

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榛沢新田二柱大神社

         
                     ・所在地 埼玉県深谷市榛沢新田975
               ・ご祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命
               
・社 格 旧村社
               
・例 祭 蚕影山神社祭 4月11日
 榛沢新田地区は岡部駅から西側に位置し、東西約1.4㎞、南北約1.5㎞のやや歪な四角形で形成されている。正確にいうと、東側・南側には若干の飛び地も存在するが、ここではあえて論じない。地区の西、南側はそれぞれ志戸川や藤治川が隣接地区との境をなしていて、東側は針ヶ谷排水路付近周辺が、北側は埼玉県道86号花園本庄線と高崎線の中間地点までの場所に、東西に延びる県道に沿って北にある沓掛地区と接している。地形的にみると、地区全体御稜威ケ原台地面で、標高は約50mから59m程、東側から西側に向かうほどなだらかに標高は低くなる。緑豊かな農村地区という印象だ。
 榛沢新田二柱大神社は地区の中央付近を東西に進む「コスモス街道」と、埼玉県道86号花園本庄線が交わる交差点を右折し、350m程北上した十字路を左折する。やや道幅が狭い道路で、民家もそれなりに存在するので、出会いがしらの事故等には注意しながら、道なりにやはり350m程真っ直ぐ直進すると、正面に榛沢新田二柱大神社の社叢が見えてくる。
 因みに東側に鎮座する後榛沢地区の後榛沢八幡大神とは1㎞程しか離れていない場所に榛沢新田二柱大神社は鎮座している。
           
                  榛沢新田二柱大神社正面
                       「二柱」と書いて「ふたはしら」と読む。
         
                鳥居を過ぎてすぐ左側にある案内板
 二柱大神社由緒
 新編武蔵風土記稿に「聖天社・村の鎮守なり、慶長十年勧請す云々…」とある。今から(平成元年)三百六十八年前のことである。旧神社名は「聖天宮」と云った。明治元年の「神仏分離復飾の令」により社名を「二柱大神社」と改称す。
 祭神は「伊邪那岐命」男「伊邪那美命」女の二柱の神を祀る。
 この神は誘い合われる男女の祖神を意味する。この二柱の神は結合と協力及び和の大道を教えている。そして万物を生成化育する神である。よって昔古より五穀豊穣・家内安全の守護神として氏子の崇敬が篤かった。
 明治二十九年一月四日の火災により、本殿・拝殿・幣殿等の建物を全部焼失した。現在の拝殿は明治二十九年三月十七日再建す。本殿は明治四十年三月三十一日再建す。
 右拝殿及び幣殿の屋根朽敗甚だしく、氏子相謀り一致協力して浄財を募り、平成元年十月十七日営繕修復を成し、御神威、御神徳を宣揚して氏子の弥栄を祈念する。
 平成元年十月十七日   二柱大神社 社務所
                                      案内板より引用

         
                  参道正面に拝殿が見える。
      境内は広いが、きれいに整備されていて、静寂の中参拝も気持ちよく行えた。
     慶長11年(1606年)創建。現在は伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱を祀っている。
 
         
            拝殿・幣殿・本殿の権現様式で、朱塗りの本殿は美しい。
                       また本殿を囲む朱塗りの塀も奇麗である。

「新編武蔵風土記稿」榛沢新田村の項には
「聖天社 村の鎮守なり、 慶長十一年の勧請にして本地十一面観音を安す 永楽寺の持、神明社 熊野社 稲荷社 村民の持」と記述されている。
 明治七年、聖天社を二柱大神社と社名変更し、また明治四十年に村内の神社を合祀したという。
                 
                   境内社 大神宮
          拝殿左側奥にひっそりと鎮座している。境内社にしてはなかなか重厚な造り。
 
 拝殿の右側後ろにある境内社、合祀社。合祀社(写真左)には名札が付いていて、左から八王子神社、熊野神社、稲荷神社、明見山・琴平神社、天満宮が祀られている。また合祀社の右側には、天手長男神社、蚕影山神社が祀られている。

 「埼玉の神社」では、年間の祭典で、蚕影山神社祭(411日)がある。蚕影山神社は養蚕の神として信仰が厚く、その蚕影山神社祭では、近隣の村からも多くの人が参詣に訪れ、祭典に供えられた繭玉を撤下品としていただいて帰るのが例であったという。
          

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後榛沢八幡大神社

 榛沢六郎成清は鎌倉時代初期の武蔵武士。畠山重忠の郎党である
 榛沢氏は、武蔵七党のひとつ丹党の新里成房が榛沢に住み「榛沢」を名乗ったのが始まりで、『源平盛衰記』に成清の母は、畠山重忠の乳母で重忠と成清は乳兄弟の関係にあたる。
 鎌倉期の乳兄弟は肉親の兄弟よりもつながりが深いといわれており、成清は幼少の頃より、重忠の補佐役として仕えた。はじめ重忠は、平氏に味方し、頼朝を討つため三浦氏と戦い、頼朝再起の後には頼朝に従う。以後、重忠は頼朝の先陣をつとめたが、成清は、いつも重忠に従い、木曽義仲との戦い、源平の戦い、陸奥の役でおおいに活躍した。頼朝の信頼も厚く、成清に対し"汝をもって亜父となす"といったという。畠山重忠も深く信頼し、たびたび榛沢の館を訪れた。帰途、荒川の洪水のため、川が渡れない時、うぐいすの鳴き声で渡ったと伝えられており、荒川の岸辺には、うぐいすの瀬の碑が建っている。また成清は神仏に対しての信仰が深く、当時、疫病に苦しむ人々を救うために、大寄八幡大神社、後榛沢の八幡大神社、東光寺を開いたと伝えられている。元久二(1205)年、重忠は、北条氏の策略により、二俣川において三万騎の大軍にとりかこまれた。その時、重忠の手勢は、わずか一三〇騎で、その中に成清も加わっており、おおいに奮戦したが、力つき重忠と共に討死した。成清は重忠に菅谷館にもどって陣をたて直すことを進言したという話が残っている。供養塔は後榛沢地区にある旧蔵屋敷の一角にあった成清塚に隣接して、享保八年(1723)に建立されたという。
               「深谷市HP ふかやデジタルミュージアム」「Wikipedia」より引用

        
                ・所在地 埼玉県深谷市後榛沢851
                ・ご祭神 品陀和氣命(推定)
                ・社 格 旧村社
                ・例 祭 不明
 後榛沢八幡大神社は旧岡部町・コスモス街道と埼玉県道86号花園本庄線が交わる交差点から西方向に1.5㎞程進むとこんもりとした社叢が見え、緑豊かな農村地域が広がる後榛沢地区の、民家が立ち並ぶ中央部からやや北東部に外れた一角に鎮座している。
 すぐ東には志戸川が南西から北東方向に緩やかな蛇行を適度に繰り返しながら流れていて、南側には上越新幹線の高架橋が見える。社の周辺は、北・西側が標高
54m程に対して、東・南部が52m程で若干低いので、低い側に対して盛り土をして平坦としているような形となっていて、丁度その側からは高台のように見える。因みに「後榛沢」は「うしろはんざわ」と読む。
              
             社の北側で、道路沿いにある社号標柱 
 社号標柱は北側の道路沿いにあるが、そこから社殿方向に参道を進むには一旦南方向に進み、突き当たりを左に折れ、そこからまた直進し、鳥居がある所まで進み、北側に鎮座する社殿を目指す、丁度「コの字」のような形となっている。
 後日地図確認すると、社境内が参道を含め
50m程の正方形で形成されているので、このような配置となってしまったのではないかと考える。後榛沢八幡大神社に限らず、このような参道が直角に折れる配置構造の社は意外と多く存在するので、何も珍しいものではない。
 
  社号標柱から参道は一旦南方向に進む。   境内に入るとすぐ右手側に八坂神社が鎮座
       
            参道突き当たり地点に聳え立つご神木らしい巨木
         
       左に曲がった参道を進むと、               鳥居右側には六基の石祠が鎮座。
   正面左手に鳥居や社殿等が見える。            詳細は不明。

 最近まで、神楽殿やその近くにあった鳥居が存在していたが、今回参拝時にはそれらは撤去された後の事であった。少し残念な気持ちである。
        
                          南側にある鳥居。
          この鳥居の南側は堀のような低い断面が東西に広がる。
        
                                         拝 殿
 榛沢(半沢)は律令時代に令制国の一つである武蔵国内22郡の一つ「榛沢郡」と記録のある由緒ある地名で、榛沢郡の拠所となったのがこの榛沢郷である。その郷名は榛の木の繁茂する里から由来していると云い、また半沢という名前の由来は、平中興 桓武平氏高棟流、右大弁・平季長の長男の子孫であるという説、平将門の娘の春姫の子孫が平将門の死後、将門を祖とする平氏平家の再興を願って、平将門の平を苗字に残そうとしたため半沢の半という漢字が使われたという説もある。『新編武蔵風土記稿』によると、元々榛沢村は、後榛沢村や榛沢新田を包括した広い地域で一村を成し、村単位より大きい地域を表す「榛沢郷」として記載されていたが、何時の頃か3村に分割され、榛沢村は、「大寄郷藤田庄」に属するようになったという。
 
 社殿の右側にある石で囲まれた空池の中に鎮座する石祠(写真左)。石の切り口等からそれ程昔からあるものではない雰囲気を感じる。石祠も恐らく弁財天あたりと推測。空池も時期的に水がないのかも不明。また社殿左側には六基の石祠があるが(同右)、こちらもどの神様が祀られているのかが、どの文献・HPみても判明しなかった。

 残念なことに、これほどの規模の社に関しての説明書・案内板・石碑等が全くなく、文献資料・HP等もないため、境内の石祠等の由緒を書きこむことができなかった。
 
 六基の石祠の奥には様々な石碑・石祠がある。おそらく一カ所に纏めたものであろう。仙元大日神、その周辺に小御嶽石尊大権現と食行身禄霊神等の石碑(写真左)があり、「登山記念碑」「八幡大神社拝殿改修記念碑」を挟んで、右側に倉稲魂命の石碑(同右)がある。


 旧岡部町・榛沢という地名は、和名抄に榛沢郡榛沢郷を載せ、「波牟佐波」と註しているが、元を辿れば武蔵七党・丹党出身の榛沢氏より起こっているといわれている。丹武経の曾孫秩父基房の三男、成房が榛沢の土地(武蔵国榛沢郡(現在の埼玉県深谷市榛沢))を受け渡され、領有したため、分流し、榛沢(半沢)氏と名乗った。
 武蔵七党系図には「秩父黒丹五基房―榛沢三郎成房―六郎成清(重忠に属し元久二年六月誅せらる。弟に小太郎、四郎)―平六郎成長―七郎―三郎」。安保氏系図には「秩父黒丹五元房―榛沢三郎光経」。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)には「榛沢。丹治、本国武蔵」と見える。保元物語に「義朝に相随う手勢の者共は、武蔵国には榛沢六郎成清」。源平盛衰記に「畠山が乳人に半沢六郎成清」との記載がある。
        
                               拝殿方向から境内を望む。
   
 榛沢六郎成清は弓馬の技術に優れ知略に富んだ武将であったが、同時に神仏に対しての信仰が深く、当時、疫病に苦しむ人々を救うために、郡内の大寄八幡大神社、後榛沢の八幡大神社、東光寺造営を行う等、土木技術にも優れた才能を発揮したようだ。

 吾妻鑑文治五年八月条に「頼朝の陸奥国阿津賀志山(福島県国見町)の藤原泰衡攻めに、榛沢六郎成清の智謀によって、畠山重忠は連れて来た人夫八十人を使って、用意の鋤鍬で土石を運ばせ、一夜にして掘を埋め、突撃路を造った」とある。この戦場での活動は、平時においての土木技術に通じる所でもあり、成清のみならず、畠山一党がこのような戦時における「工兵部隊」を奥州の戦いだけでなく、常時温存し、適時活用していたことがわかる記述ではなかろうか。丹党は製鉄製錬や土木技術にたけていた集団であり、榛沢氏が率いていたともいえよう。
 その榛沢氏の潜在的な実力を源頼朝は知っていたのであろうし、
成清に対し"汝をもって亜父となす"と言った賛美の言葉の中に見え隠れする『深い策謀』を感じざるを得ない。

 

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武蔵野十二社神社

 天神七代とは、神世(かみよ)七代とも云い、日本神話において、天地開闢のとき生成した七柱の神。また、その時代をいう。「古事記」並びに「日本書紀」で神々の名称が若干違う。古事記では、別天津神の次に現れた十二柱七代の神を神世七代としていて、最初の二代は一柱で一代、その後は二柱で一代と数えて七代としている。『日本書紀』の本書では、天地開闢の最初に現れた十一柱七代の神を神世七代としている。
 地神五代(ちじんごだい)とは、日本神話において、天照大神・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・火折尊・鸕鶿草葺不合尊の5柱の神々およびそれらの神々の時代(『日本書紀』神代下に相当)のこと。天神七代と初代天皇である神武との間に位置する神々と言える。
 因みに
「地神」とは地の神のことで、天の神を意味する「天神」と対称をなす語である。
        
            ・所在地 埼玉県深谷市武蔵野277‐3
            
・ご祭神 国常立尊・豊雲野尊・宇比地邇尊・須比智邇尊・角杙神
                 活杙神・意富斗能地神・大斗乃弁神・淤母陀琉神
                 阿夜訶志古泥神・伊邪那岐神・伊邪那美神
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 不明
 旧花園町・武蔵野地区に鎮座する武蔵野十二社神社は途中までの進行ルートは桜沢八幡大神社を参照。八幡大神社から国道254号線を美里町方向に1.3㎞程北上し、「鐘撞堂山 ふるさとの森」の看板がある信号のある交差点の手前のT字路を左折する。道幅の狭い道路になる為、対向車量には注意しながら進むと、正面に小高い森が広がり、武蔵野十二社神社の社号標柱も見えてくる。
 この武蔵野地区は東西に5㎞程、南北は1.5㎞程の横に細長く伸びている地区で構成され、またその西側は、丁度槍の先端部分のような形をしていて、西端には鐘撞堂山が尾根伝いに聳え立っている。結果的に武蔵野地区が寄居町・用土地区を飛び地のように分断した張本人ともいえなくもない。行政手続きの上の手違い等によるもので、決してこの武蔵野地区が悪いわけではないが、地理上、このような説明が出来てしまうような形になってしまったことは、少し可哀想な気もする。
        
                        なだらかな斜面上に鎮座する武蔵野十二社神社
 
 国道254号線沿いは民家等立ち並んでいるが、社に通じる道は道路幅も細く、あまり住宅等も多くない。また社自体も国道から離れている斜面上にある為、あまり目立たない。ひっそりと慎ましく佇んでいる印象。
        
                            武蔵野十二社神社 正面鳥居
 武蔵野十二社神社は近隣の足高大神社、武蔵野八幡神社と共に「武蔵野三社」とも呼ばれている。
        
                                       拝 殿
 十二社神社 深谷市武蔵野二七七-三(武蔵野字宮地)
 御祭神について 天神七代地神五代の十二代の神霊を併せて祀ることから「十二社神社」と呼ばれています。天神七代とは、国常立尊(くにとこたちのみこと)・豊雲野尊(とよくむぬのみこと)・宇比地邇尊(ういじにのみこと)・須比智邇尊(すいじにのみこと)・角杙神(つぬくいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)・意富斗能地神(おおとのじのかみ)・大斗乃辨神(おおとのべのかみ)・淤母陀流神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこぬのかみ)・伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)です。ただし、宇比地邇尊(ういじにのみこと)以下は男女二柱を一代として数えます。いずれも、天地開闢神話に現れる始原の神々で、地神五代の前に日本を治めたという天津神です。 また地神五代とは、天照大神(あまてらすおおみかみ)・正勝吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)・天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)・彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)で神武天皇以前の皇統の祖神とされています。
 起源と再興について 伝説によれば、東征の折にこの地を通りかかった日本武尊がちょうど新年を迎えることとなり、しばらく滞在し兵馬や食糧の無事を祈願する為に天地十二神を祀り、士気を鼓舞したことが始まりとされています。当初は、西部の山地権現平に社がありましたが、江戸中期天明三年の暴風雨による洪水で崩壊し、御神体だけが宮地に漂着したことにより、そこに新たな社を設けて祀ることとなりました。 明治後期に政府の合祀政策により一度、中郷の八幡神社に合祀され「武蔵野神社」と改称しました。戦後、村に鎮守を取り戻そうという氏子の願い出により、昭和二十八年四月に、新たに境内を設けて武蔵野神社から神霊を分祀し、十二社神社は再興されたという経緯があります。 節分祭追儺式 節分とは、「季節を分ける」ことを意味しています。本来は、春夏秋冬の各季節の境目を指していましたが、今日では、立春の前日、冬と春を分ける時期に行われる行事として定着しました。 日本では、一月を「睦月(むつき)」とも呼んでいます。今では太陽暦(新暦)の一月のことを言っていますが、元々は旧暦の一月(現在の一月下旬~三月上旬頃)の名前です。 この時期は、冬から春へと季節が変る時期にあたり、陰と陽が「交わる(睦みあう)」ことで邪気が発生すると考えられてきました。その邪気をはらうために始まったのが、追儺式(ついなしき)、いわゆる鬼やらいの行事です。 十二社神社では、桃もしくは梅の木を使って弓矢を作り、恵方に矢を射った後に豆まきを行なっています。
                                   「埼玉の神社」を引用

 
      拝殿に掲げてある扁額            神社遷宮碑
 神社遷宮碑は昭和28年に武蔵野神社(現、八幡神社)から分祀してこの地に遷ったとの事。
 
 社殿右奥には合祀社が鎮座(写真左)し、左から諏訪大神・稲荷大神・大荒神・八坂大神・天手長男命・八幡大神が祀られている。また合祀社の手前には、石碑(同右)があり、宇賀神・大国主神が祀られている。
        

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