古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

高畑鷲宮神社

  當社(高畑鷲宮神社)の創建年代は不詳。武蔵国埼玉郡鷲宮村鷲宮神社の御分配といい、鷲宮は土師宮の転語で、土師部に属する一族はその由来は全社共通の伝えでもあるという。この地域には古墳時代後期の集落跡が確認されているのも、土師に関係している地域だからであろうか。
 またこの地は元藤田の庄に属し、岡部郷の地頭である岡部六彌太忠澄の領地が高畑地域もあり、鬼門よけの祈願所として創建したという。
 社及びご祭神に関係ある地名も「鷲宮・岡部田・手洗橋・船橋・鳥居畑・御供田・燈籠面」等あり、「鷲宮」は神域周辺の地名で、「岡部田・御供田」は岡部六彌太忠澄の遺名であったという。鷲宮神社の氏子等らは、古来から「鶏」を食べず、愛護する信仰があり、他町村に嫁ぐ女子までもが、この信仰を頑なに守ったという。また鎮守の忌み嫌うとして、お茶やきびを耕作しなかったという。       
                      
              ・所在地 埼玉県深谷市高畑1
              ・ご祭神 武夷鳥命 天穗日命 日本武尊
              ・社 格 旧高畑村鎮守 旧村社
              ・例祭等 例祭 411日 初酉祭 11月上酉の日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.218886,139.2827665,17z?hl=ja&entry=ttu
 高畑
鷲宮神社は国道17号バイパスを本庄方面に向かい、「深谷警察署前」交差点で右折。次の「高畑」交差点を左折すると、すぐ右側に「円能寺」が見えてくるので、お寺の駐車場手前の細い十字路を右折して道なりに真っ直ぐ進むと、正面に高畑鷲宮神社の鳥居が見えてくる。この社の住所は高畑1。いわばこの地区の中心地に位置する社ともいえる。
 一の鳥居の先は参道となるわけだが、世界かんがい施設遺産として登録された「備前渠用水路」が東西に流れていて、このかんがい施設に架かる「宮橋」と呼ばれる神橋を渡って境内に入る。駐車スペースはその境内に入り、社務所周辺に数台停めることができる場所があるが、そこは神様の神聖なる場所でもあり、慮って一の鳥居前の路肩に駐車して参拝を行った。
 因みに筆者の一族が眠る菩提寺はこの円能寺で、筆者自身その一族の末に当たる。姓は「吉田」でこの一族はこの地域に多く存在する。現在実父はこのお寺に眠り、月命日には多少日にちは前後するが、必ず参拝に赴いている。故にこの地域の地理にも多少は明るい。
       
                高畑鷲宮神社 一の鳥居
            
           一の鳥居手前左側にある「備前渠用水路」の看板
○世界かんがい施設遺産に「備前渠用水路」が登録されました。
「備前渠用水路」が令和2128日にWeb会議で開催された国際かんがい排水委員会(ICID)国際執行理事会において、備前渠用水路が「世界かんがい施設遺産」に登録されました。
 備前渠用水路は利根川から取水し、埼玉県北部の本庄市、深谷市、熊谷市、を流れ、利根川右岸の水田にかんがい用水を供給する延長約23kmの農業用水路です。
1604年に江戸幕府代官頭の伊奈備前守忠次により、1年間という期間で開削された埼玉県で最古級の用水路で、伊奈備前守の官名から「備前堀」の愛称で親しまれています(中略)
 用水路の開削から約400年を経過した現在も同じ流路で素掘水路区間が多く残っており、開削当時の面影を今に伝える歴史的にも貴重な用水路となっています。また地下水の涵養、農村景観の維持、生態系の保全、洪水の防止などの多面的機能を有しています(以下略)
主な概要
取水源…利根川
●幹線水路延長…約23km
受益面積…1,400ha

取水量(最大)…9,185㎥/秒
設備概要…取入水門、第3
樋門、矢島堰                    案内板より引用
 
                  橋から眺める備前渠用水路の風景(写真左・右)
 備前渠用水路は埼玉県では「見沼代用水」に続いて2施設目の「世界かんがい施設遺産」となる。この「
世界かんがい施設遺産」を南北に横切るように鷲宮神社が鎮座しているが、鷲宮堰という取水堰があり、そのすぐ東側に鷲宮神社の神橋である「宮橋」があり、その参道の先に社殿がある。
       
                 参道先にある二の鳥居
       
                    拝 殿
 現在この地区は「高畑」と表記されているが、この社にある灯篭には「高畠」と彫られている。嘗ては「高畠」地名だったのだろうか。
 地形的に見るとこの社は、「備前渠用水路」と小山川に挟まれる狭い場所に鎮座している。
       
               拝殿上部に掲げてある社号額
       
              拝殿手前左側に聳え立つご神木(写真左・右)
 
                   拝殿左側に鎮座する境内社(写真左。右)
 
 御嶽塚(写真左)。
塚の中心には御嶽山座王大権現・三笠山刀利天・八海山大頭羅神王があり、祀られている。石祠は三峯神社(写真右)。左側の建物には神輿と小さな木造の祠が納められている。

 ところで
高畑鷲宮神社近郊には「高畑遺跡」が存在し、古墳時代後期の集落跡が確認されている。高畑遺跡は、標高は約35m、遺跡の範囲は約59万㎡と推定され、1次調査では、古墳時代~中世にかけての溝5条、河川跡等が確認されている。また、下水道工事時に、地下1m以上の深さから、古墳時代後期の土師器が出土している。高畑遺跡第2次発掘調査は、平成181121日~平成19年1月12日にかけて行なわれ、全体の調査面積は約900㎡であり、竪穴建物跡16棟、全て総柱式の掘立柱建物跡5棟、円形周溝遺構2基、土坑1基、溝2条等が確認された。遺構は67世紀のものがほとんどで、この時期の大規模集落の一端が垣間見えた感がある。南東部から、倉庫と考えられる総柱式掘立柱建物跡が複数確認されたことから、この遺跡が居宅的要素を持っていることが想定される。
 古墳時代後期
になると、上敷免遺跡を始めとする唐沢川東岸で集落が大規模化しており、唐沢川西岸との対比が顕著である。7世紀になると、上敷免遺跡及びその周辺で大規模化した集落のほとんどは縮小していき、それより東部の宮ヶ谷戸遺跡、東川端遺跡、清水上遺跡等、後に幡羅郡家が造営される場所の近辺にある集落の規模が拡大する。そうした集落の動きがある前後の時期に、高畑遺跡の集落が充実していくことが確認されたことは、律令期に至るまでの開発と集落の動きを考える上で、重要な成果と言えよう。
       
                高畑鷺宮神社 境内の様子

 高畑鷲宮神社とは全く関係のない話となっているが、地域の歴史は深堀すれば面白いことが沢山ある。筆者にとって、社の散策はこのような地域歴史探求の意味合いも深いのだ。
     

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四方田産泰神社(金佐奈神社)

 産泰神社は群馬県前橋市に鎮座する、木花佐久夜比売命を主祭神とし安産・子育の神様であり、また美しい姿から女性の守護神として多くの崇敬を集めていて、県外からも多くの祈願者が訪れる神社である。近年ではパワースポットとしても注目されていて、妊婦の方をはじめ赤ちゃん連れのご家族などお参りに来られる方でにぎわっているという。いわば産泰神社は、誠に日本の国柄らしい安産・子育て・女性守護の神社でもある。
 産泰神社ホームページには「社歴」についてこのような記載がある。
「前橋市の東部、おだやかな田園地帯のこんもりとした小山に鎮座する産泰神社は、古くより神社名が示す通り安産・子育ての守護神として県内はもとより関東一円から参拝者が訪れます。社伝古志故事録は小田原北条氏の乱に焼滅し定かではありませんが、日本武尊の東征の折り此地に勧請せしといい又、履中天皇元年鎮座ともいわれています。 本殿の裏に約十三万年前に赤城山の「石山なだれ」により出現したといわれる磐座があり、原始古代から信仰の土地であったことが推測されます。現在の社殿は、権現造りで本殿・幣殿・拝殿・神門の四棟及び境内地が、十八世紀中期から十九世紀初頭の本県の神社建築様式の指標となる貴重な遺構であるとの理由で群馬県の重要文化財に指定されています。」
 産泰神社は古代巨石崇拝に基づく信仰形態がかなり古いにも関わらず、主祭神が木花佐久夜比売命であることにより、妊婦の方やお宮参りの方など女性の参拝者が多い神社でもあり、境内も含め女性が安心できる気配りと、荘厳ながら優しい雰囲気が漂う社でもある。
       
             ・所在地 埼玉県本庄市四方田289
             ・ご祭神 素盞鳴尊 天照大神 木乃花咲耶媛
             ・社 格 旧四方田村鎮守 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 11日 祈年祭 220日 大祭 44
                  八坂祭 715日 秋祭 1019日 新嘗祭 1215
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.222422,139.1668236,17z?hl=ja&entry=ttu 
 四方田産泰神社(金佐奈神社)は、東富田熊野十二神社沿いの道路を西方向に進み、突き当たりのT字路を左折し、最初の「四方田住宅入口」交差点を真っ直ぐに進む。交差点先の新幹線の高架橋を過ぎると、すぐ正面左側に四方田産泰神社の鎮座するこんもりとした社叢が見える。
 但し困ったことに、適当な駐車スペースが見当たらなかった為、神社手前の小さな公園脇の一般の方々に迷惑をかけない場所に車をと待て、急ぎ参拝を行った。
*字数の関係で、社の表記は今後「
四方田産泰神社」とする。
              
                
四方田産泰神社 社号標石
       
           参道
から社殿方向を望む。手前には神橋あり。
 
 社号標石から鳥居までは細い道乍ら舗装されている一般道となっているが、鳥居(写真左)から先は四方田産泰神社の広大な境内となる。鳥居には「産泰神社 金佐奈神社」並んで描かれている。また鳥居を越えてすぐ左側には案内板(写真右)がある。

産泰神社    所在地 本庄市大字四方田二八九
 産泰神社の創建は、鎌倉時代、武蔵七党のうちの一党である児玉党の一族の四方田五郎左衛門資綱が、この地に砦を築いたときに、守護神として勧請し祀ったのが始まりと伝えられる。その後の延元二年(一三三七)、北畠顕家が薊山合戦の際、戦勝を祈願したところ、勝利をおさめることができたので兜を奉納し深く感謝したという。
 元禄年間(一六八八~一七〇四)にはいると京都吉田家の配下であった神主の杉田氏が奉仕するようになり、今でもその子孫は代代神主をつとめている。
 なお、当社は女性の守護神として広く信仰を集め、毎年四月四日の例祭日には、近郷近在はもとより他県からも多くの参詣客が集まり、安産を祈って底のない柄杓を奉納する慣習がある。なお、当日は本庄市指定文化財となっている杉田組による金鑚神楽が奉奏される。
 
昭和六十年三月   埼玉県   本庄市                  案内板から引用
        
 境内には松尾芭蕉の句碑があり(写真左)、
「しぐるるや 田のあら株の くろむほど」と刻まれている。碑の裏には慶應元年の建立と刻まれている。
 また参道左側には神楽殿あり(写真右)
神楽殿の手前には「金鑽神楽杉田組」(無形民俗文化財)と記されている標柱があり、春の例祭には、杉田組による金鑽神楽が奉奏される。
 神楽とは神を祀るために演じられる神事芸能・舞楽である。神楽は宮中の御神楽と、民間の里神楽に分けられ、里神楽は、狭義では関東の民間の神楽を指すとされ、神社・地域ごとに特色ある神楽が演じられていたが、現在本庄市域で行われている神楽はほぼ『金鑚神楽』である。『金鑚神楽』は児玉郡、大里郡を中心に13座が組織され、市域では本庄組(諏訪町)、宮崎組(牧西)、杉田組(四方田)、根岸組(小平)、太駄組(太駄)がある。
       
                    拝 殿
 
    「産泰神社」と掲げている額            拝殿には奉納額あり
 安産、子宝祈願に御利益があるとされる本庄市四方田の産泰神社では4月に、春季例大祭が開かれ、安産を願う人、子宝に恵まれたい人、子や孫が生まれて健やかな成長を祈る人たちで賑わう。例大祭は、底がない柄杓か、底がある柄杓を社殿に奉納する珍しい習わし。明治時代初期から定着し、例年多くの参拝者を集めている。桜も満開時期となり、華やいだ雰囲気で行われる。底がないひしゃくには安産の願い、底があるひしゃくには赤ちゃんを授かりたい願いと、無事に生まれた感謝の気持ちが込められているという。
       
                拝殿の左側にある
案内板
○金佐奈神社 御由緒   本庄市四方田二八八ーニ
□御縁起(歴史
)四方田は、武蔵七党の児玉党に属した四方田氏の本貫地であった。地内の「堀の内」には同氏の居館であったと伝えられる館跡があり、当社の境内はこの館跡の東端に当たる。こうした立地からも、当社の創建には四方田氏が深くかかわっていることが推測できる。
『児玉郡誌』によれば、当社は、四方田五郎左衛門資綱がこの地に城砦を築いた際に、その守護神として勧請したものであるという。また、同書は更に、延元二年(一三三七)に北畠顕家が薊山合戦の時、当社に戦勝を祈願して勝利を収めることができたので、奉賽として兜を奉納したことや、元禄年間(一六八八~ 一七〇四)以来、地元の杉田家が代々神職として奉仕してきたことを記してい る。『風土記稿』四方田村の項に「金鑚神社 吉田家の配下、杉田摂津の持、村の鎮守なり」とあるのも、杉田家による祭祀が確固たるものであったことを示しており、同家には元禄十一年(一六九八)以降の裁許状六通の写しがある。 ちなみに、明治以降も、神職は杉田家が伊勢守・嘉内・力衛・右一・泉司・孝好と代々継いで、現在に至っている。
 なお、当社は、一般に「産泰様」として知られているが、これは当社が産泰神社との合殿になっており、後述するように産泰神社の信仰が盛んであったことによるものである。そのため大正十年ごろ「金佐奈産泰神社」と社名を変更しようとしたが、実現には至らなかった。
                                      案内板より引用
      
     広い境内の一角に境内社
稲荷社と猿田彦大神の石祠が鎮座する(写真左)。
               社殿右側には御神木(同右)

 四方田氏(よもだし、よもたし)は、平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵国
最北端域全域で割拠した武蔵七党の児玉党を構成する一族である。武蔵児玉郡四方田邑の発祥。庄氏より分派した氏族で、庄二郎弘高(児玉党本宗家4代目庄太夫家弘の次男)が四方田に住み、四方田二郎弘高を名乗ったことから始まる。Wikipediaより引用)
武蔵七党系図
「庄権守弘高―庄三郎左衛門弘長(四方田左近将監)、弟本庄四郎弘季(号四方田、号牧西)、弟五郎弘綱、弟四方田七郎高綱」
 産泰神社・金佐奈神社案内板に記されている四方田五郎左衛門資綱は「吾妻鑑」にも登場している。
吾妻鑑卷三十二「嘉禎四年二月二十二日」
 今日は前駈(前触れ役)を用いず、右馬権頭北條政村が御車の前で先導役に任じた。行列は 先ず右馬権頭北條政村。次いで御車(八葉)宇田左衛門尉 四方田五郎左衛門尉資綱 小宮五郎左衛門尉 本間次郎左衛門尉信忠 左衛門三郎平盛時 富所左衛門尉 若兒玉小次郎 小河三郎兵衛尉直行 参河三郎左衛門尉 飯富源内長能
 以上十人、直垂を着し帯劔、御車の左右に列歩す。(吾妻鑑より引用)
 
           社殿奥に鎮座する境内社・末社群(写真左・右)

 本庄市内には、旧児玉町を含め計11社の分社が存在していて、神流川扇状地には嘗て九郷用水が開削され、その要所には金鑽神社の分社が祀られている。これらの所在地は武蔵七党の1つである児玉党の勢力範囲と一致するといわれ、同党からの金鑽神社崇敬の様子が伺える。


                   

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東富田熊野十二社神社


        
              ・所在地 埼玉県本庄市東富田
301
              ・ご祭神 国常立尊
              ・社 格 旧富田村鎮守 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 219日 夏祭 715日 
                                     秋例大祭 
1019日 新嘗祭 1214
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2238501,139.1753852,17z?hl=ja&entry=ttu
 
東富田熊野十二社神社は、国道17号を本庄市街地方面に進み、「鵜森」交差点を左折し、道なりに真っ直ぐ進む。途中本庄総合公園を左側に見ながら、尚も進み、北堀地区のT字路に到達する。T字路は左折して次の北堀地区「北泉小学校前」交差点を右折し、そのまま10分程進むと、道路沿いに面した右側に東富田熊野十二社神社が見えてくる。
 東富田熊野十二社神社の右手には愛宕神社があり,更にその右手には金鑚神社・八坂神社相殿があって,それぞれに鳥居がある。そのため,3つの神社が並列しているように見えるが、東富田熊野十二社神社は旧村社の格式があり、その他の神社は境内社と呼んでいいのかと思う。真ん中の愛宕神社は熊野十二社神社古墳と呼ばれる古墳の墳頂に鎮座していている。
       
               道路沿いに面して鎮座する社
 
         鳥居の右側に社合標柱あり           鳥居上部には社合額
       
                    拝 殿
    
        東富田熊野十二社神社、鳥居の両側に掲げている案内板(写真左・右)

熊野十二社神社 御由緒    本庄市東富田三〇一
 御
縁起(歴史) 
 東富田は、かつては隣の大字西富田と一村で富田村と称していた。分村した年代は明らかでないが、天正十八年(一五九〇)四月の「信茂判物」(鈴木家文書) には、「両富田之村」とあることから、中世末期には、既に二村に分かれていたと考えられる。
 旧富田村は、鎌倉街道が通り、平安末期には武蔵七党児玉党の氏族富田氏の本拠地であり、富田三郎親家が居館を構えていた。口碑によると、この親家が当社を紀伊国(和歌山県)の熊野那智大社から勧請するとともに、境内のすぐ北隣に、祈願所として富田寺を開基し、当社の社務を兼帯させたという。創建の経緯については、親家のころに書かれたと思われる「児玉在所引旦那名字注文写」(熊野那智文書)には「とミた」と同氏の名が見えることから、恐らくは熊野修験の当地周辺での活動が背景となり奉斎されたものであろう。
 ちなみに、当社名の「十二社」とは、熊野三所権現と五所王子さらに四所宮を合わせた十二社権現であったものを明治以降、天地修固の天神七代地神五代の十二代の神霊としたものである。
 明治五年当社は村社となった。 更に同四十年、字山根の浅間神社、字下田の金佐奈神社、字元屋敷の熊野十二社神社の三社を合祀した。なお、社殿は延享年間(一七四四-四八)に建てられたといわれ、その後、平成二十五年損傷の著しい社殿を造り替え、現在に至っている。
                                      案内板より引用

○熊野十二社神社  所在地 本庄市東富田三〇一
 熊野十二社神社の祭神は、国常立尊で、延享年間(一七四四~一七四八)に勧請したと伝えられ、社殿は現在覆屋の中にある。
 社殿のある小高い丘は、古墳であり、同様なものが周辺に分布している。この古墳群は、東富田古墳群といい、特に、今の種子センターの地にあった公家塚古墳は、県下でも数少ない古墳時代初期のものであった。

 また、神社の北にある冨田寺は、山号を愛宕山照明院といい、本尊は阿弥陀如来である。
 昔、児玉党一族の富田氏の祈願所であったと伝えられ、西方には、「代官屋敷」と称される屋敷址があったと言われている。

                                      案内板より引用
     
         拝殿上部右側に掲げてある奉納額           本 殿

 東富田熊野十二社神社の隣には古墳墳頂に愛宕社、その古墳の麓付近に金鑚神社・八坂神社相殿が鎮座する。
 
            境内社 愛宕社           境内社 
金鑚神社・八坂神社相殿
 
 愛宕社が鎮座する古墳は、熊野十二社神社古墳と呼ばれる。直径26.5m、高さ5.2mの円墳。5世紀中葉築造(推定)。葺石あり。未発掘。古墳東側は道路や宅地で削られているが、熊野十二社神社の境内として高い墳丘が残されている。
 東富田古墳群と言われる古墳群を形成されていたようで、特に、今の種子センターの地にあった公家塚古墳(直径
70m、高さ1m 円墳)は、県下でも数少ない古墳時代初期の大型古墳であったようだ。


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木部松久神社

 美里町木部地区は、武蔵七党の猪俣党の流れを汲む木部氏の在所であった所といわれ、地内には、平安時代から鎌倉時代にかけて築造されたものと思われる木部氏館跡もある。
○猪俣党木部氏 那賀郡木部村より起る。
 小野氏系図(畠山牛庵本)「猪俣時範―家兼―木部次郎行兼」
 中世においては、那賀郡に所属し、元亀元年(1570)の発給と推定される鉢形城主北条氏邦印判状の中には、木部村内に高柳源左衛門の屋敷地を安堵した旨が見える。
○木部勝蔵文書(東京浅草区馬道町)
「元亀元年五月五日、北条氏邦の奉行中村は、高柳源左衛門に印判状を発給し、木部村の寄居に取立候屋敷の一円不入を命ず」
「天正二年六月九日、氏邦奉行桑原左馬助は、高柳源左衛門に印判状を発給し、知行方、八貫五百文松村帯刀跡、七貫文岡部弥七郎分之内、以上十五貫五百文の地を宛行ふ」
        
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町木部549
             ・ご祭神 建御名方命 多津乃神 伊邪那岐命 伊邪那美命
                  建速須佐之男命 応神天皇
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 祈年祭 415日 例祭 1015日 新嘗祭 1123
                  大祭 6月・12月
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1718479,139.1752739,18z?hl=ja&entry=ttu
 木部松久神社は、埼玉県道31号本庄寄居線を本庄市方面に北上する。「甘粕」交差点を直進すると「美里町 踏切手前左折 遺跡の森総合公園」の看板の先のT字路を左折、道なりに700m程進むと真東寺や木部松久神社の社叢が見える。木部松久神社に隣接する真東寺の駐車スペースを利用して、そこに車を停めて参拝を行った。
参道の入り口が分かりづらく、今回は真東寺の駐車スペースからのスタートとなったが、本来参道の入り口は丘陵下の民家の横の田んぼのあぜ道があり、そのあぜ道の先に標石がある。
        
                社は丘陵地、斜面上に鎮座。
            やや急な角度の石段を登ると鳥居が見えてくる。
        
                   鳥居から撮影
 
      鳥居に掲げてある社号額         更に石段を登ると社殿が見えてくる。
        
                     拝 殿
        
松久神社 鎮座地  美里町大字木部五四九番地
 由緒

 木部は、武蔵七党の猪俣党の流れを汲む木部氏の在所であった所といわれている。木部氏は猪俣家兼の子行兼と称したのが始まりであるという。地内には、平安時代から鎌倉時代にかけて築造されたものと思われる木部氏館跡もある。
 元来、木部の鎮守は、「風土記稿」木部村の項に「聖天社二宇共に村の鎮守にて、一は真東寺持、一は村持」と記されているように、二つの聖天社であり、この二社は共に明治五年に村社となり、真東寺持ちの聖天社は西二柱神(字西に鎮座)、字持ちの堅天社は東二柱神社(字森下に鎮座)と称するようになった。一方、当社地には、古くから真言宗の真東寺の寺鎮守として諏訪社と八幡社が祀られており、諏訪社は、弘化二年(一八四五)に地頭の松前氏から祈雨竜神を拝領して神社を再建したとの伝えがあることから、神仏分離の後は、諏訪竜神神社と称した。
 明治四〇年四月、政府の合祀政策に従って、この諏訪竜神神社に、東西の二柱神社及び宇道場の無格社八坂神社及び字前山の八幡神社が合祀された。これを機に社号を松久神社に改称し、社格も村社となった。因みに「松久」の名は、その当時木部が属していた松久村の村名を採ったものである。
                                      案内板より引用
   
      拝殿に掲げている標額               本 殿

 社は「美里町遺跡の森」のある丘陵の北斜面・標高約100m上に鎮座している。木部松久神社が鎮座している木部地区は南北に伸びる地区で、「美里町町役場」から「遺跡の森 総合公園」までの美里町の主要施設を含む地区(JR八高線 松久駅周辺は甘粕地区)で、東から南にかけては甘粕地区、一部白市地区にも接し、北側には古郡地区、西側には駒衣地区と接している。
 因みにJR八高線「松久駅」があり、嘗ては松久村も存在していたが、大字には現在存在していない。但し上記「松久駅」もそうだが、「松久公民館」や「松久小学校」「松久保育園」のように、旧村名「松久」を使用している施設等も多く存在する。
 
   社殿の奥に輪座する末社。詳細不明。       末社群に隣接する境内社合社
                         左から八幡神社・八坂神社・稲荷神社

 ところで、木部松久神社に隣接する真東寺は、梅樹山地蔵院と号する。創建年代は不詳だが、文明3年(1471)に真言宗醍醐派から真言宗智山派に宗派替したと伝えられている。天明3年(1783)浅間山の大噴火の後、火災に遭い天明6年(1786)本堂を再建、宥勝寺より延命地蔵菩薩像を譲り受け、院号を地蔵院と改めました。広大な境内には四国八十八ヶ所の写しが造作されており、多くの巡拝者を集め、また児玉三十三霊場26番霊場となっている。
 
         四国八十八ヶ所写しの風景           真東寺天満宮も鎮座する。


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白石西大澤神社

 美里町史による西大沢神社の由緒では「大字白石にあり、素盞嗚尊ほか8柱を祭る。創建は不詳であるが、鎌倉時代に猪俣小平太範綱が武運長久を祈願し霊験を得たといわれている。古の本地仏(神の本地である仏)千手観音は、空海の作であるということが正徳6年(1716)丙申閏2月の古文書に書かれているといわれるが、その文書が何であるか不明である。古くは牛頭天皇といったが、明治5年(1872)に八坂神社と改称、明治42年(1909)合社により西大沢神社となった」との記載がある。
 猪俣小平太範綱は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将、御家人。猪俣党宗家の家筋で、武蔵国猪俣(現、荒川上流域の埼玉県児玉郡美里町)を本拠に活躍した武士である。『保元物語』に同族猪俣党の岡部六弥太忠隆、酒匂三郎とともに源義朝に従ったとあり、また「平治の乱」でも源義平十七騎の中に名が見える。源義平は源義朝の長男、通称「悪源太」。この17騎とは鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義・三浦義澄・首藤俊通・斎藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・波多野延景・平山季重・金子家忠・足立遠元・上総広常・関時員・片切景重の坂東武者17騎の雄将として知られている。源頼朝挙兵後は頼朝に仕え、一の谷合戦で平家の勇将盛俊を討つなど、戦場においてしばしば功績をあげている。
        
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町白石353
             ・ご祭神 素盞嗚尊 
             (合祀神)武甕槌命 斎主命 天児屋根命 
比売神 羽黒神
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 春祭り 415日 例祭 旧暦61日 新嘗祭 1210
                  冬至祭 12月22日 
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1629159,139.165959,17z?hl=ja&entry=ttu
 
白石西大澤神社は国道254号を児玉町方向に進む。「駒衣」交差点を左折し、1㎞程進み、埼玉県道349号広木折原線に合流する手前の十字路を左折すると白石西大澤神社の社叢が見えてくる。南側には東西に流れる天神川が流れ、松久丘陵の麓付近とはいえ緩やかに坂のある地域に鎮座していている。
 南向きの社殿で広い境内、鳥居の南側には公園もあり、その公園に通じる場所には駐車スペースもあり、そこに停めて参拝を行った。 
        
               西大澤神社社号標から社殿の様子
 
     上部の島木・笠木が長く感じる鳥居        鳥居の先で、左側にある案内板

西大澤神社 鎮座地 美里町白石三五三
 御縁起(歴史)白石は松久丘陵に位置する山間の村で、天神川に沿った地域に集落と耕地がある。当社は天神川沿いに鍍座する。『児玉郡誌』には「当社は往昔は牛頭天王と称せしが、明治五年に八坂神社と改称して地方の者深く崇敬せり、創立年代は詳ならざれども、祭神武徳の大社たるを以て、近地猪俣の住人猪俣小平六範綱が、武運長久の祈願を籠めて霊験を得たりと云伝ふ、往時の本地仏千手観音に名僧○〇の作なりと云ふこと正徳年間(一七一一~一六)の古文書に在り、又社殿は享保三年(一七一八)に改造したる時の棟札今に現存せり」とある。本地仏の記述から別当の存在をうかがわせるが、『風土記稿』に当社は村民持の「天王社」として見え、別当についての記載はない。
ただし、天神川を隔ててすぐ南側には明応年間(一四九二~一五〇一)ごろより榛沢郡のうち十ヵ村の年行事職を務めたとされる本山派修験宝積坊跡(上田栄治家)、また東側にはこの宝積坊配下の智積院跡(小林桂之輔家)がそれぞれあり、両坊が当社の祭祀に関与したことは想像に難くない。明治四十二年には、旧湯本村の春日神社(中居明神社)、大仏村の羽黒権現社、円良田村の山王神社を当社に合祀し酉大沢神社とした。
その社名は、当社が往古大沢郷と称した地域の西部に鋲座していたことにちなむものである。
                                                                             案内板より引用
        

                     まるで石垣を思わせるような石組で構成されている。
        
                     
拝 殿
        
                     本殿覆屋
 
          
社殿奥に鎮座する境内社(写真左・右)。詳しい所は不明。
         
これだけの立派な境内社に説明等全くないのは残念
           
           
境内にある御神木(写真左・右) 暖かい時期に再度見てみたいものだ。
          
                   
境内隅にある神楽殿


 猪俣小平六範綱の墓(県旧跡)は大字猪俣の高野山真言宗高台院内にある。この高台院(本尊十一面観音像)は町の南東部、猪俣集落から少し上ったところにある猪俣氏の菩提寺で、猪俣氏が創建したとされているが、古記録等すべて失っているので、その時期などについては不明である。                  

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