東平熊野神社
・所在地 埼玉県東松山市東平1006
・ご祭神 熊野三所権現(推定)
・社 格 旧平村鎮守 旧村社
・例祭等 元旦祭 祈年祭 4月1日 例祭 7月14・15日
新嘗祭(秋祭) 10月15日 冬至祭 12月22日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0615575,139.4117204,18z?hl=ja&entry=ttu
東平熊野神社は国道407号線を東松山市街地方向に進み、「東平」交差点を左折する。埼玉県道66号行田東松山線に合流後300m程進んだT字路を左折すると、正面突き当りに東平熊野神社の鳥居が見えてくる。
社は東平地域の東端近く、交通量の多い県道からは少し奥に入った場所で、丘の上に鎮座している。
残念ながら周囲には専用駐車場はないようで、近隣のコンビニエンスストアに寄り、買い物を済ませてから参拝を行う。
丘上に鎮座する東平熊野神社
重厚感のある一の鳥居 石段を登った先に見える二の鳥居
県道からはやや奥に位置するとはいえ、交通量の多い県道の喧騒からは想像もできない位、境内は静まり返っていて、現代社会とうまく混じり合っているという印象。
また境内もよく手入れされていて、気持ちよく参拝を行うことができた。
一の鳥居のすぐ右側に設置されている社の案内板
熊野神社 御由緒
御祭神 伊邪那岐命ほか十二柱
創 建 天慶三年(九四○年)頃 平安時代中期
第六一代朱雀天皇御代 藤原秀郷による
天慶三年(九四〇)藤原秀郷は、平将門の乱を鎮圧するために京都を出発し、群馬県の碓氷峠に差し掛かったある夜、不思議な夢を見た。その夢は、南方にたなびく紫雲を尋ねていくと、そこには紀州の熊野三社があり、老翁から「一棟の神社を建立し熊野三社を祀れば、必ず朝敵を滅ぼすことができる」というものであった。
翌日、南方には一筋の紫雲がたなびき、そこを尋ねると、一株の松の根元から、ゆらゆらと紫雲が湧き上がっていた。そこで秀郷は持っていた鏑矢を松に立て、仮に熊野三社を勧請した。
その後、朝敵を倒し、熊野の神徳に報いるため、三社の伽藍を建立した。これが当社である。
(覚性寺所蔵古文書「蘭若前録」の一部要約)
*現在の社殿は、明治十四年十二月に完成し 明治十五年一月一日に遷宮されました。(以下略) 案内板より引用
拝 殿
熊野神社 東松山市東平一〇〇六(東平字小橋)
旧別当の真言宗覚性寺蔵の古文書には、次のような伝説がある。
天慶三年(九四〇)に東国で反乱を起こした平将門を追討するために平重盛と共に都を発った藤原秀郷は、上州(現群馬県)碓氷峠まで進んだころ、不思議な夢を見た。それは、南の方にたなびく紫雲を尋ねて行くと、そこは紀州(現和歌山県)の熊野三社で、そこで一人の老翁から「自分は東海の平和を願うものである。紀州熊野三社を祀り、その神徳を頂いて戦えば、汝は朝敵を必ず滅ぼすことができ、汝の子孫は世々栄えるであろう」と告げられるというものであった。翌朝、秀郷ははるか南方に紫雲のたなびくのを見た。奇しくもそこを尋ねて行くと、一株の松の根元から雲が湧き上がっており、これこそ神のお告げと、秀郷は持っていた鏑矢をその松に立てて仮に熊野三社を祀った。これが当社の創祀で、その後の秀郷の武功は言うまでもない。
乱平定の後、秀郷は神恩に報いるために当社の伽藍を建立し、以後郷人の崇敬を集めるところとなった。戦国時代、松山城落城に伴い、当社も兵火に罹ったものの立派に再建が果たされ、江戸時代には東平村の鎮守として『風土記稿』にもその名が挙げられている。更に明治四年には村社になり、同四十一年には字沢口の村社熊野神社(当社は上の宮、同社は下の宮と呼ばれていた)ほか七社が合祀された。
「埼玉の神社」より引用
本 殿 拝殿左側に鎮座する境内社
左より諏訪社、詳細不明
社に隣接している「子供広場」(写真左)に設置されている祭り用の舞台(同右)だろうか。
東平熊野神社に隣接をしているのが子供広場となる公園で、春になれば桜を楽しむ人もいるし、夏季では7/15頃の土日, 子供みこし等のお祭りも開催をされているようだ。社の境内同様によく手入れされている。ただ、公園に入るには傾斜がややきつめの階段を上る必要があり、ご高齢の方には少し大変かもしれない。
参道からの一風景
東平熊野神社に関しての資料は乏しく、現時点で説明できる内容はここまでである。但しこの社の鎮座する東平地域は、埼玉県のほぼ中央部を南北に縦貫する国道407号線と、埼玉県行田市から東松山市に至る埼玉県道66号行田東松山線が交わる交通の要衝地でもある。
東平地域の北側には「胄山古墳」があり、目を北西に転ずると「大谷瓦窯跡」「大谷雷電古墳」等の古代遺跡もあり、またこの国道407号線自体、嘗て「東山道武蔵路」とも推測されている道である。国道407号線沿いには古墳時代から奈良時代の史跡が見られ、この付近の比企丘陵は古代から人々の交流が多かったところと考えられ、東平地域はその古代の官道を包むようにして位置している絶妙な位置にある。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ひがしまつやま公園ガイド」
「境内案内板」等
