古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西戸國津神神社

 毛呂山町・西戸地域。この「西戸」は嘗て「道祖土」と称していて『新編武蔵風土記稿 西戸村』にも以下の記載がある。
西戸村は昔は道祖土と書たり、隣郡八ッ林村の百姓治右衛門は、道祖土土佐守が子孫にして、近鄕の舊家なれば、若くはこの土佐守などが領せし地にて、道祖土の名は夫より起りたらんを、後世今の文字に書改めたるならんといへり、(中略)此邊すべて高低多き地にて、水田陸田相牛せり、用水は越邊川を引用ゆれど、水旱共に患あり」
「道祖土」という地名の由来は幾つかあり、古くから道祖神を祀る塞(さい)の神の杜があったことからという説と、この地域の名士の祖先である「道祖土土佐守」が戦国期にこの地を領有していたという説がある。
        
            
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町西戸916-1
            
・ご祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 春祭り 222日 秋祭り 1016(宵祭り)・17日(本祭り)
                                  
新穀感謝祭 1123
 川角八幡神社から北上し、越辺川に架かる宮下橋を越える。平均標高43m程の越辺川左岸に広がる豊かな田畑地域の風景を愛でながら北上し、埼玉県道343号岩殿岩井線に合流する十字路を左折、300m程進んだ丁字路を右折すると、すぐ先に西戸國津神神社が見えてくる。
        
                 西戸國津神神社正面
『日本歴史地名大系』 「西戸(さいど)村」の解説
 箕和田(みのわだ)村の東、越辺川左岸低地に立地。古くは小田原北条氏に仕えた道祖土(さいど)氏が住したことから「道祖土」と記した。のち改字したという(風土記稿)。当村は天正年中(一五七三―九二)に黒山村(現越生町)の修験山本坊が開発したもので(元文三年「山本坊寺領書上」相馬家文書)、全村を山本坊一人が名請していたという(元文三年「山本坊人別帳一判等願」同文書)。
 元和元年(一六一五)百姓一五軒に耕作させ、同二年山本坊が当地に移転。同六年検地があり、入西郡西戸村御縄帳(同文書)では高二五〇石、うち五〇石は山本坊朱印地。
       
               こじんまりとした社の第一印象
入間郡誌』において「西戸は川角村の西北部にして、南に越辺川を廻らし、北に小丘を控へたり。河畔の水田肥沃にして、要害善し。此を以て古来山本坊此地に拠りて、大に勢力を振ひたりき。古墳多し」と記載があり、この地に修験山本坊をわざわざ本拠地を移した理由が載せている。
 
  鳥居の社号額には「國津神神社」と表記     入口周辺に建つ社号標石        
 國津神神社は、現越生町の黒山熊野神社の別当を務めていた修験山本坊が、当地へ移転したことから、慶安元年(1648)当地に改めて熊野社を勧請して創建、江戸期には熊野社と称していたという。
 本山派修験の山本坊は、相馬掃部介時良入道山本坊栄円が応永年間(13941428)に開山した大寺で、慶安2年(1649)には江戸幕府より、山本坊は寺領47石および、熊野堂(黒山熊野神社)領として3石の御朱印状を受領している。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治37年に地内の愛宕社・天満宮・稲荷社・住吉社を合祀、明治42年に箕和田稲荷神社と境内社大山祇社を合祀、大正4年に社号を國津神神社に改めている。
        
                                      境内の様子
『新編武蔵風土記稿 西戸村』
天神社 修驗圓藏院の持、
住吉社 熊野社 以上二社、修驗山本坊の持、
山本坊 慶安二年寺領四十七石及熊野堂領三石の御朱印を賜へり、熊野は郡内黒山村にありて、
    今もこゝにて別當せり、本山派の修驗、京都聖護院の末なり、開山榮圓應永廿一年示寂せり

行者堂 役小角の像を安置す、 
龍光院 圓蔵院 二院共に山本坊の配下なり、
 社のみをみると、かなり小規模な印象は拭えないが、竜光院・円蔵院等の仏閣も含む当時の旺盛ぶりは如何ばかりであったろうか。
        
                    拝 殿
 国津神神社 毛呂山町西戸九一六(西戸字愛宕下)
 現在、越生町黒山に石造の役行者像と宝篋印塔がある。これはかつて武蔵のうち入間郡・秩父郡・比企郡と常陸・越後の一部にわたり本山派修験を管理した山本坊の遺跡であり、宝篋印塔の銘文に「山本開山権大僧都栄円和尚 応永二十年癸巳十月日」「法勝禅門寿塔 応永廿一年甲午五日」とある。当社はこの山本坊と深いつながりを持っている。
 当社の創建にかかわる氏子の相馬家(屋号オヤカタ)の先祖は越生の山本坊を興した栄円の後裔で、越生の熊野社の別当である。当社は同家が居を移したことに伴い、慶安元年、熊野社をこの地に勧請したものである。また、勧請後同家は当社と越生の両熊野社の別当を兼ね、山本坊と称し、慶安二年には寺領四七石、熊野社領三石の朱印を受けるとともに、京都聖護院直末(じきまつ)の本山派修験として霞(かすみ)の教化を行った。なお、年行事職大先達も務め、配下の寺は四八カ寺に及んだ。
 当地の配下の寺は竜光院・円蔵院で、役行者堂も置かれていた。
 明治に入り、神仏分離のため山本坊は別当を離れ、代わって出雲伊波比神社社家紫藤家が祀職を務めるようになり、現在に至っている。
 明治五年に村社となり、同三七年、当所の愛宕社・天満宮・稲荷社・住吉社を本殿に合祀し、更に、同四二年に大字箕和田字高山木の稲荷社と境内社大山祇社を合祀した。また、大正四年には社号を熊野社から国津神神社に改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿に掲げてある扁額                本 殿
 明治時代以降、当地は山本坊が廃寺となったため、寺がなく、氏子の多くは神葬祭である。しかし、今なお葬儀の後、仏式の名残で初七日・三十五日・四十九日を祭日として神職が慰霊祭を行っている。
 当地で結成されている講には「榛名講」「観音講」がある。
 榛名講は、榛名神社の神を作神として信仰する者が結成し、219日に代参者が東松山市上岡の妙安寺へ出かけて、牛馬の安全を祈願し、その帰りに絵馬と笹の葉を受けて来るもので、この笹の葉は牛馬に食べさせると病気にかからないといった。しかし、この講も農業の機械化が進み、農耕用牛馬が減少したため、昭和40年ごろに解散したという。
 このほか、氏子の間では「おしら講」「大遊び」を行っていた。
「おしら講」は315日に行う女衆の行事で、養蚕守護の神であるおしら様を祀り、糯米(もちごめ)を一口一升として持ち寄り、大福餅を作って祝う。
 大遊びは211日に行う男衆の行事で、女衆のおしら講同様に行うとのことだ。
        
          拝殿前方左側に設置されている「山本坊の芭蕉の句碑」
                毛呂山町指定記念物史跡
 毛呂山町指定記念物史跡 山本坊の芭蕉の句碑
 山本坊の二十五世、徳栄法印(別号は紫梅)の建立といわれるこの句碑には「山さとは うめの花 はせを」と刻まれている。江戸前期の有名な俳人、松尾芭蕉への追慕の気持ちが強く、徳栄は、かつて芭蕉が故郷の伊賀で詠んだこの句を選んで自然石に刻んだものである。この句の意味は、普通ならば正月に訪れる”万歳芸人”が、田舎の山さとには梅の花が咲く春先にならないとやって来ない というような意味であろう。
 徳栄は文化四年(一八〇七)生まれで、わが郷土の誇る俳人、川村碩布の門人であり、俳号を「曰二」といい、多くの句集や短冊に句をのこしている。また、生来文筆に優れ、神社の幟、筆塚などの銘文にその筆跡をとどめている。さらに武を嗜み、幕末の混乱期には村々に起こった無頼の暴徒の鎮圧にあたった。明治維新後は神官となり、明治十一年(一八七八)に七十歳で亡くなったという。
                                  記念史蹟標柱文より引用
        
                   境内の一風景

 ところで國津神神社は、黒山熊野神社の別当を務めていた修験山本坊が、当地へ移転したことから、慶安元年(1648)当地に改めて熊野社を勧請して創建、江戸期には「熊野社」と称していたというが、この入間郡黒山村(越生町)修験山本坊の本名は「相馬掃部介時良入道山本坊栄円」であり、相馬氏といえば「平将門後裔」と称する一族である。また黒山熊野神社のご祭神は一説には「平将門」だったともいう。
『山本坊過去帳(相馬重男所蔵)』
「開祖栄円・応永二十年十月朔日、二代龍弁、三代栄弁、四代樹円、五代源栄、六代住栄、七代龍栄、八代頼栄、九代良栄」
「十代栄龍は慶長八年に山本坊を入間郡西戸村(毛呂山町)へ移し、二十五代徳栄が明治維新の時、神官となり帰農す」
『山本坊文書』
「箱根山別当相馬掃部介時良入道山本坊栄円は応永二年より黒山村に居住し修験となる。応永五年二月十二日栄円は将門宮を造営す」
『黒山三滝上 宝篋印塔』
「山本開山権大僧都栄円和尚、応永二十年癸巳十月日」
『西戸村相馬重男家文書』
「文安元年甲子十二月十三日、箱根山御領属高萩駒形之宮二所之旦那之事、右、彼旦那等、豊前阿闍梨可有引導候、山本大坊法印栄円花押」

 また、この「相馬氏」一族は後世大里郡地域の社の神職や社掌に就任していて、その広がり方も修験道に関連しそうである。この事に関しては「露梨子春日神社」「西和田春日神社」を参照して頂きたい。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「入間郡誌」「埼玉の神社」
    「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等

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西大久保八坂神社


        
            
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町西大久保146
            
・ご祭神 須佐之男尊
            
・社 格 旧大久保村鎮守・旧村社
            
・例祭等 春祭り 35日 夏祭り(天王様) 715日 
                                  秋祭り 
1123日  大祓 1231
 川角稲荷神社から南北に通じる道を1.2㎞程南下する。「城西大学硬式野球場」を左手に見ながら2番目の信号のある十字路を右折し、暫く進むと右手に西大久保八坂神社が見てくる。社の東側隣には「智福寺」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
                 
西大久保八坂神社正面
『日本歴史地名大系』 「大久保村」の解説
毛呂山町の東端に当たる当地は、川角村の東、市場村の北、葛川と高麗川両河川流域に挟まれた台地上に立地している。天正二〇年(一五九二)に検地があり、その検地帳には「大窪郷」と記されていたという(風土記稿)。
 寛永二年(一六二五)九月大久保新八郎(康村)が徳川氏から入間郡大久保村で一〇〇石を与えられ、同年一〇月大久保久六郎(忠重)に大久保の内五〇石が与えられている(記録御用所本古文書)。田園簿では田高四二石余・畑高一五九石余、大久保領・幕府領の相給。寛文八年(一六六八)・同九年・延宝二年(一六七四)に検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高一九二石余。
  
        
           境内の様子                       参道途中の右側に設置されている案内板
 八坂神社の由来と行事
 江戸期、当地は大久保村と呼ばれ、鎮守として牛頭天王社(当社)を祀っていた。
 主祭神は、須佐之男尊で、内陣には束帯の神像を安置する。また合祀神は宇気母智神・別雷神・大山咋神の三柱である。
 別当は当社に隣接する真言宗金玉山智福寺が務めていたが、明治初年、当社は神仏分離により、智福寺の管理を離れ、社名も八坂社と改め、同五年村社となった。
 明治四十年三月十六日、宇谷ノ中の稲荷社、宇下原の雷電社、宇上の日枝神社を当社本殿に合祀した。しかし、宇上では、日枝神社が合祀されてから疫病がはやったため、神罰であろうということになり、元地に戻された。
 年中行事は、春祭り・夏祭り・秋祭り・大祓の四回である。
 三月五日の春祭りは、当社が明治五年三月五日に村社になったため、これを記念して、その後は例大祭となっていた。この祭典には町長や学校の生徒が参列し、町の式典の一つに数えられていた。しかし、戦後、氏子の中から例大祭を元の夏祭りに戻そうとの声が上がり、現在は旧来通り夏に例大祭が行われている。
 夏祭りは天王様とも呼ばれ、地区内の疫病を祓う祭りで、現在七月十五日に行われており、祭典では悪疫除け祈願がある。明治中頃までは、地区内を山車が回り、大正期には、川越の地芝居や比企の万作踊りを頼んで祭りを盛り上げ、当社の最も重要な祭りであった。
 秋祭りは、以前十一月二十七日であったが、現在二十三日を祭日として、豊作感謝の祭りが行われている。
 大祓は氏子の罪穢れを除く行事で、十二月三十一日に行われている。
 当社において、神職が関与せず氏子だけが行う神事に、元旦の初詣とお九日がある。お九日は本来十月十九日であったと思われ、古くは子供の行事であったが、現在は十月十日頃、氏子総代が氏子を率いて当社に参拝している。
 なお、宇上の日枝神社は合祀社であるが、元地に社が残り、山王様と呼ばれ、四月十六日に祭りが行われている。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 大久保村』
 智福寺 新義眞言宗、石井村大智寺の門徒にて、金玉山と號す、本尊大日を安ず、
 牛頭天王社 村の鎭守なり、

 
  拝殿左側に祀られている境内社・稲荷社         稲荷社の右側には
                          「石棒」が8体祀られている。
 石棒(せきぼう)は、縄文時代の磨製石器の一つであり、男根を模したと考えられる呪術・祭祀に関連した特殊な道具とみられている。
 石棒は広義には石刀や石剣を含む棒状の石製品を総じて指し、狭義にはいわゆる大型石棒を指す場合が多く、広義の石棒は九州から北海道までほぼ全国に存在するという。
 男根を模した石製品としては、千葉県大網白里市升形遺跡出土の旧石器時代後期(24000年前)のものまで遡れる。いわゆる大型石棒は、縄文時代中期に中部高地で出現したと考えられ、その後近畿地方以東を中心に広がったと考えられている。
       
                                   拝殿からの眺め
 
        
      社の東側に隣接している智福寺前に板碑や地蔵様が纏めて祀られている。
 
     毛呂山町指定有形文化財である弘安・応長の板碑(写真左)とその案内板(同右)
 毛呂山町指定有形文化財 考古資料
 弘安・応長の板碑  昭和四十八年十二月一日指定
 この二面の板碑は、もとは西大久保地区の東端にあった常楽寺に建てられていた板碑です。
 左の板碑は、弘安三年(一二八〇)に沙弥願生(しゃみがんせい)が父母の追善供養の為に、右の板碑は応長元年(一三一一)に弟子の比丘尼(びくに)が師の三十三回忌の為に建てたものです。二面の板碑は『新編武蔵風土記稿』大久保村の項に、常楽寺内に並び建つ古碑二基として紹介されています。
 弘安の板碑は、阿弥陀種子(キリーク)を主尊とし、その下に不動明王(カーンマーン)の荘厳体とみられる大変特殊な種子を配する珍しい板碑です。
 応長の板碑は、種子を欠失していますが、大きく刻まれた紀年銘が目を引く板碑です。
 平成二十九年一月十日 毛呂山町教育委員会
                                       案内板より引用

 
           文化財の板碑の左側にも         また板碑に背を向くようにして
           石碑が幾つか立っている。           
地蔵様が祀られている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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大類十社神社

 児玉党は平安時代の後期に現れた氏族で、平安時代末期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団(武蔵七党)の一つである。藤原北家流・藤原伊周(ふじわらの これちか)の家令(けりょう/かれい)であった有道維能(ありみち これよし)は、長徳2年(996)に伊周が失脚したことにより武蔵国児玉郡に下向した。その子の維行が有道遠峯維行(ありみち こだま これゆき)と名乗り、児玉党の祖となった。
 児玉惟行の次男である児玉経行(こだまつねゆき)の次男行重は秩父重綱(平姓、平重綱)の養子となり、姓が平となり「秩父平太行重」と名乗り、秩父平氏の庶流となる。その3代目の子孫である行義が武蔵国入間郡へ来住、大類邑(おおるいむら)を開拓し、在地名である「大類氏」と名乗ったという。  
        
              
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町大類29
              
・ご祭神 金井新左衛門以下九士の霊
              
・社 格 旧大類村鎮守・旧村社
              
・例祭等 元旦祭 春祭り35日 秋祭り(獅子舞)1010
 川角稲荷神社から南側に東西方向に走る道を西方向に進む。正面には豊かな森林が広がる中、一対ののぼり旗ポールが見え、その右側に大類十社神社の鳥居が見えてくる。その距離僅か150m程。至近距離に大類十社神社は鎮座している。
        
                  大類十社神社正面
     
         鳥居の左側に建つ社号標柱     鳥居の社号額 「十社神社」と表記
『日本歴史地名大系』 「大類村」の解説
 川角村の東、東は同村枝村(飛地)の玉林寺村で、越辺川右岸の台地上に立地。小田原衆所領役帳に御馬廻衆の紫藤新六の所領として「拾八貫七百六拾三文 入西郡大類」「六貫三百四拾五文 入西郡大類之内」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。田園簿では田高一一石・畑高二四二石、旗本安藤・水野氏の相給。その後水野領は上知後旗本肥田領となり、幕末に至った(「風土記稿」・改革組合取調書など)。検地は宝永四年(一七〇七)安藤領で実施(風土記稿)。
       
              鬱蒼とした杉林の間を参道が伸びる。
『毛呂山町HP』には「十社神社にまつわる伝説」として「貞治2年(1363)の苦林野合戦の際、足利基氏の家臣岩松治部大輔は、基氏の鎧を身につけ、主君の身代わりとして参戦した。芳賀軍の岡本信濃守が斬りかかってきたところ、岩松の家臣金井新左衛門が立ち塞がり、馬から落ちざまに岡本と差し違え、討ち死にしてしまった。
 十社神社は、主君の身代わりとなって戦死した金井新左衛門ほか9名の武将が祀られていることから、古くは十首明神と称し、境内に数多く残る古墳は、戦死者の墓という言い伝えがある」との解説を載せている。
        
                                    境内の風景
 社の境内周辺には、他の社と違う雰囲気の不思議な凸凹のある場所が目視しただけでも数カ所もあり、後日資料等にて確認すると、大類十社神社境内周辺には「大類古墳群」と称されている小古墳が密集しているという。但し「埼玉の神社」では社殿奥には「苦林合戦に関わる古塚がある」とも記載されているため、一概に古墳と決めつけることは早計とも思える。
 
 参道左側にある社務所の奥にある小高い塚。  参道を挟んで右側にも古墳らしき塚が見える。
       
                    拝 殿
 十社神社  毛呂山町大類二九(大類字神明台)
 当地は、越辺川と高麗川に挟まれた台地上に位置する。西境には往時上州と相州とを結ぶ主要交通路として利用された鎌倉街道が、今も雑木林のなかに一条の古道として残る。地内には六、七世紀の古墳が散在し、更に当社の鎮まる字神明台の辺りには、中世に活躍した児玉党の一族大類氏の館跡がある。地名の由来も同氏の土着によるとされ、この地が古くから開けていたことがうかがわれる。また、当地の中心となる宿場町の街道は、敵からの防御のため上・下の外れがそれぞれ鉤の手状に作られていた。
 由緒は『明細帳』に「該社創立ノ年月日ハ右社ニ附属セシ古記録等往時別当当村大薬寺享保慶応両年度火災ニ罹リ焼失シタルヲ以テ詳カナラスト雖モ古来伝ヘ云フ貞治二癸卯年足利基氏芳賀某ナルモノト当郡苦林野ニ戦フ其時僧秀賀ナルモノ戦死者芳賀臣金井新左エ門外九名ノ霊ヲ祭レリト因テ右ハ十士明神ト称ス後今ノ社号ニ改ムト云フ旧来産土神タルヲ以テ明治五年ニ村社ニ列セラル」とあり、主祭神は金井新左エ門以下九士の霊である。なお、往時別当を務めた真言宗大薬寺は、大類氏の菩提寺であった。
 合祀は、明治四〇年に同大字字愛宕台の愛宕神社、字神明台の神明社、字諏訪台の諏訪神社、大正三年に大字苦林字清水の鹿島神社、字木下の稲荷神社について行っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

       
                  社殿左側奥にひっそりと祀られている弁財天像

     社殿左側にある神興庫          神興庫と社殿の間に祀られている
                            境内社・稲荷神社
       
                                       本 殿
 当社は10人の武将の霊を祀ったところからその社名が起こったといわれているが、現在祭神にまつわる行事は残っていない。
 氏子内で今に伝承する行事として飯能市長沢の諏訪神社から伝わったとされているササラ(獅子舞)がある。この行事は、昭和40年代に若年層の減少により新習いが不足したため一時期絶えていたが、ササラ関係者の努力により見事に復活されている。
ササラの諸役は「お役人」と呼ばれる。獅子は、雄獅子・雌獅子・判官の三頭で、その他の役割として蠅追い・花笠・法螺貝・笛吹がある。古くは氏子内に新しく入った養子に任される「天狗」と称する役もあった。ササラは神社境内で舞うほか、村内を回る途次に、当社に合祀された字神明台の神明社と愛宕台の愛宕社の元地及び浄国寺の各方角に向いて一庭ずつ奉納する習わしがる。
 ササラの曲目には「岡崎」「雌獅子隠し」「竿掛(さおがかり)」などがあり、それぞれの曲の前に「願ザサラ」を摺るところに、当地の獅子舞の特色がある。
     
                     正面鳥居の先にあるご神木の大杉(写真左・右)

 ところで、冒頭で解説した大類氏は武蔵七党の児玉党出身で大類五郎左衛門尉行義を祖としている。行義は秩父次郎行綱の子で、秩父平氏庶流であり、本貫地は秩父であろうと推測しているが、上野国群馬郡大類村発祥とする説もあり、ハッキリとは分かっていない。  
『新編武蔵風土記稿 大類村』
「大類村は、川越城及び江戸よりの行程前村に同じ。松山領にて入西(にっさい)に屬す、按に大類氏は當國七黨の一兒玉黨の人なるに、此邊同じ兒玉黨なる越生氏等が住せし由を傳へたれば、當村も恐らくは大類行綱が一族など土着の地にして、在名をもて氏には名乗しならん、かく古き村なることは論なし、既に上野國群馬郡宿大類村は、昔兒玉黨大類氏の居住せし地なる由傳へり」
「小名 鎌倉道
 西方川角村の境を云、こゝに鎌倉への古道あり、北の方苦林村より村内九町を過て、南方大久保・市場二村の間に通ぜり、今は尤小徑となれり、是は鎌倉治世の頃、上下野州より鎌倉への往來なれり、今も此細徑を北へ往ば、越邊川を經て兒玉郡本庄宿へ通ぜり、南の方は市場・大久保の境を過、高麗川を渡りて森戸・四日市場村の間をつらぬけり」
        
                             参道から入り口鳥居を望む。

『風土記稿』においても、上野国群馬郡宿大類村は児玉党大類氏が居住していた地である事が記されている。また通説で大類五郎左衛門尉行義は、武蔵国入間郡へ来住、大類邑(おおるいむら)を開拓し、在地名である「大類氏」と名乗ったというのだが、行義が来住時、すでに当地は「大類」という名称であったという矛盾を生じてしまう。
 結果論でいうと、『風土記稿』に記載されているように、この大類行義はこの当地土着の一族である可能性は否定できないのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「毛呂山町HP」等

 

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川角稲荷神社


        
            
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町川角2201
            
・ご祭神 稲荷神(推定)
            
・社 挌 旧無格社
            
・例祭等 秋祭り 1017
 川角八幡神社から一旦南下して「川角」交差点に戻る。この交差点は埼玉県道114号川越越生線と同県道39号川越坂戸毛呂山線との分岐点でもあり、交差点を左折し、県道39号川越坂戸毛呂山線に合流、東行する。2㎞程進んだ後、そこの十字路を左折し、350m程北上した丁字路の角付近に川角稲荷神社は静かに鎮座している。
        
                                 川角稲荷神社正面
 当地は毛呂山町の北東に位置し、坂戸市に隣接する。大字川角ではあるが、大字大類を隔てて川角の飛び地の形となっている。古くは勝呂郷玉林寺村と称し、『風土記稿』に「かく古より開けし地なるは勿論なれど、其地広からずして、一村落とするに足ざるをもて、昔より川角村に隷して、村民の戸数も本村の内に籠りし」とある。
 古来、川角の飛び地である玉林寺村では当社を氏神としてきたが、大正元年に川角の八幡神社へ合祀したため、八幡神社の氏子となり、更に旧知へ復したことから昭和二九年以降は再び当社を氏神としている。

「玉林寺村」の名称由来は、『風土記稿』等には全く記されていない。但し『日本歴史地名大系 川角村』には「村名は越辺川の大屈曲部にあたることからという。もと川門と書き、九日市場村(のち市場村)を含んでいた(風土記稿)。枝村に玉林寺(ぎよくりんじ)村がある。応永一八年(一四一一)没した京都建長寺前住持如春少林が一時玉林寺に住していた(空華集)」と記されていて、その当時、この地域にあったのであろう「玉林寺」が名称由来となっているように思える。

 当地の小字塚原の地名は、六・七世紀の古墳が数多く散在していることによる。塚原の地内からは太刀・玉などが出土して、その古墳群の主塚を中心に「苦林野(にがばやしの)古戦場跡」といい、貞治二年足利・芳賀(はが)の両軍が戦陣を張った所で、県旧跡となっている。長塚の上にはその供養塔が建ち、近隣の小塚は合戦戦死者を埋めた跡とも伝えている。
 またこのあたりは丘陵地域で畑が多く、養蚕の盛んなころには一面の桑原であった。戦後は養蚕も少なくなり、農業をしながら勤めに出るようになった。こうした変化に伴い,作神として尊ばれていた榛名・御嶽・大山の代講も中止となり、畑に立つ雹除け・嵐除けの神札も見られなくなった。
        
                                       拝 殿
 稲荷神社 毛呂山町川角二二〇一(川角字塚原)
 鎮座地である玉林寺は川角の飛び地とされ、永禄年間には太田大膳亮が領していたと伝え、当社は開村のころからその鎮守として祀られている社であるという。
 当地は江戸時代には玉林寺村と称し、川角村に属し、年貢は川角村と一本であったが、他の面では一村とみなされていた。『風土記稿』は、川角村に隷すと記しながら玉林寺村を一村として扱い、当社について「稲荷社 村の鎮守なり、百姓持」と載せ、社蔵の宝歴三年の棟札にも「奉修覆當村鎮守稲荷明神社天下泰平攸 武刕入間郡玉林寺村氏子」とある。しかし『郡村誌』には川角村の項に当社を挙げ、「東方飛地にあり宇迦魂命を祭る」と、飛び地として扱っている。
 明治五年に川角村の八幡神社が村社となり、当社は無格社となったが、その後のいわゆる一村一社制により、大正元年に八幡神社へ合祀された。しかし、合祀後も旧来信仰してきた神社を一朝にして廃することは忍び難く、また、川角の八幡神社へは当地が飛び地として扱われていたことから距離があり、参拝の便も悪いため、合祀後もそのまま旧地に残された社で祭祀が続けられていた。このような中で、戦後まもなく旧氏子により社を元に戻そうとの働き掛けが行われ、昭和二九年登録認証されて現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                 こじんまりと佇む社
 古くから玉林寺の鎮守として信仰されている。氏子の間では、稲荷様は何事もかなえて下さるありがたい神様といわれ、様々な事が祈願される。
 1017日の秋祭りの前日、夕方には灯籠に灯が入り、氏子は「宵待(よいまち)」と称して神社に参拝する。以前は拝殿に若衆が籠って一晩中飲み食いし、各戸から薪を出して境内で焚き、子供たちが太鼓でにぎやかに囃したという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

 

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川角八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町川角1233
             
・ご祭神 (主)誉田別尊 (相)天照皇大神 春日大神
             
・社 格 旧川角村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例大祭1010日前後
 東武越生線川角駅から北方向に進むこと1㎞程、埼玉県道114号川越越生線と交わる信号のある丁字路に達し、そこを左折する。県道を西行すること1.3㎞程にて「川角」交差点に到着、そこを右折する。道幅の狭い道路ながら両側には新旧の住宅が立ち並び、速度を落として安全に進んでいくと、正面遠方には越辺川右岸の豊かな山林が一面に広がり、その中に川角八幡神社の石製の白色鳥居が小さいながらもハッキリと見えてくる。社とは道を挟んで東側に「社務所・集会所」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
                  
川角八幡神社正面
『入間郡誌』による川角村の解説によれば、「川角村は入間郡の西北部に位し、北は比企郡今宿村に境し、東北に入西村あり。東南に大家村あり、西に毛呂村及越生町あり。川越町を去る四里。地勢西北境は丘陵なれども、村内概して広濶なる平原地にして、林野連り、河流の流域には水田を見る。土質も西北部は粘土或は砂土にして、其他は大抵黒色若くは赤色の軽鬆土也。農業の外、養蚕、製茶等の業盛にして、絹、麦、米、茶等は主要なる産物也。川角、西戸(さいど)、箕和田(みのわだ)、苦林(にがばやし)、大類(おおるい)、西大久保、市場、下川原の八大字より成る。
 川角村の地方古墳甚だ多し。殊に大字川角の東部及其飛地玉林寺の如きは其類頗る多く、玉林寺には一望一二町歩の間、約二十七八個の古墳を存する処あり。古は殆ど一面の古墳なりしならん土人呼で塚原と云ふ。塚を崩して出てたる玉石は道路普請等に用ゐ、石棺の板石は橋梁敷石等に用ゆ」と記載されている。
 また同じく『入間郡誌』には「大字川角」の解説も載せていて「川角は元川門とも記し、村の西部より中央部に及び、別に大類を隔てゝ、玉林寺と称する飛地を有せり。戸数一百十余。鎌倉街道の跡は其東部にあり。道に接して寺地の蹟あり。宿駅の存せし処あり。今や草生蟲嗚古の面影を見るべからず。小室氏、清水氏、岸氏、仲井氏を以て古しとなす」と、嘗て川角村は「
川門」と記されていたこと、また「玉林寺」と称する飛び地がある事(現在でも同じ地に飛び地はある)等を解説している。
              
                          入り口付近に建つ「道祖神」の石碑
  それぞれ側面には「右 川越道」、左側面には「左 坂戸道」と、嘗ての道標となっている。
            昔から人の往来が盛んな道であったのであろう。
        
 川角八幡神社の創建年代等は不詳ながら、平安時代にはすでに存在していたと伝えられていて、鎌倉時代には、源頼朝が奥州征伐の際に八幡神社に戦勝祈願をし、勝利を収めたことから、八幡神社は武神として広く信仰されるようになった。貞治2年(1363)の苦林野合戦により焼失、社地を当地に改めて応永年間(13941428)再建したという。江戸期には江戸幕府より社領55斗の御朱印状を慶安2年(1649)受領、明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格している。
『新編武蔵風土記稿 川角村』
 八幡社 天照大神春日明神を相殿とせり、社領五石五斗の御朱印は、慶安二年に賜ひし由を云へど、小名に神田の名あり、もし當社の領地を唱へしならんには、舊くより社領ありしこと推て知るべし、南藏寺の持、
 南藏寺 新義眞言宗、今市村法恩寺の末、金剛山地藏院と稱す、前住英純今法流開山と定む、本尊薬師は銅立像にて、長一尺餘、天竺渡来の像なりと云、
 古碑 延文三年十二月十日と彫せり、

      参道途中で、境内右側にある芭蕉句碑とその案内板(写真左・右)
 毛呂山町指定記念物 史蹟 芭蕉の句碑
 昭和三十七年四月一日指定
   道傍の むくげは馬に 喰れけり(芭蕉翁)
 この句は、松尾芭蕉が馬上からむくげの花を眺めていた時、乗っていた馬が花をぱくっ、と食べてしまった様を詠んだ一句です。
 左側面と裏には<三世春秋庵連中 文政十二歳次(一八二九)己丑春三月>とあります。三世春秋庵とは、毛呂山の俳人川村碩布のことで、建碑の当時、この地の俳壇は春秋庵の最盛期でした。碩布は、文化十三年(一八一六)に春秋庵を継承し、三世と称しました。
 この句碑は、碩布の一門が建てたもので、句を記したのも碩布であると言われています。
 当初は、大字川角にあった南蔵寺の境内に建てられていましたが、大正三年(一九一四)に当地に移転しました。(以下略)
                                      案内板より引用
 
       
                    拝 殿
 八幡神社  毛呂山町川角一二三三(川角字宮前)
 当社の鎮座する川角は、越辺川流域の低地・台地に位置し、その地名は、地内で越辺川が大きく屈曲することから名付けられたという。
 社記によれば、源頼朝が鎌倉に幕府を開いたころ、当地は既に村落を成していたとあり、当社は敬神の念が厚いその村人によって創建された社であるという。
 中世においては、鎌倉街道が地内を通っていたため、川角の村は繁栄し、人家も田畑も増え、当時近郷に並ぶものがないほどの大伽藍を誇った崇徳寺が建立されるに至った。
 しかし、貞治四年六月、足利基氏と芳賀高貞との戦いの際、兵火に罹り、当社も崇徳院も烏有に帰した。当社はその後、応永年間に社地を改めて再建されたが、崇徳院は再興ならず、地名にその名を留めるばかりとなっている。
 近世においても、当社は真言宗南蔵院を別当として栄え、慶安二年には五石五斗の朱印地を賜っている。
 明治初めの神仏分離により南蔵寺の管理を離れ、明治五年に村社となった。また、大正元年に字原の稲荷神社を合祀したが、同社の氏子であった人々の強い要望により、昭和二九年に旧地に戻された。
 祭神は誉田別尊で、天照皇大神と春日大神を配祀するが、これは室町末期から流布された三社託宣によると思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」に記されている「苦林野合戦」とは、南北朝時代の貞治2年(1363年)に、鎌倉公方・足利基氏と宇都宮氏綱の重臣芳賀禅可が鎌倉街道沿いの苦林野で戦った合戦である。
  室町幕府を開いた足利尊氏の子、足利基氏は、鎌倉府長官の鎌倉公方となり、補佐役である関東管領に上杉憲顕を起用した。また下野の武将宇都宮氏綱から越後守護職を剥奪し、憲顕に与えた。
 宇都宮氏綱の重臣芳賀禅可(はがぜんか)は処遇に腹を立て、憲顕が鎌倉へ出仕するのを見計らって襲撃しようとした。この動きをきっかけに、足利基氏は総勢3,000人余りの軍勢を率いて鎌倉街道を進み、一方芳賀禅可は、嫡子高貞と次男高家に800騎を与えて戦いに向かわせた。
基氏軍と芳賀軍は、苦林野付近を舞台に激しい戦いを繰り広げ、足利基氏側が戦に勝利し、芳賀軍は宇都宮へ敗退したという。
 合戦の舞台となった苦林野一帯には、古墳時代の古墳(67世紀頃の豪族等のお墓)が数多く残されている。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の「苦林野図」には、前方後円墳のほか、多数の古墳が描かれている。 
 その中の1基である苦林古墳(大類1号墳)の上に、苦林野合戦供養塔がある。前面に千手観音像、背面に貞治4年(1365年)617日にこの地で、足利基氏、芳賀禅可両軍の戦があったことが刻まれている。
 
     拝殿向拝・木鼻部の細やかな彫刻        拝殿上部にある「八幡宮」の扁額
        
                                       本 殿
 当社の信仰としては、この地域では嘗て「八幡神社」の掛け軸が氏子の各家を回る信仰があった。八幡様と呼ばれるこの掛け軸は、箱に納められてあり、回す順番を記した板と共に一年中各戸に受け継がれた。八幡様が回ってくると、各家では床の間に掛けて、御飯を供え灯明をともして祀った。翌朝、当主が八幡様の前に座り「おかまいもできなくて申しわけありませんでした」と拝礼してから、隣の家に持参し「八幡様が来ましたので、おたの申します」と言って受け渡した。八幡様が泊まっていただく期間は一軒の家に一日から三日間ぐらいが慣例であった。また、ブク(忌服)の家は四十九日を終えるまでの間は八幡様を頂いてはいけないといわれ、この家を寄らずに隣の家に回された。

 また古くから氏子により続けられている芸能として、毛呂山町滝ノ入から伝わったものといわれるササラ(獅子舞)があり、現在でも例祭等にて奉納されている。獅子舞は、五穀豊穣や無病息災を祈願したもので、獅子頭をかぶった舞手が、勇壮な舞を披露している。
 獅子は雄獅子・雌獅子・判官の三頭で、判官は、その舞い方から別名「暴れ獅子」とも呼ばれている。そのほかの役割は、ササラッコ四名・笛吹四名から八名・蠅追い(はいおい)一名・法螺貝一名である。曲目は「前街道」「摺り込み」「宮廻り」「礼拝」「土俵の入」「塵摺り」「花掛り(はながかり)」「女獅子隠し」「發綾取」「七ッ五歌」「宮ぼめの歌」「並び摺り」「一列回り」「九座のササラ(漢字変換)」「一列並び」「水引上げ」「魚へん+尊 猫」「網掛」「發上げ・發下げ」の二十通りである。
 
        境内にある「宝篋印塔」とその案内板(写真左・同右)
 毛呂山町指定
 有形民俗文化財 八幡神社の宝篋印塔
 この宝篋印塔は、現在の川角小学校の場所にあった越生町法恩寺の末寺である南蔵寺の境内に置かれていたものである。南蔵寺は、明治時代初めの廃仏毀釈により廃寺となり、宝篋印塔も大正三年(一九一四)二葉学校(現川角小学校)の拡張に伴い、現在はる八幡神社の境内に移動された。江戸時代の天明八年(一七八八)正月に建てられたもので、当時多くの餓死者を出した天明の飢饉に対する供養塔と考えられる。平成二年(一九九〇)二月十五日、現在位置に移転改修する際、塔身(中段の方体部)の中に宝篋印陀羅尼経、観音経、般若心経等が納められているのが確認された。宝篋印塔は、平安時代末期から建立され始め、鎌倉時代から江戸時代にかけて数多く建立された、塔身に宝篋印陀羅尼経を納める供養塔である。町内に残る石塔の中では大型で優美な造りであり、たいへん貴重である。
 平成三年二月二日

                                      案内板より引用
 
       「大黒天」の石碑           拝殿手前で、道路側に祀られている
                              境内社・八坂社 
       
                          荘厳な雰囲気を醸し出している境内 

 ところで、越辺川右岸の台地上に位置している川角八幡神社に沿って南北に走る道路を北上すると、下り坂となり、その先には越辺川が流れ、その川に架かる「宮下橋」を渡る。越辺川の右岸一帯は豊かな山林となっているのに対し、左岸は景色が一変し、なだらかな平原となる。「西戸グラウンド」という運動場もあり、学生さんたちが暑い天候の中、汗を流しながらスポーツを楽しんでいた。
       
                                越辺川右岸方向を撮影 
       
                                  長閑な越辺川左岸
 目の前にある長閑な風景は、一見平穏そのものの印象が強いが、20191012日台風19号が日本に上陸し、関東・甲信・東北地方を中心に記録的な豪雨災害をもたらした。毛呂山町も、河川の越水や、土砂崩れ、住家浸水など大きな被害を受けた。この西戸グラウンドも、越辺川の越水により冠水したという。 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の神社」「毛呂山町HP」「境内案内板」等
        
      
        
          
   

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