古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

伊古田五所神社

 椋神社(むくじんじゃ)は、「延喜式神名帳」に掲載された武蔵国秩父郡の式内社である。
 総本社といえる秩父市下吉田地域に鎮座する椋神社の旧社格は県社。元は井椋(いくら)五所大明神と号しており「いくらじんじゃ」が本来の呼称である。近世になり地元以外から「むくじんじゃ」と読まれることが多くなり現在の呼称になったという。
 現在「椋神社」と号する社は、秩父郡に五社あり、明治政府はいずれの神社にも式内社と称することを許したという。
 ・椋神社(埼玉県秩父市下吉田)
 ・椋神社(埼玉県秩父郡皆野町皆野)
 ・椋神社(埼玉県秩父郡皆野町野巻)
 ・椋神社(埼玉県秩父市蒔田)
 ・椋神社(埼玉県秩父市蒔田)
 伊古田地域に鎮座する五所神社は、口碑に「その昔、当社は椋神社と呼ばれていた」とあり、社頭にも「椋神社」の社号額を掲げるところから、往時はこの社名を称していて、秩父市下吉田の椋神社を分霊したと言われている。
        
              
・所在地 埼玉県秩父市伊古田598
              
・ご祭神 猿田彦命 経津主命 武甕槌命 天児屋根命 姫大神
              
・社 格 旧伊古田村鎮守
              
・例祭等 例大祭(春祭り) 44日 秋祭り 927
                   
大祓 12月大晦
 太田熊野神社の南側で東西に流れる道路を西行し、「太田」交差点を左折、埼玉県道270号吉田久長秩父線に合流後、1㎞程進んだ先のY字路を右方向に進路をとる。荒川水系赤平川の支流である長森川に沿って続く道路を900m程進むと、進行方向左手に伊古田五所神社の赤い鳥居が見えてくる。
        
              道路沿いに鎮座する伊古田五所神社
『日本歴史地名大系 』「伊古田村」の解説
 品沢村の西方、赤平川支流の長森川流域に開ける。西は下吉田村(現吉田町)、北は太田村。田園簿には井古田村とみえ、高一二七石余・二五貫四五四文とある。田園簿では幕府領、同領のまま幕末に至る。「風土記稿」によると家数五〇、男は農業の合間に山で薪をとり、女は白絹・木綿を織っていた。産物は絹・煙草・大豆・干柿などで、「郡村誌」は特産として繭・生糸などをあげる。鎮守は御所明神社、ほか七社を祀り、曹洞宗大林寺ほか二寺・三堂があった(風土記稿)。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 伊古田村』
 御所明神社 村の中程にあり、祭神大日靈尊、例祭二月・八月廿七日、神司吉田家の配下、船橋某が持なり、村内鎭守、
 天滿天神社 稻荷社 諏訪社 疱瘡神社 天狗社


 五所神社  秩父市伊古田五九八(伊古田字十王殿)
 鎮座地伊古田は、荒川水系赤平川の支流である伊古田川流域に位置する山間の村である。
 創建については、その資料を欠くため、明らかにできないが、口碑に「その昔、当社は椋神社と呼ばれていた」とあり、社頭にも「椋神社」の社号額を掲げるところから、往時はこの社名で呼ばれていたことは明らかである。
 現在「椋神社」と号する社は、秩父郡に五社あり、このうち吉田町下吉田に鎮座する社は古社と伝え、「井椋五社大明神」と号していたことが『風土記稿』に見え、祭神を猿田彦大神、武甕槌命、経津主神、天児屋根命、姫大神の五柱としている。
 当社は、吉田町鎮座の椋神社をこの地に分霊したことに始まると思われ、「五所」という社名も、この五柱の祭神からきたものであろう。なお、『明細帳』では祭神を、久々能知命・大産霊命・金山彦命・埴山姫命・弥津波能売命に代えているが、これは、鎮座地の小名を十王殿と呼ぶことから、明治期の明和帳書き上げの折、冥府で亡者を裁く、十三と神導の幽世の神話と結び付けた結果と思われる。
 造営記録では、寛政九己\丁歳四月八日の本殿再建棟札があり、これには当地祀官船崎相模守と秩父大宮秩父神社祀官の宮前丹後守の名が見える。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                    神楽殿
 行事に関しては、元旦祭・春祭り(44日)・秋祭り(927日)・大祓(12月大晦日)の計4回執り行われている。
 春祭りが大祭で、市内太田の熊野神社の神楽師を招いて神楽殿で春神楽を奏するのが習わしである。現在の神楽殿は昭和43年の造営であるが、それ以前は毎年各戸から繩一房と筵一枚集めて、材木を組んで舞台を掛けたという。
 この神楽は、氏子から「太田の太々」の名で親しまれ、神楽舞の中でも大黒様やヒョットコの踊りはほかの神楽では見られない楽しさがあるという。
 
     社殿左側に祀られている境内社      社殿右側には境内社・天神社が祀られている。
       疱瘡社・稲荷社
 残念ながら、諏訪社・熊野社及び八坂社の石祠があるとされる場所は,よくわからなかった。
        
 当社は吉田町鎮座の椋神社の分社と思われるが、本社と同様に「稲の神」として祀られたものと推察され、古くから「明神様」あるいは石棒(16㎝位)を祀っていることから「マラ明神」と称されて伊古田の鎮守として厚く信仰されているという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
  

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田村神社


        
             
・所在地 埼玉県秩父市田村977
             
・ご祭神 天神七柱と地神五柱の尊 禰都波能売神
             
・社 格
             ・例祭等 元旦祭 11日 祈年祭 2月建国記念日前の日曜日
                  例大祭 4月第2日曜日 秋祭り 10月第1日曜日 
                  大祓い 
1223
 上蒔田椋神社から国道299号線を1㎞程西行し、「大寶山圓福寺」の社号標柱が見える丁字路を左折、200m先にある丁字路をまた左折する。「天龍橋」を越えた正面には上記寺院の立派な山門があるのだが、寺院の駐車場付近から右側を見ると、小高い山と共に一対の幟旗ポールが小さいながらも見えてくる。駐車場の手前にある路地を山方向に進路をとると、道幅の狭い道路の先に田村神社の正面鳥居が見えてくる。
        
                                   大寶山圓福寺正面
 正面に見えるのは大寶山圓福禅寺山門で、平成18328日に市指定有形文化財(建造物)に指定されている。この寺は、応安6年(1373)創建と伝えられ、秩父を代表する古刹である。元禄8年(1695)の火災の後、山門は享保16年(1731)に再建された。
 山門の規模は、正面7.9m、側面5m、高さ11.9mで、両側面に反りを持たせた梁(はり)の下に間柱(まばしら)を立て、横の力に強さを持たせている。また、天明7年(1787)、高辻中納言菅原胤長(たねなが)の「東關禪林」(とうかんぜんりん)の勅額が掲げられるという。
        
          大寶山圓福寺の駐車場手前の路地から社方向を撮影
 社は、鳥居正面入り口も国道から奥に入った場所にあり、更に小高い山の中腹で、鬱蒼とした森の中に鎮座している。目立つことなく、ひっそりと地元住民を見守って来たという第一印象。
        
                  田村神社正面鳥居   
  周辺には社号標柱もなく、よく見ると鳥居の社号額には「諏訪神社」と表記されている。

 正面の鳥居に一礼し、参拝を開始する。山の中腹に社は鎮座しているので山道を登ることは覚悟していた(写真左)ので、このジグザグに曲がりながらの石段を登ることは想定範囲内だが(同右)、それでも息は上がる。
 
  ジグザグの石段を登ると二の鳥居に到着        二の鳥居から参道は真っ直ぐ社殿に向かう
『日本歴史地名大系』 「田村郷」の解説
 寺尾村の南西方丘陵地にあり、北東は蒔田村、北は品沢村、南西は長留村(現小鹿野町)。丘陵谷間を流れる蒔田川の上流域に田畑が開ける。寺尾村とは小鹿坂(おがさか)峠越で結ばれる。地名の起りは往古、田村権守という者が住していたためと伝える(風土記稿)。田園簿には高二五三石余・五〇貫七六八文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高三〇一石余、享保一八年(一七三三)幕府領に復し(「風土記稿」など)、幕末の改革組合取調書によると旗本牧野領。

『新編武蔵風土記稿 田村郷』に「村名の起こり往古田村權守と云へるもの、此所に居住せしより唱へけるにや、今尚邸跡あり、又禪宗にて白崖一派の道場と稱するあり、末に載す、是を田村派と云へり、郷の唱村の字の重なるを避ての故ならんか、御打入以前は北條家の分國なるよし、されば田村權守の領せし地なるや」「屋敷跡 圓福寺の前なる大門平にあり、土人相傳へて田村權守なるもの住居せし所なりと云ふ、事跡詳かならず」と記されていて、田村の村名由来の一説に紹介されている「田村權守」という人物の正体が現在でもハッキリと分かっていないようだ。
        
                            ひっそりと静まり返った境内
 鳥居正面附近の目立たず、ひっそりと佇むという第一印象とうって変わって、この境内一帯には、鬱蒼とした木々に囲まれ神聖な雰囲気を醸し出していて、我々一般市民が住む世界とは一線を画しているような別次元の空間がそこにある。まさに「隠れ家的な社」。

    参道左側に設置されている案内板          右側には手水舎がある。
 田村神社  御由緒  秩父市田村九七七
 ◇拝殿の格天井には氏子の家紋が飾られている。
 鎮座地田村は、荒川の支流である薪田川を遡り左岸の丘陵部にあり秩父市の中央部と小鹿野町の間に開ける農業地帯である。地名の起こりを『風土記稿』では「村名の起り往古田村権守と云へるもの、此処に居住せしより唱えけるにや今尚邸跡あり」とし、『秩父志』では「田村郷ハ武光庄ニ属ス、此村名義文字ノ如ク往古ヨリ田多卜云意ヨリ田村ト称へシナルベシ」としている。
 当社は集落の南に位置する諏訪山の中腹にあり、社記は「文安三年(一四四六)勧請」としているが、口碑には「天文年中(一五三二~一五五五)の創立」ともいう。
 明治四十二年(一九〇九)二月、合計三十二社を字諏訪山無格社諏訪神社本殿へ合祀の上、社号は地名大字に基き田村神社と改称した。
 なお、本殿に安置されている石棒は、天明二年(一七八二)八月に氏子の宮田喜兵衛が地から発掘したものである。
 ◇御祭神
 ・天神七柱と地神五柱の尊
 ・禰都波能売神(以下略)
                                      案内板より引用

 田村神社の御祭神の一柱である「禰都波能売神」は「みづはのめのかみ」と読み、『古事記』では同名、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命等とも表記され、淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。
『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。 
        
                    拝 殿
 明治422月、諏訪神社社掌宮下正作は『合祀願』の中で、字諏訪山之社・森下八社・鬼ヶ沢五社・駒沢六社・水神沢五社・諏訪平五社の計32社の社名をあげ、「右神社義は崇敬上設備の完全期し度候に付同町字諏訪山無格社諏訪神社本殿へ合祀の上、社号は地名大字に基づき田村神社と改称し度跡建物の義は売却の上保存資金として蓄積致し度候間此段奉願上候」と記している。この時、社名は直ちに決定をみたが、村社をどこにするかは話し合いがつかず、入札で当社に決まった。合祀後は、社前に合祀社名を掲げるなど神職は気をつかったが、各耕地では、残ったお堂などで従来からの日待が続けられ、問題は起こらなかったという。
 
      拝殿に掲げてある扁額        社殿の右側に祀られている境内社・八坂社
        
                社殿から二の鳥居を望む。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「秩父市HP
    「Wikipedia「境内案内板」等

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太田熊野神社


        
              
・所在地 埼玉県秩父市太田1320
              
・ご祭神 熊野権現(伊弉諾尊 伊弉册尊 天照大神
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 祈年祭 2月17日 例大祭(春祭り) 43
                   新嘗祭 11月24日  
 秩父鉄道皆野駅から埼玉県道43号皆野荒川線に合流し1㎞程西行し、荒川を越えた「皆野橋」交差点を左折する。その後、すぐ先にある「小柱」交差点を右折、周囲は山間の勾配があまりない田畑風景が広がる長閑な風景を愛でながら、赤平川に沿った上記県道を西行2.5㎞程進んだ十字路を右折し、暫く進むと、太田熊野神社の鳥居が見えてくる。
 
  まず社の参拝前に気になっていたものを紹介。太田熊野神社の鳥居のすぐ東側にポツンとある「旧大田村高札場」(写真左側。設置されている案内板は右側)。
 この高札場は、旧小鹿野街道に面し、切妻造、瓦葺で、高札場としては珍しく、装飾の多い豊かな形式で、当時この地方の平和が偲ばれる高札場であるという。
 石積み基壇上にあり。破風に懸魚を付け、腕木には装飾彫刻を付するなど高札場としては立派な構造である。
 県指定史跡 旧大田村高札場
 徳川初期の頃人々に衆知する一方法として使われたものが高札場である。
 重要な事項を掲示し、その徹底をはかったもので、後になっても続き街道筋や村々に必らず存在したものとしては、現在きわめて類が少ないものである
 高札の始めは、慶長八年三月幕府が、関東郷内に掲文し一般住民の村領主、代官関係、年貢訴訟等の事を知らせたものである。
 寛永十年七月人売買、又は一円停止、条々より高札は時折り出されたが、県内に残る制礼は正徳元年五月の親子、兄弟、茶々、駄賃及び人足、荷物、切支丹禁制等、享保六年二月鉄砲取締り、明和七年四月徒党取締り、天明八年九月浪人取締り等が主たるもので、無年貢地とし村の高札に諸設備等とも村負担でおこなったものである。
 この高札場は、旧小鹿野街道に面し、切妻作り瓦葺で、装飾の多い豊かな形式で、当時地方の技法を充分生かし、いやみのないものである。
昭和四十二年三月二十八日県指定(以下略)
                                      案内版より引用

        
                  「旧大田村高札場」からすぐ西側にある社の社号標柱
『日本歴史地名大系 』「太田村」の解説
伊古田(いこた)村の北に位置し、北東は堀切村、南は品沢村など。北は西流する赤平川を境に野巻村(現皆野町)、南西は同川を隔てて久長(ひさなが 旧吉田町)村など。地内には縄文時代中期、古墳時代後期、奈良・平安時代の集落跡がある。また太田条里遺跡があり、秩父郡丹田(にた)郷(和名抄)を当地に比定する説もある。地名の起りは一円に田が多く、多田の意(秩父志)、郡中では田の多いところであるから(増補秩父風土記)などとされる。

 秩父は昔から米作に向かない土地柄であった。山間で平地が少ないこともあるが、秩父盆地の中は荒川の流れがつくった河成段丘の段丘面の上に立地し、ここは嘗ての川原の堆積物である小石が多くて水が浸透してしまい、さらに傾斜地も多かったため、限られた場所でしか水耕ができなかった。
 米が作れない土地では収穫高の多い果樹や茶の生産を行うところもあるが、秩父は寒冷地で適さない。そこで植えられたのは「桑」である。桑は、湿地を嫌い、寒冷地や山地の痩せ地でもよく育つ植物で、蚕のエサとなる。蚕がつくる繭は、絹糸の原料で、絹織物は価値も高く、江戸時代以降、金納による年貢を担うための重要な産業になる。秩父で養蚕が盛んになったのは必然のことだった。
        
                               
太田熊野神社正面両部鳥居
 明治時代の地図をみると、秩父盆地の中は田んぼが少なく畑ばかりで、江戸時代、米の取れないこの地方では年貢を米で納めることができず、作物などをお金に換算して納める「金納」であった。
 このように水耕に適しない土壌が主である秩父盆地の中にあって蒔田地域と太田地域では、川が浅いところを流れていた。元々この地には荒川や赤平川の支流が流れていたが、本流が深いところを流れるようになると上流が本流から切断され、その後浸食を受けずに済んだという。上流から砂利が流れこまなくなったため泥質の土地となり、川が浅いので水利もよく、谷をせき止めてため池がつくられたこともあり、蒔田と太田はその地名のとおり古くから米どころであった。
        
        社号標柱から境内まで150m程の長い参道の先に社殿は鎮座する。
              赤平川を背にして社は建っている。
        
                    拝 殿
 熊野神社 秩父市太田一三二〇(太田字門脇)
 太田は、荒川支流赤平川の右岸に開ける秩父地方最大の穀倉地帯で、太田千枚田とも呼ばれ、水田が広がっている。地内には奈良期の条里制跡があり、古くから開かれている所である。
『風土記稿』に「熊野社 小名内出の鎮守とす、例祭は二月十五日、村民持」と載せている。また、社記には「文化七年十一月三日当所富田右門芳功、同吉衛門吉忠の両名により、紀伊国熊野権現を勧請す」とある。これを裏付けるものとして、社蔵の旧本殿棟札がある。
 天下泰平国家安穏大小氏子家門繁栄子孫長久、武蔵國秩父郡矢幡庄太田村鎮守、奉正遷宮熊野三社大権現伊弉諾尊伊弉冉尊天照大神、一座宮殿常磐堅磐鎮護攸・文化七(午\庚)歳十一月吉日、祭主富田右門芳功倅富田吉衛門吉忠〔裏面〕上棟信心諸願成就攸・同國榛澤郡深谷宿・棟梁坂本丈助
 富田家については、『風土記稿』に「寛政四年御代官萩原弥五兵衛支配せし頃、此地を割て伊奈小三郎が家従、富田吉右衛門が給地に給ひ云々」とある。
 明治五年に村社となり、同四一年西原の柴宮社、富田の諏訪社、山際の秋葉社、西田戸の三島社、田中の諏訪社、大ノ谷の天神社、中道の八幡社、蛭ヶ沢の石神位社を合祀し、同四三年に本殿を再建した。
 祀職は現在、御先達様と呼ばれる船崎家が奉仕している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
    拝殿上部に掲げてある扁額            社殿の左側にある土蔵
        
                   社殿右側奥に祀られている境内社、及び石祠
 境内社に関しては、左より稲荷社・諏訪社・秋葉社・琴平社・愛宕社。石祠三基の詳細は不明。
       
           社殿右側に聳え立つけやきのご神木(写真左・右)
 市指定天然記念物 熊野神社のけやき
 昭和四十七年四月六日指定
 熊野神社は、文化七年十一月紀伊国熊野権現より分身祭祀したといわれ、このときすでにこのけやきは、神域の象徴であったといわれます。
 四方に伸びる枝張りの構成もみごとで、目どおり六米四十糎、樹高三十五米、枝張り二十五米もあり、地表十米附近より六本の枝にわかれています。
 枝そのものも樹幹の相をみせて、樹勢、樹肌もよく、旺盛な感じをもつけやきで、樹令約六〇〇年を推定することができます。
 古くから、干魃の際は氏子総出で、「ぼんぜん」と称する幣を、樹上にゆわえ雨乞いをしたので、土地の人々は、雨乞いのけやきとも呼んでおります。
 秩父市教育委員会 熊野神社
                                      案内板より引用

『新編武蔵風土記稿 太田村』には、「東西凡一里許、南北凡十二町に餘れり、村内東西北の三方平坦にして、南の方に高からぬ土山の僅に存するのみ、土人の伝しに郡中にて平坦なる村は、僅に二三ヶ村なりと伝へるが、卽ち此村も其内なりとぞ、故に水陸の田多く、されども陸田よりも水田は少なし(中略)田用水は上水なくて水をつゝみ、或は溜井を用ひけるゆへ旱損の患あり」と記載され、近年までは雨乞いが盛んに行われていた土地柄でもあったようだ。
 更にこのご神木には、雨乞いの場に梵天を立てたという。この梵天とは、祭礼等に用いられる、大型の御幣で、棒の先端に球状の装飾物を着けた物ではないかと考えられる。
        
             ご神木の手前に設置されている案内板
市指定天然記念物 熊野神社のけやき」と共に「市指定無形文化財 大田熊野神社の神楽」も掲示されている。「熊野神社のけやき」は上段を参照。
「市指定無形文化財 大田熊野神社の神楽」
 昭和三十六年九月二十七日指定
 この神楽は明治十年二月秩父神社社家権代講義丹後守が、土地の風間巳之吉、富田玄内、富田馬次郎、武島喜内、富田金三郎、富田和十郎、富田倉次郎、青山巳弥吉、斉藤清五郎、鈴木健次郎の他各氏に教授したものといわれます。
 舞の形式は、里神楽岩戸神楽の系譜をひく秩父神社の神楽とほぼ同形で、舞の形式、所作をみても丹後守の直伝であることが立証されます。
 奏楽は総じて、秩父神社のものより大まかなところもありますが、伝承時の旧形態を忠実にとどめています。
 丹後守の教傳書による座は二十九座ありますが、野見宿弥の座、高千穂峰の座、オノコロ島の座、三韓征伐の座などがあることは、秩父神社の神楽と異なっています。これは荒川村白久系統や他の流派の曲目が村と村との相互関係で混入したものと思われます。
                                      案内板より引用

 神楽口伝奥書に「明治十年二月大宮権代講義丹後守殿教導伝書也」とあり、秩父神社神楽の系統であることが知られている。この神楽は秩父神社の神楽が一時中絶した時、その代わりに各地に出張し、今日でも、野坂町の秋葉神社、品沢の諏訪神社、伊古田の五所神社、野巻の椋神社などの祭礼に頼まれて奉仕している。
「埼玉の神社」によると、本来の神楽の座数は36座であったというが、現在では、奉幣に始まり、18座が舞われているという。
        
                         社殿から参道方向を撮影。
             参道の遥か延長線上には武甲山が見える。



太田地域は、東西一里許(4㎞程)・南北十二町餘(1.3㎞程)の広大な地域であったので、字毎に社が鎮座していた。故に今でも熊野神社の近隣には多くの社が祀られている。
【太田八幡神社】
        
              ・所在地 埼玉県秩父市太田14581
              ・社 格 旧太田村鎮守
              ・ご祭神・例祭等 不明
         太田熊野神社から東側300m程の近距離に鎮座している。
    長閑な田畑風景の中にこんもりとした社叢林があり、その中に社は鎮座している。
      境内西側にはしっかりとした駐車場もあり、そこに停めてから参拝を行う。
   太田八幡神社 駐車スペースから撮影          程よく手入れされている境内
 この社は「埼玉の神社」にも掲載されていない。創建時期等も不明。但し『新編武蔵風土記稿 太田村』において、「八幡社 村の鎭守、例祭八月十五日、村内龍藏寺持、」との記載があり、嘗ては太田村の鎮守社であったことがうかがえる。
       
                  社殿からの風景

【柴宮神社】
 太田熊野神社を南下し、一旦埼玉県道43号皆野荒川線に合流後、西方向に600m程進むと、県道沿いで進行方向右手に鎮座している。東側に隣接しているホームセンターの駐車場をお借りしてから参拝を行う。
        
              ・所在地 埼玉県秩父市太田395近辺
              ・ご祭神 茅姫命
              ・社 格 旧太田村田ノ原鎮守
        この社も「埼玉の神社」にも掲載されていない。創建時期等も不明。
『新編武蔵風土記稿 太田村』において、「芝宮社 小名田ノ原の鎭守、祭神茅姫命を祀ると云、例祭三月十五日、村民持、下同」との記載がある。
 
     こじんまりとした拝殿         拝殿には「柴宮神社」と記された扁額あり

 柴宮神社のご祭神は「茅姫命(かやのひめ)」で、日本神話に登場する草の神である。 『古事記』では鹿屋野比売神、『日本書紀』では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し、『古事記』では別名が野椎神(のづちのかみ)であると記している。
 神産みにおいて伊邪那岐命 (いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみ)の間に生まれた。 『古事記』においては、山の神である大山津見神との間に、48柱の神を生んだ。
 神名の「カヤ」は萱のことである。
 萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった。
 別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味であるという。


太田石神迸神社
 太田熊野神社の南側にある「秩父市立太田小学校」の東側斜面上に鎮座している。周辺には適当な駐車スペースはないため、路駐にて急ぎ参拝。
        
                           斜面上に鎮座する太田石神迸神社
        
                                 拝 殿
       この社も「埼玉の神社」にも掲載されていなく、創建時期等も不明。
 それなりに趣きのある社であるのにも関わらず、『新編武蔵風土記稿』にも「石山住社」しか記載がない。「石山」「石神」と頭につく社であるので、ご祭神は「大山津見神(おおやまつみのかみ)」と推測されるのだが、調べても何も分からない。
 それより、この社の名称自体読めない。だれか分かる方お教え頂きたい。

  太田石神迸神社の左隣に祀られている    一番左側に祀られている境内社・稲荷社
       境内社。詳細不明。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ジオパーク秩父HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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堀切駒形神社

 嘗て武蔵国は土地が平坦で良質な牧草の生育に適していたので、各地に官牧・勅旨牧(御牧)、私牧が発達し、良馬を産した。このうち官牧・御牧は、皇室や朝廷が使用する料馬を飼養し、武蔵・甲斐・信濃・上野の四ヵ国に置かれたという。
 武蔵国には「石川牧」(東京都)、「小川牧」(東京都)、「由比牧」(東京都)「立野牧」(東京都)などの官牧のほか、「秩父牧」「小野牧」「石田牧」「阿久原牧」の名が見え、他に文献に現れない小規模な牧や私的な牧があったと考えられている。
 秩父には10世紀に畿内政権が必要とする馬を生産する「秩父牧」が置かれている。この牧は、秩父郡から児玉郡の一部にまたがる広大な地域に所在していたと推定される牧である。延喜3年(903)貢馬の記録が初見。皇室の料馬を供給する勅旨牧で、年貢馬は20疋、貢馬日は813日と定められていた。天暦5年(951)には父馬2疋が下賜されている。
 秩父市・堀切地域には、「駒形社」が鎮座しているが、この社名は、牧馬と関係のあり、地形も小丘や台地が連続して牧場に相応しい地勢を示しているといわれている。
        
              
・所在地 埼玉県秩父市堀切368
              
・ご祭神 誉田別命 神功皇后 高良玉垂命
              
・社 格 旧堀切村鎮守
              
・例祭等 例祭 319日 秋祭り 108
 小柱諏訪大神社から一旦南下し、埼玉県道43号皆野荒川線と交わる丁字路を右折、県道を南西方向に進行し『新編武蔵風土記稿 堀切村』に載っている赤平川支流の澤川に架かる長坂橋を渡り350m程進んだ先にある丁字路を右折し、暫く北上すると進行方向右手にこんもりとした堀切駒形神社の社叢林と鳥居が見えてくる。
        
                  堀切駒形神社遠景
『日本歴史地名大系 』「堀切村」の解説
 太田村の北東にあり、東は小柱村、南は蒔田村・品沢村。北端は赤平川を境に大淵村(現皆野町)。田園簿には高四六石余・此永九貫三八七文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高六八石余。享保一八年(一七三三)幕府領に復す。その後、一時下総関宿藩領となったが、のち再び幕府領となる(「風土記稿」「郡村誌」など)。
「埼玉の神社」によると、
当所は江戸期には「堀切村」と呼ばれ、一村を成していたが、明治期には太田村に属した。更に太平洋戦争中に太田・三沢・日野沢・国神と合併し「美野町」と号し、その大字となっていたが、数年にして各大字が不和となり、旧に復し、昭和20年代秩父市に合併、現在に至っているという。
        
                鳥居正面から境内を撮影
        
                    拝 殿
 駒形神社 
埼玉県秩父市堀切三六八
 社伝によると「冷泉天皇の代、奥州安倍貞任征討の折、源頼義親子膽沢郡延喜式内駒形神社に誓い誓書を捧げ勝利有りて、臣秩父十郎武綱当村へ右社分霊を勧請す、其後天正三年武田信玄当郡に襲来し処々に放火す、此折当社も消失、里人これを嘆いて宮殿を再営し、奥州駒形神社より遷座す、天正一〇年鉢形北条氏崇敬厚く太刀一口を献上す」という。
 当地は秩父駒の産地といわれ、昭和初期に酪農が普及するまではどこの家にも馬を飼っており、台所脇に馬屋を設け、人馬共一つの棟に住んでいた。社前に二つの小山(念仏宇根・ねんぶつおね)・炭釜(すみがま)があるが、この小山の西側には馬捨て馬があったという。現に鳥居前にある二群の萱(かや)は「駒形様の萱」と呼ばれ、神馬の秣(まぐさ)ゆえに刈ることが禁じられている。社殿に向かって左に「駒形様の池」と呼ばれる古池があり、神馬の水飲み場・足洗い場とされている。内陣には木製彩色の神馬一対が奉安され、拝殿には石猿一対が飾られている。このほか、村内通行の危険な所数カ所には馬頭尊が祀られている。当社の創建は、このようなところから推察すべきかと思われる。また「駒形」が「高麗方」と通じるところから、高麗王との関係を説くものもある。
 祭神は、誉田別命・神功皇后・高良玉垂命の三柱である。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
            拝殿手前で向かって左側に鎮座する境内石祠群
         左側より大黒・八坂社・稲荷社・三島社・熊野社・諏訪社
        
  「埼玉の神社」では、社殿に向かって左に「駒形様の池」と呼ばれる古池があるとの
      ことであったが、草木で覆われている状態では池があるかどうかも不明。
     
             社殿の右側に聳え立つ巨木(写真左・右)
        注連縄等はないが、御神木であっても申し分ない程の貫禄ある姿

 当所は古くから「水旱の地」といわれ、「観天望気」が広く行われ、今も「岳(たけ)の権現様(武甲山)に霧が掛かると、二・三日中に必ず雨が降る」などといわれている。このため、嘗ては雨乞いが盛んに行われていた。まず梵天を神社の神水・榧(かや)に立てる。次いで武甲山・城峯山、遠くは赤城山・榛名山とその年に合わせて方向を定めて代参し水を頂く。これは若者の役目で、一番から三番まで班を決め、リレー式に水を受け継いで神社まで運ぶ。水が村に着くと、神社の境内に円を画くように撒いて雨を待つ。この間は、雨が降るまで仕事にもならず村人は幾日も酒を飲んで過ごしたという。

 因みに「観天望気」とは、自然現象や生物の行動の様子などから天気の変化を予測すること。また広義には経験則をもとに一定の気象条件と結論(天候の変化の予測)の関係を述べたことわざのような伝承のことをいう。 昔から漁師、船員などが経験的に体得し使ってきた。
(例)
「太陽や月に輪(暈)がかかると雨か曇り」
   「おぼろ雲(高層雲)は雨の前ぶれ」
 この観天望気は科学的な観測に基づく公式な天気予報に代替できるものではないが、天気の変化の参考になるものもある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「越谷市デジタルアーカイブス」
    「Wikipedia」等

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小柱諏訪大神社


        
               
・所在地 埼玉県秩父市小柱23
               ・ご祭神 建御名方神
               ・社 格 旧小柱村鎮守
               ・例祭等 例祭(春祭り) 45日 秋祭り 105
 皆野町・大淵熊野神社から埼玉県道44号秩父児玉線を南西方向に1㎞程進む。荒川とその支流である赤平川の合流地点に架かる郷平橋を過ぎると、進行方向右側が河川の浸食によりできた段丘崖面となっていて、その頂上部に小柱諏訪大神社が僅かに見えてくる。
 但し県道から直接社に通じる道路はなく、一旦南下して「小柱」交差点を右折、その後すぐ先にある丁字路をまた右折し、道幅の狭い緩やかな上り坂の道を暫く直進する。その後、目の前には長閑な田畑風景が広がる河岸段丘特有の段丘面に到着し、その道路右側端に小柱諏訪大神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「小柱」と書いて「おばしら」と読む。「小柱」と言う地域名は、諏訪大社の神事である「御柱(おんばしら)祭」からきていると伝えられているという。
 また当社は信州・諏訪大社の御分社であり、大社には御分社が多く、明治時代の調査では、全国で
12,000余社とされている。分社の社名は「諏訪神社」「諏訪社」が多く当社のように「大神社」と讃えているのは秩父郡内では二社で全国でも11社だけであるようだ。
        
                小柱諏訪大神社 一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「小柱村」の解説
 堀切(ほりきり)村の東にあり、東は荒川を境に皆野村(現皆野町)、北は赤平川を境に大淵(おおふち)村(現同上)。田園簿では高一二九石余・此永二五貫八六二文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高一七一石余。享保一八年(一七三三)幕府領に復した。その後、一時下総関宿藩領となったが、のち再び幕府領(「風土記稿」「郡村誌」など)。
        
             河岸段丘により形成される段丘面に鎮座する社。
        現地で実見すると、平坦部の広がりをより感じることができる

  因みに写真右側は崖となっていて、バリケード等の安全面は考慮されていないようだ
        
                                   真っ直ぐな参道途中に立つ二の鳥居
 小柱諏訪大神社は、荒川と赤平川が合流する地点の南側の河岸段丘上先端部に鎮座している。西側には篠葉沢、南東には蒔田川が流れ南側には南北に細長い丘陵地帯で囲まれるという立地条件で、自然の要害に囲まれた要衝地であることが、地形上から見てもよくわかる。
 それに対して、社の周囲はなだらかな段丘面が広がり、現在では大半は畑や宅地となっているのだが、この地から周囲を見回せ、特に北側・東側が一望できる地形となっている。
        
                     拝殿覆屋
 諏訪大神社   埼玉県秩父市小柱二三(小柱字合川)
 当地は、東に荒川、北は赤平川を境としている。この両河川は村の北端で合流しており、当社はその合流地点に鎮座している。
 社記によると、創立年代は不明であるが、村の開発にあたり、氏神として信州の諏訪大社の分霊を祀ったものと思われる。諏訪大社では七年に一度御柱を立てているが、小柱の地名はこの神事に由来するという。平良文を祖とする秩父別当武網は深く当社を崇敬し、後三年の役の出陣の際には戦勝を祈願し、功あって源義家から白旗一流を賜ったことから、これを諏訪大明神の御利益と弓矢八幡の加護によるものと信じて境内に八幡宮を造営し、白旗一流と三本の傘紋印の乗鞍を奉納した。以後秩父氏累代の崇敬をうけ、秩父庄司重忠が諏訪八幡両社に武運長久を祈願した折の駒繋松、御手洗井戸等の伝説が今に残っている。
『風土記稿』小柱村の項には「諏訪社、例祭七月廿七日、村中の鎮守なり、村持」とある。明治四二年には、地内の字秋葉から秋葉社及び同境内社の竜神社を合祀し、現社号の諏訪大神社に改めたが、この後、秋葉社は旧地である秋葉山の山頂に戻された。
 現在の祀職は、金子安英が務めるが、江戸期には、慶安三年を初めとする吉田家から裁許状九通を所有する半藤家が代々努めていた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
               境内に設置されている案内板
 お諏訪様の神使は白蛇といわれ、神社境内で蛇を見ても決して殺してはならないとされている。また、言い伝えに「往時当社を深く崇敬した秩父庄司重忠がこの地に城を築こうとしたが、地鎮祭の竜柱に白蛇が巻き付いたため中止となった」とか「白蛇が通る道は決まっていて、通ると必ず神社からその南西にあたる金四塚(『風土記稿』には「金四社」とある)にかけて草は倒れ伏して枯れてしまう」等ある。
 
 社殿の奥である北側は崖面となっていて、赤平川が東西方向に流れている風景を見ることができる(写真左)。また東側も眼下の荒川や集落を見渡す事ができる(同右)。
言い伝えではあるが、往時当社を深く崇敬した秩父庄司重忠がこの地に城を築こうとしたことも、この地を実際にきてみると、なるほどと納得してしまう絶好の場所である。因みに社殿北側にはしっかりとネットフェンスが設置されている。
        
                  社殿からの一風景
 当地では、昭和初年まで、日照りが続くと雨乞いが行われていた。この行事は「ハマヤ」と呼ばれる村の共有林から松を切り出すことから始まる。この松の木は神社境内まで引かれ、手作りの竜をからませる。竜の頭は竹で編んだもの、胴体は蛇籠に新聞紙を貼り、色を塗った精巧なものである。
 なお、この頭には釜山神社から受けた水の入った竹筒を麻組で下げる。宮司の祈祷後、これを笠鉾の台車に載せ、囃子連が同乗して村内を曳き回す。秩父囃子の演奏の台詞に、音頭取りの「フップヤマノクロクモ、アメダンベエ、リュウゴウナア」の掛け声に合わせて全員で雨を呼ぶ雨乞い歌が唱えられる。願いが叶って雨が降ると、耕地ごとにお湿り祝いを催した。
 この雨乞い行事には、本社の諏訪大社の神事である御柱祭りを彷彿させるところがあり、諏訪信仰を考える上で興味深いものであるという。



【蒔田諏訪神社】
 小柱諏訪大神社から埼玉県道44号秩父児玉線を南下し、秩父市小柱地域と蒔田地域の境に流れている荒川支流である蒔田川を過ぎたすぐ先に諏訪神社は鎮座している。
        
              ・所在地 埼玉県秩父市蒔田3353
              ・ご祭神 建御名方神(推定)
              ・社格、例祭等 不明
 所在地以外、創立年代や社格、例祭等不明。ご祭神は、諏訪神社という事で、建御名方神と記したが、あくまで推定。
        
           拝殿覆屋  拝殿脇に祀られている境内社は詳細不明。
         小柱諏訪大神社もそうであったのだが、この社には壁一面に
          奉納札等がびっしりと張り付けてある。地域の風習なのであろうか。

『新編武蔵風土記稿 蒔田村』には「諏訪社 村持」としか載せられていない。但し、社に隣接している建物の名前が「森公会堂」ということで、この「森」地名は『風土記稿』にも同名が載っていて、この地が旧蒔田村字森ということは間違いないであろうと思われる。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
 

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