古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

赤城久伊豆神社


   久伊豆神社は、埼玉県の元荒川流域を中心に100社ほど分布する一地域集中型の神社で、祭神は大己貴命(大国主)。名前の由来である祭神の大己貴命(=大国主命)は出雲大社の祭神で、「出雲」を万葉仮名で書くと「伊豆 久毛」となり、創建当時より(出雲族・多治比真人三宅麿)が故郷を久しみ、久(ひさ)しい出雲(いずも)の大神と呼んだのが転化して「ひさ いず (=久伊豆) 大明神」と呼ぶようになったと考える説もある。この久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲と不思議なことにほぼ一致している。

  この久伊豆神社の最西端である熊谷市石原にこの赤城久伊豆神社は鎮座している。

所在地  埼玉県熊谷市石原1007
御祭神  大己貴命(別名大穴牟遅神)    豊城入彦命
社  挌    不明
例  祭    不明
 


         
  赤城久伊豆神社は熊谷駅南口から荒川方向に進み、最初の交差点を右折する。元荒川通りを真っ直ぐ国道140号線方向に向かい秩父鉄道の踏切を越えるとすぐ左側に赤城久伊豆神社の鳥居が見えて来る。駐車場は鳥居を越えた先に広い駐車場があるのでそこへ停め参拝を行った。

        
  神社の案内板によると山の神である赤城神社と水の神である久伊豆神社を合祀したとの事だ。それ故か
後で分かったことだがこの社には正面の鳥居が東側と北側の2か所存在する。神明造りで東側に向いてる上の写真は久伊豆神社の鳥居のようで、参道の先には手水舎があり、社殿もこの鳥居の方向に向いているので本来は久伊豆神社が基にあり、その後赤城神社が合祀されたと解釈したほうが自然だと思う。
 
      神明造りの鳥居から撮影、             参道の先、左側にある手水舎
       正面に社殿が見える。
 
 よく見ると参道が2方向にあることが分かる。             神楽殿
       
                          拝  殿
 
      社殿の左側にある富士塚             社殿の奥にある稲荷社
        
                          本  殿
熊谷市赤城久伊豆神社社叢ふるさとの森

   身近な緑が姿を消しつつあるなかで、埼玉らしい豊かな緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、四季 折々の風情に富んだこの赤城久伊豆神社の杜が「ふるさとの森」に指定されました。
  この神社は山の神である赤城神社と水の神である久伊豆神社とを合祀した物で、北面の鳥居は郡(群?)馬県の赤城山に向かい立っています。
  境内にある森はスギ、ケヤキ、クス、エノキなどで構成されており、市街地内にある貴重な鎮守の森として、私たちに、安らぎと潤いを与えてくれています。
  埼玉県熊谷市
                                                                                                          案内板より引用

        
               北側にある両部鳥居、赤城神社側の鳥居か
        参道の先には神楽殿が見える。この社は神社の配置が妙に面白い。
                 





  

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玉井大神社


 東別府神社から南東方向に1km弱の所に玉井大神社が鎮座している。
  その昔、奈良の興福寺の僧“賢景”がこの地に来たとき、眼病を患ったという。すると、夢の中で「井戸を掘れ」というお告げがあった。そこで賢景は井戸を掘る。滾々と水が湧き出てきたかと思うと、中から現れたのは宝玉だった。賢景はこの水で目をすすぐ。すると不思議なことに、眼病はすっかり治ったという。そこで賢景は井戸の神様を祀って井殿明神(玉井大神社)とし、宝玉を寺宝にして“玉井寺”(ぎょくせいじ)を創建した。「玉井」という地名も、賢景のこのエピソードに由来しているという。

所在地    埼玉県熊谷市玉井1911

主祭神    天津日高彦火火出見命(あまつ ひこひこほほでみ)
         *一般には山幸彦(やまさちひこ)の名で知られる。神武天皇の祖父に当たる人物。   
社  格     旧村社
例  祭     三月十五日 例大祭    
       
                   
地図リンク
  玉井大神社は国道17号バイパス線、熊谷方面上りで上奈良交差点で右折し、300m先の三叉路を左折すると右側に見えてくる。東別府神社にも近く、約1km弱で東南方向に鎮座している。
                      

  由来書によると玉井大神社は延暦年中遷都の折即ち第五十代桓武天皇の御代藤原小黒丸左大辨紀古佐美南都興福寺僧賢憬等に内命を伝えようと四神相応の地を巡視していたとき僧某東国に下り当地
に滞在中両眼をひどく病みその折偶々霊夢に感じ里人を鼓舞して井を掘らせその湧水を以て眼を洗い平癒したと伝えられる。その井の神を祭って井殿明神と称し里名の玉の井とはこれから生れたといはれる後社名を改め玉井大神社と称する様になった。御祭神は天津彦火火出見命を主神として十五柱を奉斉する。
                                      
玉井大神社造営記念碑より引用                                                                                                 

                     
                                                参道より社殿を撮影
   手水舎の横にある掲示板。左側に「オビシャ」についての説明が書かれている。
 
 延暦十三年(794)賢憬という僧が當地に滞在中両眼を病んだ。このとき夢の中で告げられた地点に掘った井戸の霊水で眼を洗うと直ちに眼病が治ったという。この井戸の神を祭ったのだ神社の始まりと伝えられる。毎年三月十五日この神社で「オビシヤ」が行われる。これは豊作占いの神事の変化したものといわれすべて謡曲によって進行する祝宴に特徴がある

*オビシャ

 主として関東地方の各村落で行われる春の行事で、なかでも千葉県北・中部はオビシャ行事が最も盛んに行われる地域の一つである。いずれも年の始めの1月から2月にかけて行うところが多く、元来は弓を射てその年1年の作物の作柄など、神意を占う予祝行事であったと思われる。
                                    
                             拝  殿
                        
                        
                                                    
朱色の鮮やかな本殿
         
          拝殿の手前左側に八坂神社が鎮座                       社殿脇に並ぶ末社

  今何気なく思うことがあり、最後に一言追加して述べたい事項がある由来書による玉井大神社の地名「玉井」の由緒は上記に記載した通りだが、実際の信憑性はいかがなものだろうか。というのも神社名である「玉井」の「玉」に関して、武蔵国、特に北部には「玉」のつく地名や神社が、例えば「埼玉郡」「前玉神社」「児玉郡」「玉敷神社」等少なからず存在するからだ。
                                    
                                           社殿方向から御神木の銀杏を撮影
  
               この御神木は何百年の歳月を静かに見守っている。

  地名は生きた化石と云われ、地名の起原や由来を調べれば当時の歴史がおぼろげながら見えてくる。いわば地名とは「歴史の生き証人」と言えないだろうか。
 そもそも地名とは
人類が言語を使用するようになってから現在まで、特定の地表面を表現するものとして、何らかの意義を有して命名され、伝えられてきたものである。それは言語の成立とほぼ同時に発生し、生活の場の拡大とともに増加し、時代とともにより表現方法も多彩なものとなって、日本国中の隅々にいたるまで残されてきた。往時の人びとの生活・歴史や精神・文化が、地名には凝縮されていると言っても過言ではない。
 そういう意味で地名は無形の遺物である。資・史料を証明するものであり、資・史料の表現しきれていない隙間を埋める一つの重要なファクター的存在であろうと考えることは愚かな事だろうか。

                                        
 

 
                      

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東別府神社

  幡羅郡には、白髪神社を祀る論社が4社ある。式内社、つまり神名帳に載る白髪神社は、現在いずれか定ってはいない。その論社である社は妻沼の大我井神社、白髪神社、深谷の東方にある熊野大神社と東別府にある東別府神社である。
  別府城址の一角に鎮座する東別府神社は、今を去る八百余年の平安の昔藤原鎌足の後裔別府次郎行隆がこの地に城を構えるにあたり、その鎮守神として大和の国奈良の春日神社から勧請したのを創始とするといわれている。

所在地    埼玉県熊谷市東別府708
主祭神    天児屋根命    祝詞の神、出世の神 中臣連の祖(中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神)
         宇迦之御魂神   生産の神/五穀豊穣の神
         大物主神      蛇神、水神、雷神、稲作豊穣の神、疫病除けの神、酒造り(醸造) の神
                    国の守護神
        (合祀)          彦由岐命    不詳
                      埴山比売神   土の神
社  格     旧村社  延喜式神名帳 白髪神社 武蔵国播羅郡鎮座
例  祭    四月十五日 例大祭


        
地図リンク
 延喜式内社 奈良神社からほぼ西方向約3kmに東別府神社が鎮座している。直線距離では2km強だが実際の道路事情ではかなり入り組んでいて3km以上はある。籠原駅方向から行くと埼玉県道276号線を航空自衛隊熊谷基地から妻沼方面へ北上し、別府中学校北側の交差点で右折ししばらく走って行くと、そのうち左手側に東別府神社の社号標石が見えて来る。左折すると突き当たりに東別府神社が鎮座している。
      

          東別府神社 一の鳥居
                史跡 別府城跡地碑
                                別府城跡地の一角に東別府神社は鎮座している。
          
                       別府城の土塁跡。埼玉県指定史跡
埼玉県指定史跡別府城跡

  熊谷市別府 七七七 他
 昭和十六年三月三十一日指定
 別府氏は、成田氏系図によると、成田助高の二男次郎行隆が別府に住んでから、その子太郎能幸は東別府に、二郎行助が西別府に数代相対して領知した。
 この城跡は、東別府家の館として、東西南北ともに約一町(百余メートル)四方で、周囲にに巾約二~三メートルの横濠(現在は西、北、東側に残っている)をめぐらし内側に高さ約二メートルの土塁を築き、中世の武士の館跡として典型的な形をみることができる。

 太郎能幸に初まった東別府家は、それから十一代目の尾張守長清まで続いたが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の北条氏攻略に際し、敗軍側についたため家禄を失ってしまったので、この東別府城も廃城になってしまった。
                                                                                                                                                                                                                         昭和五十四年三月三十一日

       
 参道途中から西へ伸びた参道の奥には神明社(写真左側),またその脇には御手長神社(同右)がある。神明社の社殿はよく見ると傾いている。
          
                               
拝  殿
          
                                本  殿
  東別府神社は別府氏の始祖藤原鎌足の後裔であるので、総本社は春日大社であり、かつては春日神社と称していたという。ということは本殿に祀られている3神はどういうことか。春日大社といえば、藤原氏の春日四神(経津主神・武甕槌神・天児 屋命・姫大神)を祭神としている。それに対して東別府神社の祭神は天児屋根命、宇迦之御魂神、大物主神だがそのうち藤原系は天児屋根命のみで、その他2神は稲荷系、出雲系である。どの資料にもそのことについての資料がないが不思議といえば不思議である。

        
       境内社 八坂神社、天満天神社、八幡神社              青面金剛と三猿
     
          両方とも大黒天の石碑                    王瀧口 登山道?
         
          
                                 御嶽塚
東別府神社

篆額 埼玉県神社市長 宝祭山神社宮司 横田茂
  ここ別府城址に鎮座する東別府神社は今を去る八百余年の平安の昔藤原鎌足の後裔別府次郎行隆がこの地に城を構えるにあたりその鎮守神として大和の国奈良の春日神社から勧請したのを創始とするといわれている。
  明治22年6月境内地を拡張するとともに当時既に奉斎されていた春日神社稲荷神社□□がこの地域内に祭られていた榛名神社神明社御嶽神社大国主神社八坂神社琴平神社三船神社当を合祀し地域一円の崇敬の場が造営された。以来70年の間神祇を崇め祭祀を重・・・・・・みにも心のよりどころとして神人和合のまつりごとが行われてきた・・・・が本殿拝殿など積年の風雨による損いもはなはだしく之が修理について斉しく憂慮するところであった。
  昭和32年10月東別府自治会が中心となり同憂の人達と協議をかさねた結果東別府神社(以下略)
                                                                                                                                                                                                                                                        社頭掲示板

 
                             
                             



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小前田諏訪神社

 村上天皇の応和年中(961~964)、奥羽地方より藤田郷に移住した鈴木氏等は、「上の原」の地に祖神の諏訪神社を祭って、土着した。彼らの遠祖は、田村麻呂将軍に従って当国より奥州征伐に行ったものという。土着に際し、信州諏訪神社大前の水田にちなみ、社前の平野を御前田原と呼んだ。「御前田」または「小前田」の地名は、この時に始まる。
  文明年中(1469~87)花園城主・藤田掃部左衛門氏家公が、領地住民の為、信濃の国諏訪より正一位南宮法性大明神を分霊勧請し、社殿を整えた。その後藤田家の離散、鉢形北条氏の滅亡により神社は荒廃したが、永禄5年(1562)小前田の住人長谷部兵庫吉長が現在地に遷座し、小前田の鎮守となった。安政5年には現在の本殿が造立。


所在地    埼玉県深谷市小前田1
主祭神    建御名方命
          八坂刀売命
          大国主命
社  格    旧村社 

創  建    応和3年(963)
由  緒    
この一帯を支配していた花園城主藤田藤田掃部左衛門氏家が、領地領民の安寧の為に、
         信濃の国の諏訪大社より分霊を勧請し、お祀りしたのが始まりとされている。

例  祭         10月第2土曜日、日曜日 諏訪神社祭礼(小前田屋台まつり)

            
  地図リンク
  小前田諏訪神社は秩父鉄道・小前田駅の南西約200mの場所に鎮座している。久喜市鷲宮の鷲宮神社と同じく、住所が小前田1ということはこの神社を中心として町が形成されたのではないかと推測する。
 当社は桓武天皇の御代、坂上田村麻呂の蝦夷征討に際し、当地から徴募された軍士の中には、彼地に永住するものもあった。その子孫が、応和3年(963)、同族と共に当国に戻り、安住するに当り、塚を築き、その上に自ら信仰する諏訪の神を祀ったのが、その始まりであるという。
     
           鳥居の左側にある立派な社号標                                  入口にある靖国鳥居
 小前田諏訪神社は鳥居を潜ってしばらく参道を歩くが正面には社殿はなく、途中右に90度曲がっている。その曲がった先に社殿が存在する。
 
         

  文明年中(1469~87)この一帯を支配していた花園城主十一世藤田藤田掃部左衛門氏家が、領地領民の安寧の為に、信濃の国の諏訪大社、正確には諏訪神社上社より分霊を勧請し、お祀りしたのが始まりとされている。永禄5年(1562)小前田の住人長谷部兵庫吉長が現在地に遷座し、小前田の鎮守となった。安政5年には現在の本殿が造立される。明治15年には蚕影神社が合併されている。
       
          
                                  拝   殿
           
                                                                  本  殿
  当社を支配していた花園城主藤田氏は、武蔵七党の猪股党の出で、猪俣野兵衛尉時範の子政行が武蔵国榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称したことに始まる。
 武蔵七党は、武蔵国に本拠をおいた同族的武士団の総称で、坂東八平氏と称される平氏の一門とともに坂東武者と称され、弓馬に通じて武蔵・相模二州の兵は、天下の兵に匹敵すると賞賛された。 七党の数え方は一定しないが、野与党・村山党・横山党・児玉党・西党・丹党・私市党などが挙げられる。猪股党は横山党と同族で、小野篁の後裔で武蔵守として下向土着した小野孝泰の孫時範が児玉郡猪俣に居住したことに始まる。

 藤田氏の祖藤田五郎政行は平安時代末期、保元の乱源氏勢として戦に参加し、その嫡男三郎行康も源平合戦では源氏勢として参加して元暦元年(1184)の一の谷生田森の合戦で先陣をはたし戦死した。頼朝は行康の功を賞し、嫡男の能国に遺跡を安堵している。鎌倉時代を通じて常に藤田氏は時の幕府から信頼を受け、幕府問注所の寄人に召されて幕政にも参加、建治三年(1277)、問注所の寄人に召し出された藤田左衛門尉行盛は奉行人として活躍した。その後元弘元年(1331)、後醍醐天皇による元弘の変が起り、その後の動乱によって鎌倉幕府は倒れ北条氏も滅亡した。元弘三年のことで、後醍醐天皇親政による建武の新政が開始された。その間、藤田氏がどのように行動したのか、その動向は明確ではない。
  南北朝の争乱期に藤田氏がどのように行動したかは史料が少なく、必ずしも明確ではないが当初は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍に藤田六郎左衛門、三郎左衛門、四郎左衛門らが従っていたが、尊氏方に属した者もいたようで藤田一族は二派に分かれたようだ。ただし、当時の武士団の一般的な傾向で、その背景には惣領制の崩壊がもたらした嫡庶の対立があり藤田氏もその例外ではなかったのである。その後、関東に幕府の出先機関ともいうべき鎌倉府が置かれ、藤田氏は上杉方として行動したものと見られる。
  応永二十三年(1416)、前関東管領上杉禅秀が関東公方足利持氏に反乱を起した。禅秀の乱で、上野・武蔵の武士の多くが禅秀に味方し、藤田氏一族と思われる藤田修理亮も禅秀方に属して所領を没収されている。関東は永享の乱、結城合戦と戦乱の時代を迎え、翌嘉吉元年(1441)ようやく終結する。

 藤田氏はそれ以降後北條氏の関東進出まで、山内上杉勢の四家老の一家として参加した。その勢力は現在の寄居町の天神山城を拠点として、最盛期には大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広範囲であり、小前田諏訪神社もその所領内に入る。

    
八衢比賣神、久那斗神、八衢比古神             浅間神社                            天手長男神社

                           
                                     
白山神社                          その他本殿の奥の祠群

  その他和魂神社、八坂、琴平神社、蚕影神社、神明社、春日神社等が諏訪神社境内に鎮座している。

 戦国期、ついに後北條家の関東進出が顕著になる。北條氏綱・氏康親子による天文六(1537)年の川越城夜戦では、関東管領・山内上杉憲政、扇谷上杉朝定と、古河公方・足利晴氏の軍総勢八万の軍勢の一軍として参加し、敗北を喫する。これにより主家を失った藤田重利は北条氏の軍門に降り、氏康四男・氏邦を養子に迎え、その家督を譲った。同時に名も「康邦」と改めたという。北條氏邦は1560年(永禄3)以降、鉢形城(大里郡寄居町)を整備して天神山城から居城を移し、北関東の最前線の拠点として、また甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担った。

 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開した。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城し北條小田原家は滅亡する。そして同時に藤田氏本流としての400年の歴史が終結することを意味していた。
         

                                  諏訪神社祭り屋台の案内板が道路沿いにある。
 諏訪神社で例年催される例祭は「小前田屋台まつり」別名「アルエット祭り」といい、その屋台は3台ながら秩父市の秩父神社に負けず素晴らしいものだ。   
 
諏訪神社祭礼(小前田屋台まつり)
  旧花園町小前田地区には3台の屋台があり、いずれも明治初期に造られたもので、その雄大な造りや彫刻により、昭和52年には有形民俗文化財に指定されています。この3台の屋台を毎年10月の第2土曜・日曜日に引き出し、国道140号線の秩父往還で屋台囃子を演じながら曳(ひ)き回します。また、祭礼期間以外でも「道の駅はなぞの」にて、常時屋台を展示しています。
                                                                                                     深谷市観光協会より引用


                                                                                                                 

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瀧宮神社

 滝宮神社が鎮座する幡羅郡の郡範囲は、江戸時代の新編武蔵風土記稿によれば、今の深谷市東部(旧幡羅村、明戸村)、熊谷市北西部(旧別府村、三尻村、玉井村、奈良村、大幡村の一部)、妻沼町全域とされる。
 しかし西の榛沢郡との境界にかんしては、深谷市大字国済寺の国済寺の梵鐘(康応二年、1390年)に刻まれた「幡羅郡深谷庄」の文字から、時代によっては旧深谷町も幡羅郡に含まれていたようだ。

 滝宮神社の鎮座する西島地区は櫛引台地と妻沼低地の境目に位置し、その豊富な湧水から唐沢川の谷に流れ落つるが如く瀧に因んで、 いつしか「瀧の宮」と称して神社を祀ったという。

所在地     埼玉県深谷市西島5ー6-1
主祭神     天照大神
          豊受大御神
          彦火火出見尊
例  祭          11月3日 例大祭、12月5日 酉の市  

          
 
  深谷駅のすぐ南側に鎮座する瀧宮神社。境内は駅南口の立地にありながら広く静寂な空間が広がる。駐車場も数台止めることができるスペースが道を隔てた向かい側にある。
 
    唐沢川をはさんで南側に鎮座する     春の唐沢堤は桜で満開になる。深谷市では有名だ
       実は北向き社殿でもある
 
      一の鳥居の左側にある案内板               
拝殿に続く参道 広い空間がそこにある

滝宮神社
 古くは滝宮大明神といわれ、御祭神は天照大神、豊受媛命、彦火々出見命です。康正二年(1456)上杉房憲が深谷城を築いてより代々この神社を崇敬し、江戸期になっても代々の城主が尊信しま した。 西土手にあった八幡神社、豊受神社、侍町にあった天神社も合祀されています。
 御嶽神社
  旧城内越中曲輪になった御嶽神社を近郷近在の信者の協力によって奉遷されています。
 八坂神社
  旧城内の三社天王を天和元年(1681)宿民の総意で市神様として中山道上に奉祀されていましたが、時勢の変遷により御遷宮。昭和二十七年小学校庭より現在地に奉安。旧来の通り毎年七月二十七日深谷のぎおんと称され盛大な神輿の渡御が行なわれています.                                                                                                                                                                                                         案内板より掲載
                  
           
                               拝     殿
 創立年代は不詳。北武蔵を支配していた庁鼻和上杉氏が古河公方の度々の攻撃に本拠を移転させ康正2年(1456)に4代目の上杉房憲が深谷城を築城して以来、城の裏鬼門の守護神として深谷上杉氏が代々信仰されたという。
 境内には瀧宮神社のほかに深谷城内に鎮座していた御獄神社・深谷祭りで有名な八坂神社などが両側に祀られている。


 
        御嶽神社                演舞台                八坂神社

 今から五百有余年前の康正二年上杉房憲氏が深谷城を築造するにあたり、重臣秋元越中守の進言により城地鎮護の守護神として天地開闢の尊神、国常立尊を奉斎して城内に御嶽社を祀る。その尊厳神域はいつか城跡と共に、人々の念頭から去り荒廃その極みに達し年度の祭祀をすることさえ能わず、明治三十八年勅命により之を瀧宮神社の末社に遷座する。昭和九年深谷小学校新築敷地になり現在小学校東端の塚はこの所である。昭和二十六年GHQの神道指令により「ツゲ」の古木に神秘を留めた御嶽神社を百日潔斎の修法の下に、瀧宮神域に本殿拝殿を建設し奉斎遷座して五十一年。以来信奉者は日に日に増し霊験次々と顕れ普く御神徳を浴するものが多くありました。しかし平成十四年一月二十六日、心無い何者かによる不祥事で神社を焼失してしまいました。火災の折には、瀧宮神社、近隣の皆様をはじめ信奉者各位に多大のご迷惑をおかけしましたが、温かくその後の再建に物心両面でご協力を頂きましたことが再建の励みとなりました。以来信奉者の方々から早く再建をとの声が高まり、御嶽神社再興の主旨をご理解いただき多くの方々に過分なる御浄財の奉納を賜りました。お蔭様で茲に立派な本殿、拝殿を完成することが出来ましたので皆様の御篤心に感謝申し上げ記念碑を建立致します。
 平成十七年五月吉日
                                            御嶽神社完成記念碑より引用                                                                                
                      
      境内社殿の奥には大山阿夫利大神、八意思兼命、富士浅間大神、稲荷神ほか多数の柱、石祠が並ぶ。また社殿の手前階段右側にも多数の境内社が存在する。 
 
             
豊受神社                       左八幡神社、同右天神社
 ところで滝宮神社が鎮座する深谷市西島は利根川が運んだ土砂等でできた肥沃な低地(妻沼低地)と、荒川が運んだ土砂等でできた乾燥した台地(櫛引台地)との境界に位置していて、低地と台地の境界付近にJR高崎線が東西に走っている。滝宮神社はJR高崎駅のすぐ南にあり、この櫛引台地の北端部に位置していて古来から湧水が豊富な地として「霊泉の社」、そして「瀧の宮」と言われるようになったという。
            
  この櫛引台地は、構造的には武蔵野面に比定される櫛引面(櫛引段丘)と、南東側の立川面に比定される寄居面(御稜威ヶ原(みいずがはら)段丘)とで段丘状に形成されている。

 櫛引面は、JR高崎線沿いの崖線で比高差5~10mをもって妻沼低地と接しているが、寄居面は高崎線より北へ1.5~1.8mほど延びていて、比高差2~5mをもって妻沼低地と接している。接線付近での標高は櫛引面が40~50m、寄居面が32~36m、妻沼低地が30~31mである。
櫛引面は標高70m付近より発する上唐沢川、押切川、戸田川、唐沢川あんどが北に向かって流れしていて、櫛引面北端部は南北に台地を開析する浅い谷が発達したものと考えられる。
 その一方滝宮神社は櫛引台地と妻沼低地との境界線、つまり言い方を変えると「活断層」の境界線上に鎮座しているとも言える。事実この一帯は有名な「深谷断層」、正式名称では「関東平野北西縁断層帯」が存在し、その断層帯の一つがこの深谷断層であるとのことだ。深谷市による地震ハザードマップには「関東平野北西縁断層帯主部」において、全体が1つの区間として活動する場合、マグニチュード8.0程度の地震が発生する可能性があり、また、その際には南西側が北東側に対して相対的に5~6m程度高まる段差や撓みが生じる可能性も指摘されている。
 またこれも関東平野北西縁断層帯のうちの一つの断層帯である平井-櫛挽断層帯では、全体が1つの区間として活動する場合、マグニチュード7.1程度の地震が発生する可能性があり、またその際には2m程度の左横ずれを生じ、北東側が南西側に対して相対的に高まる段差や撓みを伴う可能性があるとのこと。

 本断層帯の最新活動後の経過率及び将来このような地震が発生する長期確率は不明という。日本は温泉や湧水など自然の恩恵を受ける利点だけでなく、火山大国であり、地震大国であるマイナスファクターもこの社を散策するによって学ぶことができる。なんとも複雑な気持ちだ。


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