古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

瓦葺氷川神社

 上尾市・瓦葺地域は市南東端の大宮台地上に位置している。「瓦葺」と書いて「かわらぶき」と読む。なかなか個性的な名称だ。
 この「瓦葺」の地域名の名前の由来として「上尾市HP」では、『「瓦」 河原からきているとされていて、近くの綾瀬川を指しているのではともいう。「葺」とは「フケ」が転化した言葉で「フケ」とは、深田とか低湿地と言う意味があり、嘗て瓦葺地域は一面沼地であった。そのため、江戸との間を綾瀬川や見沼代用水を船が荷を積んでいったり来たりしていたそうである』との解説を載せている。
 地域内には旧石器時代、縄文前期、古墳時代後期、平安時代の住居跡や遺品が検出されている「尾山台遺跡」等の多くの縄文遺跡があり、住居跡やピットなどの遺構や土器や石器などの遺物が発掘されていて、早くから開発が進んでいた地域であったようだ。
        
              
・所在地 埼玉県上尾市瓦葺1035
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧上瓦葺村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例大祭 9月10日
 中平塚氷川神社が鎮座している平塚公園沿いに南北に通る埼玉県道5号さいたま菖蒲線を南下し、2.4㎞程先にある丁字路を左折する。東北新幹線等の高架橋を潜りながらも更に道なりに1.5㎞進むと進路方向右側に瓦葺氷川神社の境内が見えてくる。
 社の斜向かいにはコンビニエンスストアがあり、そこの駐車場をお借りしてから参拝を開始した。但し、交通量が意外と多い道路沿いに鎮座していて、コンビニエンスストアから横断歩道を渡る時には注意が必要だ。
        
                       交通量の多い道路沿いに鎮座する
瓦葺氷川神社
『日本歴史地名大系』 「上瓦葺村」の解説
大宮台地原市支台上にあり、村域は本瓦葺村と入会う。北東は南東流する綾瀬川と原市沼(はらいちぬま)川がつくる低地。正保(一六四四―四八)から元禄(一六八八―一七〇四)の間に瓦葺村から分村したらしく(風土記稿)、元禄二年の大宮宿助郷証文(渡辺家文書)に上瓦吹村とみえ、勤高二七二石余。足立郡南部領に属する(風土記稿)。
田園簿では幕府領で、元禄一一年旗本阿部氏、同一五年旗本小川氏、その後旗本伏見氏に割かれた(享保六年「村明細帳」渡辺家文書)。国立史料館本元禄郷帳では阿部・小川両氏と幕府領。享保一六年(一七三一)南方の溜池を開発した地が検地を受けて幕府領の持添新田となった(風土記稿)。
        
                  瓦葺氷川神社正面
「新編武蔵風土記稿 上瓦葺村」には「下蓮田村より三沼代用水を引きいれ、當村に至り東西の二派に分れ、一は郡内西南の方村々の用水となし、一は東北数村の水田に沃ぎ、埼玉、足立兩郡の内三百四十六ヶ村の用水となせり、此邊元は用水不便にして、近きあたりの池沼或は溜井より用水を引入れしを享保十三年井澤彌惣兵衛命を奉じて彼池沼溜井を埋て新田となし、其かはりとして此用水を開けり、掛樋は長廿八間、高さ六尺、横四間あり、春冬の間はこの樋の内舟を通じて運漕に便する類、かゝる樋關東の國々には稀なることなり」と記載され、江戸時代の1728年(享保13年)に普請した見沼代用水の開削の際に、上瓦葺村には「見沼通船」の瓦葺河岸と称される河岸場が設けられて、江戸に物資を運ぶ拠点となっていた。
 同時に農産物の一大産地であったようで、
1875年(明治8年)の農業産物高は武蔵国郡村誌によると米243.32石、大麦365.5石、小麦42.5石、大豆38.25石、小豆4.5石、栗7.5石、稗17.5石、蕎麦1.83石、甘藷6320貫、里芋2400貫、菜種2832貫、大角豆4.5石、荏6.7石、胡麻3.25石、大根1000貫、人参40貫、薯蕷440貫、百合根160貫、柿440貫と実に多様な農産物が生産されていたとの事だ。
        
                     瓦葺氷川神社正面近くに設置されている案内板
 瓦葺氷川神社 学問とスポーツの文武両道守護神
 当、瓦葺氷川神社の創建時期については、永正三年(一五〇六)八月十日武蔵一の宮を選す。(武蔵国郡村誌より)、明治四十一年(一九〇八)同大字中の神明社、荒神社、天神社を合祀。とあります。
 祭神は素戔嗚尊で家安全、厄除けの神、縁結び、安産の神、学業成就、五穀豊穣、商売繁盛等々の守護神として参拝されています。
 祭事は元旦祭、節分祭、九月十日の例大祭が行われております。平成二年十月二十五日には、菅原道真公で知られる、京都北野天満宮から分霊を受けて境に天満宮を創建。「学問の神」として受験シーズンには、参拝者が多く見られます。また、昭和六十三年七月から埼玉県の高校野球の名門校である浦和学院野球部の皆様や関係される方々が、毎年県大会が始まる前に、 安全祈願、必勝祈願を斎行し、お守りを受けております。最近、浦和学院の活躍で「スポーツの神」としても知られるようになり、近隣のスポーツ少年やリトルリーグチーム、成人の野球チーム等々が参拝や祈願に訪れるようになりました。学生にとっては学問とスポーツの神として実に頼もしい神社とされています。
 境の庭ではグランドゴルフを楽しむ近隣の高齡者達が集い、毎日健康づくりを行っております。また、神社境のお掃除、草取り等で、とてもきれいに使って頂いております。
 境に展示の大石に銘が彫られています。「奉納 力石三十メ目 瓦葺村 叶」。容については、力石の後方に起源と歴史の紹介があります。
 ※瓦葺氷川神社では、お宮参り、七五三宮参り、厄除け等の祈願を申し受けております。
                                      案内板より引用

        
                                  境内の様子
 近年の開発が進んでいる当地域にありながら、社の境内は落ち着いた雰囲気が漂い、日々の手入れもしっかりと為されているようだ。嘗ては参道脇に杉の古木があり、鎮守の森を形成していたが、1978年(昭和53年)までに全て枯死してしまった。その後、1980年(昭和55年)に行われた社殿の改築については、これらの古木を再利用したという。
        
                    拝 殿
        
               拝殿に設置されている案内板
 氷川神社 御由緒  上尾市瓦葺一〇二五-
 御縁起(歴史)

 瓦葺は、元は一村であったが、正保から元禄のころ(一六四四-一七〇四)にかけて上瓦葺・下瓦葺・元瓦葺の三か村に分村した。当社は、そのうちの上瓦葺村の鎮守として祀られてきた神社であり、その創建については、『郡村誌』に「永正三年(一五〇六)八月十日武蔵一宮を遷すと云」と伝える。また、当社は明治六年に村社になったため、同四十一年には政府の合祀政策に従って地内にあった無格社の神明社・天神社の両社と神明社の境内にあった荒神社を合祀した。
 境内周辺はかつては一面の畑で、祭礼日には当社の幟が岩槻からも見えたというほどであった。しかし、近年では周囲にマンションや店舗などの建物が増え、参道の両脇に鬱蒼と茂っていた杉の古木も昭和五十三年ごろには全て枯死してしまったため、境内の雰囲気は随分変わってしまった。昭和五十五年には本殿の修復及び拝殿の再建や末社上屋の新築など、境内の大整備が行われたが、その際、拝殿の腰板や天井裏の用材には、最後まで残っていた杉の古木の根元の部分を製材したものを利用した。
 また、平成二年には、「地元に天神様を」という氏子や崇敬者の要望に答えて京都の北野天満宮から分霊を受けて境内に天満宮を創建した。この天満宮は、「学問の神様」として崇敬され、受験シーズンには特に参詣者が多い(以下略)
                                      案内板より引用

        
                    本 殿
 
      境内社・瓦葺天満宮             境内社・稲荷社 石神社
        
                         境内社の間には力石も置かれている。
 瓦葺氷川神社所蔵の文化財  「奉納 力石さん住〆目 瓦葺村叶」
 起源と歴史
 力石の存在が確証されるのは、十六世紀に作られた「上杉本洛中洛外図屏風」で、弁慶石の銘を持つ力石が描かれている。また、一六〇三年の日葡辞書に力石の項があり「力試しをする石」とされている。江戸時代の連歌に「文治二年の力石をもつ」という句があり、おそらく文治二年(一一八六年)の銘か言い伝えがある力石があったのであろう。現存する力石に刻まれた年としては、寛永九年(一六三二年)が知られているかぎりもっとも古い。江戸時代から明治時代にかけては、力石を用いた力試しが日本全国の村や町でごく普通に行われていた。個人が体を鍛えるために行ったり、集団で互いの力を競いあったりした。神社の祭りで出し物の一つとして力試しがなされることもあった。
 石の形は表面が滑らかな楕円形が多い。滑らかな石は持ち上げにくいが、体に傷をつけずにすむ。ほとんどの力石は六〇キログラムより重い。米俵より軽くてはわざわざ石を用意する意味がないという事であるらしい。上限は様々で、中には三〇〇キロに達するものもある。あまりに重い石は一人で持ち上げることは不可能だが、それはそれで別の挑戦する方法がある。
                                      案内板より引用

 
     境内社・三島社 香取社             境内社・三峰神社
       
                                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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中平塚氷川神社

 上尾市平塚地域は市北東部の大宮台地上に位置する南北に長い地域である。この「平塚」という地域の由来は当地に緩やかな傾斜の塚が存在していたことに因んでいるとの事だ。北足立郡伊奈町との境界となる低地を原市沼川が流れ、その低地と台地の境界は傾斜が緩やかで不明瞭である。地区の東側を北足立郡伊奈町小室、南側を原市や二ツ宮、西側を上尾宿や上尾村、北側を菅谷や須ケ谷と隣接していて、地域内は埼玉県道5号さいたま菖蒲線を境に西側が市街化区域で準工業地域(北部や南部は工業地域)に指定され宅地化が進むが、市街化調整区域となる東側は原市沼川付近に開発の手が加えられておらず原風景を留めている。
 また北部の平塚一丁目・二丁目も市街化調整区域で、大音団地と称する住宅団地も見られるが、主に耕地整理された耕作地である。
『新編武蔵風土記稿』において、旧上中下平塚村の規模としては上平塚村が東西10町・南北15町余、中平塚村は東西5町半・南北6町余、下平塚村が東西4町・南北8町余であった。
 この平塚地域中央部には「平塚公園」という小さな森の中に遊具施設やミニアスレチック等がある自然豊かな公園であるのだが、その敷地内で北側一角の鬱蒼とした社叢の先に中平塚氷川神社が静かに鎮座している。
        
             
・所在地 埼玉県上尾市平塚1514
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧上中下平塚村鎮守・旧村社
             
・例祭等 ふせぎ 327日 例祭 44日 天王様 714
 二ッ宮氷川神社の北側に東西に走る埼玉県道150号上尾蓮田線があり、そこに合流後右折し、700m程進んだ「県立がんセンター入口」交差点を左折する。埼玉県道5号さいたま菖蒲線に入り、道なりに北上すると「平塚公園」が進行方向右手に見え、その公園を過ぎた十字路を右折し、暫く進むと、中平塚氷川神社の朱色の両部鳥居が見えてくる。
 正面鳥居から北東方向に参道が伸びていて、その参道に沿った車道があり、その突当たりに駐車スペースがあったので、そこに停めてから参拝を開始した。
        
             鬱蒼とした森の中に佇む中平塚氷川神社
『日本歴史地名大系 』「上平塚村」の解説
須ヶ谷村の南西、大宮台地原市支台の北部にある。足立郡上尾領に属する(風土記稿)。田園簿では平塚村とあり、田八五石余・畑一七九石余、岩槻藩領。弘化二年(一八四五)書写の下平塚村記録之書出し覚(神田家文書)に承応三年(一六五四)「壱村限リ相別ク」とあることから、この年に上平塚・中平塚・下平塚の三村に分れたとみられる。
「中平塚村」
上平塚村の南にある。承応三年(一六五四)平塚村が三村に分れて成立(弘化二年写「下平塚村記録之書出し覚」神田家文書)。足立郡上尾領に属する(風土記稿)。元禄七年(一六九四)の桶川町助郷帳(須田家文書)に中平塚村とあり、勤高一五五石。領主の変遷は上平塚村と同じ。ただし寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)にみえる岩槻藩領の平塚村は当村をさすとみられ、勤高一五五石余・役家七軒となっている。
「下平塚村」
中平塚村の南、大宮台地原市(はらいち)支台上にある。西寄りを菖蒲(現菖蒲町)方面へ向かう道、南の原市村境を幸手方面へ向かう道が東西に通る。東側は原市沼から北へ延びる低地。足立郡上尾領に属する(風土記稿)。江戸初期にはのちの上平塚村・中平塚村とともに平塚村一村で、岩槻藩領時の寛永四年(一六二七)の年貢割付状(神田家文書)に下平塚村の名がみえる。田七町五反余(分米三三石余)、畑屋敷九町八反余(六貫文余)。しかし慶安期(一六四八―五二)の割付状(同文書)ではいずれも平塚三ヵ村を合せた記載となっており、田園簿でも平塚村として記される。
 
    
中平塚氷川神社正面鳥居          鳥居上部に掲げられてある社号額
 鳥居の横には可愛いお地蔵様が祀られている。    「正一位氷川大明神」と表記
        
                            長い参道の先に社殿が見える。
 参拝日は平日の午前中で、雲一つない青天日であったにも拘らず、鬱蒼とした社叢に囲まれた長い参道は仄暗い。但し時に木々の間から木洩れ日が参道を照らすその美的景観は何とも美しい。筆者の手前勝手な感性を押し付けるつもりは毛頭ないのだが、この参道の光と影に包まれているような神秘的な雰囲気を五感で感じ取る日本人の感性とは不思議なものであるとつくづく思う次第だ。
        
                   境内の様子
 中平塚氷川神社の創建年代等は不詳。承応年間(16521655)の創建と伝えられ、平塚村が上中下の3村に分村した時期に祀られたのではないかという。現在の平塚公園一帯が社の境内地であったともいい、かなりの規模であったのであろう。明治6年村社に列格、明治40年、大字中平塚にあった石神社等八社と大字上平塚の神明社、大字下平塚の稲荷社を合祀している。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上平塚村』
 神明社二宇 稻荷社 以上三社觀藏院の持、
 觀藏院 新義眞言宗、上尾宿遍照院末、大應山天德寺と號す、開山秀清は文明十六年正月十五日寂す、本尊十一面觀音を安ず、 山王社 天神社 地藏堂、
『中平塚村』
 氷川社 上中下平塚村の鎭守なり、末社 稻荷社 疱瘡神社、旗神社 別當寶壽院 新義眞言宗、上平塚村觀藏院末、
 淺間社 寶壽院持、
 六所明神社 密藏院持、
 八幡社 持同じ、
 稻荷社二宇 村民持、
 密藏院 新義眞言宗、倉田村明星院末、能滿山求聞寺と號す、本尊虚空藏を安ず、天神社 薬師堂
『下平塚村』
 稻荷社二宇 花藏院の持、
 第六天社 同じ持、
 花藏院 新義眞言宗、上平塚村觀藏院門徒、本尊馬頭觀音を安ず、疱瘡神社、
        
               境内に設置されている案内板
 氷川神社 御由緒 上尾市平塚一五一四
 御縁起(歴史)
 当社は雑木林に覆われた広い境内地を有し、現在その一部は平塚公園となって市民の憩いの場として親しまれている。
 創立は、社伝によると、承応年間(一六五二-五五)のことであるという。平塚村は弘化二年(一八四五)の「下平塚村記録之書出し覚写」(神田家文書)によると、承応二年に上・中・下三村に分かれたとあることから、分村と相前後して祀られたとみられる。
『風土記稿』中平塚村の項には、「氷川社 上中下平塚村の鎮守なり 末社稲荷社 疱瘡神社 旗神社 別当 宝寿院」と載り、当社は、分村して以降も中平塚一村のみの鎮守ではなく、三村の総鎮守として信仰されていたことがわかる。
 また、天明二年(一七八二)の宗源祝詞があり、神祇管領家卜部良延から「正一位氷川大明神」の社号額の揮毫を受けた旨が記されている。現在鳥居に掛かる社号額がこの時のものであろう。別当の宝寿院については、真言宗の寺院で、当社の本殿のすぐ北側にあったが、明治六年に廃寺となった。
 明治六年四月に当社は村社となった。同四十年、大字中平塚にあった石神社など八社と大字上平塚の神明社、大字下平塚の稲荷社を合祀した。しかし、上下平塚の両社の合祀は書類上のもので、実際には現在も元のまま祀り続けられている。
                                      案内板より引用

        
                    本 殿
 平塚地域は天水場であったため、昭和20年代までは雨乞いの儀式を行っていた。まず総代が、夜明けと共に榛名神社(群馬県)へ神水を受けに行き、その間に若い衆が境内の池の水を掻い出した」。戻ると神水を池の中に投げ、全員で祝詞を唱える。終わると密蔵寺へ移り境内に筵(むしろ)を敷いて酒を浴びるほど飲んだもので、大抵は一両日中に雨が降ったという。
        
              参道左側で拝殿の手前にある神楽殿
中平塚氷川神社では春時期に神社での祭礼に神楽を奉納していて、「中平塚の祭りばやし」という。この祭りばやしは、神田ばやし系の祭りばやしである。明治時代後期である文久年間(186164)に、大太鼓の善さんと呼ばれる名人がいたと伝えられることから、すでにこの頃には中平塚で祭ばやしが伝承されていたことが分かる。
その後、明治時代中期には、西門前の若松座(神楽師)から、同じ神田ばやし系の祭りばやしである桑屋流の新ばやしを伝授され、現在に至っている。この新ばやしに対して、それ以前に伝えられていたはやしは、「古っぱやし」という。また、中平塚からは、昭和50年に蓮田市閏戸にはやしを伝授している。
 
          境内に祀られている境内社(写真左・右)詳細は不明。
「中平塚の祭りばやし」の曲目には、「屋台」、「昇殿」、「鎌倉」、「四丁目」、「岡崎」があり、「昇殿」と「四丁目」は今日では演奏されていない。「屋台」は「ブッツケ」、「地」、「新切」、「三ツ目新切」、「乱拍子」、「キザミ」、「大切」で構成されていて、このうち「地」は、ほかの構成要素の間をつなぐ役割をしている。
 上演の機会としては、元旦祭、55日のはやし講、7月の上尾夏祭り、中平塚の天王様がある。上尾夏祭りでは、宮本町に招かれてその山車に乗って演奏している。このほか、8月第1土曜日には上・箕の木地区の天王様に招かれて演奏していた。また、嘗て昭和30年代には、原市や蓮田の夏祭りの際に招かれて上演することもあった。
 なお、この祭りばやしには、付属芸能としておかめ・ひょっとこの踊りがあり、この踊りは「岡崎」を演奏に合わせて行うものとの事だ。
「中平塚の祭りばやし」は上尾市の「民俗文化財・無形民俗文化財」の指定を受けている。指定年月日は平成25716日。
        
            神楽殿の並びに祀られている境内社・浅間大神
 中平塚のお獅子様は、「フセギ」とも呼ばれ、毎年327日に行われる。「フセギ」とは病気や災害などの悪いものが地区に入らないよう防ぐための民俗行事であるのだが、当地にもこの行事があり、「埼玉の神社」によると、当番が早朝のうちに市内平方の八枝神社からお獅子様(獅子頭)を借りてきて、公民館の床の間に安置する。お昼ごろから、氏子が銘々でこのお獅子様に参拝し、悪疫除けの神札を受けて帰る。嘗ては若衆がお獅子様を持ち、氏子各家を祓って回ったという。
 例祭は午前11時から拝殿に総代・当番・若衆のほか、市議会議員らが参列して宮司が祭典を行う。この日、堤崎の安藤太夫が、朝から氏子の主だった家々を巡って巫女舞を舞い、更に当社の祭典が終わるのに合わせて境内の神楽殿で神楽を奉納する。参拝者は境内に茣蓙(ござ)を敷き、酒を酌み交わしながら見物して楽しむ。
 また、翌日には「氷川講」の日と呼ばれ、氏子全員で境内の片づけを済ませた後に、密蔵院の境内にある中平塚区民会館に席を移して宴会を開く。この日は新旧当番の交替も行うため、宴会で旧当番の慰労の意味もあるという。
        
                                    境内の一風景
 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「上尾市HP」「境内案内板」等
    
 
 

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二ツ宮氷川神社

 元来「延喜式」神名帳に載る神は氷川神一座で、氷川に座す神一神を祀っていた。この氷川神の性格はかつて埼玉県南部にあった「見沼」に対する土着の水神(竜神)信仰から祭祀が始められたと思われ、その信仰にヤマト族や出雲族の産土神であるスサノオ信仰が融合してできたのが現在の氷川信仰であるという説がある。因みに現在氷川神社の神池は見沼の名残で、社殿近くの蛇の池は沼の水源と考えられる
 ところで、総本社である大宮の氷川神社、見沼区中川の中氷川神社(現 中山神社)、緑区三室の氷川女体神社は、いずれも見沼の入り江や畔にあったといわれ、且つ一直線に並んでいて、三社一体の神社といわれたらしい。
 それに対して、上尾市の二ツ宮の氷川神社は、江戸時代には上尾宿・上尾下村を含めた3村の鎮守で、氷川男体(なんたい)社・氷川女体(にょたい)社の2つの神社から成り立っていた。現在、女体社はないが「二ツ宮」の地名はこの氷川二社からきたといわれていて、江戸時代の武蔵国で、氷川男体社と氷川女体社が併置された村は見られず、大変珍しい事例ということになる。
 二ツ宮の氷川神社は、中世のころまでは広かった見沼の最北端部に位置していて、やはり見沼の水神(竜神)信仰に関わる社であったのであろうと思われる。

        
             
・所在地 埼玉県上尾市二ツ宮114
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧上尾三ヶ村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春の例祭 415日 例祭・新嘗祭 1115日 他
 国道17号線を南下し上尾市役所の先である「愛宕(北)」交差点を左折、荒川水系支流である芝川に架かる「日の出橋」を越え、更に道なりに進むと「鎌倉街道 道標」の柱がある十字路に達する。その十字路を斜め左方向に進むと二ツ宮氷川神社の正面鳥居に到着する。
 街中にあるにも関わらず、鳥居から見る境内は、見事な社叢林が覆い荘厳な雰囲気。幼稚園も隣接されているようで、元気な子供たちの声も聞こえる。まるで、社の神々が園児さんを守っているような、そんな温かい気持ちにもなった今回の参拝であった。
 境内には駐車スペースはあるようだが、今回は「上尾市文化センター」の駐車場に車を停めてから徒歩にて社への参拝に赴いた
        
                二ツ宮氷川神社正面鳥居
『新編武蔵風土記稿 上尾村』
 氷川社 上尾三ヶ村の鎭守なり、男體女體の兩社にて、間に道をへだてならびたてり、
         村内遍照院の持、神明社 觀音坊の持、
 稻荷社二 一は觀音坊の持、一は光勝院の持、
『新編武蔵風土記稿』によると「男体女体の両社にて、間を道をへだてならびたてり」とある。この記述にあるとおり、元々は男体社と女体社の両社からなり、男体社は現在の社殿がある所に、女体社は南側を通る鎌倉街道を隔てた南東側にあったといわれている。氷川神社の祭祀は、古くから水と関わりが深く、二ツ宮の氷川神社でも境内にある湧水地で、大正時代末まで雨乞いが行われていたといわれている。
        
          鳥居を過ぎると併設された幼稚園の先に社殿が見える。
        
                               境内の様子。
     境内にはアカマツ等の豊かな社叢林に覆われているが、周囲は住宅街である。
        
                     拝 殿
        
                              拝殿に設置されている案内板
 氷川神社 御由緒
 御縁起(歴史)
 上尾は既に戦国期に郷村名として見え、元亀・天正のころ(一五七〇-九二)のものと推定される旦那引付注文写(熊野那智大社文書)に「足立郷あけをの郷原宿」と記されている。当社の鎮座地はこの辺りでは一番の高台で、かつての上尾三か村の中心地にあり、小字名を二ツ宮という。
 その創建は、当地一帯を上尾郷と称していた中世にまでさかのぼることが推測され、『風土記稿』上尾村の項には「氷川社 上尾三か村の鎮守なり、男体女体の両社にて、間に道をへだててならびたてり、村内遍照院の持」と記されている。これに見えるように、当社は元来男体・女体の両社からなり、小字名二ツ宮の由来ともなった。
 明治初年の神仏分離を経て、男体・女体の両社は、いずれも氷川社と称し、明治六年に村社に列した。しかし、明治四十二年に女体社を継承した氷川社の方が隣村の上尾宿の鍬神社に合祀される事態となった。鍬神社は社名を氷川鍬神社に改め、村社に列した。一方、当地では男体社を継承した氷川社が一社だけとなり、一宮の氷川神社に倣った古くからの祭祀形態は変容を余儀なくされたのである。
 当社の『明細帳』によると、いつのころか字二ツ宮の神明社と末社八雲社・稲荷社が合祀され、明治四十年には上尾下字上原の無格社天神社、字下原の無格社稲荷社、字榎戸の無格社稲荷社・厳島社、翌四十一年には上尾村字北本村の無格社稲荷社がいずれも合祀された。(以下略)
                                      案内板より引用

              
                                     氷川神社本殿
                 本殿の彫刻は上尾市指定有形文化財の指定を受けている。
 上尾市指定有形文化財 氷川神社本殿彫刻
 上尾市二ツ宮(旧上尾村)八六六
 昭和三十五年一月一日指定
 この氷川神社は、旧上尾村字二ツ宮に所在する。この小字名の起こりは、氷川神社に男体社と女体社の二つの宮があったことによる。かつては上尾の名をもつ三つの宿村(上尾宿・上尾村・上尾下村)の鎮守社であった。明治四一、二年の神社合祀の時、女体社は上尾宿の鍬社を合祀し、(このため氷川鍬神社と称されるようになった)、現在は男体社が本殿として残っている(合祀したあとの女体社のあき宮は、後に愛宕神社の本殿として譲られた)。
 現在の氷川神社の本殿には四面にすぐれた彫刻がなされている。図がらは中国の故事を現わしたもので、最近の修理によって整ったものとなった。本殿を支える下部の肘木はすべて透かし彫りされりっぱである。製作の時期・作者は不詳である。
 昭和五十九年十月十五日
                                      案内板より引用

 
       社殿の左脇には多くの境内社が祀られている。(写真左・右)
  左から牛頭天王社・金毘羅大権現・古峰        神明社・天神社
        稲荷社・山王社
        
            境内社等にも由来等の案内板が設置されている。
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「上尾の寺社HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等 

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葛貫住吉四所神社

 毛呂山町・葛貫地域は、平安時代後期、軍馬の飼育や繁殖に置かれた葛貫牧と呼ばれる重要な牧場があったのではないかと言われている。因みにこの「葛貫」という地域名は「つづらぬき」という(「風土記稿」では「くずぬき」と表記)。この管理を行っていた別当(長官)が、秩父重隆の嫡男である河越能隆であり、別名「葛貫別当」とも称していた。久寿2年(1155年)8月、大蔵合戦で父の重隆が家督を争っていた畠山重能(能隆の従兄弟)らによって敗れ、嫡男重頼と共に葛貫や河越の地に移り、河越館(川越市上戸)を新たな拠点として土地の開発を行い、所領を後白河上皇へ寄進して河越氏の祖となる。
 戦国時代になると、葛貫地域は後北条氏の勢力下となる。永禄2年(1559)に作られた後北条家臣の領地とその面積を記した『小田原衆所領役帳』には「河越三十三郷葛貫」とあり、後北条一族が直接領地を治めていたという。また江戸時代の葛貫村の鎮守住吉四所神社の史料には「葛貫荘弥蔵村」と記され、戦国時代以降も葛貫荘という古い地名が使われていた。
 また葛貫地域には、その先祖を平安時代「中関白家」と称した藤原道隆の子・内大臣藤原伊周流、武蔵七党の児玉党より端を発し、鎌倉幕府の寺社奉行御家人として活躍した「宿谷(しゅくや)氏」の本拠地でもある。この地域には宿谷氏により開かれた薬王寺があり、葛貫地域の東に位置する坂戸市多和目には永源寺や田波目城といった同氏に関係の深い寺院・史跡がある。
        
             
・所在地 入間郡毛呂山町葛貫7351
             
・ご祭神 底筒男命 中筒男命 表筒男命 神功皇后
             
・社 挌 旧村社
             
・例祭等 祈年祭 217日 夏祭り 81日 秋祭り(獅子舞)1015
                  
新穀感謝祭 1123
 出雲伊波比神社の西側を南北に走る埼玉県道30号飯能寄居線に合流後、日高市方向に南下する。2㎞程進んだ信号のある十字路を右折すると、すぐ進行方向右手に葛貫住吉四所神社の鳥居が見えてくる。但し鳥居の両側は、住宅と家塀に囲まれているので、ゆっくりと徐行しながら確認しなければ、通り過ぎてしまうほど入り口付近の幅は狭い。
 周囲には適当な駐車スペースがないので、周囲の交通に支障のない場所に路駐し、急ぎ参拝を開始した。
        
                                葛貫住吉四所神社正面 
『埼玉県の地名 日本歴史地名体系』「葛貫村」の解説
大谷木村の東、高麗川支流宿谷川(葛貫川)左岸台地に立地。「くずぬき」ともいう(「風土記稿」など)。宿谷川は入間・高麗の郡境を流れ、対岸には高麗郡平沢村(現日高市)。小田原衆所領役帳に左衛門佐殿(北條氏堯)の所領として「百四拾六貫六百三十六文 河越三十三郷多波目葛貫」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。寛永一六年(一六三九)の検地帳(毛呂山町史)によれば田・畑・屋敷五一町八反余。田園簿では田高一七○石余・畑高一五八石余、旗本宮崎・朝比奈両氏の相給。元禄帳では高三二六石余、国立史料館本元禄郷帳によると旗本高林・宮崎両氏の相給。正徳(一七一一‐一六)頃両領とも幕府領となったが(風土記稿)、寛保二年(一七四二)に上総久留里藩領となり、幕末に至った。延享二年(一七四五)には高三二六石余、家数七○ほどで、地内芝地(場)を惣百姓連印で開発を願出たにもかかわらず名主が独断で約二五人だけに割渡したために残りの百姓らが訴え出ている(毛呂山町史)。上野国と相模国を結ぶ道(鎌倉街道の一)が南北に抜けていた。元当村に属していた「大寺廃寺」は近年の行政区画変更により現在は日高市山根に属する。
        
            鳥居の左側にある「住吉四所神社記」の石碑
       (日陰の部分は解読不明な漢字が多く、その点は了解を頂きたい)
                   住吉四所神社記
             
傳曰●●●●朝胸刺國●●●●●●攝津
             移祀焉然●●●●古秩父族能隆●●茲●
             遂稱葛貫別當●●日加神●●●●●●●
             祥瑞雲集後以貞和元年●経營●●●●●
             火貞治五年鎌倉公基氏再營社殿規模頗整
             明徳二年九月氏滿復修營之江戸初免社境
             七段七畝貳拾歩租爲除地元祿四年十二月
             以舊殿既●更營而存于今維新後明治五年
             列村社四十年二月十三日併字●畝鎮座無
             格社愛宕神社●名住吉四所神社其明年四
             月十七日請上地林八畝四歩得成境内編入
             神域初完威徳兼備●是氏子興議謀叙創始
             以來年紀以傳●朽請余●余不肖●●事然
             
現●在社掌之任●不可固辞敢記(以下略)
        
             入口の狭さと対照的な奥行きのある境内
『新編武藏風土記稿 葛貫村』
 住吉社 攝津國住吉神を移し祀れり、神體は白木をもて束帶せし形を造る、長八寸許の坐像にていと古色なり、當社の傳に應安二年左兵衞督基氏再興ありしに、後兵亂のために大破せしを、明德二年九月又再興せしと云ことを記したれど、年代を推に其子氏滿の再興なるべし、又當社に棟札あり、中央に奉興慶長山住吉四所大明神と書し、右に武州入間郡神主宮崎筑前守、左に元祿四年辛未十二月造立之二百十六年に而とのみ見えたり、元祿四年より二百十六年を上れば、文明八年に當れり、例祭九月十三日、神主宮崎某の司る所なり、
 末社 天神社 八幡社 白山社 稻荷社 子權現社 山神社 牛頭天王社、

        
                    拝 殿
 社記によれば、昔応神天皇の御宇、胸刺国造伊佐知直が摂津国(現大阪府)から奉遷したのが起源とされていて、元禄四年(1691年)に造営されたものが現在の本殿(拝殿奥)であるといわれている。葛貫住吉四所神社では、毎年10月上旬に五穀豊穣・疫病退散を祈り、獅子舞が奉納される。
 毛呂山町では、十社神社・住吉神社(滝ノ入)・川角八幡神社と共に、同時期に4か所で行われるのが特徴である。
『入間郡誌 住吉四所神社』
 村の稍々中央にあり。創立詳ならず。或は貞和年中足利尊氏、貞治年中足利基氏、明応年中足利氏満の造営と称す。蓋し古社なるベし。現今の社殿は元禄年中の造営なりと云ふ。明治五年村社に列せらる。境内幽邃也。神官宮崎氏。
        
                    本 殿
「埼玉の神社」によると、氏子区域は葛貫一帯で、氏子数は100戸程である。現在氏子の多くは会社勤めとなっているが、もとは米麦を自給し、養蚕を行っていた家がかなりあった。また、当地は自生の篠・桜・藤などを利用した箕(み)の産地としても有名で、篠と藤は降霜のころ、桜の皮は春先にと農閑期に材料を集めて作られる。箕は現金収入になるため盛んに作られ、多くは秩父方面に出荷されている。
 神社の運営費については、戦前までは田畑を神社が所有していたため、これを氏子に貸し付けて小作料をとり、祭典費の一部に充てていたが、この田畑を農地解放により失ったのを機に、各戸から初穂料として一律に集める方法に改めた。
 当地で結成されている講には、榛名講・古峰講・三峰講・御嶽講・成田講などがある。これらは、いずれも大字の中の有志によって組織されているもので、組単位の結成ではない。中でも榛名講や御嶽講は主に作神として、古峰講や三峰講は火防・盗賊除けとして信仰する人々が講員として集まっている。
 また、嘗て氏子の間では、男衆のお日待である大遊びや女衆のおしら講が行われていた。特に、211日の大遊びには、宿で朝から酒を飲んで楽しんだものであったが、これは一年間の村行事を協議する機会でもあったという。
       
             本殿の右側に祀られている境内社末社
       向かって左から稲荷神社・子権現神社・天神神社・八幡神社・白山神社
 
    参道途中左側にある神興庫であろうか。    社殿左側に祀られている境内社・八雲神社
        
                               静まり返っている境内

 ところでこの地域には、10月第2日曜日に行われる秋祭りで、その時には「葛貫の獅子舞」が奉納される。この獅子舞は「毛呂山町指定民俗文化財  無形民俗文化財」と指定を受けている。また、同じく「毛呂山町指定有形文化財 歴史資料」と指定されている「神馬奉納絵馬」もこの社の境内に掲示板として設置されている。
        
                「
葛貫の獅子舞」の案内板
 毛呂山町指定民俗文化財  無形民俗文化財
 葛貫の獅子舞
 平成二十三年(二〇一一)三月二十二日指定
           奉納日   毎年十月第二日曜日
 住吉四所神社に奉納される獅子舞は、雄獅子、雌獅子、中獅子が舞う「三頭獅子舞」です。
 当社の獅子舞には、獅子とハイオイ(幣負)、花笠、万灯のほかに天狗が登場します。天狗は、猿田彦命を表すといわれており、獅子たちの先導役を担います。
 奉納する演目は、「街道笛」、「角兵衛」、「十二切」があります。
 また、獅子が舞う際には、町内で唯一、ささら歌を歌う「謡い(うたい)」を行います。
 令和六年(二〇二四)三月三十一日 住吉四所神社氏子一同
        
               「
神馬奉納絵馬」の案内板
 毛呂山町指定有形文化財 歴史資料
 神馬奉納絵馬
 平成二十七年(二〇一五)三月一十九日指定
 住吉四所神社には、宝永元年(一七〇四)銘の神馬奉納の様子を描いた大絵馬が掛けられています。
 大きく描かれた馬を曳く様子は、馬のたてがみや尾、鞍の彫刻、曳き手の表情や装束はどの細部も細かく描き、人馬の動きを表現しています。絵馬奉納の経緯は不明ですが、葛貫地域には馬を管理する牧が設けられたという伝承が残り、近代には草競馬が開催されるほど、馬が身近であったことが、馬への崇敬につながったとみられます。
 令和六年(二〇二四)三月三十一日 住吉四所神社氏子一同
                                    共に案内板より引用


*参考資料

『新篇武蔵風土記稿 宿谷村』
宿谷庄と唱ふ、村名の起りを尋るに、村民權左衛門が先祖宿谷太郎行俊なるもの、隣村葛貫に住して當村を開發すと云り、彼權左衛門が家に藏せる宿谷氏の系譜を見るに、行俊が孫次郎左衛門重氏は、頼朝頼家實朝等に仕るとあれば、開發の年歴も大抵推て知べし」
「舊家者權左衛門、氏を宿谷と稱す、相傳ふ先祖は當國七黨の一兒玉惟行の第四子太郎経行に出、経行が四代の孫太郎行俊此地に來り住せり、是當所宿谷氏の祖也、夫より四代の後宿谷次郎左衛門重氏・鎌倉右大將家に仕へしに、和田義盛常盛の事に座して仕を止られ、やがて剃髪して不染入道と號し、遁世して當國に下り住しが、後召れて再び頼經に仕ふ、其子左衛門行時も將軍家に仕へたりしに、世かはりて宗尊親王に仕へ、其子二郎左衛門光則[按ずるに【鎌倉志】に光則寺は、大佛へ行道の左にあり。此處を宿谷とも云、相傳ふ平時頼の家臣、宿屋左衛門光則入道西信が宅地なり、昔日蓮龍口にて首の座に及ぶ時、弟子日朗・日心二人、檀那四條金吾父子を、光則に預け給ひ、土籠に入らると。是によれば親王家に仕へしと云は疑ふべし、]光則の子、三郎行岩、行岩の子三郎行惟まで親王家に奉仕し、行惟の子四郎重顕より將軍尊氏に仕へ、其の子與市儀重に至て、武蔵相模の内にて、知行七千町の地を領し、將軍義詮義満に従ひて、応永の頃泉州に於て、大内義隆と戦ひてしばゝ軍功あり、其後子孫世々將軍家に仕へたりしに、儀重七代の孫近江守重近の時より、小田原北條家に属し、其子大和守重則天正年中、氏直より當國入間郡の内、宿谷・權現堂・葛貫・市場・下川原・大久保・熱川・女影八ヶ村所領の書出を與へられしと云、北條氏没落の後は、鄕士となりしにや詳ならず、重則より四代の後、權左衛門重本大猷院殿に仕へ奉りて、後宿谷に住居し、寛文十年十二月廿四日五十五歳にて死とあり」




参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の地名 日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
埼玉県景観資源データベースHP」「境内案内板」等

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西戸國津神神社

 毛呂山町・西戸地域。この「西戸」は嘗て「道祖土」と称していて『新編武蔵風土記稿 西戸村』にも以下の記載がある。
西戸村は昔は道祖土と書たり、隣郡八ッ林村の百姓治右衛門は、道祖土土佐守が子孫にして、近鄕の舊家なれば、若くはこの土佐守などが領せし地にて、道祖土の名は夫より起りたらんを、後世今の文字に書改めたるならんといへり、(中略)此邊すべて高低多き地にて、水田陸田相牛せり、用水は越邊川を引用ゆれど、水旱共に患あり」
「道祖土」という地名の由来は幾つかあり、古くから道祖神を祀る塞(さい)の神の杜があったことからという説と、この地域の名士の祖先である「道祖土土佐守」が戦国期にこの地を領有していたという説がある。
        
            
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町西戸916-1
            
・ご祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 春祭り 222日 秋祭り 1016(宵祭り)・17日(本祭り)
                                  
新穀感謝祭 1123
 川角八幡神社から北上し、越辺川に架かる宮下橋を越える。平均標高43m程の越辺川左岸に広がる豊かな田畑地域の風景を愛でながら北上し、埼玉県道343号岩殿岩井線に合流する十字路を左折、300m程進んだ丁字路を右折すると、すぐ先に西戸國津神神社が見えてくる。
        
                 西戸國津神神社正面
『日本歴史地名大系』 「西戸(さいど)村」の解説
 箕和田(みのわだ)村の東、越辺川左岸低地に立地。古くは小田原北条氏に仕えた道祖土(さいど)氏が住したことから「道祖土」と記した。のち改字したという(風土記稿)。当村は天正年中(一五七三―九二)に黒山村(現越生町)の修験山本坊が開発したもので(元文三年「山本坊寺領書上」相馬家文書)、全村を山本坊一人が名請していたという(元文三年「山本坊人別帳一判等願」同文書)。
 元和元年(一六一五)百姓一五軒に耕作させ、同二年山本坊が当地に移転。同六年検地があり、入西郡西戸村御縄帳(同文書)では高二五〇石、うち五〇石は山本坊朱印地。
       
               こじんまりとした社の第一印象
入間郡誌』において「西戸は川角村の西北部にして、南に越辺川を廻らし、北に小丘を控へたり。河畔の水田肥沃にして、要害善し。此を以て古来山本坊此地に拠りて、大に勢力を振ひたりき。古墳多し」と記載があり、この地に修験山本坊をわざわざ本拠地を移した理由が載せている。
 
  鳥居の社号額には「國津神神社」と表記     入口周辺に建つ社号標石        
 國津神神社は、現越生町の黒山熊野神社の別当を務めていた修験山本坊が、当地へ移転したことから、慶安元年(1648)当地に改めて熊野社を勧請して創建、江戸期には熊野社と称していたという。
 本山派修験の山本坊は、相馬掃部介時良入道山本坊栄円が応永年間(13941428)に開山した大寺で、慶安2年(1649)には江戸幕府より、山本坊は寺領47石および、熊野堂(黒山熊野神社)領として3石の御朱印状を受領している。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治37年に地内の愛宕社・天満宮・稲荷社・住吉社を合祀、明治42年に箕和田稲荷神社と境内社大山祇社を合祀、大正4年に社号を國津神神社に改めている。
        
                                      境内の様子
『新編武蔵風土記稿 西戸村』
天神社 修驗圓藏院の持、
住吉社 熊野社 以上二社、修驗山本坊の持、
山本坊 慶安二年寺領四十七石及熊野堂領三石の御朱印を賜へり、熊野は郡内黒山村にありて、
    今もこゝにて別當せり、本山派の修驗、京都聖護院の末なり、開山榮圓應永廿一年示寂せり

行者堂 役小角の像を安置す、 
龍光院 圓蔵院 二院共に山本坊の配下なり、
 社のみをみると、かなり小規模な印象は拭えないが、竜光院・円蔵院等の仏閣も含む当時の旺盛ぶりは如何ばかりであったろうか。
        
                    拝 殿
 国津神神社 毛呂山町西戸九一六(西戸字愛宕下)
 現在、越生町黒山に石造の役行者像と宝篋印塔がある。これはかつて武蔵のうち入間郡・秩父郡・比企郡と常陸・越後の一部にわたり本山派修験を管理した山本坊の遺跡であり、宝篋印塔の銘文に「山本開山権大僧都栄円和尚 応永二十年癸巳十月日」「法勝禅門寿塔 応永廿一年甲午五日」とある。当社はこの山本坊と深いつながりを持っている。
 当社の創建にかかわる氏子の相馬家(屋号オヤカタ)の先祖は越生の山本坊を興した栄円の後裔で、越生の熊野社の別当である。当社は同家が居を移したことに伴い、慶安元年、熊野社をこの地に勧請したものである。また、勧請後同家は当社と越生の両熊野社の別当を兼ね、山本坊と称し、慶安二年には寺領四七石、熊野社領三石の朱印を受けるとともに、京都聖護院直末(じきまつ)の本山派修験として霞(かすみ)の教化を行った。なお、年行事職大先達も務め、配下の寺は四八カ寺に及んだ。
 当地の配下の寺は竜光院・円蔵院で、役行者堂も置かれていた。
 明治に入り、神仏分離のため山本坊は別当を離れ、代わって出雲伊波比神社社家紫藤家が祀職を務めるようになり、現在に至っている。
 明治五年に村社となり、同三七年、当所の愛宕社・天満宮・稲荷社・住吉社を本殿に合祀し、更に、同四二年に大字箕和田字高山木の稲荷社と境内社大山祇社を合祀した。また、大正四年には社号を熊野社から国津神神社に改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿に掲げてある扁額                本 殿
 明治時代以降、当地は山本坊が廃寺となったため、寺がなく、氏子の多くは神葬祭である。しかし、今なお葬儀の後、仏式の名残で初七日・三十五日・四十九日を祭日として神職が慰霊祭を行っている。
 当地で結成されている講には「榛名講」「観音講」がある。
 榛名講は、榛名神社の神を作神として信仰する者が結成し、219日に代参者が東松山市上岡の妙安寺へ出かけて、牛馬の安全を祈願し、その帰りに絵馬と笹の葉を受けて来るもので、この笹の葉は牛馬に食べさせると病気にかからないといった。しかし、この講も農業の機械化が進み、農耕用牛馬が減少したため、昭和40年ごろに解散したという。
 このほか、氏子の間では「おしら講」「大遊び」を行っていた。
「おしら講」は315日に行う女衆の行事で、養蚕守護の神であるおしら様を祀り、糯米(もちごめ)を一口一升として持ち寄り、大福餅を作って祝う。
 大遊びは211日に行う男衆の行事で、女衆のおしら講同様に行うとのことだ。
        
          拝殿前方左側に設置されている「山本坊の芭蕉の句碑」
                毛呂山町指定記念物史跡
 毛呂山町指定記念物史跡 山本坊の芭蕉の句碑
 山本坊の二十五世、徳栄法印(別号は紫梅)の建立といわれるこの句碑には「山さとは うめの花 はせを」と刻まれている。江戸前期の有名な俳人、松尾芭蕉への追慕の気持ちが強く、徳栄は、かつて芭蕉が故郷の伊賀で詠んだこの句を選んで自然石に刻んだものである。この句の意味は、普通ならば正月に訪れる”万歳芸人”が、田舎の山さとには梅の花が咲く春先にならないとやって来ない というような意味であろう。
 徳栄は文化四年(一八〇七)生まれで、わが郷土の誇る俳人、川村碩布の門人であり、俳号を「曰二」といい、多くの句集や短冊に句をのこしている。また、生来文筆に優れ、神社の幟、筆塚などの銘文にその筆跡をとどめている。さらに武を嗜み、幕末の混乱期には村々に起こった無頼の暴徒の鎮圧にあたった。明治維新後は神官となり、明治十一年(一八七八)に七十歳で亡くなったという。
                                  記念史蹟標柱文より引用
        
                   境内の一風景

 ところで國津神神社は、黒山熊野神社の別当を務めていた修験山本坊が、当地へ移転したことから、慶安元年(1648)当地に改めて熊野社を勧請して創建、江戸期には「熊野社」と称していたというが、この入間郡黒山村(越生町)修験山本坊の本名は「相馬掃部介時良入道山本坊栄円」であり、相馬氏といえば「平将門後裔」と称する一族である。また黒山熊野神社のご祭神は一説には「平将門」だったともいう。
『山本坊過去帳(相馬重男所蔵)』
「開祖栄円・応永二十年十月朔日、二代龍弁、三代栄弁、四代樹円、五代源栄、六代住栄、七代龍栄、八代頼栄、九代良栄」
「十代栄龍は慶長八年に山本坊を入間郡西戸村(毛呂山町)へ移し、二十五代徳栄が明治維新の時、神官となり帰農す」
『山本坊文書』
「箱根山別当相馬掃部介時良入道山本坊栄円は応永二年より黒山村に居住し修験となる。応永五年二月十二日栄円は将門宮を造営す」
『黒山三滝上 宝篋印塔』
「山本開山権大僧都栄円和尚、応永二十年癸巳十月日」
『西戸村相馬重男家文書』
「文安元年甲子十二月十三日、箱根山御領属高萩駒形之宮二所之旦那之事、右、彼旦那等、豊前阿闍梨可有引導候、山本大坊法印栄円花押」

 また、この「相馬氏」一族は後世大里郡地域の社の神職や社掌に就任していて、その広がり方も修験道に関連しそうである。この事に関しては「露梨子春日神社」「西和田春日神社」を参照して頂きたい。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「入間郡誌」「埼玉の神社」
    「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等

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