古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上新田日枝神社


        
            ・所在地 埼玉県鶴ヶ島市上新田104
            ・ご祭神 大山咋命
            ・社 格 旧上新田村鎮守・旧村社
            ・例祭等 不明
 高倉日枝神社から一旦埼玉県道114号川越越生線に戻り、同県道との交点である「高倉派出所」交差点を左折し、800m程進んだ変則的な十字路を左折する。通称「鉄砲道」と呼ばれる道路を南西方向に1.7㎞細進むと、進行方向右手に上新田日枝神社は鎮座している。
 実のところ、上新田地域は鶴ヶ島市南西部に位置し、北は東武越生線北側に沿って坂戸市森戸地域と接している。西大家駅北側に鎮座している森戸国渭地祇神社と直線距離にしても600m程しか離れていない。 
        
                 上新田日枝神社正面
    鳥居の先にある一対のイチョウの大木は、大正御大典記念植樹であるという。
『日本歴史地名大系』 「上新田村」の解説
 [現在地名]鶴ヶ島市上新田・高倉
 町屋村の北東にあり、北は入間郡森戸村(現坂戸市)。高麗郡松山領に属した(風土記稿)。慶安二年(一六四九)の川越領高倉之内上新田村検地帳(高篠家文書)があり、中新田村・下新田村と同様に高倉村内の地を開墾して成立した新田とみられる。高倉上新田ともよばれた(元禄七年柳沢保明領知目録)。慶安二年の検地帳によれば畑二八町六反余・屋敷地四町七反余。名請人二四名、うち村内居住者二二名で全部が屋敷持だが、これらの百姓たちは村外の名請人二名の分付百姓となっている。検地当時は川越藩領。元禄二年(一六八九)から四年の年貢割付状(高篠家文書)では高一四九石余。
        
                                   境内の様子
          まさに「村の鎮守様」というイメージピッタリなお社
 ところで「鉄砲道」とは不思議な名称である。調べてみると、埼玉県道114号川越越生線から西に向かう一直線の道路は、古来「中新田鉄砲道」の名で呼ばれていて、江戸時代に、夜間竹槍の先に提灯を付けて立て見通し、測量をして作った道と語り継がれる道である。この道は下新田・中新田・上新田各地域を一直線に貫いているという
 道路沿いの民家にも、所々に一時代前の臭いと懐かしさが残っている道である。
        
                    拝 殿
 日枝神社  鶴ケ島町上新田一〇四(上新田字会立東)
 当地は初め高倉村に属していたが、明暦二年の検地水帳に「武州高麗郡高倉内上新田開検地水帳」とあることから、このころ開発された村であることがわかる。また、当地は水田に適さず畑作地として耕作され、時折襲う日照りに村人の苦労は多かった。
 当社の創立も村の開発とほぼ同じころと思われ、近江一の宮の日吉大社より勧請したものである。日吉大社は、古事記の大年神の系譜に「次に大山咋神、亦名は山末之大主神、此神は近淡海国の日枝山に坐す。」とあるように、古くは日枝山に鎮まる山神であった。山神は生活を支配する神で、水ともかかわりを持ち雷神としての性格もあったと考えられ、当地において、このような神威を持つ神を勧請したことは、干損地で生活する村人の切実な祈りがあったことがうかがえる。
 鎮座地は初め村の西に当たる字山王前で、村鎮守として古くは例祭を九月二九日と定めていた。また、境内には槻が数株あり、大きなものは周囲一丈九尺もあったと伝える。
 明治四年九月、当社は山王前から現在地に遷座し、同五年に村社となった。移転理由は、鎮座地が氏子居住地からやや離れているため祭祀に不便を感じたからと伝えている。なお、遷座に際しては、本殿に担ぎ棒を付けて氏子が力を合わせ神輿のように運んだという。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                                       本 殿
『新編武蔵風土記』には上新田村(現大字上新田)山王社について「村の鎮守にて例祭は九月二十九日、村持なり、社地に槻数株あり、其の大なるもの囲一丈九尺許り」と記されている。また『入間神社誌』には「字山王前、林地八畝二十四歩、一村共有地鎮座」と記されている。現在の上新田字会立東104番地鎮座の日枝神社は、元は上新田村の西方山王前に祀られてあった。
 嘗て、この社で不吉な人身事故があったと言う。事の真偽は遠い時代のことで定かでないが、場所替の理由としてこのことが人々に語り継がれている。明治4年(18719月字山王前から字会立東の現在地に遷し祀られたとの事だ。
 
 拝殿の左側に祀られている境内社・三峰社   拝殿右側には境内社・稲荷社を祀っている。
        
             「鉄砲道」沿いに立っている庚申塔


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「鶴ヶ島デジタル郷土資料HP」等
        

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高倉日枝神社

 高倉福信(たかくらの-ふくしん. 709789)は、奈良時代の公卿で、高句麗王族と伝承される背奈福徳の孫という。武蔵国高麗郡出身。渡来人系の地方豪族の出身でありながら孝謙(称徳)天皇の側近として、橘諸兄・藤原仲麻呂・道鏡の各政権で要職を占めながら失脚することなく、また最終官位も従三位・弾正尹まで大出世し、桓武天皇の時代まで活躍して天寿を全うした異色の人物である。
 福信の同族には、東大寺写経所の官人などを勤めた広山や、造東大寺司の判官・次官、それに武蔵介などを勤めた大山などがいる。大山は天平宝宇五年、遣高麗大使となって渤海に渡ったが、帰途病にかかり、翌年没した。また同族の殿嗣(とのつぐ)も宝亀八年(七七七)、渤海使を送る使として渡海している。
 このように肖奈公(高麗朝臣・高倉朝臣)の一族は、大陸文化の保持者として、また武力的才能にすぐれた者として、さらには高句麗の故地に建国した渤海国との交渉にあたる者として、各方面に活躍した。それは基本的には中央官人としての活躍と言えるが、彼らの中には武蔵守・武蔵介となった者も多く、また八世紀後半には、入間広成(いるまのひろなり)・丈部不破麻呂(はせつかべのふわまろ)などほかにも武蔵国の出身者が中央官人として活躍していたから、これらの人々の活躍は、武蔵国の政治的な動きにも大きな影響を与えたと考えられる。
 高倉日枝神社の創建年代等は不詳ながら、その高倉朝臣(高麗福信)が近江国から武蔵国に移住した際に日吉大社を勧請したとも伝えられ、また別の伝承では、当地区が明暦年間(1655-1658)頃に高倉・上新田・中新田・下新田の4村に分村した際、上新田日枝神社を分祀したとも伝える。
        
              
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市高倉36
              
・ご祭神 大山咋命
              
・社 格 旧高倉村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭(高倉獅子舞) 1123
 鶴ヶ島市・高徳神社からは、埼玉県道114号川越越生線を市役所方向に進行し、1.5㎞程先の「高倉派出所」交差点を左折する。この交差点は道路に面して北側は「西入間警察署 高倉交番」、南側にはコンビニエンスがあり、進路変更での目印にもなり、ルートの説明もしやすい。
 この交差点を左折後、150m程先の道路沿いに高倉日枝神社は鎮座している。
        
                                  高倉日枝神社正面
『入間郡誌』高倉
 高倉は村の西部に当り、脚折三木の西方に接せり。 戸数七十。 或は曰く高倉は古高倉福信の生地なりと。 其証として挙ぐること甚だ不可なるもの多し。
 曰く、旧松栄山高福寺は福信の菩提寺にて、其姓名の頭字を採りて高福と名けたりと。 然るに寺は江戸時代の始に創立せられたるものの如く、寺名説の如き索強附会たるを免れず。 曰く、寺に不動の仏書あり。 今之を不動堂に安置せり、福信の守本尊なりと。 然も其書正に古しと雖、さまで名書とも覚えず、殊に福信の頃果して斯く不動の仏書行はれしや否やを知らず。
 曰く福信の古墳と覚しきものありと。 郡内至る処古墳のなきにあらず、然も頗る大なるものありて、而も到底其何人の噴墓たるやを知らざるを普通とす。
 曰く高福寺墓地に貞治七年の板碑ありと。 郡内至る処、南北朝時代の板碑あり。 其高麗人移住の説は高麗村新堀に高麗の正統(?)の存するを無視し、日枝神社勧請説は福信の時代と延暦寺及日枝社全盛時代とを転倒し、高倉村の古大にして、屋敷と称する小名あり、又人家区画の整然たるを説くは徳川時代の諸村に往々珍らしからざる事実なるを如何せん。
 脚折に白髭神社のあるも理曲とならず。
郡内には大凡二十有余の白髭あり、思ふに高倉村の成立は到底福信の頃にあらずして室町の頃にもやあらん。
 
 参道も比較的長く、社の敷地も広そうである。    参道の途中にあるステンレス製の二の鳥居

 高倉地域の地形は台地上にあるため、水田は少なく、耕地のほとんどは畑で、蔬菜(そさい)の栽培を中心とした農業が主体となっている。また戦前は養蚕も盛んに行われていたという。
 地域南部には日光往還(現国道407号線)が通り、今も往時の面影を留めた松・杉の並木が残っている。ほぼ中央にある池尻池は脚折の雷電池とともに、入間川水系の飯森川・大谷川の水源になっている。
*蔬菜…本来は栽培作物を指す語。今日では慣用的に「野菜」(やさい)と同義となっている。「蔬」も「菜」も広く食用の草本を指しており、「野菜」の概念よりも広い意味を持っているという。
        
                  静まり返った境内
「埼玉の神社」によれば、
高倉日枝神社の氏子の間に伝わる習俗は多いが、生活様式の変化により、次第に行われなくなってきている。例えば、嘗て115日に行われていた「七草粥の箸」と呼ばれる行事もその一つで、これは、この日に七草粥の箸を作る時に、両端を尖らせた箸を二本作り、紐で十文字にしばり、屋根に投げ上げるというもので、うまく屋根に突き刺さって箸が立てば「吉」で、その年は必ず良い事があるといわれていた。しかし、戦後、草葺きの屋根が減っていくにつれて、この行事も行われなくなり、現在では全く見ることができなくなってしまったという。
 消えゆく行事に対して、現在でも引き続いて行われている行事もある。毎年、2月初午に行われる稲荷講はその一つである。これは、春日待ともいい、まず当社の末社である稲荷社の祭典を行ったあと、社務所で宴会を行うもので、この席上で、新人氏子の紹介、年行事(祭事の世話を行い、抽選で毎年2名ずつが奉仕をする)の交替、榛名講・御嶽講の代参の抽選などが行われる。
 当社は「山王様」として氏子に親しまれているが、特に字山王の人々は当社を氏神様と呼び、その信仰が厚い。
        
                    拝 殿
 日枝神社  鶴ケ島町高倉三六(高倉字山王)
 大字高倉の北東部にある字山王に鎮座する。高倉の開発は古く、地内には、縄文中期から弥生時代の住居址である高倉遺跡もある。
 また、隣接する上新田・中新田・下新田の三村(いずれも現在は鶴ケ島町の大字)は当地の住民によって開かれたといわれ、もとは高倉の一部であったが、明暦年間に分村した。
 当社の創建については、『明細帳』に、「往古近江国から高倉朝臣(高麗福信)が武蔵国に移ってきた時に自ら崇敬する近江の日吉神社の神を、当地に勧請した」という話が古老の口碑として記載されている。この話を伝える勧請は定かではないが、伊勢湾台風で倒れた神木の樹齢は、ゆうに三〇〇年を超えていたことから、既に江戸初期には当地に奉斎されていたものと思われる。 古くは山王権現と称し、拝殿には今も「山王大権現」と書かれた享和二年奉納の額が掛けられている。
 神仏分離により、別当であった真言宗長泉寺は廃寺となり、当社は社名を現在の日枝神社に改めた。明治五年に村社となり、同四〇年には字神明の神明社、字熊野の熊野神社、字富士塚の浅間神社及びその境内社下浅間神社の四社を合祀し、現在に至っている。
 祭神は大山咋神で、一間社流造りの本殿を持つ。往時は剣と鏡を蔵していたが、剣は盗難に遭い紛失したため、現在は鏡だけである。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
 拝殿向拝部等には精巧な彫刻が施されている。        拝殿上部に掲げてある扁額
        
                    本 殿
 
拝殿に対して左側に祀られている境内社・愛宕社  向かって右側には境内社・稲荷社が2基鎮座
       
           本殿に対して右側に聳え立つ巨木(写真左・右)
           ご神木かどうかは不明だが、十分な貫禄がある。

 ところで、この高倉地域には、「高倉の獅子舞」という江戸時代から続く伝統行事が現在でも続いている。鶴ヶ島市内唯一の獅子舞であり、高倉日枝神社で毎年11月の例祭にて豊作感謝・疫病退散祈願のため獅子舞が奉納されている。
 鶴ヶ島市市指定無形文化財(昭和四十九年十一月一日指定)
        
          一の鳥居付近に設置されている「高倉の獅子舞」の案内板
 高倉の獅子舞 
 市指定無形文化財(昭和四十九年十一月一日指定)
 日枝神社の秋祭りに高倉の獅子舞が行われる。この獅子舞は遠い国から訪れた強力な神が、村人の幸福を守るために悪霊。悪疫を退散させてくれるといわれている行事で、村人にとっては国家安泰、天下泰平、五穀豊穣などを祈る行事でもある。
 高倉の獅子舞は江戸時代から引き継がれている伝統ある行事で、昭和四十九年に、最初に鶴ヶ島市の文化財に指定された。
 その構成は、万灯、天狗、花笠、はいおい(軍配を以て獅子を先導する)、前獅子(男獅子)、中獅子(女獅子)、後獅子(男獅子)などで、ほら貝を合図に数人の笛吹きと歌うたいに合わせて登場する。
 花笠は女装した”ささらっこ”と呼ばれる童子四人が花笠をかぶり、”ささら”と呼ばれる楽器を奏でながら舞に参加するので、特に”ささら獅子”とも呼ばれている。
 市内で数箇所あった獅子舞も、現在は高倉の獅子舞が唯一のものとなってしまい、たいへん貴重な伝統芸能である。
                                      案内板より引用

        
      ステンレス製の二の鳥居を過ぎた参道右側には、こんもりとした塚、ないし古墳の形状
     をした盛り土部があり、その上には石碑と石祠が祀っている。詳細は不明。
        
                            社殿から鳥居方向を望む。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の神社」「多摩市デジタルアーカイブ」
    Wikipedia」「境内案内板」等
 

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高徳神社

 鶴ヶ島市は埼玉県の中部に位置する市で、人口は約7万人(推計人口、2024101日)。埼玉県の中央やや南寄りに位置しているが、通常は埼玉県西部と見なされている。入間台地(武蔵野台地の北端から入間川を挟んだ対岸)の先端部に位置しており、標高は30mから50m程度で、南西から北東に向けてなだらかに下っている。嘗ては畑・田・林が大部分を占めていたが、高度経済成長期以降人口の流入が著しく、現在も宅地化・商業地化が進展し続けている。また川越市・坂戸市とは連続した市街地を形成している。
 古墳時代にはいくつかの古墳が築造されており、なかでも鶴ヶ丘稲荷神社古墳は古墳時代末期としては大きなものである。富士見地区の若葉台遺跡は8 9世紀にかけて比較的大規模に発達した遺跡であり、律令体制下における地域拠点(一説には入間郡衙)となっていたことが想像されている。
        
             
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市太田ヶ谷6171
             
・ご祭神 伊邪那美命  速玉之男命  事解之男命
                  
素戔嗚尊  櫛稲田姫命  猿田彦神
             
・社 格 旧指定村社
             
・例祭等 例大祭48日 夏祭り724
 高徳神社は関越自動車道鶴ヶ島JTの西側近郊にあり、埼玉県道114号川越越生線沿いに社は鎮座し、県道を少し東行すれば鶴ヶ島市役所に達する。高速道路や幹線道路に囲まれているにも拘らず、社の空間は至って静か。長い参道の両脇には杉の大木等の樹木が鬱蒼と繁っていて、昼でも薄暗いのだが、それが却って社の神聖さ・荘厳さを上げているようにも感じる。
        
                                 
高徳神社正面
 ここで失敗談を一つ。埼玉県道114号川越越生線からのアプローチで、実際社は目視にて社は確認できたのだが、「高徳神社」交差点がY字路となっていて、そのまま通り過ぎてしまい、市役所方向に達してしまった。地図を確認すると、上記交差点を左後方向に進み、曲がった直後の右側に専用駐車場がある事を知った。目標地までのルート設定において、ナビゲーションシステムは非常に便利ではあるが、細かい場所までの指定はできず、そこは本人の努力義務しかない。
 また駐車場に車を停めてから、改めて感じたことだが、駐車場から南東方向に200m程の長い参道があり、正面鳥居は圏央道に面した場所にあった。
        
                         令和5年3月に設置された社の案内板
 高徳神社
 高徳神社は、太田ヶ谷の熊野神社、三ツ木の白髭神社、藤金の氷川神社、上広谷・五味ヶ谷の鎮守である氷川神社が、大正二年(一九一三)、本殿内に合祀され、新たに創立した神社です。
 社地の多くは、当時、村長であった太田ヶ谷の
野重右衛門が自らの土地を寄進したものです。本殿裏手の境内社については、それぞれの母地の方向を向いて建てられているという特徴を持っています。
 また、この広い社叢林には、野鳥も多く生息し、武蔵野の面影を残す市民の憩いの場所となっています。

 当社の年間の祭事は、元旦祭、元始祭、祈年祭、例大祭、境内社祭、日待祭、新嘗祭の七回です。
 神職は創立以来、尾崎神社(川越市)宮司が兼務しており、太田ヶ谷、三ッ木、藤金、上広谷、五味ヶ谷の各地区から選出された氏子総代とともに、社の維持、運営にあたっています。(以下略)
                                      案内板より引用

 案内板に記されている「内野氏」は、『鶴ヶ島村郷土誌』に「大字太田ヶ谷満福寺末寺常福寺は内野常福の発起にて創起す。元禄頃は満福寺現住兼勤せり」と記されている。また天正十八年前後に作成された「内野四十二軒」には「内野図書(本邑屋敷、文正元年死す、常福と号す)。〇長子三郎右衛門(相続人)―三郎右衛門、弟甚六、其の弟半助。〇二子亀之助―亀之助、弟元右衛門、其の弟平七―平七、弟安左衛門。〇三子半蔵―半蔵、弟重右衛門―重右衛門」と記され、「内野図書」なる人物は、文正元年(1466)室町時代中期頃に亡くなったといい、その後この内野図書一族が当村を開発し、天正末頃に「内野姓四十二軒」となったという。
 
               200m程ある長い参道(写真左・右)
 この神社の神域は広く、境、境外の面積は、5,619坪もある。広い境内は、杉・檜・赤松等の老樹が鬱蒼と生い茂り、清浄且つ森厳な聖域となっている。
 また、この広い神域を利用して、市の「野鳥の森」が設定されており、人の手によって造られた「人工の森」とはいえ、武蔵野の面影を残す樹林には、留鳥、漂鳥、旅鳥など野鳥の数も多い。この森のすぐ西側には清い小川があり、また、境のところどころに餌箱を設置してあるので、鳥たちの聖域となっている。
        
     長い参道を抜けるとポッカリと明るい空間となり、奥に社殿が見えてくる。
『新編武蔵風土記稿 太田ヶ谷村』
 熊野社 村の鎭守なり、例祭三月十六日、萬福寺持、稻荷社
『同 三ツ木村』
 白髭社 村の社守にて、例祭三月十五日なり、慈眼寺の持、下の四社も皆同じ、
『同 藤金村』
 氷川社 村の鎭守なり、例祭三月十四日、法昌寺持、下同、辨天社、稻荷社、
『同 上廣谷村』
 氷川社 當村及五味ヶ谷村の鎭守なり、例祭八月廿五日、正音寺持、
天神社、
 嘗ては風土記稿に記されたように、各村に祀られていた社であった。その後、大正2年(19136月に創立した高徳神社は、現在の鶴ヶ島市の南東部地域の神社を1つに纏めたという経緯がある。それ故に、鶴ヶ島市内の神社として最も規模の大きい神社であるという。
 
      参道左側にある神楽殿        境内に設置されている「御大典記念事業碑」
 御大典記念事業碑
 高徳神社は鶴ヶ島市 太田ヶ谷 三ツ木 藤金 上広谷 五味ヶ谷の各地区内に鎮座していた神社を大正二年太田ヶ谷の富豪内野重右衛門翁の境内地寄贈により合祀して創立したものである
 爾来郷人はもとより近隣住民の深い崇敬を集め老樹鬱蒼とした広大な神域は埼玉県指定「高徳神社ふるさとの森」野鳥の森として親しまれている
 此の神域に建設省の計画による首都圏中央連絡自動車道の建設とこれに伴う県道川越越生線拡幅用地に境内地の一部を提供する事になり役員氏子総代相計り拝殿幣殿社務所改築境内整備工事を御大典記念事業の一環として二ヶ年の歳月を以てここに竣工する
                                     記念碑文より引用
        
                    拝 殿
 高徳神社の氏子区域は、いわゆる一村一社制により神社合祀が行われた結果、鶴ヶ島村全域となるはずであったが、実際は合祀社の多くが書類上の合祀に終わったため、現在は太田ヶ谷・三ッ木・藤金・五味ヶ谷・上広谷の五地域となったという。
 ところで、創立時、新しい神社名が話題となったようだ。最初鶴ヶ島神社案があったが、他からの反論があり取りやめとなり、南鶴ヶ島神社名も話題にのぼったがこれも他から適当でないとの声があがった。結論として、多くの神社が1ヶ所に集まるので、神徳の高いのをたたえて高徳神社と社名が決定したのだと、地元の古老は語っている。
        
                    本 殿
 また、高徳神社は合祀されたそれぞれの神社が母地の方角を向いて建てられているという特長を持っている。中央に太田ヶ谷の神社が太田ヶ谷に向き、その左側に三ツ木の神社が西方三ツ木を向き、右側に藤金・上広谷・五味ヶ谷の神社が東方藤金・上広谷・五味ヶ谷の方向を向いて建てられているのである。
 
           境内社・氷川神社                           境内社・天満天神社
 
      境内社・熊野神社               境内社・白髭神社 
      境内社・浅間神社                    社殿東側には合祀記念碑が立つ
       
                  社殿からの風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市デジタル郷土資料HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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堤崎愛宕神社


        
               
・所在地 埼玉県上尾市堤崎329
               
・ご祭神 軻遇突知命 倉稲魂命
               
・社 格 旧村社
               
・例祭等 八雲神社例祭(祇園祭)714日 例大祭 724日 他
 上尾市・堤崎地域は上尾市南部の大宮台地指扇支台上に位置し、地域の南端を鴨川の支流の浅間川が東に流れ、さいたま市西区との境界となっていて、西側から北側にかけて地頭方地域と隣接している。
 国道17号バイパス上尾道路が地域中央を南北に走っているのだが、国道を挟んで地域北部・東部の市街化区域にはUDトラックスやその関連工場があり、区域内の都市化がはかられるのに対して、国道西側は全体的に田畑が多く、住宅はまばらのようだ。
        
                  
堤崎愛宕神社正面
 上尾市地頭方地域の東側に走っている国道17号バイパス上尾道路を南下し、「堤崎」交差点を右折、すぐ右側に堤崎自治会館があり、その隣に堤崎愛宕神社が見えてくる。
 堤崎地域西部から南部にかけては田畑が多く、また南部には
浅間川が東西に流れていて地域境を形成しているので、道路も微妙に入り組んでいている。
 正直いうと、地頭方氷川神社から当社まで直線距離で500m程しか離れていないのだが、入り組んだ道ゆえにかなり細かく説明する必要があるため、分かりやすい国道17号線ルート説明に代えた次第だ。
        
               鳥居の左手にある庚申塔等
   左側の祠には庚申塔と青面金剛像、右隣の祠には不動明王座像が納められていた。
        
             国道が近くにあるのも関わらず静かな境内
『新編武蔵風土記稿 堤崎村』
 神社 稻荷社三宇 共に村民の持、 熊野社 持同じ、社は破壊して未だ再建せず、
 寺院 
 地藏院 
 禅宗曹洞派、中釘村永昌寺末、寶珠山と號す、開山を一線斎と云、明暦三年四月朔日示寂す、本尊は地蔵の坐像を安置せり、
 十王堂
 愛宕社 勝軍地蔵を安ず、是は加州大聖寺の禅苗和尚と云が刻める所なり、此僧は近来の人なればことに彫刻にたくみなりといへり、

        
                     拝 殿
        
              拝殿手前に設置されている案内板
 愛宕神社  上尾市堤崎三二九
 祭神…軻遇突知命 倉稲魂命
 堤崎村は天正の末徳川氏の有となり、代官が所轄した。寛永二年(1625)安部備中守の領地となっている。
 当社は、社伝によると、元禄十年(1697)のころ、村内に悪病が流行した折、これを鎮めるために創祀したものであるという。また、「風土記稿」堤崎村の項には、当社は地蔵院の境内社として載り、「愛宕社 勝軍地蔵を安ず、是は加州大聖寺の禅苗和尚と云が刻める所なり、此僧は近来の人なればことに彫刻にたくみなりといへり」とある。
 地蔵院は、宝珠山と号した曹洞宗の寺院で、開山と伝わる一線斎は明暦三年(1657)四月に示寂している。神仏分離に伴い、明治五年(1872)に廃寺となり、現在、堤崎自治会館前に建つ地蔵堂(「本尊様」と呼ぶ)の中に、地蔵尊座像が、閻魔大王・大日如来像と共に納められている。
 また、当社の神楽殿に掛かる消防の半鐘として使用されている鐘には「武州足立郡堤崎村 本山永昌現住百川朝叟代 宝珠山地蔵院什物 世話人安藤善右衛門 天保十二辛丑年(1841)十一月吉祥日」と刻まれており、往時を偲ばせる。
 当社は、明治初年に稲荷社三社、熊野社を合祀し、同六年四月に村社となった。昭和三十六年(1961)、旧来の社殿の傷みが著しかったため、氏子全員の協力により本殿・拝殿を新築した。
 祭礼は一月の歳旦祭、三月の初午祭、七月の八雲神社例祭(祇園祭)、同二十四日の例大祭、十月のお日待ちの年五回である。
 境内社として「疱瘡社」「八雲社」を祀っている。(以下略)
                                      案内板より引用

 
   拝殿に対して左側に設置されている       「堤崎の祭りばやし」案内板
  「堤崎の祭りばやし」の案内板と標柱       上尾市指定無形民俗文化財に指定

 上尾市指定無形民俗文化財  堤崎の祭りばやし
 (保持団体) 堤崎はやし連

 上尾市やその周辺地域には、江戸の神田ばやし系統の祭りばやしが伝承されており、いずれも大太鼓1人、小太鼓2人、すり鉦1人、笛1人の51組で編成されている。
 堤崎の祭りばやしは、神田ばやしの系統の一つである木ノ下流祭りばやしをもとに、明治時代の初めに堤崎の吉沢菊次郎が手を加えて編み出したと伝えられている。独自の流派として形成された堤崎流のはやしは、市内西部や川越地方の祭りばやしの中心的存在の一つとして、市内では畔吉、中新井、平方新田などに伝授されている。演奏曲目には、屋台、鎌倉、四丁目、神田丸、昇殿、宮昇殿、岡崎、数え歌、子守唄があり、付属機能として、獅子やひょっとこなど、神楽の面芝居のような寸劇もある。
 現在、堤崎の祭りばやしは、七月一四日に近い日曜日に行われる堤崎の天王様などで上演されている。また、堤崎地区では山車を1基所有しており、この山車の上で演奏することも可能である。
                                      案内板より引用

       
                     本 殿
       
             本殿奥に聳え立つ巨木(写真左・右)。
 
      境内社  八雲社・疱瘡社           境内に奉納されている力石


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」Wikipedia
    「境内案内板」等

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地頭方氷川神社

 上尾市・地頭方(じとうかた)地域は、上尾市南部の大宮台地指扇(さしおうぎ)支台上にあり、『日本歴史地名大系』での 「地頭方村」の解説によると、南側を堤崎村、西は南北に流れる堀を隔てて平方領の領家村に隣接し、嘗ては足立郡平方領に属していた。村名の由来は、建武元年(1334410日の足利直義下知状(宇都宮文書)にみえる大谷郷地頭職にかかわると考えられる。鎌倉時代に荘園領主と地頭が土地の所有権を争い、地頭方と領家方に分けた名残の地名といわれていて、北側に隣接する壱丁目地域は、嘗て地頭に与えられた土地を意味する「壱町免」が変化した地域名と言われているそうだ。
 上尾市内の地名には、中世以降の古文書にその名が残っているものが幾つかあり、「地頭方」もそのうちの一つであろう。
 因みに「地頭方」という地域名は吉見町にもあるが、そちらの名称は「じとうほう」と読み、若干の読み方の違いはある。
 当時の村高は正保年間の『武蔵田園簿』では173石(田45石余、畑127石余)、『元禄郷帳』によると145石余、『天保郷帳』によると149石余であった。検地は寛永7年(1630)・元禄7年(1694)、新田検地は延享元年(1744)に実施されている。
        
              
・所在地 埼玉県上尾市地頭方113
              
・ご祭神 素戔嗚尊 天照大御神 大雷命
              
・社 格 旧地頭方村鎮守・旧村社
              
・例祭等 お神楽 722日 お日待 1014
 平方八枝神社正面鳥居に沿って東西方向に走る道路を東行すること500m程、途中平方橘神社を左手に見ながら道なりに進むと、埼玉県道51号川越上尾線のY字路に達するので、そこを左折する。同県道を1.5㎞程進行し「地頭方」交差点を右折、その後800m程進んだ丁字路を右折すると、すぐ左手に「地頭方公民館」が見え、その建物奥に地頭方氷川神社が背を向けたように鎮座している。
        
                
地頭方氷川神社参道正面
  この社にはお決まりの鳥居が設置されていないため、正面を目視する目印的な物がない。
        また正面周辺には
適当な駐車スペースがないため、100m程歩いた
                「
地頭方公民館」の駐車場に車を停めてから、参拝に臨む。
 
 正面には鳥居はないものの、参道は比較的長い(写真左)。社殿に至る長い参道は、1950年(昭和25年)に時の総代島田道教から寄付された土地を氏子総出で整備したものであるという。
 また、社には大きな狛犬が鎮座している(写真左・右)が、これは前出の島田家が運送業で財を成したことに対する神恩に感謝して、1895年(明治28年)に奉納されたものである。
        
                                       拝 殿
         道路から離れている場所にひっそりと佇んでいるような印象
       
                           境内に設置されている案内板 
 氷川神社  上尾市地頭方一一三
 祭神…素戔嗚尊、天照大御神、大雷命
 南北朝-室町期ごろ市域には大谷郷が成立していた。地頭方の地名は、建武元年(一三三四)四月十日の足利直義下知状(宇都宮文書)に見える大谷郷地頭職にかかわると考えられ、中世村落の系譜を引く村であることが推測される。
 当社の創建の年代は明らかではないが『風土記稿』地頭方村の項に「氷川社 村の鎮守なり 正円寺持」とあり、当村の鎮守として祀られてきた社であることがわかる。ここに見える別当の正円寺は、当社の西方一〇〇メートルほどの所にあった蓮華山と号する真言宗寺院で、開山秀賢は、寛正三年(一四六二)に没したという。
 神仏分離後、正円寺は廃寺となり、当社は明治六年四月に村社に列した。また、年代は不詳であるが、地内にあった神明社・雷電社を合祀したと伝える。なお、現在正円寺の跡地には地頭方公民館がある。
 当社の参道を進んで社前に至ると、まず目につくのが、見上げるばかりに堂々とした体格を誇る狛犬である。これは、江戸末期から明治期にかけて氏子の島田鶴吉が運送業で財を成したことから、神恩に感謝して同氏により明治二十八年に奉納されたものである。また、一〇〇メートルほどの参道は、昭和二十五年に時の総代島田道教から寄付された土地を氏子総出で整備したものである。島田道教は、先の島田鶴吉の子に当たり、島田家の当社に寄せる崇敬の厚さをうかがわせる。
 祭礼は正月の歳旦祭、三月のふせぎ(春祈祷)、七月の祇園祭、例祭、十月のお日待ちの年五回である。七月の例祭には「雨降り神楽」と呼ばれたお神楽が作物の無事生育を願って奉納されていた。
 境内社に「稲荷社」「疱瘡社」、境外社に「天神社」「八雲社」を祀る。
                                      案内板より引用 

 
 「伊勢参宮記念碑」の並びで、拝殿左側手前に    参道を挟んで疱瘡社の向かい側に
    祀られている境内社・疱瘡社         祀られている境内社・稲荷社
        
                   境内社・疱瘡社の手前には「力石」も奉納されている。

 ところで、この地域には「地頭方の祭りばやし」が上尾市に民俗文化財・無形民俗文化財として指定を受けている。
民俗文化財・無形民俗文化財 地頭方の祭りばやし
【登録年月日】 平成20115
【保持団体】  地頭方囃子連
 地頭方の祭りばやしは、神田ばやし系統の一つである桑屋流の祭りばやしです。始まりは不詳で加茂宮(さいたま市北区宮原)の囃子連が師匠で、加茂神社の祭りのときには応援に駆けつけたといいます。
 祭りばやしの編成は、笛1人・小太鼓2人・大太鼓1人・鉦1人の51組です。
 曲目には、「屋台」「昇殿」「鎌倉」「四丁目」「神田丸」「ひょっとこ囃子」「ねんねん子守」「ヒトツトヤ」がある。「屋台」は、「ブッツケ」「切り」「地」「新切り」「乱拍子」で構成しています。
 上演の機会としては、722日の氷川神社例祭があります。かつては1014日のお日待ちの夜にも上演していました。
 付属芸能として、以前はひょっとこ踊りなどがありましたが、今日では踊る人がいません。
                              「上尾市教育委員会HP
」より引用
        
                                 静かな境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
上尾市教育委員会HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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