古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

荒木天満天神社

 現在の荒木地域を南西から北東に貫くように通る栃木県道・群馬県道・埼玉県道7 佐野行田線は、かつては日光脇往還と呼ばれ、中山道の鴻巣から忍城の城下町である現在の行田の市街地を通り、上新郷を経て、羽生の川俣で利根川を渡り、舘林を経て日光に向かう街道として利用され、1652年(承応元年)に往還に定められた街道である。またの名は「日光裏街道」ともいった
        
             ・所在地 埼玉県行田市荒木2091
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧荒木村鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 雹除け 325日 天神様のお祭り 725
 荒木愛宕神社から南下し「荒木」交差点をそのまま直進、栃木県道・群馬県道・埼玉県道7 佐野行田線を400m程進むと、進行方向左手に荒木天満天神社が見えてくる。地図を確認すると、秩父鉄道・武州荒木駅のぼぼ北側500m程の場所に鎮座している。
        
              県道沿いに鎮座する荒木天満天神社
『日本歴史地名大系』 「荒木村」の解説
 主として見沼代用水左岸に位置し、小名八王子と新田が同用水右岸にある。北は須賀村、西は斎条・白川戸・小見各村。日光脇往還が南西から北東に貫いている。「風土記稿」は当村の旧家益次郎の「先祖荒木兵庫頭ハ伊勢新九郎長氏ト共ニ関東ヘ下リタル七人ノ其一ナリ、子孫荒木越前ノトキ当所ニ住シテ忍ノ城主成田下総守ニ属シ、八十貫文ヲ所務セシ由」という。
 また村内東部の長善沼は、越前の子兵衛尉長善の居所であり、長善は成田氏長と小田原に籠城して討死したとも伝えている。「増補忍名所図会」は長善沼周辺で鏃・銃弾・武具類多数が出土したといい、天文五年(一五三六)八月、忍城主成田長泰が上野国青柳城(現群馬県館林市)の城主赤井勝元と戦ったと伝える古戦場は(成田記)、ここであったろうとする。

        
               荒木天満天神社正面一の鳥居
        
              二の鳥居 赤を主とした両部鳥居
 祭神は菅原道真公で、高さ一七センチメートル程の座像を祀っている。言い伝えによると、いつのころか荒木の字裏郷地の天神社が水害により字宿の内に流れ着いて、これを祀ったのが始まりであるといわれていて、創建年代の不明な時によく言われる形を残している。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 荒木村』
 小名 八王子 鄕地 横町 上宿 中宿 下宿 はひ塚 行人塚
 長善沼 村の東にあり、今は大抵開發して水田となれり、此地古へ荒木兵衛尉長善なるもの住せし所なれば、此名ありと云、
 天神社 村の鎭守とす、
 舊家者益次郎 傳云先祖荒木兵庫頭は、伊勢新九郎長氏と共に關東ヘ下りたる七人の其一なり、子孫荒木越前のとき、當所に住して、忍の城主成田下總守に屬し、八十貫文を所務せし由、其家の分限帳にも見ゆ、其子兵衛尉(初め四郎と云)長善は、天正十八年下總守と共に、小田原の城に籠りて打死せり、後忍の城も降りしかば、長善が居所も破却せられぬ、今村内長善沼と云は、其居蹟なりと云、長善が遺腹の子を村民等養ひ、長じて八左衛門と名乗り、氏を北岡と改めたり、此八左衛門村内天洲寺を開基せり、これより子孫當村へ土着し、今の益次郎に至ると云、されど今舊記等も失ひ、唯口碑に傳ふるのみなれば、其慥なることをしらず、

 天満天神社  行田市荒木二〇九一(荒木字宿之内)
 
市の北東部、見沼代用水と上星川の合流点に位置し、水田の広がる農業地域である。
『風土記稿』には「或書に武州荒木の住人安藤駿河守隆光、法心して親鸞の弟子となり、名を源海と号せし事をのす、当国別に荒木の名を唱ふる所あるを聞ざれば、当所のことならん、古くより開けし地なることしらる」とあり、鎌倉初期にはすでに荒木の地名が見えることを記している。
 当社の創立は、口碑によると、いつのころか、荒木の字裏郷地の天神社が水害により字宿ノ内に流れ着いて、これを祀ったのが始まりであるという。『明細帳』には「創立年月不詳明治四亥年四月社殿再築スト云且往古ヨリ該社ノ祭祀等一切当村東福寺住職二於テ執行ナシ来リシカ明治二年神仏混淆分離ノ際同寺ノ所轄ヲ離レ其後明治六年八月村社ニ申立済」と記す。
『風土記稿』によると別当の真言宗薬王山東福寺は、開山賢真が天正二年寂し、本尊大日を安置していると記している。
 一間社流造りの本殿内には、高さ一七センチメートルの天神座像と鏡を安置する。座像の底部には「京七條大佛師□花□善之亟作之今□□上野下」とあり、鏡には「奉納文化十五年十二月国島なふ」と記す。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 当社は学問の神として信仰され、戦前までは旧暦一月二五日に勧学祭と称して小学校入学児童が参列し、学業成就の祈願を行っていた。
 社殿には、江戸期から明治期にかけて奉納された多数の絵馬が掲げられ、信仰の厚さを物語っている。また「天満宮」の額は金網で覆われているが、これは、昔天神様のそばを馬が通る度に暴れて怪我をすることが重なったため、この額に金網を張ったところ、以来、馬が暴れることがなくなったという。また、神仏習合時代の名残として、三三年ごとに本殿に安置する天神座像の御開帳の行事がある。
 
 本殿左側奥に祀られている境内社・稲荷神社     社殿右側手前に祀られている境内社・石祠
                       左側の石祠は天照大神宮、右側の境内社は不明        
        
               境内右手に祀られている石碑群
            中の三基は、左から塞神・塞神・辨才天(?)。
 塞の神(さいのかみ)とは、日本の民間信仰における神の一つ。村や部落の境にあって,他から侵入するものを防ぐ神。邪悪なものを防ぐとりでの役割を果すところからこの名がある。境の神の一つで,道祖神,道陸神 (どうろくじん),たむけの神,久那土(クナド)の神などともいう。村落を中心に考えたとき,村境は異郷や他界との通路であり,遠くから来臨する神や霊もここを通り,また外敵や流行病もそこから入ってくる。それらを祀り,また防ぐために設けられた神であるが,種々の信仰が習合し,その性格は必ずしも明らかでない。一般には神来臨の場所として,伝説と結びついた樹木や岩石があり,七夕の短冊竹や虫送りの人形を送り出すところとなり,また流行病のときには道切りの注連縄 (しめなわ)を張ったりする。また、行路や旅の神と考える地方ではわらじを供え,また子供の神としてよだれ掛けを下げたり,耳の神として穴あきの石を供えたりするところもある。
        
                  境内社・浅間神社
 境内の出入り口のすぐ右側には小さな塚があり、この塚は「浅間塚」と呼ばれ、俗に富士山を象ったものである。大東亜戦争頃までは「浅間講」が組織され、旧暦七月二一日には「火祭り」が行われていたという。この祭りでは、「オネリ」と称し、白装束姿で講元の家から行列を組んで浅間塚まで行き、境内に積み上げた薪に火をつけ、その明かりの中で祈祷が行われていた。
     
            鳥居のすぐ手前で、一際目立つイチョウのご神木(写真左・右)
 当社の祭りに関して、325日に行われる「雹除け」は、境内のイチョウの木の頂きに、竹を付けた梵天を立てるものである。また、725日の「天神様のお祭り」は、古くは舞台を掛け、地元の歌舞伎芝居が演じられていたが、現在はカラオケ大会がこれに代わっている。また、子供の担ぐ樽神輿が地域内を練っているという。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ぎょうだ歴史系譜100話」
    「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「Wikipedia」等
            

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荒木愛宕神社


        
             
・所在地 埼玉県行田市荒木3731
             
・ご祭神 軻遇突智命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 元旦祭 お焚き上げ 114日 春祭り 124日 
                  夏祭り 
724
 国道125号行田バイパスを行田市から羽生市方面に向かい、「小見(南)」交差点を左折し、栃木県道・群馬県道・埼玉県道7 佐野行田線に合流する。県道に合流後、暫くは北東方向となるのだが、そこは道なりに直進、「武蔵水路」や「星川」を越えたあたりから荒木地域に入り、進路も南北方向にかわり、そのまま北上し、「荒木」交差点を直進した先の一面水田が広がる田園風景の中に、ポツンと荒木愛宕神社の社叢林が見え、直径20m程の円墳といわれているその頂きに社殿は鎮座している
        
                   静かに佇む社
 荒木愛宕神社の創建年代等については不詳であるが、嘗ては日照り等の干損の地であったようで、雨水を貯える溜池が随所に見られた。このため村人は水利の悪さから火災の発生を恐れて、火防の神として愛宕権現を祀ったという。現在、社は「愛宕様」という名称で親しまれ、火防の神として信仰され、氏子の崇敬は厚く、その膝元としての慎みがあるため、当地では非常に火災が少ないという。
 氏子区域は、大字荒木の上宿で、当地は現在会社員や公務員・焦点が多いが、昔は、長屋を借りて瓦職人が多く住んでいたという。
        
                 荒木愛宕神社鳥居正面
 
鳥居の社号額には「愛宕神社」と刻まれている。        境内の様子
        
               円墳と謂われる墳頂に建つ社殿
 愛宕神社  行田市荒木三七三一(荒木字郷地裏)
 当社は水田の広がる中に一点、鳥のように浮かぶ社の中にある。昔は樹齢三〇〇年ほどの杉の大木が林立し、昼なお暗き所であった。当地は土地改良により、水も豊かになり、水田耕作も盛んであるが、かつては干損の地で、雨水を貯える溜池が随所に見られた。このため村人は水利の悪さから火災の発生を恐れて、火防の神として愛宕権現を祀ったという。
 祭神は軻遇突智命である。往時神像があったと伝えるが今はない。
『風土記稿』は荒木村の神社を「天神社 村の鎮守とす、八王子権現社・愛宕社・鷲宮 以上四社、東福寺持、熊野社 村民持、三十番神社 是も村内の鎮守たり云々」と載せている。東福寺は真言宗で薬王山と号している。
『武蔵志』には「天神・八王子・熊野・卅番神・太子」の諸社があり、八王子は現在の常世岐姫神社、太子は今も太子講がある。
 明治末期、他の社に合祀する話が持ち上がったが、当社が災厄を除ける神として氏子の信仰を集めていたため、中止されたという。
 境内裏手に一反歩ほどの水田があり、小作地としていたが、戦後の農地解放により失った。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
           石段手前にある       社殿の傍らに祀られている
         「鳥居階段奉納記念碑」      「三峯神社」の石碑
        
                              社殿からの眺め
      
        
        

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六万部住吉神社

「作神」は「さくがみ」と読み、水稲農耕を主とする日本では民族信仰として農神をまつる習俗で、記紀には稲霊(いなだま)の〈倉稲魂(うかのみたま)〉や穀神の大歳神(おおとしのかみ)の名がある。
 京都など西日本では「ツクリガミ」といい、正月7日早朝に降(くだ)ってこられるといい、冬には山の神、春から秋にかけて田の神となるという。東北地方ではサクガミは農神(のうがみ)ともいい、316日に降り、916日に天上するといわれ、山の神ともいっている。また養蚕の神である「オシラサマ」もこの神と関係深く、同じ時期に昇り降りされるといわれている。作神は「エビスサマ」とか大黒様だといっている土地もあり、岩手県下では農神様は穀物の種を持って降ってこられるといって、早朝に木の葉を焚(た)いて合図の煙をあげる所がある。
 口碑によれば、六万部住吉神社の創建には、六万部村の開発に従事した大久保某が、上清久村より移住するに際して、摂津国一宮住吉大社の分霊である大久保家の守り神を当地の「作神」として祀ったのが始まりであるという。
        
             
・所在地 埼玉県久喜市六万部992
             
・ご祭神 住吉三神(底筒男神 中筒男神 表筒男神)
             
・社 格 旧六万部村仁丁町鎮守・旧村社
             
・例祭等 お獅子様 426日 祭礼 826日 お日待 1019
 久喜市六万部地域内に鎮座する社は、字ごとに鎮守社があり、その地区(耕地)もそれぞれ近距離に位置する。南北に長い六万部地域において、西に位置する本村には大神宮社 中央部谷田向の愛宕神社、北部の新田・関ノ上の鎮守社である六所神社と参拝したわけであるが、南部仁丁町鎮守の住吉神社が地域内の最後の社となる。
 谷田向愛宕神社の南側にある変則的な五叉路を「仁丁町通り」方向に右折し、500m程南行すると、進行方向右側に六万部住吉神社が見えてくる。駐車スペースらしき空間が道路沿いにあり、そこの一角を一時的にお借りしてから参拝を開始した。
        
                    幟柱二基が道路沿いにあり、ここから参拝を行う。
        
      参道は途中から右側に折れ曲がり、そこから正面に鳥居や社殿が見える。
 鳥居の手前で左側に「伊勢参宮記念碑」が立ち、その手前と右側脇には力石が計4個ある。
        
                正面鳥居から社殿を撮影
 六万部地域において、1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた唯一の社であるのだが、やや愛宕神社や六所神社に比べて小ぶりの感は否めず、外観等も改築はされているようではあるが、歴史的な重みをあまり感じることも出来なかったのが少々残念。
        
           境内に祀られている境内社。左より天満社、稲荷社
        
                    拝 殿
          不思議な事に拝殿正面右側には半鐘が掛かっている。
 住吉神社  久喜市六万部九九二(六万部字仁丁町)
 六万部地域は備前前堀川の左岸の低地・台地に位置する。『風土記稿』によれば、六万部の地名の由来は、かつて地内の法華塚に六万部の供養塔があったことによるといい、慶安四年(一六五一)に上清久村より三十数軒が移住して一村になったという。また、村内の神社については、「六所明神社 末社八幡 稲荷〇神明社 末社三峯 稲荷〇愛宕社 末社稲荷〇住吉社 以上四社は、共に村民の持ちにて、村内の鎮守なり 末社稲荷 天神」とあり、当社は村民持ちの四社のうちの一社であったことがわかる。
 口碑によれば、当社の創建は六万部村の開発に従事した大久保某が、上清久村より移住するに際して、摂津国一宮住吉大社の分霊である大久保家の守り神を当地の作神として祀ったのが始まりであるという。本殿内には「武蔵国埼玉郡貳丁町村 正一位住吉大明神幣帛 元文三年(一七三八)七月十七日神祇管領兼雄」の銘がある白幣が奉安されており、当社が吉田家より極位の神階を受けていたことがわかる。その後、当社は明治五年に村社に列した。
 現在、当社で最も古い年紀銘を有するのは、本殿内奉安される阿弥陀如来像で、その厨子には「□元禄第拾三庚辰年(一七〇〇)十月十六日□□□□□ 為本願悉地内□ (梵字)奉造立住吉大明神御本地」とある。

                                  「埼玉の神社」より引用

 拝殿左側には大木の切株が一株見える。「埼玉の神社」には社の略図も載せているのだが、社の正面で、一対のイチョウが嘗てあったらしい。このイチョウは市指定保存樹木でもあったところから、恐らくはご神木でもあったのであろう。筆者の勝手な憶測で恐縮でもあるが、もし、その一対のイチョウが聳え立っていた当時の社の風景はどうであったであろうか。歴史の重みを感じる大木の存在は、現在の社の風格をも変える程であったかもしれない。
        
            綺麗に手入れされている(?)正面鳥居周辺



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」「Wikipedia」等

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六万部六所神社

 一般に、六所神社・六社神社という名を名乗る神社は日本全国に存在するのだが、社名は、六柱の神を祭神とすることによるといい、創建当初から六柱を祭神としていた場合、都合により六つの神社を合祀した場合などがある。武蔵国の総社であった東京都府中市の大國魂神社(総社六所宮)のように、六所神社が総社となっている場合がしばしばある。
 六万部六所神社という名称も、何故「六所神社」として当地に勧請されたかは推測の域を出ないが、当社の創建に関わった氏子が六所神社を信仰していたことや、地名の「六万部」にちなんで「六」の付く神社を勧請したことなどがその理由と考えられる。
        
              
・所在地 埼玉県久喜市六万部426
              
・ご祭神 大己貴命 素盞嗚命 瓊々杵命 
                   布田大神 伊弉冉命 大宮女神
              
・社 格 旧六万部村新田・関ノ上鎮守
              
・例祭等 六所様の灯籠 716
 六万部愛宕神社から北行し、東北自動車道の脇道に達した後、2番目の丁字路を左折すると、進行方向右手に六万部六所神社の広い境内に達する。
 六万部地域は備前前堀川の左岸に位置する農業地域で、その中に本村・新田・関ノ上・谷田向・仁丁町の五つの耕地がある。当社の氏子区域は、そのうちの新田と関ノ上の両耕地で、新田は、その地内に当社が鎮座することから「六所耕地」とも呼ばれている。
        
                 
六万部六所神社正面
 六万部地域でも、北中曾根地域同様に全体で祀る社はなく、本村の大神宮社、谷田向の愛宕神社、仁丁町の住吉神社と共に新田・関ノ上の六所神社のように、各耕地で祀られている鎮守社がある。こうした状況は『新編武蔵風土記稿』六万部村の項でも「以上四社は共に村民の持にて、村内の鎮守なり」と記されている。
 
   参道左手にある六所神社ご祭神碑          石碑の右側並びにある伊勢参宮記念碑
        
                   境内の様子
 昭和57年に社殿の改修等が行われ、同時に境内も整備されたらしく綺麗に整えられている。
 
    社殿の手前で、参道を軸に左右対称で祀られている境内社二基(写真左・右)
      左側は境内社・八幡宮                    右側には境内社・稲荷社
        
                    拝 殿
 六所神社  久喜市六万部二七(六万部字六所)
『風土記稿』六万部村の項に、「村名の起り古へ当所に法華塚ありて、六万部の供養塔ありしをもてかく名付しと云」と載るように、六万部の地名は、その地内の観音堂に経塚(六万塚)があったことにちなむものである。村の開発については、慶安四年(一六五一)に上清久村の民三十余軒がこの地に移住して開いたと伝えられ、当初は上清久村の枝郷であった。
 この六万部の地内には、本村・新田・関ノ上・谷田向・仁丁町の五耕地(村組)があるが、当社はそのうち新田と関ノ上の両耕地で祀っている神社である。新田と関ノ上は、大字の北部に当たり、新川用水ができるまで鷲宮に属していた。(中略)当社は、恐らくは新田や関ノ上が開発された江戸時代初期に創建されたものと思われ、元来は開発者の一人であった加藤家の氏神であったが、村の発達に伴い、鎮守として祀られるようになったものであろう。
                                                                     「埼玉の神社」より引用
 当社の祭神は、大己貴命・素盞嗚命・瓊々杵命・布田大神・伊弉冉命・大宮女神の六柱で、境内にはこれらの神名を刻んだ石碑が建立されているが、内陣には金幣一体と像高二二・五㎝の金銅製の十一面観音像一体が安置されているだけで、創建に関わる資料や、具体的な「六所」を示す資料は現存していない。
        
                         静かに地域の方々を見守っている社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
Wikipedia」等
  

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六万部愛宕神社


        
             
・所在地 埼玉県久喜市六万部602
             
・ご祭神 迦具土命
             
・社 格 旧六万部村谷田向鎮守
             
・例祭等 お獅子様 426日 例大祭 823日 注連縄飾 1230
 北中曽根愛宕山神社・金山神社六万部大神宮社と参拝を終え、更に埼玉県道12号川越栗橋線を東北自動車道方向に東行し、「仁丁町通り」と交わる変則的な五叉路を左折すると、すぐ右手に六万部愛宕神社の境内一帯が見えてくる。県道を曲がればすぐ境内地となるにも関わらず、道路沿いにない事、また民家が社を隠しているため、目立たない場所に社は存在しているのだが、実際現地に足を踏み入れると、地域の鎮守様としての風格は十分に漂っている。
        
                  
六万部愛宕神社正面
『日本歴史地名大系』による 「六万部村」の解説
 所久喜村の北にあり、北は辻村(現加須市)、新川用水を境に水深村(現加須市)・中妻村(現鷲宮町)。村の北西端の地は関ノ上、南部は仁丁(にちよう)町とよばれている。仁丁町の西部に上清久(かみきよく)村の飛地がある。村名は、当所に法華塚があり六万部の供養塔があったことによると伝える(風土記稿)。騎西領に所属。慶安四年(一六五一)に上清久村から三〇余軒の民家が移り一村をなしたといい(同書)、元禄郷帳に上清久村枝郷と注記がある。
        
                 参道、及び境内の様子
 写真左側に見えるのが社務所。年間行事の直会などの会場として社務所が現在使われているが、嘗ては社の東側に隣接する飯島家がその会場であったという。
 
 白い両部鳥居の先に見える鬱蒼とした林の中央部にハッキリと石段があり、古墳とも丘ともいえるその頂上部には小さく社が見える(写真左)。また石段手前で、左側には境内社・稲荷神社が祀られていて、そこから離れていない石段入口左側には力石もある(同右)。
        
                    拝 殿
 愛宕神社  久喜市六万部六〇二(六万部字谷田向)
 六万部は、かつての利根川の乱流地帯に残された台地上の村である。東に接する上清久村の一部であったが、慶安四年(一六五一)に、上清久村の三〇余戸がこの地に移住して枝郷となり、元禄期(一六八八〜一七〇四)以降、独立して別村となった。このうち当社が鎮座する谷田向は、この地の北側で、台地に大きく切れ込んだ谷田に面していることに由来する名である。
 当社の創建時期を明確に示す資料は発見されていないが、(中略)当社は、慶安四年をいくらか下った時期に創建されたと思われる。なお、『風土記稿』六万部村の項に当社と六所明神社・神明社・住吉社の四社は、共に村民の持で村内の鎮守と記されている。
 当社の東に隣接する飯島家は、右の口碑の家であるが、地租改正後に当社のやや南方からこの地に居を移したものである。そこには明治三年まで羽黒行人派の愛宕山万福寺という修験の寺があった。万福寺は立地や山号から見て、往時は別当を務めていたようである。飯島家では万福寺の廃寺後は本尊を引き継いで祀っていたが、後に香最寺へ納めた。この経緯と同家屋号を「ワタゴノウチ」ということから、江戸期の当社が「村民の持」とあるのは、同家ではないかと思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
               丘上の社殿から見る境内の様子
 当社の祭神は迦具土命で、氏子からは谷田向の鎮守神としてだけでなく、鎮火・防火に御利益のある神として信仰されている。また、社の氏子区域は、六万部の字谷田向全域である。
 本殿には迦具土命の本地仏である騎乗の勝軍地蔵像と地蔵菩薩立像が奉安されているが、共に年紀等の銘はない。社殿は、六メートル程の塚上に建てられており、この塚は、境内の西脇を流れる新堀という用水を江戸時代に開削した時に、掘り上げた泥を積み上げて築いたという。ちなみに新堀の開削時期は、周辺の用水整備の記録から十八世紀後半と見られている。なお、この塚は愛宕の本社で修験道場であった。京都の愛宕山に見立てていることから、その築造には万福寺の関与がうかがえる。
             
               境内に聳え立つイチョウの大木
                           久喜市の保存樹木に指定されている。
  


参考資料「新編虫風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
        

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