古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

揚井白髭神社

 熊谷市揚井地域。この地域名「揚井」は、「やぎい」と読み、なかなかの難解地名の一つでもあろう。
 九条家延喜式裏文書・大里郡条里坪付に「楊井里、楊師里、楊田里、物部里」の地名があり、また明治6年和田村と原新田が合併したさい、新しく村名を『和名抄』に載っているこの地方の郷名“楊井郷”にちなんでつけられた。但し『和名抄』には「也木井」との註も載せている。
 当社は揚井地域の中でも南部の和田地区に属し、旧和田村鎮守社で、旧村一帯を一望できる小高い丘陵の一画に鎮座している。因みに旧和田村は、中央部を東西に流れる「和田川」の河川名の由来となっている。
 この楊井という地名は、嘗ての大里郡に所属されていた郡家(ぐうけ)郷・余戸(あまるるべ)郷・市田(いちた)郷と共に4つの郷の内の1つである楊井郷に由来するという説と共に、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野・上野・相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である『武蔵七党』の一つである「私市(きさい・きさいち)」党に属した「楊井氏」によるともいう。
        
              
・所在地 埼玉県熊谷市楊井3
              
・ご祭神 猿田彦命
              
・社 格 旧和田村鎮守・旧村社
              
・例祭等 歳旦祭 12日 祈年祭 228日 春季例大祭 45
                                      
秋季大祭 1016日 新嘗祭 1128
 岡諏訪神社や妙安寺・上岡馬頭観音のある「上岡」交差点のある国道407号線を熊谷方面に1.4㎞程進み、「森林公園北口入口」のすぐ先にある丁字路を左折し、その後500m程道なりに西行すると、進行方向右側に揚井白髭神社の正面鳥居が見えてくる。
        
                                
揚井白髭神社正面
『日本歴史地名大系 』「和田村」の解説
 大里郡上吉見領に所属(風土記稿)。荒川右岸の江南台地東端付近に位置し、一部は比企丘陵にまたがる。村の中央を和田川が東流し、西は原新田など。用水は丘陵を刻む小さな谷頭に築かれた五つの溜池を利用(郡村誌)。中世は和田郷に含まれていたとみられ、同郷は和田川流域に比定される。嘉慶三年(一三八九)二月三日の官宣旨(浄光明寺文書)によれば、北朝は「男衾郡内和田郷」を鎌倉浄光明寺の一円不輸の地とし、伊勢大神宮の役夫工米などの臨時公役を免除している。
『日本歴史地名大系』「原新田村」の解説
 大里郡上吉見領に所属(風土記稿)。荒川右岸の江南台地東端付近に位置し、北は平塚新田、南は男衾郡野原村(現江南町)。名主園右衛門の先祖五郎兵衛が開発した新田で、元禄(一六八八〜一七〇四)の改では無高であったが、享保一八年(一七三三)の検地で高入れされた。
       
       鳥居の左側に建つ社号標柱    鳥居の右側には社の案内板が設置されている。
        
             鳥居の先で参道左側には庚申塔、及び青面金剛がある。
               庚申塔の奥に見える自治会館
        
                    社は揚井を一望できる丘陵上に鎮座している。
『新編武蔵風土記稿 和田村』には「神明社 薬師寺持、天神社 常照寺持、白髭社 村の鎮守、持同じ」と三社を載せ、このうち当社が村の鎮守であった。江戸期の史料としては、宝暦七年(1757)に神祇管領から献じられた「白鬚大明神」の幣帛、「奉建立時天明五歳乙巳(1785)仲春大吉祥日 常正(照)現住宥範代当邑氏子中 大工村岡邑新井弥七造」と記される棟札がある。
        
    緩やかな上り坂の石段、途中踊り場を数カ所確認しながらその先の社殿に向かう。
       
                                      拝 殿
 白髭神社
 熊谷市揚井地区(旧揚井村)は、明治六年(一八七三)に和田村と原新田が合併し『和名抄』に記載された「揚井郷」の名称から旧村名となりました。揚井を一望できる丘陵上に「白髭神社」は鎮座しています。
 明治時代に編集された江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」には「白髭社」の名称が記されています。宝暦七年(一七五七)に献呈された「白鬚(髭)大明神」の幣帛があるほか、天明五年(一七八五)に村岡村の大区棟梁の新井弥七によって建立されたことを記す棟札が残されています。神社裏手には「目代坂」という字名があり、かつて和田氏を名乗る武将の館が所在していたと伝わっています。
 滋賀県高島市の白髭神社を総本社としている白髭神社は、明治時代の神仏分離令により旧常照寺の管理から離れ、明治七年(一八七四)に村社となりました。明治時代後半には、境内地に天満宮が合祀されています。また一方で、日高の高麗神社の祭神「若宮」に対する信仰から「白髭」の名が冠されたという伝承もあります。
 社名については、境内門の「髭」、社殿の「鬚」をはじめ、他に「髯」と刻まれる箇所があるなど標記の使い分けに興味深い点が見られます。
 白髭神社の祭神の一つである「猿田彦命」は、日本神話上の伝説から「導きの神」として信仰を受けています。祭礼では、無事安泰な日常生活へと導かれるように祈願され、年間を通じて各種の神事が行われています。
 白髭神社は、揚井地区の郷土文化や民俗信仰を現代に伝える貴重な歴史遺産として人々の崇敬を集めています。
 令和二年十一月  吉岡学校区連絡会
                                     社頭案内板より引用
 
 祭神である猿田彦命は“導きの神”といわれている。これは、猿田彦命が、天孫降臨の時に、皇孫を天八衢(あめのやちまた)にお迎えし、筑紫の日向の高千穂の槵觸(くしふる)の峰にお導き申し、更に皇孫は天鈿女命に送られて伊勢に至ったとの故事に基づくものである。
 因みに『天八衢』は「高天原(天)にある多くの分かれ道」、「天にあって、八方に通じている分かれ道」、「天にあって、分かれ道が多数集まっているところ」などと解釈されていている。
 なお『明細帳』には神楽殿があったことが記されており、嘗て春等の祭りには神楽の奉納もされていたのであろう。
       
            拝殿に隣接して祀られている境内社・天満宮
『新編武蔵風土記稿 和田村』
 小名 目白坂 村の北なり、此邊布目瓦など掘出すことありと云、土人當所古へ和田一黨の住し地ならんといへど、たしかなることはしらず、
 神明社 藥師寺持、
 天神社 常照寺持、
 白髭社 村の鎭守 持同じ、
 藥師寺 禪宗曹洞宗、男衾郡野原村文殊寺末、光明山と號す、本尊藥師、
 常照寺 新義眞言宗、横見郡今泉村金剛院末、彌陀山と號す、本尊地藏寺室に惠心の描し、彌陀一軸を藏せり、

       
            社殿の左側奥にひっそりと祀られている神明社

 揚井白髭神社の境内には「瀬戸山古墳群」またの名称を「楊井古墳群」と呼ばれている古墳群が存在している。この神明社の奥にも墳丘らしきふくらみが見られ、古墳と推測されている。
 この古墳群は、和田川と和田吉野川に挟まれた吉岡台地の東縁部緩斜面上、標高3235mに位置する。昭和34年(1959)から52年にかけて、円墳六基・前方後円墳一基が調査されている。円墳は径1032mで、主体部は凝灰質砂岩の切石を使用した胴張りもしくは直線胴の横穴式石室で、瀬戸山一号墳からは杏葉・雲珠が出土したという。
因みに、
『大里郡神社誌』において、所在地は「大里郡吉岡村大字揚井字瀬戸山に古より鎭座す」と載せている。この地は、歴史ある「瀬戸山」の地であるのだ。
        
                社殿から正面鳥居を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」
    「熊谷Web博物館」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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田木小田原神社

 田木小田原神社は前面一帯に広がる水田を見守るかのように祀られている。社名は、「小田原」すなわち平野部の湿田に坐す神を表すと考えられる、恐らく平野部を耕地として開くに当り、その成就を願って慈眼寺境内に祀られ、その後鎮守として崇敬されるようになると、現在地が鎮座地として選ばれたのであろう。『明細帳』で祭神を国土経営の神である大己貴命としているのは、そうした経緯を物語っている。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市田木662
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧田木村鎮守・旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 421日 例祭 1017
                                    報告祭 1221
 毛塚神明神社の北側を東西方向に走る「並木通り」に一旦戻り、西行すること約700m。「田木」交差点を右折しすぐ先にあるY字路を右方向に進むと、田木小田原神社の赤い鳥居が進行方向左手に見えてくる。
 実はこのY字路を左方向に進むと、社の背後付近に広い空間があり、駐車スペースにも思えたのだが、看板等もなく、個人所有の土地とも思えたので、鳥居の近くに路駐し、急遽参拝を行った。
        
                 
田木小田原神社正面
     社は越辺川の高坂台地の南斜面にあり、越辺川の左岸低地を見守るように鎮座している。
『日本歴史地名大系』 「田木村」の解説
 [現在地名]東松山市田木・桜山台・白山台・旗立台・松風台
 毛塚村の西、越辺川の左岸に位置し、村域は同川に沿う自然堤防・低地から高坂台地の南斜面にかけて展開する。岩殿丘陵・高坂台地からの水を集める急流九十九川が東部を南流し、越辺川に入る。九十九川のタキ(滝)が地名の由来であろうか。
 松山領に属した(風土記稿)。田園簿によると田高二二四石余・畑高一九三石余、旗本横田次郎兵衛(述松)家・同横田甚右衛門(胤松)家の相給。元禄一一年(一六九八)述松領は旗本三間領となる。翌一二年当村名主孫左衛門などが地頭会所へ提出した訴状(久保田家文書)によると、旧地頭横田氏は名主に対して伝馬を貸与し、名主免三町は諸役一切御免であった。
 
石段を上り終えた境内左手にある社号標と手水鉢  境内に植えられている招霊(おがたま)の木
 因みに、オガタマノキ(招霊木)は、モクレン科モクレン属に属する常緑高木の一種である。和名は、招霊(おきたま)が転じて「オガタマ」になったともされる。
 和名の「オガタマノキ」は、神道思想の「招霊」(おぎたま)から転化したものといわれる。日本神話においては、天照大神が天岩戸に隠れてしまった際に、天鈿女命がオガタマノキの枝を手にして天岩戸の前で舞ったとされる。神社によく植栽され、神木とされたり、神前に供えられたりする。神楽で使われる神楽鈴は、オガタマノキの果実が裂開して種子が見える状態のものを模しているともいわれている。

        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 田木村』
 小田原明神社 村の鎭守なり、祭神詳ならず、慈眼寺持、
 慈眼寺 新義眞言宗、入間郡上野村醫王寺末、普門山知勸院と云、本尊不動を安ず、中興の開山を秀榮と云、元祿四年示寂す、
 鍾樓 正徳四年、鑄造の鐘を掛く、


 小田原神社  東松山市田木六六二(田木字宮本)
 社伝によると、当社は寛永三年(一六二六)に観定僧都により地内の真言宗慈眼寺の境内に勧請されたことに始まる。観定僧都とは、慶長年間(一五九六〜一六一五)に慈眼寺を開基した僧である。
 その後、享保十年(一七二五)に至り、自然堤防上の慈眼寺境内から耕地を隔てた高台の現在地に遷座した。
『風土記稿』には「小田原明神社 村の鎮守なり、祭神詳ならず、慈眼寺持」と載る。
明治六年に村社となり、同四十一年には字田木山の神明社と字赤城の朝崎稲荷神社の無格社二社を合祀した。神明社は元和年間(一六一五〜二四)に本山派修験の常覚なるものが創建した社と伝える。朝崎稲荷神社は宝暦十四年(一七六四)に妙安寺九世の日定法印が勧請した社と伝え、昭和三十年代に入って旧氏子赤城地区の人々の要望により元地に復している。
 昭和三十三年には、境内林を用材に社殿を改築すると共に鳥居・参道石段の改修を行い、更に氏子の山口実一氏により土地の寄附がなされた社地が広まり、景観は一新した。
 なお、当社境内にある最も古い石造物は、安永七年(一七七八)の手水鉢で、これには「中嶋観音組 田木村講中」と刻まれている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      社殿を横から撮影              境内社・神明社
 祭りに関して、421日に行われる春祭りは、かつて塚越(現坂戸市塚越)の神楽を境内で行っていたため、今でも通称を「お神楽」と呼んでいるという。例祭は、氏子から「お九日(おくんち)」あるいは「お日待」と呼ばれている。12月の報告祭は五穀豊穣に感謝する祭りで、各家から初穂米を集め神前に供えるのが習いであるが、近年は農家の減少に伴い、米の代わりに現金で納める家も多くなっているとのことだ。
        
              一段高い境内から鳥居方向を撮影
        
                 田木小田原神社遠景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」
    「Wikipedia」等


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岡諏訪神社

 和田吉野川(わだよしのがわ)は、埼玉県北部を流れる一級河川である。荒川水系の支流で、流路延長は12.5キロメートル。
 深谷市本田の田園地帯の排水に源を発する。深谷市から熊谷市、東松山市と概ね東から南東方向へと荒川の右岸側を並行するように流れ、途中右岸に和田川、左岸に通殿川を合流した後、吉見町上砂で荒川の右岸に合流する。
和田吉野川は、嘗ての入間川水系に属し、市野川へ合流していた。 1629年に伊奈忠次による荒川の瀬替え(荒川の西遷)により荒川が熊谷市の久下で締め切られ、和田吉野川の吉見町上砂の地点に付け替えられ、荒川本流が流れることになった。また、寄居町や深谷市を流れる吉野川も和田吉野川の一部であったが、明治初期に北側につなぐ水路が開削されて荒川に流れるようになり、吉野川本流が分離した。また、和田吉野川の呼称は元々和田吉野川と和田川の合流点より下流を示していて、それより上流側は吉野川であったが、現在はその上流側も和田吉野川と称している。
 その和田吉野川中流域右岸に位置する東松山市岡地域は、上岡・中岡・下岡の三つの地区に分かれていて、岡諏訪神社はこの内の上岡の鎮守として祀られている。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市岡1733
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧岡郷上岡鎮守・旧無格社
             
・例祭等 祈年祭 4月初寅 夏祭り 714日 例祭 826
                  
秋祭り 101
 国道17号線を熊谷市街地方向に進み、熊谷のシンボルともいえる『八木橋百貨店』のある「本石二丁目」交差点を右折する。その後、国道407号線をひたすら南下する事6㎞程、「上岡」交差点を左折し、100m程行った丁字路右側にある「上岡集会所」を左方向に進むとすぐ右手に岡諏訪神社の一対の幟旗ポールが見えてくる。
 上岡集会所には若干の駐車スペースがあり、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
        
                  岡諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「岡ノ郷」の解説
 大谷村の北、南西に流れる荒川支流和田吉野川の右岸に位置する。村域は同川に沿う細長い低地、および同低地に沿う台地(丘)とからなる。元亨三年(一三二三)の年紀を有する地内光福寺の宝篋印塔に「武州比企玉太岡此国山光福禅寺」とあり、古くは玉太(たまふと)の岡とよばれていたという。近世には岡村・岡郷などとも称した。熊谷往還が通り、鎌倉古街道という道もある。慶長三年(一五九八)に検地が行われ、このときの田方検地帳写(埼玉県史)一冊が残存する。田園簿には岡村とみえ、田高四二三石余・畑高一四八石余で旗本酒井領、ほかに高福こうふく(光福)寺領があった。文化八年(一八一一)川越藩領となる(「風土記稿」など)。
        
           鳥居の手前、参道左側にある伊勢参宮記念碑三基
『新編武蔵風土記稿 岡郷』において「土地もとより高く岡のさまなり、村内光福寺釋迦堂の前に、元亨年中に建し寶篋塔sり、それに武州比企郡玉太岡國山福寺としるせば、往古は玉太の岡と唱へしにや、又當村より艮の方十五町許を隔て玉作村あり、かく玉をもて名村し故詳ならず」と載せており、この地域が「岡」のように一段高い場所であるとの地名由来が記されている。
        
                 一直線に伸びる参道
        
                                      拝 殿
『新編武蔵風土記稿 岡郷』
 諏訪社 妙安寺の持、
 妙安寺 曹洞宗、福田村成安寺の末、諏訪山と號す、開山祖眞文祿元年十二月朔日寂す、本尊彌陀を安ぜり、觀音堂

 諏訪神社  東松山市岡一七三一(岡字寄居)
 和田吉野川の右岸に位置する岡は、上岡・中岡・下岡の三つの地区に分かれる。この内の上岡の鎮守として祀られているのが当社である。
 口碑によると、当社は初め妙安寺の境内に祀られていたが、文政元年(一八一八)に現在の地(妙安寺の隣接地)に移されたという。昭和四十二年の社殿再建の際に「奉新造上屋一宇文政元戌寅稔十有二月初五日妙安院位立峰双代」と記した棟札が発見されており、この遷座に合わせて覆屋(上屋)が建立されたことがわかる。また、別の口碑によれば、当地は水害の多い所であったため、耕作に苦労した村人がその安泰を願って当社を奉斎したとも伝えている。
 妙安寺は諏訪山と号する曹洞宗の寺院で、開山は文禄元年(一五九二)に入寂した祖真和尚である。同寺が山号を「諏訪山」と号したとすると、寺の創建時には諏訪神社が既にこの地に存在し、一旦はこの諏訪神社を取り込んで寺の鎮守としたが、改めて文政元年に寺の隣接地に移して村の鎮守としたものであろう。
 明治初年、妙安寺の手を離れた当社は、社格制定に際し無格社となったものの、幸いにもその後の合祀政策で他社に合祀されることなく、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

『風土記稿』において、「用水には恩田村の出水を用れど、川に添し所は地形も卑ければ水損の所あり、西方に一篠の街道あり、幅一間半、河越より熊谷への街道なり、又同じ邊に鎌倉古街道と唱る所あり」と、鎌倉古街道の説明と、この地域が岡のように他の地域よりやや高いが故に、用水の確保に難儀し、慢性的な「水損の地」であることが記されている。
 
  参道左側に祀られている天神社と八雲神社      参道右側に祀られている稲荷神社と白山神社
        
                   社殿右側奥にある納札所
            札所の下の段に不思議な石が置いてあった。
        
                社殿から見た境内の一風景


 ところで、岡諏訪神社の東側には「諏訪山」と号する曹洞宗の妙安寺があり、祖眞和尚(文禄元年1592年寂)が開山、江戸期には岡諏訪神社の別当を勤めていた。
        
                                    妙安寺本堂
        
                    馬頭観音
 旧別当の妙安寺境内にある馬頭観音は、「上岡の観音様」の名で知られている。これを世に広めたのは、妙安寺一七世愚禅和尚であったといわれている。愚禅和尚は、寺に来た人々に大根の種を配ったり、また旅芸人や瞽女(ごぜ、各地を旅して三味線と唄を聴かせる盲人芸能者を意味する歴史的名称)・虚無僧を寺に招いて歓待するなどして、口伝えによって広めていった。最盛期には関東一円に講社が結成され、二月十九日の縁日には馬を連れて来た講員で境内は一杯になったという。この観音は、江戸時代より軍馬や農業馬の守り観音として信仰を集め、旧陸軍の騎兵隊やバクロウ、または現在は競馬関係者からの信仰が厚く、「上岡観音を参拝しない馬持ちはウマカッタといってはならない」とさえいわれたそうだ




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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拂田稲荷神社


        
             ・所在地 埼玉県東松山市高坂12321
             ・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 格 不明
             ・例祭等 元旦祭 春祭り 3月二の午 冬至祭 1222
 東武東上線高坂駅東口から南側の線路近くで、民家が建ち並ぶ中に拂田稲荷神社は鎮座している。社の基檀部自体が古墳になっていて、直径約30m、高さ約2mの円墳で、通称「高坂13号古墳」別名「拂田稲荷神社古墳」と呼ばれている。
        
                  拂田稲荷神社正面 
 拂田稲荷神社は、戦国時代の混乱で荒廃した当地を見かねた僧誠誉が、村民に呼びかけて天文3年(1534)に創建、田畑が荒廃している所を切り開いて社地を作ったことから拂田稲荷と称されるようになったという。 
        
                                道路沿いに建つ鳥居
 当社は、五穀豊穣の神として崇敬されていたが、その後、高坂の発展や養蚕の振興と共に、商売繁昌の神・養蚕守護の神としても信仰されるようになる。とりわけ、養蚕守護の神としては近郷の人々の信仰も厚く、「巳の日」には「御縁日」といって参詣者も多く、大正時代の始めごろまでは、その晩にお籠りが盛んに行われたほどであったという。
        
                   鳥居のすぐ右側で、社号標柱の両側には石室の天井石
                              とも思われる石碑が
2つある。
        
                一の鳥居から撮影した、石段の先にある朱色の二の鳥居と社殿

 嘗て東松山市を含む比企地域は養蚕業が盛んな地域であった。当地域においても、養蚕が盛んであった頃は、近郷にも崇敬者が多く、中でも近隣の三・四十か村の間では拂田講もしくは穂蚕講と呼ばれる講が結成され、春蚕の始まる前(34月頃)、とりわけ「お蚕祈祷」とも呼ばれる当社の春祭りには講中の人々が参詣し、掃き立て紙を受けて帰ったものであったという。この掃き立て紙は、縦長の紙の中央に繭の形が描かれ、その中に「拂田神社守護」の文字の印が押された紙であり、この紙の上で蚕種を孵化させるとその蚕は丈夫に育つといわれていた。
 
拂田講は戦後に廃絶し、掃き立て紙も昭和43年頃まで配布されていたらしい。拂田稲荷といえば養蚕の神の印象が強い。
        
                    拝 殿
 拂田稲荷神社(ほったいなりじんじゃ)  東松山市高坂一二三二(高坂字稲荷林)
 応仁年間(一四六七〜六九)の後、戦乱が相次ぎ、田畑はすっかり荒廃してしまい、民衆は苦難にあえいでいた。そのころ、当地を訪れた誠誉という僧が、この惨状を見るに見兼ねて、住民に五穀成就と万民安堵の守護神として京都の伏見稲荷大社から倉稲魂命の神霊を勧請することを勧めた。これが当社の創建であり、社記によれば、天文三年(一五三四)のことであったとされている。
 ちなみに、当社の社号の「拂田」とは、人や場所の名前などではなく、田畑が荒廃している所を切り開いて社地を作ったため「田を拂って作った」という意味であるという。このように、社名の由来にも、戦乱による荒廃からの復興を願う当時の人々の心情が込められているように感じられる
 その後、住民や領主の努力も実って、高坂は再び活気を取り戻し、当社は村鎮守の八剣明神社(現高坂神社)と共に高坂の人々から厚く信仰された。とりわけ、文化文政のころ(一八〇四〜三〇)には霊験が殊に著しく、境内及び正面参道が拡張され、石段・石灯籠などが奉献され、更に文久二年(一八六二)には社殿も改築された。江戸時代を通じて、当社は、地内にある浄土宗の長松寺の持ちであったが、神仏分離によってその管理を離れ、代わって澤田家が神職として奉仕するようになった。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
 現在、当社で行われている祭事は、元旦祭・春祭り(3月二の午、三の午がある年は三の午)・例祭(10月17日)・秋祭り並びに冬至祭(12月22日)・大祓(12月31日)の年6回であるのだが、氏子区域が高坂神社と重なる為、総代以下氏子が参列するのは、元旦祭・春祭り・冬至祭の3回で、それ以外は宮司が祭典を奉仕するだけの祭りとなっている。
        
                 境内社・
子持稲荷社
 境内に祀られている子持稲荷社(通称・お子持様)は、子育ての神として信仰されており、特に小児の夜泣きには参詣すれば必ず御利益があるといわれている。また、氏子の間では、子供が生まれると参詣し、眷属像を納めて成長の無事を祈願する風習もある。なお、この「お子持様」は煙草を好むといわれており、昔は、願の叶った人は、感謝の印に煙草を奉納したとの事だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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元宿天神社


        
             
・所在地 埼玉県東松山市本宿1324
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 不明
             
・例祭等 元旦祭初天神 春の祭礼 3月第4日曜日 
                                                                
秋の例祭 10月第3日曜日  冬至祭 123日曜日
 東武東上線高坂駅西口の駅前通り「高坂駅西口」交差点を左折し、450m程南下する。コンビニエンスストアのある十字路を左折、埼玉県道212号岩殿観音南戸守線に合流し、高架橋を下るように進むと進行方向左手に元宿天神社の境内が見えてくる。
        
                  元宿天神社正面
『日本歴史地名大系』 「本宿村」の解説
 [現在地名]東松山市元宿・西本宿
 岩殿村の東、都幾川の右岸に位置し、松山領に属した(風土記稿)。古くは東隣の高坂村と一村で、高坂郷と称していたが、承応年間(一六五二―五五)に分村したという。また、高坂村は近世、日光脇往還の宿駅であったが、同村の宿場は古く当地にあって、このことが村名の由来ともいう(風土記稿)。寛永二年(一六二五)七月、徳川氏は「本宿村高四百五拾石」「五百石高坂・小代・本宿・早俣・悪戸開発地」などを旗本加々爪民部少輔(忠澄)に与えている(記録御用所本古文書)。

『新編武蔵風土記稿 高坂村』
「當所は古へ隣村元宿村と一村にして、広き地なれば鄕名にも唱へしならん、其内元宿の方は古の宿驛なりしゆへ、昔は高坂の元宿の呼びしを、後二村に分れしと云、現に郡中奈良梨村諏訪社に掛たる、延徳三年の鰐口の銘に、武州入間郡高坂郷〇王山常安禪寺と見えたり、この寺今も元宿村あれば、当時高坂と一村なりしこと明けし、」
 この古くからあった「高坂の元宿」という呼び名が、後に村名となったという。
 
   道路沿いに設置されている社の掲示板    鳥居の右側に「村社」と刻まれた社号標柱あり

 元宿天神社は、学問の神、村の守り神、農業の神、そして通称を「火蕾天神」という武の神として祀られている当地で盛んに信仰されていた北野天満宮を勧請して永享年間(14291441)に社殿を建立、天正年間には戦乱により焼失したものの元和8年(1622)に再建、明治維新後には龍圓寺境内に祀られていた愛宕社を当社境内に移したという。
        
                    拝 殿
 天神社(からいてんじん)  東松山市元宿一-三二-四(毛塚字西久保)
 東武東上線高坂駅から線路に沿って少し南に向かった所に当社の境内がある。付近は、最近区画整理がされ、住宅化が進んでいるが、境内は周囲よりも幾分高くなっており、しかも杉や檜がよく茂っているため、その位置は遠方からでもよくわかる。
 言い伝えによれば、この地では、どのような理由からか京都の北野天満宮の御神徳を慕っており、村内に遥拝所が設けられ、礼拝が行われていたという。時が経つにつれて、北野天満宮に対する信仰はいよいよ高まり、ついに永享年間(一四二九〜四一)には社殿を建立し、北野天満宮の分霊を奉斎するに至った。これが当社の始まりで、のち天正年間(一五七三-九二)、戦乱のため村もろとも焼失の憂き目に遭ったが、元和八年(一六二二)には再建が果たされ、一層の信仰を集めるようになったという。
 また、明治二年九月には、龍円寺の境内に祀られていた愛宕神社が当社に移された。これは、明治維新の際積極的に推進された神仏分離によって、神仏混淆が許されなくなったことに伴う措置で、愛宕神社は以後、当社の末社として祀られている。なお、『風土記稿』では、「田木村慈眼寺持」の神明社が毛塚村の鎮守とされ、当社は単に「龍円寺持」の社となっている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
             社殿のすぐ左手に祀られている愛宕社
         愛宕社の奥は何やら塚のような雰囲気のあるふくらみがある。
          後日地図を確認すると、やはり「高坂51号墳」であった。

 この元宿天神社周辺には古墳や塚が多く存在し、「毛塚古墳群」と称する古墳群を初めとして塚が非常に多い。地域名「毛塚」由来も、髪の毛のように塚がたくさんあるという意味があるともいわれている。そのため、氏子の間でも裏庭などに塚がある家が多く、そういう家では「氏神様は自分の寝ている所よりも高い所に祀れ」と言い、屋敷神を塚の上に祀っている。また、当社の境内も塚の跡であろうといわれているほどであるという。
        
                        社殿からの一風景
 昭和56年度から平成5年度にかけて行われた「高坂駅西口土地区画整理事業」に伴い、高坂駅西口が新設され、西口一帯が市街化区域と指定変更された。周囲の風景もそれまでは養蚕が盛んに行われ、桑畑と麦畑が混在する長閑な風景が残っていたのだが、その後の開発により、住宅街に大きく変貌したという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内掲示板」等
        

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