古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

成瀬諏訪神社


        
              
・所在地 埼玉県入間郡越生町成瀬6731
              ・ご祭神 建御名方命 木花開耶姫命
              ・社 格 旧成瀬村鎮守・旧村社
              ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9769209,139.2857946,17z?hl=ja&entry=ttu
 津久根八幡神社から越辺川を越えて350m程北上すると、十字路となり、そこを左折、200m程道なりに進むと「弘法山観世音」の専用駐車場に達する。
 実は、古池鹿嶋神社から津久根八幡神社に向かう途中にこの十字路を通り過ぎてしまったわけであるが、津久根八幡神社を先に参拝したかったがためにこの成瀬諏訪神社が後になってしまった。理由は勿論あったが、それは後に説明する。
「弘法山観世音」の石段を越えて本殿に達するわけであるが、そこから右方向に進むと諏訪神社の看板と鳥居が見えてくる。
        
                                
弘法山観世音の石段
『日本歴史地名大系』 「成瀬村」の解説
 [現在地名]越生町成瀬
 大谷村の西、越辺川とその支流渋沢川に挟まれた緩丘地に立地。現東京都青梅市安楽寺蔵の大般若経巻一一六の奥書に、永和五年(一三七九)四月上旬「武州入西郡越生郷成瀬村」の住僧良察が書写したとある。田園簿では田高一六九石余・畑高三九石余、幕府領。

        
        石段の左側に設置されている「
弘法山と子育て観世音」の案内板
 弘法山と子育て観世音   越生町成瀬
 弘法山は、山頂に諏訪神社、中腹に観音堂、山麓に見正寺と、全山に信仰対象が置かれている。
山頂からの優れた眺望については、江戸幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』に「高房山図」の絵入りで掲載されている。「高さ五丁余りにて、四辺は松杉生ひ茂りて中腹に妙見寺あり。夫より頂までは殊に険阻の山なり。頂には浅間の祠を建て、祠辺よりの眺望最も打ち開けたり。先ず東の方は筑波の山を始めとして、比企、足立、江戸を打越して、遠く房総の山々を見渡し、南は八王子の辺までのあたりに見え、西は秩父ヶ岳及び比企郡笠山、乳首山など連り、北は三国峠より信州、越州の高山見えたり」と、海抜二百メート ル足らずの山について異例の紙幅を割いている。
 当地の小字名は「高房」で、弘法山も古くは「高房山」と記されていた。妙見寺は真言宗寺院であり、弘法大師空海に因んで「弘法」の字が充てられるようになったのであろう。
 現在、浅間社は山麓から遷座した諏訪神社に合祀されている。妙見寺は廃寺となったが、観音堂はのこされ、安産子育ての観音様として参拝者が絶えない。乳房をかたどった縫いぐるみを奉納する習俗は、民俗学的にも注目されている。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                  成瀬諏訪神社正面
 実はこの成瀬諏訪神社の所在地は事前にグーグルマップ等で確認していた。弘法山観世音から決まったルートがない山の中腹、ないしは山頂付近に鎮座していることも予想できた。となると、当然低山とはいえ、上り坂斜面への登頂参拝と予想でき、かなりの疲れが残ることも想像できた。そこで、まずは平地面の津久根八幡神社の参拝を終えてから、この社に赴こうと決めたわけである。
       
 弘法山観世音の標高が121m程で、弘法山頂が165mであるので、その標高差は僅か45m程であり、多少の疲れは覚悟していたはずであったが、思っていた以上に参道の山道は勾配がきつく(写真左)、また途中でいろは坂風なジグザグな山道もあり(同右)、正直登るのが大変であった。もうすぐ前期高齢者となる筆者には、自らの年齢を実感した低山道でもあり、無理は出来ないなあと痛切に感じた次第である。但し実際には5分程で登頂を終えている。
         
                             弘法山山頂の境内の様子
 この弘法山は古くは「高房山」と記されていて、妙顕寺(弘法山観世音を含む)は真言宗寺院であり、弘法大師空海に因んで「弘法」の字が充てられるようになったという。
『新編武蔵風土記稿 成瀬村』
・高房山
 小名高房の内なれば、直ちに名とせり、高さ五丁餘にて、四邊は松杉生ひ繁りて中腹に妙見寺あり夫より頂までは殊に險岨の山なり、頂には殘間の小祠を建、祠邊よりの眺望最打開けたり、先東の方は筑波の山を始として、比企・足立・江戸を打越て、遠く房總の山々を見渡し、南は八王子の邊までのあたりに見え、西は秩父ヵ嶽及比企郡笠山・乳首山など連り、北は三國峠より信州・越州の高山見えたり、
小名 鳥井戸
 昔村内高房山の殘間社の鳥井ありし地なれば、かくとなへりといひ、
・妙見寺
新義眞言宗、上野村醫王寺末、高房山と號す、小杉村天神社應永十二年の棟札の銘に、當社別當高房山禅海、開闢以来威光増益云々と見えたり、高房山は當寺のことならんには、舊き寺にて其頃は天神の別當たりしことしらる、本尊地藏を安ず、客殿の傍に鍾樓あり、明和元年鑄造の鐘をかけおけり、
觀音堂 如意輪觀音の坐像長二尺なるを安ず、弘法大師の彫刻なりと云、
        
                    拝 殿
 諏訪神社  越生町成瀬六七〇
 当社は鎮座地である成瀬のほぼ中央に位置する弘法山(一六六・一メートル)の山頂に奉斎されている。成瀬は古く鳴瀬とも書き、平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵七党児玉党の鳴瀬氏がこの地に館を構えていたと伝えられる。
 創建の年代は詳でないが、古くは新倉に鎮座していたものを、建久年間に成瀬右近太郎有年により宮路へ遷座したと伝える。(新倉、宮地ともに現在も小字名として残っている)
 明治五年に村社となり、同三九年には宮路から弘法山の山頂へ遷座し、そこに祀ってあった無格社浅間神社を本殿内に合祀した。この遷座の理由は、村社である当社を祀るには、村外れの宮路より、村の中央にあって、どこからでも仰ぎ見られる弘法山の頂の方がふさわしいとされたためで、その際、本殿は旧浅間神社の参道を一直線に引き上げられたが、拝殿と社務所は解体して運んだという。
 祭神は建御名方命で、浅間神社の合祀により木花開耶姫命を併せ祀る。また、一間社流造りの本殿内には、建御名方命が軍旅に帯びていたと伝えられる石棒が納められている。
 なお、宮路に鎮座していた当時、境内には樹齢千年以上といわれていた欅の大木があり、神木とされていたが、境内を移すに当たって伐採され、今はない。
                                  「埼玉の神社」より引用


 津久根八幡神社の獅子舞は、享保年間(171636)に、成瀬村(現大字成瀬)の諏訪神社の祭礼で行われていた獅子舞を、津久根村の操り人形芝居と交換して始められたと伝えられている。演目は初庭「七五三掛り」、中庭「四幕抱き」、終庭「花掛り」の3庭が継承されていて、一つの獅子頭を一人で被り、三人一組で舞う一人立三頭獅子といい、大獅子と中獅子の雄獅子2頭が、雌獅子を奪い合うという筋立てで舞い踊る形式だ。
 ということは、津久根村の操り人形芝居と交換する前は、この成瀬諏訪神社の祭礼で行われていた獅子舞であったということになろう。
        
         拝殿の右側に祀られている境内社・神明社 稲荷社 熊野社

 児玉党鳴瀬氏は武蔵七党・児玉党の一派で、越生氏からの分家筋である。「武蔵七党系図」によると、武士団児玉党の一族越生氏は、成瀬、黒岩、岡崎の三氏を興したという。
 成瀬(鳴瀬)氏は、児玉党一派越生氏の初祖越生有行の孫で長男の有年が興した一族で、次男は黒岩有光・三男は岡崎有基と、それぞれに地名由来の苗字を名乗った。
『武蔵七党系図』
「越生有行―四郎有平―鳴瀬右近太郎有年―太郎左衛門尉経季―太郎経長、弟二郎泰綱」
『新編武蔵風土記稿 成瀬村』
「當村古は成瀬氏の領せし地にや、當國七黨系圖を閱るに、兒玉黨越生有行の三男四郎有平の子、鳴瀬右近太郎有年と云もの見ゆ、彼系圖には年代を記さゞれど法恩寺年譜錄に載たる承元二年有平の兄、有弘が左馬允有高に地頭職を譲りしよし有にても、大抵其頃の人たりしこと知らる」
        
   弘法山から南方向(越生・毛呂山町方面)、西方向(越生梅林方面)の眺めが見事である。
               この眺めは西方向(越生梅林方面)
        
           
弘法山から南方向(越生・毛呂山町方面)からの展望
        但し登頂で体力が続かず、今回の社参拝はここで終了している。



参考資料「武蔵七党系図」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」
    「埼玉の神社」「弘法山観世音 掲示板」等
 
 

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津久根八幡神社

 越生町津久根地域に鎮座する津久根八幡神社において、現存する最古の棟札があり「奉八幡宮建立国家安全之祈・正歴二辛卯年八月一五日」と平安中期の年紀があり、『明細帳』もこれを創建の年代と伝えている。一方、元文五年の『津久根開創記』には、棟札の年代よりもおよそ200年下った文治三年に当村草分け吉山家が正八幡宮を勧請した旨が記されている。
 この吉山氏は調べてみると、先祖は高句麗王族と高句麗国の人を祖先とする渡来系氏族である「高麗氏」の血統にも繋がっている。
〇吉山氏
日高市高麗神社々家の高麗系図に「22代高麗純丸(高麗大宮司、久安二年(1146)卒、母金子學女)。27代豊純(高麗大宮司、仁治三年(1242)卒)―女子(金子元正妻)」と、高麗氏正統の血統と比較的身近な近親者的な立ち位置に金子氏はあるようだ。またその金子氏の一派から吉山氏が輩出していて、この津久根地域に土着したという。
・八幡社所蔵の桜堂縁起
「吾祖、昔高麗国王に随て此土来。人王四十二代元明天皇御宇也。武州今之高麗郡之麓に居住し、星うつり兎てんじて、同国入間郡金子村住居せり二十代之孫葉住しと。其先平氏随ひ、元暦朝に至り頼朝に仕へ、金子十郎家忠戦功有、七十歳病死す。家忠嫡子与市家勝・文暦朝仕行年五十一歳にて弘安八年に北条相随て戦死す。同三郎勝正・生年二十三歳にて頓死、于時建長五年五月也。其嫡子左京亮貞成は行年八十歳にして暦応三年死去。其嫡子平五郎国忠に至り、将軍義持公、義量公二代に仕。源次郎友正・義教公仕。源次郎政時・義勝公に仕。十次郎政忠・将軍家二代仕。十次郎政信・義植公仕。十郎元忠・義輝公に仕。十郎忠次・義栄公義昭公に仕。代々将軍家に相随処、御当代に至り秩父郡大野原村へ蟄居いたし。十郎忠次・男子三人有り、嫡子七郎家次、二男権蔵元次、三男源五忠吉也。慶長十年いたり入間郡築根村にいたり、舎兄七郎家次へ吉・山氏姓、初政氏居住。二男権蔵元次・村田氏継。三男源五忠吉に岩田氏継・大満村住居」」
津久根開創記
吉山之先祖鎌倉浪人金子十郎家勝と申人、津久根切開く、其人む禰懸鰐口成之、鋳物之内に弥陀如来之鋳形有之。家勝次男吉山入道と申人、此弥陀如来世中安全為鎌倉八幡写正八幡宮奉勧請、文治三年八月に相違無御座候。尚亦別当高蔵寺之儀は天正元年・吉山開基に取立候。元文五年極月、津久根村惣百姓連判、名主吉山庄兵衛倅儀右衛門殿へ一通差上申候」

        
              
・所在地 埼玉県入間郡越生町津久根23
              
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 例大祭 10月第三土日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9758667,139.2851591,17z?hl=ja&entry=ttu
 古池鹿嶋神社から埼玉県道30号飯能寄居線を越生町方向に南下する。1㎞程先にある三つ又路地を右方向に曲がり、そこから400m程先にある越辺川を越えたすぐ左側に津久根八幡神社が見えてくる。越辺川を越える手前には「越辺川遊歩道 観光案内」と題した看板が設置されており、津久根地域を中心とした周辺地域の名所案内がある。その中に津久根八幡神社も記載されている。
 因みに津久根八幡神社は社務所や集会所等はなく、周辺にも適当な駐車スペースはない。そこで越辺川北側左岸に設置されている「越辺川遊歩道 観光案内」と題した看板付近に車を停めてから急ぎ参拝を開始した。
        
      社のすぐ北側で、越辺川左岸にある「越辺川遊歩道 観光案内」の看板
 津久根八幡神社 
 平安時代の創建と伝えられ、現在の本殿は天保
4年(1833)に再営されたものです。見事な彫刻は嶋村源蔵(しまむらげんぞう)によるもので、川越氷川神社や西東京市の田無(たなし)神社などで知られる。七代目の嶋村源蔵、俊表(しゅんぴょう)とみられます。
       
                               津久根八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「津久根村」の解説
 [現在地名]越生町津久根
 黒岩村の北、成瀬村の南、越辺川右岸の山間地に立地。天文一二年(一五四三)に記された長昌山龍穏寺境地因縁記(龍穏寺文書)に「今、築根村于在道灌屋敷」とみえ、太田道灌の屋敷があったという。田園簿に村名がみえ、田高一二石余・畑高四四石余、幕府領。寛文八年(一六六八)検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高八二石余。延享三年―天保三年(一七四六―一八三二)間は三卿の田安領(「田安領知村高記」葛生家文書など)。
       
         鳥居の左側にある社号標柱       鳥居を越えすぐ右側にある手水舎
                         石を台座にした何となく趣ある造り
        
           鳥居の右側に祀られている「猿田彦大神」の石碑
 石碑の下部にある穴が印象的で、おそらくは越辺川の川石を使用したと思われるが、とにかく珍しい形状である。
        
                     拝 殿
         拝殿上部・向拝、木鼻部には精巧な彫刻が施されている。

津久根八幡神社には越生町指定文化財である伝統芸能「八幡神社の獅子舞」が、毎年10月第三土曜日・日曜日に奉納されている。
 八幡神社の獅子舞 越生町指定文化財
 八幡神社の秋祭りに奉納される獅子舞は、もともとは成瀬の諏訪神社の祭礼で行われていたものを、江戸時代の享保年間(一七一六~三六)に、津久根の人形芝居と交換して始められたと伝えられている。
 笛の音と、四人の女子が務める花子が掻き鳴らす竹製の簓の伴奏で、大獅子と中獅子の雄獅子二頭が雌獅子を奪い合うという筋立で舞われる。「ささら」は獅子舞の通称ともなっており、その音から、花子のことを「ちゃっちゃこ」とも呼んでいる。
 笹葉の青竹に注連縄をかけて舞う初庭の「七五三掛り」、雄獅子同士が争う中庭の「四幕抱き(志満久多喜)」、和解した雄獅子が雌獅子とともに舞う終庭(後庭)の「花掛り」の三庭(幕)からなる。
 開催期日 十月第三土曜日・日曜日
                                      案内板より引用

 
           越生町指定文化財の八幡神社本殿(写真左・右)
 八幡神社本殿 越生町指定文化財
 当地、大字津久根字若宮に鎮座する八幡神社は平安時代中期の創建と伝えられている。
 当社の由緒を物語る歴史資料として、鎌倉時代の正嘉二年(一二五八)銘を持つ密教法具の金剛盤(町指定文化財)が伝存している。
 棟札の写しによると、現在の本殿は天保四年(一八三三)の再建で、大工は新座郡舘村(現志木市)の高野武兵衛を棟梁に、当地生まれの江戸浅草新堀の吉山定右衛門と和田村(現越生町西和田)の石井熊蔵が務めた。
 彫物を請け負った浅草茅町の嶋村源蔵は、川越氷川神社や西東京市の田無神社などで知られる、嶋村流七代目の源蔵俊表と思われる。浅草東本願寺前の石川藤吉(石川流二代目周信)も携わっている。「黄石公と張良」、「高砂」、「的慮に乗る劉備玄徳」などで飾られた社殿を、四隅の縁下で力神が支えている。
                                    境内案内板より引用 


   社殿左側に祀られている境内社覆堂      社殿右側に祀られている石祠と境内社
     祇園神社・天照大神が祀られている。   石祠は「御神犬」、中央は稲荷社、右は蚕影社
       
 境内に設置されている「八幡神社本殿 越生町指定文化財」(写真左)と「八幡神社の獅子舞 越生町指定文化財」(同右)の掲示板。

 
         津久根八幡神社のすぐ北側を流れる越辺川(写真左・右)
    この周辺地域の河川はどこも清流であり、心洗われるような心持ちとなった。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「埼玉の神社」
    Wikipedia」「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等

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古池鹿嶋神社


        
             
・所在地 埼玉県入間郡越生町古池122
             
・ご祭神 武甕槌神
             
・社 格 旧古池村鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9886704,139.278032,16z?hl=ja&entry=ttu
 瀬戸元下雷電神社から一旦東行して、埼玉県道30号飯能寄居線に達した後右折し、同県道を1.6㎞程南下すると、進行方向右手に古池鹿嶋神社が見えてくる。但し県道からは目視できるが、正面の鳥居が道に面してなく、加えて道路に対して鳥居が横を向いている配置であるため、注意していないとそのまま通り過ぎてしまう恐れもある。まあ昔と違い、現在は車両にナビが標準装備されているのでその点は安心なのだが。
        
                         県道から南側に鎮座する古池鹿嶋神社
『日本歴史地名大系』 「古池村」の解説
 [現在地名]越生町古池
 鹿下(かのした)村の北西、越辺川支流の渋沢川上流域にある山間村。中世は入西郡越生郷の内。近世は比企郡に属した。地内に小字名田代があり、文安三年(一四四六)三月九日の吾那憲光寄進状写(武州文書)に「入西郡越生郷恒弘名之内田代村」とみえ、田代村内菊万在家の土貢八〇〇文と中嶋在家田畠土貢八〇〇文(計一貫六〇〇文)を吾那堀之内(あがなほりのうち)釈迦堂に寄進している。
        
             一の鳥居の先にある手水舎と社号標柱
 一の鳥居から手水舎辺りまでは真っ直ぐな参道だが、そこから左側方向に直角に曲がり、二の鳥居、社殿に向かう配置となっている。
        
                古池鹿嶋神社二の鳥居
 埼玉県入間郡越生町古池地域は、同町最北端に位置し、嘗て『新編武蔵風土記稿 古池村』において、「比企郡」に属していた。この地域名の由来として『同風土記稿』では、「土人の說に昔村内に大なる池ありし故に、村名となれり云」といい、地形から名付けられた地域名であったようだ。
       
                                     拝 殿 
 
     拝殿に掲げてある扁額          拝殿向拝部・木鼻部等の見事な彫刻
 
 古池鹿嶋神社の創建年代や由緒等は不明で、『新編武蔵風土記稿』においても「鹿嶋明神 村の守なり、昌寺持」としか記されていない。但し、社殿の左側には「要石」があり、この地域の伝承・伝説では、越生町古池地域には昔大きな池があり、大鰻(おおうなぎ)が住んでいて、鰻が暴れると地震が起こると言われた。村人は池に地震の神である鹿島様を祀り、要石を置いて鰻を鎮めたという(写真左・右)
 巨石群とご神木の間に「要石」と刻まれた標柱はあるのだが、どれが要石なのか、それともこの巨石全体で要石と為しているのかが全く分からなかった。
        
                                境内社・壱岐天手長男神社
       
          要石に隣接して聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)

『新編武蔵風土記稿 古池村』によると、古池村内には小名「田代」があり、比企郡古池村字田代と入間郡堂山村字田代河原(越生町)は昔一村にて古の村名であったという。
『新編武蔵風土記稿 古池村』
「小名 田代
 此処住昔は古池村と、自づから別村にてありしにや、入間郡堂山村最勝寺に藏する、文安三年吾那左衛門尉が、釋迦堂領寄附の文に、入西郡越生鄕、恒弘名之内田代村、菊間在家土貢八百文と見ゆ、又同寺の藏永錄三年、太田美濃守資正があたへし制札の末に、岩崎上殿分田代大間富澤山田分と載たり、是悉く此邊の地名にして、千代田記せしは全當所ならん、上殿と云は其地詳ならざれど、郡中大附村の小流に上殿川と云あれば、其邊を云しならん、餘はいづれも近村の地名、及び小名に殘りて今に在せり、されば文安の頃は、當所も左衛門尉憲光、永錄に至ては美濃守資正が領にして、田代の唱へ古きこと知らる」
『同風土記稿 堂山村』
「小名 田代河原
 東北の方にあり、下に載たる文安三年吾那憲光が出せし釋迦堂領寄進狀に武蔵國入西郡越生鄕恒弘名之内、田代村菊萬在家出貢八百文とあるは、恐くは當所のことにして、昔は村とも唱へしならん。又永錄三年太田美濃守資正が出せし制札にも見えたり」
             
                            一の鳥居からご神木を望む。

 室町・戦国時代の日本の医師。後世派医学の開祖であり、広く医聖と称され、曲直瀬道三・永田徳本等と並んで日本における中医学の中興の祖である「田代 三喜(たしろ さんき)」は、寛正6(1465)、田代兼綱の子として田代村(現在の越生町大字古池)に生まれたという。(川越誕生説もある)
 医業を志して、京都妙心寺や足利学校で学んだ後、23才で明に留学して12年後に帰国した。永正6(1509)からは、下総(茨城県)の古河公方・足利政氏の侍医を勤め「古河の三喜」とよばれ、関東一円を往来して庶民の治療にも尽くした人物である。
        
                   社の一風景
 ところで、越生町には「一里飴」と呼ばれる原材料に砂糖、水飴、蜂蜜のみでできた昔懐かしい味がするご当地飴がある。越生にある住吉屋製菓が製造しており、昔はテレビCMもやっていたようだ。一里飴の名称は、幕末から明治前期の国学者である権田直助が命名したと言われており、権田が尊王攘夷運動の志士として江戸と京を往来する際にはこの飴を携えていたとされ、日本橋から高輪大木戸までの約一里の距離を歩く間、溶け切らずに味わい続けられたと言われたことに由来している。
 この一里飴は田代三喜が創製した医薬飴がルーツとされ、当時は越生梅林で採れた梅の蜜を原料とした医薬飴であったという。現在行田市の十万石まんじゅう、熊谷市の五家宝などと並ぶ埼玉銘菓の一つであり、彩の国優良ブランド品に指定されている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「Wikipedia」等


  

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鹿下越生神社

 埼玉県入間郡越生町。この「越生」は「おごせ」と読むが、普通に考えてもこの地名は「おごせ」と読むにはかなり無理のある地名である。世にいう「難解地名」の一つとしても有名であるが、『越生町HP』によると、「越生(おごせ)」とは、平野部と山岳地域の接点にあたる越生からは、秩父に向かうにも、上州に向かうにも尾根や峠を越えなければならず、それに由来した『尾根越し(おねごし)』の『尾越し(おごし)』という言葉から変化したという説が有力視されているようだ。
 対して街中を流れる「越辺川(おっぺがわ)」からくる地名由来という説もある。この越辺川の「おっぺ」はアイヌ語で「豊かな川」、古朝鮮語では「布地」を意味する。 この「越辺」から「生越」、「越生」へと転じたともいわれているが、未だ真相は分かっていない
 地名にはその土地の地理などの歴史が色濃く集約されていると言っても過言ではないという。「越生」という地名にもその深い歴史の中で、いずれ由来等が判明する時がくるのであろうか。
        
             
・所在地 埼玉県入間郡越生町鹿下256
             
・ご祭神 [主神]大山祇神 大雷神 高龗神 [合祀] 大山咋尊
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9960427,139.2792774,15z?hl=ja&entry=ttu
 JR八高線明覚駅のあるときがわ町・番匠地域から八高線沿いにある道路に沿って3㎞程南下し、丁字路を左折し、更にすぐ先の丁字路を左折する。丁度南下していた道を左方向に北上するようなルートとなるが、それ以外に適切な道がないのでそこは仕方がない。道なりに進むと「学頭沼」に到着するのだが、その南側手前で右側に鹿下越生神社が見えてくる。地形を確認すると、岩殿丘陵西麓の斜面上に社はあるようだ。
 周囲一帯長閑な田畑風景と雑木林が広がり、緑豊かで清閑な自然環境に恵まれた環境に囲まれた一角にひっそりと鎮座している。
        
              森の中に静かに鎮座する
鹿下越生神社
『日本歴史地名大系』 「鹿下村」の解説
 成瀬(なるせ)村の北東、越辺川支流渋沢川流域の岩殿丘陵西麓に立地。鹿の下・鹿ノ下とも記す(田園簿など)。入間郡の郡境の村で、北西は比企郡古池(ふるいけ)村。応永三二年(一四二五)八月二三日の尼禅智寄進状写(報恩寺年譜)に「入西郡越生郷恒弘名鹿下」とみえ、鹿下内高房(こうぼう)の東長五郎入道在家付きの田三段からの毎年の得分一貫九〇〇文を報恩(ほうおん)寺に寄進している。堂山最勝(どうやまさいしよう)寺蔵の大般若経奥書(武蔵史料銘記集)に延徳三年(一四九一)一二月二八日「鹿下幸伝書」とみえ、寺正保二年門徒帳には「加野下村」と見える。
        
                  鹿下越生神社正面
 越生町には「越生神社」が二社存在する。一社は越生地域に鎮座する越生神社で、旧今市村鎮守社。この社は街中に近い越辺川上流の河岸段丘上に鎮座していて、規模も大きい。それに対して、当社は嘗て「根元神社」と称し、その後明治40年(1907年)に日枝神社が合祀し、「越生神社」と改名した。
 但し創建年代は意外と古く、一説では、今から1200年ほど前に遡るといわれ、高僧・行基が法恩寺を建立した際に、現在のご祭神を勧請し、守護神として神事を執り行ったのが始まりという。
 
 鳥居の右側に立つ社号標柱。左側にあるのは     石段を登り終えるその先に境内、
  「越生町再発見100ポイント」のプレート        及び社殿が見えてくる。
       
              静まり返った境内の先に佇む社殿
『入間誌』『新編武蔵風土記稿』『越生町HP』による越生神社や鹿下地域、地名の説明。
「鹿ノ下」
〇越生神社
・東北部にあり。社地に近く、学頭沼あり。学頭沼は行基の学寮を起てたる処なりと称す。社は元根本(元)神社?にして古くより存し、応永年中越生左工門尉光忠再営、延徳二年幸伝再営後寛文八年代官深谷善右工門再営せりと言伝ふ。明治四十年村社日枝神社を合祀し、越生神社と改称した(入間誌)
〇沼
・村の北にあり、廣さ二町許、土人學頭沼と呼べど、名義はしられず(新編武蔵風土記稿)
沼の名の由来は、徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)、江戸城に登る都幾川の慈光寺の学頭(僧侶の役職名)に、村人たちが沼の修理願いを託したことによると伝えられています。(越生町HP
〇大行院跡
・元の修験にして、今は民家となれり。川角村西戸山本坊の配下にして、文化の頃越生岡崎より法流を譲られ、今も其文書を存すと言ふ。風土記には岡崎吉実の子孫正元元年越生岡崎に移住し、修験となり源栄と改む。是大行の開祖なりとあり(入間誌)
本山派の修驗、西戸村山本坊の配下なり、寺記を閲するに、岡崎吉實と稱せし人の子孫、正元元年武州入間郡越生岡崎に移住して修験者となり、源榮と改號す、是大行院の開祖なりと云、今按に近鄕今市村の小名に、岡崎と云ものあれば恐くは彼を指て云しならん(新編武蔵風土記稿)
小名 高房
応永三十二年尼禪智が寄附狀にも、此名見えたれば、舊くより唱へし名なることしるべし、殊に其地廣くして隣村成瀬にも續けり(新編武蔵風土記稿)
       
           境内右側奥に設置されている「越生神社再建記念碑」
      石碑の内容はかなりの長文なので、後半の「越生神社再建について」は略す。
          越生神社再建記念碑 埼玉県神社庁長 横田茂拝書
                  越生神社の由来
      当越生神社は元は根本神社と称し その起源は古く今から千二百年前の
     天平年間(第四十五代聖武天皇・七二九~七四八)にさかのぼり 時の高
     僧行基菩薩が東國遊行の時越生法恩寺を創立 さらにその時学寮を当地に
     選びその守護神として大山祇神、大雷神、高龗神を勧請して神事を行った
     のがそもそものはじまりと伝えられております その後兵乱の為衰頽して
     いたが 応永年間(第百一代称光天皇・一三九四~一四二七)の御代越生
     左衛門尉光忠が再興し越えて延徳元年(第百三代後土御門天皇・一四八九)
     鹿下幸傳が再営したと口碑に伝えられている 後 寛文八年(第百十二代
     霊元天皇・一六六八)の御代 当地の代官深谷喜右門が社地を寄付し再修
     致しました その後明治五年社格制定により村社に列せられた 明治三十
     七年八月官有地一反二畝七歩を神社境内地として払い下げ 明治四十年一
     月同字宿にありました日枝神社を合殿 合祀し社号根本神社を越生神社と
     改称した  尚 祭神大山祇神は山の神で 大雷神は雨の神であり 高龗
     社は龍の古字で祭神は龍神で水の神として尊敬され稲穀の豊作を願う庶民
     的信仰に発しているように思われる なお 根本神社とは山の根方の祠に
     ある神社という意味と思われます 大山咋尊は 大歳神素淺鳴尊の子で日
     枝山王社の祭神で穀物の神です 日枝神社は 天台宗比叡山延暦寺守護神
     として祭祀されたのがその起こりとも言われております
      また 口碑に日枝神社よりも根本神社のほうが古いのでこちらに合祭に
     なったという 昭和三十四年には同敷地内にありました末社愛宕大神 鬼
     神大神を合祀しております
        
                    拝 殿
『越生神社再建記念碑』の石碑には、「越生神社の由来」の他に「越生神社再建について」が刻まれており、石碑の上段に「越生神社の由来」・下段に「越生神社再建について」と2段構成となっている珍しい石碑である。下段にある「越生神社再建について」を確認すると、昭和六十年二月十九日に放火と見られる火災により焼失したといい、年月日は記されていないが、その後再建を行い、昭和六十三年十二月にこの記念碑を建立したとの事だ。
 
     拝殿に掲げてある扁額          境内に祀られている境内社・三峰大神
        
                           境内より石段下の鳥居を望む。
        
              鹿下越生神社の東側にある学頭沼


参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間誌」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「Wikipedia」
    「境内石碑文」等
               

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本宿天神社

『北本市HP』には、「北本の地名の起こり」と題した市の名称由来を綴ったページがある。それを参考として話を進めるが、当市は「戦国期に鴻巣宿の宿場があったが、慶長(けいちょう)年間に宿を今の鴻巣に移転し、当地を本(もと)鴻巣村と改称し、元禄(げんろく)年間ごろ本宿村と改称した」という。
 というのも江戸時代、中山道の宿場町に鴻巣宿と桶川宿があり、この二つの宿場町の距離が近かったことがその理由であったようで、「元」鴻巣宿だった当地は、元鴻巣宿があった場所なので「本宿村」と名づけられたという。
『新編武蔵風土記稿 本宿村』
 本宿村は古へ宿驛(駅)なりしが、慶長年中今の鴻巣へ移せしよし、正保の國圖(国図)には本鴻巣村と記し、元禄の圖(図)には本宿村とあり、
 ところが、明治時代となり、同じ北足立郡のなかに本宿村という村名が2カ所(現在の北本市とさいたま市)あり、不都合なので、北にある本宿村を「北本宿村」とすることになった。
 因みに現在浦和市(土合(つちあい))の本宿について、「元宿」とも書いた。明治十二年北足立郡に(中略)同名の村があったため南元宿村と改称したという。
 この「北本宿」が、昭和3年に開設された駅の名前として使われることになり、更に、昭和18年に石戸村と中丸村が合併したときの村名は、この駅名からとられた。その後、昭和34年に町制を施行するときに、「北本宿町」では『語呂が長く呼びにくいので、宿をなくして北本町にした』といわれている。
 こうして、現在の「北本」という地名ができた。北本という呼び名は昔からのものではなく、比較的新しい地名といえる。
        
              
・所在地 埼玉県北本市本宿28
              
・ご祭神 菅原道眞公
              
・社 格 旧本宿村印綬・旧村社
              
・例祭等 例祭 225日 春祈祷 325日 
                   夏祭り 
724日・25
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0316998,139.5349709,17z?hl=ja&entry=ttu
 JR高崎線北本駅東口に通じる駅前通りと、旧中仙道との交わる「北本駅前」交差点を左折し、すぐ先の「多聞寺」交差点のすぐ左側に本宿天神社の鳥居が見える。
 駐車スペースは境内北側にあり、「多聞寺」交差点を左折すると、進行方向右側に「鴻巣警察暑 北本交番」があり、その手前に専用駐車場の看板が見えるので、そこの一角に停めてから参拝を行う。
        
                           旧中山道沿いに鎮座する本宿天神社
 北本市本宿地域は、
市の中央部に位置し、西の高崎線と東の国道17号線にはさまれた地域。足立郡鴻巣領に属する(風土記稿)。「元宿村」とも記され、村名は嘗ての宿駅にちなむ。因みに田園簿には「本鴻巣村」と記されている。
 1丁目と2丁目の間を中山道が走り、このあたりが近世本宿の集落が発達していたところで、今も何戸かの屋号にその名残りをとどめている。2丁目には、鴻巣警察署北本幹部派出所、北本市商工会、市立図書館(昭和49年開館)、古くからの集落北本宿の鎮守の天神社・新義真言宗宝塔山多聞寺があり、寺院境内に県指定天然記念物のムクロジがある。
        
                               本宿天神社神明系の一の鳥居
 社は駅前近くの繁華街に鎮座しているにも関わらず、欅などの大木が大切に保存され、静かな神域を保っている。
 
  一の鳥居の右側にある「本宿天神社の幟」    案内板の隣には社号標柱あり。
       が設置されている。
 本宿天神社の幟〈北本市指定文化財〉
 維神之霊涉在天 文久元年酉年夏六月富所氏子中
 聖徳寔馨降格地 雪城澤俊卿書
 北本市教育委員会は、平成二十八年六月二十四日の定例教育委員会において、本宿天神社が所蔵している幟を市指定文化財(有形民俗文化財)に指定しました。
 幟の文字は江戸時代後期に活躍した書家・中沢雪城によるもので豪快な筆使いによる書体は迫力があり、見るものに強烈な印象を与えます。大きさは長さ8m、幅0.8mで、材質は幅広に織られた木綿が使用されています。
 雪城は江戸を中心に活躍した越後長岡藩出身の書家で、「幕末の三筆」の一人、巻菱湖の高弟、俗にいう「菱湖四天王」の一人です。幟の奉納は文久元年(一八六二)六月とあり、皇女和宮降嫁の折、歓迎の意を込めてこの幟を揚げたと伝えられています。
 この幟は、①書家の評価が高いこと、②書家の筆跡を知るうえで貴重な資料であること、③保存状態が良好であること、④市内に残る江戸時代の幟として希少であること、などの理由からその文化財としての価値が認められたものです。
                                      案内板より引用
        
 本宿天神社の創立は、岡野家に伝わる『神社由緒書』によれば「寛文2年(1662)当時ノ領主三上筑前守敬神ノ念篤ク特二京師北野天神ヲ崇敬セリ依テ当地ノ領主タルニ当り当地ノ風致ヲ採り領地アリ五穀豊穣ノ祈願トシテ…」とみられている。しかし、この本宿村の領主三上筑前守は、文政年間(181824)の領主で、年代にずれがあり、その実際の沿革は不明である。ただ昭和45年本殿改築の折に工事の邪魔となることから、現手水舎の隣にあった御神木を倒しているが、その年輪が450年ぐらいあったことからして江戸時代(16031867)の頃からあったことは推察される。
 昭和30年代には、宝登山神社・稲荷社・大国真大神・猿田彦命など数社を末社として境内に勧請している。また昭和52年には、弁財天社も勧請している。
 嘗て絵馬なども多く奉納されていたというが、明治初期の神仏分離の折に処理され今日に至っている。『新編武蔵国風土記稿』によれば、天神社は当時、隣接する多聞寺持となっている。
        
           参道の先にある朱を基調とした木製の二の鳥居
     二の鳥居の正面には社務所があり、社殿はその手前で左側に鎮座している。
 
       二の鳥居の左側には天圀蔵五柱稲荷大神社が鎮座(写真左・右)
 参拝当日は気づかなかったが、稲荷大神社に向かう参道右側には、嘗て存在していた樹齢450年程の大杉のご神木があったようだ。昭和45年社殿改築の際に倒木、現在は根本のみの切りかぶのみとなっているとの事だ。
 
 天圀蔵五柱稲荷大神社と社殿の間には手水舎があり(写真左)、その右手には「算額」の案内板が設置されている(同右)。社には自らの由緒を記した案内板の他、各地域での算額を記したものも多数見かける。江戸時代から和算の普及により、庶民レベルまでも数学に対する知識も高かったことが、このような案内板からも伺い知ることができよう。

 北本市指定有形民俗文化財 算額   昭和五十三年三月十五日指定
 算額は和算家が問題と解法を記して神社仏閣に奉納した絵馬や額のことである。これは難問が解けたことへの感謝や勉学向上の祈念、また和算における成果発表などのために掲げられた。
 和算は江戸時代中期以降に関孝和(一六四三~一七〇八)らによって発展した日本独自の数学を意味し「算学」と呼ばれ、明治時代中頃になってもこれを学ぶ社中(塾)が各地にあった。
 当天神社に所在する算額は横一七八cm、縦八八cmという大型のもので、明治二十四年(一八九一)に奉納されている。内容は杉の柾目板に十二問が記され、そのすべてが、組合わされた図形から答えを導き出す平面幾何の問題である。
 算額掲示の発起者は本宿在住の清水和三郎及び林専蔵であり、これに名を連ねる解答者は本宿八名、ほかに北中丸二名、桶川の小針領家一名となっている。当地における算学研究が盛んであったことを証明する貴重な資料である。
 平成二十七年三月 北本市教育委員会
                                      案内板より引用
        
                     拝 殿
        
 天神社 御由緒  北本市本宿二--七
 □御縁起(歴史)
 北本宿は、慶長七年(一六〇二)に鴻巣宿に宿駅が移るまでは中山道筋の宿場であった。江戸時代の元宿村(明治二十二年に北本宿と改称)は、宿場の中心地に当たり、当社はその鎮守として祀られてきた神社である。
 元宿村の名主は、「機屋」の屋号を持つ岡野家で、当主の正家で二五代を数える旧家である。同家は、初め氏神として稲荷社を祀っていたが、そこに寛文二年(一六六二)ごろ、領地安全と領民の無病息災・五穀豊穣を祈願して、京都の北野天神社の分霊を勧請して祀ったのが、当社の始まりであると伝えられる。したがって、当社は元宿村の鎮守であると同時に岡野家の氏神でもあ ったため、この岡野家やその分家では邸内に氏神を祀っていない。
江戸時代には、当社の東南に隣接する多聞寺の持ちとして、同寺の管理を受けていた。『風土記稿』元宿村の項に「天神社 多聞寺持」とあるのはそうした状況を示すものである。
 この多聞寺は、多聞律師が文永年間(一二六四-七五)に創立したと伝えられる真言宗の寺院で、本尊は毘沙門天である。神仏分離の後は同寺の管理を離れ、明治六年に村社となった。太平洋戦争後、社殿の老朽化が目立ってきたため、中丸小学校の奉安殿を移築して本殿とした。本殿の御扉に菊の紋が入っているのはそのためで、拝殿も昭和四十三年に再建された。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                                       神楽殿
 本宿天神社獅子舞は、一頭立ての大神楽獅子舞で、本宿天神社に伝わる伝統芸能である。
 愛知・熱田神宮に起源を持つという関東地方の大神楽は、現在、寄席の芸能として有名な江戸太神楽と、茨城県指定無形民俗文化財、茨城県・水戸大神楽が知られているが、かつては千葉、群馬、埼玉、栃木にも、この系統の大神楽の組があった。――明治期、〈丸一〉と称されるほどの本格的な太神楽が、川越にはこの丸井太神楽のほか見当らないことからしても、本宿天神社獅子舞は、この組に関係する人物から伝承したものであると推察される。
 本宿天神社獅子舞は、幣舞、蝶舞、蚤取り、ヒョットコの獅子釣り、狂い獅子で構成されていたが、平成二十一年〈おかめの舞〉を復興させた。面だけが残されていたところ、従来から伝わる岡崎の囃子に舞と笛を乗せ再構成したもので、内容は、おかめの羽根突きである。なお、おかめの舞の岡崎は、その後につづくヒョットコの舞に比べゆっくりと叩かれる。そこに乗せられる篠笛の民謡・童謡は十数曲に及ぶが、お正月の曲にはじまり、春夏秋冬を表現したものである。
 囃子連の演じる獅子舞としては、県内では珍しい、歴史ある本格的な芸能として近年注目され、よくある、江戸囃子の囃子連が、見様見真似で行う屋台囃子、馬鹿囃子の獅子舞とはちがい、ここの獅子舞には幣舞があり、本格的な〈蚤取り〉の舞も伝承している。このような太神楽獅子は、埼玉県内では類を見ない、大変貴重なものであるという。
 

    境内社・天五色辨財天大神社       境内社・三社大口真大神社、登山神社
        
                     本 殿


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「北本市HP」「北本デジタルアーカイブス」
    「Wikipedia」「境内案内板」等



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