古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

鎌塚八幡神社


        
            ・所在地 埼玉県鴻巣市鎌塚428
            ・ご祭神 誉田別命
            ・社 格 旧鎌塚村鎮守 旧村社
            ・例 祭 新年祭 16日 大祓 626日 1226日 例大祭 914
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1110077,139.4521216,18z?hl=ja&entry=ttu
 鴻巣市の鎌塚地域はJR高崎線吹上駅の北側にあり、元荒川を境としてその以北に位置し、国道17号線を越えて上越新幹線までの間が地域として南北の境となる。因みに「新編武蔵風土記稿」では旧吹上町鎌塚地域は、江戸時代「鎌塚村」と云い、東は下忍村、西は大井村、北は持田村、南は元荒川を限て足立郡吹上村と、夫々境を接していたという。
 鎌塚村を「風土記稿」で調べる際には吹上村が属する「足立郡」にはなく、「埼玉郡」内に属するので、調べる際にも地域の歴史を知ることは必要だ。
        
        国道沿いではあるが、道路からやや離れたところにある一の鳥居。
 鎌塚八幡神社は国道17号線の道路沿いで、市街地内に鎮座していて、位置的にはJR吹上駅の真北1㎞程の場所である。国道17号線を吹上市街地方向に進み、「鎌塚」交差点を過ぎて「鎌塚(南)」交差点の手前のT字路を左折、鎌塚集会所の東側に隣接するように境内がある。駐車スペースも集会所周辺にあり、そこの一角に車を停めてから参拝を行った。

 市街地内にありながら、宝績院という寺院とも接している関係からか、その境内は市街地とは違う空気感が一帯には漂っている。但し近代的な建物が立ち並ぶ中でも、不思議と違和感なく古い寺社が地域に上手く溶け込んでいるところが、いかにも今の日本を象徴していようで、ごく自然と参拝にも厳かな気持ちで臨めた。
        
               
一の鳥居から並んで二の鳥居、三の鳥居が続く。
 
       
                   
三の鳥居を過ぎるとすぐ正面右側に聳え立つご神木
 ご神木の存在は、社殿同様その地の歴史の深さを語る上でも象徴的な存在だ。このような老木・巨木がこの地にある事で、境内の空気感を一瞬にして変化させ得る「装置」ともなっているようにも思える。
            
                  社殿側からご神木を撮影。
 このアングルから見るご神木の威容は、少しは筆者の思いの何割かは理解して頂けるであろうか。
        
                             参道から社殿を望む。
 
 参道左側にある「境内碑」。よく読み取れず。     社の東側に隣接する宝積院。
        
                                     拝 殿
        
                                    案内板
八幡神社 御由緒     鴻巣市鎌塚四二八
□御縁起(歴史)
当社の創建の年代は不明であるが、口伝によれば、鎌塚地内の石川家の先祖の出身地である大阪府羽曳野市の誉田八幡宮を当地の宝積院境内に、地域の氏神として勧請し祀ったことに始まるという。石川家は、江戸期に名主を務めており、宝積院の維持にも深く関与していた。
旧社殿の棟札には、元禄一〇年との記載のあることから、今から三百年以上前に旧社殿は建築されたことになる。
文政十一年(一八二八)の古文書には、「八幡社 村の鎮守なり 宝積院持」との記述がある。
明治初年、当社が宝積院の境内地にあったことから、神仏分離政策の下、当社の御神体は移転を余儀なくされ、一旦、本倉稲荷神社へ遷座され、それまで鎌塚にあった他の四社とともに五社合殿して祀られていた。しかし、その後、時の総代石川茂十郎ら鎌塚村の人々の尽力により、国に上地されていた旧地の払い下げを受け、明治七年再び元の地に戻されて祀られることとなった。
旧社殿は昭和四十一年の台風により倒壊したが、鎌塚地区内外の氏子の協力によって社殿および集会所が昭和四十六年に完成し、遷宮式を盛大に挙行した。
「巫女の舞」は、その社殿再建を記念して、時の町内会長、婦人部有志により、浦安の舞の指導者を招いて、舞いを奉納したのが始まりである。毎年、九月十四日の例大祭において、鎌塚在住の小学四年生の女子児童により、舞が奉納されている。
今日まで、鎌塚地区の住民は、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・無病息災・生涯の幸せを祈願し、祭礼等には、多くの人の輪を広げ、親睦を深めてきた。
□御祭神
・誉田別命(第十五代応神天皇)
                                      案内板より引用

 案内板に記載されている「石川家」は、鎌塚地域に長く土着している在地
名主であったようであり、「宝蔵院」嘉永六年供養塔に石川覚三郎、明治二年名主石川茂十郎。明治九年戸長石川茂十郎・文政九年生、副戸長石川新兵衛・嘉永元年生、副戸長石川治郎八の名前がある。
 
    拝殿上部に掲げてある扁額       拝殿向拝部にもさりげなく彫刻が施されている。
        
          社殿左側に並んで祀られている境内社群。詳細不明。


 鎌塚八幡神社が鎮座する「鎌塚」という地域名も意味深である。「鎌」のつく地名で「鎌倉」が一番有名な所だが、この「鎌倉」は奈良時代から平安時代にかけてみられていて、「万葉集」には「可麻久良」、日本最初の漢和辞典の「和名抄(わみょうしょう)」には「加末久良」と記されている。
「鎌倉」の地名の起こりについては諸説があるが、地形に由来を求める説が有力と思われている。
浸食地形・崩壊地形を示す地形用語で、「鎌(かま)」は「えぐったようながけ地」で、「市街は溺れ谷の埋積低地にのり、周辺に向かって〈やつ・谷〉とか〈やと・谷戸〉と呼ばれる多くの侵食谷の発達が特徴的」であることが鎌倉の由来になっているという説。

 地形以外にも
滋賀県大津市の比叡山(ひえいざん)にも「神倉」、「神庫(かみくら)」が転訛したものとされる鎌倉という地があり、鎌倉にも同様に神庫と呼ばれるものがどこかにあったのではないかという説。
蒲(がま)という植物がいっぱい生えていたからという説、また、鎌倉の近い高座郡が昔は、高倉(たかくら)、または高麗(こま)と呼ばれていたので『こまくら』が転訛した、あるいはアイヌ語に由来する、という説。

その他にも「伝説的な説」として「藤原鎌子」に関連する説等、あるようであるが、どれも実証的な信憑性に欠け、推測・仮説の域にしか達していない。
        
                                   拝殿からの一風景

 鎌塚地域は南側には元荒川、そしてその支流で東側に「前谷落」という河川が合流する地点の西側に位置している。この「前谷落」は行田市・持田地域のかんがい流末と都市排水を源流として、行田市郊外を南下して、吹上町鎌塚地域で元荒川左岸に合流する。「前谷落」の流域一帯は一面の低地であり、都市化は進行してはいるが、まだ氾濫原跡を思わせる地形が少しは残っていて、現在それらは広大な水田となっている。「前谷落」の流域一帯の平均標高は17m程。その西側に位置するJR高崎線上の標高が18m程で、自然堤防上に鎮座している鎌塚八幡神社社殿付近でも19.4m程しかない。南側の元荒川北側で19m程であるため、元荒川周辺より低いのだ。
 この低地(氾濫原跡)は嘗て土地開発が未熟な時代に、忍川の流路が乱流していて不定だった頃の名残りでなないかとの説もあり、その地域に「鎌塚」も含まれている。

「鎌塚」の「鎌」は浸食地形・崩壊地形を示す地形用語で、河川氾濫地域であることを、先祖の方々が後世我々に教えようとして、この名前にしたのかもしれない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「鎌倉市公式HP」「Wikipedia」「境内案内板」
                

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新たに再編集いたしました。

 日高市に鎮座する高麗神社、毛呂山町に鎮座する出雲伊波比神社、ときがわ町に鎮座する萩日吉神社、滑川町に鎮座する堀の内羽尾神社月輪神社大雷淡州神社、深谷市に鎮座する武蔵野足高大神社上野台八幡神社長在家稲荷神社黒田豊栄神社上原白髭神社を再編集いたしました。


 内容はほぼ変わっていませんが、新たな案内板等掲示しています。また写真の画像を編集いたしまして、改めてアップいたしました。

 今後とも宜しくお願いします。

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袋神社


        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市袋248
              
・ご祭神 稲田姫命
              
・社 格 旧袋村鎮守 旧村社
              
・例 祭 神武祭 43日 大祓 620日頃 12月 夏祭り 715日
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0995013,139.4676917,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線を北鴻巣方向に進み、埼玉県道307号福田鴻巣線が合流する「袋」交差点を左折する。この交差点付近には、県道沿いにショッピングモールや家電センターもあり、途中経路として最適な場所だ。交差点を左折後、道なりに300m進むと左側に袋神社が見えてくる。
 周辺は住宅街が並ぶ一角に鎮座する社。鳥居の先には駐車スペースもあり、そこの一角に車を停めてから参拝を行った。
        
                    袋神社正面
 この地周辺を確認すると、袋神社の西側で、国道17号の東側に国道に沿うように元荒川の旧河道跡が残っている。昭和初期に行なわれた元荒川・支派川改修事業で、元荒川の蛇行区間を直した祭に残ったものという。現在旧河道の跡は、水辺公園として整備されている。
 袋地域は元荒川が北へ流れを変える部分の西側に位置し、地名は元荒川が大きく蛇行して袋状になっていることに由来するという。また周辺地域には「前砂」「砂山」という地名もあり、旧荒川の氾濫等で土砂を堆積された地形が地名になったことが伺え、どちらにしても河川に関連した地名由来であることは間違いなかろう。
 
          袋神社参道             参道途中には石祠群が並んで鎮座
                          左から天満天神 塞神 雷神 宇賀神
            
                    
袋神社碑
         袋神社碑      從三位勲一等男爵澁澤榮一篆額
        秩父之山嶢突兀崒然矗峙於莽蒼之中刀根之水渺瀰回縈汪焉奔注

        于廣野之間斯山斯水襟帯流峙闢成曠區曰武蔵野我下忍邨大字袋其
        一聨邑也古荒川之水還流為境形若括囊故名云居民素樸勤業奉公敬
        神四鄰嚮為規範郷内素有女體伊奈利諏訪天神雷氷川六祠歳時伏蠟
        敬祀奉誠明治四十五年官命合祀諸祠於女體神社大正二年改稱袋神
               社為一郷之珹隍越二年大正四年秋  天皇舉登極之大典郷人感誠
        醵資興工新構祠宇至五年二月工畢矣今試賽斯祠仰望秩嶺之矗峙乎
        天際俯覩刀水之貫流于曠野崇髙之氣勁正之節自生孤髙介特之風範
               顧日露之役壮丁従軍老弱報效闔郷一致使我閭閻永與山川媲美者咸
        敬神奉公斯倚也傳曰國之大事在祀與戒是此之謂歟銘曰(以下略)
               石碑文より引用
        
                     拝 殿
        
                                   袋神社 御由緒
 袋神社 御由緒 吹上町袋二四八
 □御縁起(歴史)
当地は元荒川が北へ流れを変える部分の西側に位置する。地名は元荒川が大きく蛇行して袋状になっていることに由来する。村の開発の年代は明らかでないが、慶安二-三年(一六四九-五〇)の『田園簿』には一村として載る。また『元禄郷帳』には当村とは別に袋新田が見え、元禄十五年(一七〇二)以前に当村から分村したことがわかる。
 当社は、元は女体社と称していた。その創建の年代は明らかでないが、境内にある最も古い石造物は「奉寄進石燈籠 宝永五戊子年(一七〇八)十月日施主村中」と刻まれる社前の灯籠である。『風土記稿』袋村の項を見ると、村内の神社について「女体社 村の鎮守なり、祭神は稲田姫命、西福寺持、末社辨天〇諏訪社〇稲荷社〇雷雷社〇天神社 以上五社西福寺持」と記されている。これら各社の別当であった西福寺は、当社の南西五〇〇Mほどの所に堂を構える真言宗の寺院で、女体山阿弥陀院と号する。寺伝によれば、天正年間(一五七三-九二)のころ、指田三郎左衛門の地所に墓地を設け、その中に阿弥陀堂を建立した。
 その後、慶長十八年(一六二ニ)法印秀海の求めに応じて、その地に不動明王を本尊とする本堂を建立した。
 神仏分離を経て当社は明治五年に村社となり、同四十五年には字道上の諏訪神社、字前屋敷の伊奈利神社と氷川神社、字台の雷神社と天神社の計五社の無格社を合祀し、大正二年に社号を袋神社と改めた。
 □御祭神と御神徳
 ・稲田姫命…五穀豊穣、縁結び、家内安全
                                      案内板より引用

 袋神社のご祭神は稲田姫命という。正式名は櫛名田比売で、別名として奇稲田姫、稲田媛、眞髪觸奇稲田媛、久志伊奈太美等与麻奴良比売命との記載もある。櫛名田比売(くしなだひめ)は、日本神話に登場する女神であり、高天原を追放されて出雲に降り立ったスサノオが、ヤマタノオロチという怪物に毎年娘を食われている大山津見神の子である足摩霊(アシナヅチ)・手摩霊(テナヅチ)の夫婦と、最後に残った娘である櫛名田比売と出会う。夫婦の話によると、もうじき最後に残った末娘の櫛名田比売も食われてしまう時期なのだという。哀れに思うと同時に、愛しくなったスサノオは、櫛名田比売との結婚を条件にヤマタノオロチの退治を申し出た。スサノオの素性を知らないアシナヅチとテナヅチは訝しむが、彼がアマテラスの弟と知ると喜んでこれを承諾し、櫛名田比売をスサノオに差し出す。その後スサノオによりその身を変形させられ、小さな櫛になり、スサノオはこの櫛を頭に挿してヤマタノオロチと戦い退治する。
       
                 社殿の右側にある御神木
     袋神社のご神木であり、同時に「鴻巣市保護樹林」に指定されている銀杏の木

 名前は通常、『日本書紀』の記述のように「奇し稲田(くしいなだ)姫」すなわち霊妙な稲田の女神と解釈される。 原文中では「湯津爪櫛(ゆつつまぐし)にその童女(をとめ)を取り成して~」とあり、櫛名田比売自身が変身させられて櫛になったと解釈できることから「クシになったヒメ→クシナダヒメ」という言葉遊びであるという説もある。さらに、櫛の字を宛てることから櫛名田比売は櫛を挿した巫女であると解釈し、ヤマタノオロチを川の神として、元々は川の神に仕える巫女であったとする説もある。
 もうひとつは、父母がそれぞれ手摩霊・足摩霊と「手足を撫でる」意味を持つ事から「撫でるよ
うに大事に育てられた姫」との解釈もあり、倭撫子(やまとなでしこ)の語源とされる。

 古事記、日本書紀共に記されているこの素戔嗚尊と櫛名田比売の物語は、天つ神と国つ神の結婚が、やがて日本を作った大国主尊の誕生に繋がるということを伝えたかったと考えられる。そしてその基盤こそが古くからの稲作儀礼であったことを強調するための物語といえるのではなかろうか。

       
              
社殿の左側で道路沿いにある御神木
     こちらも袋神社のご神木であり、同時に「鴻巣市保護樹林」に指定されている銀杏の木

  日本各地の多くの神社では、稲田の神として信仰を集めており、日本各地の神社で祀られている。そのほとんどが、全国にある氷川神社がその代表であるように、夫のスサノオや子孫(又は子)の大国主などと共に祀られているケースが多く、櫛名田比売を主祭神として単独で祀る社は少ない。
 鴻巣市袋地域に鎮座する袋神社は嘗て「女体社」と称していた。奇しくも埼玉県さいたま市緑区にある「氷川女體神社」と同じ名称であり、ご祭神も共に稲田姫命(櫛名田比売の別名)が祀られている。
 袋神社の持ち寺だった西福寺の山号は、「女体山」である。女体とは古代からの信仰であり、船霊を祀る場合が多いともいう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」


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小谷日枝神社

 鴻巣市小谷地域は、荒川中流域の左岸に位置し、標高は16m18m弱と沖積低地に属している。周囲は一面田園風景が広がり、荒川土手上にはサイクリングや散歩、ウォーキングを楽しむ姿が多くみられる。
 当地域の南側を流れる荒川は、江戸時代前は現在の元荒川の流れが主流だった。江戸時代に入り、関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、現在の元荒川を流下していた河道を、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるように瀬替えを行なったもので、「荒川の西遷」と呼ばれている。
 荒川の河川舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた反面、時に起こる大水はこの地域を直撃して堤防決壊を繰り返す。「吹上町史」等に記録された被害だけでも「安永9年(1780)」「万延元年(1860)」等度々水害に遭った。旧吹上町の地形は、市街地の北側より、南方向へ行くにつれ標高が緩やかに低くなるため、当地域は水害をまともに受け、水が引くにも時間がかかり、低湿地状態が長時間続くことになる。
「吹上町史」による地名由来として、「元禄年間までは『小屋』と書いたのも見えるが、低湿地を意味する『谷』のほうが適切であろう」と記載があるのも当然頷けるものだ。
 このように水害の被害が多発する小谷地域であり、当時の生活は当然苦しかっただろうと想像できるが、実はこの地区だけでも「市指定文化財」は「仁治三年双方式板碑」「小谷城跡」「小谷ささら獅子舞」の3つあり、更に2022217日「日枝神社本殿」も市の文化財に指定されている。文化財は人々が守り伝えてきた証でもあり、小谷に住んでいた先祖の方々が、苦労しながらも当地域の文化を大切にしていたことを如実に証明している生き証人でもあろう。
        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市小谷1505
              
・ご祭神 大山咋命
              
・社 格 旧小谷村鎮守 旧村社
              
・例 祭 祈年祭 2月中旬頃 大祭 72425日 
                   
新穀感謝祭 1123日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0813999,139.4663012,16z?hl=ja&entry=ttu
 小谷地域は旧吹上町南部に位置する。「新編武蔵風土記稿 小谷村条」では「東は箕田村、南は糠田村及び横見郡今泉村にて荒川を境とす、西も又川を隔て、同郡一ツ木・地頭方の二村に至り、北は当郡(箕田郡)大芦・三町免・明用・前砂・中井の五村に接せり」と記載され、比較的広い地域であるが、地域の半分である荒川左岸一帯は土手で区切られており、土手から東側に住居が点在している。その地域中央付近に小谷日枝神社は静かに佇んでいる。
 地形を確認すると一ツ木荒神社のほぼ北方にあり、直線方向で1.5㎞くらいしか離れていないが、間に荒川が横たわっており、残念ながら直に通ずる道路はない。
 一旦明秋神社まで戻り、埼玉県道
76号鴻巣川島線に合流して北上し、糠田橋を越えて、「関東工業自動車学校」前の斜めに抜ける道を左方向に進み、「上武水路」に達した後は水路に沿ってまた北上する。イタリアンレストランを越えた次のT字路を左折し、西方向に500m程進むと小谷日枝神社の社叢林が見えてくる。
        
 
        小谷日枝神社正面         一の鳥居には「日枝神社」の社号額あり。
    一の鳥居と二の鳥居が近距離に立つ。
        
                                小谷ささら獅子舞の案内板
 鴻巣市指定無形民俗文化財  昭和四十年十一月十七日指定
 小谷ささら獅子舞
 主として五穀豊穣の祈願、悪疫退散の神事として各地で行われる獅子舞は、平安時代には宮廷や寺社で行われ、室町時代になって民間に広まった。
 それ以後はそれぞれの時代ごとの庶民の願望や土地ごとの気風などを反映させながら発展をとげていった。
 竹を細く割って作った「ささら」をすり合わせて踊る小谷のささら獅子舞は、三百年ほど前から伝えられてきたが起源は不詳である。
 豊作を神に感謝するとともに無病息災、家内安全を願って毎年十月中旬に日枝神社に獅子舞や棒術、刀術、槍術が奉納される。獅子踊りに入る前の様々な所作、寸劇、掛け声等はよくその型を伝えており、貴重な民俗芸能である。
 また、関東地方の獅子舞はほとんどが三頭で舞うが、この獅子舞は五頭であることが特徴である。      平成二十四年二月 鴻巣市教育委員会
                                      案内板より引用
 関東で風流の獅子というと3頭が多いが、こちらの獅子は5頭。昔は7頭で舞っていたというが、水害で2頭が流されてしまったと言われている。
        
                    境内の様子
      沖積低地に鎮座するためか、社殿には高台が造られ、周りは石で補強されている。
             
      参道左側には、江戸時代の俳人である加舎白雄の歌碑がある(写真左側の石碑)
 加舎白雄(かや しらお)は上田藩士加舎家の二男として江戸深川に生まれた。(元文3820日(1738103日)‐寛政3913日(17911010日))
 俳人として松尾芭蕉の真価を認め、芭蕉こそが俳譜の大成者であり、これからの俳譜は芭蕉風(蕉風)でなければならないことを主張、実践した人物である。
 今日「俳句=芭蕉」という小学生でも知る常識を、広く一般に定着させたのが白雄であったということである。
 実際に白雄の行動は、東奔西走し、広く全国各地に及び、芭蕉の歩いた土地はほとんど訪れているといい、その際にこの吹上の当地域にも訪れて詠んだと推測されている。

                              咲きしより冬野を超てとひし梅


        
                     拝 殿
 毎年のことなのか、兎年ということで拝殿の正面の壁には兎の絵が飾られている。鎮守社としての地域の方々との強い繋がりを感じると共に、印刷物でないほのかな人間の温かみを感じる絵柄だ。
        
                           拝殿手前に設置されている案内板
 日枝神社 御由緒 吹上町小谷一五〇五
 □御縁起(歴史)
 小谷は、荒川と元荒川の間の低地帯に位置する村で、古くは箕田村の一部であったという。その地内には、忍城主成田氏の家臣の小宮山内膳の居域と伝えられる小谷城跡があり、その近辺には、「城山」「小城沼」「元屋敷」「仕置場」たど、城に関係した地名が見られる。
 この小谷の鎮守として祀られてきた神社が当社であり、元来は山王社と称していたが、神仏分離によって明治初年に日枝神社と改めたが、氏子の間では今でも「山王様」と呼ばれている。『風土記稿』小谷村の項には「山王社 村の鎮守なり、稲荷社 天王社 雷電社 稲荷社」と載り、寺院との関連は記されていないが、恐らくは当社のすぐ西にある金乗寺が祭祀にかかわっていたと思われる。
 寛永六年(一六二九)に荒川の瀬替えがあるまでは、幾度も洪水に見舞われてきたためか、当社の創建に関する資料は現存しない。内陣に「正一位山王宮」と刻まれた金幣が安置されているところから、江戸時代には、正一位の神階を受けたものと思われるが、残念ながら、その時期は不明である。また、この金幣と共に、「正一位雷電宮」と刻んだ金幣も安置されているが、これは明治四十年に字上新田から合祀された雷電社のもので、この年、字堤根の阿夫利社と字八丁免の衢ノ神社も当社に合祀された。なお、当社は、小谷城跡から見て東北の方角にあるため、城の鬼門除けとして祀られた社との見方もできる。
 □御祭神と御神徳
 ・大山咋命…五穀豊穣、健康良運
                                      案内板より引用
 
      拝殿に掲げてある社号額        拝殿正面には新聞記事が掲示されている。
「国宝の聖天堂そっくり 眠る本殿に彫刻 同じ大工の制作か」
 鴻巣市小谷(こや)の日枝(ひえ)神社の覆い屋の中に、国宝の妻沼聖天山(熊谷市)の聖天堂にそっくりな本殿が眠っている。本殿を保護する覆い屋は長年"開かずの間"になっていたが、昨年氏子が掃除した際、本殿に聖天堂と同様の彫刻が四方に施されているのを見つけた。研究者は、聖天堂の建築に携わった大工や彫刻師との関わりを指摘している。
(中略)昨年5月に神社の総代が交代し、8月に総代長の佃三郎さん(71)や総代の吉田豊さん(71)らが、宮司の立ち合いで覆い屋の中を片付けた。すると、彩色が施された彫刻で本殿の四方が飾られていることが分かった。正面に竜、側面や背面に布袋や大黒、七福神などの彫刻。すごろく遊びの彫刻は妻沼の聖天堂とモチーフが共通している。氏子の依頼で現地を訪れた、ものつくり大学技能工芸学部建設学科の横山晋一教授は「屋根の形式も聖天堂の奥殿と同じ」と指摘する。
(中略)
門前で父の代から酒店を営む吉田さんは、神社への思いがひときわ強い。「この時代に総代になったことに使命感を感じる。(本殿を守ることが)達成できるように力を120パーセント振り絞りたい」と話している。
                        拝殿新聞切り抜き 「埼玉新聞」記事から引用
 
          拝殿前の両脇に並んで設置されている石灯篭、石碑等。
 
社殿の右側に鎮座する境内社・石祠。詳細不明。     社殿左側に鎮座する合祀社
                      左より三峰神社・稲荷神社・天満天神社・白山神社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「広報こうのす 令和44月号」
    「大人の地域再発見誌 こうのす」「Wikipedia」「境内案内板」 

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一ツ木荒神社

 奥津日子神と奥津比売命は大年神の御子神で、『古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。
 奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)
奥津日子神・奥津比売神は、日常の食べ物を煮炊きし、命をつなぐ大事な竈(カマド)を司る神である。 昔は朝廷にも篤く崇敬され、民間でも各家の台所()の守護神として大切に祀られていた。
 奥津日子神と奥津比売神は、薪を燃やして煮炊きする台所が主流だった時代にその台所で使う火に宿る神霊で、一般には「竈神」と知られている。
 竈神というのは大変に古い神で、我々の祖先が土間で火を使う生活を始めたときから信仰されてきた。 台所の火を司る竈神は、火を使って調理される食物を通して、家族の生活の全てを支配する力を発揮する存在だった。 だから、『火防せの神』としての機能は勿論のこと作神(豊穣神)、家族の守護神として信仰されたのである。
 奥津日子神、奥津比売神に関して神話には詳しい事績が記されていない。 おそらく朝廷から庶民までよく知られた神である竈神と同じ神霊だったから、今更説明する必要がなかったのかもしれない。 その一般に馴染みの竈神という点から見てみると、その性質は、穢れ(けがれ)に敏感で、人がその意に反した行いをすると激怒して恐ろしい祟りをなすと信じられている。 そういう性質から竈神は、『荒神』と呼ばれている場合も多い。 荒神というのは、火所を守護する神聖な神である三宝荒神のことだ。 三宝荒神は、主に修験道や日蓮宗が祀った神仏習合の神である。 ふつう如来荒神、鹿乱(カラン)荒神、忿怒(フンヌ)荒神のこととされ、この神は仏教信仰の柱である仏、仏・法・僧の「三宝」を守るのが役目である。
 三宝荒神も、清浄を尊び不浄を嫌うという非常に潔癖な性質とされている。 それが、古来、不浄を払うと信じられてきた火の機能と結びつき、日本古来の民間信仰である竈の神(火の神)と結合された。
 住居空間では竈は座敷などと比べて暗いイメージがあることから、影や裏側の領域、霊界(他界)と現世との境界を構成する場所とし、かまど神を両界の媒介、秩序の更新といった役割を持つ両義的な神とする考え方もある。また、性格の激しい神ともいわれ、この神は粗末に扱うと罰が当たる、かまどに乗ると怒るなど、人に祟りをおよぼすとの伝承もある
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町一ツ木236
             ・ご祭神 
火産霊神 澳津彦命 澳津姫命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 不明

 一ツ木氷川神社から北西方向に200m程先に位置し、荒川右岸の堤防を背にして鎮座している。丁度「吉見総合運動公園パークゴルフ場」のすぐ西側の場所に静かに佇む。社としてはそれ程大きな規模ではなく、角地にある小さな社という印象。
 創建は、原家の鬼門除けとして祀られたことに始まると伝えられる。
        
                                    一ツ木荒神社正面
            
                 
一ツ木荒神社社号標柱
 
      静かな境内の一風景           「荒神社改築記念碑」

 荒神社改築記念碑
 一ツ木氏子中は〇に、氷川神社の改築に奉仕し続けて唱和六十一年、荒神社の新築並びに境内の整備工事を献ず。
 而して一ツ木は昭和五十年代、農業改善に関連する、県営場整備事業が、企画されるや、率先之に参画し以って速やかな土地改良をみるに至れり、加えて部落宮川池の一部を、公共用水路として提供し代償として金五百六十八万八千円を取得す。
 是を以って全氏子賛同し、荒神社改築に充つ。
 即ち
 一 奥殿・幣殿・拝殿並びに向拝新築
 一 境内積土整備
 一 境界側壁工事
 合計 金四百七十六万三百六十円也。
*句読点等は筆者が加筆。
                                      案内板より引用
        
                                       拝 殿

 荒神社 吉見町一ツ木四八六
 当社は荒川堤防を背にして鎮座している。創建は、原家の鬼門除けとして祀られたことに始まると伝えられる。
 原家については、『風土記稿』一ツ木村の項に「旧家者徳太郎 当村草創の民なり、先祖勘解由良房は武田家人原隼人正が子孫なり、甲州没落の後、久しく当郡松山に住す、文禄年中(一五九二-九六)当所に土着して、民家に下る、其後良房慶長六年(一六〇一)七十一歳にして卒す、其子右馬祐良清は寛永十六年(一六三九)六十五歳にして卒す、墳墓竜ケ谷にあり、此正統は則徳太郎なり、良清が次男原五郎兵衛良親が子孫は、今名主作兵衛是なり」と記されている。また「天正庚寅松山合戦図」の北曲輪の守備に原勘解由良房・原左馬祐良清の名が見え、恐らく松山落城により一ツ木村に土着帰農して草分け名主として開発に当たったものであろう。
 その後、村の開発が進む中で、当社は村の鎮守として崇敬を集めるようになり、『風土記稿』には「是も(村の)鎮守なり、 長泉寺持」と載せられている。これに見える別当の長泉寺も原家の開基であり、万治年中(一六五八-六一)に創建されたと伝えられる。
 神仏分離により長泉寺の手を離れた当社は、明治四年六月に村社となった。

                                  「埼玉の神社」より引用
               
                               拝殿に掲げてある扁額

 原隼人佑昌胤(はらはやとのすけまさたね ?~天正3521日)は戦国時代、甲斐国武田晴信(信玄)・勝頼2代に仕えた武将で「武田二十四将」の1人。信虎に仕えた譜代家老原加賀守昌俊の子で、信玄に登用された。武田軍の陣立てなどを立案する陣場奉行を命じられ、信玄の側近、奉行としても活躍した。信玄の晩年には、山県昌景とともに、武田家の最高職である両職を担った。天正3年(1575年)長篠の合戦で戦死した。
 一ツ木氷川神社でも説明したが、この一ツ木地域は、武田氏滅亡後の文禄年中(1592-1596)当所に土着した原家が、一ツ木村に移り住み、当地を開拓、原家の鬼門除けとして祀られたという。武田信玄の家臣である原家にまつわる竜神伝承もある。
 
 拝殿の両側には幾多の石碑が並べて置かれており、右側(写真左)には「塞神」の祠が3基あり(右から2番目は詳細不明)、左側(同右)には、左より「〇〇大明神 稲荷大明神・八坂神社・九頭龍大権現」と記された祠が3基並んで置いてある。
       
                       道路沿いには巨木が聳え立つ。
         嘗てはこのような巨木・老木は道標となっていたであろう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
   

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