古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

笠幡箱根神社

 古代より箱根山は、山岳信仰の一大霊場であり、『筥根山縁起并序(はこねさんのえんぎならびにじょ)』(1191年成立)によると、孝昭天皇の時代に聖占が駒ケ岳において神山を神体山として祀って以来、神山を遥拝できる駒ケ岳の山頂を磐境として祭祀が行われていた。因みに、地名「箱根」は古くは「函根」と記したが、同じく「箱根山」は函根山と記し、函嶺(かんれい)ともいったようだ。
 天平宝字元年(757年)朝廷の命を受けて、神仏習合の魁として活躍し、神と仏を結ぶ聖僧(しょうそう)である『万巻上人』が箱根山の山岳信仰を束ねる目的で箱根山に入山し、神山や駒ケ岳で3年間修行して、三所権現(法躰・俗躰・女躰)を感得し、夢の中の神託により、箱根権現を祀る社殿(現・箱根神社)を建立したという。神仏習合の流れの中で、箱根権現への信仰は東密の影響を大きく受け、多くの修験者が箱根山に入山して関東の修験霊場として栄え、鎌倉時代には、源頼朝の篤い崇敬を受け、鶴岡八幡宮に次いで関東武士の信仰を集め、鎌倉幕府歴代将軍による当社への参詣は幕府の恒例行事となり、当社は「関東守護」「関東鎮守」といわれ、鎌倉幕府の祈願所として尊崇された。その後、執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、武家による崇敬の篤いお社として栄えたという。
 江戸時代には、箱根の関所が置かれて東海道が整備されると、東部交通の要(道中安全の守護神)に位置する箱根権現は、庶民信仰の聖地と共に一層篤い信仰を受けるようになった。
 その後、明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、関東総鎮守箱根大権現は箱根神社へと改称され現在に至っている。
 川越市笠幡地域には、その「箱根」を冠した小さな社が静かに鎮座している。

        
             
・所在地 埼玉県川越市笠幡4431
             
・ご祭神 天津彦火火出見尊
             
・社 格 旧笠幡村倉ヶ谷戸鎮守
             
・例祭等 天王祭 715日 お日待 1014
 川越市の西側にある笠幡地域。この「笠幡」の地域名は、嘗て「陸奥国齋藤文書」に正慶二年(1333)「武蔵国高麗郡賀作波多村」と記載されていて、かなり古くからあった地名であったようだ。この地域中央部やや東側で、小畔川右岸の自然堤防上に笠幡箱根神社は静かに鎮座していて、JR川越線笠幡駅からでも北東方向で直線距離にして500m程しかない。
 駅周辺には住宅地や学校・病院等が建ち並ぶのだが、駅から北側に流れる小畔川付近は、一面長閑な田園風景が広がっていて、住宅街と昔ながらの風景が共存する地域ともいえよう。
        
                  笠幡箱根神社正面
 笠幡箱根神社の創建年代等は不詳であるが、倉ヶ谷戸地区を開拓した発知(ほっち)氏の先祖が、相模の箱根神社を勧請したと伝えられ、慶安年間(1648-1652)に再興したという。
『新編武蔵風土記稿 笠幡村』
 舊家者啓次郎 
 發智を氏とす、先祖は六郎次郎と稱して、永正の頃より代々この村の里正たり、古器舊記等も傳へしに、文化年中火災にかゝりて烏有となれり、
 高倉村高倉寺燈籠(*もとは笠幡村発知家にあったという)
「発地氏曩祖曰、植田太郎源公光・仕鎌倉右府、五世孫光規・弘安八年十一月有武功、北条貞時賞賜以信濃国佐久郡発知之郷因称発知太郎、後更発地。正安年間有故来于此地、世為里正。光規二十四世之孫為光正性直而淳朴産益優富有田畝山林三百余町、明治六年区長兼戸長。明治十一年発地庄平光正建」
        
                   境内の様子
        
                    拝殿覆屋 
 箱根神社(ごんげんどう)  川越市笠幡四四三一(笠幡字倉ヶ谷戸)
 当社の創立は口碑によると、この笠幡の倉ヶ谷戸地区を開拓したという発知氏の遠い先祖が、相模の箱根神社を勧請したと伝えている。『風土記稿』には「箱根権現」とあり、別当が修験大泉院であったことがわかる。古くから当社の通称は権現堂で更に老朽化した権現堂と箱根神社が並立していることから、一所、別個の社が混同視されていたのかもしれない。『明細帳』には「当社勧請年暦詳ナラサレドモ慶安年中頃発地庄平ノ祖先再興ナリ」と記してある。
 祭神は天津彦火火出見尊である。境内社は『明細帳』に「八坂神社 祭神素盞鳴尊、天保年中勧請明治十六年六月再興、琴平神社 大物主命、文政年中勧請明治十四年三月再建、稲荷神社 倉稲魂命、発地庄平の先祖某が祭る、蚕守神社 宇気母智命」と四社を載せるが、各社殿が老朽化したため、昭和五五年に本社を改築した際、本殿覆屋内に合祀した。同時に三峰社・御嶽社も合祀している。
 境内にある草葺きの権現堂は、倉ヶ谷戸地区の公民館が完成するまでは地区の寄り合いや祭日の直会の会場に使っていた。また、末社八坂社の神輿が安置されていた。現在は使用されることもなく朽ちるに任せてある建物であるが、明らかに堂宇であり、権現堂の通称が当社を指すのも興味深いものである。
 境内にある草葺きの権現堂は、倉ヶ谷戸地区の公民館が完成するまでは地区の寄り合いや祭日の直会の会場に使っていた。また、末社八坂社の神興が安置されていた。現在は使用されることもなく朽ちるに任せてある建物であるが、明らかに堂宇であり、権現堂の通称が当社を指すのも興味深いものである。
                                  「埼玉の神社」より引用

 嘗て境内にあったとされる権現堂は既に取り壊されていて、駐車スペースとなっているようだ。また「埼玉の神社」に載せられている別当・大泉院は『風土記稿」によると「本山修驗、郡中篠井村觀音堂配下なり、本尊不動を安ず、開山高量應安五年五月化す」と記されていて、修験道一派が開山した寺院ということから、箱根権現との関連性は十分に頷けられよう。
 
  拝殿に掲げてある「箱根神社」の扁額          本殿覆屋内に合祀されている社あり

   本殿に合祀されている社は、御嶽社・三峰社・養蚕社・八坂社・稲荷社・琴平社。
        
               境内にある「廻国供養塔」等
 供養塔の並びには、嘗て「蚕影社」が祀れれていたのだが、今はないようだ。この地域は、昭和30年代まで氏子のほとんどは養蚕に従事していて、毎年10月2日に蚕影社の祭りがあったが、養蚕農家の減少により、廃されたという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等

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