台町八坂神社
本庄は、中山道の江戶から十番目の宿場であると共に、繭市が盛んであったことでも名高い。本庄の繭市は、毎月六回、二と七の付く日に市の立つ六斎市で、その最盛期には「本庄の繭相場が全国の中心」とまでいわれるほどであった。
社伝によれば、当社は弘治二年(一五五六)の創立で、城下町の疫病除けの神として本庄城主の本庄宮内少輔寅実忠が勧請したと伝えられる。その後天正十八年(一五九〇)には、小笠原氏が城主となったが、慶長十七年(一六一二)に、下総国古河へ加増転封となったため、本庄城は廃城となった。その後、明暦二年(一六五六)に本殿を建立といわれ、『明細帳』には「明暦二年信徒にて本社を建立す」との由緒が記されている。このことは、本庄宿の人々が宿場の繁栄を願って社を整備したことを示すものと思われる。
また、『風土記稿』本庄宿の項に「稲荷社 城跡にあり、城山稲荷と云、慈恩院持、○牛頭天王社 これも同じ処にあり、大正院持」と載るうちの「牛頭天王社」が当社のことであり、本庄城跡の一角にある当社の周辺は、かつては鬱蒼とした木立に包まれ、夜には大人でも怖くて一人では近づけないほどであったが、今では周囲は城下公園として美しく整備されている。 なお大正院は、天正十一年(一五八三)の創立という真言宗の寺院で、当社の四〇〇メートルほど南方にある。
「埼玉の神社」より引用
・所在地 埼玉県本庄市本庄3—7−11
・ご祭神 健速須佐之男命
・例祭等 初祈願 1月15日 祈年祭 4月12日 例祭 7月14・15日
新嘗祭 12月10日
JR高崎線本庄駅北口から駅前通りを北上すると本庄市役所に達するのだが、その手前の新郷のある交差点を右折する。市役所も近隣にあり、住所も「本庄」と市名を冠した市の中心的な地域故、多くの住宅街が建ち並ぶ道を約300m進むとすぐ左手に「八坂神社」の社号標柱のある路地が見え、そこを左折し真っ直ぐ進むと台町八坂神社に到着する。
周囲には専用駐車場はないようなので、社のすぐ北側にある「城下公園」の駐車スペースに停めてから参拝を行った。
台町八坂神社正面
本庄城址とされる地域は、元小山川の流れを北辺の天然の要害とした西側から続く本庄台地の東端部分に位置し、段丘崖沿いに堀割り状の凹地が多く、自然の要害地としての立地条件を満たしている土地であったという。弘治二年(1556)本庄宮内少輔信明が本庄城築城の折、鬼門に当る当所に領内一町十七ヶ村の住民の疫病除けの守護神として勧請された社。嘗ての本庄城域の東端といわれる台町八坂神社の南側は一段下がっており、昔は堀であったと推測されている。
入口付近に一際目立ち聳え立つご神木
斜面上に建つ鳥居
本庄市台町が氏子区域で、但し地図上では台町の代わりに「本庄」「東台」「日の出」の3地域に分かれているが、台町の名や自治会として現在も引き継がれており、そこに居住する約1400名が当社の氏子である。台町八坂神社は、「津島様」もしくは「台町の天王様」と呼ばれ、商売繁盛の神もしくは疫病除けの神として信仰されている。天王様の呼称は、神仏分離までは「牛頭天王」と号していたことに由来するもので、八坂神社には一般に「天王様」の通称があるが、旧児玉郡内に150社ある八坂神社のうち「津島様」と呼ばれるのは当社だけであるという。
鳥居の先に設置されている新旧の案内板(写真左・右)
八坂神社 所在地 本庄市本庄三‐七
八坂神社の祭神は、健速須佐之男命である。社伝によると創立は、弘治二年(一五五六)で、城下町の疫病除けの社として本庄宮内少輔実忠が勧請したと伝えられている。現在の本殿は、明暦二年(一六五六)再興されたものである。
この神社の祭礼は毎年七月十四日、十五日に行われ、この両日台町の氏子の人々によって獅子舞が奉納されている。この獅子舞は、寛文三年(一六六三)榛沢郡元榛沢(現岡部町)で開かれていた六斎市を本庄宿に移した折に、天王祭(市神祭)のとき、台町有志によって始められたと伝えられている。歌人三、笛四、裃着用ほか手古舞姿で拍子木二、金棒引二、舞い三(法眼一、雌獅子一、老獅子一)で演舞されている。昔より旱魃時に当社の獅子舞を奉納すると必ず霊験あらたかに雨が降ると伝えられ、雨乞獅子といわれている。
なお、この獅子舞は、昭和三十五年本庄市指定の無形文化財となっている。(以下略)
案内板より引用
ご神木のすぐ先にある手水舎 台町八坂神社の由来等を記した石碑あり
八坂神社
祭神 健速須佐之男命 例祭 七月十四日、十五日
由緒
弘治二年(今より四二〇年前)本庄宮内少輔信明が本庄城築城の折鬼門に当る当所に領内一町十七ヶ村の住民の疫病除けの守護神として勧請された社で児玉郡並びに本庄市内に於いても八坂神社は当神社が唯一の社です 社殿は昭和四十八年に再建したものである
本庄市無形文化財八坂神社獅子舞の由来
寛文三年(今より三一三年前)の時代に本庄宿に生絹市場開設の折八坂神社氏子有志が舞いや唄を習い伝え八坂神社に奉納したのが始まりで爾来今日に及んで居る
この獅子は龍頭と云い寛文三年に沼和田の雷電社の社木を以って作製したものでその龍頭の顎下に年号の彫刻がある
此の獅子舞 唄は頗る古雅なもので疫病や雨乞に霊験あらたかにて雨乞獅子の名もあり戦火の中にも毎年休む事なく奉納され現在に至って居る
獅子は法眼・女獅子・老獅子と呼び舞人は身を清め八坂神社宮司のお祓いを受け御幣を腰に差して舞う
伝統ある獅子舞(橋渡り)の数十年来の再現奉納を記念し之を建立。
昭和五十一年七月十五日竣工
拝 殿
社殿の左側にある「燿龍殿」と表記された獅子舞道具収蔵庫
7月14・15日に行われる「祇園祭」は「夏祭り」ともいい、県指定無形民俗文化財である「台町の獅子舞」が奉納される。社の標柱には「八坂神社の例大祭及び雨乞い祈願の時に奉納される獅子舞で、その起源は寛文三年(1663年)に遡ると云われ、以降、毎年休むことなく祇園祭で奉納されている」と載せている。
14・15日と二日続きの祭りのうち、14日の晩は宵待(よいまち)、15日が本祭りであるが、勤め人の増加から土・日曜日を祭日とするようになり、平成3年から本来の祭日に近い土・日曜日に祭りを行っている。
台町の獅子舞は、最も古い獅子舞に寛文三年の銘があり、同年に榛沢郡元榛沢の六斎市を本庄宿に移した際に始められたものといわれている。この獅子舞は、長唄一二曲、端唄一二曲に合わせて舞うところが特徴で、宵待で六ヵ所、本祭りで八ヵ所と地内各所で奉納する。いずれも大正院の薬師堂が出発点で、当社を経由して町内を回り、最後に大正院の薬師堂に戻る形で進行、順路途中で設けられた御仮屋ではきゅうり等の奉納があるという。
燿龍殿の手前に祀られている雷電宮の石祠
嘗て夏の渇水期には、台町の北にある沼和田の雷電神社の獅子舞の一行が出向き、一場所摺って降雨を祈願したものであるのだが、これが台町獅子舞の「雨乞獅子」という異名の由来となっている。
境内の一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「本庄市観光協会HP」「境内案内板」等