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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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島護産泰神社

 「御本殿外宇幣殿拝殿屋根葺替回廊大改修築記念碑」で島護産泰神社の由来をこう記述している。

 島護産泰神社御由緒は別に、昇格記念碑並に水舎神楽殿改築記念碑其他諸々の記録で明らかであるが尚一部由来を記す。
 
当社は北武蔵有蹟の社で、景行天皇御宇日本武尊により祭祀され、桓武天皇延暦年間(782-806)坂上田村麻呂将軍祈願参拝された古い社である旧榛沢郡総鎮守でありながら延喜式内神名帳にも登載漏れなり。伝うるに当時榛沢群全域に一社もないのは、正に調査もれによるものであって納得ゆかず古来よりの神異神話神助古文書に存在しておる。
 産泰講並に底抜柄杓奉納起因の儀も建武年間(1334-1338)以前既に奉納の実あり其の意は、御祭神の御神徳古事歴により当社に安産祈願せば不思議にも難みなく毎年数千本の柄杓の奉納ありこれが文久辛酉年(1861)、仁孝天皇皇女和宮殿下将軍徳川家茂公に御降下遊さるるにあたり当社前を御通過あらせらるるや殿下には畏くも鳥居前社標榛沢群総鎮守安産守護神とある文字を御覧遊され卒然御籠を停め御翠簾をあげさせられ容を正し祭神木之花咲夜姫命を遙拝あらせたと言う。
 また社殿は往古より有形的の建物あり種々変遷し慶安年間(1648-1651)焼失以後数度建改築したも極く最近嘉永安政(1848-1859)に亘り、更に改築現今に至り然るに百二十有余年の建物で破損夥しく今回、氏子総意協議誠教致福の精神頗旺盛で改修築委員を組織氏子内工匠全員奉仕約八百万円工事費で竣工の運びとなり是が趣肯石碑に刻し後世に伝えんとす。
                                昭和五十六年四月十日

  武蔵国榛沢郡には式内社が存在しない。何故時の朝廷が認めなかったかは不明だが、榛沢郡には各郡のように有力な社が元々存在しなかったのか、それとも時の朝廷が榛沢郡の式内社の存在を偶々見落としたのか、または故意的に抹殺したのか。榛沢郡の総鎮守と言われる島護産泰神社の参拝中このような疑念が広がった。

所在地    埼玉県深谷市岡3354
御祭神    瓊瓊杵尊  木花咲夜姫命
社  挌    旧郷社 旧榛沢郡総鎮守
例  祭    4月10日 例祭    11月3日 秋季大祭
                                                                                                    

        
  国道17号深谷バイパス岡東交差点から群馬県道・埼玉県道259号新野岡部停車場線を南へ向かって行き、最初の交差点(但し信号は無い)を左折すると、すぐ左側にに島護産泰神社の鳥居と社号標石が見えてくる。群馬県前橋市下大屋町に総本社がある産泰神社は御祭神が木花咲夜姫命であり、古くから安産に霊験ありと有名で、安産・子育てと共に子宝にも恵まれるともいう。
 旧岡部町に鎮座する島護産泰神社は旧称「島護明神」と言われていて、天慶年間、平将門が東国一帯を押領した際に、その征討軍として源経基が征伐のため当地で駐屯して、当社に平定の祈願をしたという伝承もあり、歴史はかなり古いようだ。
 
                     入口にある社号標石                   正面参道鳥居から撮影
                     
                                                      入口左側にある案内板
島護産泰神社(しまもりさんたいじんじゃ)
  当社の創立年代は明らかではないが、旧榛沢郡内の開拓が、当社の加護により進められた為、郡内の格村の信仰が厚くなり、総鎮守といわれるようになったと伝えられている。この為に当社の再建及び修築等は、郡内格村からの寄付によりなされた。祭神は瓊々杵尊・木之花咲夜姫命という。
 当社を島護("とうご"等とも読まれている)と称するのは、この地方が利根川のしばしばの氾濫により、ことに現在の深谷市北部に位置する南西島、北西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、血洗島、伊勢島、横瀬、中瀬の地名をもつ地域(四瀬八島)は、常に被害を受けたため、当社をこれらの守護神として信仰したことによると伝えられている。
 また、当社は、安産の神として遠近より、信仰者の参拝が多く、この際には、底の抜けた柄杓を奉納することでも有名である。四月一○日の春祭には、里神楽が奉納される。
                                                      案内板より引用

   
                    参道左側にある手水舎                 手水舎の反対側には神楽殿
                        
                              拝   殿
                       
                             本殿覆屋
島護産泰神社
 景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国平定の途中に、当所で皇運の隆昌を祈願されたという。
 旧称「島護明神」。社地の東北は低地地帯で、たびたび利根川の水難を被った。この地方は、南西島、北西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、血洗島、伊勢島と瀧瀬、小和瀬、横瀬、中瀬の四瀬八島に分れ、これらの住民たちにより、当社を諸島の守護神として信仰したことにより、「島護」の名がついた。また榛沢郡の総鎮守という。  天明三年(1783)の信州の浅間山の噴火、利根川の氾濫のときに、当地方で災難を免れることができたのは、当社の霊験によるものといわれた。
 文久元年(1861)年の辛酉の年、皇女和宮殿下の御降嫁の折り、中山道に面した鳥居前の社標に「榛沢郡総鎮守安産守護神」とある文字を御覧になって、篭を停め御翠簾をあげさせ、容を正して御遥拝されたので、村民は遥かに御宮を拝して、慈しみに感じ入り、弥さらに奉斎の念を深からしめたという。
 また安産の信仰から、周辺地域からも多くの参拝があるという。
 
   社殿の左側には二十二夜塔、青面金剛、庚申塔等の石碑が並び(写真左側)、社殿奥左手には境内社2社(写真右側)がある。境内社に関しては、左側「聖天様、内出神社」と書かれており、御祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命2柱。岡部地方には岡部神社や岡廼宮神社等、聖天信仰が盛んな地域だったようだ。右側の境内社は琴平神社と津島神社、三柱神社が納められた社。御祭神はそれぞれ大物主命、素盞鳴尊、火産霊命・澳津彦命・澳津姫命。
 写真右側の境内社2社の左側には冨士嶽大神、小御嶽山、琴平神社等、石碑が並んでいた。

 また社殿の右側には稲荷社(写真左)、社日(写真右)、弁財天がそれぞれ鎮座している。
 
              稲荷社                                社  日
 
              弁財天
              
              島護産泰神社の神楽殿の南隣にある大木。御神木だろうか。

  武蔵国には21の郡に式内社が44座43社存在する。式内社は延喜式神名帳がまとめられた平安時代時点(10世紀前半)で、その地方の有力な社として、またその地域の歴史や文化をも纏めて時の朝廷の承認を受けるいわば保障証であり、また身分許可証のような類のものであったろう。そういう意味において式内社の存在はその数の大小や、社挌によって各郡の順列や品格をも左右されるものであったのではないかと思われる。
 古代日本のみならず世界各地の国に共通することだが、政治の中心地と祭祀施設は、相関関係にあるともいえ、古来、政治と祭祀が一体となって行われてきた様子が、記紀、風土記等の公式な書物や各地の伝承、伝説からも垣間見られる。
                                         
 何故榛沢郡には式内社が存在しなかったのだろうか。
 榛沢郡は東は幡羅郡(式内社4座)、大里郡(同1座)、南は男衾郡(同3座)、西側は児玉郡(同1座)、賀美郡(同4座)そして北は利根川を挟んで上毛国と接している。郡域はおおむね深谷市の明戸、原郷以西部分、岡部地区、寄居町寄居、藤田、末野、桜沢、用土地区という。有史以前から集落が発達し、深谷市緑ヶ丘にある桜ヶ丘組石遺跡は昭和三十年の発掘調査によって、八基の石組遺構が発見され、極めて珍しい遺跡として注目された。年代的には縄文時代後期と推定され、環状列石(ストーンサークル)のような県内では珍しい配石遺跡も存在する。
 郡衙は旧岡部町岡地区で、郡衙周辺には四十塚古墳群熊野古墳群白山古墳群が分布している。その他の地域でも古墳時代末には人口も増し、小規模ながら100基を越す古墳が分布する鹿島古墳群など、多数の古墳があり人口も多かったと思われる。

 その点について気になる伝承が榛沢郡内に存在する。深谷市北部には諏訪神社が数社鎮座しているが、その中に血洗島という一風変わった地域名がある。この由来を調べてみると定説はなく、以下の諸説があるようだ。

 1  赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕をひしがれ、その傷口をこの地で洗ったという。
 2  八幡太郎義家の家臣が、戦いで切り落とされた片腕を洗ったところからその名がついた。
 3  「血洗」(けっせん)は当て字で、アイヌ語の「ケシ、ケセン、ケッセン」(岸、末端、しものはずれ、尻などの意)など、東北・北海道に気仙(ケセン)沼・厚岸(あつケシ)などと共通する同意語で、その地が利根川の洪水による氾濫原であることから、もとは「地洗」(ちあらい)、「地荒」(ちあら)だったのが「地」の字がいつの間にか「血」となった。

 いずれも想像の域を越えないものであるが、気になる説として赤城の山霊をあげたい。「戦場ヶ原神戦譚」と呼ばれる伝説があり、「神代の昔、下野の国(栃木県)の男体山の神と上野の国(群馬県)の赤城山の神が領地の問題(中禅寺湖の領有権)で戦った。男体山の神は大蛇、赤城山の神は大百足に姿を変えて戦場ヶ原で戦った」という神話の中での戦いというが、これを神話上の空想の話とみるかどうかで展開が大きく変わる。

  筆者はあえてこの話はある史実を遠い過去の神話に脚色したものである、と睨んでいて、そのことが榛沢郡の式内社に多大な影響を及ぼしている、と現時点では推測している。大体赤城の神が戦いの後、この地(血洗島)で傷口を洗った、という説話自体、この地が赤城の神にとって安心して傷口を洗える場所、つまり自身の勢力圏内にあった、と言えるではないだろうか。考えるに長らく毛野国の影響下にあった榛沢郡に対して、東西両側にある幡羅郡、加美郡は朝廷側にいち早く乗り移った(寝返った?)。そして毛野国や榛沢郡を監視のために其々の郡には式内社が4座存在していたのではないだろうか。幡羅郡4座の内3座は東山道武蔵路の周辺に鎮座しているが、総鎮守の楡山神社は榛沢郡の東側郡境に位置し、加美郡に至っては4座の悉く利根川周辺に鎮座している。

 式内社は上記にて時の朝廷にとって「身分証明証」の類である、と記述したが、一方、「免罪符」の意味合いも含まれると思われる。ずっと後の時代であるが、明治時代初期に実際にあった話ではあるが、戊辰戦争で幕府方に味方した藩は廃藩置県では県名を許されなったという。ある意味意地悪な話であるが、人間の情としてあり得ない話ではない。幡羅郡、加美郡が其々4座式内社が存在しているに対して大里郡、児玉郡、比企郡、那珂郡は1座しか許されず、ましてや榛沢郡に至ってはゼロである。時の情勢が影響している、と言ってしまえばそれまでだが、それだけでは拭えないなにか大きな理由がそこにはあるような気がしてならない。


 

 
 

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