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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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楡山神社

 楡山神社が鎮座する武蔵国幡羅郡は、江戸時代の新編武蔵風土記稿によれば、今の深谷市東部(旧幡羅村、明戸村)、熊谷市北西部(旧別府村、三尻村、玉井村、奈良村、大幡村の一部)、妻沼町全域とされる。
 
 武蔵国の利根川と荒川に挟まれ、東の埼玉郡に続く幡羅郡は、『和名抄』によれば七郷一余戸という北武蔵最大規模の郡であり、また交通の要衝であった。郡の中心部分は、郡の南西部の台地地帯で、櫛引台地と荒川扇状地とが織り重なる地帯である。中でも台地の北側、郡衙跡の確認された深谷市東方・熊谷市西別府を中心に、西の深谷市原郷から、東の熊谷市中奈良あたりまでが、中心地帯だったと思われ、中奈良では、和銅年間に大量の涌泉があり六百余町の壮大な水田を造成させたといい(文徳実録)、西別府祭祀遺跡からは近年まで湧き水が確認され、隣接の別府沼を形成して付近の広大な水田の水源となっていた歴史があり、深谷市原郷根岸沼は今は地名のみ残るがこれも数十年前まで湧き水が確認され、別府沼と同様のことが想定されている。これらの水源は荒川の伏流水である。

 郡衙跡(幡羅遺跡-はらいせき-)は2001年に発見された新しい遺跡で、保存状態がよく規模も大きく、全国の郡衙跡のなかでも非常に貴重なものであるとされる。郡衙跡の東に隣接する西別府廃寺跡とともに、7~11世紀にかけての幡羅郡の歴史を知る重要な史跡である。

所在地  深谷市原郷336
主祭神  伊邪那美命
社  格     旧県社
社  紋     八咫鏡と八咫烏
例  祭     10月20日 例大祭
由  緒     孝昭天皇御代の創立   
平安期幡羅太郎再興
                
康平年間(1058~65源義家奥州征伐の時勝戦を祈願
                 
正徳年中熊野山正徳院能詮寺を建立社僧が神事を修す
                 
天保 8年(1837)正徳院焼失
                 
明治 5年郷社     明治40年 4月 2日神饌幣帛料供進神社指定
        大正12年 7月 2日県社

     

  楡山神社は埼玉県深谷市にあり、深谷駅の北東 2kmほど,埼玉県道127号深谷飯塚線を北上するとすぐ右側に位置する。個人的に親族が深谷市高畑地区に住んでおり、行き帰りには神社を見ることも多く、その際には何度か参拝も行なっており他の神社より親近感がある。
  孝昭天皇の頃に鎮座したというが創建不明。 延喜式内社。境内は東向き。辺り一帯に楡の木が繁茂していたということで、社名の由来と なっている。また境内付近には古墳が散在しており15基ほどを木の本古墳群と総称、楡山神社周辺から南東へほぼ道路沿いに分布しており、観察は比較的容易である。


 東の入口の一の鳥居横につい近年まで大楡の神木(樹齡約600年・県天然記念物)があったが、今は切り株のみで近くには表札がある。
   
         楡山神社正面参道                     楡山神社の大楡

楡山神社大ニレ
                                                                                        埼玉県指定天然記念物
                                                       昭和二四年二月二二日指定
 楡山神社の御神木となっている古木で、目通り約三・六メートル、樹高約一○メートル、樹齢は約六○○年と推定されています。
 ニレは、山地性の落葉樹で、ハルニレとアキニレがありますが、この木はハルニレです。ハルニレは、皮を剥ぐと脂状にぬるぬるするところから別名ヤニレともいいます。樹皮からは繊維が採れ、縄などが作られました。北海道から本州の山地に自生していますが、この木は関東地方の平野部にあるという点で貴重です。
 楡山神社は、平安時代につくられた「延喜式神名帳」に記載される古社で、幡羅郡の総鎮守です。
「楡山」の由来は、昔からこの地方一帯に、ニレの木が繁っていたことによるといわれています。

                                                     平成六年三月 埼玉県教育委員会
                
                   参道の右側、方位では北側に神楽殿がある
           
                        拝殿前の二の鳥居から撮影
           
           
                          拝殿 明治43年再建
 楡山神社は嘗て幡羅郡総鎮守」、「幡羅郡總社あるいは幡羅大神とも呼ばれていたという。幡羅郡は、中世までは「はらぐん」「はらのこおり」と読まれた。当地が
幡羅郡幡羅郷の中心部であったことから「原ノ郷」「原之郷」の村名となったという。
 江戸時代には、
愛宕神社(原郷)を「小鎮守」と呼び、楡山神社を「大鎮守」との俗称もあった。瑠璃光寺を別当とし、「楡山神社」の社名の他に「楡山熊野社」(新編武蔵国風土記稿)、「熊野三社大権現」(扁額)などの呼称もあった。
 明治五年、旧入間県八大区
を代表する「郷社」に制定される。八大区の範囲は、旧幡羅郡全域、旧大里郡荒川以北、旧榛沢郡の大半(深谷・藤沢・武川・花園・用土・寄居・大寄の一部)に渡り、深谷熊谷妻沼寄居の四市街地を含む。のち郷社は複数となり、大正12年には「県社」に昇格。
           
 本殿 
春日造、欅桧楡材、造営年不詳。明治以前は屋根は桧皮葺で千木と鰹木があり、柱などに葵の紋金具があったという。

 楡山神社が鎮座する幡羅郡は、元来「原」であったが、その後「幡羅」に改められた。713年(和同6年)5月、畿内七道諸国郡郷名には「好字」を用いることが命じられた。またこの命令を反映したものと見られる『延喜式』民部省式の規定にも郡や里の名には「二字」の「嘉名」をつけることが決められていた。これらの制度を受け、奈良時代以降は「幡」・「羅」の雅な漢字を当て「幡羅郡」と称したものと見られる。『和名抄』に「ハラ」とあように、古代においては読みは「はたら」ではなく、元来通り「はら」であった。郡衙跡(後述)から出土した平安時代初期頃のものと見られる遺物には「原郡」の表記も見られ、奥州多賀城跡から出土した木簡(後述)に見られる通り正式には「幡羅」の表記となっていたものの、なお郡域では「原」の字を用いたこともあったようである。中世以後、漢字表記に引かれる形で「はたら」の読みが広がり、明治時代以後は完全に「はたら」となり現在の地名の読み方に至っている。
『楡山神社由緒』より
【御祭神】
 伊邪那美命。一柱。
 夫の伊邪那岐命と共に、国土や山川草木の神々をお生みになった神。「国生み」の神。
 末子に火産霊神をお生みになって後、鎮火の法を教え諭した神。
【鎮座地】
 埼玉県深谷市大字原郷三三六番地。
 旧埼玉県大里郡幡羅村大字原郷。
 旧武蔵国幡羅郡幡羅郷原ノ郷村。
 古くは幡羅ノ郡(はらのごほり)といっていたのを、近世に漢字を改めて原郷としたという。
【御社名の由来と御神木・御神紋】
 御社名の由来は、御神域一帯に楡の木が多かったことによる。正面大鳥居の脇の楡の古木一本は、代々御神木と崇められ、樹齢一千年ともいい、現在は埼玉県の文化財(天然記念物)に指定されている。
 当社の御神紋の「八咫烏」は、初代神武天皇の東征の際、南紀の熊野から、翼の大きさ八尺余りの道案内で、大和に入ったという故事から、当社が熊野権現といわれた時代に定まったものといわれる。
【御創立と沿革】
 五代孝昭天皇の御代の御鎮座という言い伝えがあった。
 大字原郷全域から東隣の大字東方の西部にかけて分布する木之本古墳群(木之本は小字名)は、奈良時代ごろのものといわれ、古くからひらけた土地であることをうかがわせる。現在の末社の天満天神社(富士浅間神社)や知知夫神社も、後世の創祀ではあるが、古墳の塚上に祀られていたものである。かつては境内の森の奥にも塚があり、「里人不入の地」といわれた。
 延喜年間(平安時代)、醍醐天皇の御代に朝廷の法規などをまとめた書「延喜式」の「神名帳」の巻に、「武蔵国幡羅郡四座」のうちの一社「楡山神社」とある。すなわち朝廷より幣帛を賜った古社であり、「延喜式内社」といわれる。
 旧原ノ郷村は、平安時代中期の北武蔵の武将・幡羅太郎道宗の再興になる地域である。神社の南西に史跡「幡羅太郎館址」がある。当時から幡羅郡の総鎮守、幡羅郡總社といわれ、御社名を幡羅大神ともいった。
 康平年間(1058~1065)、源義家の奥州征伐の時、幡羅太郎道宗の長男の成田助高は、当社に立ち寄って戦勝を祈願したという。成田家は後に行田の忍城主となっていったが、当社は成田家代々の崇敬が篤かったという。
 徳川時代には、旧社家の没落と共に別当天台宗東学院の管理する所となり、熊野三社大権現と称したこともあった。当時より節分の日の年越祭は盛大であり、「権現様の豆撒」などともいわれた。
 明治に入り、御社名を楡山神社にもどす。明治五年、旧入間県八大区の郷社に制定される。大正一二年県社に昇格。
 大正二年、中絶していた年越祭を再興。戦中戦後の一時期は中断していたが、戦後に神職氏子の努力によって復興させ、毎年節分当日は巨万の賽客で賑わい、追儺の神事や花火(戦前は「おだまき」と称した地域伝来の花火)などの行事が夜遅くまで続く』

本殿の周囲には、幾つかの境内社が鎮座している。
  
        招魂社と知々夫神社            八坂神社               大雷神社
  
         
        手長神社              大物主神社             天満天神社
            
                              荒神社 
 元々は根岸にあった荒神社をこちらに移転したもので、同社境内にあった諏訪神社と春日神社が合祀されている。火産霊命、奥津比古命、奥津比売命の三柱を主祭神とし、他に御穂須々美命、天津児屋根命、斎主命、武甕槌命、比売命が祀られているとのこと。春日四神が春日神社の祭神であると見ると、御穂須々美命が諏訪神社の祭神と言うことになるのだろうか。聞き覚えの無い名前だったので調べてみると、建御名方命の妹にあたる神様であるようだ。
 また、石燈籠には享和三癸亥歳九月吉日との文字が刻まれており、1803年に奉納されたもの。
           
      荒神社近くのの中の道には、「楡山」と刻印された旧拝殿の鬼瓦と説明書がある。
              
               寒神社(道祖神)                          伊奈利神社  

           

  武蔵国北部最大の郡である幡羅郡は、地形上でも要衝の地と言われている。その根拠は一体なんだろうか。その理由の一つは東山道武蔵路ではないかと考えている。

 ■■■東山道武蔵路■■■

  古代に造られた官道の一つ。当初東山道の本道の一部として開通し、のちに支路となった道であり、上野国・下野国から武蔵国を南北方向に通って武蔵国の国府に至る幅12m程の直線道路であった。

 奥州多賀城跡から出土した木簡に「武蔵国幡羅郡米五斗、部領使□□刑部古□□、大同四年(809年)十□月」とあり、刑部氏の何らかの関連があったような記述が存在する。刑部は第19代允恭天皇の后の忍坂大坂姫の御名代部として設置された部民。また延喜式内社の白髪神社は、郡衙近くに存在し、白髪部の関与が想定されるという説があるそうだ。


                        
                      楡山神社西側、楡山神社前交差点付近にある鳥居

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