古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

寅稲荷神社及び同古墳、お手長山古墳

 寅稲荷神社の由来は嵯峨天皇の弘仁の頃(810~824)、坂上田村麿将軍が、東国平定のとき、当地に陣を構え、皇運の隆昌を祈願されたのが、当社の始りであるという。近くには、要塞を築いたとされる旧跡や、四十八塚といわれる古墳があり、将軍の古戦場との伝承もあった。古く伝来する扁額の裏面に「寛平五年二月初寅祭」とある。
所在地   深谷市岡1685
御祭神   倉稲魂命 (うかのみたまのみこと)
社  挌   旧村社
例  祭   4月10日 春祭り、10月3日 秋祭り

       
地図リンク
 寅稲荷神社は国道17号を深谷市岡廼宮神社を本庄方面に向かい一つ目の交差点(岡交差点)を左折するとすぐ右側に寅稲荷神社が鎮座する。同名の古墳上にある社で6世紀末築造と推定され、全長50mと、四十塚古墳群では最大の規模の前方後円墳である。町指定史跡で、道路地図にも記載されている。
          
                       一の鳥居からの参道を撮影
        よく見ると参道は途中曲がっていて、正面には御神木である銀杏の木が見える。

 古墳群中最大の前方後円墳で、前方部を西に向けている。後円部から前方部にかけ寅稲荷神社が鎮座しており、墳頂部は平らになっている。1979年(昭和54年)に岡部町(当時)指定史跡に指定された。1981年(昭和56年)に周溝の発掘調査が行われ、埴輪片が出土している。1986年(昭和61年)と1994年(平成6年)にも調査が行われ、形象埴輪片(人物、馬、家)が発掘されている。
          
                         寅稲荷古墳の案内板
寅稲荷古墳
  高崎線岡部駅の北北西一・六キロメートルに位置し、櫛引台地北端部近くに存する。古墳付近の標高は約五一メートルで台地北側の低地水田面との比高は、約一○メートルである。
 本古墳の周囲は、かつて多数の古墳が群れを成して存在していたといわれているが、その多くは、昭和初期の開拓により消滅しており、現在存在するものは、二から三基を数えるにすぎない。
 本古墳は、ほぼ東西に五一メートルの主軸をもつ前方後円墳で、後円部径二六メートル、同高三メートル、前方部幅三四メートル、同高三・五メートルである。前方部の方が若干大きく高くなっており、終末期の前方後円墳の典型例と言うことができる。埴輪の有無は明確ではなく、埋葬施設は、角閃石安山岩を石材として使用した横穴式石室と考えられている。建造時期は、主体部が未調査であるため明らかではないが、墳丘等の形状からして、六世紀末ごろと考えることができる。
 また、前方部から後円部にかけては、寅稲荷神社が鎮座している。祭神は倉稲魂命という。当社には古獅子頭三基が伝えられており、町指定文化財となっている。
                                                           案内板より引用
                                                                       


  
           寅稲荷神社拝殿                           同本殿
  この地域では最大規模の古墳。6世紀後半の築造と推定され、当時の榛沢郡で最有力の首長の墓と考えられているようだ。

 
 寅稲荷神社古墳の東南600m位の場所にお手長山古墳はある。、この古墳は熊野古墳群内にある帆立貝形古墳である。

お手長山古墳
 所在地   深谷市岡
 墳  形   帆立貝式古墳
 築造時期  6世紀末葉~7世紀初頭
 区  分   深谷市指定史跡

        
地図リンク
 1965年(昭和40年)に後円部南側から石室が発見され、須恵器提瓶や銅腕が出土したとの伝承がある。現在墳丘上に石室の石材らしき角閃石安山岩が散らばっている。1988年(昭和63年)に墳丘南側で発掘調査が行われ、周溝から土師器坏、須恵器甕、長頸瓶などが出土した。築造時期は6世紀末頃と考えられる。 
 
1979年(昭和54年)4月1日付けで岡部町(当時)指定史跡に指定された。
            
                                                         東側正面にある案内板
深谷市指定文化財
お手長山古墳
          種別       史跡    
                   指定年月日  昭和54年4月1日
 
お手長山古墳は、深谷市岡に所在する。所在地の標高は、約五四メートルであり、櫛挽台地北西部にあたる。古墳の頂部には、天手長男神社が鎮座し、古墳名称の由来ともなっている。現存する墳丘は、長軸四三・五メートル、短軸二二・五メートル、高さ三・五メートルを測る。
 後の時代の耕作等により原形は失われているが、昭和五○年の本庄高校考古学部による墳丘測量調査、昭和六三年及び平成二年の岡部町教育委員会(当時)による発掘調査等により、古墳築造当時の姿が判明した。
 調査結果によれば、古墳の規模・墳形は、後円部径三七メートル、前方部長一二・五メートル、全長四九・五メートルの帆立貝式古墳である。主軸方位はN-一一六度-Eを示す。周溝からは、土師器・須恵器等が検出されたが、古墳の時期を示す明確な遺物は少ない。ただし、古墳周辺に散乱する石室の石材(角閃石安山岩)が六世紀後半以降、頻繁に使用されるものであること、周溝等の理由から六世紀末を前後する年代が想定される。
 当古墳の北西には四十塚古墳群があり、古墳群中には、横矧板鋲留短甲・五鈴付鏡板などが出土した四十塚古墳(五世紀末)、当地域最大級の前方後円墳(全長五一メートル)である寅稲荷塚古墳が存在する。
 お手長山古墳は、これらの古墳と同様に、櫛挽台地北西部を代表する首長墓と言う事ができる。このような有力古墳の集中地帯に、七世紀後半以後は、中宿・熊野遺跡をはじめとする律令期の重要遺跡群が分布することから、古代榛沢群衙(群役所)は、古墳時代首長層の伝統的勢力基盤を継承した形で成立すると考えられる。
                                                       案内板より引用

 古墳の南側に熊野神社遺跡があり、古墳時代から平安時代の集落跡が発掘調査されている。土師器・須恵器・紡錘車・鉄器・銅製帯金具・掘立柱建物跡が出土し、当時の面影を思い抱かせる。そういう意味では榛沢郡は豊な米穀産地で、従事人口も多かった事を意味するのではないだろうか。

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本郷藤田神社

  藤田氏は武蔵七党の猪股党の出で、政行が同国榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称した。行康は源平合戦の一の谷生田森の戦いで討ち死。その子能国・孫能兼は承久ので活躍した。このとき能国が院宣を読み上げ、文博士といわれた。一族は幕府の問注所寄人であった。
 南北朝期武蔵守護代であった大石氏と、藤田氏は姻戚関係があり、武蔵平一揆の乱で能員は勲功を挙げた。永亨のころ、宗員は藤田郷内の聖天堂を興隆している。その妻紀香は岩田氏の出身で、所領を鎌倉円覚寺に寄進。
 長亨の乱で山内・扇谷両上杉氏が同国須賀原・高見原で戦ったとき藤田三郎は長尾景春にくみして戦った。永正のころ、藤田虎寿丸が神奈川権現山合戦に山内上杉憲房に加わっている。その憲房と北武蔵に進出した北条氏綱が対陣したとき、藤田右衛門佐は憲房の使者をつとめた。
 天文初年藤田右金吾業繁は「郡主」を称し、藤田小三郎は「鉢形」にあった。同十五年、川越合戦で北条氏康に敗れた上杉憲政は、上野平井に逃れ、藤田右衛門佐は大石定久と氏康に降った。
 史料に拠れば右衛門佐は康邦とある。氏康の子氏邦はその女を妻とし、藤田氏を継ぎ、秩父郡天神山城から鉢形城に移り、鉢形領を支配した。後北条氏の上野進出では先鋒となり、沼田城代に猪股邦憲を置いた。家督を譲った康邦は用土村に移って藤田を用土に改姓したという。
 その用土地区北方で、旧岡部町本郷に藤田神社は鎮座している。

所在地   埼玉県深谷市本郷1525
御祭神   伊弉諾尊 伊弉冉尊
社  挌   不明
例  祭   10月14日(秋季大祭)

   (後述 「大里郡神社誌」によると社格は旧村社であったのでここに訂正する。)
        
 本郷藤田神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉方向に進み、針ヶ谷地区を越えた本郷駐在所前交差点を左折し、そのまま道なりに行くと2、3分で右側に鎮座する。この社は道沿いにあり、境内は広く奥行きもある。境内北側には社務所があり、そのすぐ隣には駐車スペースもありそこに車を停めて参拝を行った。
           
  道路沿いにある一の鳥居、その奥には二の鳥居がある。一の鳥居の左側には社号標が屹立している。
           
                       鳥居を越えると長い参道が続く。
 
          参道左側には神楽殿                                         右側には境内社、飯玉社か

 藤田神社の獅子舞は、例大祭に合わせ、7月第3土曜日及び、10月中旬に行われている。この獅子舞は法眼、男獅子、女獅子の3頭からなり、神社の夏祭りや秋祭りで奉納される。秩父の皆野­より江戸時代に伝授されたと伝わり、雨乞いや悪疫退散祈願を目的に奉納されてきたもの­である。またある説では慶長5年(1600)、地頭花井伊賀守が、疫病退散のため、左甚五郎作の獅子頭を藤田神社に奉納したことによるとも言われている。
 この藤田神社の獅子舞は、深谷市指定無形民俗文化財に昭和51年11月3日に認定を受けている。
           
                               拝   殿
           
                              本   殿
 延暦(782~806)の昔、坂上田村麿将軍の東夷征伐の途中、藤田社に詣でて武運を祈ったという。そのとき持っていた藤の鞭を地上に逆さまに挿し、「我が軍利あらば繁茂せよ」と誓うと、その藤の鞭に根や葉が生じ、やがて将軍に軍功をもたらしたという。逆藤の旧跡は、現在も伝わっている。
 用土は戦国時代に藤田重利が隠居の後に移り住んだ地でこの地に居城(用土城)し、鎮守の社として藤田神社を創立したともいい、康邦夫婦と祖先正行の三霊を祀ったとという説もある。藤田神社は現在深谷市本郷にあるが、古くは字藤の木にあったらしく、その後明治3年に字中村に遷祀、明治41年に飯玉大神社の境内だった現在地へ移転し、従来の飯玉大神社は境内神社とされた。

 藤田氏は戦国時代には関東管領上杉氏の重臣で鉢形城主だった。しかし、天文15年(1546)の川越夜戦に上杉方が敗北すると、多摩の豪族、大石氏と共に北条氏康に降伏し、氏康の三男氏邦を養子として家督を譲る。自らは鉢形城を出て当主の座を譲り、平野地で防御力の低い用土に館を構え、名も北条氏康の「康」、北条氏邦の「邦」の字を合わせ「康邦」と名乗った。(または名乗らせられた)
 その後康邦は用土城に入ると改名して用土新左衛門と名乗ったという。         

       
 社殿の右側にある合祀記念碑、社日、石祠群。石祠は右から外宮、内宮、天神社までは判別できるがその他は正面が削られて解らず。
          
                 社殿右側にある合祀社群、その奥にある境内社

 藤田神社の散策記を記していて、その途中から寄居町の地図を見ると、不思議に思うことがある。地図を見るとよくわかるが、この用土地区は、現在の寄居町行政区画でも寄居町の中心部から大きく北にかけ離れ、いわば「飛び地」のような形を形成しているのだ。
 上記の通り、藤田氏は武蔵七党の猪股党の出で、政行が同国榛沢郡藤田郷(現寄居町藤田)に拠って藤田を称したという。寄居町末野陸橋付近にあたる。歴史が下り、藤田氏はそれ以降後北條氏の関東進出まで着実に勢力を伸ばし、その勢力は現在の寄居町の天神山城を拠点として、最盛期には大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広範囲であり、北武蔵国随一の豪族に成長する。その寄居町の英雄である戦国時代の藤田氏の因縁の地であり、また終焉の地が用土地区なのだ。
          
                      静かに鎮座する藤田神社境内
 藤田康邦は重連・信吉という二人の子を連れて用土城に引退し、名を用土新左衛門尉と改め、氏邦の命令を家臣に伝達する立場となったが、その地位も次第に低いものとなったであろう。北条氏側から見ても藤田氏は邪魔者でしかなかったようで、康邦は天文24年(1555年)に亡ったが、その長男であり、名目とはいえ藤田家直系当主でもあり、北条氏邦の義兄である沼田城代、用土重連は天正6年(1578年)氏邦によって毒殺されたといわれる。
 用土は藤田氏の起源からその終焉を語る上においても重要な地であり、この地を寄居町側は決して手放したくない、そんな思いがこの行政上の区画割にも伝わる。 


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島護産泰神社

 「御本殿外宇幣殿拝殿屋根葺替回廊大改修築記念碑」で島護産泰神社の由来をこう記述している。

 島護産泰神社御由緒は別に、昇格記念碑並に水舎神楽殿改築記念碑其他諸々の記録で明らかであるが尚一部由来を記す。
 
当社は北武蔵有蹟の社で、景行天皇御宇日本武尊により祭祀され、桓武天皇延暦年間(782-806)坂上田村麻呂将軍祈願参拝された古い社である旧榛沢郡総鎮守でありながら延喜式内神名帳にも登載漏れなり。伝うるに当時榛沢群全域に一社もないのは、正に調査もれによるものであって納得ゆかず古来よりの神異神話神助古文書に存在しておる。
 産泰講並に底抜柄杓奉納起因の儀も建武年間(1334-1338)以前既に奉納の実あり其の意は、御祭神の御神徳古事歴により当社に安産祈願せば不思議にも難みなく毎年数千本の柄杓の奉納ありこれが文久辛酉年(1861)、仁孝天皇皇女和宮殿下将軍徳川家茂公に御降下遊さるるにあたり当社前を御通過あらせらるるや殿下には畏くも鳥居前社標榛沢群総鎮守安産守護神とある文字を御覧遊され卒然御籠を停め御翠簾をあげさせられ容を正し祭神木之花咲夜姫命を遙拝あらせたと言う。
 また社殿は往古より有形的の建物あり種々変遷し慶安年間(1648-1651)焼失以後数度建改築したも極く最近嘉永安政(1848-1859)に亘り、更に改築現今に至り然るに百二十有余年の建物で破損夥しく今回、氏子総意協議誠教致福の精神頗旺盛で改修築委員を組織氏子内工匠全員奉仕約八百万円工事費で竣工の運びとなり是が趣肯石碑に刻し後世に伝えんとす。
                                昭和五十六年四月十日

  武蔵国榛沢郡には式内社が存在しない。何故時の朝廷が認めなかったかは不明だが、榛沢郡には各郡のように有力な社が元々存在しなかったのか、それとも時の朝廷が榛沢郡の式内社の存在を偶々見落としたのか、または故意的に抹殺したのか。榛沢郡の総鎮守と言われる島護産泰神社の参拝中このような疑念が広がった。

所在地    埼玉県深谷市岡3354
御祭神    瓊瓊杵尊  木花咲夜姫命
社  挌    旧郷社 旧榛沢郡総鎮守
例  祭    4月10日 例祭    11月3日 秋季大祭
                                                                                                    

        
  国道17号深谷バイパス岡東交差点から群馬県道・埼玉県道259号新野岡部停車場線を南へ向かって行き、最初の交差点(但し信号は無い)を左折すると、すぐ左側にに島護産泰神社の鳥居と社号標石が見えてくる。群馬県前橋市下大屋町に総本社がある産泰神社は御祭神が木花咲夜姫命であり、古くから安産に霊験ありと有名で、安産・子育てと共に子宝にも恵まれるともいう。
 旧岡部町に鎮座する島護産泰神社は旧称「島護明神」と言われていて、天慶年間、平将門が東国一帯を押領した際に、その征討軍として源経基が征伐のため当地で駐屯して、当社に平定の祈願をしたという伝承もあり、歴史はかなり古いようだ。
 
                     入口にある社号標石                   正面参道鳥居から撮影
                     
                                                      入口左側にある案内板
島護産泰神社(しまもりさんたいじんじゃ)
  当社の創立年代は明らかではないが、旧榛沢郡内の開拓が、当社の加護により進められた為、郡内の格村の信仰が厚くなり、総鎮守といわれるようになったと伝えられている。この為に当社の再建及び修築等は、郡内格村からの寄付によりなされた。祭神は瓊々杵尊・木之花咲夜姫命という。
 当社を島護("とうご"等とも読まれている)と称するのは、この地方が利根川のしばしばの氾濫により、ことに現在の深谷市北部に位置する南西島、北西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、血洗島、伊勢島、横瀬、中瀬の地名をもつ地域(四瀬八島)は、常に被害を受けたため、当社をこれらの守護神として信仰したことによると伝えられている。
 また、当社は、安産の神として遠近より、信仰者の参拝が多く、この際には、底の抜けた柄杓を奉納することでも有名である。四月一○日の春祭には、里神楽が奉納される。
                                                      案内板より引用

   
                    参道左側にある手水舎                 手水舎の反対側には神楽殿
                        
                              拝   殿
                       
                             本殿覆屋
島護産泰神社
 景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国平定の途中に、当所で皇運の隆昌を祈願されたという。
 旧称「島護明神」。社地の東北は低地地帯で、たびたび利根川の水難を被った。この地方は、南西島、北西島、大塚島、内ヶ島、高島、矢島、血洗島、伊勢島と瀧瀬、小和瀬、横瀬、中瀬の四瀬八島に分れ、これらの住民たちにより、当社を諸島の守護神として信仰したことにより、「島護」の名がついた。また榛沢郡の総鎮守という。  天明三年(1783)の信州の浅間山の噴火、利根川の氾濫のときに、当地方で災難を免れることができたのは、当社の霊験によるものといわれた。
 文久元年(1861)年の辛酉の年、皇女和宮殿下の御降嫁の折り、中山道に面した鳥居前の社標に「榛沢郡総鎮守安産守護神」とある文字を御覧になって、篭を停め御翠簾をあげさせ、容を正して御遥拝されたので、村民は遥かに御宮を拝して、慈しみに感じ入り、弥さらに奉斎の念を深からしめたという。
 また安産の信仰から、周辺地域からも多くの参拝があるという。
 
   社殿の左側には二十二夜塔、青面金剛、庚申塔等の石碑が並び(写真左側)、社殿奥左手には境内社2社(写真右側)がある。境内社に関しては、左側「聖天様、内出神社」と書かれており、御祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命2柱。岡部地方には岡部神社や岡廼宮神社等、聖天信仰が盛んな地域だったようだ。右側の境内社は琴平神社と津島神社、三柱神社が納められた社。御祭神はそれぞれ大物主命、素盞鳴尊、火産霊命・澳津彦命・澳津姫命。
 写真右側の境内社2社の左側には冨士嶽大神、小御嶽山、琴平神社等、石碑が並んでいた。

 また社殿の右側には稲荷社(写真左)、社日(写真右)、弁財天がそれぞれ鎮座している。
 
              稲荷社                                社  日
 
              弁財天
              
              島護産泰神社の神楽殿の南隣にある大木。御神木だろうか。

  武蔵国には21の郡に式内社が44座43社存在する。式内社は延喜式神名帳がまとめられた平安時代時点(10世紀前半)で、その地方の有力な社として、またその地域の歴史や文化をも纏めて時の朝廷の承認を受けるいわば保障証であり、また身分許可証のような類のものであったろう。そういう意味において式内社の存在はその数の大小や、社挌によって各郡の順列や品格をも左右されるものであったのではないかと思われる。
 古代日本のみならず世界各地の国に共通することだが、政治の中心地と祭祀施設は、相関関係にあるともいえ、古来、政治と祭祀が一体となって行われてきた様子が、記紀、風土記等の公式な書物や各地の伝承、伝説からも垣間見られる。
                                         
 何故榛沢郡には式内社が存在しなかったのだろうか。
 榛沢郡は東は幡羅郡(式内社4座)、大里郡(同1座)、南は男衾郡(同3座)、西側は児玉郡(同1座)、賀美郡(同4座)そして北は利根川を挟んで上毛国と接している。郡域はおおむね深谷市の明戸、原郷以西部分、岡部地区、寄居町寄居、藤田、末野、桜沢、用土地区という。有史以前から集落が発達し、深谷市緑ヶ丘にある桜ヶ丘組石遺跡は昭和三十年の発掘調査によって、八基の石組遺構が発見され、極めて珍しい遺跡として注目された。年代的には縄文時代後期と推定され、環状列石(ストーンサークル)のような県内では珍しい配石遺跡も存在する。
 郡衙は旧岡部町岡地区で、郡衙周辺には四十塚古墳群熊野古墳群白山古墳群が分布している。その他の地域でも古墳時代末には人口も増し、小規模ながら100基を越す古墳が分布する鹿島古墳群など、多数の古墳があり人口も多かったと思われる。

 その点について気になる伝承が榛沢郡内に存在する。深谷市北部には諏訪神社が数社鎮座しているが、その中に血洗島という一風変わった地域名がある。この由来を調べてみると定説はなく、以下の諸説があるようだ。

 1  赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕をひしがれ、その傷口をこの地で洗ったという。
 2  八幡太郎義家の家臣が、戦いで切り落とされた片腕を洗ったところからその名がついた。
 3  「血洗」(けっせん)は当て字で、アイヌ語の「ケシ、ケセン、ケッセン」(岸、末端、しものはずれ、尻などの意)など、東北・北海道に気仙(ケセン)沼・厚岸(あつケシ)などと共通する同意語で、その地が利根川の洪水による氾濫原であることから、もとは「地洗」(ちあらい)、「地荒」(ちあら)だったのが「地」の字がいつの間にか「血」となった。

 いずれも想像の域を越えないものであるが、気になる説として赤城の山霊をあげたい。「戦場ヶ原神戦譚」と呼ばれる伝説があり、「神代の昔、下野の国(栃木県)の男体山の神と上野の国(群馬県)の赤城山の神が領地の問題(中禅寺湖の領有権)で戦った。男体山の神は大蛇、赤城山の神は大百足に姿を変えて戦場ヶ原で戦った」という神話の中での戦いというが、これを神話上の空想の話とみるかどうかで展開が大きく変わる。

  筆者はあえてこの話はある史実を遠い過去の神話に脚色したものである、と睨んでいて、そのことが榛沢郡の式内社に多大な影響を及ぼしている、と現時点では推測している。大体赤城の神が戦いの後、この地(血洗島)で傷口を洗った、という説話自体、この地が赤城の神にとって安心して傷口を洗える場所、つまり自身の勢力圏内にあった、と言えるではないだろうか。考えるに長らく毛野国の影響下にあった榛沢郡に対して、東西両側にある幡羅郡、加美郡は朝廷側にいち早く乗り移った(寝返った?)。そして毛野国や榛沢郡を監視のために其々の郡には式内社が4座存在していたのではないだろうか。幡羅郡4座の内3座は東山道武蔵路の周辺に鎮座しているが、総鎮守の楡山神社は榛沢郡の東側郡境に位置し、加美郡に至っては4座の悉く利根川周辺に鎮座している。

 式内社は上記にて時の朝廷にとって「身分証明証」の類である、と記述したが、一方、「免罪符」の意味合いも含まれると思われる。ずっと後の時代であるが、明治時代初期に実際にあった話ではあるが、戊辰戦争で幕府方に味方した藩は廃藩置県では県名を許されなったという。ある意味意地悪な話であるが、人間の情としてあり得ない話ではない。幡羅郡、加美郡が其々4座式内社が存在しているに対して大里郡、児玉郡、比企郡、那珂郡は1座しか許されず、ましてや榛沢郡に至ってはゼロである。時の情勢が影響している、と言ってしまえばそれまでだが、それだけでは拭えないなにか大きな理由がそこにはあるような気がしてならない。


 

 
 

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瀬山八幡神社、三ヶ尻観音山、踏鞴薬師堂

 瀬山八幡神社が鎮座する深谷市瀬山地区は、熊谷市三ヶ尻地区と隣接し、律令時代には大里郡、幡羅郡、榛沢郡との境界地域であったという。この地域は地形的には荒川北岸に位置し、荒川という名称らしく時代によって流域の位置がしばしば変わったと思われ、その結果境界域もその都度変化があったと思われる。この瀬山地区も現在は深谷市に編入されているが、古代のある時期三ヶ尻地区内に組み込まれていた期間があったことは多くの文献からわかっている。
 またこの地域は荒川の度重なる氾濫によって肥沃な土地となり、早くから稲作が行われて、また人口も多かったと言われ古代から栄えていた地域だったようだ。

 瀬山八幡神社で10月10日、11日に行われる「八幡神社屋台囃子」「八幡神社庭場の儀」は深谷市無形文化財に指定されている。

所在地   埼玉県深谷市瀬山398
御祭神   誉田別尊(ほむだわけのみこと)(御神体乗馬木彫神像)
社  挌   不明
例  祭   10月10日八幡神社庭場の儀 

       
 瀬山八幡神社は秩父鉄道明戸駅の近くで、国道140号と140号バイパスとの間に鎮座している。この地域はすぐ西側から側にかけて櫛引台地の裾野が広がる。この櫛引台地は荒川によって作られた古い扇状地が浸食されてできた沖積台地で、寄居付近を頂部としているが、構造的には武蔵野面に比定される櫛引面(櫛引段丘)と、南東側の立川面に比定される寄居面(御稜威ヶ原(みいずがはら)段丘)とで段丘状に形成されていて、櫛引面は、JR高崎線沿いの崖線で比高差5~10mをもって妻沼低地と接しているとのことだ。瀬山地区の東端は櫛引段丘との境界部の東側にあたり、荒川北岸の氾濫低地(沖積地)を形成していて、瀬山八幡神社はその沖積地の一角に鎮座している。
       
           瀬山八幡神社入口 社殿の隣には広場があり、子供たちが遊んでいた。
  
       社殿の手前左側にある神明社               鳥居の右側にある稲荷社
   
            拝    殿                           本殿覆屋

 瀬山八幡神社に関して「大里神社誌」で気になる箇所があり、ここに紹介したい。

 以前は、例祭日は、正月11日であった。この祭のあらましは大里郡神社誌によれば次の通りである。
 10日の晩の「前夜祭」には、当番宿から神社への行列がある。当番宿とは、祭の世話をする四人の当番の頭(当番頭)の家のことで、当番酒宿ともいい、1年間、幣帛(御幣)を預る。前夜祭には氏子は皆、当番宿に集まり、神職が幣帛を捧げ持ち、前後をお伴の村(大字)の役員や氏子が、堤燈を携えて厳かに行進をする。神社の前庭には庭燎が焚かれ、殿内には燈篭が点される。  明けて11日午前10時から祭事が執行される。早朝に年番は真新しい大莚を10枚持ち寄り、神事が終ってのち、前庭にこの莚を敷く。社殿を背に中央に神職が座り、神職の左が区長(大字の長)、右に氏子惣代、以下定められた位置に着座し、祝盃を挙げる。おもむろに前年度の当番が暇乞いを告げ、既に選ばれている新年度の当番が披露される。そこで神職は、半紙を四つに切り、そのうちの一枚に鋏で穴を切抜き、それらを折畳んで籤を作り、新年番4人に抽籤をさせる。穴のあいた籤を引いたものが新しい年番頭と決定する。年番頭が年番酒宿となり、これを氏子惣代が発表する。こうして祝盃の宴は盛り上がって行く。
 宴の行事に「御供の儀」というのがあり、餅を取りあう余興の行事らしい。正月7日に氏子から餅米の寄付が集まり、9日に(当番)酒宿で、よく身を清めて餅をつく。この餅は「的り餅」ともいひ、手に入れた者は五穀も養蚕も大当りとなるといわれる。  「莚かぶせ」という行事は、
境内入口付近の池に莚を浸しておき、これを余興の座へ運んできて、皆にかぶせて廻る。餅の争奪に関連する行事らしい。珍しい行事なので、近郷からの見物人も多かったというが、「非文明の行事」という理由で近年(大正頃か)に廃止になった。餅の争奪ともども詳細な説明が欠けているのは残念である。  宴が終ると、新年度の酒宿へ幣帛帰還の式がある。記載はないが、おそらく夕刻に行なはれ、前夜祭と同じ行列が組まれるものと思われる。「酒宿」という名からも、古くはどぶろくが造られて、神社に供進されたようだ。
 今は、例祭は10月11日となり、「庭場の儀」に引き継がれている。
                                                 大里郡神社誌より引用

 ここには瀬山神社の境内入り口付近に「池」があり云々と書かれている。この池はその昔「少間池」と言われ、飯玉神社の項でふれた片目のドジョウの伝説が今でも残っている。俗にいう古代鍛冶集団伝説である。
 
 少間の池は、三尻(みかじり 熊谷市)の観音山から西南へ三○○メートル、瀬山の田圃の中にある。傍らに「少間様」という石宮が祀られている。昔は深い淵だったが、今は埋まって水もなく、ただ細長い池には葦が一面に茂っているのがみられる。
 伝えるところによると、この池に棲む魚はみな片目だったといい、瀬山の人々は「少間様」のお使いだといって、どこで捕まえても「少間様の池」に送りとどける(放つ)か、その場で逃がしてやったという。
                                                埼玉県伝説集成より引用

 瀬山八幡神社の「瀬山」も元々は少間が転じたものだという。また埼玉苗字辞典にも「狭山」について以下の記述がある。

狭山 サヤマ 入間郡勝楽寺村(所沢市)は狭山庄を唱える。同郡二本木村字狭山、木蓮寺村字元狭山、峯村字狭山、三ツ木村字狭山、高倉村字狭山(以上は入間市)あり。今の狭山湖(旧勝楽寺村)より宮寺郷(入間市)の附近一帯を狭山庄と称す。現在の狭山市は昭和二十九年の名称である。また、榛沢郡折之口村字狭山(深谷市)、瀬山村(川本町)一帯を狭山と称す。瀬山村条に「村の東に少間池あり、当国名所狭山の池は是なりと云々」見ゆ。

 
この瀬山八幡神社から国道140号バイパスに向かう道路のすぐ右側に「少間池跡」が存在している。現在は一面水田地帯となっていて石祠として残っているだけだが、元々は鉄穴流し(かんなながし、砂鉄を含む土砂を水で流し、各所に堰を設けた樋に通して、砂鉄と土砂とを選り分ける方法)をしていた際の鉱物の沈殿池だったと言われている。
            
                             小間池跡の石祠
 この「少間」は「さやま」と読む。すると不思議な共通点がある場所に誘ってくれる。この瀬山地区からよく見える山、「三ヶ尻観音山」だ。
                         
                                                             三ヶ尻観音山全景
三ヶ尻観音山
  平地である市内において独立した山で、眺望もよく、特に南方は視界が開けています。標高83.3メートル、周囲約850メートルで、松・なら・くぬぎ等で被われています。
カタクリやニッコウキスゲ、つつじなど四季折々の花が楽しめます。
 南麓にある龍泉寺は真言宗の寺で、渡辺崋山ゆかりの文化財(県指定絵画の松図格天井画・紙本淡彩双雁図、県指定古文書の龍泉寺本訪へい録)を所有しています。カタクリやニッコウキスゲ、つつじなど四季折々の花が楽しめます。
 「成人の日(1月の第2月曜日)」にだるま市が開かれます。

                                                       熊谷市ホームページより引用
  観音山は龍泉寺の裏にある山で熊谷市における景観地の一つです。周囲をとりまく豊かな樹林は人々の心に安らぎを与えるとともに野鳥の絶好の生息地伴っており、貴重な緑地として、ふるさとを象徴するものとなっています。
 林相としては主にアカマツ、コナラ、クヌギ、サクラなどから構成されています。
                                                                                     熊谷市三尻観音山ふるさとの森より引用
                                                                                       
  三ヶ尻観音山は残丘と言われている。残丘とは周囲の台地面に対して一段高くなっている丘陵地のことで、深谷市の仙元山、岡部町の山崎山なども同種である。埼玉県北部のこの辺りは、大昔から利根川、荒川が入り乱れて流れていて、川の流れでまわりだけがけずられていって、観音山の場所だけなぜか残った為、現在の形状となったらしい。
 この三ヶ尻観音山はその昔は「狭山」と呼ばれていたようで、文明18年(1486年)殼恵比国紀行には「弥陀(箕田)という所に明かして武蔵野を分侍るにの径の辺名に聞こえし狭山あり。朝の霜をふみわけて行くに僅かなる山の裾に形ばかりの池あり」と記されていて、この文中にある沙山池は三尻観音山の池であると推察される。また江戸中期に記された「江戸砂子」という書に「狭山は田夫瓶尻のはげ山といい、観音堂あり、力士門の額に狭山の2文字を顕す」とあり、古くから知られていた場所だった。
 また山頂には神名を刻んだ板碑がいくつも建てられ、昔は信仰の山でもあった時期もあったと思われる。延喜式内社、田中神社や、瀬山八幡神社から見る三ヶ尻観音山はまさにランドマークであり、戦略上にも押さえたい自然の要衝だ。

 ではなぜこの三ヶ尻観音山が昔「狭山(さやま)」と呼ばれていたか。この答えを考えてみると終始古代鍛冶集団がそのルーツであったのではないかと考えてしまう。つまり狭山の「サ」が朝鮮語の鉄を意味する「ソ」であり、またある説では「砂」つまり、砂鉄が取れる山という意味ではないかと推測する。観音山において鉄穴流しをした為に少間池はできたということだ。
 不思議なことにこの観音山直下には少間山観音院龍泉寺が存在し、この寺の御本尊は不動明王だが、別に観音山の中腹にある観音堂があり、そこには千手観音が祀られている。龍泉寺の宗派は真言宗豊山派に属し、本山は奈良県桜井市にある長谷寺(はせでら)で、開山開基は1590年であると渡辺崋山は著書の『訪瓺録』の(ほうへいろく)中に記しているが、この千手観音は今から約1200年前この近くの狭山池の水中より出現したとの伝承があり、少なくとも観音堂は龍泉寺の開山開基よりも古い歴史があり、また龍泉寺正統の御本尊である不動明王とは違う歴史の系図があったと見るほうが自然だし、元々観音堂がこの地にあって、後から龍泉寺が建てられれ、この観音堂を吸収、合併したと考える。
 この観音堂に祀られている千手観音は何を意味しているのだろうか。狭山池の水中より出現したという時期が奈良時代という事は少なくともそれ以前に存在していたという事になる。「発見された」という客観的な表現ではなく「出現した」という主体的な表記に隠されたその意味は大変大きい。もしかしたら観音山の鉄穴流しと関連があるのではないか、と想像を膨らましてしまう。

  この三ヶ尻観音山の西側には薬師如来を本尊とするが存在する。別名踏鞴薬師堂。国道140号バイパス沿いなのでよく見える。この薬師堂は道路を隔てたすぐ西側に瀬山正福寺があり、その寺の管理下にあるが、歴史は古く、初代薬師如来は養老元年(717)春日仏師一夜の作と言われている。
           
                         田原(踏鞴)薬師堂全景
           
                        薬師堂の左側にある案内板

 この案内板には興味深い一文が掲載しており、「足でふいごを踏んで金物や和鉄をつくったところに建てた御堂」と書いてある。この一文の意味している意味は非常に重要で、この地「田原」は「踏鞴」であり、「タタラ」であり、古代鍛冶集団がかつてこの地域に活動していた何よりの証拠ではないだろうか。



                                                                                                                 
 

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知形神社

 知形神社の鎮座地は「田中」で、古来より交通の要衝と言われていた。それ故か吉田東伍の『大日本地名辞書』には、「延喜式幡羅郡田中神社はこれなるべし。然るに近世この村 榛沢郡の所管なりしかば、三ヶ尻の田中天神を以て式内に擬せるも、村名にも後世まで存するを想へば、此なる知形明神ぞ式内ならん云々」とあり、幡羅郡の延喜式内社・田中神社に比定している。さて真相はどうであろうか。

所在地   埼玉県深谷市田中612-1
御祭神   彦火瓊瓊杵尊、思兼命  (合祀)菊理姫神 伊弉諾尊 伊弉册尊
社  挌   旧村社
例  祭   10月15日 秋祭り


       
地図リンク
 国道140号線秩父街道から武川交差点で県道69号深谷嵐山線を南下すると、応正寺の西側に知形神社が鎮座している。境内の殆どはゲートボール場になっており、日中は地域のコミュニティの場としてこの神社が存在していているようだ。
 境内周囲には木々が茂り、社殿左側には沢山の末社が纏められている。無形民俗文化財指定の「知形囃子」が奉納される神社として知られている。
 
                             社号標                                           境内の様子 鳥居の形式は明神鳥居
                              
  例祭では、享保年間から氏子により始められたと伝わる、無形民俗文化財指定・知形囃子が奏されている。

知形囃子(昭和三十七年十二月二十五日指定)
 享保九年(1794年)頃知形神社の氏子により受け継がれたものである。毎年七月十五日夏祭りに十一の廊を神輿の渡御の先導になって奏でられたもので知形の囃子、馬鹿囃子、街道下り三曲よりなっている。秩父囃子の源流といわれ、よく似ている.
                                                                                                                     案内板より引用
          
                             拝   殿
 拝殿の向かって左側に境内社がある。
          
 左手前から八坂神社、諏訪神社、琴平宮、雷電神社、見目神社、(?)、手長神社、稲荷神社、八幡神社、荒川神社、金山神社、天満宮、愛宕神社。
 また反対側には御神木の幹に2つ石祠があったが、カメラの容量の関係で撮影できなかった。


 歴史学者、民俗学者で有名な柳田國男の著書「定本 柳田國男集」によると、「ちかた」とは、門神、門を守護する神のことであるという。古語拾遺に「豊磐間戸命・櫛磐間戸命の二柱の神をして、殿門を守衛らしむ。是並、太玉命の子也」とある。深谷市の智形神社の祭神(配祀)が天太玉命であるというのは、このことと関連するのだろう。また天太玉命は、主神の瓊瓊杵命が天降ったときの伴の五柱の神の一柱でもある。

 川本町田中の地は、東西に熊谷と秩父、南北に深谷と嵐山を結び、さらに荒川水流を臨む交通の要所という。この地に知形神社が鎮座しているということは、何か深い意味があることなのだろうが現状それ以上の考察は不明だ。


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