古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

境玉津島神社

 衣通姫は、記紀にて伝承される女性で、『日本書紀』では衣通郎姫(そとおしのいらつめ)、『古事記』では衣通郎女・衣通王(そとおりのみこ)と表記される。大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。木花咲耶姫命、光明皇后、小野小町と並び、古代における有数の美女と名高い女性の1人と言われ、和歌に優れていたとされていて、和歌三神の一柱としても数えられる。
 『古事記』には、允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名で登場し、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中するという衣通姫伝説が残されている。物語は歌謡を含み、逆らいえない愛を生きた運命の人として美しく姫を語っている。 
        
              ・所在地 埼玉県深谷市境81-2
              ・ご祭神 衣通姫命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 4月29日 例祭 10月19日 新嘗祭 11月23日      
 境玉津島神社は深谷市境地区に鎮座する。埼玉県道69号深谷嵐山線を南下して旧川本町方向に進み、『折之口』交差点を右折する。北武蔵広域農道に入り、800m程進むと、進行方向左側前方向に動物病院、コンビニエンスが道を隔てて向かい側にある信号のある交差点にぶつかるので、そこは右折。北上するように約500m道なりに直進し、最初の信号のある十字路を右折し、100m程進むと、左側に境玉津島神社の社号標柱及び、その境内が見えてくる。後で地図を確認すると、鎮座している場所は深谷市立藤沢中学校の南、東に進むと深谷花園温泉花湯の森の施設入口前が道沿いにある。
 正直深谷地区は自分のテリトリーと思っていたが、「境」という地区もこの社参拝によって知ったし、自宅からあまり遠くない場所(それでも車で15分程かかるが)にこのような広い境内のある社が鎮座しているとは、思いもしなかった。やはり世間は広いものだ。
 駐車場は境内参道脇に比較的広いスペースが確保されている。
        
                                境玉津島神社正面
               夕方からの参拝ゆえにやや画像が暗い。
        
                            入り口付近に設置されている案内板
玉津島神社
社名「玉津島」は、県域では珍しくその本社たるべき社は和歌山県和歌山市和歌浦町に鎮座する。衣通姫命が祀られている。
創建は明らかにできないが、別当を努めた真言宗不動山明王院大聖寺を開山した実裕が寛永九年(一六三二)に入寂していることから、既にこのころには当社も祀られていたと思われる。
当社は境の鎮守としてはもちろん、安産の神として古くから信仰されていて、祈願成就の証として柄杓を奉納する風習がある。
境内にある境内神社は
天手長男神社 道祖神社 八坂神社 御嶽神社
平成十二年十月 深谷上杉顕彰会
                                      案内板より引用
 
  道路からもやや離れたところにある鳥居   鳥居前で一礼、長い参道の先に社殿が見える。
 衣通姫を祀る神社では、古くから朝廷の崇敬を受けた和歌山県和歌の浦に鎮座する玉津島神社が有名である。古来玉津島明神と称され、和歌の神として住吉明神、北野天満宮(近世以降は北野社に代わって柿本人麿)と並ぶ和歌3神の1柱として尊崇を受けることになる。玉津島神社由緒略記によれば、当初、稚日女尊のみを祀っていたが、その後稚日女尊を崇拝する神功皇后を併せ祀り、光孝天皇のご病気を平癒させた衣通姫を御勅命により合祀したとの記載がある。
 仲哀天皇の皇后息長足姫(神功皇后)が紀伊半島に進軍した際、玉津島神の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まるという。玉津島は古くは「玉出島」とも称された。神亀元年(724年)2月に即位した23歳の聖武天皇は、同年10月に和歌の浦に行幸してその景観に感動、この地の風致を守るため守戸を置き、玉津嶋と明光浦の霊を祀ることを命じた詔を発したのが、玉津嶋の初見であるという。『和漢三才図会』では、弱浦(わかのうら)という名を改めて、明光(あか)の浦とした時、衣通姫尊が示現して歌を詠んだ。
 立ち帰り又も此の世に跡たれん名も面白きわかの浦浪
『和歌山県神社誌』では、第五十八代光孝天皇の夢に出現し上記の歌を詠んだとある。以来、衣通姫尊が玉津島神社の主祭神の位置になり、住吉、人丸と並んで、和歌三神と呼ばれるようになったという。
        
                                      拝 殿
『新編武蔵風土記稿』によると、「境村」は「坂井」とも書いていた。
 村の鎮守である玉津島神社は安産の神として古くから信仰されていて、当社が女神(衣通姫命)を祭神とすることから起こったものであるようだ。底を抜いた柄杓を奉納して祈願すれば、無事出産できるといわれており、家庭で出産していたころは、近隣の村からの参詣者が相次ぎ、多いときには1ヶ月に150
本もの柄杓があがったという。
 
    
社殿左側に鎮座する道祖神社。       道祖社の右隣には蚕影神社が鎮座。
   金物の草鞋が額代わりについている。
 
         境内社 天手長男神社            社殿手前左側には天王宮が鎮座。
        
                     御嶽塚
 塚の頂には御嶽山国常立実尊・八海山國狭槌尊・三笠山豊斟尊と摩利支尊天碑が建てられていて、その他にも多くの石碑が並ぶ。

 ところで『新編武蔵風土記稿』によると境村の小字には不思議と「鍛冶屋」が存在する。南側には「上原」地区と接し、上原地区の東側には「長在家」地区があり、この長在家、上原両地区にはどちらも小字『下原』がある。この下原という地名は、この地域は世間ではあまり知られていないようだが、嘗て室町時代から江戸時代まで続く武州唯一の刀工群である下原鍛冶の一拠点だったという。
 長在家地域はこの武州下原鍛冶が現八王子地域に移住する前に一時居住し、鍛刀した地域と言われている。何より下原鍛冶に関連した地域、居住した地域にはみな「下原」という字が存在していることは注目に値する。この長在家地域を含めた荒川中流域両岸は、平安時代後期から畠山氏の所領であり、鍛冶製造が発達した一大根拠地と言われている。武州下原鍛冶がこの地にある時期一定期間移住する理由はここにあったと考える。
        
                                   静かな境内
 境地区は、まさに長在家、上原地区に均衡する地域であり、小字「鍛冶屋」の存在こそが、「下原鍛冶」の根拠地とはいかないまでも、鍛冶に携わった一族の居住地域だった可能性が高いと筆者は愚考する。
 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「精選版 日本国語大辞典」「Wikipedia」「和歌山県神社誌」
    
「境内案内板」等
       

拍手[2回]


本田坂上神社

        
             
・所在地 埼玉県深谷市本田4898-1
            
・ご祭神 大己貴命 豊城入彦命 宇迦御魂命 菅原道真公 
                                
軻遇突智命 天照大御命
            ・社 格 旧村社
            
・例 祭 例祭415日 秋例祭1014日
 本田坂上神社は深谷市本田南地区に鎮座する。埼玉県道69号深谷嵐山線を埼玉県農林公園方向に南下し、県道81号熊谷寄居線が交わる「本畠駐在所」交差点をすのまま道なりに南下し、900m程進むと「歩車分離信号」との標識のある信号のある十字路に到達し、そこを左折する。暫くするとY字路(実際は変則的な十字路)となり、右斜め前方向の細い道を300m程進むと、本田坂上神社が鎮座する場所が左側に見える
        
                 本田坂上神社 正面 
 本田坂上神社は、畠山重忠に仕えた本田次郎近常が、祖先俵藤太の信仰していた赤城神社を祀ったと伝えられている。創建当時は現在地より西側にあった「本田館」内に祀ってあったという。江戸期には赤城社と称し、本田村上本田地区の鎮守として祀られていた。
 因みに「坂上」は「かかがみ」ではなく、「さかうえ」と読む。
 
           南向きの鳥居正面を撮影         参道の先には社殿が鎮座する。
 本田坂上神社から西側に500m程西側、埼玉県道69号線から西に行った「上本田公会堂」の西に約100m進むと、道路に面して『本田館跡』の説明板が建てられている。この本田館跡は荒川右岸の江南台地の南緩斜面に築かれた居館跡。土塁、空堀残存している。
 この本田館跡は埼玉県選定重要遺跡に指定されている。
        
                      「本田館跡」南側の道路沿いに設置された案内板
 埼玉県選定重要遺跡(昭和四十四・十二・二十四指定)
 本田館は鎌倉時代から室町時代にかけて築かれたと思われる。
 本田氏は畠山重忠の重臣本田次郎親恒(近常)の後裔と伝えられ、戦国時代本田長繁の代に深谷上杉氏憲に属した。その頃この館を拡大したと思われる。
                            『川本町教育委員会説明板』より引用
        
                     拝 殿
       
              拝殿手前で左側にある「新築記念碑」(写真左)と同碑裏面(同右)
新築記念碑
当社は明治四十四年上本田赤城神社黒の谷稲荷神社後鷹の巣愛宕神社の財産等合併して坂上神社と改稱して現在に及ぶ 社殿は旧赤城神社を使用せしも甚しく老朽せる建物となりたるため神社基金並に愛宕神社持寄りの山林を売却して財源となし氏子中相計り本年二月總工費四五○萬円にて着工し同年十月竣工せり
昭和四十六年十月十五日建之
                                        碑文を引用

        
                  拝殿からの佇まい
 男衾郡本田村坂上神社伝に「藤原秀郷は此地に祠を立てゝ赤城神社を祀りたりと云い伝う。今猶俵薬師と云えるあり、秀郷の裔某此地に住し社殿を営みて村の鎮守となし、地名を氏として本田次郎近常と呼べりという。近常館跡及び末裔今尚存す。明治四十四年社号を坂上神社と改称す」との本田次郎近常に関連した記述がある
 本田次郎近常(親恒)(?~1205)
 平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武蔵武士。幼名は鬼石丸。
 現在の深谷市川本地区にある「本田」を名字の地とし、畠山重忠の側近として活躍した。「平家物語」「源平盛衰記」などの合戦記には、そのほとんどが畠山重忠の乳母子(めのとご)・榛沢六郎成清の名と併記されており、近常と成清が重忠に信頼された側近であったことがわかる。
 平家との戦いでは、一の谷の戦いに参加した際、平清盛の孫・平師盛を討ち取っている。
 畠山重忠が北条氏の謀略によって二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区)で討死した際も近常はともに戦い、重忠の死を知って自害した。
                                深谷市ホームページより参照

 本田氏の祖は平姓の高望王の子・平良文(村岡五郎)の子孫である。良文の孫・兄の平将恒(常)系が秩父、畠山氏となり、弟の平忠恒(常)系が千葉、本田、村上系となる。本田親恒の五代前の祖・恒親(常親・常近)は安房国押領使をつとめ、安房国長狭郡穂田郷を本拠地とし穂田氏と称し、恒親の孫・親幹は武蔵国本田郷へ住み開墾し、「本田姓」となった。下総国の領主である千葉常胤と本田近常(親恒)は元をたどると同族でもあり、石橋山の戦いでは、一旦は平家方に味方した畠山氏を、源氏方に鞍替えさせたのも、本田近常が畠山家の家老№1の立場であった事、重忠の目付け役でもあり、頼朝が石橋山の敗戦後、房総を経て、勢力を巻き返せた立役者のひとりである千葉常胤とは深い関係であり、常胤を介して、頼朝方参陣に至ったのだろう。勿論北条家と婚姻関係であったことも見過ごせない 。

 本田氏と千葉氏との関係は上記に説明した通りだが、実は畠山氏とも千葉氏は深い関係でもあり、畠山重忠の父・重能の女姉妹(祖父・秩父重弘の娘)が千葉常胤の妻である。常胤の妻は畠山重忠の叔母である。千葉常胤の子・胤正は畠山重忠の従兄弟にあたる。
 
              社の南側を流れる吉野川(写真左・右)

 本田坂上神社の南側には荒川支流である吉野川が流れている。現在の吉野川の流域は江南台地内にあり、赤浜地区付近が源となり、鹿島古墳群西側で荒川と合流する狭い河川であるが、かつての吉野川は和田吉野川と密接な関係があったようだ。地元では逆川とも呼ばれている。

拍手[1回]


本田八幡神社

 多治比氏(たじひうじ)は、「多治比」を氏の名とする氏族。 28代宣化天皇(536?~539?)の三世孫多治比古王を祖として臣籍降下した氏族である。多治比縣守は宣化天皇の4世孫(玄孫)にあたる左大臣・多治比嶋の第3子にあたり、奈良時代の貴族である。
 多治比縣守は宣化天皇を出自にもち、父・嶋は左大臣を務めるなど、当時の名門家であり、順調に昇進し、元正朝に入り、霊亀2年(7168月に遣唐押使に任命され、養老2年(71810月に使節団は一人の犠牲者も出さずに無事帰国した。
 養老4年(7209月に陸奥国按察使・上毛野広人が殺害され、史上初の大規模な蝦夷による反乱が発生する。その時には遣唐使使節団を率いた統率力と、東国の地方官(武蔵国守)を務めた経験を買われ、持節征夷将軍に任じられ、当地に赴き、反乱鎮圧は一定の成果を上げたといわれている。
 深谷市本田地区に鎮座する本田八幡神社は多治比縣守が東北地方を鎮撫した際、当地に筥崎宮を勧請して創建したと伝えられている。
        
              ・所在地 埼玉県深谷市本田138
              ・ご祭神 誉田別尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 例祭415日 十五夜祭旧814日 秋日待1015   
 本田八幡神社は深谷市本田地区に鎮座する。荒川を越えて埼玉県道69号深谷嵐山線を埼玉県農林公園方向に南下し、県道81号熊谷寄居線が交わる「本畠駐在所」交差点の北側に社は鎮座している。本田第五自治会館の駐車場に車を停めてから参拝を行った。
        
                 本田八幡神社 正面撮影    
 社伝によると、同社は養老6年(722)の創立で、多治比縣守が渡唐の際に祈願した、福岡市箱崎の筥崎神宮を勧請したもので、『誉田別命を祀れるが故に誉田八幡神社とも稱し、里名を誉田の郷(本田郷)と云ふ。後畠山に分社せるを箱崎八幡宮と云ひ、當社を誉田八幡宮と稱へ奉れり。明治初年に八幡神社と改む』と【大里郡神社誌】にはある。
 
          正面鳥居               南北に長い参道が続く。
 武蔵七党の一つである「丹党」は左大臣・多治比嶋を祖とする氏族とも言われている。多治比広成が天平4年(732年)兄の縣守(第9次押使)に次いで第10次遣唐使の大使に任ぜられて、唐において氏として「多治比」に代えて「丹」墀を用いたのが「丹党」の名称由来とも言われている。
       
      参道の途中には2か所基礎部分がしっかりとした篭が設置されている。
    荒川右岸に鎮座している位置関係から土台をしっかりとしているのだろうか。
      
         2対の灯篭の先には、参道の左右に石碑が立てられている。
左側の石碑は不明。奥に見えるのは「庚申供〇〇」。右側の石碑には〇才尊天と彫られているようだ。
        
                    長い参道の先に明るい空間、そして社殿が見えてくる。

 冒頭で紹介した「多治比氏」は奈良時代から平安時代初頭にかけて武蔵守等の官職に就任された人物が多い。古代氏族系譜集成に「宣化天皇―上殖葉皇子(恵波皇子)―十市王―多治比古王―丹比公島(天武十三年賜多治比真人姓)―守―国人―浜成(兄は武蔵守宇美)―丹墀真人縄主―多治真人今継(武蔵介)。県守の弟広成―家継(造東大寺次官)―丹墀真人貞成(木工頭)―多治真人貞峰(右中弁、貞観十六年卒)」と系図が見られるが、その中で武蔵守、武蔵権守、武蔵権介、武蔵介に就任した人物は以下の通りだ。(上記に記されていない人物で、多治比氏である人物も併せて載せる)
養老三年(719) 武蔵守多治比真人
天平十年(738) 武蔵守多治比真人広足
宝亀二年(771) 武蔵員外介多治比真人乙兄
延暦五年(786) 武蔵守多治比真人宇美
承和十二年(845)武蔵権守丹墀真人門成
嘉祥三年(850) 武蔵守丹墀真人石雄
貞観三年(861) 武蔵権介丹墀真人今継
治安三年(1023) 武蔵介多治石良
 
「丹党」は左大臣・多治比嶋を祖とする氏族とも言われている。その真偽はともかく、これだけの多治比氏が武蔵国に来ていて、その関わりの中で名門家と地方豪族との「血の交わり」もあったのだろうか。       

        
                                   拝 殿
 時代は下り、平安後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国は武蔵七党の勢力地図に包まれ、上野国、下野国、相模国にまで広がりを見せる中、この本田、畠山地域周辺は桓武平氏の流れを汲む、秩父氏の一族である畠山氏が平家に従って20年に亘り忠実な家人として仕えることにより、地盤を固め、その勢力を嵐山町・菅谷方面周辺域まで拡大することができた。
 畠山重忠の側近には榛沢六郎成清と本田次郎近常(親恒)がいた。本田地区は平安末期から鎌倉期にかけて隣村である畠山に館を構えた畠山氏に仕えた本田次郎近常が居住した地といわれており、口碑に「文治年中に畠山重忠と本田次郎近常が協力して社殿を造営した」との伝えが残されている。この本田近常は、元久二年(一二〇五)に武州二俣川において、北条氏によって主人重忠と共に戦死を遂げたことが『吾妻鏡』に見える。
             
                境内にある「八幡神社改修之碑」
 内碑  八幡神社改修之碑
 敬神尊皇は建國以来の諄風國体の基であり崇祖愛郷は報恩感謝に発する親和協力繁栄への道である当八幡神社の御創立は養老六年と伝へられ由縁に拠れば元正天皇霊亀二年多治比縣守遣唐使を命ぜられし折筥崎八幡宮に祈請して霊験をうけ帰朝の後更に養老四年持節征夷将軍として東國の鎮撫にも神護めてたかりしにより此處に筥崎宮を勧請して報賽の礼を行へるに因るといふ誉田別命を祀れるより誉田八幡と崇めこの地を誉田郷本田郷といふと爾来村人の尊崇篤く信仰近郷に及ふここ本田は明治二十二年本田村連合戸長役場区域の畠山村と合併し本畠村となり開化の進むに從ひ武川村と合体して昭和三十年川本村大字本田となった近時世情の進転は著しく村勢弥々盛なれば圃場の整備を行ひ道路を舗装して縦横に貫通させ将来への備へを完了した氏子総代人等は豫てから鎮守の護持に心を碎いてゐたが整備による社地の提供により多額の代償を得ることゝなったのでこれぞ神慮によることと畏みこれを機会に神社の改修を計画し氏子一同の参画多数有志の浄財をも加へて社殿社務所を改築し末社参道鳥居の修復更に境内の整備を行ひ此の度総てを竣成した依って碑を建て時の流れと経緯を記し関係者一同の芳名を刻んで永く記念とするものである
昭和四十九年一月吉日
埼玉県神社庁長武蔵一宮氷川神社宮司東角井光臣題撰並書
 

    社殿左側に鎮座する石祠群。詳細不明。     石祠群の右側には合祀社が鎮座する。
                      左から熊野神社・浅間神社・東照宮・天照宮、
                      八坂神社・天神神社・雷電神社・稲荷神社・
                            山之神社・榛名神社
        
                       社殿左側奥にひっそりと鎮座する白鳥神社

 本田氏は、畠山重忠と同じ良文流の桓武平氏で千葉氏の流れを汲む。平忠常の乱(10281031)で追討使源頼信・頼義父子に敗れ、忠常は都に護送される途中に病死した。頼信・頼義父子は忠常の武勇に敬意を示し、忠常の一族を寛大に扱い保護した。そのため、忠常の子・常将・恒親は房総半島で生き延びた。その後、千葉恒親は安房国稲田村、本田親幹は信濃国本田に居住した。
本田村の本田瑛勇家系
○村岡良文―忠頼―忠恒―恒親(安房国長狭郡穂田郷住、穂田氏)―恒益―親幹(武蔵国男衾郡本田郷住、本田氏の祖)―恒文―親雅―太郎親正(宇治川合戦討死)―道親(入道道観、武蔵本田氏祖 *太郎親正の弟二郎親恒(近常)
                                                拝殿からの参道方向を撮影
 この
本田次郎近常は、文治二年(1186)九州島津御荘の総地頭職に任命された惟宗忠久(後の島津家元祖・島津忠久)の職務代行者として薩摩入りする。惟宗忠久は源頼朝と丹後の局の間に治承三年(1179)に生まれた。丹後の局は比企禅尼の娘・比企能員の妹である。忠久は京都に滞在したままで、地頭職の実務は代官の本田近常が薩摩(鹿児島)で執行した。現在もこの地区に本田姓が多く見られる。
 本田氏・畠山氏・島津氏の3家は血脈関係で結ばれていて、本田親恒の娘が畠山重忠の夫人となり。更にその娘が島津忠久の夫人となる。畠山重忠と本田親恒・貞親父子は、島津忠久を介して、機重にも縁が重なり合った、きわめて緊密な血縁共同体を構成していた。
        
                   埼玉県道69号深谷嵐山線沿いに鎮座する本田八幡神社

 ところで日本書紀(720)・応神天皇即位前紀に「上古の時の俗、鞆を号ひて褒武多(ホムタ)と謂ふ」と見える。「鞆」は弓を射るとき、左の腕に結びつけて手首の内側を高く盛り上げる弦受けの付物の事で、別名「ホムダ」ともいう。
 【大里郡神社誌】の一文では「誉田別命を祀れるが故に誉田八幡神社とも稱し、里名を誉田の郷(本田郷)と云ふ」と記述され、「誉田」は「本田」と地名変更されたとの事だが、そうすると、「誉田」=「本田」=「鞆・褒武多(ホムダ)」ともなる。
 つまり、弓を射るとき、左の腕に結びつけて手首の内側を高く盛り上げる弦受けの付物を作る雑工部を「鞆・褒武多」と称し、彼等の居住地に「褒武多」、後代になり佳字の「本田」を用いたのではないだろうか。本田の意味が「新田」に対する「古田」であれば、他の場所に「本田」地名が多くあってもよさそうであるのだが、武蔵国では武蔵国男衾郡本田村(旧川本町)だけで、何処にも無いのも不思議なことだ。
 
 男衾郡本田村坂上神社伝に「藤原秀郷は此地に祠を立てゝ赤城神社を祀りたりと云い伝う。今猶俵薬師と云えるあり、秀郷の裔某此地に住し社殿を営みて村の鎮守となし、地名を氏として本田次郎近常と呼べりという。近常館跡及び末裔今尚存す。明治四十四年社号を坂上神社と改称す」との本田次郎近常に関連した記述がある。
 本田八幡神社南方近郊に本田館跡がある。この館跡の周辺には、松本鍛冶・蛭川鍛冶・岩崎鍛冶・大沢鍛冶・真下鍛冶等の鍛冶集団が居住している。また本田地域のすぐ西隣には畠山重忠ゆかりの畠山地区もあり、やはり畠山氏と鍛冶集団には切っても切れない深い関係性がそこには存在し、その中核を担う場所こそ、この「本田」地域であったと思われる。

 本田次郎近常は畠山重忠の配下に属していて、武将としても一の谷の戦いに参加した際、平清盛の孫・平師盛を討ち取っているように剛の武将でもあるが、同時に重忠と別行動し、薩摩の地頭職代行のような業務もそつなくこなす能力も兼ね備えた優れた経営者でもあったのだろう。
 この本田地区周辺に多数存在する鍛冶集団の調整役も含めた総纏め的な存在だったからこそ、このような大事を勤め上げられたのだと筆者は勝手に推測しているのだが、如何だろうか。


拍手[2回]


西田気多神社

「当神社の創立は不詳なれども古よりの口碑によれば天正年間能登の国の気多神社の御分霊を奉遷して当字の守護神となし代々厚く崇敬し来り慶応二年二月拜殿を再建し明治九年五月村社申立済となる其の後氏子等生々発展今や四十二世帯二百五十余人に及び祭典に際し狭隘を感ずるに因り我等氏子相計り本殿外宇を新築し拜殿内に在りし本殿をこれに奉遷して拜殿を拡張せんと企て昭和三十年一月着工同年四月その竣工を見るに至れりかくして我等氏子は益々当社の祭祀を懇にし祭神大己貴命の御神徳にあやかりて当字の平和と各家々の福祉とを希わんとせり神祇を崇め祭祀を重んずるは我等の国民性にて政教の基本たり我等はこの祖先の遺風を継承すると共に更に茲に此の挙を刻して後昆に伝えんとす」
                     「
西田鎮守気多神社本殿外宇建築竣工記念碑」より引用
        
              
・所在地 埼玉県深谷市西田428
              ・ご祭神 大己貴命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 410日 例祭 1016日 新嘗祭 1124
              *例祭は「大里郡神社誌」を参照。 
 西田気多神社は国道17号バイパスを本庄方面に進み、国道17号と合流してすぐの「西田」交差点を左折する。この道路は通称「西田通り」と言われ、交差点から南下すること500m程で、左側に西田気多神社の社叢が見える。
 駐車スペースはないので、適当な路肩に停めて急ぎ参拝を行った。
      
         正面にある社号標柱     気多神社本殿外宇建築竣工記念碑
        
                          入口に設置されている特徴ある両部鳥居
 深谷市西田地区に鎮守する。この地域は小山川と志戸川の合流地点の右岸に近接した位置にあたり、嘗ては河川の乱流地域であったことが、この鳥居の低さ、また基礎部分が頑丈なコンクリートブロックを2段重ねにしている所からも見て取れる。
      
               鳥居の左側に聳え立つご神木
        
                      こじんまりとした境内
 西田気多神社は、現石川県能登に鎮座する気多(けた)神社の分社である。同じ名称だが、この西田地区に鎮座する社は「気多」と書いて「きた」と読む。
「気多神社本殿外宇建築竣工記念碑」の由来以外に参考にする資料が少なく、大変編集するのに手間取ったが、推測も交えてこの社の由来等を考察することをお許し願いたい。
「埼玉の神社」での資料によれば、大体の由来記述は冒頭の「気多神社本殿外宇建築竣工記念碑」を根拠にして書かれている。その上で、「当社は、戦国時代に能登国から関東に逃れてきた落武者が祀ったものではないかと推測されている」として纏められている
        
                                   拝 殿
 旧岡部町には「田島氏」が多く存在する。新選武蔵風土記稿岡村条には
「旧家者勘治郎、氏を田島と称す、黒田豊前守が名主を勤む。其祖先を尋るに、岩松遠江五郎時兼の次男経国なる者、弘長年中、父の譲りを受け、上野国邑楽郡田島の郷に住し、田島又太郎と称す。其の子太郎二郎政国、其の子将監経栄、観応三年閏二月新田義宗笛吹峠合戦の役に従ひ、退散して本国に帰らず。当所に跡を止むと云ふ。夫より十三代経命にいたり、長男命義を分家し、次男経明に家を譲る。経明より七代連綿として、今の勘治郎徳一に至る」と見える。
 小山川流域・岡村近郊には砂田村が存在していて、その砂田村より数百メートル南の17国道バイパス附近(道の駅)に榛沢郡の郡衙跡が発掘されており、既に奈良時代頃より多くの居住者がいた。目の前の砂田村が誰にも開発されず原野であったとは考えられず。砂田村住人は既に郡衙時代には土着していたと考えられる。
 明暦二年矢島村検地帳の砂田村境「字やじまたじま」と記載があり、隣地の砂田村には「砂田田島」の小名があって、田島一族の屋敷跡と推測される。砂田村は文明五年小山川の氾濫により、住民全員は高台の岡村へ移転し、滝瀬村字砂田の住民は滝瀬村へ移住した。本庄市史考藤田編に「滝瀬村字砂田の住民については、児玉党の末葉で滝瀬氏に仕へた久米要八の子孫が久米一族である。岡村字砂田は、古老の口碑によれば、文明元年に儀右衛門・善兵衛・藤蔵・武平治・国四郎、その他六人によって開発され、砂田村と称し、数十戸の居住者があったが、永禄四年岡村に全戸移転す」と書かれている。
        
 
   拝殿・向拝部(写真上段)及び木鼻部(同下段左右)には精巧な彫刻が施されている。 
 
社殿左奥に鎮座する「子供みこし庫」と稲荷社     社殿右側に鎮座する蚕影社

 田島家文書(森田藤五郎末裔の森田広太郎所蔵)の「榛沢郡砂田村開発人並に芝切の者」には正平七年から明徳二年までのその地で「芝切」をした人物を時系列に記載している。
・正平七年 上野国田島より来り当所開発頭田島将監。
・延文四年 上野国小林村より来り当所芝切小林兵庫。右同年同所より来り当所芝切小林内蔵。
・貞治五年 田島氏分地より来り当所芝切森田藤五郎。
・貞治六年 上野国大胡在より来り当所芝切小暮小助。
・応安元年 上野国丹羽より来り当所芝切加藤六郎。
・応安五年 武蔵国妻沼より来り当所芝切大野重兵衛。
・永和三年 上野国新田庄より来り当所芝切武藤弥三郎。
・永徳三年 上野国新田庄より来り当所芝切矢内内遠。
・明徳元年 上野国伊勢崎在より来り当所芝切小此木四郎右衛門。
・明徳二年 上野国新田庄より来り当所芝切茂木与五助。
・明徳二年 武蔵国賀美郡金久保より来り当所芝切久保治郎七.
 右の者当所芝切の者並に発頭人は書面の通りに候故、子孫永々此書付大切に可仕候。
ここでいう「芝切」とは、「草深い荒地を開拓して新町村を設立すること、それを行った人。」との事で、近世に開発された新田村などでは,歴史的事実として,最初に荒野を切り開いて耕地と集落を設定した者の子孫の家を草分けとか草切りと呼び,実際にその村の名主,組頭等の村役人を世襲的に独占していたことも多いようだが、上記の内容では、別の地域の人々が当番制のように行っているようにも見える。
        

 旧佐波郡境町(現伊勢崎市)には「瑳珂比神社」が鎮座している。その創建時期に関して、戦国時代に能登半島出身の小此木左衛門尉長光が境地区ほか6ヶ村を領有し、守護神として生国能登国の石動(いするぎ)明神の分霊を境城内に奉斎した大永年間(15211527)とされている。
 榛沢郡砂田村開発人並に芝切の者の中に、明徳元年(1390)上野国伊勢崎在より来たという小此木四郎右衛門という人物との関係性をうかがわせる。
 結論から言うと、
能登半島出身の小此木左衛門尉長光の本名は「小此木」ではなく、「井上」であったが、この地に移り地名に因む「小柴(小此木ともいう)」を姓としたという流れのようだ。
        


 さて小此木左衛門尉長光は金山城主横瀬(※由良氏)の家臣であるが、横瀬・由良氏は岩松系の新田氏である。
 新編武蔵風土記稿岡村条には「旧家者勘治郎、氏を田島と称す、黒田豊前守が名主を勤む。其祖先を尋るに、岩松遠江五郎時兼の次男経国なる者、弘長年中、父の譲りを受け、上野国邑楽郡田島の郷に住し、田島又太郎と称す。其の子太郎二郎政国、其の子将監経栄、観応三年閏二月新田義宗笛吹峠合戦の役に従ひ、退散して本国に帰らず。当所に跡を止むと云ふ。夫より十三代経命にいたり、長男命義を分家し、次男経明に家を譲る。経明より七代連綿として、今の勘治郎徳一に至る」と見え、田島将監経栄は観応三年(1352年)新田義宗笛吹峠合戦の役に従い、敗れてから本国である上州田島郷には帰らず、岡村に留まったことが記載されている。
 その子孫が岡村周辺に広がっていて、砂田村の芝切を通じて周辺を開墾し、その流れはすぐ西隣の西田村にも広がったとは考えられないだろうか。その開墾には同じ新田系由良氏の家臣である小此木一族が関連していると推測する。


 但し、田島氏は南北朝時期、南朝に属していた新田義貞の系列に対して、開墾を手伝った小此木氏の主君は同じ新田氏でも、足利氏に味方した岩松系の由良氏であったため、表立って由来所等に記載することは、田島氏の名誉にかけてできない。そこで、由来書き等には「誰が祀った」かは、うまくぼかしながら記載せず、後世の解説(「埼玉の神社」等)にも「能登国から逃れてきた落ち武者」が祀った、と誘導するように記述したのではなかろうか。       


      

拍手[1回]


山河伊奈利大神社

   
               ・所在地 埼玉県深谷市山河636-1
               ・ご祭神 倉稲魂命
               ・社 格 旧村社
               ・例 祭 祈年祭 227日 例祭 1015日 新嘗祭 1127
               *例祭等は「大里郡神社誌」を参照。
 山河伊奈利大神社は、国道17号を岡部・本庄方向に進み、「岡部」交差点を左折、北武蔵広域農道を南下する。高崎線と交わる高架橋を越えてから最初の交差点を右折。コスモス街道・正式名称は深谷市道岡5号線というらしいが、その道路を1.3㎞程進むと埼玉県道353号針ヶ谷岡線と交わる交差点があるので、そこを左折し、そのまま600m程進むと、交差点付近手前右側に山河伊奈利神社の境内が見えてくる。
 
社に隣接した社務所兼山河会館があり、会館手前には広大な駐車スペースも確保されており、そこに停めて参拝を行う。
        
                     
山河伊奈利神社正面
 深谷市「山河」地区は現在「やまが」と読むが、柏合村明治十三年八海山講碑には「山カハ」と見え、新選武蔵風土記稿にも「山川(ヤマカワ)」村との記載がある。
 
     道路沿いにある一の鳥居            案内板も設置されている。
 伊奈利大神社 
 所在地 岡部町大字山河六三六番地の一
 祭神  倉稲魂命
 沿革    当社の創建年代は明らかではないが、約0.7km西方の字茶臼山に位置する伊奈利塚古墳の上に祭られていたものをいつの頃か現在地に移したと伝える。
 当社の周辺には中世の館跡があり、だんだら山、または馬場屋敷と称されていた。現在は、わずかに痕跡をとどめる程度であるが、かつては、空堀を巡らしていたと伝えられている。この館は、山河村が戦国時代に深谷上杉氏の領地であった時、上杉氏により設置されたもので伊奈利神社は、この館の鬼門除として、館の丑寅(東北方)の位置に存在する。鬼門とは反対側に寺院(昌楽寺)が置かれた。
 当社は、嘉永二(一八四九)年、二月に燈明の火により全焼しているが、神殿は塗替のため長養寺に移されていたため消失をまぬがれている。
 現在の社殿は、嘉永五(一八五二)年に再建されたものである。
                                      案内板より引用
 
 参道は2本あって、左より伊奈利大神社への社殿に向かう正面道と、その右側に末社である八坂神社(写真右)へ向かう脇道(同左)があり、八坂神社の左隣には大国主命の石祠。さらにその右側は社務所兼山河会館、また火の見櫓も含めた広い駐車場がある。
        
                                   朱色の二の鳥居
                 参道の先には社殿が見える。
        
                                        拝 殿
 山河伊奈利大神社正面鳥居脇にある「県営土地改良竣工記念碑」によると、この山河区域は、嘗て耕道らしい道路もなく、屈曲も甚だしく、幅も狭い野道を利用し、また排水路も皆無の状態で、雨期や豪雨には野道が排水路化してしまう状態であった。また水資源にも乏しく、干ばつによる被害は甚大で、一部水田耕作する場所も天水による以外なく、種付不能箇所が所々に点在した状態であったという。
 そこで昭和411112日に岡部土地改良区が設立認可され、地域住民の一同の多年の願望であった道路並びに用水路排水路の新設、同時に土地改良基盤整備の施行となったとの記載がある。

 つい560年前の話ではあるが、嘗てのこの国の農業基盤はほとんど自然の恩恵による作物の出来高次第で決まる時代が長く続いていたのだという事がこの句碑からも分かる。
        
                  拝殿 向拝の龍
 
 拝殿の所々には見事な彫刻が施されている(写真左・右)更に極彩色豊かな素晴らしい本殿もあるという。案内板によれば、嘉永二年の火災の時には、偶々塗り替えの為に隣の長養寺に移されていて、焼失を逃れたそうだ。
 
   社殿奥に鎮座する石祠。詳細不明           富士御嶽塚か
        
                  境内社蚕影山神社
       近年まで養蚕倍盛の神として山河地区氏子の信仰が厚かったという。

 日本に養蚕が伝わったのは弥生時代とされている。今から約 1,700 年前に書かれた、卑弥呼の記述で有名な『魏志倭人伝』には当時の倭で養蚕が行われていたことが記されている。絹織物は上流階級の衣服として生産が続けられたが、庶民階級にまで普及されたのが江戸時代で、幕府は国内での養蚕を奨励し、埼玉県内でも秩父絹や小川絹、川越絹など、地名を冠した商品としての絹織物の産地が生まれる。
 安政 6 年(1859)、ペリーの来航によってそれまでの鎖国を解いて開港すると、諸外国との貿易が盛んになり、日本からの主な輸出品は蚕種(蚕の卵)と生糸、茶で、政府は重要な輸出品目を生み出す養蚕を奨励、埼玉県内でも村々へ桑を植えるように勧めるなど、養蚕を奨励した。

 山河伊奈利大神社では、養蚕がほとんど行なわれなくなった現在でも、当時の名残で、春季例大祭の祭典のときには「言別(ことわ)きて白(もう)さく」と蚕影山神社の神に祈願が捧げられるという。

拍手[1回]