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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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横瀬神社,生品神社、御嶽大神社

 上野国史によると、武州杉山、新井、都島、山王堂、沼和田、仁手等の数村は、古へ上野国那波郡に属していたが、寛永中の洪水で流路が変わり、武蔵国に編入したと記されている。また武蔵風土記によると横瀬村華蔵寺大日堂天正十一年の棟札に、上野国新田庄勢多郡横瀬郷とあるし、又和名抄賀美郡郷名に載せてある小島は、今の小島村と考えられるから、烏川の流路は寛永年中に賀美郡忍保から現在の八町河原に移ったものと考えられる。
  埼玉県深谷市横瀬の横瀬神社別当寺であった華蔵寺大日堂建立時に記録された棟札は、横瀬がかって上野国(現在の群馬県)であったことを証明する貴重な資料となっている。当時の武蔵国と上野国の境は、豊里中学校裏手あたりと思われる。

 明治維新の時慶応4年(1868年)太政官布告「神仏分離令」から起こった廃仏毀釈運動が各地でおきた。仏事の廃止、仏具の破壊、僧侶の神職転向等の嵐が吹き荒れた。横瀬では新田公ゆかりの古刹を保護するために、他所から神社を山門の前に移築して、村社 横瀬神社として華蔵寺は寺院の一部だとごまかした。「横瀬神社は以前別なところに在った」「無住の時があった」との伝承はその証明であろう。

所在地    埼玉県深谷市横瀬1358
社  格    旧村社
主祭神    伊弉諾命、伊弉冉命二座。 (配祀)豐受姫命
例  祭    4月10日

地図リンク
  横瀬神社は国道17号深谷バイパスを岡部方向に進み、道の駅おかべを越えた岡東交差点を右折する。群馬・埼玉県道259号新野岡部停車場線を道なりに真っ直ぐに北上し約2km進むと右側にこんもりとした林と道沿いに沢山の墓地、そして大日堂が見え、そこを右折してそのまま進むと左手に華蔵寺の駐車場があるのでそこに駐車することが出来る
横瀬神社は前記華蔵寺敷地内南側に静かに鎮座し、一見すると寺院の一施設の様に感じるくらい目立たない位置にある。まるで華蔵寺側がこの社を隠しているような印象だ
 
       横瀬神社 社号標             参道 東西に長く伸びていて正面に小さく
                                          一の鳥居が見える。

               立派な横瀬神社拝殿 
  屋根瓦には五七の桐が浮き彫りにされているが、これは横瀬氏及びその子孫である由良氏の家紋という。またよく見ると狛犬が異様に高い位置にある。洪水対策用に作られたものか。

                             拝殿とその奥には本殿鞘殿
              

       鞘殿内には彩色豊かで見事な壁面彫刻の本殿
                深谷市指定文化財


 当社は、後深草天皇の御代の建長年中(1249~56)に、土地の豪族・横瀬三郎為清の勧請によるもので、「聖天宮」の名で、横瀬七郷(横瀬、新戒、古市、大塚、中瀬、高島、石塚)の総鎮守として崇敬された。
 一説に、建武年間(1334~)、武蔵守新田義宗の子の国寿丸が、難を避けて、僧となり密かに横瀬村に移住し、二体の尊体を安置して聖天宮を勧請したという。国寿丸は、当社神前において還俗し、横瀬新六郎貞氏と名のり、後に上野国金山城主となって近地を領した。以来七代にわたる城主の厚い崇敬があった。
 
 徳川幕府時代に至り、横瀬三郎の後裔たる横瀬信濃守は、幕府の高家衆となって江戸神田於玉ヶ池に住んだが、祖先の縁故により、同家からは毎年初穂料として金百疋づつの奉納があり、代々の慣わしとなった。別当の華蔵寺の住僧は、毎年正月元旦に神前に於て横瀬家の武運長久の御祈祷を修行した神札・神供を、利根川の便船を使って届けた。
 明治維新の後、土地の名により横瀬神社と改称した。
 
      本殿の左側には境内社 稲荷社       明治43年大洪水の水標が拝殿前にある。
  自分自身、この地域には思い入れがある。この横瀬地域は母方の実家があり、華蔵寺には先祖代々の墓所が実際にある。母方の姓は「三友」と言い、幼少の時期、新田氏についてよく話を聞いていた。この地域は鎌倉時代末期、清和源氏新田氏の所領であり、横瀬地域は通称「横瀬六騎」と呼ばれる新田家家臣団が存在していたという。

横瀬六騎 
 金山城主横瀬氏の出身地である横瀬郷の富田・栗田・須長・荻野・古氷・三供(三友)の六氏は、宗悦の一門に加へられ横瀬氏を名乗り、宗虎が金山城主として安定した頃に全員本名に復姓した。
 新田正伝或問に「○富田左京兼昌(応永九年卒)―横瀬右近大夫時昌(永享五年卒)―大次郎信昌―左膳重昌―左近之助清昌―左近太郎清宗―大次郎清信(天文九年卒)―富田大三郎清定(天正二年卒)。○栗田平蔵吉久(応永三年卒)―横瀬平七吉勝(永享六年卒)―平馬常吉―助之進常友―孫四郎常記―新次郎常周(弘治元年卒)―栗田孫三郎繁常(元亀二年卒)。○須長幸三郎行幸(応永十一年卒)―横瀬隼人孝棟(嘉吉二年卒)―内蔵助孝林―隼人孝敬―兵庫助孝至―隼人孝泰―内蔵助孝美(天文十五年卒)―須長隼人助繁孝(天正九年卒)。○荻野伊三郎道朝(応永十五年卒)―横瀬掃部道春(永享十二年卒)―織之助道定―縫之助道村―縫之助道吉―枩之助道忠―七三郎道隆(天文十年卒)―荻野丹下道種(天正五年卒)。○古氷図書之助行直(応永七年卒)―横瀬治部行忠(嘉吉三年卒)―半十郎行温―七郎左衛門行恒―図書之助政恒―久米之助道政―古郡丹後政方(永禄十年卒)。○三供右太郎村房(応永十二卒)―横瀬加賀房利(文安二年卒)―新右衛門房保―主計房教―新太郎房茂―新右衛門房次―彦右衛門房賀(弘治元年卒)―三供新右衛門繁房(元亀二年卒)」と見ゆ。金山城主横瀬氏の本名はわからず。

  新田氏ゆかりの地は圧倒的に上野国、特に太田市周辺に多い。が武蔵国北部にも関係していた地は少なからず点在している。この地横瀬も新田の地の一つであるのだ。 


  埼玉県道45号線を東へ走って行くと、小山川の西側に生品神社が鎮座している。

生品神社

 生品神社は太田市周辺に七社ある。それも新田の関係の所にそれぞれ鎮座している。 新田義貞(よしさだ)が鎌倉幕府倒幕のため挙兵し、神前において護良親王(もりよししんのう )に賜った北条氏討伐の令旨(りょうじ)を読み上げたと伝えられる。
 生品神社には何故か平将門の弟が祀られている。氏子は成田山新勝寺には参拝しないと云う言い伝えがあり、今でもお参りしない人がいる。朝廷が下総国公津ヶ原(こうづがはら)に不動明王を安置し朝敵降伏を祈願し、満願日に平将門が討死した。 その不動明王は現在、成田山新勝寺に安置されている。


所在地     埼玉県深谷市高島209
社  格     旧村社
祭  神     大己貴命 御厨三郎将賴
 
 渋沢栄一
が91歳の時に書いた、とされている            鳥居から社殿を望む
            社号標
 地図リンク
 
元、高島村久賀之郷に鎮座し、上野国新田郡 生品明神七社の一つだという。古くは上野国新田荘属し、元久二年(1205)の源実朝下文案に、新田義兼の所領と記載されている。
 
生品神社が鎮座する深谷市高島地区はもと久賀村といったが、義貞が生品社前で旗揚げした時、多数の義兵の旗が天を霞めて飜った。義貞はこれを見あげて「中空高縞(たかしま)の如し」と喜んだという。これが高島村の名の起源だという。
 宝暦年間(1751~64)の利根川の洪水のとき社殿が流失し、今の地に遷座した。

                   
     殿
様式は神明系なのだが祭神は大己貴命 御厨三郎将賴の2神という

                   
     殿

  横瀬神社から一旦南下して滝瀬交差点を左折する。埼玉県道45号線を道なりに真っ直ぐ進み、新戒交差点の先に群馬県道・埼玉県道356号成塚中瀬線と交わる交差点があるのでそこを右折すると左側に御獄大神社が見える。

御獄大神社

 地図リンク
  寛永三年(1626)成塚村の宝蔵寺の創立に当り、吉野の蔵王権現を勧請したものいう当時の地頭 遠山半左衛門は、蔵王権現を深く信仰し、自から不動尊像を描きて奉納したものが、今に寺宝として伝わる。「蔵王大権現」ともいった。『新編武蔵風土記』に「蔵王社、村の鎮守なり」とある。明治七年、御嶽大神社に改称。

所在地   埼玉県深谷市成塚208
主祭神   大山祇命・大己貴命・少彦名命 (配祀) 大物主命
社  格   旧村社
例  祭   4月10日 例大祭

 
 

 
         村社 御獄大神社の社号標                                        鳥居より社殿を撮影
のどかな村の鎮守様というイメージがピッタリと合うような社だ。

                       
拝   殿
 
                    本    殿
  近くに小山川がある為か、この社も川石か葺石らしい基礎で土台を固定し、本殿部分を高く積み上げている 

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井椋神社、畠山重忠史跡公園

  井椋神社が鎮座する荒川中流域一体は櫛引台地、江南台地が南北に展開し、荒川南岸の台地上には鹿島古墳群、出雲乃伊波比神社、塩古墳群、小被神社、鉢形城、稲乃比売神社等、多数存在する。荒川は「荒い川」と古来からの呼称だが、この中流域南岸は比較的平穏な場所だったようで、名社、式内社が点在し、古代において発達した地域だったと思われる。
 郷土の歴史上の人物が少ない埼玉県内にあって、井椋神社は畠山重忠ゆかりの神社であり、畠山重忠は日本史上燦然と輝く人物である。この深谷市川本地区ではこの人物が郷土を代表する歴史的有名人であることに違いなく、坂東武士の鏡として今日まで崇敬され、忠義に篤く、質素を好み、礼儀正しく廉直、桁外れの怪力、先を読み機を見るに敏な知略、頼朝の大きな進軍の先陣をことごとく務めた風格、資料からは欠点など微塵も見当たらない正に伝説の名将である。この人物が生まれ、成長した場所が深谷市「畠山」なのだ。
所在地    埼玉県深谷市畠山942
主祭神    猿田彦大神他四柱(武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売神)
社  格    旧村社 
       
由  緒    江戸時代享保十三年第百十四代中御門天皇の御代に建築されたと推定
例  祭    10月15日 秋祭り 、浦安舞

  
地図リンク
 井椋神社は県道69号深谷嵐山線を嵐山方面に進み、荒川を超え、最初の信号を右折する。そして約500メートル位道なりにまっすぐ進むと、右側に井椋神社の鳥居が見えてくる。深谷市(旧川本町)畠山にある畠山重忠ゆかりの神社だ。駐車場は周辺を見回してもなかったので、鳥居の脇の農道に一時駐車して参拝した。

 ちなみにこの「井椋」という神社名の由来は本社である秩父市下吉田にある椋神社に関連している。

 景行天皇の時、日本武尊東征の際、矛を杖にして山路を越え、この吉田町の赤柴まで来ると、矛が光を放って飛んでいった。尊は不思議に思って光が止まったところまで行ってみると、井の辺のムクの木陰から猿田彦命が現れ道案内をしたという伝説から、尊は持っていた矛を神体として猿田彦命を祀ったことに始まる。ゆえに現在、井椋様と呼ばれ親しまれているという。
 
   一の鳥居は満福寺の東側にあり、そこから二の鳥居まで北方向に300m程参道がまっすぐ伸びている。この満福寺は白田山観音院満福寺といい、真言宗豊山派のお寺で、鳥羽天皇の御代に弘誓房深海上人が開いたと伝えられていて、後に畠山重忠が寿永年間に再興して菩提寺としたという。畠山重忠の菩提寺として実山宗眞大居士の位牌があり、寺宝として茶釜、茶碗、太刀、長刀、大般若教、御朱印状等が伝えられているそうだ。この井椋神社と満福寺両社寺は神仏習合の時代には神宮寺、境内社の関係にあったものと思われる。

              二の鳥居の横にある案内板
井椋神社(いぐらじんじゃ)
 井椋神社は、畠山氏の先祖である将恒から武基、武綱、重綱、重弘、重能の代に至る間、秩父吉田郷領主として井椋五所宮を敬ってきた。その後、重忠の父重能が畠山庄司となって館を畠山に移した時、祖父重綱が勧請(分祀)したものである。
 初めは、井椋御所大明神、井椋五所宮と号していたが後に井椋神社と改称したものである。
 祭神は、猿田彦大神のほか四柱である。そのほか境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神様である蚕影神社、源氏の白旗を祭った白旗八幡神社等がある。
 また、社殿の裏の荒川断崖に鶯の瀬の碑が建立されている。

 荒川のすぐ南岸に位置する地形のためか、洪水対策のための石垣が至る所に組まれている。が、拝殿には特に頑丈な土台はない。

                     拝   殿
 畠山重能が秩父から畠山に移ったとき、秩父市吉田にある椋(むく)神社を勧請したと伝えられていて、椋神社は代々の秩父氏の守り神として尊敬され、井椋神社も畠山氏の守護神であったと推定されている。
 また境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神さまである蚕影(こかげ)神社、源氏の白旗を祭った白旗八幡神社などがある。
 
         境内社:蚕影山神社              八坂神社、天神社、日吉神社、諏訪神社
                                               八幡大神
  
              白旗八幡神社              社殿裏手右側にある浅間神社。奥に小御嶽神
                                           社と食行身禄霊神の石碑あり。
  また神社の社殿の裏の荒川断崖には、「鶯の瀬」の碑が建っている。重忠が家臣の元へ出掛けてその帰路、雨に逢い洪水で荒川を渡れずに困っていると、鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれて、無事に河を渡ることが出来たと言い伝えられている。その浅瀬がこの辺りで、「鶯の瀬」と呼ばれてきたという。
 
鶯の瀬

 荒川のせせらぎの聞えるこの地を鶯の瀬といい、増水時でも川瀬の変わらぬ浅瀬である。
 ここは、畠山重忠公が榛沢六郎成清のもとに行き、帰路豪雨に逢い、洪水で渡れないでいるときに一羽の鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたと言い伝えられており、その故事を詠んだのが次の歌である。
  時ならぬ岸の小笹の鶯は
   浅瀬たずねて鳴き渡るらん
 また、この上流には、古くから熊谷市・江南村方面にかんがい用水を送ってきた六堰があり、遠く秩父連山を眺めながら鮎、ウグイ(通称ハヤ、クキ)等の釣り場として親しまれている名所でもある。
              


畠山重忠史跡公園
 地図リンク
  井椋神社から南東に1km弱、満福寺から斜めに行くとほぼ2,3分足らずで畠山重忠史跡公園に到着する。大里郡神社誌には「五輪塔 六基あり。その一は重忠の墓にして、その他は家臣隷属の墓なり。傍に嘉元二年(1304)卯月九日の建造に係る追福の碑あり。また明治二三年、里人 重忠公の智勇兼備の徳を追慕し、相謀りて記念碑を建つ。所謂 畠山重忠の館跡と称するものこれなり。今なほ残塁を存す。大正一三年二月二五日、埼玉県より古蹟保存を指定せられたり」と記載されている。

  秩父郡の吉田町を本拠地とする秩父氏の嫡流である一族が男衾郡畠山に居を構えたのは、武蔵国留守所総検校職である秩父権守重綱の孫に当る重忠の父畠山庄司重能の代とされている。重忠は当初はこの地を本拠地としていたが、その後菅谷の館に本拠地を移すこととなったようであり、討ち死にを遂げることとなった二俣川の合戦の際には元久2年6月19日菅谷館から出陣したと吾妻鏡には記されている。

一ノ谷の合戦で活躍したとされる馬を背負う畠山重忠の銅像が駐車場の正面に位置

     畠山重忠がが生まれた時につかったという井戸が残されている。

畠山重忠公産湯ノ井戸

 秩父より進出してきた、秩父荘司重能は武蔵国男衾郡畠山村(元大里郡川本町畠山)に館を構えました。のちの長寛二(西暦一一六四)年、秩父荘司重能と相模の豪族・三浦大介義明の娘眞鶴姫との間に二男として重忠が誕生し、その際用いた井戸として【重忠公産湯ノ井戸】と称され伝えられております。又、この井戸は、江戸時代の記録に残された、古井戸二ヶ所のうちの一つでもあります

             
畠山重忠公の墓
 鎌倉時代の関東武士を代表する武将である畠山重忠公は、長寛二年(一一六四年)秩父庄司重能の二男として、現在のこの地の畠山館に生まれ幼名を氏王丸と言い、後に秩父庄司次郎重忠となった。
 剛勇にして文武両道にすぐれ、源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く県北一帯の支配のみならず、伊勢国沼田御厨(三重県)奥州葛岡(岩手県)の地頭職を兼ね、鎌倉武士の鑑として尊敬されたが、頼朝なきあと北条氏に謀られて、元久二年(一二○五年)六月二十二日に二俣川にて一族とともに討たれた。時に重忠四十二歳、子重秀は二十三歳であった。
 この畠山館跡には、重忠公主従のい墓として六基の五輪塔がある。
 また、館跡には嘉元二年(一三○四年)の紀年号のある百回忌供養の板石塔婆、芭蕉句碑や畑和(元埼玉県知事)作詞による重忠節の歌碑などがあり、館の東北方には重忠産湯の井戸などもあって、通称「重忠様」と呼ばれて慕われ、現在は、この地一帯が重忠公史跡公園として整備されている

        板石塔婆(昭和三十九・八・三十一指定)
  主尊は三弁宝珠阿弥陀一尊・種子(キリーク)
 記年銘 嘉元二年甲辰(一三○四年)卯月(四月)九日
 周辺に彫られている文字は、梵字の光明真言である。
 畠山重忠公が元久二年(一二○五年)六月二十二日、横浜二股川で戦死の後、百年忌に当って供養のため建立されたものと伝えられる。


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大寄八幡大神社

 武蔵国榛沢郡は東は幡羅郡、大里郡、南は男衾郡、西側は児玉郡、そして北は利根川を挟んで上毛国と接している。郡域はおおむね深谷市の明戸、原郷以西部分、岡部地区、寄居町寄居、藤田、末野、桜沢、用土地区というが詳細は不明である。有史以前から集落が発達し、深谷市緑ヶ丘にある桜ヶ丘組石遺跡は昭和三十年の発掘調査によって、八基の石組遺構が発見され、極めて珍しい遺跡として注目された。年代的には縄文時代後期と推定され、環状列石(ストーンサークル)のような県内では珍しい配石遺跡だそうだ。
 
榛沢郡は古墳時代末には人口も増し、小規模ながら100基を越す古墳が分布する鹿島古墳群など、多数の古墳がある。その一方、延喜式神名帳には社名が載っておらず、平安時代には隣接する男衾郡や幡羅郡よりは小規模だったと見られているようだが、しかし郡衛である深谷市岡部の中宿(または仲宿)遺跡では、正倉と見られる大規模建物の跡が発見されている。武蔵国の郡衙跡として3ヶ所目、県内では初の発見例だそうだ。

 いわゆる小規模といわれる郡という従来の説に対して、大規模で立派な正倉の建物の存在・・・どうもすっきりしない
矛盾を感じる。
所在地    埼玉県深谷市榛沢486
主祭神    誉田別命(応神天皇)
社  格     不明 
       
由  緒   
 
現在の社殿は江戸時代享保十三年第百十四代中御門天皇の御代に建築され
         たと推定
例  祭
         不明


         
   地図リンク
 大寄八幡大神社は埼玉県道75号熊谷児玉線で児玉方面に向かい、針ヶ谷西の交差点を右折し、埼玉県道86号花園本庄線を本庄方向に北上する。県道86号線は最終的に352号線にぶつかるのでそこを左折し2kmほど直進すると、やがて右手側に大寄八幡大神社が見えて来る。駐車場はなかったので、周りを散策し神社の近くの公園に車を駐車し参拝した。

                 
            
        手水舎 深谷市指定文化財         手水舎とその奥にある御神木
       
                          神楽殿

       
                         拝     殿
  正直、このような静かな地に鎮座していること自体不思議で立派な社殿で、拝殿正面の扉には亀と鳳凰の彫刻が施され、その上には龍の絵が描かれていた。
       
            ガラス越しに本殿を撮影。本殿は深谷市指定文化財
       
                     拝殿左側にある説明板
大寄八幡大神社
  当社の祭神(誉田別命)は、社名に幾度かの変遷があった。江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」では、榛沢六郎成清の勧請により、十一面観音を安置すると記載されている。また昭和五年に編纂された大里郡神社誌では、祭神は、誉田別命(応神天皇)とされている。神社名称もはじめ、児玉宮、御霊宮と呼ばれ、次いで大寄大神社となり、現在の大寄八幡大神社と呼称されるようになったのは戦後のことである。
 本殿は、木造銅板葺で、回廊より上部は、内外とも総彫刻で彩色されている。礎石には、享保十三(1728)年八月施主武政郷助の刻銘がある。
 本殿は、破損が著しいため、昭和五八年に三方ガラス張りの覆屋をつくり、保存につとめている。この他に拝殿、水舎等は、江戸時代後期(文久年間頃)の建立と考えられている。
 また、当社は、祭礼の日には、武道の試合が行われ、遠近の武道者が集まったと伝えられている。拝殿内外に掲げられている奉納額は、これを物語っている。特に角力は、さかんに行われ、御霊宮(大寄八幡大神社の旧名)の角力と言えば、遠く秩父地方にまで鳴響いていたという。
                                                                                                                                                                                                                                案内板より引用
外宇新築拝殿吹替記念
  大寄八幡大神社の社殿は奥院及び拝殿とによって成り御神体に應神天皇を奉る。
 今より凡そ二百五十四年前江戸時代享保十三年第百十四代中御門天皇の御代に建築されたと推定される。武州榛沢郡時代別名五領の宮とも稱ばれ、地元近隣領民の武運を守り崇拝の神として氏子によって尊厳が保たれ現代に及ぶ。
 しかるに近年に到り社屋の老化はげしく高度技術の粋を集めた建物が風雨に打たれ文化財に損傷のきざし有り。特に彫刻天上絵等無類の宝物保護の必要を感じ総氏子協議の結果奥の院全部に上屋をめぐらし更に観賞の立場から下見はガラス張りとなす。亦拝殿屋根は総吹替をなしいぶし銀の瓦瞳にまぶしく神殿の尊厳益々盛んなり。亦右工事に要した費用は神社の営繕費をこれに当て総工費壱阡壱百五拾参万七百拾五円にして昭和五十八年九月その工事の完成を看る。
 特に総氏子これを祝し祭詞奏上の九月二十五日御遷宮となす。
                              昭和五十八年九月二十五日

                                              外宇新築拝殿吹替記念碑より引用
  
     
 

  大寄八幡大神社は、今でこそ八幡神社だが、この名称は戦後に呼ばれたものである。かつては、児玉宮御霊宮と呼ばれ、その後大寄大神社となり、現在の名称となったという。では、かつて名乗っていた児玉宮、御霊宮とはどのような神社だったか。少なくとも八幡神社ではない。

埼玉県苗字辞典では榛沢に関していくつかの記述がある。

榛沢 ハンザワ
 渡来人蕃族の居住地なり。和名抄に榛沢郡榛沢郷を載せ、波牟佐波と註す。
  

 丹党榛沢氏 榛沢郡後榛沢村(岡部町)より起る。武蔵七党系図に「秩父黒丹五基房―榛沢三郎成房―六郎成清(重忠に属し元久二年六月誅せらる。弟に小太郎、四郎)―平六郎成長―七郎―三郎」。安保氏系図に「秩父黒丹五元房―榛沢三郎光経」と。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)に「榛沢。丹治、本国武蔵」と見ゆ。保元物語に「義朝に相随う手勢の者共は、武蔵国には榛沢六郎成清」。源平盛衰記に「畠山が乳人に半沢六郎成清」と見ゆ。

二 鍛冶師榛沢氏 吾妻鑑文治五年八月条に「頼朝の陸奥国阿津賀志山(福島県国見町)の藤原泰衡攻めに、榛沢六郎成清の智謀によって、畠山重忠は連れて来た人夫八十人を使って、用意の鋤鍬で土石を運ばせ、一夜にして掘を埋め、突撃路を造った」とあり。常に先陣を勤める畠山重忠は工兵部隊であり、鍛冶木工頭領であった。其の配下の丹党は製鉄製錬や土木技術にたけていた集団であり、榛沢氏が率いていた。風土記稿・後榛沢村条に「榛沢六郎成清社、村の中程小名蔵屋敷にあり。東光寺、本尊は薬師にて開基は榛沢六郎成清なり。陣屋蹟、古へ賀美郡安保の領主たりし安保氏の陣屋蹟と云伝ふ」と見ゆ。蔵(くら)は古代朝鮮語で銅を指す。薬師はタタラ師の守護仏である。安保(あを)は下野国佐野天命鍛冶一派の青木氏屋敷跡で古は青木村と称す。安保氏は無関係なり。是等の鍛冶集団支配頭が丹党榛沢氏であった。

榛沢の地名に関しては多くは鎌倉時代の由来がほとんどだが、「渡来人蕃族の居住地なり。」という記述には興味深い。
 また榛沢は地名を分割すると榛+沢となる。沢に関しては①山あいの谷川。源流に近い流れ、②水が浅くたまり、葦(あし)・荻(おぎ)などの草の茂っている所、などある地域の地形の状態を表す助詞である。すると本来の地名は「榛」ではなかったろうか。「榛」に関して同じく埼玉県苗字辞典では不思議な記述がある。
 
蕃 バン 中国は北方の異民俗を蕃(えびす)と蔑称した。大和朝廷は中華思想により朝鮮半島の渡来人を蕃と称し、姓氏録には諸蕃と記した。日本書紀・神功皇后摂政前期に「百済王は、今後末永く西蕃と称して、朝貢を絶やしませんと申しあげた」とあり。多くは百済人を蕃と称す。羊(ひつじ)条参照。佳字に番、伴、坂、半、榛等を用いる。

高麗神社の項でも紹介したが

 「北武蔵への渡来人の移住は、6世紀の末頃までさかのぼることができるという。6世紀末、律令制下の武蔵國ができる前、それぞれ壬生吉志が男衾郡、飛鳥吉志が橘樹郡、日下部吉志が横見郡で活躍したと伝えられている。」

 
すべての渡来人が上記の特定の地域しか移住しなかったろうか。とても思えない。一部の人々は榛沢等に住み着いたとも考えられないだろうか。逆に言うと榛沢という地名はそれを証明しているのではなかろうか。

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熊野大神社

所在地      埼玉県深谷市東方1708
主祭神      伊弉冉命
           
事解男命
         
 速玉男命
         
社  格       旧郷社

創建年代     社伝では、延長五年(927)この地に枇杷の木を棟木にして小社を建て、上野国碓井
                       郡  熊野
本宮より奉遷し東方と号す
る、とある。
延喜式神名帳  白髪神社 武蔵国 播羅郡鎮座
例  祭        10月15日 秋季例大祭

               
地図リンク
 熊野大神社は高崎線深谷駅から国道17号で熊谷方向に進み、東方交差点を左折する。そして左側にコンビニエンスがある次の交差点を左折するとすぐに右側に熊野大神社の鳥居が見える。駐車場は、境内の右側にあり、自動車は駐車可能だ。
                     
                     
                     

 
十二代景行天皇御代日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のときに当地を通り、里人に「東の方は何れに当れるや」とたづねたという。醍醐天皇の御代に至り、この地に枇杷の木を棟木として小社を建てて、日本武尊の故事により東方村と名づけられたという。
          
                    熊野大神社 本殿 深谷市指定文化財

由 緒
 古くより小さな社があり、東方という地名もこの社から生まれました。天文(1532~55)の頃、深谷上杉三宿老、皿沼城主岡谷加賀守清英がこの地方を領し、熊野大神社を深く崇拝し、社領を寄進し、今でも熊野免という年貢を免除した土地があります。同じく三宿老の一人、上野台領主秋元但馬守景朝、その子越中守長朝は、当社が上野台の館の東北にあたっているので、城の守りとして崇敬し、天正年間(1573~92)に当社の社殿を造り、現在本殿正面の桁に家紋が彫刻されてあります。天正18年(1590)徳川家康、江戸入城後、松平丹波守康長が東方城主となりましたが、当社を信仰、社領を免除しています。
                                                                                                                                                     全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

 この社は平野部の街中にある神社としては比較的境内は広く、ゆっくりと散策できる。また、多くの境内社もあり見所も多い。
                 

             
                          熊野大神社の静かな佇まい
  由緒書きには、「延長五年に(中略)上野國碓氷郡の熊野本宮より奉遷し(後略)」とある。つまり現在の群馬県と長野県の境にある「熊野神社」からの勧請と考えるのが妥当な話だ。すると不思議な疑問が出てくる。この社は「武蔵國 幡羅郡 延喜式内社 白髭神社」の比定社らしいが、この白髭神社との繋がりはどう考えればいいのだろうか。本当に白髭神社と比定されるのだろうか?
                       
熊野大神社
 深谷市東方1708-1
 当地は古くから開かれた土地であり、地内は家型埴輪が出土した古墳期の森末古墳、奈良期から平安期にかけての堂明様遺跡などが知られています。当社の創建について、社記に-延長5年(西暦927年)この地に枇杷の木を棟木にして小祠を建て上野国碓氷郡熊野本宮より奉遷し東方村と号す-とあります。
 御祭神は伊邪那美命・速玉男命・事解男命の三柱です。
 現在の本殿は上野台の領主萩元但馬守景朝、その子秋元越中守長朝が、当社が館の東北にあたっている事から城の守り神として崇敬し、天正年間(西暦1573年から92年)に当社に社殿を寄進したものであり、本殿正面の桁に秋元家の家紋の彫刻が施されております。
 文政2年と平成11年の大修理を経て今日にいたっております。本殿は昭和34年11月3日に深谷市の指定文化財に指定されました。
 中仙道から一の鳥居をくぐって約300mの参道に入ると両側に奉納された三十九基の石灯籠が続き二の鳥居を過ぎ四百五十二本の玉垣に囲まれた境内地に進むと右側に樹齢350年のご神木の大欅がそびえています。
 三の鳥居をくぐり本殿西側を進むと、氏子の皆様に献木していただいた450本のヅツジ林があります、更に歩くと北に上毛三山を一望出来る大パノラマが開けます。
 主な祭事は春の大祭(4月15日)・秋の例大祭(10月15日)です。
 幡羅小学校児童による浦安の舞いの奉納・入木節の奉納など次代を担う人々の参加は心強いものがあります。又、初詣は年ごとに参拝者が増えており大変な賑わいです、大晦日に「おたきあげ」の火を囲んで甘酒を戴きながら新年を祝う人々の輪は、平和のありがたさを実感させる美しい光景です。元旦は社務所で初釜を催しております、気取らない茶席です新年はぜひおいで下さい。
 当社の氏子数は850戸、また崇敬者は2000人位です。
                                                                                                                                                   平成15年 9月 宮司 栗原時雄社頭掲示板より

                           
 境内には、樹齢350年のご神木の大欅がこの社を守るかのようにそびえている。神木とは、古神道における神籬(ひもろぎ)としての木や森をさし、神体のこと。また依り代・神域・結界の意味も同時に内包する木々であり、日本人は四季折々の自然に対して畏敬の念を抱き、そこに神様を信仰するようになった。今なお暮らしの中にあるご神木が「日本人の心」によって守られている。どんなに文化、文明が進もうとも、日本人としての先史時代から頑なに続く遺伝子は絶えることはない。大切にしたいものだ。

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楡山神社

 楡山神社が鎮座する武蔵国幡羅郡は、江戸時代の新編武蔵風土記稿によれば、今の深谷市東部(旧幡羅村、明戸村)、熊谷市北西部(旧別府村、三尻村、玉井村、奈良村、大幡村の一部)、妻沼町全域とされる。
 
 武蔵国の利根川と荒川に挟まれ、東の埼玉郡に続く幡羅郡は、『和名抄』によれば七郷一余戸という北武蔵最大規模の郡であり、また交通の要衝であった。郡の中心部分は、郡の南西部の台地地帯で、櫛引台地と荒川扇状地とが織り重なる地帯である。中でも台地の北側、郡衙跡の確認された深谷市東方・熊谷市西別府を中心に、西の深谷市原郷から、東の熊谷市中奈良あたりまでが、中心地帯だったと思われ、中奈良では、和銅年間に大量の涌泉があり六百余町の壮大な水田を造成させたといい(文徳実録)、西別府祭祀遺跡からは近年まで湧き水が確認され、隣接の別府沼を形成して付近の広大な水田の水源となっていた歴史があり、深谷市原郷根岸沼は今は地名のみ残るがこれも数十年前まで湧き水が確認され、別府沼と同様のことが想定されている。これらの水源は荒川の伏流水である。

 郡衙跡(幡羅遺跡-はらいせき-)は2001年に発見された新しい遺跡で、保存状態がよく規模も大きく、全国の郡衙跡のなかでも非常に貴重なものであるとされる。郡衙跡の東に隣接する西別府廃寺跡とともに、7~11世紀にかけての幡羅郡の歴史を知る重要な史跡である。

所在地  深谷市原郷336
主祭神  伊邪那美命
社  格     旧県社
社  紋     八咫鏡と八咫烏
例  祭     10月20日 例大祭
由  緒     孝昭天皇御代の創立   
平安期幡羅太郎再興
                
康平年間(1058~65源義家奥州征伐の時勝戦を祈願
                 
正徳年中熊野山正徳院能詮寺を建立社僧が神事を修す
                 
天保 8年(1837)正徳院焼失
                 
明治 5年郷社     明治40年 4月 2日神饌幣帛料供進神社指定
        大正12年 7月 2日県社

     

  楡山神社は埼玉県深谷市にあり、深谷駅の北東 2kmほど,埼玉県道127号深谷飯塚線を北上するとすぐ右側に位置する。個人的に親族が深谷市高畑地区に住んでおり、行き帰りには神社を見ることも多く、その際には何度か参拝も行なっており他の神社より親近感がある。
  孝昭天皇の頃に鎮座したというが創建不明。 延喜式内社。境内は東向き。辺り一帯に楡の木が繁茂していたということで、社名の由来と なっている。また境内付近には古墳が散在しており15基ほどを木の本古墳群と総称、楡山神社周辺から南東へほぼ道路沿いに分布しており、観察は比較的容易である。


 東の入口の一の鳥居横につい近年まで大楡の神木(樹齡約600年・県天然記念物)があったが、今は切り株のみで近くには表札がある。
   
         楡山神社正面参道                     楡山神社の大楡

楡山神社大ニレ
                                                                                        埼玉県指定天然記念物
                                                       昭和二四年二月二二日指定
 楡山神社の御神木となっている古木で、目通り約三・六メートル、樹高約一○メートル、樹齢は約六○○年と推定されています。
 ニレは、山地性の落葉樹で、ハルニレとアキニレがありますが、この木はハルニレです。ハルニレは、皮を剥ぐと脂状にぬるぬるするところから別名ヤニレともいいます。樹皮からは繊維が採れ、縄などが作られました。北海道から本州の山地に自生していますが、この木は関東地方の平野部にあるという点で貴重です。
 楡山神社は、平安時代につくられた「延喜式神名帳」に記載される古社で、幡羅郡の総鎮守です。
「楡山」の由来は、昔からこの地方一帯に、ニレの木が繁っていたことによるといわれています。

                                                     平成六年三月 埼玉県教育委員会
                
                   参道の右側、方位では北側に神楽殿がある
           
                        拝殿前の二の鳥居から撮影
           
           
                          拝殿 明治43年再建
 楡山神社は嘗て幡羅郡総鎮守」、「幡羅郡總社あるいは幡羅大神とも呼ばれていたという。幡羅郡は、中世までは「はらぐん」「はらのこおり」と読まれた。当地が
幡羅郡幡羅郷の中心部であったことから「原ノ郷」「原之郷」の村名となったという。
 江戸時代には、
愛宕神社(原郷)を「小鎮守」と呼び、楡山神社を「大鎮守」との俗称もあった。瑠璃光寺を別当とし、「楡山神社」の社名の他に「楡山熊野社」(新編武蔵国風土記稿)、「熊野三社大権現」(扁額)などの呼称もあった。
 明治五年、旧入間県八大区
を代表する「郷社」に制定される。八大区の範囲は、旧幡羅郡全域、旧大里郡荒川以北、旧榛沢郡の大半(深谷・藤沢・武川・花園・用土・寄居・大寄の一部)に渡り、深谷熊谷妻沼寄居の四市街地を含む。のち郷社は複数となり、大正12年には「県社」に昇格。
           
 本殿 
春日造、欅桧楡材、造営年不詳。明治以前は屋根は桧皮葺で千木と鰹木があり、柱などに葵の紋金具があったという。

 楡山神社が鎮座する幡羅郡は、元来「原」であったが、その後「幡羅」に改められた。713年(和同6年)5月、畿内七道諸国郡郷名には「好字」を用いることが命じられた。またこの命令を反映したものと見られる『延喜式』民部省式の規定にも郡や里の名には「二字」の「嘉名」をつけることが決められていた。これらの制度を受け、奈良時代以降は「幡」・「羅」の雅な漢字を当て「幡羅郡」と称したものと見られる。『和名抄』に「ハラ」とあように、古代においては読みは「はたら」ではなく、元来通り「はら」であった。郡衙跡(後述)から出土した平安時代初期頃のものと見られる遺物には「原郡」の表記も見られ、奥州多賀城跡から出土した木簡(後述)に見られる通り正式には「幡羅」の表記となっていたものの、なお郡域では「原」の字を用いたこともあったようである。中世以後、漢字表記に引かれる形で「はたら」の読みが広がり、明治時代以後は完全に「はたら」となり現在の地名の読み方に至っている。
『楡山神社由緒』より
【御祭神】
 伊邪那美命。一柱。
 夫の伊邪那岐命と共に、国土や山川草木の神々をお生みになった神。「国生み」の神。
 末子に火産霊神をお生みになって後、鎮火の法を教え諭した神。
【鎮座地】
 埼玉県深谷市大字原郷三三六番地。
 旧埼玉県大里郡幡羅村大字原郷。
 旧武蔵国幡羅郡幡羅郷原ノ郷村。
 古くは幡羅ノ郡(はらのごほり)といっていたのを、近世に漢字を改めて原郷としたという。
【御社名の由来と御神木・御神紋】
 御社名の由来は、御神域一帯に楡の木が多かったことによる。正面大鳥居の脇の楡の古木一本は、代々御神木と崇められ、樹齢一千年ともいい、現在は埼玉県の文化財(天然記念物)に指定されている。
 当社の御神紋の「八咫烏」は、初代神武天皇の東征の際、南紀の熊野から、翼の大きさ八尺余りの道案内で、大和に入ったという故事から、当社が熊野権現といわれた時代に定まったものといわれる。
【御創立と沿革】
 五代孝昭天皇の御代の御鎮座という言い伝えがあった。
 大字原郷全域から東隣の大字東方の西部にかけて分布する木之本古墳群(木之本は小字名)は、奈良時代ごろのものといわれ、古くからひらけた土地であることをうかがわせる。現在の末社の天満天神社(富士浅間神社)や知知夫神社も、後世の創祀ではあるが、古墳の塚上に祀られていたものである。かつては境内の森の奥にも塚があり、「里人不入の地」といわれた。
 延喜年間(平安時代)、醍醐天皇の御代に朝廷の法規などをまとめた書「延喜式」の「神名帳」の巻に、「武蔵国幡羅郡四座」のうちの一社「楡山神社」とある。すなわち朝廷より幣帛を賜った古社であり、「延喜式内社」といわれる。
 旧原ノ郷村は、平安時代中期の北武蔵の武将・幡羅太郎道宗の再興になる地域である。神社の南西に史跡「幡羅太郎館址」がある。当時から幡羅郡の総鎮守、幡羅郡總社といわれ、御社名を幡羅大神ともいった。
 康平年間(1058~1065)、源義家の奥州征伐の時、幡羅太郎道宗の長男の成田助高は、当社に立ち寄って戦勝を祈願したという。成田家は後に行田の忍城主となっていったが、当社は成田家代々の崇敬が篤かったという。
 徳川時代には、旧社家の没落と共に別当天台宗東学院の管理する所となり、熊野三社大権現と称したこともあった。当時より節分の日の年越祭は盛大であり、「権現様の豆撒」などともいわれた。
 明治に入り、御社名を楡山神社にもどす。明治五年、旧入間県八大区の郷社に制定される。大正一二年県社に昇格。
 大正二年、中絶していた年越祭を再興。戦中戦後の一時期は中断していたが、戦後に神職氏子の努力によって復興させ、毎年節分当日は巨万の賽客で賑わい、追儺の神事や花火(戦前は「おだまき」と称した地域伝来の花火)などの行事が夜遅くまで続く』

本殿の周囲には、幾つかの境内社が鎮座している。
  
        招魂社と知々夫神社            八坂神社               大雷神社
  
         
        手長神社              大物主神社             天満天神社
            
                              荒神社 
 元々は根岸にあった荒神社をこちらに移転したもので、同社境内にあった諏訪神社と春日神社が合祀されている。火産霊命、奥津比古命、奥津比売命の三柱を主祭神とし、他に御穂須々美命、天津児屋根命、斎主命、武甕槌命、比売命が祀られているとのこと。春日四神が春日神社の祭神であると見ると、御穂須々美命が諏訪神社の祭神と言うことになるのだろうか。聞き覚えの無い名前だったので調べてみると、建御名方命の妹にあたる神様であるようだ。
 また、石燈籠には享和三癸亥歳九月吉日との文字が刻まれており、1803年に奉納されたもの。
           
      荒神社近くのの中の道には、「楡山」と刻印された旧拝殿の鬼瓦と説明書がある。
              
               寒神社(道祖神)                          伊奈利神社  

           

  武蔵国北部最大の郡である幡羅郡は、地形上でも要衝の地と言われている。その根拠は一体なんだろうか。その理由の一つは東山道武蔵路ではないかと考えている。

 ■■■東山道武蔵路■■■

  古代に造られた官道の一つ。当初東山道の本道の一部として開通し、のちに支路となった道であり、上野国・下野国から武蔵国を南北方向に通って武蔵国の国府に至る幅12m程の直線道路であった。

 奥州多賀城跡から出土した木簡に「武蔵国幡羅郡米五斗、部領使□□刑部古□□、大同四年(809年)十□月」とあり、刑部氏の何らかの関連があったような記述が存在する。刑部は第19代允恭天皇の后の忍坂大坂姫の御名代部として設置された部民。また延喜式内社の白髪神社は、郡衙近くに存在し、白髪部の関与が想定されるという説があるそうだ。


                        
                      楡山神社西側、楡山神社前交差点付近にある鳥居

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