古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

本田八幡神社

 多治比氏(たじひうじ)は、「多治比」を氏の名とする氏族。 28代宣化天皇(536?~539?)の三世孫多治比古王を祖として臣籍降下した氏族である。多治比縣守は宣化天皇の4世孫(玄孫)にあたる左大臣・多治比嶋の第3子にあたり、奈良時代の貴族である。
 多治比縣守は宣化天皇を出自にもち、父・嶋は左大臣を務めるなど、当時の名門家であり、順調に昇進し、元正朝に入り、霊亀2年(7168月に遣唐押使に任命され、養老2年(71810月に使節団は一人の犠牲者も出さずに無事帰国した。
 養老4年(7209月に陸奥国按察使・上毛野広人が殺害され、史上初の大規模な蝦夷による反乱が発生する。その時には遣唐使使節団を率いた統率力と、東国の地方官(武蔵国守)を務めた経験を買われ、持節征夷将軍に任じられ、当地に赴き、反乱鎮圧は一定の成果を上げたといわれている。
 深谷市本田地区に鎮座する本田八幡神社は多治比縣守が東北地方を鎮撫した際、当地に筥崎宮を勧請して創建したと伝えられている。
        
              ・所在地 埼玉県深谷市本田138
              ・ご祭神 誉田別尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 例祭415日 十五夜祭旧814日 秋日待1015   
 本田八幡神社は深谷市本田地区に鎮座する。荒川を越えて埼玉県道69号深谷嵐山線を埼玉県農林公園方向に南下し、県道81号熊谷寄居線が交わる「本畠駐在所」交差点の北側に社は鎮座している。本田第五自治会館の駐車場に車を停めてから参拝を行った。
        
                 本田八幡神社 正面撮影    
 社伝によると、同社は養老6年(722)の創立で、多治比縣守が渡唐の際に祈願した、福岡市箱崎の筥崎神宮を勧請したもので、『誉田別命を祀れるが故に誉田八幡神社とも稱し、里名を誉田の郷(本田郷)と云ふ。後畠山に分社せるを箱崎八幡宮と云ひ、當社を誉田八幡宮と稱へ奉れり。明治初年に八幡神社と改む』と【大里郡神社誌】にはある。
 
          正面鳥居               南北に長い参道が続く。
 武蔵七党の一つである「丹党」は左大臣・多治比嶋を祖とする氏族とも言われている。多治比広成が天平4年(732年)兄の縣守(第9次押使)に次いで第10次遣唐使の大使に任ぜられて、唐において氏として「多治比」に代えて「丹」墀を用いたのが「丹党」の名称由来とも言われている。
       
      参道の途中には2か所基礎部分がしっかりとした篭が設置されている。
    荒川右岸に鎮座している位置関係から土台をしっかりとしているのだろうか。
      
         2対の灯篭の先には、参道の左右に石碑が立てられている。
左側の石碑は不明。奥に見えるのは「庚申供〇〇」。右側の石碑には〇才尊天と彫られているようだ。
        
                    長い参道の先に明るい空間、そして社殿が見えてくる。

 冒頭で紹介した「多治比氏」は奈良時代から平安時代初頭にかけて武蔵守等の官職に就任された人物が多い。古代氏族系譜集成に「宣化天皇―上殖葉皇子(恵波皇子)―十市王―多治比古王―丹比公島(天武十三年賜多治比真人姓)―守―国人―浜成(兄は武蔵守宇美)―丹墀真人縄主―多治真人今継(武蔵介)。県守の弟広成―家継(造東大寺次官)―丹墀真人貞成(木工頭)―多治真人貞峰(右中弁、貞観十六年卒)」と系図が見られるが、その中で武蔵守、武蔵権守、武蔵権介、武蔵介に就任した人物は以下の通りだ。(上記に記されていない人物で、多治比氏である人物も併せて載せる)
養老三年(719) 武蔵守多治比真人
天平十年(738) 武蔵守多治比真人広足
宝亀二年(771) 武蔵員外介多治比真人乙兄
延暦五年(786) 武蔵守多治比真人宇美
承和十二年(845)武蔵権守丹墀真人門成
嘉祥三年(850) 武蔵守丹墀真人石雄
貞観三年(861) 武蔵権介丹墀真人今継
治安三年(1023) 武蔵介多治石良
 
「丹党」は左大臣・多治比嶋を祖とする氏族とも言われている。その真偽はともかく、これだけの多治比氏が武蔵国に来ていて、その関わりの中で名門家と地方豪族との「血の交わり」もあったのだろうか。       

        
                                   拝 殿
 時代は下り、平安後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国は武蔵七党の勢力地図に包まれ、上野国、下野国、相模国にまで広がりを見せる中、この本田、畠山地域周辺は桓武平氏の流れを汲む、秩父氏の一族である畠山氏が平家に従って20年に亘り忠実な家人として仕えることにより、地盤を固め、その勢力を嵐山町・菅谷方面周辺域まで拡大することができた。
 畠山重忠の側近には榛沢六郎成清と本田次郎近常(親恒)がいた。本田地区は平安末期から鎌倉期にかけて隣村である畠山に館を構えた畠山氏に仕えた本田次郎近常が居住した地といわれており、口碑に「文治年中に畠山重忠と本田次郎近常が協力して社殿を造営した」との伝えが残されている。この本田近常は、元久二年(一二〇五)に武州二俣川において、北条氏によって主人重忠と共に戦死を遂げたことが『吾妻鏡』に見える。
             
                境内にある「八幡神社改修之碑」
 内碑  八幡神社改修之碑
 敬神尊皇は建國以来の諄風國体の基であり崇祖愛郷は報恩感謝に発する親和協力繁栄への道である当八幡神社の御創立は養老六年と伝へられ由縁に拠れば元正天皇霊亀二年多治比縣守遣唐使を命ぜられし折筥崎八幡宮に祈請して霊験をうけ帰朝の後更に養老四年持節征夷将軍として東國の鎮撫にも神護めてたかりしにより此處に筥崎宮を勧請して報賽の礼を行へるに因るといふ誉田別命を祀れるより誉田八幡と崇めこの地を誉田郷本田郷といふと爾来村人の尊崇篤く信仰近郷に及ふここ本田は明治二十二年本田村連合戸長役場区域の畠山村と合併し本畠村となり開化の進むに從ひ武川村と合体して昭和三十年川本村大字本田となった近時世情の進転は著しく村勢弥々盛なれば圃場の整備を行ひ道路を舗装して縦横に貫通させ将来への備へを完了した氏子総代人等は豫てから鎮守の護持に心を碎いてゐたが整備による社地の提供により多額の代償を得ることゝなったのでこれぞ神慮によることと畏みこれを機会に神社の改修を計画し氏子一同の参画多数有志の浄財をも加へて社殿社務所を改築し末社参道鳥居の修復更に境内の整備を行ひ此の度総てを竣成した依って碑を建て時の流れと経緯を記し関係者一同の芳名を刻んで永く記念とするものである
昭和四十九年一月吉日
埼玉県神社庁長武蔵一宮氷川神社宮司東角井光臣題撰並書
 

    社殿左側に鎮座する石祠群。詳細不明。     石祠群の右側には合祀社が鎮座する。
                      左から熊野神社・浅間神社・東照宮・天照宮、
                      八坂神社・天神神社・雷電神社・稲荷神社・
                            山之神社・榛名神社
        
                       社殿左側奥にひっそりと鎮座する白鳥神社

 本田氏は、畠山重忠と同じ良文流の桓武平氏で千葉氏の流れを汲む。平忠常の乱(10281031)で追討使源頼信・頼義父子に敗れ、忠常は都に護送される途中に病死した。頼信・頼義父子は忠常の武勇に敬意を示し、忠常の一族を寛大に扱い保護した。そのため、忠常の子・常将・恒親は房総半島で生き延びた。その後、千葉恒親は安房国稲田村、本田親幹は信濃国本田に居住した。
本田村の本田瑛勇家系
○村岡良文―忠頼―忠恒―恒親(安房国長狭郡穂田郷住、穂田氏)―恒益―親幹(武蔵国男衾郡本田郷住、本田氏の祖)―恒文―親雅―太郎親正(宇治川合戦討死)―道親(入道道観、武蔵本田氏祖 *太郎親正の弟二郎親恒(近常)
                                                拝殿からの参道方向を撮影
 この
本田次郎近常は、文治二年(1186)九州島津御荘の総地頭職に任命された惟宗忠久(後の島津家元祖・島津忠久)の職務代行者として薩摩入りする。惟宗忠久は源頼朝と丹後の局の間に治承三年(1179)に生まれた。丹後の局は比企禅尼の娘・比企能員の妹である。忠久は京都に滞在したままで、地頭職の実務は代官の本田近常が薩摩(鹿児島)で執行した。現在もこの地区に本田姓が多く見られる。
 本田氏・畠山氏・島津氏の3家は血脈関係で結ばれていて、本田親恒の娘が畠山重忠の夫人となり。更にその娘が島津忠久の夫人となる。畠山重忠と本田親恒・貞親父子は、島津忠久を介して、機重にも縁が重なり合った、きわめて緊密な血縁共同体を構成していた。
        
                   埼玉県道69号深谷嵐山線沿いに鎮座する本田八幡神社

 ところで日本書紀(720)・応神天皇即位前紀に「上古の時の俗、鞆を号ひて褒武多(ホムタ)と謂ふ」と見える。「鞆」は弓を射るとき、左の腕に結びつけて手首の内側を高く盛り上げる弦受けの付物の事で、別名「ホムダ」ともいう。
 【大里郡神社誌】の一文では「誉田別命を祀れるが故に誉田八幡神社とも稱し、里名を誉田の郷(本田郷)と云ふ」と記述され、「誉田」は「本田」と地名変更されたとの事だが、そうすると、「誉田」=「本田」=「鞆・褒武多(ホムダ)」ともなる。
 つまり、弓を射るとき、左の腕に結びつけて手首の内側を高く盛り上げる弦受けの付物を作る雑工部を「鞆・褒武多」と称し、彼等の居住地に「褒武多」、後代になり佳字の「本田」を用いたのではないだろうか。本田の意味が「新田」に対する「古田」であれば、他の場所に「本田」地名が多くあってもよさそうであるのだが、武蔵国では武蔵国男衾郡本田村(旧川本町)だけで、何処にも無いのも不思議なことだ。
 
 男衾郡本田村坂上神社伝に「藤原秀郷は此地に祠を立てゝ赤城神社を祀りたりと云い伝う。今猶俵薬師と云えるあり、秀郷の裔某此地に住し社殿を営みて村の鎮守となし、地名を氏として本田次郎近常と呼べりという。近常館跡及び末裔今尚存す。明治四十四年社号を坂上神社と改称す」との本田次郎近常に関連した記述がある。
 本田八幡神社南方近郊に本田館跡がある。この館跡の周辺には、松本鍛冶・蛭川鍛冶・岩崎鍛冶・大沢鍛冶・真下鍛冶等の鍛冶集団が居住している。また本田地域のすぐ西隣には畠山重忠ゆかりの畠山地区もあり、やはり畠山氏と鍛冶集団には切っても切れない深い関係性がそこには存在し、その中核を担う場所こそ、この「本田」地域であったと思われる。

 本田次郎近常は畠山重忠の配下に属していて、武将としても一の谷の戦いに参加した際、平清盛の孫・平師盛を討ち取っているように剛の武将でもあるが、同時に重忠と別行動し、薩摩の地頭職代行のような業務もそつなくこなす能力も兼ね備えた優れた経営者でもあったのだろう。
 この本田地区周辺に多数存在する鍛冶集団の調整役も含めた総纏め的な存在だったからこそ、このような大事を勤め上げられたのだと筆者は勝手に推測しているのだが、如何だろうか。


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西田気多神社

「当神社の創立は不詳なれども古よりの口碑によれば天正年間能登の国の気多神社の御分霊を奉遷して当字の守護神となし代々厚く崇敬し来り慶応二年二月拜殿を再建し明治九年五月村社申立済となる其の後氏子等生々発展今や四十二世帯二百五十余人に及び祭典に際し狭隘を感ずるに因り我等氏子相計り本殿外宇を新築し拜殿内に在りし本殿をこれに奉遷して拜殿を拡張せんと企て昭和三十年一月着工同年四月その竣工を見るに至れりかくして我等氏子は益々当社の祭祀を懇にし祭神大己貴命の御神徳にあやかりて当字の平和と各家々の福祉とを希わんとせり神祇を崇め祭祀を重んずるは我等の国民性にて政教の基本たり我等はこの祖先の遺風を継承すると共に更に茲に此の挙を刻して後昆に伝えんとす」
                     「
西田鎮守気多神社本殿外宇建築竣工記念碑」より引用
        
              
・所在地 埼玉県深谷市西田428
              ・ご祭神 大己貴命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 410日 例祭 1016日 新嘗祭 1124
              *例祭は「大里郡神社誌」を参照。 
 西田気多神社は国道17号バイパスを本庄方面に進み、国道17号と合流してすぐの「西田」交差点を左折する。この道路は通称「西田通り」と言われ、交差点から南下すること500m程で、左側に西田気多神社の社叢が見える。
 駐車スペースはないので、適当な路肩に停めて急ぎ参拝を行った。
      
         正面にある社号標柱     気多神社本殿外宇建築竣工記念碑
        
                          入口に設置されている特徴ある両部鳥居
 深谷市西田地区に鎮守する。この地域は小山川と志戸川の合流地点の右岸に近接した位置にあたり、嘗ては河川の乱流地域であったことが、この鳥居の低さ、また基礎部分が頑丈なコンクリートブロックを2段重ねにしている所からも見て取れる。
      
               鳥居の左側に聳え立つご神木
        
                      こじんまりとした境内
 西田気多神社は、現石川県能登に鎮座する気多(けた)神社の分社である。同じ名称だが、この西田地区に鎮座する社は「気多」と書いて「きた」と読む。
「気多神社本殿外宇建築竣工記念碑」の由来以外に参考にする資料が少なく、大変編集するのに手間取ったが、推測も交えてこの社の由来等を考察することをお許し願いたい。
「埼玉の神社」での資料によれば、大体の由来記述は冒頭の「気多神社本殿外宇建築竣工記念碑」を根拠にして書かれている。その上で、「当社は、戦国時代に能登国から関東に逃れてきた落武者が祀ったものではないかと推測されている」として纏められている
        
                                   拝 殿
 旧岡部町には「田島氏」が多く存在する。新選武蔵風土記稿岡村条には
「旧家者勘治郎、氏を田島と称す、黒田豊前守が名主を勤む。其祖先を尋るに、岩松遠江五郎時兼の次男経国なる者、弘長年中、父の譲りを受け、上野国邑楽郡田島の郷に住し、田島又太郎と称す。其の子太郎二郎政国、其の子将監経栄、観応三年閏二月新田義宗笛吹峠合戦の役に従ひ、退散して本国に帰らず。当所に跡を止むと云ふ。夫より十三代経命にいたり、長男命義を分家し、次男経明に家を譲る。経明より七代連綿として、今の勘治郎徳一に至る」と見える。
 小山川流域・岡村近郊には砂田村が存在していて、その砂田村より数百メートル南の17国道バイパス附近(道の駅)に榛沢郡の郡衙跡が発掘されており、既に奈良時代頃より多くの居住者がいた。目の前の砂田村が誰にも開発されず原野であったとは考えられず。砂田村住人は既に郡衙時代には土着していたと考えられる。
 明暦二年矢島村検地帳の砂田村境「字やじまたじま」と記載があり、隣地の砂田村には「砂田田島」の小名があって、田島一族の屋敷跡と推測される。砂田村は文明五年小山川の氾濫により、住民全員は高台の岡村へ移転し、滝瀬村字砂田の住民は滝瀬村へ移住した。本庄市史考藤田編に「滝瀬村字砂田の住民については、児玉党の末葉で滝瀬氏に仕へた久米要八の子孫が久米一族である。岡村字砂田は、古老の口碑によれば、文明元年に儀右衛門・善兵衛・藤蔵・武平治・国四郎、その他六人によって開発され、砂田村と称し、数十戸の居住者があったが、永禄四年岡村に全戸移転す」と書かれている。
        
 
   拝殿・向拝部(写真上段)及び木鼻部(同下段左右)には精巧な彫刻が施されている。 
 
社殿左奥に鎮座する「子供みこし庫」と稲荷社     社殿右側に鎮座する蚕影社

 田島家文書(森田藤五郎末裔の森田広太郎所蔵)の「榛沢郡砂田村開発人並に芝切の者」には正平七年から明徳二年までのその地で「芝切」をした人物を時系列に記載している。
・正平七年 上野国田島より来り当所開発頭田島将監。
・延文四年 上野国小林村より来り当所芝切小林兵庫。右同年同所より来り当所芝切小林内蔵。
・貞治五年 田島氏分地より来り当所芝切森田藤五郎。
・貞治六年 上野国大胡在より来り当所芝切小暮小助。
・応安元年 上野国丹羽より来り当所芝切加藤六郎。
・応安五年 武蔵国妻沼より来り当所芝切大野重兵衛。
・永和三年 上野国新田庄より来り当所芝切武藤弥三郎。
・永徳三年 上野国新田庄より来り当所芝切矢内内遠。
・明徳元年 上野国伊勢崎在より来り当所芝切小此木四郎右衛門。
・明徳二年 上野国新田庄より来り当所芝切茂木与五助。
・明徳二年 武蔵国賀美郡金久保より来り当所芝切久保治郎七.
 右の者当所芝切の者並に発頭人は書面の通りに候故、子孫永々此書付大切に可仕候。
ここでいう「芝切」とは、「草深い荒地を開拓して新町村を設立すること、それを行った人。」との事で、近世に開発された新田村などでは,歴史的事実として,最初に荒野を切り開いて耕地と集落を設定した者の子孫の家を草分けとか草切りと呼び,実際にその村の名主,組頭等の村役人を世襲的に独占していたことも多いようだが、上記の内容では、別の地域の人々が当番制のように行っているようにも見える。
        

 旧佐波郡境町(現伊勢崎市)には「瑳珂比神社」が鎮座している。その創建時期に関して、戦国時代に能登半島出身の小此木左衛門尉長光が境地区ほか6ヶ村を領有し、守護神として生国能登国の石動(いするぎ)明神の分霊を境城内に奉斎した大永年間(15211527)とされている。
 榛沢郡砂田村開発人並に芝切の者の中に、明徳元年(1390)上野国伊勢崎在より来たという小此木四郎右衛門という人物との関係性をうかがわせる。
 結論から言うと、
能登半島出身の小此木左衛門尉長光の本名は「小此木」ではなく、「井上」であったが、この地に移り地名に因む「小柴(小此木ともいう)」を姓としたという流れのようだ。
        


 さて小此木左衛門尉長光は金山城主横瀬(※由良氏)の家臣であるが、横瀬・由良氏は岩松系の新田氏である。
 新編武蔵風土記稿岡村条には「旧家者勘治郎、氏を田島と称す、黒田豊前守が名主を勤む。其祖先を尋るに、岩松遠江五郎時兼の次男経国なる者、弘長年中、父の譲りを受け、上野国邑楽郡田島の郷に住し、田島又太郎と称す。其の子太郎二郎政国、其の子将監経栄、観応三年閏二月新田義宗笛吹峠合戦の役に従ひ、退散して本国に帰らず。当所に跡を止むと云ふ。夫より十三代経命にいたり、長男命義を分家し、次男経明に家を譲る。経明より七代連綿として、今の勘治郎徳一に至る」と見え、田島将監経栄は観応三年(1352年)新田義宗笛吹峠合戦の役に従い、敗れてから本国である上州田島郷には帰らず、岡村に留まったことが記載されている。
 その子孫が岡村周辺に広がっていて、砂田村の芝切を通じて周辺を開墾し、その流れはすぐ西隣の西田村にも広がったとは考えられないだろうか。その開墾には同じ新田系由良氏の家臣である小此木一族が関連していると推測する。


 但し、田島氏は南北朝時期、南朝に属していた新田義貞の系列に対して、開墾を手伝った小此木氏の主君は同じ新田氏でも、足利氏に味方した岩松系の由良氏であったため、表立って由来所等に記載することは、田島氏の名誉にかけてできない。そこで、由来書き等には「誰が祀った」かは、うまくぼかしながら記載せず、後世の解説(「埼玉の神社」等)にも「能登国から逃れてきた落ち武者」が祀った、と誘導するように記述したのではなかろうか。       


      

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山河伊奈利大神社

   
               ・所在地 埼玉県深谷市山河636-1
               ・ご祭神 倉稲魂命
               ・社 格 旧村社
               ・例 祭 祈年祭 227日 例祭 1015日 新嘗祭 1127
               *例祭等は「大里郡神社誌」を参照。
 山河伊奈利大神社は、国道17号を岡部・本庄方向に進み、「岡部」交差点を左折、北武蔵広域農道を南下する。高崎線と交わる高架橋を越えてから最初の交差点を右折。コスモス街道・正式名称は深谷市道岡5号線というらしいが、その道路を1.3㎞程進むと埼玉県道353号針ヶ谷岡線と交わる交差点があるので、そこを左折し、そのまま600m程進むと、交差点付近手前右側に山河伊奈利神社の境内が見えてくる。
 
社に隣接した社務所兼山河会館があり、会館手前には広大な駐車スペースも確保されており、そこに停めて参拝を行う。
        
                     
山河伊奈利神社正面
 深谷市「山河」地区は現在「やまが」と読むが、柏合村明治十三年八海山講碑には「山カハ」と見え、新選武蔵風土記稿にも「山川(ヤマカワ)」村との記載がある。
 
     道路沿いにある一の鳥居            案内板も設置されている。
 伊奈利大神社 
 所在地 岡部町大字山河六三六番地の一
 祭神  倉稲魂命
 沿革    当社の創建年代は明らかではないが、約0.7km西方の字茶臼山に位置する伊奈利塚古墳の上に祭られていたものをいつの頃か現在地に移したと伝える。
 当社の周辺には中世の館跡があり、だんだら山、または馬場屋敷と称されていた。現在は、わずかに痕跡をとどめる程度であるが、かつては、空堀を巡らしていたと伝えられている。この館は、山河村が戦国時代に深谷上杉氏の領地であった時、上杉氏により設置されたもので伊奈利神社は、この館の鬼門除として、館の丑寅(東北方)の位置に存在する。鬼門とは反対側に寺院(昌楽寺)が置かれた。
 当社は、嘉永二(一八四九)年、二月に燈明の火により全焼しているが、神殿は塗替のため長養寺に移されていたため消失をまぬがれている。
 現在の社殿は、嘉永五(一八五二)年に再建されたものである。
                                      案内板より引用
 
 参道は2本あって、左より伊奈利大神社への社殿に向かう正面道と、その右側に末社である八坂神社(写真右)へ向かう脇道(同左)があり、八坂神社の左隣には大国主命の石祠。さらにその右側は社務所兼山河会館、また火の見櫓も含めた広い駐車場がある。
        
                                   朱色の二の鳥居
                 参道の先には社殿が見える。
        
                                        拝 殿
 山河伊奈利大神社正面鳥居脇にある「県営土地改良竣工記念碑」によると、この山河区域は、嘗て耕道らしい道路もなく、屈曲も甚だしく、幅も狭い野道を利用し、また排水路も皆無の状態で、雨期や豪雨には野道が排水路化してしまう状態であった。また水資源にも乏しく、干ばつによる被害は甚大で、一部水田耕作する場所も天水による以外なく、種付不能箇所が所々に点在した状態であったという。
 そこで昭和411112日に岡部土地改良区が設立認可され、地域住民の一同の多年の願望であった道路並びに用水路排水路の新設、同時に土地改良基盤整備の施行となったとの記載がある。

 つい560年前の話ではあるが、嘗てのこの国の農業基盤はほとんど自然の恩恵による作物の出来高次第で決まる時代が長く続いていたのだという事がこの句碑からも分かる。
        
                  拝殿 向拝の龍
 
 拝殿の所々には見事な彫刻が施されている(写真左・右)更に極彩色豊かな素晴らしい本殿もあるという。案内板によれば、嘉永二年の火災の時には、偶々塗り替えの為に隣の長養寺に移されていて、焼失を逃れたそうだ。
 
   社殿奥に鎮座する石祠。詳細不明           富士御嶽塚か
        
                  境内社蚕影山神社
       近年まで養蚕倍盛の神として山河地区氏子の信仰が厚かったという。

 日本に養蚕が伝わったのは弥生時代とされている。今から約 1,700 年前に書かれた、卑弥呼の記述で有名な『魏志倭人伝』には当時の倭で養蚕が行われていたことが記されている。絹織物は上流階級の衣服として生産が続けられたが、庶民階級にまで普及されたのが江戸時代で、幕府は国内での養蚕を奨励し、埼玉県内でも秩父絹や小川絹、川越絹など、地名を冠した商品としての絹織物の産地が生まれる。
 安政 6 年(1859)、ペリーの来航によってそれまでの鎖国を解いて開港すると、諸外国との貿易が盛んになり、日本からの主な輸出品は蚕種(蚕の卵)と生糸、茶で、政府は重要な輸出品目を生み出す養蚕を奨励、埼玉県内でも村々へ桑を植えるように勧めるなど、養蚕を奨励した。

 山河伊奈利大神社では、養蚕がほとんど行なわれなくなった現在でも、当時の名残で、春季例大祭の祭典のときには「言別(ことわ)きて白(もう)さく」と蚕影山神社の神に祈願が捧げられるという。

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岡熊野神社

        
              ・所在地 埼玉県深谷市岡2977-1
              ・ご祭神 速玉男尊・伊弉諾尊・伊弉冊
              ・社 格 *無格社
              ・例 祭 不明
              *後日確認すると、大里郡神社誌には「無格社」と記載あり。 
 岡熊野神社は、国道17号経由でまず岡部駅を目標に岡部方面に進み、「岡部駅入口」交差点を左折、埼玉県道259号新野岡部停車場線に合流し、暫く進む。その後「岡部駅(北)」交差点を右折すると、今度は埼玉県道352号児玉町蛭川普済寺線に移るわけだが、400m程進むと、右側に岡熊野神社の参道入口に到達する。更に社はそこから北に150m程進むと岡熊野神社正面鳥居に達することができる。地図を確認すると、深谷市立岡部西小学校の道路を隔てた南側に位置していると考えればよい。
 社周辺には適当な駐車スペースがないため、参道入口南側にある岡新田集会所の駐車場をお借りして参拝を行った。
        
                                岡熊野神社 正面
 旧岡村字新田(深谷市岡)鎮守。境内社は多く鎮座しているので、旧村社かもしれないが、由来等確認しても分からなかった為、社格は不明とした。
 社の正面手前左側には保育園もあり、参拝中は保育園児の元気な声も聞こえる。偶然であろうが、園児の成長を暖かく見守っているような位置関係でもある。
 但し参拝目的ではあるとはいえ、初老の男性が一人で社周辺をうろついているのは、傍から見ると印象としては決して良くないようにも見える為、静かに参拝を行う。
 
 鳥居の
右手に由緒を記した石碑があり(写真左)、参道の先にはやや横を向いているように鎮座する拝殿(同右)。参拝後自宅に戻り、編集中に偶々地図を確認すると、この地域一帯の区割りが南南西方向となっていて、真南を向いた社殿がちょっと横を向いているように見える構図となっている。

○敬神崇祖
 当熊野神社は速玉男尊・伊弉諾尊・伊弉冊尊の三柱を祭神と仰ぎ氏子の信仰篤く古来より國造りの神と伝え継がれており神威郷土を護り殖産興業の守り神として伝えらる現世安穏・家内安全・業務繁栄・願望成就の守り神として延壽万福をお授けになりその高き御神徳を普く氏子に垂れ給い厚い信仰が今日も続いておる。
 境内には倉稲魂命を祀る荒滝稲荷神社、豊川稲荷本尊荼枳尼天尊を祀る正一位丸山稲荷宮、天満宮、秋葉神社、雷電神社、八坂神社、機織神社、地神宮、金刀比羅宮を配祀す。
 当社の創立年代不詳なるも往古より此の区鎮守として信仰古くは熊野権現社と称したるも明治七年改正により社号を熊野神社と改め氏子崇敬者の寄進により社殿改築社領購入等漸く整備し現在に至る。その後風雪百余年の歳月に社殿の損壊甚だしくこのたび氏子崇敬者多数の寄進により大改修ここに復元竣功を見る。この機にあたり崇敬者熊野大社本宮に詣で玉串を奉り神威益々昂揚に努め郷土発展を祈願す。
 昭和五十五年十一月三日
                                                                     「境内 石碑」より引用

 
 鳥居の先、左側には左から八坂神社・正一位丸山稲荷神社・荒滝稲荷神社・金刀比羅宮が整然と鎮座している。木製柱で神社名がしっかり表示されているので、初回参拝者でも容易に確認できるので、大変ありがたい。
 
       参道右側には、手水舎・社日(地神宮)・そして神楽殿も配置されいる。
 境内は決して広くはないが、手入れも行き渡っていて、保存状態も良く管理されている。日々の氏子様方の社に対する崇拝の誠を感じる社。
        
                     拝 殿
        
           拝殿の向拝部には凝った龍の彫刻も施されている。
 
        拝殿の向拝部・木鼻部にも何気に緻密な彫刻が施されている。
       
                      社殿右側手前にはご神木が聳え立つ(写真左・右) 
 
          社殿と神楽殿の間に鎮座する境内社・末社(写真左・右)
             左から天満宮・秋葉神社・機織神社・雷電宮

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岡白鬚神社

        
               ・所在地 埼玉県深谷市岡1324
               ・ご祭神 猿田毘古命
               ・社 格 無格社
               ・例 祭 不明
 岡白鬚神社は国道17号を岡部・本庄方向に進み、「岡部駅入口」交差点を左折、埼玉県道259号新野岡部停車場線に入り南下、2番目の交差点である埼玉県道353号針ヶ谷岡線との交点である十字路を右折する。この埼玉県道353号針ヶ谷岡線は途中で左方向へ車線変更するが、そのまま直進し、深谷私立岡部西小学校を越えて800m程進むと、道路沿い右側に岡白鬚神社が鎮座する。
 岡白鬚神社を一旦通り過ぎると、道路沿い右側に墓地と社の間に、駐車可能なスペースがあるので、そこに停めてから参拝を行った。
        
                                      参道正面
        
                             鳥居の扁額には「白鬚神社」と表記
              
                       参道を遮るように屹立する岡白鬚神社のご神木

 地図等でこの地域を確認すると、櫛挽台地の一角にあるこの岡白鬚神社周辺は、南北に細長いこの住宅街が西側に防風林を背負うように立ち並んでいて、冬時期において周辺が赤城おろしの強い地域であったが容易に推測される。参拝日が1月という事もあり、新緑深い生命力あふれる時期とは違い、寒さや強風を耐え忍んできた痕跡が、樹木の肌の至る所に見える。
        
                                         拝 殿
 白鬚神社改築記念 碑文
 当社は、岡村の新田として約三百年前の貞享年間(1684-1688)には開かれていたと言われている。
 地内の浅間神社の入口にある庚申塔には、享保元年(1716)大谷勤右衛門、加藤徳左衛門、加藤佐左衛門、小暮長右衛門、茂木善右衛門等の名が刻まれておりこれらの先人達が新田開発に携わって来たものと思われる。
 口碑によれば、明治二年(1765)に社殿の再建が行われたという。別当は、岡上にある真言宗岡林寺であったが、明治初年の神仏分離によって寺の管理を離れた当社は、社格制定に際し無格社とされ、その後の合祀改築の際にも合祀されることなく現在に至っている。
 
その後、長い歴史とともに社殿も風雨に晒され耐えてきたものの、近年、特に老朽が目立つようになり、社殿改築が氏子の関心の的となっていた。
 こうした中で、平成五年、字の初会の席上に於いて、敬神崇祖の念に燃え滾る氏子達より改築の件に関し、現況では応急処置よりも社殿全ての改築を、とする意見が大部分を占め、早急に検討するべき具体案の策定まで話し合いが進展し、次の案が出され、全員の賛同を得て改築委員会の発足をみたものである(中略)
 解体後の整理中に、本殿が安置されていた台座(高さ二十センチメートル、縦横百十センチメートル)の裏面の隅の一部に、次のような記述が発見された。
 「明和六年己丑九月奉納 念願成就祈信心 當地大工作 横山市之丞、小川年次郎、加藤右藏、大谷金七、茂木重次郎、北川文藏、新井源七」、さらに、本殿裏側にあった石碑の表面に、次のような文言を確認した。
 「明和六年己丑、白髭本地薬師、十一月六旦、用土石工 平八為」
 
以上、二つの記録により、当社が今から二百二十八年前の建立であったことが推測される。(中略)
 以上、概要を記し、多くの先人達が精神の拠り所としてこの御宮を守り伝え、「敬神崇祖」の立派な精神文化を残されたことに対し改めて感謝を申し上げるとともにこのことが、永久に受け継がれていくことを念じ、此処に此れを建立す。(以下略)
        
 本殿奥にあった謎の石。石の表面には人工的に刻んだ跡があるが、ハッキリとは判別しづらい。「白鬚神社改築記念 碑文」に「明和六年己丑、白髭本地薬師、十一月六旦、用土石工 平八為」と書かれていた石碑の可能性はあるのであろうか。
 
 社殿左側奥には菅原神社。手前の石祠は不明。  社殿右側に鎮座する八坂神社と大黒天2基

 埼玉県には白髭神社・白鬚神社・白髪神社と白(髭・鬚・髪)を冠した社が意外と多く存在する。系統も3つに分かれているようだ。
滋賀県高島市鵜川にある「白鬚神社」を総本社とする系統。
 主祭神は天狗で有名な猿田彦命であり、容貌魁偉で、鼻は高く、身長は七尺余りという身体的な特徴を持つ。ある説では天津神が国土を統一する以前より豊葦原国を大国主命と共に統治していた国津神、地主神とも言われ、その後瓊瓊杵尊が天孫降臨の際には道案内をしたということから、道案内の神、その後道の神、旅人の神とされ、日本全国にある塞神、道祖神が同一視され、「猿田彦神」として祀られているケースが非常に多い。
 岡白鬚神社はこちらの系統に属すると思われる。
埼玉県日高市に鎮座する「高麗神社」を総本社とする系統。
 高麗神社は別名、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていたが、その始祖的存在である高麗王若光は白髭をはやしていて「白ひげさん」と言われていたという。
 この高麗神社を総本社とする「白髭」「白髪」神社は高麗郡を中心として入間川流域に集中して鎮座している。
清寧天皇を御祭神とする系統。
 清寧天皇は雄略天皇と葛城韓媛との子で,生まれながらに白髪であったことから,白髪皇子と呼ばれた。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇、白髪大倭根子命(古事記)。吉田東伍は清寧天皇の御名代部である白髪部にゆかりのものだろうと考察している。
        
                               社殿から境内を撮影
        
                     社の道沿いに石祠・お地蔵様等が整然と並んでいる。
      

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