古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

長在家稲荷神社

  上原白髭神社の東方に「長在家」という地域が存在する。この地域は、15世紀中ごろの室町時代に深谷上杉氏第5代房憲(深谷城初代城主)が開祖した寺である深谷市の仙元山のふもとのにある昌福寺の縁起の中にも"長在家の長者"という記述があり、その地名の淵源は意外と古くからあったようだ。

 この長在家地区には稲荷神社が鎮座している。この社の最大の特徴は参道一帯に敷石の代わりに350ヶ程の古い石臼が敷き詰められていることだ。この参道は「石臼参道」と呼ばれ、昭和53年8月30日に深谷市の有形無形文化財に指定されている。そのためか、長在家稲荷神社は通称「石臼神社」とも言われている。

       
             ・所在地 埼玉県深谷市長在家204-                                                         
             ・ご祭神 倉稲魂命
             ・社 挌 旧村社
             ・例 祭 毎年3月 例祭(豆腐祭り)
   
 長在家稲荷神社は旧川本町、武川駅周辺に鎮座している。国道140号線を熊谷方面から武川駅方向に進み、菅沼天神社に行く十字路を右折すると約400m弱北側に鎮座している。境内の右側に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行った。
                       
                     道路を挟んで一の鳥居の反対側にある石塔
           
                                                      長在家稲荷神社正面       
     鳥居周辺には石臼が敷き詰められている。             石臼参道の案内板             

 深谷市指定有形民俗文化財  石臼参道(昭和五十三年八月三十日指定)
 昔、小麦や豆などの穀物を粉にするには石臼を使っていた。いつのころか、要らなくなった石臼を、村人が神社に納めた。この石臼を境内参道の敷石にしたもので、約三百五十個ほど並べられてある。この様な例はあまり無く貴重なものである。
 稲荷神社の三月の例祭では「豆腐まつり」と言い、各家庭で豆腐を作って奉納したものである。この大豆も、ここに奉納された石臼でひいたのであろう。
 境内には文久元年(一八六一年)に田島金岳ほか十三人で建てた「春の夜や籠り人ゆかし堂の隅」の芭蕉の句碑がある。
                                                                案内板より引用
                 
                         鳥居のすぐ先に聳え立つご神木
            
                                拝 殿
            
                        
 拝殿向背部等の彫刻が素晴らしく、江戸時代の職人技の高度な技術を感じる。今は長年の風雪にさらされて彩色もほとんど薄れているが、創建当時は艶やかで美しかったことだろう。
 
                         社殿上部に飾られている奉納額。
            
                                                          稲荷神社改修工事記念碑
 稲荷神社改修工事記念碑
 正一位稲荷大明神(倉稲魂命)
 長在家稲荷神社の主祭神です。
 当地は古くは武蔵国榛沢郡長在家村と呼ばれておりました。
 この神社の創建は不詳ですが、享保十九年(一七三四年)に神祇管領ト部兼雄から宗源宣旨を受け、正一位に叙せられたことと、この地の歴史を考えると江戸時代の初期、又はそれ以前の創建と考えられます。
 境内には、明治四十一年(一九〇八年)に合祀された、八坂神社(素盞男命)、飛房大神(天手力男命)、子ノ大権現 (大国主命)、浅間神社(木華開耶姫命)とその他の神様も祀られています。
 五穀豊穣・商工繁盛・家内安全・身体壮健・縁結び等平和と繁栄の神社として信仰されてきました。
 祭りは元旦祭、春季例大祭三月、八坂祭り七月、勤労感謝祭十月と年四回行われています。
 このような歴史有る神社も近年老朽化が甚だしく、敬神・愛郷の念厚い地元崇敬者は社殿等の護持に心を砕いていました。
 平成二十六年(二〇一四年)拝殿改修等の気運が盛り上がり、長在家の皆様の総意で建設委員会を立ち上げ、二年後の完成を目標に計画を進めました。
 皆様に、貴重な浄財を多大に寄進して戴き、拝殿・境内の改修、神輿庫の改築、水屋の改修、末社の整理と覆屋の新築を行い、ここに稲荷神社改修奉祝祭を斎行し、依って記念碑を建て関係者一同の芳名を刻み永く記念とします。
                                      案内板より引用



 ところで長在家地域の西側には下原地域があり、この地域は世間ではあまり知られていないようだが、室町時代から江戸時代まで続く武州唯一の刀工群である下原鍛冶の一拠点だったという。

 この武州下原刀を制作した鍛冶集団である下原鍛冶は大永年間(1521年~27年)の周重に始まり、現在の八王子市恩方地区や元八王子地区に住み、周重の子康重は小田原の北条氏康の「康」を、その弟照重は八王子城主北条氏照の「照」をそれぞれ授かり、名乗りにしたと伝えられている。後北条氏を後ろ盾に栄えた下原鍛冶だったが、後北条氏の滅亡後は、徳川氏の御用鍛冶となり、幕末まで刀槍類の制作を続けたという。

 武州下原鍛冶は、いつ頃八王子地区等に移住して刀鍛冶を始めたかについては諸説があり、不明な点が多く、ハッキリとは解らないが、相模国(相州鎌倉鍛冶)と下野国登鯨(とくじら)に分かれるようだ。どちらの地域も有名な鍛冶場で、相州鎌倉鍛冶は、古くは鎌倉郡山ノ内庄の地鍛冶で、山内鍛冶は尺度郷(さかどごう)本郷(横浜市栄区)に、沼間鍛冶は沼浜郷沼間(逗子市)に鍛冶場があったらしい。また下野国登鯨は現在の栃木県宇都宮市徳次郎町の地域であり、照重家についての文書の中に、「下野足利ニ居住、永正(1504~1520)年中、武州多摩郡横川村ニ居住ス」、また「足利月光山下原にて打ち、のち横川に居住なり」と記されているものがある。足利の下原は、現在の足利市山下町に存在し、この地域は鋳物師(いもじ)や修験者が居住したといわれている。

 長在家地域はこの武州下原鍛冶が現八王子地域に移住する前に居住し、鍛刀した地域と言われている。何より下原鍛冶に関連した地域、居住した地域にはみな「下原」という字が存在していることは注目に値する。この長在家地域を含めた荒川中流域両岸は、平安時代後期から畠山氏の所領であり、鍛冶製造が発達した一大根拠地と言われている。武州下原鍛冶がこの地にある時期一定期間移住する理由はここにあったと考える。

 この荒川中流域左岸で、櫛引台地一帯、詳しくは「黒田」→「永田」→「上原(下原)」→「田中」→「長在家」そしてそのライン上に存在する「瀬山」→「三ヶ尻」地域は鍛冶集団が存在している一大根拠地だったと思われる。
 
        長在家稲荷神社社殿周辺にある境内社(写真左)と、可愛らしい一対の狐様の石像(同右)。
                         
                                石臼が敷き詰められて参道。社殿側から撮影。


 

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