古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

国済寺日吉大神荒神社

 庁鼻和は「こばなわ」と読む。庁鼻和は幡羅郡国済寺村の古名であり、国済寺明徳四年縁起に幡羅郡庁鼻祖郷と見える。また武蔵七党、私市党庁鼻和氏が嘗て存在し、幡羅郡庁鼻和郷がその根拠地であったらしい。吾妻鑑卷九に「文治五年七月十九日、頼朝奥州進発随兵に高鼻和太郎」。卷四十に「建長二年三月一日、庁鼻和左衛門が跡」と記述がある。
 時代は下った南北朝時代、初代鎌倉公方となった足利基氏の執事を務めた上杉憲顕の六男蔵人大夫憲英によって庁鼻和城、又は庁鼻和館は築かれた。詳しい築城年代は不明だが、国済寺の創建が康応二年(
1389)とされるため、それ以前と推測される。
 庁鼻和上杉氏は憲英・憲光・憲信と
3代続いたが康正2年(1456)に上杉房憲が深谷城をことにより、深谷上杉を名乗るようになる。こうして庁鼻和城は深谷城の支城となったが、戦国時代まで存続したのかは不明である。遅くとも、天正18年(1590)の小田原の役を以って廃城となったものと推測される。
        
              ・所在地 埼玉県深谷市国済寺520 
              ・ご祭神 大山咋命、火産霊神
              ・社 格 旧国済寺村鎮守 旧村社
              ・例祭等 春祭 415日 秋祭 1015
  地図 https://www.google.com/maps/@36.1920056,139.3015819,18.25z?hl=ja&entry=ttu

 国済寺日吉大神荒神社は国道17号を深谷市方面に進む。「国済寺」交差点右側、国道沿いに鎮座していて、視界でも確認でき、また筆者としては比較的説明がしやすい。駐車スペースに関しても「国済寺駐車場」が道路を挟んで東側にあるため、そこに駐車してから参拝を開始した。
 
 国済寺駐車場の手前には、道祖神(写真左)・自性院六地蔵(写真右)が並んで祀られている。案内板によると自性院六地蔵は元々国済寺内の塔頭(寺内の小院)自性院に祀られていたが、昭和30年代に国道17号敷設に伴い廃寺となり、お地蔵様のみはこの場所に移動して頂き、お守り頂いているとの事。また道祖神は安全・安心の神様で、周辺に住まわれている方々に災い等悪いものが入ってこないように見張ってくださる神様という。
 道祖神の石祠の土台はかなり古そうだ。また六地蔵の横には昭和三年との門柱があり、嘗て存在していた自性院の門柱の可能性もある。
 周囲に花や植込みが整備されて小さな公園の様な佇まいがあり、周辺の方々の昔の物を大切に後代の人々に残そうとする日本人としての道徳心の賜物と感じた。
        
                        鳥居の手前で、道沿いにある社殿改築記念碑

 社殿改築記念碑 大里郡長従六位勲六等  秋葉保雄  篆額
 日吉大神荒神社は、大里郡幡羅村大字国済寺の鎮守なり。大山咋命を主神とし、相殿に火産霊命を祀る。口碑に此地元廰鼻祖郷と称いし頃、深谷城主上杉陸奥守憲英国済寺を創建するに、当里其境域に近江国日吉の社より分祀せしを、後年同所荒神社を合せ祀りきと傳う。明治七年五月村社に列す。旧殿いと狭く便よからぬふしもあれば、今年畏くも皇太子殿下御成婚記念の事業として氏子崇敬者胥謀り、同心協力多くの資金と労力とを寄進して社殿改築の工を竣へぬ。あわれ神は人の敬によりて威を増し 人は上の徳により事運を添うるといへり 人々が心を尽くし 力を極たるこの新宮殿は常盤堅盤に動きなく 此里の中心と仰ぎ待ちて 廣き厚き御恩頼に浴し奉るべく祈り このわざに勤しみ仕奉り あななひまつれる人々が芳き功蹟も 弥遠長に朽ちせざるべし(以下略)
                                      案内板より引用

        
          石製の社号標柱から見た国済寺日吉大神荒神社鳥居
       社号標柱には「日吉大神社 荒神社」と並列して彫り込まれている  
           参 道            参道途中左側にあった猿田彦神社の石祠
        
                                         拝 殿
 国済寺日吉大神荒神社が鎮座する地域は「庁鼻和」(こばなわ」と呼ばれていた。前出した案内板にはこの「庁鼻和」について以下の記載があるので引用する。
「廰鼻祖郷」 
 当地の鎌倉・室町時代までの古地名。廰鼻和・廰鼻・固庁鼻等とも書き、「こばなわ」と読む。 地形から荒川扇状地端に位置し、低地から見ると鼻のように小高いところ、あるいは小塙(小高い丘)の意味。
 鎌倉時代、鎌倉御家人廰鼻和太郎の居館があり、その跡に室町前期上杉憲英公が廰鼻和城を築いた。 因みに深谷の地名は上杉氏五代目の憲房公が深谷城を築いてからのことである。

 また庁鼻和は、案内板によれば、廰鼻和・廰鼻・固庁鼻等とも書き、「こばなわ」と読むようだが、風土記稿によると、「ちょうのはな」とも呼んでいたようで、その由来は当時の人々も分からなかったようだ。風土記稿には「堯恵北国紀行」という書物を引用して、参考資料としているので、追加して記載する。
・武蔵国風土記稿幡羅郡国済寺村
「ちゃうのはなと云しは此地のことにて、今国済寺境内庁鼻祖郷の名残れり。この辺元は概して庁鼻祖の唱なりしならん。されど祖の字を添しは其故を詳にせず」
・「堯恵北国紀行」

十二月のなかばに、むさしの国へうつりぬ、曙をこめて、ちゃうのはなといふ所をおき出云々」
 
        境内社八坂神社             境内社稲荷・蚕影神社
       
                    社殿の右側にある御神木

 上杉蔵人大夫憲英は山内上杉憲顕の六男として、新田氏に対抗するべく幡羅郡庁鼻祖郷に赴任し、館を築いたことが始まりとされる。
 その当時上杉氏は憲顕の6兄弟を核として、関東を中心に、鎌倉公方を越える権力を有していた。しかし調べてみるとこの兄弟でもその権力に顕著な差がある事も分かってきた。各人物の経歴、官職等をみると判明する。
上杉憲将( 1366
 憲顕の嫡子。官位・兵庫頭 武蔵守護あるいは代官として父の守護任国である武蔵守護代に在職。父に先立ち正平
21/貞治5年(1366年)に死去。
上杉能憲(13331378
 上杉重能の養子。官位・修理亮・兵部少輔 関東管領(
13681379 上野・武蔵・伊豆守護。以後関東管領の職を上杉氏世襲。
上杉憲春( 1379
 官位・左近将監 刑部大輔 関東管領(
13771379 上野・武蔵守護。
上杉憲方(13351394
 官位・
 左京亮、安房守 関東管領(13791392)上野・武蔵・伊豆・下野・安房守護。
・ 上杉憲栄(13501422
 上杉朝房の猶子。官位・左近将監 越後守護。
・ 上杉憲英( 1404
 庁鼻和上杉家
  奥州管領(1392年)
        
                        南向きに面している社殿から鳥居方向を撮影

 上杉憲将は父憲顕に先立って死去しているのは別として。上杉能憲・憲春・憲方は全て関東管領職であり、それに対して、憲栄・憲英の処遇は一段低い。但し憲栄・憲英の2人に対しても、憲栄はその時の管領である上杉朝房の猶子でもあり、その後押しもあり、越後守護に任命され、官位は左近将監であるに対して(一時的に憲栄は越後守護争うに嫌気して、出家していたとも言われている)、憲英はただの庁鼻和上杉家相続のみ。山内家の庶家という位置付けのようで、越後守護争いにも敗れている経緯は憲顕系の上杉氏一族のなかでの同家の立場をうかがわせる。官位は蔵人大夫とも陸奥守とも言うが、陸奥守は1392年奥州管領になった時点で爵位を受けた可能性もある。どう贔屓目に見ても待遇は低い。
 そういう意味において、明徳3年(1392年)鎌倉公方の分身として奥羽支配を担当した稲村公方・篠川公方の管領に、庁鼻和家憲英が就いたことは、遅まきながら庁鼻和上杉氏も、室町幕府・鎌倉府のなかで公的な地位の獲得を果たしたことを意味していると推察する。

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稲荷町末広稲荷神社

 日本全国に多い神社は応神天皇をまつる八幡信仰の社である「八幡神社」である。全国にある神社の数は、およそ86千社と言われており、そのうち約1割にもなる8千社が八幡神社である。それに対して「稲荷神」は主祭神として祀られている社数は2970社であり、神社数は八幡神社に及ばないものの、境内社・合祀など全ての分祀社を合わせると総数32千社であり、屋敷神として個人や企業などに祀られているものや、山野や路地の小祠まで入れると稲荷神を祀る社はさらに膨大な数にのぼる。
「稲荷神」は本来「稲」を象徴する穀霊神・農耕神だが、現在は商工業を含め産業全体の神とされ、日本で最も広範に信仰されている神の一つである。別説として渡来人であった秦氏の氏神的稲荷信仰を基に、秦氏の勢力拡大に伴って伏見稲荷の信仰圏も拡大されていったと『日本民俗大辞典』は述べている。
「豊葦原中つ国瑞穂国」とも美称され、「神意によって稲が豊かに実り、栄える国」の意味において「稲」を共通する「稲荷神」が日本国中に多いのも当然ともいえる。 
        
              ・所在地 埼玉県深谷市稲荷町222
              ・ご祭神 倉稲魂命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 例祭 4月16日 1016日 夏祭(八坂祭)7月下旬
                   大祓 1225
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1975272,139.2881982,19z?hl=ja&entry=ttu

 稲荷町末広稲荷神社は国道17号線を深谷市役所方向に進み、深谷商業高校を過ぎて唐澤川に達する手前で、右側に曲がる道路があり、その先に社は鎮座する。右に曲がる道路の先には社号標柱が小さいながらも見えるので、それが目印となる。社に隣接して古く大きな社務所があり、そこには適度な空間があり、そこに車を停めて参拝を行った。
        
       国道から僅かに離れた場所に社が鎮座している。社号標柱が目印となる。
 後で知ったことだが、この右に曲がる道自体、嘗て稲荷神社の参道であった、ということだ。
        
                             稲荷町末広稲荷神社正面
 境内は広く、日々の手入れも行き届いているようで、地元の人たちに親しまれている社という印象を受けた。国道17号は日々車両の行き来が多い道路だが、やや離れていることが幸いし、境内は静かで、市街地の喧騒を一時忘れてしまうほどである。
 また境内は老木が多いにも関わらず、参道等の空間は広く確保され、社独特のしっとりとした雰囲気がある場所と、風通しも良く開放的な空間もあり、うまく調和されているという印象。
        
                 入り口付近にある案内板
○稲荷神社(稲荷町)
 康正年間(一四五五~五六)深谷に城を構えた上杉房憲は、城を鎮護するために一仏三社を勧請したと伝えられる。この話に出てくる「一仏」とは瑠璃光寺の寅薬師のこと、「三社」とは末広稲荷・永明稲荷・智形明神の諸社のことである。寅薬師と末広稲荷は城の鬼門守護、永明稲荷は同じく戌亥守護、智形明神は城内守護の社として祀られたものであった。
当社はこの三社の一つ、末広稲荷のことであり、城下の発展に伴い稲荷町の鎮守として、その住民から厚く信仰され今に至っている。
 なお、別当は、当初地内の東源寺であったが、文政年間以降は修験の宝珠院が奉仕し、明治元年(一八六八)の、神仏分離令まで務めた。
 
平成十四年二月 深谷上杉顕彰会
                                      案内板より引用
 
          石製の一の鳥居(写真左)及び二の鳥居(写真右)。
 本来稲荷神社は特有の「赤(朱色)の鳥居」と「千本鳥居」といわれているトンネルのような鳥居が並ぶ風景で有名だ。
 まず鳥居の色が赤い理由として、「赤」は太陽や火の色であり、血の色であり、豊饒(ほうじよう)の色ともされている。同時に悪霊の侵入を防ぐ呪力ある神聖な色であり、美と権威の表現でもある。そのため、稲荷神社以外でも赤い鳥居を持つ神社はたくさん見られる。さらに、赤色の原料となる丹(水銀)は、木材の防腐剤としての役割も担っている。
「千本鳥居」は願い事が「通る」或いは「通った」御礼の意味から、鳥居を奉納する習慣が江戸時代末期の文化・文政年間【1804年~1830年】に広がったと言われている。但し東松山市の鎮座している箭弓稲荷神社のように通常の鳥居形式の社もあるので、全ての稲荷神社が「千本鳥居」のような形式をとっているわけではない。
        
               社殿手前、左側に屹立するご神木
   指定番号21号。深谷市保存樹木。樹種ケヤキ(ニレ科)指定 平成2年10月20日 深谷市
        
                                        拝 殿
        拝殿と本殿は文政年間(181830)に再建されたものであるという。
 
  拝殿に掲げている木製の「稲荷神社」社額  向拝虹梁には鮮やかな龍の彫刻が施されている
  
 
  木鼻(写真上、左・右)・海老虹梁(写真下、左・右)にも見事な彫刻が施されている。
「埼玉の神社」によれば、本・拝殿共に向拝には竜の彫刻が施されており、その優美さは深谷随一といわれているとのことだ。
        
                                         本 殿
 
 社殿左側には富士塚。手前に古峯神社等の石碑あり、紙垂がかかっている(写真左)、その富士塚の先には天神社が鎮座している(写真右)田谷にあった天神社を明治45年にこちらに移転し、大正7年には西島にあった天神社が合祀された。
        
                 歴史を感じさせてくれる稲荷町末広稲荷神社 社務所
 社務所は昭和7年に造られている、当時埼玉県の神社の中でも有数の規模だった、障子を開けると100畳の部屋になる。
    
       

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明戸諏訪神社

        
                      
            ・所在地 埼玉県深谷市明戸504
            ・ご祭神 建御名方命
            ・社 格 不明
            ・例 祭 春例大祭 415日 秋例大祭 1015日 八坂祭 727
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2100705,139.2956778,16z?hl=ja&entry=ttu

 明戸諏訪神社は国道17号バイパスを本庄方面に進み、「明戸東」交差点を左折する。埼玉県道127号深谷飯塚線の緩やかな右カーブの道路を300m程進むと右側に明戸諏訪神社が見えてくる。社以外周囲は長閑な田園地帯が広がり、進行方向上やや左側に見えるこんもりとした社叢は、旧県社・楡山神社で、直線距離でも500m位しか離れていない。
 社に隣接する明戸西部自治会館兼社務所の前には、数台分停められる駐車場所があり、そこに車を停めて参拝を行った。
        
                  明戸諏訪神社正面入り口
               社は小山川右岸の徴高地に鎮座する。
        
                     鳥居正面
 
         社号標石               鳥居に掲げてある社号額
        
           鳥居を過ぎて参道右側には神楽殿と八坂神社あり。
 元々この社は「字新井」に鎮座していたが、明治四十二年近隣の社を合祀(字聖天木の住吉神社、字田中と字明ヶ塚の二社の稲荷神社、字新屋敷の神明社、字駒帰の市杵島神社、字本郷の大雷神社の六社)し、「字田中東」の八坂神社境内に遷座した。八坂神社はこの際、当社の末社となった。また、同時に社地が狭小であったために、氏子から土地の寄付を受けて拡張を行ったという経緯がある。神楽殿の隣に鎮座している八坂神社は本来の地元で祀られていたが、現在は諏訪神社の境内の片隅で末社扱いとなってしまった。
        
                          参道途中右側にあった「諏訪神社」社号標
              嘗て鳥居前に掲げてあったものだろうか。
        
                                         拝 殿
 創建は、慶長十六年(1611)諏訪大明神を厚く信仰する上野国高岡村の田村外記・亀井宇丹の両名が、信濃国諏訪大社より神霊並びに神巻を拝受して当地に移住し、これを祀る祠を建立したことによると伝えられる。『風土記稿』によると、別当は当地の真言宗阿弥陀寺である。 開山は伝慶で、寛永六年(1629)の草創である。
 主祭神は、建御名方命で、かつては本殿に諏訪大明神の本地仏である普賢菩薩を祀っていたという。
 
        社殿左側に鎮座する境内社(写真左、右)どちらも詳細不明。
 
  社殿右側に鎮座する境内社 稲荷神社     稲荷神社正面に掲げてある「改修記念碑」

 明戸諏訪神社が鎮座する「明戸」地名は、熊谷市にも同名で「川原明戸」として存在している。熊谷市のホームページ(「熊谷市Web博物館」)では、熊谷に残る地名について紹介し、その由来について解説されている。
        
                            県道沿いに鎮座している明戸諏訪神社

 この「明戸」地名由来として、“川原明戸”と書いて“カワラクト”と呼ぶ。“明戸”は、昔“悪戸”と書いた。“アクト”は“アクタ”(圷)から出た言葉で、上流から流出した土砂が堆積した場所、川添平地の意味であるから、この土地は水害がひんぱんに起こり、更に湿地であったため耕作にも適さず、人々は(おこって)悪字を用いて悪戸と書いたのであろう。その後、堤防の技術が進み人工の排水が行われ、耕作が出来、人々が住みつき、村を形成するようになった。そうなると悪字を用いる必要もなく、好字であり、しかも開発の意味もある“明”を用い“明戸”としたのであろう。〔埼玉県地名誌〕
 深谷市・明戸地区も熊谷市の川原明戸地区と同様な地形的な特性を持つ場所であったと考えられる。

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戸森雷電神社

         
              ・所在地 埼玉県深谷市戸森149 
              ・ご祭神 別雷大神
              ・社 格 旧戸守郷鎮守 旧村社
              例祭等 祈年祭 224 例祭 328日 新嘗祭 124
              *祭日は「大里郡神社誌」を参照。
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2108341,139.2760379,16z?hl=ja&entry=ttu  
 戸森雷電神社は国道17号バイパスを本庄方向に進み、埼玉県道14号伊勢崎深谷線と交差する「大寄」交差点を左折し、南へ少し下ると、すぐ左手側に雷電神社が見えて来る。雷電神社に隣接した社務所が道路沿いにあり、駐車スペースもある為、そこに車を停めて参拝を行う。

 隣接する雷電寺は、不動明王を本尊とする雷電寺は雲龍山観音院雷電寺と称し京都の総本山智積院末で真言宗智山派に所属し、創建は今から六百六拾六年前の正慶二年(1333)に雷房長傳と伝えられているが、新編武藏風土記には慶長年間(1596-1615)に僧印山とある。また同風土記には延宝七己未年(1678)僧慶算中興とも記載されている。            
       
                 「雷電神社」社号標柱
       
              一の鳥居と「正一位雷電宮」石碑



「正一位」とは律令制度下、朝廷より諸臣に授けられた位階のことで、本来は官人の地位を表す等級として一位から初位の位階があった。その後奈良時代中期以降、この位階が拡大解釈され、人に対してではなく、神・もしくは神社にも授位されるようになった。これは「神階」と称して、諸臣に与えられる位階制度に倣うものであった。 


実はこの正一位の位を持っている神社は全部で22社あり、
・松尾大社・上賀茂神社・下鴨神社・春日大社、・石上神宮・枚岡神社・香取神宮・鹿島神宮・日吉大社
等である。
 特に稲荷神社では総本社の伏見稲荷大社が建久512月(11951月)の後鳥羽天皇の行幸に際して「本社勧請の神体には『正一位』の神階を書加えて授くべき」旨が勅許されたとされており、勧請を受けた全国の稲荷神社もこれを根拠に正一位を名乗るようになり「正一位」は稲荷神社の異称のようになった。
 因みに戸森雷電神社の総本社である賀茂別雷神は大同2年(807年)最高位である正一位の神階を受けている。それ故に、その分社である雷電神社の社号標にも「正一位」と表記されているというわけだ。
                                    (Wikipedia)等参照
 

            参道                   二の鳥居
        
                     拝 殿
 当雷電神社は賀茂別雷神社の御分社なり 往昔医道の達人道三に依り勧請す 今尚尊海師の作れる雷電勧請の縁由及三國雷電略記の二巻保存す 享保十七年七月二十七日に時の神祇管領に依り当社に正一位雷電宮として奉授せられたと宗源宣旨に記載されてあり 本年十月吉日氏子総代各位京都吉田神社に参詣しこれを確認す 依って石に刻し後世に伝う 
 昭和六十二年十二月二十八日建 雷電神社宮司神島大謹書
                                      境内碑より引用

 
 拝殿には渋沢栄一の揮毫した扁額が掲げられている(写真左)。扁額は横文字で「雷電神社」と書かれてあり、縦書きで「正三位 勲一等 子爵 渋沢栄一書」とある。本殿(写真右)には雷電像を安置している。昔は「雷災除け」の神札を授与していた。落雷を除き、もろもろの崇りを避けるというので信仰されたという。
*「令和三年十一月発行 大寄公民館だより」一文を参照
       
             社殿の左側奥にあるご神木(写真左・右)
 
 ご神木に並ぶように鎮座する境内社・石祠群(写真左)。また石祠群の右先にある石祠(写真右)。石祠には特に記されていないため、詳細不明。手前に身禄霊神と小御嶽大神の石碑あり。
 
                             社殿の奥に並ぶ境内社(写真左・右)
 琴平神社、天手長雄神社、八坂神社、稲荷神社   摩多羅神、摩利支天か。少し見ずらい。
 
         
拝殿手前、右側にある御嶽塚       拝殿手前左側に並んである石碑等
        
                              当日は雨の中での参拝。
          そんな天候の中でも社には趣もあり、落ち着いて散策を終えることができた。

              


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上敷免諏訪神社

 山内上杉憲顕の六男である上杉憲英は、庁鼻和(埼玉県深谷市)に庁鼻和(こばなわ)城 を築き、分家して庁鼻和上杉氏を名乗った。その後憲英のひ孫である房憲が深谷城を築き深谷上杉氏を名乗った。
 深谷上杉氏には、深谷三宿老や深谷上杉四天王と呼ばれる家臣たちがいた。岡谷加賀守清英、秋元越中守景朝、井草左衛門尉の3人を通常「三宿老」、これに上原出羽守を入れると「四天王」という。
 重臣筆頭の岡谷香丹・加賀守清英親子は文武両道に秀でた良将だったようだ。自身の本拠地は延徳三年(1491年)父岡谷香丹築城した武蔵国榛澤郡上敷免の「皿沼城」にあって、利根川を渡って攻めてくる北の古河公方足利成氏や新田金山城の由良氏からの押さえをしながら、深谷領の守護として、山城国(現京都府)の石清水八幡宮を勧請して、上野台八幡神社を創建させたりしていている。また天文十八年(1549年)清英は萬誉玄仙和尚を招いて清心寺を開基した。清心寺には源平一の谷の戦いで岡部六弥太に討たれ、岡部六弥太が建てた平忠度(ただのり)の五輪塔墓がある。後に上杉謙信も清英の武勇に感銘を受け後奈良天皇から賜った箱根権現像を送ったという逸話が残っている。
       
             ・所在地 埼玉県深谷市上敷免940
             ・ご祭神 建御名方神命
             ・社 格 旧上敷免村鎮守 旧村社
             ・例祭等 祈年祭 224日 例祭 415日 新嘗祭 125
             *祭日は「大里郡神社誌」を参照。
 地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2107926,139.2907058,17z?hl=ja&entry=ttu 
 上敷免諏訪神社は国道17号バイパスを本庄方面に進み、「明戸(東)」交差点で左折、埼玉県道127号深谷飯塚線に合流してすぐの先の5差路で埼玉県道275号由良深谷線と合流するので、17号バイパスと並行する形で、西方向に進む。一面のどかな田園風景が広がる中、道なりに真っ直ぐに進み、途中「あかね通り」の歩道・自転車道があり、そこを注意しながら進むと、正面に上敷免諏訪神社が見えてくる。
 信号のある交差点の右側はすむかいに社が鎮座しているが、社に隣接した北側にある空間が駐車場となっていて、そこに車を停めて参拝を行った。
 因みに上敷免諏訪神社が鎮座する交差点を更に西方向に進み、唐澤川に到達する手前右側には「皿沼城跡」の案内板があり、室町時代に深谷上杉氏の筆頭家老である岡谷加賀守香丹の築いた城である事と、今回紹介する社も、皿沼城築城に際して城の鎮守として延徳3(1491)に創建したと伝えられている。その後皿沼城は天文21年(1552)に廃城になったが、いつしか泉光寺持ちとして、地元の方々から上敷免の鎮守として祀られるようになったと謂われている。
       
                 上敷免諏訪神社 正面
              
                    社号標石
       
     鳥居から正面参道を撮影。参道はその後直角に曲がり、南向きの社殿に向かう。
        
    鳥居のすぐ先には樹齢300年以上と推定されるご神木の大欅あり(写真左・右)。
       
                  こじんまりとした拝殿
 上敷免諏訪神社には由来等木下案内板はない。そこで西側近郊にある「皿沼城」の案内板を参照としたい。皿沼城も上敷免諏訪神社も同時期に岡谷加賀守香丹の築いた城であり、社でもある。
 
          唐澤川土手上にある「皿沼城」の案内板(写真左・右)       
○皿沼城
 深谷上杉氏の家臣岡谷香丹は、近くを鎌倉街道が通っているため、利根川を渡って攻めてくる古河公方の軍に備えるため、深谷城の北辺の守りとして、延徳3年(1491)築城しました。伏見神社を城内にまつり、諏訪神社を城の鎮守としましたが、のち城を長子清英にゆずり曲田城に隠居しました。清英は文武両道にひいでた武将で、深谷上杉三宿老の一人として活躍、上杉謙信からその武勇をたたえられています。天正18年(1590)深谷城と共にこの城も亡びました。城のあった地点は高台でしたが、煉瓦の原料として堀り取られ、水田になり、現在「ジョウ」の呼び名が残っています。 
                                      案内板より引用

 
 社殿の右側には稲荷社と推定される社(写真左)。深谷城の北辺の守りとして、延徳3年(1491)築城しました際に、伏見神社を城内に祀ったという。また稲荷社の右側奥には、御嶽山大神・三笠山大神・八海山大神の石碑、囧御先大神・大山祇大神の各石祠(写真右)が並ぶ塚もある。
       
         鳥居付近から撮影。このアングルでは欅が社の中心に見える。

「埼玉の神社」には上敷免諏訪神社を創建した岡谷氏について以下の記載がある。
「深谷城上杉氏の重臣であり、鎮守府将軍源経基の子孫と伝える岡谷加賀守香丹が、延徳三年(一四九一)当地に皿沼城を築いて住んだ時、城の鎮守として、岡谷氏の旧地である上野国岡谷(現群馬県沼田市岡谷町) から、諏訪大明神を勧請したものである。この諏訪大明神は、古い時代に、信濃国岡谷(現長野県岡谷市)から上野国岡谷に移り住んだ人が、信濃国の一之宮である諏訪大社を祀ったものと考えられる」

また神社に設置されていた「諏訪神社のいわれ」によると
「鎮座地の地名である上敷免は雑色免の転訛という。雑色免とは古代、種々の技術に従う人をいい、雑色免は、荘園において雑色の報酬として給付された免税地である」
という。

 深谷市は「瓦」「煉瓦」の街とも言われている。奈良時代、聖武天皇の時代から造られてきた「深谷瓦」は品質が優れていることから、県内はもとより、関東一円で広く利用されてきた。というのも、利根川と小山川の氾濫土が豊富に堆積していて、瓦製造に必要な原料である良質な粘土には事足らなかった為、古くから瓦などを焼く職人集団が、租税を免除されてこの地に沢山住んでいたのではなかろうか。
 同時に、深谷瓦の生み出した土は煉瓦(レンガ)にも適していて、明治時代からは煉瓦製造にも手掛け、深谷で製造された煉瓦は、東京駅、日本銀行旧館、東京大学、赤坂離宮など有名建築に使用されていた。

 明治20(1887)10月に日本煉瓦製造会社の工場が上敷免地域に設立されたことは、明治・大正期の実業家である「渋沢栄一」の意向(生まれ故郷に工場を誘致したい)も否定できないが、最終決定には、当時のドイツ人の煉瓦技師であるチ-ゼが、現地踏査と土質調査を基に決定したことである。

 埼玉県民でも読めない地名のひとつに数えられる「上敷免」という地名だが、そこにはそれだけの歴史的な深さのある由緒ある地名なのである。

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