古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

武蔵野足高大神社

「大里郡神社誌」によると榛澤郡下郷地域は、明治9年(1876年)改正の際に、飯塚村・原宿村・猿喰吐村・飯塚原宿村・飯塚猿喰吐村、五村が合併して武蔵野村となったという。この五村の内に「猿喰吐村」という村名があるが、その地名の由来や変遷は元禄時期以前は不詳とされている不思議な地名だ。
 その摩訶不思議な村名である旧猿喰吐村内にこの武蔵野足高大神社は鎮座している。

・所在地 埼玉県深谷市武蔵野3283
・御祭神 大物主神
・社 格  旧村社
・例 祭 例祭日 10月15日

               
 武蔵野足高大神社は前出上野台八幡神社から埼玉県道62号深谷寄居線を寄居町方向に道なりに真っ直ぐ進み、約6㎞行くとコンビニエンスのあるY字路にぶつかる。県道をそのまま進んで、最初の信号の先にある十字路を左折し、500m程進むと右側に足高大神社が見えてくる。
 
              一の鳥居          一の鳥居の先で左側にある社号標石

 「大里郡神社誌」によれば、室町末期には既に鉢形城主北条氏邦により、領内鬼門鎮護として奉祀されていたという。そのため、氏邦は、毎年九月二十八日を恒例日と定め、家士数人を率いて参拝し、幣帛及び神饌を奉り、祭礼を執行したという。この時、氏邦の神饌を奉るために使った膳が足高の膳であったため、それにちなんで当社を足高神社と呼ぶようになったのだとも伝えている。
               
                     拝 殿       
 
  参道の途中、左側には境内社・八坂神社。      拝殿右側には広い空間があり、
                            御嶽山三神の石碑がある。
 
  御嶽山三神の左隣には傾いた社日がある。        社日の並びにある塞神宮。
 
 塞神宮の左側にはに弎㠀(三島)大神と仙元大神と彫られた大きな2枚の石碑があり(写真左側)、そのすぐ左側には境内社・稲荷神社(同右側)が鎮座している。
 この地域には千元(浅間)神を信奉する社や石碑が非常に多い。
                
           社殿の左側で、奥に鎮座する境内社・天手長男神社
        

 御創建の年代は不詳ではありますが、室町時代末期 鉢形城城主 北条 氏邦 により領内の鬼門鎮護として厚く崇拝されていたと伝わります。氏邦は毎年九月二十八日を恒例日と定め、家臣を率いて参拝し幣帛及び神饌を奉り祭礼を執行したといわれています。その際、神饌を奉るのに使われた御膳が、足高の膳であったことに由来し当神社を足髙神社と呼ぶようになったとも伝えています
 かつて御祭神については伝えがなく、長らく祭神不詳となっておりました。ところが大正年間、古い版木に刻まれた神代文字を解読したところ「おほものぬしのかみ」(大物主神)と読めることが判明し、大正十年に正式に届けられ認められました
 その他、病気平癒・星祭・荒神・鎮火天手長男神社・塞神・養蚕守護・軍人健康などの祈祷札の版木が残存していることから、広く諸祈祷を行ない、信仰を集めていたことを窺い知ることができます。
                                  「足髙神社HP」より引用
                                                   趣のある境内

 ところで冒頭で榛澤郡下郷地域は、明治9年(1876年)改正の際に、飯塚村・原宿村・猿喰吐村・飯塚原宿村・飯塚猿喰吐村、五村が合併して武蔵野村となり、この五村の内に「猿喰吐村」という村名を紹介したが、それについて「埼玉苗字辞典」ではその村名に関連するのか、以下の記述をしている。

幕土 マクツチ 榛沢郡藤田郷猿喰土村(ざるがいと、花園町)は獏喰土と書かれ、系図作成者は幕土(ばくと)と記したか。冑山文庫本の武蔵七党系図に「猪俣党、幕土(猿喰土カ)」と見ゆ。小野氏系図に「猪俣小野三郎政家―藤田五郎政行―三郎大夫行安(一谷合戦討死)―右衛門尉能国―幕土五郎左衛門尉重国―六郎左衛門尉助国(弟に三郎左衛門尉重行、五郎兵衛尉助盛)―重泰(兄に孫三郎泰氏、弟に左衛門四郎宗遍、四郎助時、十郎入道道尊)―行重(弟に六郎重宗、弾正左衛門尉行宗)」と見ゆ。

猿喰土 ザルガイト 榛沢郡猿喰土村(花園町)あり。
一 猪俣党猿喰土氏 武蔵七党系図(冑山文庫本)に「猪俣党、幕土(猿喰土カ)」と見ゆ。


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