古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

成沢赤城神社

成沢赤城神社が鎮座する地域である『成沢』の由来として、熊谷市のホームページでは以下の通りに紹介されている。
「なりさわ」を「鳴る沢」から変化したとすると、水量の豊かな沢や谷のある地形から名づけられた地名と推測され、地図を見ると「成沢」には江南台地を開析する谷がいくつかあり、静簡院の北側や行人塚の北側は代表的な谷です。特に後者は板井付近から柴沼を経て運動公園へ続くもっとも大きな谷となっていて、途中にドカドカ橋(運動公園前)と呼ばれた橋もあり、水音が大きく響いていたことがうかがえる。
 所在地    熊谷市成沢237
 御祭神    大己貴命、豊城入彦命
 社 格  旧村社
 例 祭  お日待415日、天王様724日、お日待1015
         
 成沢赤城神社は埼玉県道81号熊谷寄居線を万吉氷川神社方面に東行し、コンビニエンスが右側に見える成沢交差点を右折すると、正面右側に神社の社叢が見えてくる。
神社の西側奥には会議所や子供の遊び場を兼ねた広い空間もあり、そこに車を停めて参拝を行った。
         
                  
成沢赤城神社 正面鳥居
   
     鳥居の手前左側には案内板あり        参道途中、右側にある三峰社
 赤城神社
 赤城神社の祭神は大己貴命・豊城入彦命であるが、いい伝えによると大山祇命と称したこともある。
 当社の神体は、金箔の木像である。本殿は大破風向千鳥軒唐破風欅材屋根鱗葺の造りで末社には、熊野神社、天神社、稲荷神社、津島神社がある。
 古老の説によると、「本社の創立年代は不詳であるが鎌倉時代以前といわれ、武州深谷の城主上杉左兵衛憲盛の信仰少なからず、当時は相応の社領を有し社頭の風致等見るもが多かった。」といわれている。
 なお、末社の熊野神社は本字の根岸に、天神社は字宿浦に鎮座し、稲荷神社は神力寺境内に鎮座のところ、明治維新の際赤城神社境内に移転したものである。
 末社の津島神社の大祭は、毎年七月二十四日「天のう様」で、みこし、屋台などが出て大変にぎやかである。
                               境内掲示による成沢赤城神社の由緒
         
                     拝   殿
「埼玉の神社」による成沢赤城神社の由緒
 赤城神社 江南町成沢五四六-一(成沢字十王嶽)
 当地を含む荒川中流右岸の辺りは、平安末期のころから上野国新田氏の所領で、貞応三年(一二二四)一月二十九日に新田義兼の妻新田尼から孫の岩松時兼に譲り渡され、以後新田岩松氏の所領となった。
 創建年代は明らかではないが、上野国との結びつきの深かった時代に新田氏の崇敬した赤城神社が勧請されたことが推測される。
 室町期の当地の状況を伝えるものとして、成沢氏と静簡院がある。成沢氏は「成田分限帳」に成沢藤三郎の名が見えるので知られ、当時忍城主の成田氏の家人であることから、この地域も成田氏の支配下にあったと見られる。また、静簡院は、深谷域主上杉憲盛の開基と伝え、憲盛は天正三年(一五七五)に没しており、このころは上杉氏の支配に属していたことがわかる。当時、この成沢氏や上杉氏によって当社も崇敬を受けたものであろう。
 『風土記稿』には「赤誠社 村の鎮守なり、傍の庵室を赤城庵と号し、当社の進退をなせし」とある。これに見える赤城庵は修験と思われるが、詳細は明らかではない。文政十一年(一八二八)には、神祇伯の執奏により正一位に叙された。
 明治初年の社格制定に際しては村社となり、同じころに字根岸の熊野神社、字宿浦の天神社、神力寺境内の稲荷神社の三社を合祀した。
 内陣には、室町期作と伝える木造赤城大明神座像を安置している。
  
    拝殿に掲げている赤城神社の扁額         拝殿横には合祀社が鎮座
         
                    境内社 津島神社
 末社の津島神社の大祭は、毎年7月24日、江南地域の成沢にある赤城神社にて行われる「成沢の天王様」といわれる祭りで演奏される囃子である。
 囃子は、笠鉾・山車の曳き回しの際に行われていたが、現在は据え置き屋台での居囃子の形態で演奏されることが多くなった。祭囃子の種類としては、「鎌倉流五人囃子」といわれ、大人たちによる囃子のほか、多くの子どもたちが屋台に上がり、太鼓を打ち続ける姿は圧巻との事だ。

 ところで
成沢赤城神社から南に約300m位で、段丘方向(南側)進むと行人塚古墳があり、成沢交差点から南下する道路の西側林内にある。古墳であることを示す標識があるけれども,道路がカーブしているところなので,見落としやすい場所かもしれないので、注意は必要だ。
  
  行人塚古墳は、道路に近い林の中にあった          古墳の案内板
熊谷市指定記念物(史跡)
「行人塚古墳」
行人塚古墳は面積500㎡、一辺が23m、高さ3.5mの方墳である。四隅に浅く残されている周溝には、古墳時代前期の竪穴式住居跡1軒が検出されている。
住居跡からは古墳時代前期の土器類のほか、フイゴの羽口・鉄滓・台石・叩き石などが出土している。この住居跡が製鉄か鉄器製作にかかわる小鍛冶跡であることが推測される。
                                 平成273
月 熊谷市教育委員会


        
         
         




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