古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大塚八幡神社

小川町は埼玉県のほぼ中央に位置し、広い関東平野が外秩父の山脈と接する位置にあり、中心地は周囲を山々に囲まれた小川盆地で、中央を荒川の支流、槻川が流れていて、京都に似た自然景観であるため、別名「武蔵の小京都」と呼ばれている。
 小川町で高い場所といえば、笠山で標高837m、一番低い所は市野川沿いの55m、その差約800mあり、この標高差の中に山地があり・盆地・丘陵、低地がありと非常に変化に富んだ地形を有しているのが小川町の特徴である。人々はこの地形と川を生かして古くから和紙、絹、建具、酒造などの産業を起し、地場産業として定着させ町場の賑わいを造りだしてきた長い歴史があり、その代表がユネスコ無形文化遺産に登録された細川紙である。
 同時に小川町域は中世(鎌倉・室町・戦国)の時代から人びとが往来する道筋にあり、鎌倉と上州・信州を結ぶ鎌倉街道上道が町域を貫通しており、奈良梨はその中心であった。本来は軍馬が行き交う軍用道路として整備されたものだったが、人々の交流や物資の輸送にも重要な役割を果たした。仙覚律師もこの道をたどって草深いこの地につき、『万葉集註釈』を完成させたと思われる。また高見が原の合戦等の戦場となり、さらに国指定史跡となった「下里・青山板碑製作遺跡」からきり出された緑泥石片岩(下里石)で作られた板碑が町域に1000基以上現存するが全てこの時代のものである。
 時代が下り江戸時代には賑わう町場が誕生し活況を呈し、外秩父の山裾を南北に八王子と上州を結ぶ八王子街道が、川越秩父道と町場の中心で交わる交通の要衝となった小川村は、人と物資の集散地となり「民家が軒を連ね」、一と六の日には市が立ち賑わったという。
 総じて山間地が多く耕作地の少ないこの地域には副業が発達し紙漉き・養蚕・絹織物・素麺・酒造などが盛んとなりその製品が街中で売買され、同時に江戸から秩父への最短距離であったため秩父巡礼や三峯山参拝で文人墨客の来遊も多く、道中日記や旅行記等に作品をみることができる。
 所在地    埼玉県比企郡小川町大塚427
 御祭神    品陀和気命(応神天皇) 天照大御神 豊受大神 大山咋命 保食命
 社 格  旧郷社
 例 祭  元旦祭 11日 春祭 310日 例大祭 1019
      秋祭  1123日 他小祭
        
 大塚八幡神社は国道254号小川バイパスを小川町方向に進み、駅前(西)交差点を道なりに直進、八坂神社を右手に見ながら、先のT字路を右折し、そのまま5分弱進むと大塚八幡神社の一の鳥居に到着する。一の鳥居は八幡神社から350m程東に建てられており、ここから北へ向かうと大梅寺、東へ向かうと仙覚律師遺跡や小川町立図書館がある。
 鳥居の先左側に町営グランド駐車場があり、そこで車を停めて参拝を行った。
          

          
小川町営八幡台グラウンドの南側に鎮座する八幡神社
  
   町営グランドから神社の社叢を望む       東側神社入口付近には案内板がある
 八幡神社 所在地 比企郡小川町大字大塚
 八幡神社は、元弘三年(1333)に、創建されたと伝えられている。
 鎌倉幕府の滅亡に際し、将軍であった守邦親王は、慈光寺山麓の古寺の里に亡命し土豪猿尾氏に迎えられ、この梅香岡に仮寓したという言伝えがある。
 守邦親王が鎮守神明社の境内に勧請したのが、八幡神社のはじまりであるといわれている。 
 慶安二年(1649)、三代将軍家光より社領十石二十斗を賜って以来歴代将軍から、御朱印を受けていたと伝えられている。守邦親王が生前、小字的場で馬術を練習した故事にならって境内でかつて流鏑馬や馬くらべが行われていた。
 八幡神社の大欅は、町の天然記念物に指定されている名木で、この木が下から水を吸い上げるため、この地の井戸はどんな日照りでも水が枯れることがないと言われている。
 昭和五十九年三月                              (案内板より引用)

 境内の案内板によれば、元弘3年(1333)創建。鎌倉幕府最後の将軍であった守邦親王(もりくにしんのう)が当地に逃れ来て、梅香岡(うめがおか)に仮寓したという伝承があるらしい。その際、鎮守神明社の境内に八幡神を勧請したのが始まりとされている。
        
                南側に回ると社号標と鳥居あり
        
           旧郷社の風格もあり、境内は広く、奥行きもある空間
 『増尾・角山・飯田・大塚の四か村と笠原の一部の地域は、中世の麻師宇郷に相当するといわれている。大塚の八幡神社は、この四か村の中央に位置する台地上に鎮座しており、古来、広範囲の人々の崇敬を受けてきた故を以て、戦前は町内で唯一郷社に列していた。 
境内のある台地は、かつて日本武尊が東征の折りに布陣したところといわれ、それにちなんで古くから神明社が祀られていた。その後、文治三年(1187)に源頼朝が山王社(現日枝神社)を、さらに元亨三年(1323)にこの地に隠遁していた鎌倉幕府最後の将軍となった守邦親王が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を境内に勧請し、その結果、八幡社が主体となって祀られるようになったと伝えられる。
しかし、社蔵の「応永文書」に、文永のころ(126475)に八幡宮の方が村の鎮守になったため、本社であった神明社は摂社となった旨の記載があることから考えると、元亨三年以前から何らかの形で八幡社が祀られていたことがうかがえる。麻師宇郷を領していた豪族の猿尾氏は源義経の臣であったため、源氏の氏神である八幡社を自らの所領に祀っていたことは想像に難くない。
 また、社伝によれば、守邦親王は鎌倉幕府の滅亡後、一旦京都に上ったのちに源氏と縁の深い都幾川村の慈光寺を頼ってこの地に逃れ、猿尾氏に迎えられてからは梅皇子と名乗って再挙を図ったが志を遂げられないまま没したので、その霊を自ら勧請した鶴ヶ丘八幡宮に配祀したという。「新編武蔵風土記稿」に「梅皇子の霊を祀る」と記されているのは、そのことを言ったものと思われる。
 このほかにも、八幡神社の行事や信仰には守邦親王にちなむものが多い。例大祭は親王の命日である九月十九日を祭日とし、生前に親王が的場で馬術の練習に励んでいたことから流鏑馬が行われていた。また、この日授与する矢除守は、守邦親王の父である久明親王が将軍となって鎌倉に下向した際に母君から授かったお守りに倣ったものであるという。なお、神職の片岡家は、守邦親王の子孫とされ、江戸時代には梅香山梅岑寺と号する本山派修験の寺であった。
 矢除守や、流鏑馬の神馬に陪従して無病息災を願う子育矢(陪従矢)によって、八幡神社は子育ての神として信仰が厚いが、「子」が「蚕」に通じることから、養蚕が盛んなころには養蚕の神としても信仰され、比企郡下はもとより入間・大里・児玉・秩父の各郡や群馬県に多くの崇敬者があった。また、同社は縁結びの神としても信仰されている。それは、かつて境内の芭蕉句碑の脇には、愛染椿と呼ばれる椿の大木があり、その葉を取って白紙に包み、拝殿前の石段で潰して葉が藍色に染まると相思の人と結ばれるとされてきたためである。この椿は枯死したが、現在は二代目が植樹されている』
「小川町の歴史 別編
民俗編」より引用
  
                  神楽殿            境内には多数の境内社が横一列に並ぶ
  
 
鳩(狛鳩)。八幡神の神使は鳩だから不思議はないが、しかしなかなか見かけるものでもない。
        
                     拝  殿


征夷大将軍という官職は、元来令外官(律令制定後に新設された官職)のひとつで朝廷と対立する「蝦夷」を追討するための軍を編成する際に任じられる臨時職であり、初期には征夷使、征東使などとも呼ばれていた。武家政権の為政者としての意味を持つようになるのは源頼朝以降で、この慣例は、室町幕府の足利(あしかが)氏、江戸幕府の徳川氏まで引き継がれ、1867年(慶応3)に王政復古で廃止されるまで続いた。ちなみに武家政権を幕府と称するのは、将軍の邸宅を中国風に幕府とよんだことに由来する。
 武家政権を樹立して征夷大将軍職に就いた最初に人物は源頼朝、その後頼家、実朝、この3人で源氏は途絶える。しかしその後も北条執権体制で鎌倉時代、幕府は存続した。しかし執権職はあくまで鎌倉殿を助け政務を統轄したいわばナンバー2の職権であり、名目的ではあるが征夷大将軍は鎌倉幕府が滅亡する1333年(正慶2/元弘3年)まで存在していた。鎌倉時代約140年間を通して9名の征夷大将軍が就任したが、源氏3代の後は摂家将軍2代、親王将軍4代が実権のない傀儡として細々と続いていた。
 鎌倉幕府最後の征夷大将軍は守邦親王である。前将軍久明親王の子であり、鎌倉幕府将軍の中で249カ月と在職期間が最長であったが、なんの実権も持たない形骸化された名目的な存在に過ぎなかったようだ。実際将軍としての守邦親王の事績もほとんど伝わっていない。この小川町大塚八幡神社にはその守邦親王(ないしその庶子)の伝説「梅皇子伝説」が今なお語り継がれている。
  
境内社・寅稲荷神社・満宮・葉神社・天手長男神社      境内社・高良神社・龗神社・羅神社
       琴平神社・産泰神社                                  稲荷神社
      
       
        名称 八幡神社の大ケヤキ(はちまんじんじゃのおおけやき)
小川町指定天然記念物(1963312日指定)
樹高 30m 目通り幹囲 5.0m 推定樹齢 不明
八幡神社は元弘3年(1333年)年に創建されたと伝えられている。鎌倉幕府の滅亡に際し、将軍であった守邦親王は、慈光寺山麗の古寺の里に亡命し土豪猿尾氏に迎えられ、この梅香岡に仮寓したという言い伝えがある。守邦親王が鎮守神明社の境内に勧請したのが八幡神社のはじまりであると言われている。
八幡神社の大ケヤキは、町の天然記念物に指定されている名木で、この木が下から水を吸い上げるため、この地の井戸はどんな日照りでも水がかれることがないと言われている。

 守邦親王やその庶子とも言われる梅皇子の伝承・伝説は真偽の程はわからない。但し大塚八幡神社が創建されたとする元弘三年(1333)以前からであることは確かである。上記「小川町の歴史 別編 民俗編」にも「境内のある台地は、かつて日本武尊が東征の折りに布陣したところといわれ、それにちなんで古くから神明社が祀られていた」との記述から、古代から信仰のある社が大塚地区には鎮座していたと推測される。
     

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