古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

樋春七社神社

樋春七社神社が鎮座する地域名「樋春」は「ひはる」と読む。荒川の南側に広がる水田地帯で町の穀倉地帯のひとつである。家々は微高地となっている自然堤防上に集り、河辺の集落のたたずまいをよく残していて、現在は熊谷大橋、県道武蔵丘陵森林公園広瀬線が通り交通の要所となっている。
 明治5年(1872年)維新政府は新行政策を発令し、名主、庄屋を廃して戸長(町村長に当る)を設置した。当時の樋口村(ひのくちむら)と春野原村(しゅんのはらむら)は、旧村の名を互いに一文字ずつ取り、古い土地の由来を新しい地名の中に均等に組み合わせて、「樋春」の地名と命名したという。
 所在地    熊谷市樋春10231
 御祭神    大日孁貴命、誉田別命、別雷命、大山祇命
      大斗辺命(大山祇命)、倉稲魂命、天兒屋根命
 社 格  旧村社
 例 祭  215日 祈年祭 1018日 例大祭 1126日 新嘗祭
         
 
樋春七社神社は埼玉県道385号武蔵丘陵森林公園広瀬線を東松山方向に進み、熊谷大橋を抜けて最初の交差点を左折し、右手にJA農協(ふれあいセンター江南店)の手前のT字路を右折すると正面左側に社叢が見えてくる。
 駐車場は神社の手前にスペースがある為、駐車をして参拝を行った。
         
         
        樋春は荒川の右岸と和田吉野川の左岸に挟まれた低地に位置する地域
             今は一面水田が広がる長閑な風景が広がっている。
         
                      2の鳥居
         
                     南向きの拝殿
「埼玉の神社」による樋春七社神社の由緒
 七社神社   江南町樋春一〇二三(樋春字宮裏)
 山崎は、荒川の堤防沿いに位置し、用水の取り入れ口の意から古くは樋口村と称した。万治三年(一六六〇)に村の南部の春野原を分村し、明治五年に至り、樋口村の「樋」と春野原村の「春」とを組み合わせて樋春村と命名した。
 春野原は鎌倉期から戦国期に見える荘園名「春原荘」の遺名であること、地内の平山家の先祖、新井豊後守は深谷城主上杉左兵衛憲盛に属して当所に住し、深谷落城後当地に土着したと伝えることから、中世末期には既にこの辺りの開拓が行われていたことがわかる。ちなみに、当社の本殿造営が永禄年間(一五五八-七〇)に行われたとの伝えがあり、平山家とのかかわりが考えられる。
 『風土記稿』樋口村の項には「七社明神社 当村及び春野原村の鎮守なり、押切村八幡神主篠田周防持」とある。一方、春野原村の項には「春日社及び樋口村の鎮守なり」「真光寺持」とある。両者の記述は七社明神社と春日社が別々に記られているように受け取れるが、実際は古くから一殿に二社が祀られていた模様で、「神社明細書」には、両村の入会地に「七社神社・春日神社」が両村鎮守として鎮座し、樋口村では七社神社と呼び、春野原村では春日神社と呼ぶとある。このような形になったのは春野原村分村以降のことであろう。
  
  
境内坂田稲荷社・持木稲荷社・実朝社合殿        不動・御嶽山霊神等
         
             拝殿東側に祀られている稲荷社・手長神社
 拝殿東側には「手長神社」と並んで「稲荷社」の祠が祀られている。樋春北地域には通殿様と呼ばれる真光寺持ちのお堂があり、これは『風土記稿』樋口村項に見える「通殿稲荷社」の事という。明治24年(1909年)に宇四度梅原地区(うしどうめはら)から七社神社に合祀された「稲荷社」とは、この通殿稲荷との事だ。
                 
 樋春地区は荒川の右岸と和田吉野川の左岸に挟まれた低地が広がる地域である。本来川の近くにこの名を関した神社が鎮座している場合、それは生産神として水を司ったり、川の氾濫を鎮める神(女神)、あるいは舟運の安全祈願として祀られていると考えるのが順当な線だが、一方でこの地名の周辺には、古代の製鉄遺跡や金属の精錬を生業とする人々が信仰した神社も多く分布している。
『風土記稿』春野原村には「鍛冶屋舗」という小字もあったので、古い時代には金属の精錬を営む人々が住んでいた可能性も否定できず、通殿地名は鍛冶、鋳物師などとの関連性もありそうである。

 


 



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