境下蓮町三柱神社
・所在地 群馬県伊勢崎市下蓮町767
・ご祭神 (主)倉稲魂命 誉田別命 建御名方命
(配)菅原道真公 保食命
・社 格 旧村社
・例祭等 節分祭 2月3日 春季例祭 4月上旬 夏祭 8月中旬
秋季例大祭 10月中旬 年末大祓式 12月31日 他
馬見塚飯玉神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を1.6㎞程東行し、「下蓮町」交差点を右折する。同県道八斗島境線に合流し、200m程進んだ丁字路を左折し、暫く道なりに進み、最初の路地を右折すると、進行方向右手に境下蓮町三柱神社が見えてくる。
社の境内北側には社務所があり、数台分駐車可能な空間があり、そこの一角に駐車して参拝を行う。
境下蓮町三柱神社正面
『日本歴史地名大系』「下蓮沼村」の解説
上蓮沼村の東にあり、北方を広瀬川が東流し、南は利根川(七分川)に面した。東は佐位郡小此木(おこのぎ)村(現佐波郡境町)・国領(こくりよう)村、北は佐位郡保泉村(現境町)。日光例幣使街道が通る。西から東へ通行する場合、集落に入る手前で南西方向の畔道に入り、街道上で赤城山が右手に見える唯一の地点であった。「右赤城」と称し、名勝とされたという。もと上蓮沼村と一村。元禄郷帳では高四七八石余、伊勢崎藩領。
『日本歴史地名大系』「国領村」の解説
東は佐位郡小此木村(現佐波郡境町)、南は前河原村(現境町)、西は下蓮沼村。明治初年まで利根川に面した。元和三年(一六一七)徳川秀忠から松平忠政に「国領村」の知行宛行状が出されている(記録御用所本古文書)。寛永二年(一六二五)当村四〇〇石が松平孫太夫に与えられ(同文書)、以後近世を通して旗本松平領。寛文郷帳では田方二一一石余・畑方三七石余。
『日本歴史地名大系』「上蓮沼村」の解説
韮川左岸、長沼村の東に位置。北は馬見塚村、東は下蓮沼村。日光例幣使街道が通る。「伊勢崎風土記」によると、長沼村の五十嵐氏が開発し、一村一苗であったという。古くは下蓮沼村と一村で、「寛文朱印留」に蓮沼村とみえ、寛文郷帳では蓮沼村の高六九一石余、うち田方一七九石余・畑方五一二石余、前橋藩領・旗本松平領の二給。元禄郷帳では上下二村で記され、上蓮沼村の高二一二石余、伊勢崎藩領(六二石余)・旗本松平領(一五〇石余)の二給。
『日本歴史地名大系』「飯島村」の解説
利根川左岸にあり、全村平坦地で、東は下蓮沼村、北は上蓮沼村、西・南は長沼村。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方四石余・畑方一四〇石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば新田ともで反別五町四反余、うち田方三反余・畑方六町一反余。ほかに新田九石余があったが、川欠けとなっており、耕地は畑三町余のみである。年貢は永二貫余のみ。家数二四、男五三・女五三。
当社の創建は、大正寺町豊武神社と同じく、明治四十二年(1909)明治政府の勅令により近隣の村々の産土神であった「国領村・八幡宮」「飯島村・諏訪神社」「上蓮沼村・飯玉神社」を合祀し、「三柱神社」と改称したという。その関係で、各村々の簡単な歴史等を解説することとなった。
当社名は三柱神社であり、社の「顔」というべき正面には石製の鳥居が三基連続して立てられている。
一の鳥居から順番に「正一位飯玉大明神」(写真左)「諏訪大明神」(同右)の社号額が架けられているので、三番目の鳥居には当然「八幡神社」の社号額であると思ったが、何故か「飯玉大明神」となっていた。
参道左側にある神楽殿 神楽殿の先に祀られる「蚕景山大神」
群馬県南部には江戸中期以降,養蚕信仰の高まりとともに多数の養蚕関連碑(蚕神碑)が建立された。特に、江戸中期以降の養蚕業隆盛に伴い、豊蚕祈願や蚕の供養など養蚕にまつわる信仰(養蚕信仰)が養蚕の盛んな地域に流布・拡散し、「蚕影大神」「蚕影山大神」「絹笠明神」「衣笠大神」などの碑名が刻まれた石碑(文字塔)が,江戸中期から昭和初期にかけて多数建立された。
この石碑によると、1893(明治 26)年 5 月 6 日の霜害における群馬県の被害は甚大で、雹霜害により桑の葉が枯死し、蚕の飼育が不可能となり、神社境内等に穴を掘削して蚕の亡骸を埋めた。その後、下蓮沼村民で協議し、明年 4 月 3 日に小規模な塚を造成して供養し「蚕景山大神」の碑を建石して祀り、後人に伝えるため概要を刻んだ。この碑についても、霜害の犠牲となった蚕の慰霊と被害概況を後世に伝承することを目的として建立されたことがわかる。
正面・蠶景山大神 中講義毛呂廣郷敬書
裏面・明治二十六年五月六日大霜上毛之野被害殊甚桑葉凋
落蠶多飢人皆棄其幾分而紓其食我下蓮沼邨之人亦相
謀同埋諸社前青爽之地明年四月三日建石奉祀蠶影山
大神且序事之大概刻其陰以傳後人
雹霜害が当時の地域住民に与えた経済的、精神的ダメージの大きさや、養蚕と地域との結びつきの強さなどがうかがえよう。
蚕景山大神の背後に聳え立つ大ケヤキのご神木。
社殿の左側に設置されている社の簡単な案内板 社殿の右側にある「三柱神社 新築記念碑」
拝 殿
三柱神社 新築記念碑
当神社は始め下蓮沼村に倉稲魂神を奉祀、飯玉神社と称し、弘治年間那波氏の創建と伝へる。
国領村八幡宮、飯島村諏訪神社、上蓮沼村飯玉神社が夫々の産土神として祀られていたが、明治四十二年勅令により合祀し、三柱神社と改称す。
爾来、氏子篤く信仰を捧げ、平和と繁栄を祈念し今日に至ったが、多年の風雨により損傷著しく、諸氏相議り、その遺風を後世に伝えんと此の度奉賛会を結成し、氏子及び縁りりある各位の浄財により社殿を新築、工事業者の誠意努力により荘厳に完成する。
志篤かりし芳名を刻み後の世に伝えんとこの碑を建立する。
平成五年四月三日 春季例祭 記念碑文より引用
社殿右側奥に祀られている末社・石祠(写真左・右)
おそらく、当地に国領村八幡宮・飯島村諏訪神社・上蓮沼村飯玉神社が合祀した際に、各社に祀られていた末社・石祠等を移したと思われるが、詳細は不明である。
落ち着いた雰囲気の境内一風景
参考資料「群馬県南部における雹霜害碑とその建立経緯の検討HP」「日本歴史地名大系」
「境内案内板・記念碑文」等