大正寺町豊武神社
・所在地 群馬県伊勢崎市大正寺町272
・ご祭神 (主)誉田別命
(配)建御名方命 倉稲魂命 保食命 大日孁命 日本武命
素盞鳴命 大物主命 手力雄命 大山祇命 別雷命
・社 格 旧村社
・例祭等 歳旦祭 天神梅花祭 1月15日 節分追儺式 2月3日
春季例祭 4月3日 例大祭 10月17日 他
:中町雷電神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を2㎞程東行し、国道462号線との交点である「徐ヶ町」交差点を更に直進すると、進行方向左手に大正寺町豊武神社が見えてくる。
鳥居正面からは社に入ることができないため、一旦北上して回り込み、社の後ろ方面から境内に入ることができ、そこの一角に車を駐車させてから参拝を開始する。
県道沿いに鎮座する大正寺町豊武神社
『日本歴史地名大系』 「大正寺村」の解説
西は除(よげ)村、東は馬見塚(まみづか)村で、韮川が中央を流れ、日光例幣使街道が通る。 かつて地内にあった大聖寺(大正寺)が村名の由来という。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方一一七石余・畑方一五五石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別二五町二反余、うち田方八町五反余・畑方一六町七反余。ほかに宝永七年(一七一〇)までの新田九石余があった。天保元年の年貢は米四三石余・永二二貫余、ほかに麦九石・大豆五石余を納めている。家数四三、男七九・女七六、馬一〇。柴宿助郷高二〇四石余(寛政八年「柴宿助郷村高等書上帳」関根文書)。明治三年(一八七〇)に松本宏洞らを中心として藩庁に郷学設立願(松本文書)が提出され、翌年村内の薬師堂に行余(ぎようよ)堂が開設された。
『日本歴史地名大系』 「除(よげ)村」の解説
東は大正寺村、北は堀口村、南は富塚村。北方を日光例幣使街道が通る。古くは大正寺村と一村であったという(伊勢崎風土記)。大正寺地内にあった八幡宮と当地の飯玉神社の氏子の分裂によって分村したという。村名の由来は利根川の氾濫時避難地であったことによるとする説もある。当地域は稲作地帯でよい米がとれたという。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方二〇一石余・畑方二七三石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別四〇町八反余、うち田方一五町七反余・畑方二五町一反余。
『日本歴史地名大系』 「富塚村」の解説
東は下道寺村、北は除村、西は下福島村、南は八斗島村。利根川(七分川)が南西を流れていた。享徳の乱の時には上杉・古河公方両勢力の境目として戦場になっている。享徳四年(一四五五)四月四日の小此木(現佐波郡境町)の合戦で、足利成氏方の岩松次郎(持国長子)が「冨塚在所以下所々」の敵上杉方を掃蕩し、小柴刑部左衛門尉を討取っている(同年四月五日「足利成氏書状写」正木文書)。
『日本歴史地名大系』 「下道寺村」の解説
韮川が中央を南流し、東は馬見塚村、南は長沼村。専修念仏の寺が創建され、真言・臨済・禅宗の信徒から外道とよばれたことから村名となったと伝える。日光例幣使街道が通る。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方一四一石余・畑方一九七石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別三四町五反余、うち田方一二町余・畑方二二町五反余。ほかに宝永七年(一七一〇)までの新田九石余があった。天保元年の年貢は米三〇石余・永二八貫余、ほかに大豆七石・麦八石余を納めている。
社は明治42年12月4日、当時の大正寺村の「八幡宮」、下道寺村の「飯玉神社」、富塚村の「諏訪神社」、除ヶ村の「飯玉神社」、下福島村の「八郎大明神」を合祀し、新たに「豊武神社」と改称した。その際に、富塚の「ト」、除ヶの「ヨ」、大正寺の「タ」、下道寺の「ケ」を取ってトヨタケと命名したと伝えられたという。
因みに下福島村の「八郎大明神」の本殿は豊武神社には合祀されず、八斗島稲荷神社に譲り受け移築していて、現在に至っている。その後八郎大明神は、昭和45年(1970)に現在地へ分祀された。故に『日本歴史地名大系』も下福島村以外の四村を紹介した次第である。
朱を基調とする大正寺町豊武神社の両部鳥居 鳥居の先にある手水舎と社の看板
鳥居近くで道路沿いに設置されている社の案内板
境内の様子
当社の例祭の一つである2月3日に行われる節分祭は、神社合祀をきっかけに明治四十四年に始まったと伝えられている。数え四十二歳男の大厄にあたる氏子が年男会を結成し、企画・運営をおこなう。氏子区域を袴姿で練り歩き豆を撒いて町内の厄を祓い、御神前で厄除の祈祷を受けた後、拝殿回廊から豆を撒いて厄を祓う。境内では様々な催し物が行われ、一日中賑わいをみせる当地の伝統行事となっているとのことだ。
参道を進んだ右側には「豊武神社の道標」と記された案内板とその石像。
豊武神社の道標
豊武神社は、かつて大正寺村の八幡様が祀られていました。境内には、豊受地区で最も古い年号が記された道標が残されています。道標は、神仏への功徳になるものという理由から建立される場合が多かったようです。
この道標は、二十二夜信仰にもとづき、正面に如意輪観音の座像が美しく彫られ、塔の右に「安永八己亥三月吉日」、左に「二十二夜供養」、そして台石正面に「村中男女」、台石左に「右ちゝぶ」(秩父)、「左日光」と刻まれています。安永八年は西暦一七七九年で、この道標は、以前、例幣使道沿いに建っていたと思われます。
案内板より引用
その左側には力石もあり、社では「合格力石」とも呼んでいる。浦風林右エ門(うらかぜりんうえもん)の相撲辻(すもうつじ)が幕末の文久元年(1861)に創設されたという記録があり、力士たちが持ち上げたと思われる、力石が95貫(356キロ)と刻まれているとのことだ。
力がつくということで、天満宮の前で「合格力石」として登録されているという。
拝 殿
豊武神社
鎮座地 伊勢崎市大正寺町二七二番地
御祭神
主祭神 誉田別命
配祀神 建御名方命 倉稲魂命 保食命 大日孁命 日本武命
素盞鳴命 大物主命 手力雄命 大山祇命 別雷命
由 緒
当社はもと八幡宮と称された旧社であるが、元和二年(一六一六)火災のため記録を焼失し、創建年代など詳細は不明である。しかし、その神威霊験はあらたかにして、近隣の村々で疫病が流行して多くの死者を出した時も、村内氏子中には感染した者はいなかったという。氏子らは当社の階段にあった竹弓手張を各戸口に掛けて祈願したので悪疫の侵害を免れたといわれ、この話が伝わると隣村の馬見塚や伊与久、下武士、茂呂、遠くは上植木、下植木や新田郡など十二カ村の人々からも信仰を集めたと伝えられている。
現在の社殿は、慶応年間から始めた募金積立により明治二十四年に改築工事を起し、野州那須山の桧材を用いて翌二十五年に竣功、三十二年二月十五日に遷宮式が行われた。
明治四十二年十二月十四日、五村の神社とその末社を合祀し、豊武神社と改称された。
・冨 塚(ト) 諏訪神社 八幡宮 神明宮
・徐 ヶ(ヨ) 飯玉神社 諏訪神社
・大正寺(タ) 八幡宮
・下道寺(ケ) 飯玉神社 神明宮
・福島 八郎神社 昭和四十五年十月十七日、地元住民の要望により元の地へ奉遷された。
昭和六十二年には社殿、神楽殿の改修、社務所の改築と、かつて境内にあった天満宮(菅原道真命)を再建、十二月二十五日遷座祭が斎行された。
宝 物
獅子頭(雌雄)
徐ヶ村飯玉神社境内の大ケヤキを安政三年(一八六五)伊勢崎城と姫路城及び城主酒井家の江戸屋敷の門扉と御殿の用材として献上した際の根株を淵名の弥勒寺義勝が彫刻し、伊勢崎城主酒井下野守忠強公が奉納したものと伝えられている。
例祭日には「悪鬼除け」と唱えながら村内を巡回したという。
龍の天井画
拝殿には大正寺の教育者・文人画家松本宏洞作の天井画と、かつての「八幡大神」の鳥居神額が掲げられている。(以下略)
案内板より引用
社の社務所に貼ってあったパンフレットには「豊武神社の弓千張の伝説」がある。
ある年、疫病が大流行し、周辺に多くの感染者と死者を出した。しかし、当社の氏子には感染者が出なかった。それは、氏子が当社の階檀にあった1,000張の弓を、各戸に1張ずつ掛け、祈願して悪厄の侵害を防いだという。
又、かつての八幡宮は、源氏の守護神であったが、武神・軍神と崇められ、弓術者の信仰が特に篤く、弓術者の奉額も確認できるものだけでも、明治30年(1897)、明治45年(1912)、昭和35年(1960)のものがあったという。
この伝説は、後に厄災除け、悪厄退散、スポーツ・技芸上達の神として信仰形態が変容したとの事だ。
社殿の右側に鎮座する豊武天満宮(写真左・右)
本殿奥に聳え立つご神木 境内にある巨木・老木
境内西北側隅に祀られている摂社・衣笠稲荷社 衣笠稲荷社の周辺にも多くの末社が祀られている。
衣笠稲荷社や石祠が祀られている幟と木々に囲まれた一角
参考資料「日本歴史地名大系」「境内案内板及び豊武神社社務所 パンフレット」等