古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

境米岡神社

 群馬県旧境町は文字通り「境」の町、上州群馬県と武州埼玉県との県境を、坂東太郎の異名をもつ大河『利根川』で接し、その利根川を跨いで、境町の南端・島村地区が埼玉県深谷・本庄市と隣接していた
 中でも境米岡地域周辺の歴史は古く、発祥は出土した土器等から縄文・弥生時代といわれている。市指定史跡である「北米岡縄文文化遺跡」は,境東小学校の南側一帯、利根川の自然堤防上の低い台地に広がる縄文後期から晩期の遺跡であり、日本最大の岩版(国指定重要文化財)が発見されたことで知られ、昭和16(1941)から発掘調査が行われてきた。岩版の発見や土偶などの出土により、祭祀的性格の濃い遺跡と考えられる。また土器に関して南関東地方と同様な型式に混在しながら後期中葉以降、東北地方の土器が見られることから、利根川沿岸で活発な交流があったことが伺えるという
 時代は下り、室町から戦国時代頃には、上野国那波郡と新田郡の境目であったことから「境」という地名に変わったと思われる。 慶安4(1651)には、佐位郡境村を境町と改名し、日光例幣使街道の宿場町として栄えたという。200511日に(旧)伊勢崎市、赤堀町、東村とともに新設合併し、伊勢崎市となったため消滅した。
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境米岡149
             
・主祭神 櫛御氣野命(くしみけぬのみこと)
                  
合祀 譽田別命、豐城入彦命、大日命、五十猛神
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭 43日 秋祭 113
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2658726,139.2642971,16z?hl=ja&entry=ttu

 境米岡地域は伊勢崎市東南端部に位置する。途中までの経路は世良田東照宮を参照。群馬県道・埼玉県道14号線を北上し、「世良田」交差点を左折する。群馬県道142号綿貫篠塚線に合流後850m程直進し「境女塚」交差点を左折。その後350m進むと道路は突当たりとなるので、そこのT字路を右折し、暫く進むと進行方向右手に境米岡神社の裏手に到着する。ありがたいことに駐車スペースもその付近に設置されている。その後鳥居のある南側正面に徒歩で回り込んでから参拝を開始した。
        
             社叢林に囲まれた中に鎮座する境米岡神社
 太田市との東側境界には北西方向から南東方向に流れる利根川支流の早川があり、社の正面鳥居がある南側から東方向に進むと早川に架かる橋があり、その橋の名前は「熊野橋」といい、文字通り嘗て境米岡神社が呼称していた社名がその由来となっているのだろう。林の中に神社は鎮座していて、ゆったりとした気持ちで参拝を行うことができた。
        
                   朱が基調の鳥居
 創建年代は不詳ながら、元は熊野神社で地元の方々からは「おくまんさま」と言われ親しまれているようだ。由来等案内板もないので推測しかないが、前橋市千代田地域に鎮座する熊野神社の案内板には「出雲国八束熊野より分社されたと伝えられていますが、その歴史は定かでありません。この地域一帯は「熊野の杜」と云われ、うっそうとした木立ちにつつまれた神域でありました。江戸時代以降は町の発展と共に現在のような鎮守としての神社になったと考えられます。熊野神社に願をかけると必ず成就すると、厚い信仰を集め「恩熊野様」と唱えて崇拝しました。これが子供たちには「おくまんさま」と聞こえたのでしょう、以後、当熊野神社は「おくまんさま」と称せられ親しみ愛されています」と記載されているが、この境米岡神社も同様な経緯で「おくまんさま」と呼ばれているのだろう。
        
            手入れを綺麗にされている参道の先に拝殿がある。
 南側に広がる農地より一段高い位置に鎮座しているようで、米岡地域附近の地形は標高42m程で、近くを流れる利根川や支流である広瀬川の度重なる氾濫により、岸を洗われ、東西約1㎞の自然にできた堤防のような低い台地上で形成されている。
        
                                 拝 殿
 明治40(1907)、神明宮及び末社三社、字新屋の赤城神社及び末社三社、字庚塚の八幡宮及び末社二社、熊野神社の末社四社を合祀して米岡神社と改称した。「島村の伊三郎」がこの社の近くで国定忠次らに殺された、という歴史の痕跡もある場所だそうである。現在は世良田八坂神社の兼務社となっている。
 
      拝殿に掲げている扁額               本 殿

 境米岡神社の朱祭神は「櫛御氣野命(くしみけぬのみこと)」という。この神は島根県松江市八雲町熊野にある熊野大社の御祭神である「素戔嗚尊」の別名であると云い、「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」という長たらしい名称を頂いた神様でもある。
「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」とのことだ。
 尚、紀伊国の熊野三山(熊野国造奉斎社)も有名だが、熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。
        
        拝殿・幣殿・本殿の造りが一目瞭然と分かる権現造りの形式。
    拝殿、本殿が若干規模は小さいが、それ以上に幣殿がしっかりと造られている。
        
                  本殿の後ろ側には幾多の石祠等が整然と祀られている。

 境米岡神社から西へ、徒歩数分の場所には「米岡の姥石」と云われる新田義貞に纏わる伝説の石がある。後で調べてみると、どうやらこの石の起源はかなり古く、「北米岡縄文文化遺跡」と同時代辺りの祭祀的性格の濃い縄文時代から崇拝されてきたご神体とも云われている。
*残念ながらこの石を知ったのは参拝後、編集中でもあり、実物は実見していない。

 米岡の姥石 市指定重要文化財 平成161126日指定
「甘酒婆さん」と通称される約1メートルの輝石安山岩の自然石で、新田義貞挙兵の際、小休止の軍勢に甘酒をふるまっていた老婆が武将の馬に蹴られ、死んで石になったという。百日咳を癒すご利益があるとされ、治るとお礼に甘酒を供えた。この姥石周辺から石製模造品が出土していることから、古代の磐座(いわくら)
と考えられている。
        
                                本殿の奥にある「神興舎」


参考資料「財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団」「伊勢崎市HP」「世良田八坂神社HP
    「前橋市千代田 熊野神社案内板」「Wikipedia」等


 

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