古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

美茂呂町飯福神社

 伊勢崎市美茂呂町地域に鎮座する飯福神社の主祭神は保食神(うけもちのかみ)という。この保食神は不思議な神で、日本全国の神社に祀られている神では、おそらく断トツの一位ではないかとも言われ、嘗ては民衆の中でも第一に崇められ、今でも社の末社や石祠の中に必ず祀れている神でもありながら、その割には正体が不明な神でもある。
 筆者も漠然と保食神=稲荷神と認識していたのであるが、実際に調べてみると中々興味深い神である。
 この神は、日本神話に登場する神であり、『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。神話での記述内容から、穀物・農業を司る女神と考えられる。
『日本書紀』では、天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに分かれて出るようになったという。
 天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。その種は秋に実り、この「秋」は『日本書紀』に記された最初の季節である。
この説話は食物起源神話であり、東南アジアを中心に世界各地に見られる「ハイヌウェレ神話」型の説話である。この「ハイヌウェレ神話」とは世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つで、殺された神の死体から作物が生まれたとするものであるという。
『古事記』では同様の説話がスサノオとオオゲツヒメの話となっている。よって、保食神はオオゲツヒメと同一神とされることもある。また、同じ食物神である宇迦之御魂神とも同一視され、宇迦之御魂神に代わって稲荷神社に祀られていることもある。
        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市美茂呂町3412
              
・ご祭神 保食神
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 春季例祭 223日 例大祭 1017
                   
秋季例祭・新嘗祭 1123
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3049217,139.2043629,18z?hl=ja&entry=ttu

 
美茂呂町飯福神社は伊勢崎市美茂呂町地域の北東端部に位置し、茂呂郵便局の南、茂呂小学校の西側に鎮座している。途中までの経路は、下渕名大国神社を参照。国道17号上武バイパス、大国神社東交差点を西方向、つまり左折して群馬県道292号伊勢崎新田上江田線に入りそのまままっすぐ4㎞程進む。群馬県道293号香林羽黒線との交点である十字路を左折し300m程北上、その後十字路を左折する。「茂呂町二丁目」交差点を過ぎた先にT字路があり、そこには「飯福神社」の看板が見えるので、そこを左折するとすぐ右手に参拝者専用駐車場があり、その先に社の鳥居が見えてくる。
        
                 美茂呂町飯福神社正面
 美茂呂町区は伊勢崎市茂呂地区のほぼ中心に位置し、古く(江戸時代以前)から住居が点在していた記録がある。退魔寺は応安4年(1371)に当時の茂呂城主によって建立された寺が始まりである。美茂呂町区は茂呂地区でも唯一区内に、神社(飯福神社)と寺(退魔寺・茂呂城址跡)があることから、古くより地区の中心であったものと思われる。また、行政の中心である伊勢崎市役所から1.2Km圏内にあり、区内に国道354号線、国道462号線が通り、近隣都市とのアクセスも良く、住民にとっては住みやすい地区となっているという
        
                 二の鳥居から拝殿を望む。
        一の鳥居を過ぎて、進んでいくと真っ赤な二の鳥居が右側に見える。
 標高54m程の住宅街が社の周囲を囲む中で、社周辺は平均標高が58m60m程の一段高い場所にあり、周囲を社叢林に囲まれている中、地味で華やかさはないが、地域の方々を見守るように穏やかに鎮座しているといった第一印象を受けた。
 規模は決して大きくはない社だが、境内は綺麗に清掃されている。宮司のみならず氏子の皆さんの努力の賜物なのだろう。嘗て古き良き時代には、村の鎮守様として多くの人々より、崇め祭られたことだろうと、筆者の勝手な妄想を抱く程気持ち良さを感じる神社。

        
                                  拝 殿
 拝殿手前右側にはこの神社のマスコットキャラクターである「めしふくろう像」が設置されている。「飯福」が「めしふく」とも読めることから、このキャラクターが生まれたようだ。目の前で見ると不思議と気持ちがほっこりとする。
 
           扁 額                 拝殿内部
        
                                 美茂呂町飯福神社案内板
 飯福神社
 鎮座地 伊勢崎市大字茂呂三、四一二番地
 祭神  主祭神 保食命
         配祀神 大物主命 誉田別命 火産霊命 倉稲魂命 菅原道真命  菊理姫命 最上命
 由緒
 当社の創建年代は明らかでないが、伝承によれば、建武年間(一三三四~三六)に宗良(むねなが)親王が父君後醍醐天皇の命を受け征東将軍となって東国に赴いたが、御子の尹良(ただなが)親王薨去(こうきょ)後は新田一族を率いて王事を尽くしていた。
 その宗良・尹良両親王の御息所にちなんで、ここに「位々登美(いいとみ)」の御神霊を奉祀した事が始まりとされている。その後は那波氏によって再建されたが、正親町(おおぎまち)天皇の御代の永禄五年(一五六二)、北条氏の兵乱に遭って社殿は悉く破損した。しかし、由良氏によって修理がなされ、天正年間(一五七三~九二)には、竹姫公の采邑(さいゆう)となった。
江戸時代に至ると、伊勢崎城主酒井日向守忠能によって修理が加えられ、明治維新以来は氏子の経営するところとなった。
 明治七年、村社に列せられ、同四十年九月十七日、境内末社の愛宕神社・秋葉神社・菅原神社、字堤の飯福神社・同境内末社の琴平神社・八幡神社、及び字宮上の秋葉神社、字白山の白山神社・同境内末社の菅原神社・疱瘡(ほうそう)社を合祀して今に至る。
 境内には、大正十四年建立の「古銭発見碑」があり、以前は桜の名所でもあった境内地を氏子たちは「カミノヤマ」(上之山)と称している。
境内末社 榛名神社 埴安姫命
     赤城神社 大己貴命
     加茂神社 別雷命
                                      案内板より引用
        
            本殿。周りには多くの石祠が祀られている。

 社殿を囲むように多くの境内社・末社・石祠等が境内に祀られている。
 
 社殿左側には縁結びの白山比咩神社を祀る。     社殿左奥に境内社・大国神社
        
                  伊勢崎市指定重要有形民俗文化財「茂呂の屋台」案内板
 伊勢崎市指定重要有形民俗文化財
 茂呂の屋台  平成二十二年十月一日指定
 旧茂呂村に伝わる五基の屋台は、幕末期から明治期に降雨を祈願し、また報祭のために製作された。
 屋台は正面一間側面二間の木造軸組に唐破風屋根または切妻屋根をもち、祭りのたびに組立・解体された。特徴としては、高欄を背面三方に廻し飾舞台とし、後室は囃子場としての演奏空間となっている。
屋台の上部は密度の高い彫刻で飾り、制作に関与した大工や彫刻師が判明する屋台も認められる。特に鬼板(おにいた)や懸魚(けぎょ)の彫刻には、水を司ると考えられる龍などを刻み、雨乞いとの関連が視覚的にも強調されている。
毎年九月の「飯福神社秋祭り」では、茂呂地区五町内の屋台囃子が共演される。
                                      案内板より引用


 美茂呂町の屋台囃子は、伊勢崎市域をはじめ、群馬県から埼玉県北部地域に広く分布する参手鼓と呼ばれる演目を基本とする祭り囃子である。この屋台囃子は、旧茂呂村の堀組と呼ばれる地域の有志が伝承してきたもので、現在は美茂呂町屋台囃子保存会を組織している。7月の茂呂地区納涼祭、水神宮祭、8月のいせさきまつり、9月の飯福神社秋祭りで演じており、世良田八坂神社の祇園祭(太田市)にも参加し演奏している。屋台は、嘉永7(1854)に制作されたものを所有している。
       
                   社殿右側に聳え立つご神木(写真左・右)
 
   ご神木周辺に祀られている石祠等          庚申塔等にも注連縄が巻かれているいる。      



参考資料「飯福神社HP」「伊勢崎市HP」「伊勢崎市美茂呂町自治会HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

拍手[1回]