古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下渕名大国神社

 下渕名大国神社は群馬県旧境町に鎮座している。境町は群馬県南東部で、伊勢崎市の東側、佐波郡にあった人口 約3万2千の旧町である。利根川中流北岸の沖積低地に位置し、利根川を南北に隔てて埼玉県本庄市、深谷市との県境となっている。
 中心の境は江戸時代に日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)の宿場町のひとつで繭,生糸の集荷市場として発達した。境町の名前の由来は室町から戦国時代に、上野国那波郡と新田郡の境目であったことから「境」という地名に変わったともいう。2005年(平成17年)1月1日に伊勢崎市と合併し境町は消滅した。

所在地    群馬県伊勢崎市境下淵名2827
主祭神    大国主命         
         (配祀)日葉酢媛命  渟葉田瓊入媛命  真砥野媛命 竹野媛命  薊瓊入媛命
社  挌    上野国延喜式内社 五の宮  旧郷社
例  祭    10月22日 秋季例大祭

        
 大国神社は伊勢崎市役所の東、国道17号線バイパスと県道が交わる旧境町に鎮座する。駐車場は県道側の道路沿いに専用駐車場があり、数台横並びに停められることができる。(後日参拝したところ、一の鳥居の北側にも駐車スペースがあり、そこのほうがより広い空間があった)
 この社は第11代垂仁天皇が東国に発生した大干ばつを収めようと勅使を派遣して祈らせたところ、この地に大国主神が現れて雨を降らせ、乾燥した大地が潤って水量豊かな渕ができたという。その伝承が渕名(ふちな)という地名にもなっているようだ。
           
                         下渕名大国神社一の鳥居

        
                   二の鳥居の左側にある由緒を記した案内板

大国神社
 上野国式内十二社大国神社縁起 境町大字下渕名字明神鎮座
 祭神  大国主命
 配祀神 渟葉田瓊入媛命、竹野媛命、日葉酢媛命、垂仁帝皇后、眞砥野媛命、筋瓊入媛命
       (外三柱)  罔象女旧御手洗神社祭神、素盞嗚命、事代主命旧八坂神社祭神

 延喜式神名帳に上野国大国神社あり上野国神社名帳に従一位大国神社とあるは即ちこの社である。
 縁記に曰く人皇第11代垂仁天皇の9年庚子四月より風雨順ならず、大旱打続いて蓄斃死するもの数を知らず天皇深く之を憂ひ給い諸国の神明に奉幣せられ東国には百済車臨遣はされて車臨この地に来り老松の樹下に宿る之即ち御手洗の亀甲松であった。偶々明旦前池に白頭翁の手洗ふを見たので問ふに叟は何人ぞと翁答いで曰く吾は大国主の命である。汝は誰だと車臨容を正して吾は天皇の勅を奉じて風雨順時疫病平癒の奉幣使百済車臨である願くは国家の為に大難を救助し給へと翁唯々と答ふ言下に雲霧咫尺を辨せず翁の姿は消えて影もなし須叟にして風巽より起り、甘雨澎湃として至り前地忽にして淵となった。
 因ってこの郷の名を渕名と呼ぶ様になり、これから草木は蘇生し悪疫悉く息み五穀豊饒土蒼生安穏となり天皇深く車臨を賞して左臣の位を授け大国神社を此の処に祀らしめ此の地を賜ったと云ふ。仝年15年丙午の年9月丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して合祀した故に古より当社を五護宮又は五后宮とも書き第五姫大明神とも称した此の時第五媛の神輿に供奉した舎人に松宮内大須賀左内生形権真人石井田右内の四人があり、松宮内の子孫代々当社の祀宮として明治に至ったと伝へられて居る。
 後称徳天皇の神護景雲元年従五位上佐位采女勅に奉して上毛に下り社殿を修造し国造の神として、渕名荘三十六郷の總鎮守として尊崇殊に篤かった。文化元年甲子現在の社殿を改築し、明治七年熊谷縣管下北方十六区佐位郡波両郡四十二ヶ村の郷社に列し仝42年2月神饌幣帛料供進社に指定されたのである。
 世界大戦後は、祭典を止められ神社の財産も開放となったが由緒ある神社で、氏子を始め、四隣からの崇敬は目を追ふて古にかへりつゝある境内は2476坪地は天然の丘陵に位置し、近くは太田の金山遠くは常陸の筑葉山と相対し遥かに西南を望めば上武の連峯は雲烟模糊の間に縹沙として遠近の風光を収めて居る云之。社前は延徳2年庚戌4月16日本願法名清本秀行刻せる石浄手鉢一基あり、本御手洗の社前より移したものといふ。
 祭日 大祭 10月22日
 中祭 3月29日
 小祭 7月25日
  大祭は古来獅子舞の神楽を演じ奉納する習あり
 午時 昭和55庚申年10月22日
 平成9年10月吉日 総代長 新井昭二
                                                          案内板より引用


 参道を抜けるとひろばがあり、拝殿が正面に鎮座する。寺院のような重量感ある社で、特に屋根部が異常に大きい。
       
                             拝     殿

             拝殿上部                   参道社殿手前左側には渕名天満宮

      参道社殿手前右側にある浅間神社            浅間神社の先にある八坂神社
                   
                浅間神社と八坂神社の間付近にある大国神社の石鐘
大国神社の石幢
 指定重要文化財  大国神社の石幢
 昭和42年2月10日指定
 村の人たちが、「御手洗の后燈籠」と呼ぶこの石幢は、昔近くの御手洗池畔で出土したと伝えられ、長い間人々の信仰を集めてきた。
 石幢は鎌倉時代に中国から伝えられ、日本では幢身にじかに笠を乗せた単制のものと、当石幢のような石燈籠ふうのものが発達した。石幢は仏教でいう「輪廻応報」「罪業消滅」という人々の願いをこめて建立されたものと考えられ、ガン部と称する部分を火袋として点灯し浄火とした。
 全体では、自然石の芝付の上に大きい角石の台座を置き、その上に竿塔・中座・火袋・屋蓋・相輪と積み重ねられ、台座からの総高は2,38mもある立派なものである。特に中座と火袋がよく安定した感じを出し、屋根の流れと軒反りのはね方は室町時代の作風をよく表わしている。また輪廻車が当石幢にもあったらしく条孔が残っている。
 笠部には磨滅がひどく定かではないが、次の銘文が読みとれる。
 本願主法名 清本秀行
 延徳二年庚戌四月十六日
           
                             本     殿
 大国神社が鎮座する下渕名地区は群馬県佐波郡に属する。この佐波郡は元佐位郡と言われ、上野国13郡(701年・大宝令)の一郡でもあった。この地域一帯には嘗て檜前氏一族が一大根拠地を形成していたといわれている。
 檜前氏は応神天皇の時代に渡来した東漢氏の祖・阿智使主の末で、大和国飛鳥の檜前(現奈良県明日香村檜前)を本拠地として、全国に一族が配置されていたようだ。関東では上総(かずさ)国 海郡や上野(こうずけ)国 佐位郡、檜前舎人部は遠江、武蔵、上総などの国に点定している。
 
 続日本後紀・神護景雲二年(768)六月六日条に称徳天皇の采女(うねめ)として仕え、従五位下まで出世した檜前部老刀自(ひのくまべのおいとじ、檜前君老刀自)という人物が記されている。断っておくが「采女」の称号を受けているのでこの人物は歴とした女性である。
 *采女   地方豪族である郡司の長官・次官(少領以上の官)の姉妹、娘の美しい女性を天皇のもとに仕えさせる制度。

 この人物は「上毛野佐位朝臣(かみつけのさいのあそん)」を賜姓、のち「本国国造(上毛野国造)」の称号を与えられていることから、檜前一族が佐位郡を中心にかなりの勢力を持ち、また上野国在住の地方豪族でありながら、近畿大和王朝とも太いパイプを保持していたと思われる。
 檜前一族は佐位郡に隣接している那波郡に一例の檜前氏が確認でき、また利根川南岸の武蔵国賀美郡にも檜前舎人直中加麿という人物がいたことは「続日本後紀」承和七年一二月二七日条にも記されている。少なくとも檜前一族が利根川中流域のある特定地域に勢力を張っていた根拠にはなるのではないだろうか。

 東京都浅草にはあの有名な金龍山浅草寺(せんそうじ)があるがすぐ隣には浅草神社が鎮座している。この浅草神社の御祭神は土師真中知(はじのあたいなかとも)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)で、この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになったという。合祀で徳川家康、大国主命を祀っている。
 社伝によれば、推古天皇36年(628年)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。

 
 この説話から解る事実とはなんであろうか。ヒントは土師氏と桧前氏だ。土師氏は有名な野見宿禰の後裔とされ出雲臣系である(天穂日命→建比良鳥命→野見宿禰)し、桧前氏は続日本後紀では武蔵国の「桧前舎人」は土師氏と祖を同じくしとある。檜熊浜成と武成も桧前氏と同族かもしれないし、土師真中知とも同族、もしくはかなり近い親戚関係であった可能性が高い。つまりこの浅草神社の伝承からある時期土師氏と桧前氏はこの関東地域では同族関係にあったと推測される。

 土師氏と桧前氏が利根川(この場合現在の太平洋に注ぐ現利根川ではなく、荒川と合流して東京湾に注ぐ流路をとっていた江戸時代以前の本来の利根川)流域を共に根拠地としていた氏族である。同族関係、もしくは同盟関係であったならばこの一族同士の交流はあったろう。この場合舟運ネットワークとして利根川は格好の河川ではなかったろうか。

 

             八坂神社                      諏訪、住吉、稲荷神社等
                    
          大国神社本殿の奥の斜面上にある石祠。本来の本殿だったのだろうか。
 
        
       西宮、弥都波能女神と金神等        浅間神社の裏に庚申塔と冨士嶽神社、秋葉神社
                                                                                                      

 

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