古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

保木野御霊稲荷神社

 わが国における視覚障害を有する者の生活手段確保の原点は「当道座」にあるといわれている。当道座とは、盲人の自治的相互扶助組織であり、その起源は古代に遡り、平安時代前期、仁明天皇の子である人康(さねやす)親王は盲目(眼疾による中途失明)であったが、山科に隠遁して盲人を集め、琵琶、管弦、詩歌を教えたのがその起源であるという。
 鎌倉時代、『平家物語』が流行し、多くの場合、盲人がそれを演奏した。その演奏者である平家座頭は、源氏の長者である村上源氏中院流の庇護、管理に入っていく。その後、室町時代に足利尊氏の従弟で、検校明石覚一が『平家物語』のスタンダードとなる覚一本をまとめ、また足利一門であったことから室町幕府から庇護を受け、当道座を開いた。
 江戸時代にはその本部は「職屋敷(邸)」と呼ばれ、京都の佛光寺近くにあり、長として惣検校が選出され、当道を統括した。一時は江戸にも関東惣検校が置かれ、その本部は「惣禄屋敷」と呼ばれ、関八州を統括した。座中の官位(盲官と呼ばれる)は、最高位の検校から順に、別当、勾当、座頭と呼ばれていたが、それぞれはさらに細分化されており合計73個の位があった。さらに地方の出先機関として「仕置屋敷」があり、その末端に組が置かれたという。
 官位を得るためには京都にあった当道職屋敷に「官金」と呼ばる多額の金子を持っていく必要があり、官金は高官たちに配分され、低官者は吉凶に際して施し物を受け、その配当を貰うことが慣行として公に認められていた。昔テレビで放送されていた「座頭市」のような物語の背景もそこにあったようだ。
 但し、江戸幕府は、当道座を組織させることで、それを統括する惣禄屋敷の検校(惣禄検校)に自治の権限や一定の裁判権を認めたが、当道座は男性のみが属することが出来る組織であり、盲目の女性のための組織としては瞽女座があり、また、盲僧座とよばれる別組織も存在し、しばしば対立することもあったらしい。
 当道座は江戸時代になっても幕府より庇護され、寺社奉行の管轄下に置かれていて、組織もしっかりと整備され、京都に職屋敷が置かれ、総検校が当道座を支配した。のちに6派に分かれたらしいが、それぞれ「座」として存在し、「検校・別当・勾当・座頭」の4官、内訳は16階と73刻みの位階で構成される当道制度が確立したが、官位はあくまで私官であった。この組織は明治4年(1871年)に廃止された。
 江戸時代中期、失明のハンデを負いながら学問の道に進み、大文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」等散逸する恐れのある貴重な文献の校正を行った塙保己一も、同時に当道座社会の最高位である「総検校」に就任している。その保己一の故郷がこの現本庄市・保木野地域であり、生家に近い場所にその地域の鎮守社である保木野御霊稲荷神社がある。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町保木野314
             
・ご祭神 素盞鳴尊 倉稲魂命
             
・社 格 旧保木野村鎮守・旧村社
             
・例祭等 初午祭 211日 春祭り 415日 秋祭り 1015
                  
新穀感謝祭 1215
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1977266,139.1184574,16z?hl=ja&entry=ttu
 本庄市・保木野地域は旧児玉町「金屋地区」に属し、地区内最北部に位置している。途中までの経路は金屋白髭神社を参照。国道462号線を本庄市児玉町地区より神川町二ノ宮の金鑚神社の方向に進み、「金屋保育所」交差点を直進し、450m程先の信号のある十字路を右折、そこから北方向に約1.4㎞道なりに進むと、一面田畑風景の中、正面方向にポツンと保木野御霊稲荷神社の社叢林が見えてくる。
        
                                                    保木野御霊稲荷神社の社叢林
 保木野地域は北を九郷用水、東を赤根川に挟まれていて、一帯は概ね平地である。集落は地域中央部にあって南部には「金屋条里水田」が広がっていて、現在はこの条里地帯も農地の区画整理、農道の整備、農業用用排水路等の整備を総合的に行われ、嘗ての土地区画は変化しているという。北側に九郷用水が東西に流れていて、保木野地域の水田もこの用水を用いている。
『本庄の地名②・児玉地域編』によれば、保木野の地名由来として、広がっていた野原とそこに映える自然林から起こったと推測され、保木野の「ほき」は植物がよく茂る(ほきる)様をあらわした言葉の意味との事だ
        
                保木野御霊稲荷神社正面
 日本歴史地名大系 「保木野村」の解説
 八幡山町の北西に位置し、東は賀美(かみ)郡八日市(ようかいち)村(現神川町)。文永一一年(一二七四)一一月の大嘗会雑事配賦(金沢文庫文書)によると、大嘗会に際して「保木野村」に布三丈六尺・白米六升八合・酒二升・秣一束・菓子一合が賦課されている。
「風土記稿」は新義真言宗(現真言宗豊山派)龍清(りゆうせい)寺境内に応永三二年(一四二五)銘をもつ「妙西尼」と刻された石碑があったと記す。永禄六年(一五六三)二月二六日、用土新左衛門尉に旧領である「保木野之村」などが宛行われた(「北条氏康・同氏政連署判物写」管窺武鑑)。天正一九年(一五九一)の八幡山城主松平家清知行分を示した武州之内御縄打取帳(松村家文書)によれば村柄は下之郷で、田方一一町八反余・畑方一〇町五反余(うち屋敷四反余)、俵高三一六俵余。
        
              保木野御霊稲荷神社 一の鳥居
 塙 保己一(はなわ ほきいち、延享355日(1746623日)~文政4912日(1821107日))は、江戸時代後期に活躍した全盲の国学者。武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれる。姓は「荻野」。武蔵七党横山党の一族で、荻野氏の後裔といわれている。
 7歳のとき、病気がもとで失明したが、15歳で江戸に出て、学問の道に進む。多くの困難の中、驚異の暗記力で様々な学問をきわめ、大文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)666冊をはじめ、散逸する恐れのある貴重な文献を校正し、次々と出版する。
 48歳のとき、国学の研究の場として現在の大学ともいえる「和学講談所(わがくこうだんしょ)」を創設し、多くの弟子を育てる。生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために全力を注いだという。
 そして、文政4年(18212月、盲人社会の最高位である「総検校」につき、同年9月に天命を全うした。享年76歳。
        
                                                            境内の様子
 保己一の幼名は丙寅にちなみ「寅之助(とらのすけ)」、失明後に「辰之助(たつのすけ)」と改める。また一時期、「多聞房(たもんぼう)」とも名乗る。雨富検校に入門してからは、「千弥(せんや)」、「保木野一(ほきのいち)」、「保己一(ほきいち)」と改名した。「保木野一」という名前は、自身が宝暦13年(1763)、18歳にして「衆分」の位に昇格した際に、名を中国の故事と共に、自らの出身地である「保木野」に因んだからといわれている。
 因みに「塙」の苗字は、保己一が江戸に出て修行を積み、当時の師であった須賀一の本姓「塙」を名のり、塙保己一を称したという。
*衆分…当道座の73もの階級の内、大きく分けた検校・別当・勾当・座頭の4官の座頭に相当し、衆分は15の階級に分かれている座頭の一番下の位という。
        
                    拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額           境内に設置されている案内板
 御霊稲荷神社 御由緒    本庄市児玉町保木野三一四
 □御縁起(歴史)
 保木野は、北を九郷用水、東を赤根川で限られた平地である。文永十一年(一二七四)の「大嘗会雑事配賦」(金沢文庫)に保木野村の文字が見える。
 御霊稲荷神社の名が示すように、当社は御霊神社と稲荷神社の合殿である。御霊神社は新里村との村境に鎮座した神社で、『風土記稿』保木野村の項によれば、往時の村鎮守で、龍清寺の持ちであった。「文政六癸未歳(一八二三)十一月吉祥日、別当東方龍清寺」と墨書された再建時の棟札が伝わる。ちなみに、龍清寺は、境内に応永三十二年(一四二五)の石碑がある古刹である。一方、稲荷神社は元々現在地に祀られ、『風土記稿』によれば福泉院の持ちであった。『児玉郡誌』によれば、貞治年中(一三六二-六八)に福泉院の開祖道栄が当地に居住して修験道を修行し、当社を勧請したという。本殿には「奉納稲荷大明神守護、元禄十六年(一七〇三)癸未天九月吉旦、願主武州児玉郡保木野村法印袋等」と刻まれた金幣や「正一位稲荷大明神、安永九年(一七八〇)子二月」と墨書された神璽などが奉安されている。
 明治初年の神仏分離により両社はそれぞれの別当から離れ、明治五年に稲荷神社が村の中央に位置することから村社となり、御霊神社は無格社とされた。同四十年には御霊神社を稲荷神社に合祀し、これに伴い社名を御霊稲荷神社と改めた。(以下略)

 また御霊稲荷大明神に奉納されている「塙保己一の奉納刀」があり、天明31783)年、塙保己一が検校(けんぎょう)に就任した時に奉納されたもので、糸巻き太刀拵えと呼ばれる形式の「飾り太刀」だそうだ。

拝殿左側手前に祀られている石祠群・詳細不明      社殿右側に鎮座する境内社
                             こちらも詳細不明
     
            境内には巨木・老木が聳え立つ。(写真左・右)
     左側は入り口付近で、鳥居の右側にある巨木。右側は社殿の右側にあるご神木。
   これら巨木・老木・ご神木の存在は、この社の歴史の深さを証明する生き証人でもある。
  境内入口付近左側にポツンとある社日神    鳥居の右側に並んで建つ庚申塔・石碑等
       
               社殿から見た秩父山系の風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉県HP」「本庄の地名②・児玉地域編」
    「本庄の人物誌① 盲目の国学者 塙 保己一の生涯」「Wikipedia」「境内案内板」等
   



 

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上日出谷氷川神社

 江川は鴻巣市、北本市、桶川市、上尾市を流れ、流域面積約 17km2、流路延長約 5km の荒川に注ぐ一級河川である。流域には豊かな自然が残っており、サクラソウをはじめとした多くの湿地性動植物が生息・生育している。また、江川流域は、埼玉県の中でも遺跡が多く分布する地域であり、縄文の時代から住み良い地域であった。
 近代では、台地からの湧水や伏流水に頼った昔ながらの水田耕作が昭和 40 年代まで行われていたが、中流域及び上流域において土地改良事業が行われた結果、安定した農耕が可能となった。その後、上流域の台地や北本市付近は急速に開発が施され、流域の市街化率は平成 6年度で 42.3%に達している。
 江川はもともと農業用水路であったことから、沿川には水田が広がっていて、沿川は主に水田利用。左岸側に位置する上日出谷地域周辺は市街化が進んでいるが、それに対して右岸側は主に畑や緑地が広がっている。
 行政側も、この江川を境として東側(そこからJR高崎線までの間)を「桶川西地区」、西側を「川田谷地区」と分けている。「桶川西地区」の管轄内である上日出地域は近年の土地区画整理事業により、宅地化が進み、日常生活に必要な公共施設、医療・福祉施設と広域的交通網を生かした商業施設などを集約した「地域生活拠点」を形成している。
 同時に、地域の西側に広がる江川周辺の農地をふくむ身近な自然は、市民農園や生産者と消費者のネットワーク化、雑木林の管理のためのボランティア活動などの農業の活性化と農地・雑木林の保全のための市民参加の支援活動を展開し、緑の風や美味しい空気の供給地と、せせらぎと緑が息づく身近な生態系を次代に伝えようとの試みも行われているようだ。
 この江川とその北側にある舌状台地の先端に位置しているのが上日出谷氷川神社である。行政側もこの社を「まちつくりに生かした地域資源」と捉えていて、この社を含む江川東側の斜面林を江川流域と一体的に捉え、緑の連続的な保全とその活用策を検討しているという。
        
              
・所在地 埼玉県桶川市上日出谷13
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧上日出谷村鎮守・旧村社
              
・例祭等 歳旦祭 11日 春祈祷 315日 祇園祭 714
                   
お日待 1015日 新嘗祭 1128
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0003919,139.5397969,18z?hl=ja&entry=ttu
 上日出谷地域は、南北に広い川田谷地域の東側で、JR桶川駅の西側辺りにあり、近年の土地区画整理事業により宅地化が進んだ地域である。その南西方向で、南北に流れている江川とその北側にある舌状台地の先端に鎮座しているのが上日出谷氷川神社である。
 途中までの経路は北本市・石戸八雲神社を参照。埼玉県道33号東松山桶川線を1.3㎞程南東方向に進み、「セブンイレブン桶川山店」のすぐ先の丁字路を右折する。首都圏中央道路を越え、更に南下し、「日出谷小学校」を左側に見ながらその先にある「日出谷小学校入口」交差点を右折する。因みに首都圏中央道路を越えて暫く進むと、民家が立て込んでいながら昔ながらの道幅の狭い道路となるので、対向車や人との接触には注意が必要だ。
「日出谷小学校入口」交差点を右折し、すぐ先にあるホームセンターの丁字路を左折。そのまま道なりに600m程南下すると信号のある十字路になり、そこを右折してすぐ左側に曲がる路地があり、その先に上日出谷氷川神社の赤い鳥居が見えてくる。
 但しここは正面ではなく、一旦南下して正面鳥居まで移動しなくてはいけない。因みに正面鳥居周辺には駐車スペースはない。車はここの一角に停めてから徒歩にて移動する。
        
       
 南側に移動して正面入り口に到着、ここが正面となる。地形を確認すると、社が鎮座している地は、舌状台地の先端に位置し、南・西・東の三方を低地に囲まれ、正面鳥居からは三方向の広大な田園風景を拝むことができ、地形上でも目立つ場所に鎮座している。
 嘗て「白旗山」と呼ばれる小高い場所には氷川神社が建っていて、明確な遺構はないが社殿裏に土塁の痕跡のような地形にも見える。
        
 正面鳥居から見た南方向の風景。なだらかな斜面となっているのがわかる。低地面の水田の平均標高は11m程で、社が鎮座している台地面・社殿付近が19m程であるので、比高差は最大で8mから9m程。なだらかな斜面であるので、そこまでとは一見思えない。
 川田谷と上日出谷の境を北から南に向かって流れる江川を中心に幅400m程の谷津となり、湿地帯ないしは深田が広がっていたものと推測される。江川に合流する手前の水路は元々氷川神社の東側から流れていたようだ。したがってこの氷川神社の台地は、おそらく以前は東西を自然の谷津で挟まれた南北に細長い地形であったものではなかったかと思われる。
        
                     傾斜の緩やかな上り斜面で、両側が樹木に覆われた
                         深い緑の参道を抜けると明るい境内となる。

 この社は南側の落ち着いた社叢林に包まれた正面入り口と、近代的な住宅が立ち並ぶ北側の鳥居付近では見る風景が全く違い、別世界のような感覚にとらわれる。
 但し面白いことに、この鬱蒼とした南側の参道を越えた先に広がる陽光を浴びた境内、加えて程よく整備された境内の先にある北側の鳥居までの間に、不思議な融合反応が発生し、周辺の現代的な建物と違和感なくとけこんでいる。これも何千・何万年という悠久の歴史が作り上げた日本という世界から見ても稀有な国の風土が自然と備わってきた包容力というものなのであろうか。
 この国の特異な魅力は、古いものと新しいものが共存し、互いに影響を与え合う独自の文化風景にあろう。
        
              陽光が差し込み、広々とした境内 
『日本歴史地名大系 』での「上日出谷村」の解説によれば、天正18年(1590)9月7日の伊奈忠次知行書立(「牧野系譜」京都府舞鶴市立西図書館蔵)に「ひてや」とあり、古くは下日出谷村と一村であったが、慶安3年(1650)牧野信成の死により采地が分割された際、上・下二村に分れ、上日出谷村は牧野永成領となったという。
 
   社殿に対して左側手前に建つ社務所        社務所の並びにある手水舎
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上日出谷村』
 神社 氷川社
 村の鎮守なり、社邊松杉生茂れり、其圍み一丈餘の古松あり、金松と云、由来は知らず、斧斤を加ふれば必災あり、下日出谷村知足院持、下四社同、
 山王社 愛宕社 天王社 七所社
        
             北側の鳥居の傍に設置されている案内板
 氷川神社 御由緒  桶川市上日出谷一三
 □御縁起(歴史)
 上日出谷と下日出谷は、元は一村であったが、慶安三年(一六五〇)に当時この地を領していた牧野信成の死によって領地が分割された際、上下二村に分かれたものと推測される。当社は、この上下の日出谷の境に位置し、『風土記稿』上日出谷村の項にも「村の鎮守なり、社辺松杉生茂れり、其囲み一丈余の古松あり、金松と云、由来は知らず、斧斤を加ふれば必災あり、下日出谷村知足院持」と載っている。ちなみに、この記事に見える「金松」は、本殿の後方にあった神木のことと思われるが、既に枯死しており、今では根株を残すのみである。
 当社の創立の時期は明らかではないが、こうした江戸時代における境内の状況や、別当であった知足院は正応年間(一二八八-九三)創立の真言宗の古刹と伝えられることなどから、鎌倉時代末期から室町時代にかけての創立ではないかと思われる。また、本殿には表に「正一位氷川大明神幣帛」裏に「寛政七年(一七九五)八月三十日神祇管領卜部良具」と墨書された神璽筥が納められている。
 台地の先端に位置し、南・西・東の三方を低地に囲まれた当社の杜は、遠方からもよく望見できる。かつては鳥居の右手に「氷川様の池」と呼ばれる広さ一〇畳ほどの湧水池があり、渇水時には、新しい水がよく湧き出すようにと神職が祈願した後に村中総出で池の水を掻い出して雨乞いをしたが、これも台地上の天水場ゆえの苦労話である。(以下略)
                                      案内板より引用

      拝殿に掲げてある扁額               本 殿

      本殿奥に祀られている合祀社(写真左)、及び境内社・駒形神社(同右)
 合祀社は、左から、庖蒼社・三社稲荷社・天神社・七所神社・日枝社・愛宕社が祀られている。
        
   社殿と合祀社の間に聳え立つ巨木周囲にある礎石らしき石が気になり、とりあえず撮影。
       後日社の参考資料を確認すると、この場所が古墳であったことを知る。
 自分自身の直感力を信じて良かったと、つくづく感じた次第だが、その時はやや自信がなかったのか、近距離からの1枚のみで、もう少し広範囲に撮影したほうが良かったと少し反省もしている。

 氷川神社裏古墳は、直径約19m 、高さ約1mの円墳で、墳丘を囲む浅い周溝も合わせると直径約25mになり、日出谷地区で確認されている古墳時代終末期で唯一の古墳である。桶川市指定有形文化財・考古資料。
 南側に開口する横穴式石室が発見されており、石室は凝灰岩の切石により構築されていて、これは複室構造切石積石室と呼ばれる桶川市域で特徴的な構造の石室である。
 氷川神社裏古墳から出土した遺物のうち市指定文化財となっているのは、古墳の石室及び「墓道」と呼ばれる石室入口付近から見つかった鉄製品17点と須恵器5点。
 鉄製品では馬具(鋏具・飾金具・釣金具)、太刀、刀装具、刀子、鉄鏃、不明鉄製品が発見され、馬具と武器の良好なセット関係として特筆される。須恵器は平瓶、長頸瓶、台付埦、フラスコ瓶が出土している。これらは出土位置から墓道に置かれたものであり、瓶類を中心にした副葬品と考えられる。
 これらの出土品から 、氷川神社裏古墳は7世紀前半代の築造と考えられ、出土品個々の歴史性・希少性もさることながら、荒川左岸の古墳時代終末期の様相を知ることのできる貴重な資料といえよう。
        
                              社の北側に建つ鳥居
 また氷川神社の裏手で、北側鳥居付近周辺にかけて「宮遺跡」と呼ばれる古墳時代中期の遺跡も発掘されている。この宮遺跡は、西側に江川の谷を望む標高20m前後の台地上に存在する。この宮遺跡ではこれまで4回の発掘調査が行われ、古墳時代中期の住居跡が18軒、古墳時代後期の住居が1軒発見されているという。

 嘗て埼玉県南部域において、桶川市域は開発が最も早く、湧泉(ゆうせん)を中心とする制御の容易な小河川が初期の段階では農耕に適していたことがうかがわれる。
 江川両岸には幅200500m程の谷を形成し、東西にヤツデ状の支流が分かれ、更には台地に刻まれた谷部に発達した湧水泥炭地である「樹枝状谷」が発達したため、市内ではもとより大宮台地でも初期の農耕集落が出現していた可能性が強い。
 江川は弥生時代中期以降の農耕の蓄積の上に、最も早く有力な首長を登場させた、県内では有数の文化の母なる川であったといっても過言ではない。


*追伸として
 余談ではあるが、筆者の妻の実家は桶川市・上日出谷地域である。この数十年間、不定期ながらも実家には顔を見せに行くので、周辺地域も含めてかなり熟知していたつもりだったが、この地域に氷川神社があったことはつい最近まで知ることはなかった。灯台下暗し、とはこのことであろう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」桶川市都市計画マスタープランPDF
    「桶川市 江川流域づくり推進協議会PDF」「北本デジタルアーカイブスHP」
    「桶川市HP」「境内案内板」等

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松原八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県桶川市川田谷1329
              
・ご祭神 誉田別尊
              
・社 格 旧無格社
              
・例祭等 例大祭(松原の簓獅子舞) 915
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9781015,139.5305383,17z?hl=ja&entry=ttu
 樋詰氷川神社から北西方向に通じる道路を500m程進むと松原八幡神社に到着する。ブログにも既に紹介している川田谷熊野神社や樋詰氷川神社と松原八幡神社は共に一本の道路によって結ばれているが、これらの社の他、沿道には古墳・城館跡や寺社などが多く残されていて、歴史の宝庫ともいえる。この道路は嘗ての主要街道で、江戸時代には中山道の脇道として、多くの人の往来があったと考えられる。樋詰氷川神社にある「樋詰の道しるべ」は、通行する人々の案内役として重要な役割を果たしていたことがうかがえる。
        
                  
松原八幡神社正面
        
         道路沿いに設置されている「八幡神社 御由緒」の案内板
 八幡神社 御由緒  桶川市川田谷一三二九
 □御縁起(歴史)
 口碑によると、当社は鎌倉の三崎が落武者となって川田谷の各所に土着し、背負って来た八幡様の御神体を祀ったのに始まる。三崎とは山崎・岡崎(のち磯田姓)・田崎の三家を指し、山崎家が薬師堂に、岡崎家が田向に、田崎家が松原にそれぞれ居を構えたという。このうち、田崎家は御神体を背負ってきた縁で、近年まで「鍵元」と称して当社の扉の鍵を所持していたほか、当社の正月飾りなどをする役を担っていた。同家は当社の東北三〇〇メートルほど離れた所にあり、屋敷に大人三人抱えもある杉の大木がそびえていたことにちなんで「一本杉」の屋号で呼ばれる.
 現在、本殿には、先の口碑に伝えられている神体とされる騎乗の八幡大明神像(全高四五センチメートル)と、「八幡宮御奉前下川田谷村」と墨書される金幣が奉安されている。ほかに、元禄十一年(一六九八)に領主牧野氏から奉納された神鏡(牧野氏の家紋「三つ柏」が刻まれる)や享和二年(一八〇二)に龍泉谷実顕により揮毫された「八幡宮」の社号額があり、いずれも当社の歴史を語る貴重な史料として大切にされている。
 明治初年の社格制定に際して、当社は無格社とされた。下って昭和五十二年に社殿を再建した。
祭神は誉田別尊である。(以下略)
                                      案内板より引用
        
        
「八幡神社 御由緒」の並びに設置されている「松原の簓獅子舞」の案内板
 松原の簓獅子舞
 松原の簓獅子舞は、毎年九月十五日に行われる八幡神社の祭礼において奉納されている。この獅子舞は、戦時中から昭和四十年代まで一時中断していたが、地元の若者、有志によって復活し、現在に至っている。
 本来は、旧暦八月十五日夜の日に演じられ、十二の場によって構成されていたという。現在では、短縮されてはいるが、囃子によって舞の庭に獅子を迎え入れることや、「草むしり獅子」と呼ばれるほど低い姿勢で舞う姿に、松原の獅子舞ならでわの味わいがある。
 また、祭礼では、「万作踊り」、「はやし」、「げんた踊り」も上演されている。万作踊は、簓獅子舞の合間に演じられており、戦前には獅子舞と同様に男性がその担い手であったが、戦後は女性を中心として演じられるようになり、近年ますます盛んとなっている。(以下略)
 
              社殿に続く参道(写真左・右)
        
                                      拝 殿
 西向きに鎮座している社。その視界の先には雄大な荒川が流れている。この社は河川による水害等の自然災害から土地の方々を守る為にこの場所に鎮座しているのであろうか。
 それとも滝馬室氷川神社のように、別の何か神聖な対象がその遥か先にあるのだろうか。

          本 殿            境内に祀られている境内社。詳細不明。
       
                               社殿から眺める風景
 ところで松原八幡神社が鎮座する松原地域は、弥生時代から人々が生活し、古くから開発されてきた地域だったようだ。その代表的な遺跡が、昭和 56 年に発掘調査が行われた「八幡耕地遺跡」である。
 昭和56 年、松原八幡神社の境内に、集会所が新設されることになり、その折、松原地域の方々の協力を得て、発掘調査が行われたのが、「八幡耕地遺跡」の調査の始まりである。
 この遺跡から、弥生時代後期の住居跡の一部が発見され、ほぼ完全に復元できる土器が発見され、その中には、29 個の壺形土器が含まれていた。大きなものは 90 センチを超え、また、比企地方に主に分布する吉ヶ谷式土器と、南関東に広く分布する弥生町式土器という異なる系統の土器が発見されたという。
 やはり社がある場所には長く語られる歴史の物語があるのであろう。
        
           河川敷の先にはホンダエアポートの滑走路がうっすらながら見える。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「桶川市HP」「境内案内板」等

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樋詰氷川神社

 樋詰氷川神社は桶川市川田谷地域南部に鎮座する。創建年代は不明である。ただ江戸時代前期から中期にかけて、川田谷村から枝郷として「樋詰村」が分村する際に創建されたものと推測される。因みに「樋詰」は「ひのつめ」と読む。当時「西光寺」が別当寺であり、西光寺は泉福寺を本寺とする天台宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。1967年(昭和42年)に社務所兼集会所が改築された。
        
              
・所在地 埼玉県桶川市川田谷215
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧川田谷村枝郷樋詰村鎮守・旧村社
              
・例祭等 1月1日 歳旦祭 2月20日 恵比須講 10月9日 お日待ち
                   
11月20日 恵比須講(新嘗祭)
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9782654,139.532126,16z?hl=ja&entry=ttu
 川田谷熊野神社から荒川に沿って北西方向に通じる道路を200m程進むと、進行方向正面に樋詰氷川神社の鳥居が見えてくる。川田谷熊野神社とは非常に近距離の位置関係となる。
 この樋詰氷川神社の前の道は、古くからの主要道路であったと考えられ、沿道には城館跡や寺社などが多く残されていて、江戸時代には中山道の脇道として、また、荒川の舟運や渡河のための主要交通路として、多くの人の往来があったと思われる。樋詰氷川神社境内に設置されている「樋詰の道しるべ」は高さ40㎝ほどの小さな道しるべであるが、当時の交通路を調べるうえでも重要な道標であろう。
        
                  樋詰氷川神社正面
 
    鳥居のすぐ左側に設置されている「樋詰の道しるべ」の案内板等(写真左・右)
「桶川市指定文化財 樋詰の道しるべ」
 種別 民俗文化財(有形民俗)  平成8529日指定
 この道しるべは、高さ40cmほどの小さな道しるべです。明和8(1771)に建てられ、正面には「あきは道」「大宮道」とあります。「あきは」 は火災除け、盗難除けの神様として信仰を集めた指扇村(現さいたま市)の秋葉神社で、「大宮」はさいたま市の武蔵一宮氷川神社です。正面向かって右側面 には「かうのす道」、左側面には「太郎ヱ門舟渡」と刻まれています。「太郎ヱ門舟渡」は、現在の県道12号川越栗橋線の太郎右衛門橋付近にあった荒川の渡場のことです。
 樋詰氷川神社の前の道は、古くからの主要道路であったと考えられ、沿道には城館跡や寺社などが多く残されています。江戸時代には中山道の脇道として、また、荒川の舟運や渡河のための主要交通路として、多くの人の往来があったと思われます。この道しるべも、通行する人々の案内役として重要な役割を果たしていたことがうかがえます。
 平成273 桶川市教育委員会
                                      案内板より引用
 
 
   鳥居を過ぎて参道右側にある「力石」     「力石」の傍に建つ「改修記念碑」
        
                     拝 殿
        
               境内に設置されている案内板 
 氷川神社  桶川市川田谷二一五
 祭神…素戔嗚尊
 当社が鎮まる樋詰(ひのつめ)の地は、荒川左岸の低地に位置し、古くから度重なる水害を被ってきた。樋詰は川田谷村の枝郷で、慶安ニ~三年(一六四九~五〇)の『田園簿』では本村に含まれており、元禄十五年(一七〇二)の『元禄郷帳』では川田谷村枝郷として樋詰村一〇二石余と記される。また、口碑によれば、樋詰の開発当初の村人は長島一家だけであったという。
 その創建は川田谷村から分村する過程で祀られたことが推測され、長島一家とのかかわりも考えられる。化政期(一八〇四~三〇)の『風土記稿』川田谷村枝郷樋詰村の項には「氷川社 村の鎮守なり、川田谷村西光寺の持」とあり、当時の家数は三三戸とある。
 参道入口の鳥居に掲げる「氷川大明神」の額には、裏に「元文四未(一七三九)天十一月吉日 武州足立郡石戸領樋詰村氏子中」と刻まれており、当社の最も古い史料となっている。また、本殿に安置する金幣には「奉献心願成就 明和六己年丑(一七六九)二月吉日」「願主伊勢屋丑兵衛」と記されている。
 明治六年に当社は村社となり、その後昭和四十二年には社務所兼集会所を改築した。また、往時の別当西光寺は既に廃寺となっており、その跡には墓地が残る。
 祭神の素戔嗚尊は八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したことで有名であるが、八岐大蛇とは一説には大雨で暴れた川を表し、その水害を鎮めるための守り神として祀られたと考えられる。
 祭礼は正月の歳旦祭、二月の恵比須講(祈年祭)、十月のお日待ち、十一月の恵比須講(新嘗祭)の年四回である。
 社殿東隣に「稲荷社」を祀り、境内南東には「庚申塔(青面金剛)」が祀られている。(以下略)
                                      案内板より引用

 
       境内社・稲荷社             境内にある社務所兼集会所
       
 入口にある鳥居の右隣側には「奉納 大天狗 石尊大権現 小天狗」と刻印された石灯篭(写真左)があり、境内南東側には「庚申塔(青面金剛)」が祀られている(同右)。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「桶川市HP」「上尾市 日枝神社HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

  
        


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熊野神社古墳

 桶川市の西部にある川田谷地域は、荒川右岸の自然堤防上の台地に位置し、早くから開発が盛んな地域であったようで、4世紀から7世紀にわたる古墳時代に、数多くの古墳が築かれる。この地域一帯には70基前後の古墳が築かれたと推定され、これを「川田谷古墳群」と呼んでいる。
 この古墳群は行田市にある埼玉古墳群より約1世紀前に築かれ、県内における古墳時代の始まりを物語る古墳として注目されている。
 江戸時代後期の『新編武蔵風土記稿 川田谷村』の項には、古墳の存在を示す記述がある。
 八幡社
 近き年村民社辺の地を穿ちしとき、圓徑七八寸許なる瓶二つを掘出せしが、其中に丹の丸せし如きもの納ありしと云、明器の類なるべければ、墳墓ならん、村民の持、
 王子稲荷社
 四十年前社傍の土中より石櫃を穿出せり、中に甲冑大刀等数多あり、又圓徑二寸許の玉の如きもの出たる由、今皆失ひて甲の鉢一つ殘したれど、それも半ば毀損せり、こゝも前の八幡の地と同く墳墓などの跡なるべし、
 川田谷古墳群は、家屋敷や農地の中にあったこともあり、明治時代になると耕地の拡大によって姿を消していった。その中で、埴輪が姿を現し、墓室である石室が開かれ、副葬品が発見されるようになった。この時代の出土品の一部は、現在も東京国立博物館に所蔵されている。
 この地域は中世の河田郷に比定され、古くから古墳が多く存在するところとして知られていた。この熊野神社古墳もその古墳群の一つで、円墳上に社が鎮座している。
        
              
・名 称 熊野神社古墳
              
・墳 形 円墳(最大幅16mの周溝あり)
              
・規 模 直径38m・高さ66.5m
              
・築 造 4世紀後半(出土土器から推定)
              
・出土品 勾玉、ガラス玉、管玉、紡錘車、石釧、筒形石製品、
                   筒形銅器等
                   *出土品は国の重要文化財に指定
              ・
指 定 埼玉県指定史跡
                   *
熊野神社古墳 昭和42年(1967328日指定
「川田谷古墳群」は大宮台地の西側、荒川を見下ろす標高20m程の台地上にある。調査によって6世紀前半から7世紀後半頃に造られたものが多いことが判明した。荒川の沖積地に向かってとび出している川田谷の台地の三つの支丘を中心に、北から西台(にしだい)・原山(はらやま)・柏原(かしわばら)・樋詰(ひのつめ)の四支群をつくる。
『新編武蔵風土記稿』にも記載があり、近世後期から存在が知られていたが、明治以来大規模な開墾により、多くの古墳が壊された。この時に発見された副葬品や埴輪類の一部は東京国立博物館や地元にある。
        
                                熊野神社古墳 遠景
 熊野神社古墳は、荒川と江川の合流する台地状にある直径38m、高さ6mの円墳で、円墳上に熊野神社が祀られている。昭和3年(1928)に社殿を改築した際に、玉類、石製品、 銅製品、太刀などの副葬品が出土し、一部は失われたが、それらは国重要文化財として、現在、埼玉県立博物館で保管・公開されている。桶川市歴史民俗資料館では、これらを精密に複製したものを展示している。昭和59年(1984)の発掘調査で出土した土器から、 4世紀後半の県内でも古い時期の古墳であることが確認されている。
 
          熊野神社古墳正面             川田谷熊野神社の案内板
        
   社殿に通じる石段手前に設置されている「埼玉県指定史跡 熊野神社古墳」の案内板
 埼玉県指定史跡 熊野神社古墳
 熊野神社古墳は、川田谷地域の荒川沿いに多く分布する古墳の1つで、河川交通上野重要な位置にあります。
 墳形は円墳で、昭和59年度に行われた調査によって、直径38m、高さ66.5m、周溝の幅1416mであることが確認されました。
 粘土槨(粘土で棺を覆って安置したもの)と想定されている埋葬施設は、昭和3年、墳頂部の社殿改修の際、偶然に発見され、玉類、石製品類、筒形銅器など、畿内の古式古墳と共通する多くの副葬品が出土しました。当時の出土遺物は国の重要文化財に指定され、現在は埼玉県歴史と民俗の博物館で保管展示されています。また桶川市歴史民俗資料館では複製品を展示しています。
 出土した遺物などからみて、古墳の年代は4世紀後半ごろと推定され、埼玉県内では比較的古い時期に築造された古墳と考えられています。
 平成2112月 埼玉県教育委員会・桶川市教育委員会
                                      案内板より引用
 更に『日本歴史地名大系』による 熊野神社古墳」の解説によれば、「墳丘は盛土の上段部と地山を整形した下段部の二段築造で、焼成前に底部を穿孔した二重口縁の壺形土器のほか器台形土器・坩形土器など五領II式の赤彩された土師器が発見された」と記載され、地山の上部を盛り土した二段築造の円墳であるという。丁度社の石段を登る途中にある鳥居付近の踊り場が、上段と下段の境目に当たるのであろうか。
 
  古墳墳頂部に鎮座する川田谷熊野神社       墳頂部に建つ「出土品ノ碑」
 
               古墳墳頂部を撮影(写真左・右)。
   熊野神社を鎮座させるために墳頂部は削平されている可能性は否定できないであろう。

 昭和3年(1928)、社殿改築時に墳頂から粘土槨らしき部分が発見され、そこから東国では珍しい碧玉製品をはじめ、玉類・石製品・銅製品・鏡・刀などが大量に出土した。
 この古墳はあまり目立たない場所に築造されていて、一般的な評価も高くないように見えるが、埼玉県早期の古墳を語るうえで非常に重要な古墳でもある。
 現在の荒川の流路は、江戸時代初期に旧入間川水系の和田吉野川に南流する荒川を瀬替えして定まったものである。嘗て東京湾にそそぐ利根川から分かれた入間川が大宮台地の西を北上し、さらに、入間川・都幾川・越辺川・市野川そして和田吉野川と分かれ、入間、比企地方に流域を広げていた。
 古代において、河川は、人や物が行き交う上で重要な交通路であった。荒川に沿う川田谷の台地にある遺跡からは、繊細な櫛描文で飾られた壺が発見されている。この土器は、東海地方西部の伝統をひくものである。
 3世紀、近畿地方の勢力を中心として「国」の礎を作ろうとする歴史の波がおこり、東海地方の人びともこの波を受け止め、さらに東方へと伝えていった。現に熊野神社古墳出土品の中には畿内の古式古墳と共通する多くの副葬品が出土している。
 この古墳の埋葬者はどのような経歴の人物であったのであるかは不明であるが、筆者の想像を逞しくすると前置きをした上での考察ではあるが、鴻巣市・明用三島神社古墳の埋葬者と同じく、旧入間川等の河川による交易・流通を一手に担う一族の中心人物であったようにも思える。
 今後の新たなる発見により導き出される興味ある展開に期待したいと願うばかりだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「熊野神社古墳の物語 リーフレット PDF
    「Wikipedia」「境内案内板」等
        
        

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