古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上阿久原丹生神社

 上阿久原は、中世の阿久原郷に含まれ、その郷内には阿久原牧があった。阿久原牧(阿久原牧跡は埼玉県指定旧跡)とは、承平三年(933年)四月に勅旨をもって官牧となった国有の牧場で、武蔵七党児玉党の祖・有道惟行(ありみちこれゆき)が別当(管理責任者)として赴任した。
 惟行は平安時代後期、朝廷よりの派遣官人としての任務完了後も児玉郡にとどまり、そのまま在地豪族と化し武将として、武蔵七党の一つにして最大勢力の集団を形成する児玉党(武士団)となる。尚児玉党本宗家は3代目児玉家行(惟行の孫)以後、庄氏を名乗り、その本拠地を北上して栗崎の地(現在の本庄台地)に移す事となる。その直系の家督は庄小太郎頼家で絶える事となるが、児玉党本宗家は庄氏分家によって継がれていく事となり、本庄氏が児玉党本宗家となる。
 惟行の嫡流達は児玉郡内を流れる現・九郷用水流域に居住し、土着した地名を名字とし、児玉・塩谷・真下・今井・阿佐美・富田・四方田・久下塚・北堀・牧西などなど多くの支族に分かれていった。
        
             
・所在地 埼玉県児玉郡神川町上阿久原11
             
・ご祭神 高竉神 水速女神
             
・社 格 旧上阿久原村鎮守 
             
・例祭等 新年祭 19日 祈年祭 415日 例祭1015
                  
新嘗祭 121
  埼玉県道・群馬県道289号矢納浄法寺線沿いに鎮座する下阿久原有氏神社を更に1㎞程南下し、「JA埼玉ひびきの神泉地区総合センター」を過ぎたY字路を右方向に進む。後日地図を確認すると東西に流れる神流川に対して並行してこの道路はあるようだが、800m程進むと正面右側に上阿久原丹生神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
        
                              
上阿久原丹生神社正面
       社の裏手には神流川が見え、小規模水力発電の「神水ダム」が見える。

 神川町の上阿久原地域は、旧神泉村に属していた地域で、200611日に神川町と合併し新しい神川町の一部となったため消滅している。合併後において神川町のやや中央部に位置し、神流湖から北方向に流れる神流川と、その右岸で接している南北に長い上阿久原地域の北端で、神流川の流路が真東に流れるその地点南側の川岸で、鬱蒼とした林の中に上阿久原丹生神社はひっそりと鎮座している。
*『日本歴史地名大系 』での「上阿久原村」の解説
 [現在地名]神泉村上阿久原
 下阿久原村の南西に位置し、西から北は神流川を隔てて上野国緑野(みどの)郡譲原(ゆずりはら)村・三波川(さんばがわ)村・鬼石(おにし)村(現群馬県鬼石町)、南は秩父郡金沢(かねざわ)村(現皆野町)・矢納(やのう)村。村の北から西を城峯(じようみね)道が通る。中世には阿久原郷のうちに含まれ、文禄三年(一五九四)以前に当村と下阿久原村に分村したとみられる。慶長三年(一五九八)五月の上阿久原之郷御坪入帳写(浅見家文書)が残る。 
       
 鳥居左手には「
町指定史跡 丹生神社」に石碑が立つ(写真左)。昭和44111日指定されていて、再建や修復時の棟札から、永正17(1520)以前の創立で、古くは阿須訪大明神・阿諏訪丹生大明神といわれていたという。また鳥居右手には「阿諏訪社 丹生神社」と刻まれた社号標柱が立っている(同右)。
        
                 参道から社殿を望む。
 日本神話にて「水」を司る有名な神様として「罔象女神(みつはのめのかみ)」「淤加美神(おかみのかみ)」があげられる。「罔象女神(みつはのめのかみ)」は『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記され、この社では水速女神とも書かれている。『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。
 一方、淤加美神(おかみのかみ)は、『古事記』では淤加美神、『日本書紀』では龗神と表記され、この社においては高竉神として祀られている。『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜った血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしていて、高龗神は貴船神社(京都市)のご祭神として有名である。龗(オカミ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていて、「闇(クラ)」は谷間を、「高(タカ)」は山の上を指す言葉ともいわれている。
 
奈良県吉野郡に鎮座する『丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)』のご祭神は罔象女神であるが、淤加美神と共にセットで祀られているケースもある。また各地の神社で配祀神として祀られている。
        
                     拝 殿
 鳥居を過ぎた瞬間から、社特有の重たい空気が辺りを漂っていた。河川がすぐ北側にある為だろうか、現実に湿度もあるようにも感じたが、不思議な空気感と相まった事により、逆にこの社の気品の高さを強く印象付けさせられた。
 また社叢林が、結界線のように社全体を覆っていて、日は高く上っているにも関わらず、ほの暗い。境内全体から醸し出すある種の荘厳さと神聖さを兼ね備えたような空間だ。
        
                             拝殿左手に設置されている案内板
 丹生神社 御由緒 神川町上阿久原一ノ一
 □御縁起(歴史
)
 当地は中世の阿久原郷に含まれ、承平三年(九三三)四月に勅旨をもって官牧となった阿久原牧(埼玉県指定旧跡)に位置する。児玉党の祖有道惟行(遠峯)とかかわりの深い地域である。阿久原村は中世末の文禄三年(一五九四)以前に上下の二か村に分離した。江時代には幕府領地や旗本鳥居氏知行地となる。
 社伝によると、当社は永正年間(一五〇四~ニ〇)以前に創立したといい、上下阿久原の分村により、上阿久原の鎮守になったという。古くは阿須和大明神・阿諏訪丹生大明神などと称され、社務を隣地に住む松本家が務めていたと伝えられる。
 造宮・修繕等を記した棟札には、永正十七年(一五二〇)・天正六年(一五七八)・天正十七年(一五八九)銘のものが現存する。最も古い永正十七年八月吉日の紀年銘のある棟札には「奉造営阿須和大明神御宝殿一宇事」と記されている。また、天正六年二月日のものには「奉造営阿須和大明神御宝殿一宇事敬白 社務松本拾郎左エ門 同左馬之助」とあり、江時代初期より松本家が社務を務めていたことが分かる。
 祭神は高龗神・水速女神の二柱であり、共に水を司る神である。十月十五日の例祭(秋祭り)には、獅子舞が奉納される。また、境内社として諏訪神社・稲荷神社・山神社が祀られている。
                                      案内板より引用
        
                 拝殿向拝部の精巧な彫刻
 
   向拝部の両端に位置する木鼻部位にも見事な彫刻が施されている(写真左・右)
 
          本 殿                      社殿左手奥に祀られている境内社合社
 河川対策であろう。高い石組が施されている。  案内板にある「諏訪神社・稲荷神社
                          ・山神社」であろうか。 
     
                        境内に聳え立つご神木(写真左・右)
       
               社のすぐ北側にある「神水ダム」 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社「日本歴史地名大系」「神川町HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等 

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池田守神神社


        
             
・所在地 埼玉県児玉郡神川町池田849
             
・ご祭神 素盞鳴尊
             
・社 格 旧池田村総鎮守 旧村社
             
・例祭等 歳旦祭 115日 春祭り 415日 秋祭り1019
                  
新嘗祭 1129
『日本歴史地名大系 』には「池田村」の解説がある。
 [現在地名]神川町池田
 萩平(はぎだいら)村の西に位置し、北は賀美郡小浜(こばま)村。永禄11年(1568)松本左京が開発したと伝える(風土記稿)。集落南の山際近くで池田館跡(別称卜部屋敷)が確認されている。東西約90m・南北約100m
、堀と土塁が周囲をめぐっていたようで、現在もその一部が認められ、宝篋印塔の笠部が表面採集されている。地内の曹洞宗泉徳(せんとく)寺の伝えによると、御嶽城主長井実永の家臣卜部修理が同城の支城として築いたものという(児玉郡誌)。のち甲斐武田氏旧臣の松本左京がこの地を開拓して居を定め、館跡の南にある鎮守守神(もりがみ)神社は、松本氏の守護神として勧請されたものという(神川町誌)。
        
                旧池田村鎮守守神神社正面
 神川町は南北に長い町で、町域の地形は全体として南が高く、北に向かって低い。南部は秩父山地の北縁にあたり,一帯は上武県立自然公園に属し,群馬県境の三波石峡は国の名勝・天然記念物に指定されている。そこから北部に移るにつれ、高度は低くなり、御嶽(みたけ)山(三四三・四メートル)の北へ続く山稜は池田地域にある「神川げんきプラザ」付近までであり、これに続いて小高い青柳丘陵が続く。
 南部丘陵地には縄文時代の遺跡が多くみられ、「神川げんきプラザ」地内の池田遺跡は縄文時代早・中・後・晩期の遺跡として知られ、かなり早い時期から開発の進んだ地域ともいえる。
 
 池田守神神社は新宿八幡神社の南東方向に位置する。単なる偶然と思われるが、埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線沿いの「峯岸集会所」東側にあるY字路が合流する信号地点を挟んでこの2社は同距離であるのも面白い。
 境内は決して規模が大きい社ではない。が、不思議とコンパクトに纏まっていて、手入れも行き届いている。また境内には多くの案内板が掲示され、更に数多くの石祠や石碑が祀られていて、この地域の歴史の深さを感じるものが多い。
        
                          鳥居の左側に設置されている案内板
 守神神社  御由緒  神川町池田八四九
 □御縁起(歴史)
 当地は、神流川の右岸に位置する。 集落南の山際近くで、東西約九〇メートル、南北約一〇〇メートルの規模で堀と土塁が周囲を巡っていた中世の館跡が確認されている。 地内の曹洞宗泉徳寺の伝えによると、御嶽城主長井実永の家臣卜部修理が同城の支城として築いたものという。また『風土記稿』などによると、永禄十一年(一五六八)に甲斐武田氏旧臣松本左京がこの地を開拓して居を定めたという。
 当社は、松本左京が同家の守護神として、館の南に祀ったと伝えられている。同家の後裔である松本昭平家には、飯島大学・関口門蔵・井上又左衛門の三名が、永禄十二年に松本左京に宛てた文書が残されている。その内容は、松本家の地元に「当所氏神」として社を建立したが、諸事世話は松本家に頼み、修復の際には四名で相談して行うというものである。これによれば、当社は松本家の氏神であると同時に、村鎮守としての性格も創建当初から合わせ持っていたことが知られる。
『風土記稿』池田村の項に「守神明神社 村鎮守なり、村民持」と載る。この村民が松本家であるが、直接の管理は当社南にあった本山修験常学院が行っていたともいわれる。『風土記稿』によれば、常学院は、慶長十二年(一六〇七) に忠尊が草創し、本尊は不動であったが、明治初年の神仏分離により廃寺となったらしく、『郡村誌』には既にその記載がなく、詳らかではない。
 □御祭神
 ・
素盞鳴尊…災難除け、安産、家内安全(以下略)

                                      案内板より引用
『風土記稿池田村条』には「宗栄山泉徳寺の開基は、当村を開墾せる松本左京にて元和八年十月朔日卒す、法名宗山泉徳禅定門、この人を大檀越とす。子孫七郎右衛門、又修理を加えて当寺を中興す、この人は寛文四年正月八日卒す、法名花庭宗栄。子孫今に至て連綿たり」と記されていて、風土記稿の内容が確かであれば、この松本左京という人物は、少なくとも永禄11(1568)~元和8年(1622)までの54年間もこの地に生存していたことになり、かなり長命の人物となる。
        
                     拝 殿
        
             拝殿正面上部に掲げてある「神社由緒書」
 神社由緒書
 埼玉県児玉郡青柳村大字池田八四九番地鎮座
 守神神社
 祭神 素盞鳴尊
 由緒
 當社ハ池田ノ総鎮守トシテ往時ヨリ勧請シ村民深ク崇敬シタリト云フ 享保年間正一位ノ神階ヲ授ケラルル 當社ニハ天和三年社殿再建ノ棟札明和元年御屋根葺替寄進文寛政七年御祭禮獅子踊役割附等ノ古文書ヲ傳来セリ 又一説ニハ當社ハ元和年間土地ノ旧家松本左京ノ屋敷ノ守護神トシテ勧請セシ社ナリトモ云フ 大正四年社殿ヲ修理シタリ 大正十一年無格社稲荷神社ヲ當社境内ニ移轉セリ
 大正十四年十二月本県ヨリ神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル 昭和二十一年二月二日神社制度改革ニヨリ社格ヲ喪失ス 神社本庁ヨリ例祭ニ幣帛料ヲ供進セラル
 大祭日
 祈年祭 三月十九日
 例祭  十月十九日
 新嘗祭 十一月二十九日
                                                                            案内板より引用

 
  拝殿手前右側には境内社・池田稲荷が鎮座     池田稲荷の向かいには「池田の獅子舞」の
                           案内板が設置されている。 
 池田の獅子舞
 昭和六十二年三月十日 町指定民俗資料
 池田の獅子舞は、阿久津流といって高崎市山名の近く阿久津から、三〇〇年程前に伝授されたと伝えられ、すべて長男にやらせる仕きたりであったが、今では制限されていない。
 獅子舞は、守神神社や泉徳寺等で十月十九日におこなわれる。金鑚神社の例祭(四月十五日)にも古くから奉納している。これにでる時は、池田から笛を吹きながら金鑚神社まで行進する。
獅子は、先獅子・女獅子・男獅子の三頭で、その外に、花笠・カンカチ・笛方・歌方・鬼面・猿面・万灯持ちの役割がある。
 また、曲目には、剣の舞・三拍子・ぼんでん掛かりその外がある。
 昭和六十三年三月 神川町教育委員会
                                      案内板より引用
神川町HPには「池田の獅子舞は、阿久津流といって高崎市山名の近く阿久津から300年ほど前に伝授されたといわれています。秋祭に地区内各所で舞った後、守神神社に奉納されます。金鑚神社の春の例祭に奉納されることもありました」とも記されている。
 
    社殿奥に祀られている石祠群      池田稲荷の隣に祀られている石祠・石碑群
       
          社殿右側に直立に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)。
           


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「神川町HP」
    「境内案内板」等

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新宿八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県児玉郡神川町新宿284
              
・ご祭神 誉田別神
              
・社 格 旧新宿村鎮守 旧村社
              
・例祭等 歳旦祭 115日 春祭り 415日 八坂祭 715
                   
新嘗祭 1123
 武蔵国二ノ宮で、官幣中社として名高い神川町・金鑽神社は国道462号線に沿って鎮座しているが、そのまま神流川方向に進路をとる。その後「新宿」交差点を右折し、埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線に合流し750m程進み、「峯岸集会所」手前のT字路を左折し北上する。両側に民家が立ち並ぶ集落を過ぎると、周囲は田園地帯が広がり、目の前に新宿八幡神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
        
                                   
新宿八幡神社正面
 神川町は南北に細く伸びた地形になっており、急峻な山間部となっている南部(神泉地区)から、北上するにつれ平坦な地域が広がり、多様な地形を形成しており、これは「母なる川」である神流川の流域に重なる。
 神流川は群馬県、埼玉県および長野県が境を接する三国山の北麓に源を発し北へ流れ、上野ダムにて堰き止められた奥神流湖から、後に東に流れを転ずる。途中下久保ダムによって堰き止められた神流湖から、群馬県・埼玉県の県境となる。
 神流川は上流から中流部にかけては山がちで谷が狭い地形が続くが、丁度この「新宿地域」辺りで関東平野に出る。この河川の形成した豊かな扇状地が扇状に広がり、有史以前から開けた豊饒の地を育んできたと言える。
        
                            重厚感のある新宿八幡神社の鳥居
 同時に神流川は関東平野に出ると川幅を広げて分水・伏流するため、流域では古くから水害や干害に苦しみ、江戸時代中期以降数度にわたって大規模な河川改修工事が行われた。伝承によると、日本武尊が上流で弟橘姫の遺髪を流したことから、髪流川とよばれるようになったという。一説にカンナは鉄穴の意で、砂鉄採集地の名称ともいう。
 また文明一八年(一四八六)の「廻国雑記」には「かみ長川」とあり、川名の由来は明らかでないが、かなり古くからの名称であったことは確かであろう。
      
       鳥居の左右に立つ標石。左側は神楽殿改築記念碑。右側には社号標柱。

   鳥居の左側に設置されている案内板      鳥居上部には社号額が飾られている。
 八幡神社 御由緒
 □御縁起(歴史)  神川町新宿二八四
 当地は神流川右岸に位置し、武蔵と上野両国境に当たり、南に渡瀬村、対岸は上野国緑野郡保美村(現群馬県藤岡市)・浄法寺村(現同県鬼石町)である。村の開初の時期は明らかでないが、渡瀬村の新田として開かれたと伝えられる。神流川に中世末期から設置されていた九郷用水の堰口があり、近郷二二か村の用水として使用されていた。
 当社は新宿の村の鎮守として祀られている。その創建は『児玉郡誌』に「永禄年間(一五五八~七〇)渡瀬御嶽山城主長井豊前守政実築城の際、武運守護神として勧請せし社なりと云へり」と記されている。御嶽城は、渡瀬の北東端の御嶽山にあった南北朝期から戦国期にかけての山城で、右の「築城」とは再築城を指すものと思われる。
 更に同書には「往昔より新宿・寄島・峯岸三耕地の総鎮守として村民厚く崇敬せり。寛文年間(一六六一~七三)神主浄法寺因幡橡信重奉仕し、社殿を改築し、当時の棟札現存せり、その後社務は修験御嶽山法楽寺の兼帯せる社となる」と記されている。一方『風土記稿』には、当社は天台宗の無量院持ちとして見え、別当に変遷のあったことが知られる。
 明治初年の神仏分離により別当の無量院から離れ、社格制定に際して村社となった。 大正四年に御大典記念として神楽殿を新築し、同十五年には本殿を境内地の内で移転し、拝殿を新築した。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                                       拝 殿 
 案内板に記されている「長井 政実(ながい まさざね)」は、戦国時代の武将で、上野・武蔵国境に拠った国衆と呼ばれる在地豪族である。政実は元々山内上杉家家宰である足利長尾氏配下の国人・平沢氏の一族であり、足利長尾氏の被官だった。その後永禄8年(1565年)4月までに後北条氏配下の元で、同じく足利長尾氏被官で御嶽城主であった安保氏の家臣を継承して武蔵御嶽城主となったと考えられている。同10年(1567年)の武田信玄の駿河侵攻に端を発して武田氏と後北条氏の関係が悪化すると、同12年(1569年)6月に後北条方として上野国多胡郡に出兵し、武田方の小幡信尚や小幡織殿助を寝返らせた。これに対して武田信玄は北関東から後北条氏領国に侵攻し、99日には政実の御嶽城も攻められたが、陥落には至らず翌10日に武田軍は鉢形城の攻撃に移った。しかしその後も武田軍に御嶽城を攻められ、翌元亀元年(1570年)65日に政実は降伏し、武田氏に従属する。
 
武田氏に従属した政実は、長井名字と豊前守の官途を与えられ、「長井豊前守政実」を名乗ったようだ。そして従来と同じく御嶽城の安堵を認められ、引き続き御嶽城主となる。
 天正10年(15823月に武田氏が甲州征伐により滅亡、武田氏滅亡後の政実は越後に逃れ、上杉景勝の家臣となっていた藤田信吉を頼ったと伝えられているが、その後の足取りははっきりとしていない。
 但し子の昌繁は小田原征伐後徳川氏に仕え、上総国で所領を与えられている。
        
        社殿手前右側に設置されている「八幡神社改築記念碑」と石碑
                  八幡神社改築記念碑
                            記

                永禄年間当時御嶽城主長井氏の勧請と伝へられる
               当社も創設以来幾度かの改修によって社の尊厳を保
               ってきた。近年に至り社屋のいたみがひどく此度氏
               子の賛同を得て大改築を行う事になった。此の改築
               に当っては神社の基本財産より三百万円支出の他左
               記の方々おり多額の寄附を仰いで之を完成した
                 昭和五十三年十月十五日 
八幡神社改築委員会
 
                神楽殿            境内に祀られている境内社。詳細不明。
       
             境内には幾多の巨木・老木が聳え立つ。
        
                                   境内の一風景
              落ち着いた雰囲気の静かな社である。
 境内に落ち始めた落ち葉が初秋を感じさせてくれ、厳かな中にも神妙な気持ちにさせて頂いた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「神川町HP」「日本歴史地名大系 Wikipedia
    「境内案内板・改修記念碑文」等

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江和井東光神社及び高尾新田照稲神社

江和井東光神社】
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町江和井7871
             
・ご祭神 素盞嗚尊 天照大御神
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 夏祭 715日前の土・日曜日 新嘗祭 11月23日
 飯島新田稲荷神社から埼玉県道33号東松山桶川線を荒川方向に進み、「荒井橋(西)」交差点を左折する。交差点を左折後450m程北上すると
江和井東光神社の鳥居と境内が見えてくる。
江和井東光神社及び高尾新田照稲神社の参拝日は2023年2月19日。
        
                  江和井東光神社正面
 当社が鎮座する吉見町江和井地域は、明治8年に江川新田・大和屋新田・新井(荒井)新田の3村合併した。その時各村から1字ずつ取って地域名を「江和井」と命名したという。
 この周辺地域は嘗て「六ヵ新田」と呼ばれ、「江川新田・大和屋新田・新井(荒井)新田・高尾新田・須野子新田・蓮沼新田」とに分かれていて、江戸時代を通じて幕府直轄領(御料所もしくは御領)であったと思われる。というのも、困難を極めた「荒川の西遷」開発事業が、寛永十一年(1634)に完了し、河川改修の後は、次第に開発が進み、相次いで開発されたためだ。この幕府直営の新田開発は年貢量の増大のため直轄領の拡充を意図したものであった。
 但しこの「六ヵ新田」はその名前通り新たにできた耕作地であるため、「吉見領囲堤」の堤の外地に位置していた。現在の吉見町や川島町域の大部分は荒川流域の荒川低地に属し田園地帯となっているため、洪水対策で築造された「囲堤」があろうがなかろうが、洪水常襲地帯としての運命を背負って現在に至っていて、この地域相互の治水出入りも数多くあり、その歴史はそのまま荒川の治水の歴史であるといわれている。

    木製で白を基調とした鳥居            南北に広がる参道
  境内には案内板等はなく、また創建時期等資料等確認しても詳しい内容のものはなし。そこで、
『日本歴史地名大系』にて、「大和屋新田」「江川新田」「新井(荒井)新田」に関して調べてみた。
『日本歴史地名大系』 「大和屋新田」の解説
 [現在地名]吉見町江和井
 高尾(たかお)新田の南に位置し、南は江川(えがわ)新田。いわゆる六ヵ新田の一で、大和屋助左衛門という町人による開墾という(風土記稿)。元禄郷帳に新田名がみえ、高一三二石余。江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(国立史料館本元禄郷帳など)。「風土記稿」によると家数二四、村内はみな畑地で、鎮守は太神宮
『日本歴史地名大系』 「江川新田」の解説
 [現在地名]吉見町江和井
 大和屋(やまとや)新田の南に位置し、南は新井(あらい)新田。六ヵ新田の一で、大里郡江川村(現熊谷市)の新兵衛なる者が開墾、新田名もこのことに由来するという(「風土記稿」など)。元禄郷帳では高一七〇石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領、以降同領で幕末に至ったと思われる(「郡村誌」など)。「風土記稿」によると家数二六、村内すべて陸田、鎮守は稲荷社、地内に薬師堂がある
新井(荒井)新田」に関しての説明はなし。
        
                  塚上に鎮座する拝殿
「江川新田」の解説における「大里郡江川村(現熊谷市)の新兵衛なる者が開墾、新田名もこのことに由来する」との記載があり、この大里郡江川村は現在熊谷市久下地域内にあたるという。
 また「大和屋新田」には「太神宮」が村内の鎮守で村持ちと記載され、「江川新田」には「稲荷社」が村内の鎮守で村持ちとなっている。因みに新井(荒井)新田には鎮守社は掲載されていない。「江和井」という地域名は3村が合併し、各村から1字ずつ取って命名したということからも、東光神社のご祭神は当然各村の祭神が当てられていると考えられる。「太神宮」ならば「天照大御神」「稲荷社」は「倉稲魂命」が祀られているだろうが、「素盞嗚尊」はどうであろうか。
 
  拝殿手前の石段右側にある石碑と燈篭       拝殿左側に祀られている境内社
                             稲荷社であろうか。
       
                                     参道の一風景


高尾新田照稲神社】
        
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町高尾新田154
             ・ご祭神 素盞嗚尊 倉稻魂命 國常立尊
             ・社 格 旧高尾新田村鎮守
             ・例祭等 例祭  725日 新嘗祭 11月25日
 江和井東光神社の西側に接する南北に通じる道路をそのまま北上、1㎞程進むと左手に高尾新田照稲神社が見えてくる。
 旧高尾新田村鎮守、「高尾新田」の地域名由来として、高尾の新井門太郎が開墾したと伝わる。河岸場のあった高尾から独立したという。
*現在江和井東光神社と高尾新田照稲神社は北本高尾氷川神社の兼務社となっている。
        
                 高尾新田照稲神社正面
この社にも案内板や、資料等はない。江和井東光神社同様に『日本歴史地名大系』にて「高尾新田」「蓮沼新田」についての解説を載せたい。因みに「須野子新田」に関しては解説はない。
『日本歴史地名大系』 「高尾新田」の解説
 [現在地名]吉見町高尾新田
 蓮沼(はすぬま)新田の南、荒川右岸に位置する。六ヵ新田の一。「郡村誌」などによると当村は、足立郡高尾(たかお)村(現北本市)の新井治郎左衛門(「風土記稿」によると荒井門太郎)が開墾、その後、新井家より分家を出し、しだいに一村をなしたとされる
『日本歴史地名大系 』「蓮沼新田」の解説
 [現在地名]吉見町蓮沼新田
 荒川の大囲堤(現文覚排水路)を挟んで蚊斗谷(かばかりや)村の東、荒川右岸の低地に位置する。南は高尾新田。同新田のさらに南に展開する須野子(すのこ)・大和屋・江川・荒井の各新田および当新田・高尾新田は「荒川ニソヒシ空閑の地」をしだいに開拓して成立した新田で、各新田の地形が入会、田地相交錯していたため「各村ヲ以テ広狭及四隣ノ村々等ハ弁シ難」かった。これら新田の開墾の年代はつまびらかではないが、寛文一二年(一六七二)に幕府代官中川八郎左衛門の検地があったといわれている。また「六村ヲ合セテ六ケ新田ト唱ヘ」「公務以下スヘテ一村ノ如シ」であった(以上「風土記稿」)。当新田は蓮沼徳兵衛が開墾、地名はこれによる
       
            参道左側に聳え立つ立派な巨木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 明治四十年十二月二十二日、須野子新田の「大神社」と蓮沼新田の「稲荷神社」を当地高尾新田の氷川神社に合祀することになり、遷座の後、社名を照稲神社と改めたという。
『新編武蔵風土記稿』
「須野子新田村 大神宮八幡諏訪合社 當所の鎮守とす、村民持」
蓮沼新田村 聖天社 村の鎮守なり、村民の持」

須野子新田の大神社の祭神は、『新編武蔵風土記稿』には「大神宮八幡諏訪合社」とあるところから、本来は天照大神が祭神であったと思われ、照稲神社の社名は、この天照大神の「照」と稲荷神社の「稲」を採り、両者の名残としたものではないかと思われるが、この「稲荷神社」はどこの地域のご祭神をまつったのであろうか。
        
                                  参道からの風景
           近くには荒川の旧河川跡と堤防が眼前にみえる。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「北本高尾神社HP」
    「ふるさと吉見探究HP」等

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飯島新田稲荷神社

 荒川は、その名前が示すとおり、「荒ぶる川」が語源とされ、氾濫を繰り返してきた。戦国時代が終わり、徳川家康が江戸(東京)に幕府を開くと、江戸を水害から守ること等を目的として、利根川と当時利根川の支流であった荒川を切り離し、利根川を太平洋に流す、「利根川の東遷、荒川の西遷」が実施された。
 寛永61629)年に伊奈忠次により荒川の瀬替え(荒川の西遷)が行われ、和田吉野川および市野川を経由して入間川の本流に接続され、現在の荒川に近い流路となった。但し元々の流路は元荒川として今でも残っている。
 荒川の河川舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めたが、荒川中流域、特に市野川の下流域周辺では水害が増え、「吉見領囲堤」や「川島領囲堤」といった大囲堤の堤防(輪中堤)や水塚等が作られた。
 現在でもさくら堤公園の土手や、市野川大橋より西の川島こども動物自然公園自転車道線の築堤として遺構が残っている。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町飯島新田563
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧飯島新田鎮守
             
・例祭等 例祭(天王様)  714
 吉見町飯島新田地域は町南東部にあり、「吉見領囲堤」の最南端にあたり、荒子地域の東側に位置する。飯島新田稲荷神社は東には文覚川が、西からは台山排水路が、その真ん中には中堀がまさに合流する三角点の丁度北側に社は鎮座する。
 この社へのアクセスは説明しずらい。途中までの経路は荒子八幡神社を参照。埼玉県道33号東松山桶川線を北本市方向に進み、「さくら堤公園」の看板がある道を左折、そこから道なりに北上する。左手後ろ側には社の鳥居は小さく見えるが、直接社に到達する一本道はないため、一旦さくら堤公園の土手を走行し、一本目の曲がり角を左折して左カーブを描くように南東方向にある細い道を進むとその先に飯島新田稲荷神社は見えてくる。
        
                 飯島新田稲荷神社正面
 周囲一帯明るい境内だが、周辺には民家はほぼない。のんびりした中にも寂しさも漂う場所だ。
 木製の両部鳥居は朱が基調となり、如何にも社らしい風格があるのだが、周りに鎖が敷かれている。崩落の危険性が高いのであろうか。

朱色の一の鳥居のすぐ先にある新しい石製の鳥居  真っ直ぐ進む参道の先に社殿が見えてくる
        
 一旦目を南側に向けると、そこには「南吉見排水機場」がある。文覚川、中堀、台山排水路等の水を市野川へ強制的に排水する施設で、このような施設がある場所の近くで、安心して日常生活を営むには躊躇があろう。地域住民にとって生活基盤となる大切な「水」の恩恵が、逆に「洪水等の災害」に陥らないように、社をこの河川の合流場所にあえて鎮座させ、日々祈りを捧げていた。
…この施設を眺めながら、なんとなくそのような風景が筆者の頭の中で過った。

新編武蔵風土記稿』には「飯島新田」に関して以下の記載がある。
「飯島新田」
飯島新田は飯島惣左衛門と云者、開墾せし所なれば直に村名とせし、この惣左衛門が事詳ならず、當村元禄の改に始て記したれば、開発の年代も推て知らる、東は大和屋新田、南は古市ノ川を限て比企郡松永村、西は郡内荒子村、北は蚊斗谷村なり、東西六町、南北三町許、吉見用水の末流を引て水田を耕植すれど水損の地なり」
「稲荷社 村の鎮守なり、成就院の持」

 やはり日常的に洪水等の災害が発生する常襲地帯であったのだろう。近代的な土木技術を持った今でも、時に洪水災害は起こりえる。その技術を持ちえない当時の方々には、最終的には「祈り」を捧げること以外なかったのではなかろうか。
        
                                塚上に鎮座する拝殿
『日本歴史地名大系 』「飯島新田」の解説
 [現在地名]吉見町飯島新田
 大和屋(やまとや)新田の西、市野(いちの)川の左岸に位置する。同川を挟み南は比企郡松永(まつなが)村(現川島町)、西は荒子(あらこ)村。六ヵ新田と同様に荒川右岸の低地を開発して成立した新田村で、地名は飯島惣左衛門なる者が当地を開墾したことに由来するという(風土記稿)。元禄郷帳では高三八七石、国立史料館本元禄郷帳では幕府領、以降も同領で幕末に至ったと思われる(「郡村誌」など)

 飯島惣左衛門によって開発されたと伝えられる飯島新田地域。創建時期は不明ながら、正保年間から元禄年間にかけて(1644-1688)開発された飯島新田の鎮守として、耕地の安泰を祈って奉斎したそうだ。但しその創建に「飯島惣左衛門」が関わっていたかは不明。
 
  拝殿右階段手前の 狛犬(狐)の並びには    同じく拝殿右階段手前の 狛犬(狐)の
     幾多の石祠・石碑あり。          すぐ右側に置かれている「力石」
        
                               飯島新田稲荷神社遠景

ところで、東松山市古凍地域に「古凍祭ばやし」といわれる伝統芸能が今に伝わっている。「東松山市HP」にもその祭ばやしに関しての説明がある。

「古凍祭ばやし」
 囃子には江戸時代から演奏されていた古囃子と、明治初期に演奏技術の変革が行われて以降の新囃子とがあります。明治30(1897)代は古囃子が盛んでしたがその後中断し、昭和3(1928)頃、吉見町の飯島新田地区で伝承されていたものが川島町の小見野神楽連を経て伝えられ復活しました。明治の頃使われていたと思われる太鼓が残っており、墨書きから「東京浅草区亀岡町」の太鼓商「高橋又左衛門重政」の太鼓であることが分かります。太平洋戦争中は10年ほど中断し、昭和23(1948)に復活しました。昭和29(1954)には屋台が新調されましたが、昭和35(1960)頃になると字内を貫通する川越-熊谷線の交通量が激しくなり、屋台の曳き廻しは中止、根岸地区とのひっかわせも断念(根岸地区も屋台を所有していた)することとなりました。現在は屋台を所有せず、トラックで代用しています。地元鷲神社の祭礼の他に、今泉の鷲神社祭礼でも演奏を行っています。

 つまり明治期に古囃子を演奏していたが、その後中断し、昭和3年に吉見町の飯島新田地区で伝承されていた囃子を川島町の小見野神楽連を経て今に伝えられるという。本家である飯島新田地域の古囃子はどのようなものであったのだろうか。稲荷神社は毎年7月15日に例祭が行なわれるが、その際にお囃子が奉納されているのであろうか。であるならば是非拝見したいものだ。
        
                                社殿から鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「北本高尾氷川神社HP」
    「Wikipedia」等

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