下青鳥氷川神社
「伊古乃速玉比売神社 一に淡州明神と云、今は専ら伊古乃御玉比賣神社と唱へり、此社地元は村の坤の方小名二ノ宮にありしを、天正四年東北の方今の地に移し祀れり、祭神詳ならず、左右に稲荷・愛宕を相殿とす、当社は郡中の総社にして、【延喜式神名帳】に、比企郡伊古乃速御玉比売神社とあるは、即ち当社のことなり、往古は殊に大社にて一の鳥居は近隣石橋村の小名、内青鳥と云所に立りしと云、按るに比内青鳥と云所は、「小田原役帳」に青鳥居とあり、されば古へ鳥居のありしより、地名にもおひしなど云はさもあるべけれど、當社の鳥居なりしことは疑ふべし、ことに間二里餘を隔てたり、また比社式内の神社と云うこと、正しき證は得ざれども、村名をも伊古といひ、且此郡中総社とも崇ることなれば、社伝に云る如く式社なるもしるべからず、ともかく旧記等もなければ詳ならず、例祭九月九日なり」
ここで「青鳥」という地名は伊古乃御玉比賣神社の一の鳥居があった石橋村小名内青鳥であり、「鳥居(とりい)」が「青鳥居(あおとりい)」→「青鳥(おおどり)」と語音が変化してできた地名であるような説明がされている。
・所在地 埼玉県東松山市下青鳥64
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧下青鳥小名金谷鎮守
・例 祭 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0201599,139.3940381,16z?hl=ja&entry=ttu
下青鳥氷川神社は東松山市下青鳥地域内に鎮座する。この下青鳥地域は東西に長く『新編武蔵風土記稿』にも「四隣、東は上下押垂の二村に隣り、南は都幾川を隔て元宿村に接し、西は石橋村の内、小字宿青鳥に続き、北は野本村なり、東西十五町、南北五町許、家敷六十、水損の地にして、用水は都幾川の水を沃げり(中略)」。と記載がある。「町」とは江戸時代以前に用いられた「条里制」を基本とした距離測定方法で、日本では古来「尺貫法」で長さや面積を表現した。「尺貫法」は東アジアで広く使用されていて、尺貫法という名称は、長さの単位に「尺」、質量の単位に「貫」を基本の単位とすることによる。ただし、「貫」は日本独自の単位であり、したがって尺貫法という名称は日本独自のものである。
条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていたが、太閤検地の際に6尺3寸を1間とする60間となり、後に6尺を1間とする60間となった。メートル条約加入後の1891年に、度量衡法によりメートルを基準として1200 mを11町と定めた。したがって1町は約109 mとなり、風土記稿に記されている「東西十五町、南北五町」は現代の距離に直すと「東西1.6㎞、南北0.5㎞」程になる。
更に風土記稿では小字「金谷」に関しても「当所は廣き地にて、土人は一村のごとく金谷村と云へり」と記述されていて、この「金谷」の鎮守様が下青鳥氷川神社である。
下青鳥氷川神社正面
埼玉県道47号深谷東松山線を南下し、東武東上線・森林公園駅付近を通過する。その後関越自動車道合流地点目を左斜め方向に進み、「インター前」交差点を直進する。650m程進んだ「南中学校前」交差点を左折し、350m先のT字路を右折し、道幅の狭い農道を進むと「上郷公会堂」が左手に見え、その東隣に下青鳥氷川神社は鎮座している。
社に隣接している上郷公会堂の駐車スペースを利用してから参拝を行う。
珍しい瓦つきの両部鳥居、彩色もない素朴なフォルムが逆に美しく感じる。
鎮守地はインターチェンジ付近であるにも拘らず、どこか懐かしさも覚えるほどの田畑風景の中に民家が立ち並ぶ地域一帯。社周辺は静かで道路も昔基準の道幅が狭い農道。参拝する地元の方々も筆者が参拝中全く出会うことなく、心静かにお参りすることができた。
鳥居を過ぎて参道を進み、その先に鎮座する社。
境内は綺麗に手入れもされていて、参道周辺にある樹木もしっかりと剪定されている。また境内の所々に花も植えられていて、周辺の方々の社を大切に守ろうとする日々の努力も、実際に参拝することによって実感することができた。
拝 殿
拝殿の手前周囲にも花が植えられていて、気持ちが和む。
『新編武蔵風土記稿 石橋村条』において、嘗てこの村の小字には「宿青鳥」「内青鳥」「石橋」の3区に分かれていて、昔は「宿青鳥」「内青鳥」それに「下青鳥」を合わせて一村であったが、後分けて「宿内下」が3村となり、その後又「宿青鳥」「内青鳥」が石橋村に属し、「下青鳥」は元のごとく、1村として至っているとのことだ。
「宿青鳥」
・村の北を云、土人の説に昔宿駅ありし地にて今も町割の跡残れり、よりて宿青鳥の名もありと云、
「内青鳥」
・村の中程を云、当所に城蹟あり、山林にして反別凡二町許、今も西南の方には殻堀の跡あり、相傳ふ青鳥判官藤原恒儀と云人住せしと、是いかなる人といふことを知らず、按に隣村羽尾村の鎮守に恒儀の社あり、是れ青鳥恒儀の霊社にて天長六年九月廿日卒せし人なりと云、又当所の東に長さ一丈余、幅二尺五寸許の古碑あり、表面に応安二己酉卯月、施主〔敬白〕、右志者、引上道善〇霊七ヶ年之忌日〇〇件とあり、いかなる故にや、土人はこの碑をさして虎の御石と云、
上記「宿青鳥」の地名に関して、昔昔宿駅ありとして「宿」の謂れは記載しているが、肝心の「青鳥」に関しては全く説明がない。
「内青鳥」に関しても、「青鳥」に関しての説明はないが、青鳥判官藤原恒儀が住んでいた城跡があって、その人物の本拠地は滑川町・羽尾地域に鎮座する堀の内羽尾神社との事だ。
拝殿から眺める境内の一風景
下青鳥氷川神社から北西方向で、関越自動車道の左手・国道254号線北側には「青鳥城跡」がある。市内石橋に所在する青鳥城跡は東松山台地の南縁に位置し、南面を天然の崖、その他三面を土塁と堀で守る平城で、本郭を取り囲むように二の郭・三の郭が造られており、一部土塁と堀が現存している。
青鳥城跡 案内板
青鳥城跡の築城時期と城主については諸説あり、はっきりとはわかっていない。もっとも古くは青鳥判官恒儀が築城したとの伝説があり、城名の由来となっています。ただ青鳥判官恒儀が没したのが天長6年(829)とされ、近年の調査成果や周辺の同時期の状況を踏まえて考えると築城時期がここまで遡るとは考えにくのが現状である。
『源平盛衰記』には源頼朝が寿永2年(1183)に出陣した際、「青鳥野に在陣」との記述があるが、城跡や館跡の存在を示す記述はない。
本丸付近にある「青鳥城址」の石碑 本丸付近 想像した以上に広大な敷地
市内神戸(ごうど)地域に所在する妙昌寺の縁起によると、同寺を開基したのが青鳥城主・藤原利行とされ、日蓮上人が文永8年(1271)に佐渡へ流罪となった際、青鳥城に宿泊したと書かれている。また『鎌倉大草紙』などの複数の文献には上杉憲実が永享12年(1440)の結城合戦の際、「野本・唐子に逗留」したとの記載があり、この場所を青鳥城とする意見もある。
また「太田道灌状」によると文明10年(1478)に青鳥城に在陣したとの記述がある。
二の郭外側の堀(写真左・右)。堀は深く、強固な造りとなっている。
様々な文献にみえる青鳥城の痕跡と、発掘調査で出土した遺物、現存する遺構の状況などから青鳥城跡の築城経過を推定すると、13世紀初頭から14世紀初頭ごろ(鎌倉時代)に、青鳥城跡の前身となる武士の館が整備され、その後15世紀初頭から16世紀末頃に、関東の覇権をめぐる争いが激化したことを受け、現在のような複数の郭・土塁・堀をそなえた城へと拡充再整備されたと推定されているようだ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」等