古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

長沖飯玉神社

 本庄市児玉町長沖地区は、児玉地域のほぼ中央あたり、市街地の南側に位置する。北側と東側は児玉、西側は金屋、南側は小山川を挟んで秋山・小平に接する位置関係にある。長沖地区の全域はほぼ平地で、南側が小山川に面していて、河川流域は北側に対して一段地面が低く、林や荒地が続く。
 この地区の小山川河川敷には遊歩道が整備されていて、西側に位置する秋山地区まで桜の木が延々と続いている。いわゆる「こだま千本桜」と言われ、河畔両側に約1,100本の桜が5㎞に渡り美しく咲き誇り、本庄市内でも有名なお花見スポットで有名な場所である。こだま千本桜は埼玉県内8位の人気の高いお花見スポットで、4月上旬には「こだま千本桜まつり」が開催され、ステージイベントや模擬店の出店など様々なイベントが開催されているという。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町長沖331
             ・ご祭神 宇迦之御魂命
             ・社 格 旧長沖村鎮守・旧村社
             ・例 祭 祈年祭 315日 大祓式 6月・12月 例大祭 1015
                  新嘗祭 1129日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1811596,139.1280162,18z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉町方向に向かい、国道254号線と交差する「大天白」交差点を左折する。八高線を越えてコンビニエンスを右手に見ながら、2番目の信号である「身馴川橋」交差点を右折、暫く道なりに西行する。その後同県道287号長瀞児玉線との交点「第一金屋」交差点を左折し、500m程県道を南下すると、右手に長沖飯玉神社の社叢や南北に広がる境内が見えてくる。
 駐車スペースは一旦県道を南下して、社叢が途切れる地点に右折する道があり、鳥居の左手に数台分駐車できる空間が確保されていて、そこの一角に車を停めてから参拝を行う。
 
      
長沖飯玉神社一の鳥居          一の鳥居を先には石段があり
                       その先に二の鳥居及び境内が見えてくる。
        
                             石段の手前に案内板あり。
飯玉神社 御由緒
□御縁起(歴史)  本庄市児玉町長沖三三一
当地は塚(古墳)が多く、『風土記稿』長沖村の項に、地内の恵日寺の境内から 「鼻目そなはり人の形をなし」た人物埴輪の出土が記される。また、当社付近からは、二階造家型埴輪が出土している。
飯玉は、飯が稲であり玉が魂の意であるから、一般には稲霊と解釈されるほか、飯には斎火の意もあり、斎火の飯の神、つまり御饌の神を祀ったものとも考えられる。ところが飯玉神社が鎮座する地内から古遺物が出土する例が多く、江南町千代では古墳群と窯跡、寄居町末野の末野神社も元は飯玉神社で、地内に国分寺瓦を焼いた奈良時代の窯跡があり、地名も須恵器にちなむとされる。吉見町の横見神社は元飯玉氷川神社で古墳群に鎮座し、地内には須恵器窯跡が無数にある。群馬県多野郡吉井町岩井も古墳群の地で縄文土器・須恵器・土師器が出土、新田郡新田町上田中も古墳群があり縄文遣物と兵庫塚古墳からは埴輪馬具が出土した。群馬県内の鎮座地には、飯塚・出塚(尾島町の飯霊神社)など塚の付く地名が多く、古墳との関連も考えられる。
当社は、『風土記稿』に「飯玉明神社 村の鎮守にて、神主を山中能登と云」とある。また、『児玉郡誌』には、享保年中(一七一六~三六)に山中兵庫が京都の吉田家の配下となり、同家が明治維新まで数代にわたり奉仕したことや、社殿は享保年間に再興されたことなどが記されている。
□御祭神と御神徳  宇迦之御魂命…五穀豊穣・商売繁盛
                                      案内板より引用
 
        
                  社号標柱、及び二の鳥居を仰ぎ見る。                  
 
  両部鳥居である朱色で木製の二の鳥居         二の鳥居の社号額には
                       「正一位 飯玉大明神」と表記されている。

 長沖飯玉神社周辺の地形を確認すると小山川のすぐ北側に鎮座していて、標高が社の南側で小山川左岸地点、東側、北側がそれぞれ108m109m程度、それに対して長沖飯玉神社の社殿地点が110.1mであるので、若干微高地に鎮座していて、一の鳥居付近は石段で補強しているようだ。但し社殿西側は西方向に進むにつれて標高は高くなっていて、社の北西部に位置する「消防本部中央消防署児玉署」で113mである。

 長沖飯玉神社の鎮座地はこのように河川災害に対して、決して最適な場所とは言えない。但し「太駄岩上神社」項で述べたが、長沖・小平(秋山)・太駄地区の地域的な特徴として、交通の要衝地である事があげられ、現在の埼玉県道44号線秩父児玉線そのままが古代から近世における交通の主体を成していた。古代から近世においては寄居町の風布や東秩父村の定峰峠越えの道路が用いられており、秩父・吉田・皆野を経て太駄地区を北上し、小山川を越えたすぐ北側に長沖飯玉神社は鎮座しており、絶妙な位置関係にあったと考えられる。

 なお長沖飯玉神社が鎮座する場所は、長沖本地区から少し東に離れた飛地である。何故飛地がポツンとこの社周辺にあるのであろうか。交通上の要衝地である事は言うまでもないことだが、長沖地区に住む方々にとってこの少し離れた飛地に鎮座する社が如何に神聖な場所であったか、窺い知ることができよう
       
        二の鳥居を過ぎて、すぐ参道右手にケヤキのご神木が聳え立つ。
        
                                       拝 殿

 長沖という地名の起こりははっきりとは分からないらしいが、伝承ではこの地域に入り江があり、入り江の真ん中が突き出ていたので、それを「中沖」と呼び、後代「長沖」になったとも伝えている。
 中世の資料によれば、『安保文書』中、建武4年(1337)武蔵国守護高重茂(こうのしげもち)奉書(ほうしょ)によれば「建武四年四月十二日、武蔵国瀧瀬郷・枝松名長茎郷中院宰相中将家跡事、為勲功之賞所被預置也、安保丹後入道殿、高重茂花押」とあり、暦応3年(1340)安保光阿(光泰)譲状に「暦応三年八月二十二日、惣領中務丞泰規分、賀美郡安保郷・児玉郡枝松名内宮内郷・榛沢郡瀧瀬郷・児玉郡枝松名内長茎郷・秩父郡横瀬郷・崎西郡大井郷。二男、三男分は同じ」。「享徳二十七年四月七日、安保中務少輔氏泰申、武州児玉郡塩谷郷塩谷源四郎跡、足利成氏花押」と見える。また延文4年(1359)紀州那智山『米良文書』の『旦那願文』には「延文四年十二月八日、武蔵国少(児)玉郡之内しをのや(塩谷)の住人彦五郎入道行印、又ハなかくきとも申候、はしめて京都にて師旦の契約申候、是は畠山殿紀伊国攻めの御時」と見える。
 この「長茎」が「長沖」と同じ場所かどうか、そもそも同じ名称だったかどうか、現在分かっていないが、可能性の範囲としては高いと考えられている。
 
   社殿の奥に整然と並んである石碑群。         石碑群の右隣には合祀された石祠群、
                           境内社、石碑が並ぶ。詳細不明。

 長沖飯玉神社、社殿の背後には土塁を石で補強し、石垣のような形状をしており,本殿北側には上記の多数の境内社や石祠群、石碑群が並んでいる。
                 
                                     飯玉神社之碑

飯玉神社之碑     貴族院議員正四位子爵白川資長篆額
武藏國兒玉郡金屋村大字長沖ニ鎮座セル村社飯玉神社ハ宇迦之御魂命ヲ祀リ往昔ヨリ當地ノ鎮守タリ享保年間京都吉田家ノ配下山中兵庫神主トナリ爾来其子孫継承シテ明治マテ奉仕ス社殿ハ享保年間ノ修築ニ係ル明治五年村社ニ列セラル同卅二年境内神社ヲ改修シ同卅五年石垣ヲ修築シ同卅八年無格社稲荷神社ヲ境内ニ移轉シ土地參畝貳拾歩ヲ買収シテ境内ヲ擴張ス大正三年御即位大典記念トシテ社殿ヲ増築ス同六年社務所ヲ新築シ竝ニ石燈籠弐基ヲ建設シテ大ニ神域ノ威嚴ヲ加フルニ至レリ尚神社基本財産ノ増殖ヲ企畫シツツアリ本年十一月御即位ノ盛事ニ當リ記念碑ヲ建ントテ氏子惣代來リテ文ヲ需ム嗚呼氏子等ノ敬神ノ意一ニ何ソ篤キヤ余仍テ其事略ヲ揚クルコト如斯
昭和三年十一月十日 官幣中社金鑚神社宮司從五位勲六等金鑚宮守撰(以下略)
                                     記念碑文より引用
 
         
 二の鳥居の右側には、境内社である稲荷神社の鳥居が並んで立っている(写真左)。同じ両部鳥居ながら長沖飯玉神社の鳥居よりサイズは小さい。その鳥居の先にはこんもりとした高台があるが、後で確認すると古墳であり、正式名称は長沖45号墳。その墳頂に稲荷神社が鎮座している(同右)。

 この地域には本庄市児玉町長沖・高柳・金屋・児玉の各地区にわたって古墳群が分布しており、長沖古墳群、別名「梅原古墳群」とも呼ばれている。小山川の左岸に沿うように概ね東西方向に展開していて、その区域内に5世紀中頃から7世紀後半にかけて築造されたと推定されている。
 古墳群の範囲は、東西 2.3 ㎞、南北最大幅で760mの区域に古墳が前方後円墳や帆立貝式を含む総数180基を超す大規模な古墳群を形成している
 特に長沖32号墳は、全長32m、高さ3mの前方後円墳で、円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪等が出土しており、市指定史跡となっている。現在は「長沖古墳公園」として、綺麗に整備されている。
        

 案内板に記載されているが、飯玉神社が鎮座する地内から古遺物が出土する例が多く、江南町千代では古墳群と窯跡、寄居町末野の末野神社も元は飯玉神社で、地内に国分寺瓦を焼いた奈良時代の窯跡があり、地名も須恵器にちなむとされる。吉見町の横見神社は元飯玉氷川神社で古墳群に鎮座し、地内には須恵器窯跡が無数にある。群馬県多野郡吉井町岩井も古墳群の地で縄文土器・須恵器・土師器が出土、新田郡新田町上田中も古墳群があり縄文遣物と兵庫塚古墳からは埴輪馬具が出土した。群馬県内の鎮座地には、飯塚・出塚(尾島町の飯霊神社)など塚の付く地名が多く、古墳との関連も考えられるという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「本庄市観光協会公式HP」
    「Wikipedia」等

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皆野町に鎮座する皆野椋神社、滑川町に鎮座する伊古乃速御玉比売神社、嵐山町に鎮座する鎌形八幡神社・手白神社を再編集いたしました

 皆野町に鎮座する皆野椋神社、滑川町に鎮座する伊古乃速御玉比売神社、嵐山町に鎮座する鎌形八幡神社手白神社を再編集いたしました。

 内容はほぼ変わっていませんが、新たな案内板等掲示しています。また写真の画像を編集いたしまして、改めてアップいたしました。
 尚、手白神社に関しまして、写真は202112月に再度参拝時に撮影したものであります。21年参拝時、石段の両脇に聳え立つご神木のうち、左側の杉は既に切り倒されていましたが、ブログ内容は敢て変えていませんが、このことに対するおことわりの一文は入れてあります。

 今後ともよろしくお願いします。

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ブログのカテゴリーを変更しました。

「比企郡」の神社として掲載している33社の社を、改めまして現在の行政区分である「小川町」「ときがわ町」「滑川町」「嵐山町」の4町に分けて紹介いたします。
「比企郡」は古代武蔵国にあった由緒ある郡名ですが、紹介している社の数が多くなるにつれ、見て下さる方々がすぐに確認できるような「見える化」が必要と感じまして、変更した次第です。

○小川町 12社
 奈良梨八和田神社 腰越氷川神社 高見四津山神社 小川八宮神社 大塚八幡神社 木部三光神社
 勝呂白鳥神社
 笠原熊野神社 笠原諏訪神社 原川駒形神社 能増八宮神社 中爪八宮神社
ときがわ町 1
 萩日吉神社

滑川町 10
 
 山田淡州神社 阿和須神社 月輪神社 大雷(土塩)淡州神社
 堀の内羽尾神社
 福田熊野神社 中尾雷電神社 福田淡州神社 福田浅間神社
嵐山町 10
 鎌形八幡神社
 菅谷神社 太郎丸(勝田)淡州神社 越畑八宮神社 手白神社 大蔵神社
 古里兵執神社
 杉山八宮神社 広野八宮神社 将軍沢日吉神社


 同時に「秩父郡の神社」も同様な理由から、今後は「小鹿野町」「皆野町」「東秩父村」の2町・1村に分けて紹介します。
小鹿野町 3
 般若日本武神社
 両神薄諏訪神社 小鹿野小鹿神社
皆野町 4
 下日野澤大神社
 皆野国神神社 野巻椋神社 皆野椋神社
東秩父村 5
 安戸身形神社
 安戸能気神社 坂本八幡大神社 皆野天児安神社 大内沢神社

 今後とも宜しくお願いいたします。

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太駄岩上神社

 本庄市児玉町太駄地区は本庄市の南西端部に位置し、この地区の大半は上武山地に含まれ、盆地となっていて、中央を南北に小山川(旧身馴川)が蛇行しながら流れている。尚この小山川はこの太駄山中より発している。太駄地区の中心部は小山川に沿って細長く盆地状の平地に広がっていて、北は河内、東は長瀞町野上、西は神川町阿久原・矢納、南は皆野町出牛各地区と境を接している。
 南境の皆野町出牛より群馬県道・埼玉県道13号前橋長瀞線が北上し、太駄中央部である字殿谷戸で分岐し、前橋長瀞線は左折し、字沢戸を経て、杉の峠から神川町阿久原に入る。一方直進する道路は主要地方道である埼玉県道44号線秩父児玉線となり、河内地域に通じている。この主要地方道に沿って小山川は流れていて、嘗て度々河川は氾濫し、大きな被害を出してきた。

とはいえ太駄地区の地域的な特徴として、交通の要衝地である事があげられる。現在の埼玉県道44号線秩父児玉線そのままが古代から近世における交通の主体を成していた。この主要な道路の他にも、太駄から神川町阿久原へ通じる道路や長瀞町に至る古道があった。現在秩父郡内から関東平野部に通じる交通路は国道140号線や秩父鉄道を用いて寄居町方面へ通じるのが主要となっているが、嘗てはこの道路は交通の難所で、歴史的に新しく近世になって開削されたものである。古代から近世においては寄居町の風布や東秩父村の定峰峠越えの道路が用いられており、秩父・吉田・皆野を経て太駄地区を通り、上野国や児玉郡へ出るのが一般的であったらしい。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町太駄293-1
             ・ご祭神 岩長媛命・石凝姥命
             ・社 格 旧太駄村鎮守・旧指定村社
             ・例 祭 新年祭 13日 節分祭 23日 春祭り 415
                  大祓式 721日 秋祭り 1017
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1436731,139.0707142,15z?hl=ja&entry=ttu
 太駄岩上神社は児玉町から、秩父・皆野町へ抜ける埼玉県道44号線秩父児玉線沿い、ヘアピンカーブの突き出た小高い山の上に鎮座している。というのもこの県道は、小山川沿いに並行して通っているが、社付近は小高い山が突き出たような地形をしているため、この川は急激な蛇行を繰り返すような流路となっている。案内板では社付近のヘアピンカーブのことを、古くは当社にちなんで「明神様の大曲り」と呼んでいたという。
 駐車スペースはあたり周辺になく、県道を1㎞程先に進んだ地点に広い路肩部分があり、そこに停めてから、参拝を行う。
 県道ゆえか、交通量は意外と多かったが、歩道もしっかりと整備されている。また参拝当日は10月中旬の秋晴れの天候であり、また社までの移動中もほぼ平坦な地形で、澄んだ空気を体中に取り入れながらウォーキング気分で参拝に望めた。
        
                                  太駄岩上神社 正面

 現在はしっかりと舗装された県道ではあるが、嘗てこの道は皆野町に通じる由緒ある古道であり、またこの県道からは長瀞町や神川町方面にも通じる派生路もあり、歴史的に見ても重要な交通路であった。
 徒歩での移動中も、石碑等が道端に設置されていて、その道路自体の歴史の痕跡も垣間見られたように感じ、自然と少しずつ近づいて見えてくる社に対して、当初はウォーキング気分で臨めたのだが、次第に厳粛な気持ちが大きくなるのを感じた。
             
               鳥居右側に設置されている社号標柱
         
                              太駄岩上神社 神明鳥居
         
                                     神楽殿

 神楽(かぐら)は、日本の神道の神事において神様に奉納するため奏される歌舞。神社の祭礼などで見受けられ、平安時代中期に様式が完成したとされる。神社境内に「神楽殿」がある場合、神楽はそこで行われる事が多い。
 一般に「かぐら」とは、「神座(かむくら、かみくら)」を語源とする説が有力で、『古事記』『日本書紀』の岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされる。アメノウズメの子孫とされる猿女君が宮中で鎮魂の儀に関わるため、本来神楽は本来、招魂や鎮魂、魂振に伴う神遊びだったとも考えられる。
 また宮中で行われる「御神楽(みかぐら)」と民間で行われる「里神楽(さとかぐら)」に大別され、日本の芸能の原点と位置づけられている。
 現在本庄市域で行われている神楽は全て『金鑚神楽』流で、里神楽と呼ばれている。

 太駄岩上神社では、毎年415日に一番近い日曜日に例大祭が開催される。太駄神楽は、武蔵二之宮 金鑚神社の付属神楽として、鎌倉時代に神楽田楽等勃興と共に神社特有の神楽が組織されたものの流れを汲んでいる。この付属神楽は大里・児玉郡地方にのみ13組存在しており、その内の1組であり、現在は本庄市の無形民俗文化財に指定されており、金鑚神楽太駄組保存会が引き継いでいる。
       
        鳥居の左側で、県道沿いに聳える巨木。ご神木の類だろうか。
        
                         鳥居を過ぎるとすぐ目の前にある割拝殿。
        
                            割拝殿の傍らに設置されている案内板

 岩上神社 御由緒 本庄市児玉町太駄二九三
 □御縁起(歴史)
 当社は、身馴川(小山川)が大きく蛇行する所に突き出た山の上に鎮座している。境内の北側の斜面は、三葉ツツジの群生地となっており、春の開花期には美しい花が一面に咲き誇る。 また、川に沿って県道秩父児玉線が走っているが、当社付近のヘアピンカーブのことを、古くは当社にちなんで「明神様の大曲り」と呼んでいた。
『児玉郡誌』によれば、当社は往古より当所の鎮守として奉斎してきた神社であり、社殿は元来境内の後方の神山の嶺にあったが、いつのころか今の社地に移されたという。また、社号については、慶長三年(一五九八)に大和国(現奈良県)石上神宮の神主桜井丹波という者が当地に来て吉田家の配下となり奉仕するようになった時、「いそがみ」と訓むようにしたという。 『風土記稿』太駄村の項にも「岩上明神社吉田家の配下、桜井丹波が持、末社金鑽明神」と載るように、桜井家はその後も代々祀職を務めてきたが、桜井文五郎を最後に神職を辞め、一族の中里重一が後継者となった。しかし、昭和十二年ごろから鈴木家が兼務するところとなって現在に至っている。
 当社は明治五年に村社となり、同四十五年六月に類火によって社殿が全焼したが、大正十一年十一月に再建を果たすことができた。 また、大正十一年十二月には境内末社の金鑚神社を本殿に合祀した。更に、昭和四十八年には再び拝殿を焼失するが、同年に再興を果たした。
 □御祭神…岩長媛命・石凝姥命…健康長寿、縁結び
                                      案内板より引用
 
    割拝殿の先にある石段を登る。          石段の左側にある「聖徳太子」碑と
                          その左側には境内社。詳細不明。
        
                                       拝 殿
        
                                      本 殿
   筆者としては外壁を取った後の本殿の精巧な内部彫刻を勝手に想像を膨らませてしまう。


 ところで太駄岩上神社のご祭神である「岩長媛命」(いわながひめ)や石凝姥命(いしこりどめのみこと)は日本神話に登場する女神である。

 岩長媛命は『古事記』では石長比売、『日本書紀』・『先代旧事本紀』では磐長姫と表記される女神で、山の神である大山津見神の娘で、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)の姉として登場する国津神。
 木花之佐久夜毘売と共に天孫邇邇芸命(ににぎ)の元に嫁ぐが、石長比売は醜かったことから父の元に送り返された。大山津見神はそれを怒り、「石長比売を差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、木花之佐久夜毘売を差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからである」ことを教え、石長比売を送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げられる。『日本書紀』には、妊娠した木花開耶姫を磐長姫が呪ったとも記され、それが人の短命の起源であるとしている。

 神話上ではこのような逸話のある女神として登場しているが、名称のみで考証してみると「岩の永遠性」を表すものとされ、「岩のように長久に変わることのない女性」として「石(岩)」を神格化した神と考えられる。
        
                                   静かな境内

 石凝姥命は作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの祖神で、天糠戸(あめのぬかど)の子とされている。『古事記』では伊斯許理度売命、『日本書紀』では石凝姥命または石凝戸邊命(いしこりとべ)と表記されている。天津神。寄居町・姥宮神社のご祭神でもある。
『日本書紀』の一書では、思兼神が天照大御神の姿を写すものを造って、招き出そうと考え、 石凝姥に天の香山の金を採り、日矛(立派な矛の義。日の神の矛、茅をまきつけた矛、または八咫の鏡)を作らせたとある。
 その後、天孫降臨に際し瓊々杵尊に従った五伴緒神(五部神:天児屋根命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉屋命)の一柱とも謂われている。

石凝姥命」という神名の名義について、「コリ」を凝固、「ド」を呪的な行為につける接尾語、「メ」を女性と解して、「石を切って鋳型を作り溶鉄を流し固まらせて鏡を鋳造する老女」の意と見る説や、一族に「刀」や「凝、己利」(コリ、金属塊の意)の文字をもつことから、鍛冶部族としての性格を表していると見る説もあり、鋳物の神・金属加工の神として信仰されている。
        
                         社に隣接するようにカーブを描く県道

 岩長媛命や石凝姥命は、どちらも「石・岩」を共有し神格化した女神である。案内板には「往古より当所の鎮守として奉斎してきた神社であり、社殿は元来境内の後方の神山の嶺にあったが、いつのころか今の社地に移された」と記載されていて、筆者が想像するに、記紀の神話に組み込まれる前の、本来のご祭神は「神山」ないしは「神山に存在した磐座」ではなかったのではなかろうか。
        
              県道に沿って流れる小山川の清流。

 太駄はオオダと読み、嘗ては「太田」の字を当てた時代もあったそうだ。
 平安時代中期、当代随一の和漢にわたる学者であった源順が撰した、現存最古の分類体漢和辞書である『和名類聚抄』では古代児玉郡には、「振太・岡太・黄田(草田)・太井」の4郷を載せている。嘗て太駄地域は「振太」郷に比定する説(「大日本地名辞書」)もあったが、定かではない。

 話は変わるが、昭和六十一年に本庄市・西富田薬師元屋舗遺跡より「武蔵国児玉郡草田郷大田弓身万呂」と刻された9世紀製造された蛇紋岩製紡錘車(繊維に撚りをかけて、糸にする道具)が発見され、現在の本庄市栄3丁目から西富田の付近が、平安時代の書物『和名類聚抄』にも記録されている草田郷という村の一部として存在したと言う事も推定できる。
 平安時代の出土物(遺物)によって、『倭名類聚抄』の古写本の本文が正しいことが判明した珍しい事例であり、考古学的にも重要な資料でもある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「
本庄市観光協会HP」
    
Wikipedia」等

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高柳三嶋愛宕神社

 本庄市児玉町高柳地区には「骨波田」という一風変わった地名が存在する。高柳地区の丁度中央部にある「長泉寺」周辺の小字であるようだが、骨波田の地名由来には幾つかの伝説が残されている。それは『身馴川の大蛇伝説』で、これは高柳地区だけでなく、秋山・風洞地区にも似たような話が伝えられている。
 昔身馴川(現小山川)に雌雄2匹(もしくは1匹)の大蛇がいて、あたり一帯の沼地を我が物顔に暴れまわっていたのを、征夷大将軍・坂上田村麻呂が成敗した話である。退治した大蛇の骨をこの地に埋めたので、骨畑(骨波田)の名前がついたという。また別説では、大将軍が大蛇を退治した後、辺り一帯に天災や疫病が流行して村人が大変困っていると、どこからか高僧がやって来てお祈りをしたところ、付近の沼地一帯に大蛇の骨が浮かび上がり、沼は大きな波が立った。これを丁寧に供養すると、以後は祟りや天災は無くなったといい、骨波田の由来はこの大蛇の骨と沼地が波立ったことによると云う。どちらの伝説にしても洪水で荒れ狂う身馴川を大蛇に例えた伝説と考えられる。
 また近隣には「江ノ浜・虚空蔵尊」という地名もあり、これらも伝説によると云われている。身馴川の傍に入り江があり、江ノ浜と呼ばれているが、ここには昔一本の大きな柳の木があり、大将軍の坂上田村麻呂はこの柳の木に向かって大蛇退治の祈願を行い、願いが叶うならこの柳に桜の花を咲かせてほしいというと、突然暗夜となり振動して、すぐ明るくなると柳は満開の桜が咲いたという。大将軍は喜び、この地に虚空蔵尊を建立して、この地に柳の大木があったことから高柳の虚空蔵尊というようになったという。

 因みに「長泉寺」には埼玉県指定天然記念物に指定されている、樹齢約650年の『骨波田の藤』が有名で、東国花の寺百ケ寺、児玉三十三観音霊場第三十一番にもなっている。
        
            
・所在地 埼玉県本庄市児玉町高柳138
            
・ご祭神 大山祇命・火産霊神
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 新年祭 17日 新穀感謝祭 1123日 大祓 721日、1229

 高柳地区の大半は山地と丘陵地よりなっていて、南側を小山川が流れており、地区中央を南西方向に県道が通っている。
 高柳三嶋愛宕神社は、埼玉県道
44号線秩父児玉線を児玉町市街地から元田地区方向へ進む。その後小山川に沿った進行方向となり、右側にはコンビニエンス、左側には「こだま千本桜」と言われる桜並木が並ぶ信号の内交差点から150m程過ぎたT字路を右折し、道なりに進んでいくと正面方向に高台が見え、高柳三嶋愛宕神社の鳥居が見えてくる。
 社は高柳公会堂に隣接していて、高台の南側には「観音堂」という寺院があり、そこの駐車場の一角に車を停めてから参拝を行う。
        
                      
高柳三嶋愛宕神社正面鳥居
      写真左側には「観音堂」の墓地が並び、その南側に駐車スペースあり。
         鳥居の右側にある社号標柱       鳥居を過ぎると拝殿に通じる石段がある。
        
                                        拝 殿
        
                         拝殿の手前左側に設置されている案内板

 三嶋愛宕神社 御由緒  本庄市児玉町高柳一三八
 □御縁起(歴史)
 前期に上野笠懸野(現群馬県新田郡)を開き、寛文元年(一六六一)からは上野・下野・越後国の幕府代官として活躍した岡登景能の生地として知られる高柳は、身馴川(小山川)に沿った細長い形の村である。その地内にある曹洞宗の長泉寺は、文明三年(一四七一)に関東管領上杉顕定が開基となって創立した寺院であるように、室町時代には既に相応の村落を成していたことがうかがえる。
 三嶋愛宕神社の名が示すように、当社は三嶋神社と愛宕神社の合殿である。三嶋神社は元々現在の社地に鎮座していた神社で、高柳の上の鎮守として祀られ、『風土記稿』高柳村の項によれば村民の持ちとなっている。一方、愛宕神社は現在の社地からやや東に離れた所に鎮座していた神社で、下の鎮守として崇敬され、『風土記稿』によれば観音寺の持ちとなっている。したがって、この両社は信仰の上では格差はなく、旧社格はいずれも村社であった。
 しかし、両社の位置が比較的近かったためであろうか、政府の合祀政策を受けて明治四十年に愛宕神社は三嶋神社に合祀されることになり、これに伴って三嶋神社の社号を三嶋愛宕神社に改めた。更に、この際、愛宕神社の境内社であった稲荷・天手長男の両社及び字川原の社日神社をはじめとする地内の無格社六社を当社の境内に移して末社とした。このような経過を経て、当社は現在の形になったのである。
 □御祭神 大山祇命・火産霊神…防火防災 五穀豊穣
                                      案内板より引用


 案内板に登場する岡登景能(おかのぼり かげよし、1629年(寛永6年)? - 168815日(貞享4123日))は、江戸時代前期の武士、通称は次郎兵衛。
 武蔵国児玉郡高柳村(現在の埼玉県本庄市)の農家白井家に生まれ、岡上家の養子となる。養父景親の跡をついで幕府代官となり、1668年(寛文8年)足尾の銅山奉行をかねる。越後国魚沼郡、上野国新田郡笠懸野などの用水路整備や開墾に尽力した。用水路建設の費用に年貢米を流用してしまったなどの理由により江戸に召喚され、その道中の168815日(貞享4123日)、駕籠の中で切腹し死去した。通称は次郎兵衛。上野笠懸野の用水路は今でも岡上用水と呼ばれている。景能の苗字は「岡上」であるが、通称「岡登」の苗字で言及されることもある。
        
               社殿の右側、丘陵地斜面手前に並んで鎮座する社日神等の石祠群。

 景能は貞享元年より上州新田郡へ本拠地を移し、自刃する同四年迄居住し、妻子は生家の高柳村へ帰郷したようだ。武蔵国児玉郡誌に「岡登次郎兵衛景能の妻は武州高柳村斎藤六兵衛の女にして、景能の男八郎兵衛を生む。景能の子八郎兵衛父自刃の後に母と共に生地高柳に帰り来りて住居したるに、明治の初、八代の孫幸作の時に至り家屋を他に売却せりと云ふ、(以下略)」との記載がある。
 児玉記考に「旧家岡登幸作、先代を八郎兵衛と通称し、名主役を勤続し苗字帯刀を許されたる旧家なり」と見えるように、その子孫はこの地に根を下ろして代々酒造業を営んでいたという。
       
                          石祠群の並びに聳え立つご神木

 風土記稿高柳村条に「那賀郡駒絹村の民友七所蔵の文書に、吉橋和泉、弟高柳因幡守と見え、且つ吉橋氏は永禄元亀の頃、信玄に属し、近郷の戦に屡々功ありしかば、榛沢郡の内大塚、賀美郡の内長浜にて、十貫文づゝの地を宛てられし事もあれば、舎弟高柳因幡守も当村に住し、在名をもて氏とせしにや」と記載されている。

また駒衣村吉橋文書に「天正五丑年十月九日、村岡河内守分、両人に出置候、早々罷移、彼本領可致知行候、右之足軽其外同心衆の家まで、村岡より可請取之者也、吉橋和泉殿、和泉弟高柳因幡守殿、(北条氏邦印判状)」と見え、吉橋氏は、児玉郡高柳村を所領として高柳氏を称し、木部村(那賀郡木部村)に屋敷を構えたらしい。
        
                 社殿から鳥居方向を撮影


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等
                 

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