古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

堤崎愛宕神社


        
               
・所在地 埼玉県上尾市堤崎329
               
・ご祭神 軻遇突知命 倉稲魂命
               
・社 格 旧村社
               
・例祭等 八雲神社例祭(祇園祭)714日 例大祭 724日 他
 上尾市・堤崎地域は上尾市南部の大宮台地指扇支台上に位置し、地域の南端を鴨川の支流の浅間川が東に流れ、さいたま市西区との境界となっていて、西側から北側にかけて地頭方地域と隣接している。
 国道17号バイパス上尾道路が地域中央を南北に走っているのだが、国道を挟んで地域北部・東部の市街化区域にはUDトラックスやその関連工場があり、区域内の都市化がはかられるのに対して、国道西側は全体的に田畑が多く、住宅はまばらのようだ。
        
                  
堤崎愛宕神社正面
 上尾市地頭方地域の東側に走っている国道17号バイパス上尾道路を南下し、「堤崎」交差点を右折、すぐ右側に堤崎自治会館があり、その隣に堤崎愛宕神社が見えてくる。
 堤崎地域西部から南部にかけては田畑が多く、また南部には
浅間川が東西に流れていて地域境を形成しているので、道路も微妙に入り組んでいている。
 正直いうと、地頭方氷川神社から当社まで直線距離で500m程しか離れていないのだが、入り組んだ道ゆえにかなり細かく説明する必要があるため、分かりやすい国道17号線ルート説明に代えた次第だ。
        
               鳥居の左手にある庚申塔等
   左側の祠には庚申塔と青面金剛像、右隣の祠には不動明王座像が納められていた。
        
             国道が近くにあるのも関わらず静かな境内
『新編武蔵風土記稿 堤崎村』
 神社 稻荷社三宇 共に村民の持、 熊野社 持同じ、社は破壊して未だ再建せず、
 寺院 
 地藏院 
 禅宗曹洞派、中釘村永昌寺末、寶珠山と號す、開山を一線斎と云、明暦三年四月朔日示寂す、本尊は地蔵の坐像を安置せり、
 十王堂
 愛宕社 勝軍地蔵を安ず、是は加州大聖寺の禅苗和尚と云が刻める所なり、此僧は近来の人なればことに彫刻にたくみなりといへり、

        
                     拝 殿
        
              拝殿手前に設置されている案内板
 愛宕神社  上尾市堤崎三二九
 祭神…軻遇突知命 倉稲魂命
 堤崎村は天正の末徳川氏の有となり、代官が所轄した。寛永二年(1625)安部備中守の領地となっている。
 当社は、社伝によると、元禄十年(1697)のころ、村内に悪病が流行した折、これを鎮めるために創祀したものであるという。また、「風土記稿」堤崎村の項には、当社は地蔵院の境内社として載り、「愛宕社 勝軍地蔵を安ず、是は加州大聖寺の禅苗和尚と云が刻める所なり、此僧は近来の人なればことに彫刻にたくみなりといへり」とある。
 地蔵院は、宝珠山と号した曹洞宗の寺院で、開山と伝わる一線斎は明暦三年(1657)四月に示寂している。神仏分離に伴い、明治五年(1872)に廃寺となり、現在、堤崎自治会館前に建つ地蔵堂(「本尊様」と呼ぶ)の中に、地蔵尊座像が、閻魔大王・大日如来像と共に納められている。
 また、当社の神楽殿に掛かる消防の半鐘として使用されている鐘には「武州足立郡堤崎村 本山永昌現住百川朝叟代 宝珠山地蔵院什物 世話人安藤善右衛門 天保十二辛丑年(1841)十一月吉祥日」と刻まれており、往時を偲ばせる。
 当社は、明治初年に稲荷社三社、熊野社を合祀し、同六年四月に村社となった。昭和三十六年(1961)、旧来の社殿の傷みが著しかったため、氏子全員の協力により本殿・拝殿を新築した。
 祭礼は一月の歳旦祭、三月の初午祭、七月の八雲神社例祭(祇園祭)、同二十四日の例大祭、十月のお日待ちの年五回である。
 境内社として「疱瘡社」「八雲社」を祀っている。(以下略)
                                      案内板より引用

 
   拝殿に対して左側に設置されている       「堤崎の祭りばやし」案内板
  「堤崎の祭りばやし」の案内板と標柱       上尾市指定無形民俗文化財に指定

 上尾市指定無形民俗文化財  堤崎の祭りばやし
 (保持団体) 堤崎はやし連

 上尾市やその周辺地域には、江戸の神田ばやし系統の祭りばやしが伝承されており、いずれも大太鼓1人、小太鼓2人、すり鉦1人、笛1人の51組で編成されている。
 堤崎の祭りばやしは、神田ばやしの系統の一つである木ノ下流祭りばやしをもとに、明治時代の初めに堤崎の吉沢菊次郎が手を加えて編み出したと伝えられている。独自の流派として形成された堤崎流のはやしは、市内西部や川越地方の祭りばやしの中心的存在の一つとして、市内では畔吉、中新井、平方新田などに伝授されている。演奏曲目には、屋台、鎌倉、四丁目、神田丸、昇殿、宮昇殿、岡崎、数え歌、子守唄があり、付属機能として、獅子やひょっとこなど、神楽の面芝居のような寸劇もある。
 現在、堤崎の祭りばやしは、七月一四日に近い日曜日に行われる堤崎の天王様などで上演されている。また、堤崎地区では山車を1基所有しており、この山車の上で演奏することも可能である。
                                      案内板より引用

       
                     本 殿
       
             本殿奥に聳え立つ巨木(写真左・右)。
 
      境内社  八雲社・疱瘡社           境内に奉納されている力石


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」Wikipedia
    「境内案内板」等

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地頭方氷川神社

 上尾市・地頭方(じとうかた)地域は、上尾市南部の大宮台地指扇(さしおうぎ)支台上にあり、『日本歴史地名大系』での 「地頭方村」の解説によると、南側を堤崎村、西は南北に流れる堀を隔てて平方領の領家村に隣接し、嘗ては足立郡平方領に属していた。村名の由来は、建武元年(1334410日の足利直義下知状(宇都宮文書)にみえる大谷郷地頭職にかかわると考えられる。鎌倉時代に荘園領主と地頭が土地の所有権を争い、地頭方と領家方に分けた名残の地名といわれていて、北側に隣接する壱丁目地域は、嘗て地頭に与えられた土地を意味する「壱町免」が変化した地域名と言われているそうだ。
 上尾市内の地名には、中世以降の古文書にその名が残っているものが幾つかあり、「地頭方」もそのうちの一つであろう。
 因みに「地頭方」という地域名は吉見町にもあるが、そちらの名称は「じとうほう」と読み、若干の読み方の違いはある。
 当時の村高は正保年間の『武蔵田園簿』では173石(田45石余、畑127石余)、『元禄郷帳』によると145石余、『天保郷帳』によると149石余であった。検地は寛永7年(1630)・元禄7年(1694)、新田検地は延享元年(1744)に実施されている。
        
              
・所在地 埼玉県上尾市地頭方113
              
・ご祭神 素戔嗚尊 天照大御神 大雷命
              
・社 格 旧地頭方村鎮守・旧村社
              
・例祭等 お神楽 722日 お日待 1014
 平方八枝神社正面鳥居に沿って東西方向に走る道路を東行すること500m程、途中平方橘神社を左手に見ながら道なりに進むと、埼玉県道51号川越上尾線のY字路に達するので、そこを左折する。同県道を1.5㎞程進行し「地頭方」交差点を右折、その後800m程進んだ丁字路を右折すると、すぐ左手に「地頭方公民館」が見え、その建物奥に地頭方氷川神社が背を向けたように鎮座している。
        
                
地頭方氷川神社参道正面
  この社にはお決まりの鳥居が設置されていないため、正面を目視する目印的な物がない。
        また正面周辺には
適当な駐車スペースがないため、100m程歩いた
                「
地頭方公民館」の駐車場に車を停めてから、参拝に臨む。
 
 正面には鳥居はないものの、参道は比較的長い(写真左)。社殿に至る長い参道は、1950年(昭和25年)に時の総代島田道教から寄付された土地を氏子総出で整備したものであるという。
 また、社には大きな狛犬が鎮座している(写真左・右)が、これは前出の島田家が運送業で財を成したことに対する神恩に感謝して、1895年(明治28年)に奉納されたものである。
        
                                       拝 殿
         道路から離れている場所にひっそりと佇んでいるような印象
       
                           境内に設置されている案内板 
 氷川神社  上尾市地頭方一一三
 祭神…素戔嗚尊、天照大御神、大雷命
 南北朝-室町期ごろ市域には大谷郷が成立していた。地頭方の地名は、建武元年(一三三四)四月十日の足利直義下知状(宇都宮文書)に見える大谷郷地頭職にかかわると考えられ、中世村落の系譜を引く村であることが推測される。
 当社の創建の年代は明らかではないが『風土記稿』地頭方村の項に「氷川社 村の鎮守なり 正円寺持」とあり、当村の鎮守として祀られてきた社であることがわかる。ここに見える別当の正円寺は、当社の西方一〇〇メートルほどの所にあった蓮華山と号する真言宗寺院で、開山秀賢は、寛正三年(一四六二)に没したという。
 神仏分離後、正円寺は廃寺となり、当社は明治六年四月に村社に列した。また、年代は不詳であるが、地内にあった神明社・雷電社を合祀したと伝える。なお、現在正円寺の跡地には地頭方公民館がある。
 当社の参道を進んで社前に至ると、まず目につくのが、見上げるばかりに堂々とした体格を誇る狛犬である。これは、江戸末期から明治期にかけて氏子の島田鶴吉が運送業で財を成したことから、神恩に感謝して同氏により明治二十八年に奉納されたものである。また、一〇〇メートルほどの参道は、昭和二十五年に時の総代島田道教から寄付された土地を氏子総出で整備したものである。島田道教は、先の島田鶴吉の子に当たり、島田家の当社に寄せる崇敬の厚さをうかがわせる。
 祭礼は正月の歳旦祭、三月のふせぎ(春祈祷)、七月の祇園祭、例祭、十月のお日待ちの年五回である。七月の例祭には「雨降り神楽」と呼ばれたお神楽が作物の無事生育を願って奉納されていた。
 境内社に「稲荷社」「疱瘡社」、境外社に「天神社」「八雲社」を祀る。
                                      案内板より引用 

 
 「伊勢参宮記念碑」の並びで、拝殿左側手前に    参道を挟んで疱瘡社の向かい側に
    祀られている境内社・疱瘡社         祀られている境内社・稲荷社
        
                   境内社・疱瘡社の手前には「力石」も奉納されている。

 ところで、この地域には「地頭方の祭りばやし」が上尾市に民俗文化財・無形民俗文化財として指定を受けている。
民俗文化財・無形民俗文化財 地頭方の祭りばやし
【登録年月日】 平成20115
【保持団体】  地頭方囃子連
 地頭方の祭りばやしは、神田ばやし系統の一つである桑屋流の祭りばやしです。始まりは不詳で加茂宮(さいたま市北区宮原)の囃子連が師匠で、加茂神社の祭りのときには応援に駆けつけたといいます。
 祭りばやしの編成は、笛1人・小太鼓2人・大太鼓1人・鉦1人の51組です。
 曲目には、「屋台」「昇殿」「鎌倉」「四丁目」「神田丸」「ひょっとこ囃子」「ねんねん子守」「ヒトツトヤ」がある。「屋台」は、「ブッツケ」「切り」「地」「新切り」「乱拍子」で構成しています。
 上演の機会としては、722日の氷川神社例祭があります。かつては1014日のお日待ちの夜にも上演していました。
 付属芸能として、以前はひょっとこ踊りなどがありましたが、今日では踊る人がいません。
                              「上尾市教育委員会HP
」より引用
        
                                 静かな境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
上尾市教育委員会HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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平方八枝神社

 上尾市平方(ひらかた)地域は、市南部の主に大宮台地上に位置し、畑や田んぼが広がり、広大な河川敷もある等、近年開発が著しい同市に在って、農業的土地利用の比重が高い地域である。
 東側を平方領領家や上野、南側を西貝塚やさいたま市西区宝来、西側を荒川およびその旧流路を挟み川越市東本宿・上老袋・中老袋や比企郡川島町出丸中郷、北側を畔吉や小敷谷と隣接する。因みに地域の面積は3.2521 km2で上尾市の町・字では最も広い。
「平方」の地名由来として、地域一帯荒川流域の平坦な地が地名の起源であると言われている。
        
             
・所在地 埼玉県上尾市平方488
             ・ご祭神 素戔嗚尊、狛狗大神
             ・社 格 旧無格社
             ・例祭等 ふせぎ 334 例大祭 420日前後の日曜日
                  夏季大祭(祇園祭) 7月中旬日曜日 お日待ち 1015
 平方橘神社が鎮座する「上尾橘高入口」交差点を荒川方向に西行すること200m程、進行方向左側に平方八枝神社は見えてくる。この両社は距離が非常に近い。
        
                  平方八枝神社正面
『日本歴史地名大系』 「八枝神社」の解説
 八枝神社は荒川東岸、嘗ての平方河岸近くの川越上尾道沿いにある。祭神は素盞嗚尊。創建の時期は元禄年中(一六八八―一七〇四)と伝える(神社明細帳)。江戸期には「牛頭天王社」と称し、別当は天台宗正覚寺が勤めた。明治初年現社名に改称.
 天保13年(1842
)正覚寺が社殿造営のため護摩を勧募した時の千座護摩募縁誌(八枝神社文書)には、除病祈願・悪疫退散のために当社が村々に貸出す、お獅子様とよばれる獅子頭の霊験が語られている。往昔正覚寺中興の真鏡は御正体の霊験の発揚を祈り、当社で法華経を読誦したという。
 なお、明治維新後に京都八坂神社の枝社という意味を込めて、八枝神社と改めたという。
        
           鳥居の左側で、道路沿いに設置されている案内板
 八枝神社  上尾市平方四八八
 祭神・・・素戔嗚尊、狛狗大神
 上尾市の平方は、荒川の舟運における主要な河岸の一つである平方河岸があった所として知られている。当社は、この河岸の近くに鎮座している。
 当社の創建について、『明細帳』は、「元禄年中(一六八八~一七〇四) の創立にして正徳元卯年(一七一一)六月十五日再建其他不詳」と記している。しかし、明治時代に廃寺となった正覚寺に所蔵されていた元禄七年(一六九四)の「平方村寺社地御改之覚」(福田家文書)に、当社の社地が古くから除地とされていた旨が記されているため、ささやかな祠や仮宮などの形で、それ以前から何らかの祭祀が行われていた可能性が考えられる。
 江時代までは「牛頭天王社」として祀られ、江時代後期には御獅子を奉斎し、悪疫退散の守護神・疫病除けの神として地元の上尾地区を始め、足立郡内、比企、入間、南埼玉の県内各郡、現東京都の西北部、旧多摩地方に信仰が広まり、村々では「平心講」という信徒組織が結成され、一時は講員数三万余人に達したと言われている。
 明治初年、京都の「八坂神社」の御祭神と同じ牛頭天王をお祀りしていることから、八坂神社の枝社として「八枝神社」と改称している。
 祭神は、「素戔嗚尊」並びに「狛狗大神」で、一般には「平方のおししさま」として親しまれ、各地への渡御(御獅子の巡回) は年間を通して行われてきた。この獅子頭は一説には左甚五郎の作とも伝えられるが、その確証はない。
 境内にある大樹は、創建当時からあるものと伝えられ、樹齢五〇〇年から六〇〇年以上と推定さ れる古木で、上尾市指定天然記念物として大切にされている。
 また、毎年七月の夏祭り(祇園祭)には、水と泥()と人とが一体となる奇祭、「どろいんきょ祭り」が、各地より沢山の見物客を集めて盛大に執り行われ、埼玉県指定無形民俗文化財に指定されている。 境内社に「疫神社」「八幡社」を祀る。
                                      案内板より引用

        
                                     拝 殿
 例祭日は、「ふせぎ 334日」 「例祭 420日前後の日曜日」 「夏季大祭 7月中旬日曜日」等である。「ふせぎ」は氏子区域の悪魔祓いの行事であり、当社に伝わる「お獅子様」を若衆が担いで平方の四町村を一軒一軒回っていく。「お獅子様」の回る順路は、上宿⇒南⇒下宿⇒新田と決まっていて、3日の午前8時頃から回り始めるが、昔は各戸に上り込んで「お獅子様」で家内を祓い清めたという。
 例祭は「太々」とも呼ばれ、この日は各地から集まって来る「平心講」の人々が太々神楽を奉納するのが例となっていることからその名がある。神楽は、元来大宮市の杉山家に頼んでいたが、同が神楽をやめたため、現在は大宮市清河寺の島村家に頼んでいる。
 夏季大祭は、平方の四町内挙げての祭りである。この行事は、牛頭天王の霊威によって悪疫退散 を祈願するもので、古くから大切な行事として続けられたが、近年では勤める人々が多くなった関係で、714日に近い日曜日に実施している。
        
                                拝殿の手前にある神楽殿
        
                  拝殿の右側に祀られている境内社「疫神社」「八幡社」
 
         拝殿右側に聳え立つケヤキ、エノキの巨木(写真左、右)
         左側に注連縄が巻かれているのはケヤキのご神木である。
 
          拝殿と神楽殿との間にあるケヤキの巨木2本(写真左・右)
        
               境内に設置されている案内板
 上尾市指定天然記念物  八枝神社の境内ケヤキ・エノキ群
   八枝神社(大字平方488)
「ケヤキ・エノキ群」は合わせて6本の単木から成り、八枝神社の鳥居をくぐって左手の神楽殿から右手の拝殿・本殿の一帯にかけて生育している。ケヤキ(3) が拝殿東側の2本と、拝殿すぐ北側の「御神木」1本で、幹周りは約5.6m~6.9mであり、エノキ(3)が拝殿・本殿の南側の1本と、同北側の2本で幹周りは約2.4m~3.9mである。樹高は約30mで、樹齢は400~500年と推定され、市内の神社や寺院でこれだけの大木が群生しているのは珍しい。指定の「エノキ」の名称は学術的にはムクノキであるが、地元では古くからエノキと呼称していることに倣ったものである。
 明治期、神社合祀を進める政府に対し、明治三九(1906)11月に埼玉県知事大久保利武に提出した文書には「境内樹木ハ槻榎杉等ニシテ(中略)風致近郷二稀有ノ境内ナリ」とあり、地元では古くから榎と呼称していたことをうかがわせる。

 上尾市指定無形民俗文化財   武州平方箕輪囃子
  (保持団体)武州平方箕輪囃子連
 上尾市とその周辺地域には、江戸ばやしの系統を引く祭りばやしが伝承されている。江戸ばやしは、葛飾ばやしと神田ばやしの二つの系統に分かれるが、いずれも大太鼓1人、小太鼓2人、すり鉦1人、笛1人の51組で編成されている。
 武州平方箕輪囃子は、神田ばやし系の古っぱやしで、元は上宿・下宿・南の3地区で三好連といい、川越市の鹿飼から伝承された。
 祭りばやしの編成は、大太鼓1人、小太鼓2人、すり鉦1人、笛1人の51組である。曲目には「屋台」「昇殿」「鎌倉」「神田丸」「仁羽(ひょっとこ囃子)」「子守歌」「数え歌」がある。「仁羽」は踊りをまじえながら演奏することもある。
 上演の機会としては、七月七日の御仮屋、七月中旬の八枝神社祇園祭りであるどろいんきょ祭り、一〇月中旬の橘神社お日待ちがある。
 タカウマに乗せての移動しながらの演奏や、櫓の上での演奏など多様な演奏形態を維持していること、戦争により一時の中断をしているが、その後に復活し、古くから継続的に伝承されていることは市内でも貴重である。また、県指定無形民俗文化財である「平方祇園祭のどろいんきょ行事」の付属芸能としても欠かせない要素となっている。
                                       案内板より引用

 ところで、
平方八枝神社のご祭神は素戔嗚尊と狛狗大神(はっくだいじん)。この「狛狗大神」とは大きな獅子頭の事で「平方の御獅子様」として知られており、悪疫退散のご利益があるとされ、年間を通じて貸出されている。
 またこの社は、『平心講』(八枝神社の崇敬者団体)の本社として、埼玉県内各地並びに東京都内に数多くの講社を持ち、「平方のお獅子さま」として親しまれている。毎年七月の夏祭り(祇園祭)には、水と泥()と人とが一体となる奇祭「どろいんきょ」として有名である。
        
          境内に掲示されている「平方祇園祭のどろいんきょ行事」の案内板
 埼玉県指定無形民俗文化財  平方祇園祭のどろいんきょ行事
   八枝神社(大字平方488)
「平方祇園祭のどろいんきょ行事」は「天王様」や「夏祭」とも呼ばれ、悪疫退散などを祈願した祭りである。本来は七月一四日、一五日を祭日としたが、現在は七月下旬の日曜日に行われている。古くは旧平方村全体の行事で、上宿・下宿・南・新田の4地区を順番に神輿が渡御する形で行われてきた。大正一二(1923)年の渡御を最後に、4地区合同でのどろいんきょを含む神輿渡御は行われなくなった。その後、天王様は、4地区それぞれで神輿渡御が行われ、どろいんきょも各地区で小規模に行われる程度であった。こうした中、上宿地区は、昭和四八(1973)年にどろいんきょを本格的に復活させた。
 天王様の行事では、主として八枝神社から出る普通の神輿1基と、装飾のない白木作りの隠居神輿1基の合計2基が神酒所を巡りながら渡御する。神酒所とは、渡御の途中に立ち寄り、休憩する場であり、この中で実施可能な場所を選び、どろいんきょが行われている。休憩の後、あらかじめ水を撒いてある庭などで、神輿の担ぎ手である若衆たちが、さらに水を掛けられながら隠居神輿を地面に転がし倒し、どろいんきょが始まる。隠居神輿の由来は定かではないが、この隠居神輿も担ぎ手も泥だらけになることから「どろいんきょ」と呼ばれている。
 祭り当日、昼過ぎに神輿が八枝神社を出発する「お山出し」で、神輿の渡御が始まる。神輿・隠居神輿・囃子連の順に進み、神酒所のうち5か所程度で、どろいんきょを行う。
 渡御の途中、隠居神輿を垂直に立て、この上に役者に扮した若者が乗り、これを曳き歩く「山車の曳廻し」や、垂直に立てた隠居神輿の上での「ひょっとこ踊り」なども行われる。
 午後9時ごろ、最後の神酒所を出た一行は「お山納め」となり、八枝神社に帰り神輿を返して、祭りは終了となる。
 平方祇園祭のどろいんきょ行事は、いんきょ神輿を泥だらけにして転がす等、他に類例を見ない内容で伝承されており、地域的な特色を持った行事として、夏祭りの民俗的要素やその変遷を考える上で貴重な民俗行事である。
                                      案内板より引用

        
                   境内の一風景


 

       

 

 

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平方橘神社

 上尾市平方地域は、嘗て「平方河岸(ひらかたがし)」という荒川の舟運で栄えた河岸場の一つで、 昭和初期まで大きな繁栄を誇っていた。
 この平方河岸は、入間川と荒川の合流点の約600m下流にあった荒川の河岸場で、江戸浅草への川路23里余に位置する。川越上尾道筋にあたり、荒川対岸老袋(おいぶくろ)村(現川越市)とを結ぶ渡船場も併設されていた。寛政10年(1798)の寺尾川岸場由来書(河野家文書)に、寛永15年(1638)川越仙波東照宮再建用材の輸送のため「老袋・平方川岸」の利用が川越藩から命じられたが、渇水時であったため命を請けなかったとあり、川越藩は最寄りの村々の江戸廻米をすでに平方河岸にゆだねていたことをうかがわせる。
 河岸の成立にあたっては、寛永期から平方筋三六ヵ村を領した岩槻藩のほか柴田氏など有力旗本の要請もあったとみられる。岩槻藩主阿部重次は寛永15年から慶安4年(1651)まで老中を勤めており、この間有事の川船徴発年貢米回漕の基地を平方に整備したのであろう。寛文9年(1669)には「川船運漕ノ定」を記した高札が、おそらく幕府によって立てられたという。
        
              
・所在地 埼玉県上尾市平方2124
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧平方村鎮守・旧村社
              
・例祭等 歳旦祭 正月 祈年祭 2月 例大祭 1015
                   
新嘗祭 11
 畔吉諏訪神社から南側に位置する「上尾丸山公園」は南北に長い公園で、荒川河川敷すぐ近くに横たわる大きな池を配した上尾市の自然公園である。テーマは「水と緑の調和」。2.4haの長い池を始め、児童遊園地やバーベキュー場、広い運動公園、小動物コーナー、更には天文台もあり、桜やアヤメなど、季節毎に様々な花を楽しむこともでき、次々と展開する園内の風景は多彩で、厭きることがない。
 この公園南部にある南口第一駐車場脇の南北に走る道を1㎞程進むと「上尾橘高入口」交差点となり、その交差点手前右側に平方橘神社は鎮座している。
        
                  平方橘神社正面
『新編武蔵風土記稿 平方村』の項によると、「氷川社 村の鎮守なり」と記されており、江戸期には氷川社と称して平方村の鎮守社として祀られ、橘神社は大字平方のみの鎮守であったが、1907年(明治40年)に平方内の稲荷社・神明社、西貝塚の村社稲荷社、上野の村社神明社、上野本郷の村社稲荷社、平方領領家の村社氷川社を合祀し、新たに社号を「橘神社」に改称した。
 この「橘」という名称に関して、もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡平方領に属する平方村であった。古くは中世末期より見出せる橘里三輪荘(みわのしょう)に属したと云い、平方村・領家村(上尾市)は「橘ノ里」と称した時期があり、その故事を参考にして名付けられたようだ。
『新編武蔵風土記稿 上寶來村』
「上寶來村は江戸よりの行程九里、橘庄と唱ふ、此村古は寶來野と稱して荒川の岸に傍ひ水災ある地なり、故に差扇領の村々より秣などかりとり野錢を貢たりと云う」
        
                   道路沿いに設置された「
平方河岸」に関する案内板
 
   鳥居を過ぎて参道左側にある手水舎     参道右側には、戦前の機雷が奉納されている
                         案内板では日露戦争時頃のようだが…
        
                   境内の様子
        
                                       拝 殿
 橘神社 上尾市平方二一二四(平方字箕輪)
 当社の本殿の背後には、樹齢約八〇〇年と推定され、幹周り五・七五メートル、高さ二〇メートルにも及ぶ欅の巨木(市指定天然記念物)がそびえている。遠望するとこの欅が当社の神籬のように見え、境内の三分の一を覆い尽くすその威容は、神木と呼ぶにふさわしい。
 元禄七年(一六九四)の「枚方村寺社地御改之覚」(福田家文書)によれば、当社には文明三年(一四七一)銘の額(現存しない)がある旨が記されていることから、それ以前の創立であることがわかる。また、口碑に創建当初は現在の平方小学校の東の「氷川山」と呼ばれる所にあったとも、平方新田の字在家にあったとも伝えられる。しかし、当社が当地に移った時期については伝えがなく、また、境内の大欅の樹齢から考えても、遷座があったとしても相当昔のことであろう。
『風土記稿』平方村の項に、「氷川社 村の鎮守なり」と記されているように、当社は元来は平方だけの鎮守であったが、明治四十年に平方地内の稲荷・神明の二社(共に無格社)及び西貝塚の村社稲荷社、上野の村社神明社、上野本郷の村社稲荷社、平方領領家の村社氷川社を合祀し、社号を橘神社と改めた。その社名はかつてこの辺りを橘里と称していたことにちなむものである。本殿及び拝殿はこの合祀を機に建立されたもので、古い本殿は同じ大字内の八枝神社に移され、今も同社の本殿として使われている。
 氏子区域は大字平方(上宿・下宿・南・新田)の四地区と、上野・平方領領家・上野本郷・西貝塚の合計八地区で、年間の祭典は正月の歳旦祭(さいたんさい)、二月の祈年祭(きねんさい)、十月の例大祭(お日待ち)、十一月の新嘗祭(にいなめさい)の四回である。
 境内社に「稲荷社」「三峯社」「天王社」「水神社」「神明社」「疱瘡社」「天神社」「雷電社」「琴平社」「愛宕社」を祀る。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 本殿奥には、ご神木であるケヤキの大木が孤高の如く聳え立っている。このケヤキは、境内の地表面から50cmほど高く積み上げられた3m四方の土塁の上に立木し、周囲は透塀で囲まれている。中央の主たる幹は落雷のため上部を欠いているものの高さ20m余といい、嘗ては旧氷川神社のご神木として長い間住民の信仰の対象として敬慕されていたという。
 
幹周り5.75m、樹高24m、樹齢(推定)1000年といわれる立派な巨木・老木だ。
       
               ご神木のケヤキ(写真左・右)
              上尾市指定年月日 昭和42年5月1日
        
             境内に設置されている大けやきの案内板
 上尾市市指定天然記念物  大けやき
 橘神社(大字平方2124
 大けやきは、ニレ科の単木で、古くから地域の人々に「御神木」として親しまれている。昭和五四(1979)年の強風により、地面から7mほどのところの、二股に分かれたところで胴切りにされている。主幹の直径は1.8mあり、樹齢は800年と衰退されている。
 ケヤキは日本の代表的な広葉樹のひとつで、寿命が長い。山野に自生するほか、庭木・公園樹・街路樹として植えられている。特に関東地方に多く、「埼玉県の木」として指定されている。
 木目が美しく、かつ保存性が高いことから、社寺建築・臼・盆・漆器など用途が広い。樹皮は灰褐色で、老木になると麟片(りんぺん)状に剥がれる。葉は互生し、長さ2㎝〜7㎝の卵形または卵状鉢形で、薄い肉質である。花は四月〜五月に咲く。
 果実は長さ4mm5㎜の平たく歪んだ球形で陵があって固く、一〇月頃に暗褐色に熟す。
 上尾市教育委員会
                                      案内板より引用
        
    社殿の左側後方に祀られている境内社、及び平方村河岸出入商人衆奉納の石祠
 
     平方村河岸出入商人衆奉納の石祠            石碑の案内板
上尾市指定有形文化財 平方村河岸出入商人衆奉納の石祠
橘神社(大字平方2124
平方河岸は、荒川にあった河岸場で、近世には岩槻や原市方面から川越を経て多摩方面へ通じる、脇往還筋にある渡船場としても機能する交通の要衝だった。河岸場の歴史は古く、寛永一五(1638)年以前には既に成立していたと考えられている。
江戸へ送る年貢米の集荷先として、平方周辺の村々の他、南村、久保村、原市村などの幕府直轄地や、弁財村、戸崎村、上瓦葺村などの旗本知行地といった地域からも広く利用され、大正時代末まで大変栄えていた。
3基並んだ石祠のうち、中央の神明社が指定の石祠で、明治四〇年代に河岸場から橘神社に移された。左側面の銘文によると、平方村及び平方河岸に出入りする商人衆によって、享保二(1717)年に造立・奉納されたものであることが分かる。また右側面には、宝永六(1709)年に祈願して以来、平方河岸が大神宮の神徳により繁栄したことのお礼と、今後の輸送の安全と一層の発展を願う奉納の趣旨が記されている。
江戸時代中期からの江戸との経済関係、いわゆる江戸地廻り経済による商品流通によって発展した平方河岸の隆盛を伝える、数少ない貴重な歴史資料である。
上尾市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                        社殿右側に祀られている境内社。祖霊社か。
        
               綺麗に手入れされている境内


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「上尾市webサイト
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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畔吉諏訪神社

 上尾市・畔吉地域は、上尾市西部の大宮台地上に位置する。因みに「畔吉」は「あぜよし」と読み、なかなかの難解地名である。嘗ては江戸期より存在した武蔵国足立郡石戸領に属する畔吉村、古くは南北朝期より見出せる畔吉郷もしくは畔牛郷(あぜうしごう)と称していて、また他にも徳星寺天正十九年文書に上足立郡「阿世吉郷」、井原文書には「畔谷瀬」とある。
 地名由来もハッキリとは分かっていないが、地形上の特徴から発生した名称である事には間違いないと考える。地域東側を江川の支流の逆川およびその谷戸を挟み中分・及び小敷谷地域、南側は丸山都市下水路(長堀)を挟み平方地域、西側は荒川を挟み比企郡川島町出丸中郷、北側を領家地域と隣接している。
 地域全域は市街化調整区域であるが、上尾駅からは
4 kmほど西に離れていて、徒歩圏ではないため、農地が多く宅地化は進んでいないようだ。荒川の流域沿いは荒川近郊緑地保全区域に指定されていて、自然が豊かな地域でもある
        
              
・所在地 埼玉県上尾市畔吉835
              
・ご祭神 建御名方命
              
・社 格 旧畔吉村鎮守・旧村社
              ・例祭等 例祭 217日 春祈祷 44日 祭礼 101415
                   お日待 1123 
                   *4月春祈祷…「源太・万作踊り」
                   *10月のお日待ち…「ささら獅子舞」
 今泉氷川神社から一旦「泉が丘通り」に戻り、そこを右折、600m程北上した十字路を左折する。通称「はなみずき通り」を1.2㎞程進み、「東武バス車庫前」交差点を左斜め方向に進路変更する。その後国道17号線を越えた300m先で、進行方向右手に畔吉諏訪神社ののぼり旗ポールが見えてくる。
 社の境内には「大石農民センター」があり、駐車スペースはあるようだが、ゲートが閉まっているので境内には入れない。但し、社の南側に「上尾丸山公園」があり、そこの北側駐車場に車を停めてから徒歩(約10分程)にて社に向かう。
        
                  畔吉諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 による「畔吉村」の解説によると、『平方(ひらかた)村の北に続き、集落は荒川東岸の台地上にある。荒川対岸は比企郡出丸中郷(現川島町)。康暦二年(一三八〇)八月二五日の足利氏満御判御教書(円覚寺文書)によれば、同月六日に武蔵国金陸寺に寄進された塩田帯刀左衛門尉跡の「足立郡畔牛郷内」などを同寺雑掌に打渡すよう山下四郎左衛門尉に命じている。塩田氏からの所領没収は同年の小山義政の乱にかかわるものか。金陸寺の所在地などは不詳。天正一七年(一五八九)八月二八日には、「畔吉之内徳正寺」の寺内および門前の諸役が太田氏房により免除され(「太田氏房印判状」徳星寺文書)、同一九年一一月の徳川家康朱印状(同文書)では、「武州上足立郡阿世吉郷之内参石」が徳星寺に寄進されている。
 なお足立系図(兵庫県足立九代次氏蔵)には足立遠元の第五子肥後守遠景に「号安須吉」の注があり、この「安須吉」を畔吉に比定する説もある』とあり、「畔吉」地名由来として新たに「足立系図」に載せている「安須吉」を畔吉に比定する説が紹介されている。ということは、足立遠元は平安末期の武将・官僚でもあり、その地名の淵源は平安時代まで遡ることになる。
        
   鳥居を過ぎてすぐ右側にある「畔吉ささら獅子舞」「畔吉諏訪神社大山石灯籠」の標柱と、
                          その間にある畔吉諏訪神社大山石灯籠。
               また標柱の左側には、畔吉諏訪神社大山石灯籠の案内板がある。
 上尾市指定有形民俗文化財 畔吉諏訪神社大山石灯籠
  諏訪神社 (大字畔吉835)
 上尾市やその周辺地域では、江戸時代から遠隔地の有名社寺を信仰する代参講が盛んに行われ。その中で特によく行われてきたものに大山講がある。大山講は、神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社を信仰する講として結成され、古くは大山石尊大権現と呼ばれたことから石尊講とも呼ばれる。
 大山山頂に大山阿夫利神社の本社があり、山開きの期間(七月二七日から八月一七日まで)のみ参拝登山ができるものとされてきた。大山灯籠は、それぞれの講の地元に、この山開きの期間に立てられるものであった。
 上尾市内の大山灯籠の多くは、木製の組立て式である。山開きの時期になると、地元の神社や集会施設、道端などに立てていた。周囲に竹を4本立て、これに注連縄を巡らせ、毎晩灯明をともすものであった。
 この大山石灯籠は、木製の灯籠ではなく石灯籠で常設されている。大山石灯籠は、市内では畔吉と領家の2か所にとどまる貴重な例である。この石灯籠でも、毎年七月下旬から1週間、大山灯籠行事を行っている。
 石灯籠の背面には、元治元(1864)年の紀念銘があり、正面には「大山石尊大権現」と大きく刻まれている。このほか、造立主体や製作石工も刻銘から明らかであり、上尾市域における大山信仰の状況を知るうえで貴重な文化財といえる。
                                      案内板より引用
        
          参道を挟んで左側には「
畔吉の万作踊り」の標柱がある。
  標柱の右側には、「畔吉の万作踊り」と「畔吉ささら獅子舞」の案内板が設置されている。
 上尾市指定無形民俗文化財 畔吉ささら獅子舞
  (保持団体)畔吉ささら獅子舞保存会
「畔吉ささら獅子舞」は1人が1頭の獅子に扮し3人で舞う、三匹獅子と呼ばれる系統の風流系民俗芸能である。戦国時代に岩付(現在のさいたま市岩槻区)の殿様が見に来た獅子だったと伝わっている。
 獅子舞は、畔吉地区の鎮守である諏訪神社の例祭で悪疫退散・五穀豊穣などを願って奉納される。かつては八月二七日が例祭日であったが、現在は一〇月中旬の日曜日となっている。例祭では、諏訪神社のほか徳星寺でも1回奉納される。
 舞手の構成は、牝獅子と中獅子、王獅子の三人一組である。舞は、笛に合わせて進行し、舞手の獅子は腰に着けた太鼓を叩きながら舞い、花笠をかぶる岡崎が「ささら」という楽器を演奏する。ささら獅子舞という名称は、ここからきている。
 演目は、十二切といわれる一曲式が基本で、2時間弱の舞である。このほか、短縮版の三切、七切という演目もある。
 舞の中盤では歌が入り、後半には牝獅子隠しとなる。牝獅子隠しは、牝獅子が花笠の間に入って隠され、これを中獅子と王獅子が探し、牝獅子の奪い合いで争うが、和解するという内容である。
        
 上尾市指定無形民俗文化財 畔吉の万作踊り
  (保持団体)畔吉源太郎万作踊保存会
 万作とは、万作踊りと呼ばれる舞踊と、段物・芝居などといった演劇のことで、埼玉県の稲作地帯の代表的民俗芸能である。農民の豊年満作の娯楽芸能として、江戸の冠木などの演劇の影響を受けながら発達してきた。起源は明確ではないが、江戸時代末期に始められたものと考えられ、大正時代から昭和初期にかけて全盛を誇っていた。上尾市域は、県内でも特に万作が盛んに行われていた地域だった。
「畔吉の万作踊り」は、大正時代には既に行われており、昭和五五(1980)年頃からは、畔吉の鎮守である諏訪神社の春季例祭(四月の第1日曜日)に奉納されている。演目は、下妻踊り・手拭い踊り・銭輪踊り・伊勢音頭・口説きの5種類である。このうち基本となる演目は下妻踊りであり、採りものを持たずに踊る。銭輪踊りは、踊りの三番叟と呼ばれ、最初に踊るのはこの演目である。下妻踊り、手拭い踊り、銭輪踊りは、ほぼ同じ系統の歌で踊るが、伊勢音頭は、全国的に広く分布する伊勢音頭の歌で踊る。
                                      案内板より引用
        
                参道から見た境内の様子
          社の正面幅は狭いようだが、奥行がかなりあるようだ。
           また社殿は石垣等により高台上に鎮座している。
        
                      参道を進むと左側に神楽殿がある。
       10月中旬の日曜日にある例大祭に奉納される「畔吉ささら獅子舞」
               の舞台となっているのであろう。

 畔吉諏訪神社の創建年代等は不詳ながら、天正18年(1590)に土着・畔吉村の名主を勤めていた井原家が、石戸領の総鎮守諏訪神社を、井原家の氏神として勧請した。その後、寛保元年(1741)に時の当主井原弥市が徳星寺に社を寄附したという。以来畔吉地区の守護神として村民より崇敬されてきた。『新編武蔵風土記稿』には以下の記載がある。
『新編武蔵風土記稿 畔吉村』
「神社 氷川社
 長二尺、圖徑三寸許なるなて角の青石を神體とす、是雷斧雷槌の類なるべし、德星寺の持、村の鎭守なり、諏訪社 持同じ、」
「寺院 徳星寺
 天台宗、川田谷村泉福寺末、東高野山遍明院と號す、本尊阿弥陀を安ず、天正十九年寺領三石の御朱印を賜はれり、當寺は往古弘法大師の開闢せし地ゆへ東高野と唱へ、眞言古義の古刹なるよし、其後いつの頃か今の宗旨に改めたれど、山號は尚古のまゝが襲ひ用ひしといへり、されど舊記を失ひたれば、其詳なることは知らず、天正十七年太田氏房より出せし文書一通を藏す、其文左の如し、
 畔吉之内徳正寺寺門前共に任侘言、諸役免許可爲不入者也、仍如件、
 天正十七己丑八月廿八日 圓阿彌奉
 井原土佐守殿」
「舊家 彌市
 代々名主を勤む、先祖を井原土佐守政家と稱し、岩槻の十郎氏房に仕へしものなるが、落城の時打もらされ當所に來り住せりと云、されど德星寺に藏する文書によれば、落城以前よりこゝに居りしにや、系圖舊記等もなければ其詳なることを知らず、近村町谷村の民金右衛門も井原氏にて、先祖主税助へ與へし太田氏房等の文書数通を藏し、又與野町にも平八と云もの同氏にて舊家の由いへば、かたがた此邊に井原氏のひさしく住居せしことしるべきなり」
        
                    拝 殿
           諏訪神社という名称に似合う力強さのある社殿    
        
              拝殿手前に設置されている案内板
 諏訪神社 上尾市畔吉八三五
 祭神…建御名方命
 畔吉は、古くは畦牛・阿世吉とも称した。康暦二年(一三八〇)の「鎌倉公方足利氏満御教書」(円覚寺文書)に「足立郡畦牛郷内」とあり、当地の開発が中世までさかのぼることをうかがわせる。
 創建年代は明らかでないが、口碑によれば、当社は元々、江戸期に名主を務めた井原家の氏神であったという。当村が属した石戸領の惣鎮守は川田谷村(桶川市川田谷)の諏訪神社であることから、その分霊を勧請したものとも考えられる。
『風土記稿』によれば、井原家の先祖は井原土佐守政家と名乗り、岩槻城主太田氏房に仕え、天正十八年(一五九〇)の落城に伴い、当地に逃れ土着したというが、徳星寺蔵の文書に落城前に居住していたとする記録もあり、土着の時期は判然としない。『郡村誌』によれば、当社は、寛保元年(一七四一)に時の当主井原弥市により徳星寺に附され、以来、徳星寺が別当となった徳星寺は、弘仁年間(八一〇-八二四)に弘法大師により開基されたとする古刹で、永禄六年(一五六三)に宗旨を真言宗から天台宗に改めた。
 神仏分離後、当社は無格社となり、明治十五年八月二十六日に本殿が再建された。明治二十二年に当村は大石村の大字となり、明治四十年四月二十五日に字中の村社氷川神社をはじめ同大字内の九社を合祀し、村社に昇格した。
 祭礼は正月の歳旦祭、二月の祈年祭、四月の春祈祷、十月のお日待ち、十一月の新嘗祭の年誤解である。そのうち、四月の春祈祷には「源太・万作踊り」が奉納され、十月の「お日待ち」には「ささら獅子舞」が奉納され、共に上尾市指定無形民俗文化財となっている。
 境内社に「愛宕社」「稲荷社」「八幡社」「水神様」「琴平社」「弁財社」を祀る。
                                      案内板より引用
 
  拝殿手前で参道左側に設置されている      拝殿手前で参道右側には力石がある。
   「諏訪神社々殿修復完成記念碑」    樹木で見えないが、4個綺麗に設置されている。
       
                                       本 殿
   素朴ながら豪壮さも感じさせる社殿であり、一際覆屋根の付いた本殿は重厚感の中に
        きめ細やかで精巧な彫刻が施され、一見の価値があると感じた。

 本殿は明治3年(明治15年再建)の造営依頼幾多の時代の変遷を経て地域の総守護神として広く崇敬されている。その後、明治末年には神社の合祀運動が国の指導で進められるが、当時大石村の大字となっていた畔吉地区は、一村一社にするというこの運動にはくみせず、地区内の神社9社を明治40(1907)年に合祀し、諏訪神社を創設する。鎮守の氷川社から社名を諏訪神社としたのは、それだけ地区民の崇敬が深かったためとみられる。諏訪神社は明治40年に八合神社などとともに村社になっているが、一村一社の国の指導にくみしなかったことは、氏子の深い信仰心と気概を示しているのであろう
        
            本殿前に設置されている合祀社を記した石碑
「五十年記念」と刻印され、その下には右から「諏訪神社」「氷川神社」「稲荷神社」「八雲神社」「八幡神社」「神明神社」「天満天神社」「白山神社」と記されている。
        
             社殿右側に並んで祀られている石祠群
     左から「八幡大神」が4基、その右並びには「水神宮」が2基祀られている。
       水神宮の右隣3基は不明。一番右側に祀られているのが「琴平神社」
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「上尾市webサイト」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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