二ツ宮氷川神社
ところで、総本社である大宮の氷川神社、見沼区中川の中氷川神社(現 中山神社)、緑区三室の氷川女体神社は、いずれも見沼の入り江や畔にあったといわれ、且つ一直線に並んでいて、三社一体の神社といわれたらしい。
それに対して、上尾市の二ツ宮の氷川神社は、江戸時代には上尾宿・上尾下村を含めた3村の鎮守で、氷川男体(なんたい)社・氷川女体(にょたい)社の2つの神社から成り立っていた。現在、女体社はないが「二ツ宮」の地名はこの氷川二社からきたといわれていて、江戸時代の武蔵国で、氷川男体社と氷川女体社が併置された村は見られず、大変珍しい事例ということになる。
二ツ宮の氷川神社は、中世のころまでは広かった見沼の最北端部に位置していて、やはり見沼の水神(竜神)信仰に関わる社であったのであろうと思われる。
・所在地 埼玉県上尾市二ツ宮1-14
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧上尾三ヶ村鎮守・旧村社
・例祭等 春の例祭 4月15日 例祭・新嘗祭 11月15日 他
国道17号線を南下し上尾市役所の先である「愛宕(北)」交差点を左折、荒川水系支流である芝川に架かる「日の出橋」を越え、更に道なりに進むと「鎌倉街道 道標」の柱がある十字路に達する。その十字路を斜め左方向に進むと二ツ宮氷川神社の正面鳥居に到着する。
街中にあるにも関わらず、鳥居から見る境内は、見事な社叢林が覆い荘厳な雰囲気。幼稚園も隣接されているようで、元気な子供たちの声も聞こえる。まるで、社の神々が園児さんを守っているような、そんな温かい気持ちにもなった今回の参拝であった。
境内には駐車スペースはあるようだが、今回は「上尾市文化センター」の駐車場に車を停めてから徒歩にて社への参拝に赴いた。
二ツ宮氷川神社正面鳥居
『新編武蔵風土記稿 上尾村』
氷川社 上尾三ヶ村の鎭守なり、男體女體の兩社にて、間に道をへだてならびたてり、
村内遍照院の持、神明社 觀音坊の持、
稻荷社二 一は觀音坊の持、一は光勝院の持、
『新編武蔵風土記稿』によると「男体女体の両社にて、間を道をへだてならびたてり」とある。この記述にあるとおり、元々は男体社と女体社の両社からなり、男体社は現在の社殿がある所に、女体社は南側を通る鎌倉街道を隔てた南東側にあったといわれている。氷川神社の祭祀は、古くから水と関わりが深く、二ツ宮の氷川神社でも境内にある湧水地で、大正時代末まで雨乞いが行われていたといわれている。
鳥居を過ぎると併設された幼稚園の先に社殿が見える。
境内の様子。
境内にはアカマツ等の豊かな社叢林に覆われているが、周囲は住宅街である。
拝 殿
拝殿に設置されている案内板
氷川神社 御由緒
御縁起(歴史)
上尾は既に戦国期に郷村名として見え、元亀・天正のころ(一五七〇-九二)のものと推定される旦那引付注文写(熊野那智大社文書)に「足立郷あけをの郷原宿」と記されている。当社の鎮座地はこの辺りでは一番の高台で、かつての上尾三か村の中心地にあり、小字名を二ツ宮という。
その創建は、当地一帯を上尾郷と称していた中世にまでさかのぼることが推測され、『風土記稿』上尾村の項には「氷川社 上尾三か村の鎮守なり、男体女体の両社にて、間に道をへだててならびたてり、村内遍照院の持」と記されている。これに見えるように、当社は元来男体・女体の両社からなり、小字名二ツ宮の由来ともなった。
明治初年の神仏分離を経て、男体・女体の両社は、いずれも氷川社と称し、明治六年に村社に列した。しかし、明治四十二年に女体社を継承した氷川社の方が隣村の上尾宿の鍬神社に合祀される事態となった。鍬神社は社名を氷川鍬神社に改め、村社に列した。一方、当地では男体社を継承した氷川社が一社だけとなり、一宮の氷川神社に倣った古くからの祭祀形態は変容を余儀なくされたのである。
当社の『明細帳』によると、いつのころか字二ツ宮の神明社と末社八雲社・稲荷社が合祀され、明治四十年には上尾下字上原の無格社天神社、字下原の無格社稲荷社、字榎戸の無格社稲荷社・厳島社、翌四十一年には上尾村字北本村の無格社稲荷社がいずれも合祀された。(以下略)
案内板より引用
氷川神社本殿
本殿の彫刻は上尾市指定有形文化財の指定を受けている。
上尾市指定有形文化財 氷川神社本殿彫刻
上尾市二ツ宮(旧上尾村)八六六
昭和三十五年一月一日指定
この氷川神社は、旧上尾村字二ツ宮に所在する。この小字名の起こりは、氷川神社に男体社と女体社の二つの宮があったことによる。かつては上尾の名をもつ三つの宿村(上尾宿・上尾村・上尾下村)の鎮守社であった。明治四一、二年の神社合祀の時、女体社は上尾宿の鍬社を合祀し、(このため氷川鍬神社と称されるようになった)、現在は男体社が本殿として残っている(合祀したあとの女体社のあき宮は、後に愛宕神社の本殿として譲られた)。
現在の氷川神社の本殿には四面にすぐれた彫刻がなされている。図がらは中国の故事を現わしたもので、最近の修理によって整ったものとなった。本殿を支える下部の肘木はすべて透かし彫りされりっぱである。製作の時期・作者は不詳である。
昭和五十九年十月十五日
案内板より引用
社殿の左脇には多くの境内社が祀られている。(写真左・右)
左から牛頭天王社・金毘羅大権現・古峰 神明社・天神社
稲荷社・山王社
境内社等にも由来等の案内板が設置されている。
社殿からの一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「上尾の寺社HP」
「Wikipedia」「境内案内板」等