古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

今泉氷川神社

 
        
               
・所在地 埼玉県上尾市今泉148
               
・ご祭神 素戔嗚尊
               
・社 格 旧今泉村鎮守・旧村社
               
・例祭等 ふせぎ33日 お神楽 42日 祇園祭 714
                    
お日待 1014
 小泉八合神社から「泉が丘通り」を1.2㎞程南下し、「ダイレックス上尾今泉店」先の丁字路を左折、200m程過ぎた先の路地を再度左折すると、「上尾市今泉公民館」が見え、その西側隣に今泉氷川神社は鎮座している。
        
                  今泉氷川神社正面
 上尾市・今泉地域は、同市西部にあり、地域全体大宮台地上に位置する。東側を弁財や柏座、南側を川や向山、西側を壱丁目や小敷谷、北側を小泉と接する。地区南部の大字川や大字向山との境界は複雑に錯綜し、現在でも大字今泉字台下の飛地が複数存在する。 地域の東端を鴨川が流れ、鴨川流域の低地と台地の間は傾斜が緩い特徴を持つ。
 この地域は、昭和30年以前までは屋敷森を持つ農家の集落が多く、地域東部の低地には水田が広がっていたが、JR上尾駅西側近郊に位置し、土地柄も良いためか、現在地域内全域が市街化区域で主に第一種低層住居専用地域(主要な通り沿いは第二種住居地域や第二種低層住居専用地域)に指定されていて、宅地化が進行形で進んでいる地域でもある。
 周囲宅地化の開発が著しい地域の西側台地上に今泉氷川神社は静かに鎮座している。
        
             正面鳥居の右側に設置されている案内板
 氷川神社  所在地  上尾市今泉一四八
 埼玉県大宮市にある氷川神社を本社とする同一名の神社分布として、「氷川祭祀圏」があり、その多くは元荒川から多摩川地域に分布している。埼玉県一六二社、東京都五九社、茨城・栃木県に各二社、神奈川県・千葉県・北海道に各一の計二二八社がある。氷川神社の祭神は素戔嗚尊・稲田姫命・大己貴命の三神である。いずれも出雲系の神で、古代武蔵の出雲系の首長が祀ったためといわれている。
 今泉の氷川神社は緩やかな鴨川低地の右岸台地上の位置し、祭神は素戔嗚命である。本殿は一間社流造で、境内には末社が八坐祀られている。今泉に氷川神社について、「新編武蔵風土記稿」では「村の鎮守にして、本地正観音を安せり、この社もと向山・川村及び当村の鎮守(中略)古は西福寺といへる別当あり(中略)この別当廃してより後村内修験、本行院の持」とある。明治のころまで、ここにあった「本行院」と称する金子家が氷川神社を守っていたという。
 毎年四月二日の祭礼には神楽を奉納し、五穀豊穣を祈っている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                参道の先にある二の鳥居
『新編武蔵風土記稿 今泉村』
 氷川社 村の鎭守にして、本地正観音を安せり、この社もと向山・川村及び當村の鎭守なりしが、其後川村及び當村のみの
鎭守とす、古は西福寺といへる別當あり、是も今は廢絶せり、貞治年中の起立にして、古跡とのみ傳ふれど、さして證とすべきことなし、この別當廢してより後村内修驗、本行院の持、
 末社 愛宕社、駒形明神社、稻荷社、天王社、太神社、三峰社、荒脛社、
        
                    拝殿覆屋
        
              拝殿手前に設置されている案内板
 氷川神社   上尾市今泉一四八
 祭神…素戔嗚尊
 今泉の地名は、当社の南方二〇〇メートルほどの所にあった湧水に由来する。この湧水は古くからこの辺り一帯の耕地を潤していた。古くは、当地は川村・向山村・壱丁目村と一村と一村で大谷村と称したという。永禄八年(一五六五)六月二十一日の太田道誉書状写(史籍雑纂)に「今泉分」とあるのが当地の初見となる。
 当社は『風土記稿』今泉村の項に「氷川社 村の鎮守にして、本地正観音を安せり、この社もと向山・川村及び当村の鎮守なりしが、其後川村及び当村のみの鎮守とす、古は西福寺といへる別当あり、是も今は廃絶せり、貞治年中(一三六三-六八)の起立にして、古跡とのみ伝ふれど、さして證とすべきことなし、この別当廃してより後村内修験、本行院の持、末社、愛宕社、駒形明神社、稲荷社、天王社、太神社、三峰社、荒脛社」と載せる。
 その創建については、もと当村を含む三か村の鎮守であったとされることから、大谷村と称していた当時の鎮守であった可能性が高く、また別当であった西福寺の開基年代から推して、中世にまでさかのぼるであろう。この西福寺の跡地は当社の東南五〇〇メートルほどの所であると伝える。また、後の別当本行院の跡地は当社の北東二五〇メートルほどの所で、金子隆治家がその裔である。
 神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となった。昭和五十一年には、本殿の屋根を草葺きから銅板葺きに替え、覆屋を新築した。
 祭礼は正月の歳旦祭、三月のふせぎ(春祈祷)、七月の祇園祭、十月のお日待ちの年四回であるが、九月には別宮の琴平神社で例祭が行われている。
 境内社に「八雲社」「三峯社」「稲荷社」「疱瘡社」「山王社」「神明社」「駒形荒脛日皇社」を祀る。
                                      案内板より引用

   
合祀社は疱瘡・稲荷神社。両側の石祠は詳細不明    社殿奥に祀られている三峯神社
        
             拝殿覆屋右側に祀られている八雲神社
        
                   境内の風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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小泉八合神社

 上尾市・小泉地域は、市西部の主に大宮台地上に位置する。東側を泉台や浅間台と隣接し、南側を弁財や今泉、西側から北側にかけて小敷谷や中分と隣接する。大字小泉は町丁である小泉一丁目〜九丁目を挟み南北に分かれている。町域の東部の低地を鴨川が流れ、親橋や子橋や新弁財橋が架かる。鴨川にはカワセミやカルガモなどの鳥類や鯉やマルタウグイなどが棲みついている地区は上尾環状線(通称BS通り)以南は市街化区域で主に第一種低層住居専用地域に指定され、地区南部の古くから開発された大字小泉とその周辺を中心に三井住宅などの住宅が建ち並ぶが、北部を中心に畑地もまだ多く残っている。
 もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡石戸領に属する小泉村、古くは南北朝期より見出せる「こいつみの郷」であった。小泉は古泉とも記された。かつての藤波村の枝郷で下藤波と称された場所に当たり、現在の藤波は上藤波、中分は中藤波と称されていた。その後正保〜元禄年間(1644年〜1704年)小泉村が藤波村より分村したという。
        
              
・所在地 埼玉県上尾市小泉443
              
・ご祭神 素戔嗚尊 大雷命 菅原道真朝臣
              
・社 格 旧藤浪村枝郷古泉村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 226日 夏祭り 714日 例祭 1015 
                                      秋祭り 1014日  新嘗祭 1122 
 藤波天神氷川八幡合社から南東方向に走る道を1.7㎞程進行すると、「小泉」交差点に達し、そこを左折、埼玉県道323号上尾環状線を東行し、北上尾駅方向に進む。その後「泉台一丁目」交差点を右折し、通称「泉が丘通り」を500m程南下すると、進行方向右手に小泉氷川公園があり、その西側隣に小泉八合神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
 道路を挟んで東側にある小泉氷川山公園の駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                                   小泉八合神社正面
  地域名「小泉」の地名は「湧水」に基づくものといわれている。『風土記稿』小泉村の項には「御嶽社 社辺に広さ二坪許の池あり、いかなる久旱にも水涸ることなし、旱魃のとき天を祈れば必験ありと云」とあるが、この御嶽社は既になく、跡地は地内の南方に当たり、かつてここから湧き出していた水は地内の田んぼを潤していた。また、『郡村誌』小泉村の項には「水神社(中略)城内に直径三間なる円形の池あり、大旱にも涸るる事なし」とあり、この水神社も合祀により既になく、跡地は地内の東方にあり、かつてここから湧き出していた水も田んぼを潤していた。
 また、この池は藤波天神氷川八幡神社の池とつながっていて、あちらが干上がると、こちらも干上がると言い伝えがある。
        
              入り口付近に設置されている案内板
 小泉八合神社の創建年代等は不詳ながら、寛文年間(一六六一-七三)に藤波村から分村した際に藤浪天神氷川八幡合社の氷川社を分祀したのではないかという。明治40年に大石村の内の小泉・中分・井戸木・中妻・沖之上・弁財・小敷谷・領家の八大字に点在していた三九社(境内社を入れると六四社)を小泉の村社氷川社に合祀し、八合神社と号したという。
        
 社の正面の写真だけでは分かりづらいが、この社の正面鳥居の西側付近は住宅が密集している。しかし、境内に入ると至って静寂な世界が広がる。また参拝中も多くの方々が手を合わせに来ていて、地域の方々の崇敬が篤い社であるのだろう。
 嘗てはその広大な社叢は上尾市指定保存樹林に指定されていた時期があったが、土地区画整理事業により社叢林の多くの樹木は伐採され、道路を挟んで東側にある小泉氷川山公園の緑地がその名残をとどめているとの事だ。
 
 参道左側に並んで祀られている石祠・石碑等   参道右側には「社務所改築記念碑」等あり
        
                    拝 殿
 八合神社  上尾市小泉四四三
 祭神…素戔嗚尊、大雷命、菅原道真朝臣
 当社は、古来「氷川社」と称し、『明細帳』には「往古ハ字宮山ニ鎮座アリシカ慶応三丁卯(一八六七)十一月移転ス、其際当国一ノ宮氷川社ヲ分祭勧請ス」とある。これに見える旧地の字宮山は、現在地の南西五〇〇メートルほどの「宮山」あるいは「元氷川」と呼ばれた所で、三井団地の敷地内に当たり、元は一帯が山林であった
 慶応三年(一八六七)十一月に現在地に遷座移転し、明治六年(一八七三)に村社に列せられた。
 その後、明治四十年に大石村の小泉(こいずみ)・中分(なかぶん)・井戸木(いどぎ)・中妻(なかづま)・沖之上(おきのかみ)・浅間台(あさまだい)・弁財(べんざい)・小敷谷(こしきや)・領家(りょうけ)の八大字に点在していた三九社(境内社を入れると六四社)を小泉の村社氷川社に合祀し、社名を「八合神社」と号して成立した。合祀の中心に小泉の氷川社が選ばれた理由としては、小泉が八大字の中央に位置していたことや、小泉に大石村の役場が置かれていたことが挙げられる。また、社名については、八大字の各社の総代が協議して決したとの話が伝えられている。現在、境内にある幟立ては、合祀の際に小敷谷から移されたものである
 小泉の地は寛文年間(一六六一~七三)に藤波村から分村したといわれ、藤波村の鎮守が天神氷川八幡合社であることから、このうちの「氷川社」を分村の前後に勧請したものと考えられる。 その後現在地に遷座するにあたり、正式に武蔵一宮の大宮氷川神社から分霊を請うたのである。
 鎮座地は「氷川山」と呼ばれ、氏子区内でも一番の高台にある。その社叢(しゃそう)は“鎮守(ちんじゅ)の杜(もり)”と呼ぶにふさわしい景観をなし、社地を含む一体は上尾市指定保存樹林として保護されている。 また、昭和六十一年には「八合神社と周辺林」が『二十一世紀に残したい埼玉の自然一00選』の一つに選定された。
                                      案内板より引用

        
                    本 殿
             朱赤を基調とした玉垣が色鮮やかである。
 小泉地域には、「小泉の祭りばやし」と呼ばれる祭り囃子が、市指定民俗文化財・無形民俗文化財として平成20115日に登録されている。
 小泉の祭りばやしは、神田ばやし系統の1つである小村井流の祭りぱやしで、明治5年ごろ、さいたま市大宮区大成に踊りとはやしを習ったといわれている。
 祭りばやしの編成は、笛1人・小太鼓2人・大太鼓1人・鉦1人の51組で、曲目には、「屋台」「昇殿」「鎌倉」「四丁目」「神田丸」「岡崎」がある。
 上演の機会としては、714日頃の八合神社祇園祭り、816日の観音堂縁日、912日の薬師堂縁日、1014日の八合神社秋祭りがある。
 因みに付属芸能として、おかめ・ひょっとこ踊りもあるようだ。
        
                  社殿からの眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「上尾市教育委員会HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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藤波天神氷川八幡合社

 上尾市藤波地域は、上尾市北西部の大宮台地上や江川周辺の沖積平野に位置する。 町域の東側を泉台、東側から南側にかけて中分、西側を桶川市川田谷、北側を桶川市上日出谷や上日出谷西と隣接する。町域の西端を江川が南北に流れ、上尾市と桶川市の市境を成している。
 南に隣接する中分地域と並び、市内では最も起伏に富んだ地域のひとつで、江川沿いの沖積平野やその支流の小河川が造り出した多くの開析谷(谷津)が複雑に入り組んでいる。
 全域が市街化調整区域に位置し、全体的には台地上は主に耕作地などの農地が広がる農地的土地利用の比重が高い地域であるが、工場のほか幹線道路に近い北部に藤波団地と称する纏まった住宅地も見られる。また地域の西側の主に水田として利用している江川流域沿いの低地は、かつての荒沢沼で、荒川の遊水地的な湿地帯であったともいう。
 地域内には、縄文時代草創期の遺跡である藤波遺跡があり、また、縄文・弥生期の住居跡遺跡である後山遺跡(県遺跡番号:14-030)もあるとのことで、この地域には古くから人による開発が進められていたと推測できる。
        
             
・所在地 埼玉県上尾市藤波12821
             
・ご祭神 素戔嗚尊 誉田別尊 菅原道真公
             
・社 格 旧藤浪村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 2月 例大祭  10月第一日曜日 新嘗祭 11

 桶川市・上日出谷氷川神社のすぐ東側に南北に走る道を1.2㎞程南方向に進むと「つくし学園入口」交差点に達し、右折するとすぐ左手に藤波天神氷川八幡合社の正面鳥居が見えてくる。
 但し、駐車スペースは正面周辺にはなく、交差点は一旦直進する。そして緩やかな右カーブとなる道のすぐ先にある路地を右折すると、社及び隣接する「藤波公民館」の敷地内に達し、そこには駐車スペースも十分にある。
        
                藤波天神氷川八幡合社正面
『日本歴史地名大系 』「藤波村」の解説
 領家(りようけ)村の北、江川の低地に延びる大宮台地上にある。北と東は下日出谷村(現桶川市)。村名は藤浪とも記される。天正一三年(一五八五)四月五日の北条氏政印判状写(武州文書)では、藤波与五右衛門に対し調儀に備えて五月五日までに軍装を整備するよう命じられている。同一五年と推定される亥三月一九日の太田氏房印判状写(同文書)では、「藤波山」から岩付城(現岩槻市)修理のための材木が伐り出され、これを受取るための人足が徴発されている。
        
             正面鳥居の右側に設置されている案内板
        
        同じく「藤波のささら獅子舞」「藤波の餅つき踊り」の案内板。
            どちらも上尾市の文化財に指定されている。
        
             一の鳥居から見える朱色の二の鳥居
 藤波地域は台地上に位置し、地形は起伏に富んでいた。古くから高台での麦作り、低地の米作りが生活を支えてきた。しかし、谷間の田んぼは水はけが悪く、昭和時代の土地改良が行われる以前は、膝上まで浸かりながらの籾の直播き農法である摘田(つみだ)を行っていたという。
 藤波全域が市街化調整区域になり、近年新たに建造された住宅地域も見られる一方、耕作地等の田畑風景もしっかりと残されているようだ。
 社の境内は至って静かで、この一の鳥居から見る境内の景色は、
どことなくゆったりとした時を紡いできた嘗ての懐かしい藤波地域の原風景の縮図を見ているような感慨がふと頭を過ったものだ。
        
              「天満宮」と表記された二の鳥居
 天神氷川八幡合社の創建年代は不明であり、別当寺の密厳院も創建年代不詳である。ただ密厳院は、かつては真言宗寺院であり、明応年間(1492 1501年)に臨済宗円覚寺派に転宗して再興されていることから、その頃までには既に存在していたものと推測される。
 嘗ては「氷川天神八幡合社」と称していた。このことから、真言宗時代の密厳院によって、最初に「氷川神社」と「八幡神社」が祀られ、臨済宗時代になって、学問の神として崇敬されていた天満宮を祀ったものといわれている。順番が入れ替わったのは、天満宮の祭神である菅原道真に対する崇敬の念が高まったからだといわれている。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられたが、1878年(明治11年)の火災で社殿が焼失したが、1880年(明治13年)に再建された。
        
                    拝 殿
   境内の土壌の関係なのか、拝殿周囲にはほとんど草が生えていない。不思議な光景。

 天神氷川八幡合社  上尾市藤波一-二八二-一
 祭神…菅原道真朝臣 素戔嗚尊 誉田別尊(応神天皇)
 当社は、藤波のほぼ中央の南東に低地が広がる台地上に鎮座している。昭和三十五年ごろまでは、その裾から清水が湧きだして「天神様の池」と呼ばれる三〇坪ほどの池を形成していたという。
 創建については不詳であるが『風土記稿』に「氷川天神八幡合社 村の鎮守なり、密厳院持」とある。別当の密厳院は相州鎌倉(神奈川県鎌倉市)の臨済宗円覚寺末で、瑞露山藤波寺と号する。元々は真言宗の寺であったが衰微したため、明応年間(一四九二-一五〇一)に叔悦禅師が、甥である岩槻城主太田資家の招きに応じ、住職となり、禅宗の一派である臨済宗に改宗して再興した。禅宗では、室町期から天神を学問の祖として崇敬していた。このようなことから、まず真言宗密厳院が、見沼を見下ろす高台に鎮座する一宮氷川神社の分霊を、地形が類似した当地に勧請した後に鎌倉の地から鶴岡八幡宮の分霊を併せ祀り、更に改宗後の密厳院が、天神社を併せ祀ったものと思われる。当社を「天神様」と称するのは、密厳院が天神社の神徳を強調した結果であろう。
 当社は明治六年四月村社に列した。同十一年十二月三十一日に火災となり、社殿を消失したが、氏子の寄付により、同十三年九月二十五日に再興した。その後、本殿が雨ざらしになっているのを憂えた氏子一同は、大正六年に本殿の覆屋を新たに建設した。
 年間の祭典は二月の祈年祭、九月の例大祭、十一月の新嘗祭の三回である。そのうち、九月の例大祭には上尾市指定民俗文化財の「ささら獅子舞」が奉納されている。また、元旦には「餅搗き踊り」が行われている。
 境内社に「浅間社」「三峯社」「稲荷社」を祀る。
                                      案内板より引用

        
                    本 殿
上尾市指定無形民俗文化財の「藤波のささら獅子舞」は、例祭の際に奉納される舞の1種であり、古くから続いている行事である。嘗ては925日に奉納されたものであったが、現在は10月の第1日曜日に行われる例祭に奉納されている。また同じく市指定無形民俗文化財である「藤波の餅つき踊り」も社の元旦祭や例祭の前夜祭などで上演されるほか、各種の催し物に呼ばれて上演しているという。

 上尾市指定無形民俗文化財 藤波のささら獅子舞
(保持団体)藤波のささら獅子舞保存会
「藤波のささら獅子舞」は1人が1頭の獅子に扮し3頭の獅子が舞う、三匹獅子舞と呼ばれる風流系民俗芸能である。伝承では、藤波の領主であった牧野氏が寛文七(1667)年に検知した際、村人に獅子舞を奨励したのが始まりといわれている。獅子舞は、毎年、藤波地区の鎮守である天神社の例祭の日である九月二五日に奉納されるものであったが、現在は一〇月の第1日曜日に奉納している。
 舞手の構成は、雌獅子と中獅子、雄獅子の3人と、舞の先導役の宰領(猿岩)の、41組である。舞は笛に合わせ進行し、獅子は舞いながら腰に着けた太鼓を叩き、花笠をかぶった岡崎と呼ばれる役が「ささら」という楽器を演奏する。ささら獅子舞という名称は、ここからきている。
 演目は、「十二切」と呼ばれる一曲形式が基本で、約2時間にもおよぶものだが、同じ動作の繰り返しを省略するなど、現在は十二切の上演は1時間半程度となっている。舞の中盤には歌が入り、後半は「雌獅子隠し」となる。雌獅子隠しは、岡崎の間に入って隠れた雌獅子を、中獅子と雄獅子が探して奪い合うという内容になっている。このほか、十二切の短縮版の八切と四切がある。現在は、祭りの当日の午後に十二切を2回、夜間に八切を1
回奉納している。

 上尾市指定無形民俗文化財 藤波の餅つき踊り
(保持団体)藤波の餅つき踊り保存会
 餅つき踊りは接待餅ともいわれ、本来は祭りや行事で上演することが目的ではなく、主として「おびとき」といわれる現在の七五三のお祝いに呼ばれて披露する民俗芸能であった。「藤波の餅つき踊り」は、江戸時代後期に名主の篠田金右衞門が若者に賭博をやめさせるために習わしたのが始まりと伝わる。
 藤波地区の餅つき踊りは、41組でつくのが基本である。演目は「餅つき」と「曲づき」に大別される。「餅つき」は比較的軽い杵を使い、実際に餅をつきながら踊るもので、演目は立ちボーウチ、座りボーウチ、餅殺し、一本抜き、七五三、早づき、八人づきである。
 なお、立ちボーウチと座りボーウチは、この地域の麦作の作業歌である麦打ち歌であるボーウチ歌に合わせてつく。「餅つき」の基本は餅殺しで、一本抜き、七五三、早づき、八人づきはその変形となる。一方「曲づき」は「餅つき」が終わった後に、さらに細く軽い杵を使って、空の臼の周りで演じるもので、「獅子追い」「寝ず」などの演目がある。高度で複雑な動きをする踊りである。
 現在、七五三のお祝いで上演する機会はなく、藤波地区の鎮守である天神社の元旦祭や例祭の前夜祭などで上演されるほか、各種の催し物に呼ばれて上演している。
                                上記どちらも案内板より引用
 
  本殿後ろに無造作に置かれている石等      同じく本殿奥にある巨木の伐採跡
「力石」らしき物も含まれているように見える。   嘗て社のご神木であったのであろうか。  
        
               社殿の右側に聳え立つ巨木二本
        
               境内に祀られている境内社三基
             左から、稲荷神社・三峰神社・浅間神社
       
                                   社殿からの一風景
          静かな境内。ゆったりとした時間が流れているようだ。 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「上尾市HP」Wikipedia」
    「境内案内板」等
 

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