古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

加須千方神社

 加須市(かぞし)は、埼玉県の利根地域に位置する市で、面積が133.30㎢、都心から概ね50㎞圏内にあり、埼玉県の東北部に位置する。20103月に旧加須市・北埼玉郡騎西町・大利根町・北川辺町が新設合併して誕生し、県内の市町村で唯一、北関東の群馬・茨城・栃木の3県に全て隣接する自治体である。因みに埼玉県、市町村面積ランキングでは、県庁が置かれている「さいたま市」を除くと、「秩父市」「飯能市」「小鹿野町」「熊谷市」「深谷市」に次ぐ6番目に大きな自治体である。
 地勢的には関東平野のほぼ中央部を流れる利根川中流域にあり、利根川が運んだ土砂の堆積により形成されたという平坦地で、市内には利根川に育まれた肥沃な土と豊かな水を利用した昔ながらの田園風景が広がり、県内1位の収穫量を誇る米をはじめとして、様々な農産物の一大産地でもある。
 一方、市街地には関東三大不動尊の一つに数えられる「不動ヶ岡不動尊總願寺」のほか、国の重要無形文化財に指定されている玉敷神社の神楽、加須のわら細工など過去の歴史を今に伝える数々の有形、無形の文化財が存在している。
 これらの古き良き歴史、水と緑あふれる農村地域と都市機能が集積する市街地との程良い調和が加須市の特性となっていよう
        
             
・所在地 埼玉県加須市中央2527
             
・ご祭神 興玉命(猿田彦命) 神日本盤余彦命 藤原千方命
             
・社 格 旧加須村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 219日 夏祭り 7715日 秋祭り 1019
                               
新穀感謝祭 1123日 酉の市祭 1219
   
地図 https://www.google.com/maps/@36.1241505,139.5970126,18z?hl=ja&entry=ttu
 加須千方神社は、東武伊勢崎線の加須駅北口より北東へ徒歩数分の地に位置する。この地域は『新編武蔵風土記稿 加須村』に記載があるように、昔から脇街道の宿場として、行田・幸手・栗橋・騎西・羽生町場及び鷲宮村等への人馬の継立をする地点であり、民家も街道沿いに二百軒余立ち並び、毎月五十の日を以って六次の市を行っていた程開発が進んでいた場所であったようだ。
 南北に通じる埼玉県道38号加須鴻巣線が『同風土記稿』に記されている脇街道と思われるが、現在でも県道両側には近代的な建物の中に昔ながらの民家も残っており、嘗ての人馬が犇めく活気のあった当時の様子を想像することができよう。
 現在は加須駅北口近くという立地の良さや、総合会館等の官公庁の建物もあり、また物流交通にとっても脇道的な側面もある利便性からか、この県道を利用する車両もあり、日中の交通量はかなりある。但し駅近くに平面の踏切がある為、時に列車通過待ちの渋滞に出くわすと、想定外の時間待ちも覚悟しなければならない場所でもある。
        
               街中に鎮座する加須千方神社
『日本歴史地名大系』での「加須村」の解説
 現市域の中央部に位置する。北は三俣村と会の川を境に対し、東は久下村、南は上高柳村(現騎西町)、西は礼羽(らいは)村。ほぼ東西に走る脇往還沿いに町場が形成される。加須町ともよばれた。地名の表記は田園簿に加増村、貞享元年(一六八四)の久喜鷹場村数覚(伊達家文書)には神増村、元禄郷帳では加須村とあり、元禄期(一六八八―一七〇四)には加須が用いられるようになったと思われる。羽生領に所属(風土記稿)。寛永二年(一六二五)一二月設楽甚三郎(貞代)は、徳川氏から当村で二二三石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。

             
                    社号標柱
「加須」という地域名は、江戸時代の田園簿の記載では、「加増村」とも記し、貞享元年(一六八四)の久喜鷹場村数覚(伊達家文書)には「神増村」と記されている。その後、新田開発により、石高を加増されたことに因む地名が元禄年間中(16881704)には「加須」が用いられるようになったと考えられる。
『新編武蔵風土記』編集時点では「加須村」と表記。加須千方神社(千方社)は当村の鎮守で、大聖院持ちとされている。
『新編武蔵風土記 加須村』
 千方社
 村の鎭守なり、大聖院の持、下同じ、〇諏訪二社〇浅間社〇稲荷社〇八幡社〇牛頭天王社
 大聖院
 本山修驗葛飾郡幸手不動院の配下、八幡山神增寺と稱す、開山光善嘉吉三年六月十八日示寂す、中興開山秀虎永祿四年正月二十三日示寂、本尊不動は坐像にして、役小角の作と云、

        
               加須千方神社正面の一の鳥居
 
 参道を振り返り神橋から一の鳥居方向を撮影        参道正面に見える二の鳥居
        
                    二の鳥居を過ぎると広い境内が広がる。
 加須駅から近く、交通量も多い
県道に沿って鎮座しているが、境内周辺は至って静かである。
 言わずもがな、境内は整然として、清潔さも保たれている。日頃の手入れは勿論の事、神様に対する信仰の深さをこの社を参拝してみて感じずにはいられなかった。
 近隣に住まわれている方々が、この写真の左側脇にある東屋で穏やかに談笑している場面も垣間見られ、地域の憩いの場所にもなっているのだろう、とほのぼのとした感傷に浸ってしまった。
 因みに写真右側に見られる大木は、加須市保存樹林の「カシ」の木で、幹回りは340㎝、指定番号は74号となっている。
        
                         拝 殿
 千方神社の由緒
 藤原鎌足公十五代の子孫の藤原秀郷公が下野国押領使(九三九年)に任ぜられ善政を施し功績をあげ下野守、武蔵守となる。
 秀郷の子(六男)
藤原千方が鎮守府将軍としてこの地を治め德政を行った功績により鎮守千方神とし、併せて神武天皇、猿田彦神を祀り千方神社となる。

 加須千方神社の創建年代等は不詳ながら、藤原秀郷の六男で下野鎮守府将軍だった修理太夫千方(藤原秀郷の六男で鎮守府将軍。社伝によれば、この地方で仁政を行った功績を讃えて祀ったものという)を祀っていたが、現在祭神は興玉命となっている。
 千方神社は嘗て「千方社」と称し、江戸期には加須村の鎮守社となっていた。埼玉郡加須町(明治合併以後は大字加須)の村社であり、446坪程の広大な境内地面積を有している。1872年(明治5年)に村社となり、1874年(明治7年)に稲荷社・浅間神社・諏訪社・八坂神社(旧称:牛頭天王社)が合祀されている。その後1913年(大正2年)52日に社名を千方社より千方神社へと改めて、1931年(昭和6年)916日に神饌幣帛料供進神社の指定を受けている。
 尚、境内社として稲荷社・浅間神社・八坂神社・恵比寿神社(恵比壽大黒神社)が所在している。
          
            拝殿正面向拝部に彫り込まれている精巧な彫刻
 
   拝殿向拝の両側にある木鼻部にも鮮やかな彫刻士の技術が光る(写真左・右)
 日本人が世界に誇る「技術力」。生真面目で決して妥協せず、物の本質を隅々まで精通し、自らを不器用なまでに研鑽する謙虚さと精神性の根本をこの彫刻に見るような気持ちになった。
        
                    本 殿
           社殿は拝殿・幣殿・本殿を連結した権現造で、大正7年建立
        
          加須千方神社の右側に祀られている境内社・八坂神社
        拝殿右側の回廊下を潜って、北参道の鳥居の脇に鎮座している。
          境内社とは思えないほどのしっかりとした外観である。
 八坂神社
 八坂神社(天皇様)七月第三土曜日には無病息災、安全祈願後、町内神輿の巡行がある、最後に商工会館前に集合『連合渡御』が行われる。
 翌日には各町内の山車が町内を巡行し、最後に商工会館前に集合『ヒッカセ』(太鼓の叩き合い)が行われる
勇壮なお祭りである。
        
           
加須千方神社と境内社・八坂神社の間に祀られている境内社・稲荷神社
 稲荷神社
 祭神は、宇迦之御魂神(ウガノミタマノカミ)
 稲の精霊を神格化した神で五穀や食物をつかさどる神として奈良時代に信仰が広まった。
 伏見稲荷の社伝では711年に稲荷山三ヶ峰に稲荷神が鎮座した。本来の農耕神から商工神へと拡大した。
 祭典は三月初午の日に開催される。
        
         広大な境内の左側に祀られている境内社・
恵比寿大黒神社
 恵比寿大黒神社
 恵比寿大黒様と称され日本の福の神を代表する神であり、招福繁栄、商売繁盛、台所の守り神として多くの人々の信仰を集めている。
 式典は1120日に行い、1123
日に、お札、熊手、福餅の授与を行う。
 
 境内左側隅には「
石敢當(せきかんとう)」という石碑(写真左)、及びその案内板が設置されている(案内板の拡大は同右)。
 石敢當は文化年間に市場の神様として加須の五・十市の世話人らにより信仰されていたと伝承されている。石敢當の信仰は九州地方では多く見受けられているが、関東地方においては極めて稀である。この石敢當は1954年(昭和29年)10月に中央2丁目の塩田鉄工所の裏に所在していたものが遷座されたものであるという。
 市指定有形文化財 石敢當
「石敢當」は[いしがんとう]{せきかんとう}と読み、中国伝来の魔よけの石柱である。石碑が多く、家の門口や道の突き当たりに建てられている。
 沖縄・九州に多く、関東地方で江戸時代までさかもどるものは、上崎にある龍興寺のものと本例の二例のみ確認されている。この石敢當はかつて、中央二丁目交差点の北西付近から当地へ移設された。
 石碑の表面には「石敢當 文化十四年丁丑冬十一月長至日 鵬斎陳人興書」とあり、江戸時代後期の文化十四年(一八一七)冬至に、亀田鵬斎(江戸時代の高名な漢学者・書家)により書かれたことがわかる。
 裏面には、石敢當の説明と加須の青縞の市が栄え、守護されるように世話人が建てたことが記されている。また、幕末の国学者小山田興清が詠んだ「この石敢當が、加須の里を末永く守るように」という和歌が刻まれている。
 加須市教育委員会
                                       案内板より引用
        
          
石敢當の案内板から左側近隣に祀られている浅間神社
       
                       広大な境内の一風景 
 毎年8月下旬に、加須千方神社・境内にて、加須市商工会等の主催により「まちなか賑わいフェスティバル」が執り行われている。新型コロナ感染症対策の為、暫く行われなかったようだが、2023年から規模を縮小しながらも再開したことは喜ばしいことだ。模擬店や盆踊り、遊び屋台、ステージパフォーマンスなどの催しが行われ、大勢の人々で賑わう様子を、筆者も見てみたいものである。
      
     
        

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